All Chapters of 元カレの宿敵の腕で幸せになります!: Chapter 801 - Chapter 810

882 Chapters

第801話

真奈美は、できることなら咲夜に精いっぱい償いたかった。だが今、現実は残酷にも、咲夜が自分の娘ではないと突きつけてきた。それどころか、自分が無理強いしたせいで、咲夜はこれまで数えきれないほど理不尽な目に遭ってきたのだ。そんな事実を前にして、真奈美が平静でいられるはずもなかった。彼女の心を支えていたものは、完全に崩れ落ちた。雅紀に慰められると、真奈美はかえって声を上げて泣き出した。息もできなくなるほど激しく泣きじゃくり、ようやく少し落ち着きを取り戻すと、しゃくり上げながら口を開いた。「咲夜が私の目の届かないところにいたのは、産まれてすぐに分娩室から連れていかれたときだけよ。咲夜は新生児室で一晩過ごしたの。でも、あのとき使っていたおくるみは私たちが自分で用意したものだったし、手首には名前や情報が書かれたネームバンドもついていたわ。赤ちゃんが自分で外せるはずなんてない」真奈美は涙で潤んだ目を咲夜へ向けた。「もし赤ちゃんを入れ替えるなら、識別バンドも、おくるみも一緒に替えなきゃいけない。つまり、誰かが最初から計画して赤ちゃんをすり替えたってことよ。あなた、当時の病院の記録を調べて」彼女は再び感情を昂らせ、雅紀の手首を強くつかんだ。「咲夜が産まれたのは夜中だったの。私たちの目の届かないところにいたのは、あの晩だけ。入れ替えられたとしたら、あのときしかないわ」ひとしきり泣いたあと、真奈美の脳裏には、咲夜を産んだ当時の光景が次々と蘇っていた。確かに彼女は、自分の手で咲夜の世話をしてきた。出産後、雅紀が子育てを手伝ってもらうためにベビーシッターを雇ってからも、真奈美は決して子供を自分の目の届かないところに置こうとはしなかった。どれだけ考えても、思い当たるのは咲夜が産まれた直後のあの一晩だけだった。真奈美の話を聞き、雅紀も筋が通っていると思った。「分かった。すぐに人をやって調べさせる」そう答えたときには、すでに千暁が真澄に事情を伝え、詳しく調査するよう指示を出していた。千暁は二人に向かって言った。「お義父さん、お義母さん、もう調べさせています」「ああ……そうか」雅紀は小さくため息をついた。そして咲夜へ目を向ける。その表情には、さまざまな思いが入り混じっていた。それきり、誰も何も言えなくなり、重い沈黙がその場を包んだ
Read more

第802話

星奈が病院にやって来たとき、どこか落ち着かない様子だった。手にはフルーツバスケットまで提げている。真奈美は星奈を目にした瞬間、明らかに息を呑んだ。星奈が、若い頃の自分によく似ていたからだ。たった一目見ただけで、真奈美は驚きのあまり言葉を失った。信じられないというように顔を横へ向けた。隣にいた雅紀も同じように呆然としていた。雅紀もまた、星奈を見た瞬間に大きな衝撃を受けていた。どうして、ここまで似ているんだ?「あの……咲夜さんから、具合が悪いって聞いて」星奈は緊張した様子で、持ってきたフルーツバスケットをテーブルの上に置いた。彼女にとっても、雅紀と真奈美に会うのはこれが初めてだった。内心では不安でいっぱいだったものの、星奈は背筋をまっすぐ伸ばしていた。その立ち居振る舞いからは、裕福な家庭で大切に育てられた令嬢らしい品のよさが自然と滲み出ていた。真奈美は星奈から目を離すことができず、じっとその姿を見つめていた。先に我に返ったのは雅紀だった。彼は星奈に声をかけ、ひとまず座るよう勧めた。腰を下ろしてからも、星奈の背筋はぴんと伸びていた。何気ない仕草の一つ一つにも、育ちのよさが表れていた。やがて彼女は再び立ち上がると、雅紀と真奈美に向かって深く頭を下げた。「突然押しかけてしまって、本当に申し訳ありません。ご迷惑になっていなければいいのですが……本来なら、事前にきちんとご連絡してから伺うべきでした」星奈の表情には、申し訳なさそうな色が浮かんでいた。彼女は心から恐縮していた。何の前触れもなく訪ねてきたことが、あまりにも唐突だったと思っていたのだ。あまりに改まった謝罪をされ、雅紀と真奈美のほうが面食らってしまった。「迷惑だなんて、そんなことはない。だから、そこまでかしこまらなくても大丈夫だよ」雅紀はどうにか気持ちを落ち着かせ、星奈にそう声をかけた。星奈の言葉遣いや立ち居振る舞いを見れば、家庭でしっかりと躾けられてきたことは容易に分かる。ただ、こうしてあまりにも丁寧に接されると、雅紀も真奈美もかえって落ち着かなかった。目の前の二人が自分以上に緊張していることに気づいたのか、星奈はもう一度元の場所に腰を下ろした。彼女はさりげなく病室の中を見回しながら、どう切り出せばいいのか考えていた。そんな星
Read more

第803話

星奈はスマホの画面を一瞥すると、わずかに表情を変えた。彼女は咲夜に声をかけた。「ちょっと外で電話してくるね」咲夜も、画面に表示されていた名前に気づいていた。登録名は【叔母】。香織からの電話だった。咲夜は星奈が病室を出ていく後ろ姿を見送った。星奈は廊下の突き当たりまで歩いていくと、スマホを耳に当てて電話に出た。「叔母さん」電話の向こうから香織の声が聞こえてきた。「景浦市にいるの?咲夜に会いに行ったの?」桜ノ宮市ではすでに、星奈が病院からいなくなったことが発覚していた。向こうでは大騒ぎになり、皆が必死になって彼女を捜していた。香織が航空券の予約記録を調べたところ、星奈が景浦市行きの航空券を購入していたことが分かった。それを知った時点で、香織には見当がついていた。おそらく星奈は、咲夜に会いに行ったのだろうと。星奈も否定することなく、素直に認めた。「うん。咲夜さんにはもう話したよ。でも、咲夜さんのご家族もすぐには受け入れきれなかったみたいで、咲夜さんのお母さんが入院しちゃって……今もまだ病院にいるの。叔母さん、ごめん。わざと黙ってたわけじゃないの」その声には、申し訳なさが滲んでいた。あのとき、自分も一緒に行きたいと言っていたら、家族が絶対に許してくれなかったことは分かっている。けれど、自分の出生に関わることなのだ。星奈には、何もせずにじっとしていることなどできなかった。鷹司家の皆が自分の体調を心配していることも、星奈は十分理解している。だからこそ、自分自身でここへ来て、真実を確かめたいという思いはますます強くなったのだ。申し訳なさの滲む星奈の声を聞き、香織はため息をついた。「まったく、あなたって子は……お母さんがどれだけ心配してるか分かってる?目が腫れるほど泣いてるのよ。こんな勝手なことをしちゃだめでしょう?星奈、どんな結果になったとしても、あなたは鷹司家の子よ。お母さんはあんなにあなたを大切にしてきたんだから、つらいのはあなたと同じなの。今度どこかへ行くときは、何があってもちゃんと一言伝えなさい」香織の言葉に、星奈は何も答えなかった。その瞳に、暗い影が差した。――今度?自分に、まだ「今度」なんてあるのだろうか。星奈は、両親から愛されてきたことを一度たりとも疑ったこと
Read more

第804話

香織は電話越しに、星奈を懸命に慰めていた。何しろ、幼い頃からずっと可愛がってきた子なのだ。突然こんな大きな出来事に見舞われ、星奈が耐えきれなくなってしまうのではないかと、香織は心配でならなかった。星奈はただ黙って、その言葉に耳を傾けていた。やがて香織が用事で誰かに呼ばれ、最後まで心配そうにあれこれ念を押してから、星奈はようやく電話を切った。しかし、すぐには病室へ戻らなかった。壁にもたれかかり、俯いたまま自分のつま先を見つめる。先ほど香織から言われた言葉が、まだ耳の奥に残っていた。叔母は、自分が悪いほうへ考えすぎないようにと、今までと変わらず鷹司家の子なのだと伝えようとしてくれていた。鷹司家も、このまま自分を放り出すようなことは決してしないのだろう。ずっと大切に育ててきた子なのだから、血のつながりがなかったとしても、積み重ねてきた情が消えるわけではない。鷹司家にとって、自分一人をこのまま家に置いておくことくらい、何の負担にもならないことも、星奈には分かっていた。けれど今の自分には、もう鷹司家に居続けるだけの立場も資格もない。星奈は深く息を吸った。胸の奥がひどく重苦しい。何かがつかえているようで、吐き出すことも飲み込むこともできず、息苦しささえ感じていた。そのとき、不意に目の前にペットボトルの水が差し出された。顔を上げると、そこにいたのは咲夜だった。咲夜は手にしたペットボトルを軽く振り、笑みを浮かべる。「少し水でも飲んだら?」「ありがとう」星奈は手を伸ばして受け取った。触れた瞬間、それがよく冷えた水だと気づく。どうして咲夜は、自分が冷たい水しか飲まないことを知っているのだろう?不思議そうに見つめられていることに気づき、咲夜は微笑んだ。「千暁に頼んで、今泉さんに星奈さんの好みを聞いてもらったの。正直、今泉さんが知ってるとは思ってなかったんだけど、意外とちゃんと知ってたみたい」鷹司家と今泉家の間には婚約の話があるとはいえ、二人が実際に恋人同士になったわけではないらしい。咲夜は千暁から、智哉には結婚する気がないと聞いていた。結婚どころか、そもそも恋人を作るつもりすらないという。智哉に思いを寄せる裕福な家の令嬢は少なくないが、これまでどれだけ女性が現れても、彼のお眼鏡にかなった者はいなかった
Read more

第805話

張り詰めていた星奈の気持ちも、そこでようやく少しだけほぐれた。「緊張してないって言ったら嘘になるけど、家族も今回のDNA親子鑑定をすごく重く受け止めてるの。叔母があのときクルーズ船で偶然咲夜さんを見かけて、一瞬でも『もしかして』って疑わなかったら、今になっても私と咲夜さんの出生に疑問を持つ人なんて、誰もいなかったと思う」こうして口にしてみても、本当に信じられないような話だった。星奈自身、まさか自分の人生がこれほど波瀾に満ちたものになるとは思ってもみなかった。裕福な家の本物の令嬢と偽物の令嬢が入れ替わっていた――そんなドラマのような出来事が、まさか自分の身に起こるとは。咲夜も同意するように答えた。「私も、こんなドラマみたいなことが自分の身に起きるなんて思わなかった。人に話しても、たぶん信じてもらえないよね」そう言うと、咲夜は首を横に振りながら、困ったように笑った。星奈は少し考え込んでから口を開いた。「鷹司家ではもう、当時のことを調べ始めてるの。それで、母……じゃなくて、咲夜さんのお母さん……ああもう、なんか変な感じ」ずっと自分の母親だと思ってきた人を、今さら「咲夜さんのお母さん」と呼ぶことが、星奈にはどうしてもつらかった。かといって、今の状況で自分がそのまま「母」と呼ぶのも、明らかにおかしい気がした。そんな星奈の様子に、咲夜は思わず吹き出した。「別にいいよ。今までどおり呼べばいいよ。私だってまだ慣れてないし、急に呼び方を変えろって言われても無理だから」何しろ咲夜は、まだ鷹司家の人たちと直接顔を合わせていない。そのため、今のところはそれほど大きなプレッシャーを感じずにいられた。しかし星奈は違う。今まさに、本来なら自分の実の家族かもしれない花江家の人々と直接向き合っているのだ。咲夜の言葉に助けられ、星奈は少し照れくさそうにしながら話を続けた。「母が妊娠後期だった頃、商談で景浦市へ出張する父に付き添って、母もこっちへ来てたんだって。そのとき何者かに襲われて、母は父を庇って強い衝撃を受けたの。それで『仁愛産婦人科病院』に運ばれて、その日の夜に女の子を出産した。叔母が調べたところ、咲夜さんのお母さんもそのとき隣の分娩室にいて、私たちはまったく同じ時間に産まれたらしいの」それもまた、不思議な巡り合わせだっ
Read more

第806話

咲夜は星奈を見つめたまま、しばらく何と答えればいいのか分からなかった。自分が鷹司家の娘だと知った直後こそ、受け入れられず、信じることもできなかったが、今では少しずつ現実として受け止め始めている。できるだけ早く気持ちを立て直そうとしてきたこともあり、先ほど星奈から鷹司家の人たちが景浦市へ向かっていると聞いたときも、咲夜は特に深く考えてはいなかった。だが今の星奈の言葉で、一つ大事なことに気づかされた。もし鷹司家から、桜ノ宮市へ一緒に戻るよう言われたら、自分はどうすればいいのだろう?そんなことは今まで考えたこともなかった。けれど星奈からその話を聞いた以上、咲夜もきちんと考えざるを得なかった。正直なところ、咲夜は景浦市を離れたくなかった。幼い頃からずっとこの街で育ち、生活してきたというだけではない。花江家の両親のそばから離れたくないという気持ちもあった。そして何より大きいのは、千暁と離れたくないということだった。もし自分が桜ノ宮市へ戻ることになったら、千暁との関係はどうなるのだろう。そう考えた瞬間、咲夜は本能的に強い抵抗感を覚えた。「咲夜さん」星奈は笑みを消し、ぼんやり考え込んでいる咲夜を見つめた。どうやら、あまり嬉しそうではない。もしかして、自分は何か余計なことを言ってしまったのだろうか。星奈はすぐに、さっき自分が口にした言葉を振り返った。咲夜も我に返り、探るようにこちらを見ている星奈と目が合った。どうやら、さっきの自分の表情で誤解させてしまったらしい。咲夜は素直に打ち明けた。「私……景浦市を離れることなんて、考えたことがなかったの。星奈さん、私は小さい頃からずっと景浦市で育ってきたから、急に環境が変わったら、きっと慣れないと思う」話すうちに、咲夜の声はだんだん小さくなっていった。星奈はそこでようやく事情を理解した。「でも……咲夜さんは鷹司家の子なんだから、やっぱり鷹司家には戻ることになると思う」そう言った直後、星奈は自分の言い方があまりにも断定的だったことに気づいた。慌てて説明しようとする。「違うの、そういう意味じゃなくて……その、なんて言えばいいんだろう」どう言い直しても、うまく伝えられる気がしなかった。ただ星奈は、鷹司家が、咲夜がこのまま景浦市で暮らし続け
Read more

第807話

「私が見る限り、荻野天志は簡単に引き下がるような人には見えない。あの人は目的のためなら手段を選ばないでしょう?今は確かにグループを掌握したけど、考えたことある?」星奈はそこで一度言葉を切り、それから続けた。「荻野天志みたいな人にとっては、千暁さんが景浦市に残っている限り、それだけで最大の脅威なの。ようやく手に入れた地位を、まだ十分に享受する間もないうちから、いつか千暁さんに奪い返されるかもしれないって不安を抱え続けることになる。荻野天志の性格を考えたら、本当に千暁さんを放っておくと思う?」今のところ天志が動いていないのは、グループを引き継いだばかりで、自分で処理しなければならないことが山ほどあるからにすぎない。そのため、まだ千暁にまで意識を向ける余裕がないのだ。だが、グループ内部の問題を片づけ、ひと段落して冷静に考える余裕ができれば、天志はきっとまた不安になる。千暁が景浦市にいる限り、今は何もかも失い、咲夜に養ってもらうしかない状態だったとしても、決して安心はできない。何しろ千暁には実力がある。決断力も手腕もあり、一度すべてを失ったとしても、再び這い上がるだけの力を持っている。天志が、それを恐れないはずがなかった。星奈が指摘したことは、咲夜も以前から考えていた。もし本当にそうなれば、天志はきっとまた千暁に手を出してくる。だからこそ、自分たちも当然、何らかの備えをしておかなければならないと思っていたのだ。景浦市に住んでいない星奈でさえ、今の情勢をここまで冷静に見抜いている。ならば天志が気づいていないはずなどなかった。しかも、問題は天志だけではない。今では世間にも広く知られている。荻野グループでは、千暁が責任を取って辞任したあと、天志がすぐさまその座に就き、経営権を握った。千暁は実母を亡くし、そのうえ実父によって身一つで荻野家を追い出された。今では咲夜に養われて暮らしていることも、景浦市ではすでに公然の秘密だった。食事も住む場所も、使う金まで咲夜に頼っている。それだけでも十分に噂の種なのに、この前ワイナリーで鑑定士として働いていた際、周囲から好き放題に侮辱された件まで、とっくに広まっていた。そのうえ、天志のそばには遥斗と瞳という二人の子供がいる。最近では、遥斗と瞳の兄妹が、グルー
Read more

第808話

咲夜は認めざるを得なかった。星奈の言葉に、少なからず心を動かされていた。今の状況を考えれば、天志がこのまま簡単に千暁を見逃すとは思えない。もし狙いを定めて徹底的に妨害されれば、千暁の前には、何をするにも大きな障害が立ちはだかることになるだろう。ただこのことは、咲夜一人で決められる問題ではなかった。それは彼女自身もよく分かっている。星奈が再び口を開いた。「とにかく、急いで決めることじゃないから。ゆっくり考えればいいよ。千暁さんともちゃんと相談してみて」星奈も、咲夜に今すぐ景浦市を離れろと言ったところで、そう簡単に決断できるはずがないことは理解していた。今の状況を一つ一つ整理して伝えたのも、咲夜に現状をきちんと把握したうえで、よく考えてほしかったからだ。咲夜は心から感謝していた。「そうする。ありがとう」その言葉に偽りはなかった。二人は廊下でもうしばらく話してから、一緒に病室へ戻った。すでにDNA親子鑑定の結果は出ていた。真奈美と雅紀の視線が、同時に二人へ向けられた。咲夜は幼い頃からずっと二人のそばで育ってきた。だからこそ、その表情を見ただけで結果を察することができた。星奈は、本当に花江家の娘だったのだ。雅紀は二人をそばへ呼ぶと、鑑定書を指差して言った。「結果が出たよ。たかつ……星奈は、確かに私たちの娘だった」たった一枚の鑑定書に、すべてがはっきりと記されていた。咲夜はそれを受け取り、雅紀、真奈美の双方と星奈との間に「生物学上の親子関係が認められる」と記されているのを見て、ようやく小さく息を吐いた。笑おうとした。けれど、どうしても笑顔にはなれなかった。ある程度予想していた結果ではあった。それでも、こうして動かしようのない事実として目の前に突きつけられると、胸の奥がひどく痛んだ。堪えきれない思いに咲夜の目が次第に赤くなっていった、そのときだった。背後から、温かな腕に包まれた。いつの間にか千暁が咲夜の後ろに立ち、咲夜を自分の胸にもたれさせていた。まるで何もかもから守るように、咲夜を腕の中へ包み込んだ。千暁は雅紀と真奈美を見て、静かな声で言った。「お義父さん、お義母さん、ちょうど咲夜の足の傷も診てもらう予定だったので、少し行ってきます」そう言ってから、今度は星奈へ
Read more

第809話

ほんの少しの間に、咲夜の涙で千暁のシャツはすっかり濡れてしまった。けれど彼女はそんなことにも気づいていないかのように、ただ声もなく、胸の奥に押し込めていた感情を吐き出し続けた。その間、千暁はずっと彼女を抱き締めたまま、片手でそっと背中を撫で、何も言わずに寄り添っていた。その優しさに触れた途端、咲夜の中で張り詰めていたものが完全に切れた。それからは堰を切ったように泣き続け、しばらくしてようやく少しずつ落ち着きを取り戻していった。それでも顔は千暁の胸に深く埋めたままだった。泣き声はやがて小さなしゃくり上げに変わり、それも少しずつ収まっていく。けれど咲夜はすぐには顔を上げず、彼に抱きついたまま、黙って自分の気持ちを整えていた。千暁も何も言わず、ただ抱き締める腕に少し力を込めた。やがて咲夜が自分の胸から離れようとしたのを感じると、千暁は彼女の頭を軽く撫で、それからゆっくり腕を解いた。咲夜の目は泣き腫れて真っ赤になり、顔中が涙で濡れていた。その姿は、どこか痛々しく、守ってやりたくなるほど弱々しく見えた。千暁はティッシュを取り出して彼女の頬を伝う涙を拭いながら、優しく尋ねた。「少しは楽になったか?」「うん」咲夜は小さく頷いた。彼女は深く息を吸った。「私、ただ……急なことで気持ちが追いつかなかっただけ。ちょっと、つらくて……」千暁の前であれほど泣いてしまったことを、恥ずかしいとは思っていなかった。ただ、あまりにも優しい眼差しで見つめられていると、どうしていいのか分からなくなる。千暁は彼女の頭を撫で、愛おしそうに目を細めた。「バカだな」そう言うと、両手で咲夜の頬を包み、自分と目が合うように、そっと顔を上げさせた。「怖がらなくていい。君は君のままでいればいいんだ」咲夜はしばらく、目の前の男をぼんやりと見つめていた。そして結局、鷹司家の人たちが景浦市へ向かっていることを千暁に伝えた。咲夜が何を不安に思っているのか、千暁にはすぐに分かった。咲夜はまだ、鷹司家の人々と会う心の準備ができていないのだ。そう察した千暁は、落ち着いた声で言った。「まだ鷹司家の人たちと会う準備ができてないなら、断ればいい。無理する必要なんてない」DNA親子鑑定の結果を知ってからというもの、咲夜の感情はずっと大きく揺れ動いてい
Read more

第810話

鷹司家の人たちが景浦市に到着したのは、翌朝のことだった。香織から咲夜にメッセージが届き、真奈美の見舞いに病院へ行きたいと書かれていた。咲夜はそのメッセージを見つめながら、どう返事をすればいいのか考え込んだ。彼女がぼんやりしている隙に、千暁がその手からスマホを取った。メッセージに目を通すと、そのままトーク画面を閉じる。咲夜が見つめる中、千暁は彼女のスマホを自分のポケットにしまった。「君のスマホは、しばらく俺が預かっておく。どう返事するか決まったら、そのとき俺に言えば返す」そう言うと、千暁は身を屈め、咲夜の唇の端に優しくキスを落とした。「もう少し休むか?」真奈美の体には特に大きな問題はなく、今日退院できる予定だった。昨夜、雅紀は千暁に咲夜を連れて先に帰るよう言っていた。誰が見ても、咲夜がかなり参っていることは明らかだったからだ。星奈も先に帰らせて、雅紀は自分が残って真奈美に付き添うから大丈夫だと言った。そこまで言われたこともあり、千暁にも勧められ、咲夜は昨夜ひとまず家へ戻っていた。今の千暁の言葉も、自分をこれ以上悩ませたくないからこその気遣いなのだと咲夜には分かっていた。だから、その好意を断ることもしなかった。咲夜は手早く身支度を整えると、千暁に言った。「病院に行こう」千暁も頷いた。二人が病院に着くと、ちょうどタクシーでやって来た星奈と鉢合わせた。星奈は足早に咲夜のところまでやって来ると、すぐに口を開いた。「父と母、それに叔母ももう景浦市に着いてるの。でも、いきなり訪ねるのは失礼だからって、まず私が様子を聞きに来たの」その言葉には、もう一つの意味が含まれていた。おそらく香織は咲夜にメッセージを送ったものの返事がなかったため、星奈に様子を聞きに行かせたのだろう。鷹司家の人たちがいつ訪ねれば都合がいいのか、確認したかったに違いない。星奈も昨日、短い時間ではあるものの雅紀と真奈美と一緒に過ごしたことで、以前ほど気まずさを感じなくなっていた。まだ多少のよそよそしさは残っているものの、二人と話すときもずいぶん自然になっていた。咲夜は星奈の話を聞き、返事をしようとした。ところが隣にいた千暁が、先に口を開いた。「その件は、咲夜だけでは決められない。病室に上がってから、ご両親の意見を聞いてみ
Read more
PREV
1
...
7980818283
...
89
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status