All Chapters of 元カレの宿敵の腕で幸せになります!: Chapter 851 - Chapter 860

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第851話

「あなた、ちゃんと言うことを聞きましょうね。今は何より、元気で健康でいることが、子供たちに余計な心配をかけない一番の方法なんだから」秀子は啓介の背中を優しくさすりながら、言い聞かせるように話した。啓介は鼻を鳴らした。「わしの体なんて何ともない。若い連中は心配しすぎなんだ。いつも勝手に不安になって、余計な心配をしてるだけだろ。見てみろ、わしはこの通りぴんぴんしてる。まだまだ元気そのものだ」そう言うと、啓介は自分がいかに元気か見せつけようと、豪快に腕を振り上げた。ところが、腕を上げた途端、筋を違えそうになった。幸いすぐに動きを止めたため、腕を痛めるという何とも気まずい事態だけは免れた。秀子はそんな彼の手を取って下ろし、隣で呆れたように小言をこぼした。「もう大人しくしてなさい。本気で自分がまだ千暁みたいな若者だと思ってるの?まあ、千暁だってもうそんなに若くないけどね。この年になって、ようやくお嫁さんをもらえたんだから、それも大したものよ」「おばあちゃん、俺、まだ二十七なんだけど」千暁は軽く咳払いをすると、自分の祖母に抗議した。まだまだ若さ真っ盛りの年齢だというのに、大好きな祖母の目には、どうしてもう若くないように映っているのだろう。秀子は目の前の長孫を上から下まで眺めると、わずかに嫌そうな顔をした。「まだ二十七歳?四捨五入したら三十でしょう。三十近くになって、ようやくこんな美人をお嫁さんにできたんじゃない。おじいちゃんがあなたくらいの年だった頃なんて、お父さんはお使いもできたし、あちこちで女の子にちょっかいを出してたわよ」「……」千暁は言葉を失った。今まで気づかなかったが、自分の大好きな祖母は、どうやら相当なユーモアの持ち主らしい。そんな小さな子供が、あちこちで女の子にちょっかいを出していたわけがないだろう。さすがに話を盛りすぎだ。あまりにも大げさすぎて、千暁も思わず反論したくなった。秀子の大げさな話を聞いた咲夜も、とうとう堪えきれず声を上げて笑った。どうやら啓介にしても秀子にしても、言うこともやることも本当に可愛らしい。咲夜が楽しそうに笑っているのを見ると、千暁は喉元まで出かかっていた反論を、結局無理やり飲み込んだ。それどころか賛同するように頷き、「はいはい、おばあちゃんの言うことは全部正しい。
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第852話

医師は啓介に簡単な全身検査を行った。そして千暁に向かって言った。「検査の結果、お体には特に大きな問題はありません。ただ、心の中にいろいろと溜め込んでいるようです。このまま鬱々とした気持ちを吐き出せずにいると、いずれ体にも悪影響が出てきます」啓介はいつも一人で腹を立てては、それを誰にも話そうとしない。そのため、胸の内に鬱憤を溜め込み続けており、この状態が長く続くのは決してよくなかった。ましてや、今の年齢を考えればなおさらだ。体の不調というものは、怒りやストレスが原因で起こることも少なくない。それを発散できずに心の中に溜め込み、長年積み重なった末に体を壊してしまうこともある。今の啓介にも、まさにその兆候が見られていた。医師は家族にもこの問題を重く受け止め、できるだけ時間を作ってそばにいてあげてほしいと伝えた。親しい家族が寄り添っていれば、本人の気持ちも少しは楽になるかもしれない。医師が帰ったあと、千暁はその話を咲夜に伝えた。話を聞き終えた咲夜は、ほとんど考えることなく答えた。「じゃあ、私たちがこっちに引っ越して、おじいちゃんとおばあちゃんと一緒に暮らそう」息子である天志に二人のそばにいてもらおうとしても、おそらく天志本人が嫌がるだろうし、老夫婦のほうも抵抗があるはずだ。そのことは咲夜にもよく分かっていた。遥斗についても、これまでの荻野家での状況を見る限り、老夫婦はそもそも彼の立場を認めていない可能性が高い。しかも、遥斗自身が二人に恨みを抱いている可能性も否定できなかった。瞳については――咲夜も二人の状況を話してみようかと考えなかったわけではないが、彼女が来てくれるかどうかはまた別の話だった。それぞれの今の状況を考えれば、最も暇なのは自分と千暁だ。どうせ自分たちは無職で、働きもせずのんびり暮らしている身である。起業しようにも、途中まで進んだところで天志がまた徹底的に邪魔をしてくるかもしれない。かといって就職しようとしても、天志は間違いなく阻止するだろう。自分たちがどうしたところで、天志がすんなり自由にさせてくれるはずがない。だから、もうなるようになれと半ば開き直って日々を過ごしていた。幸い、しばらくは不自由なく暮らせるだけの蓄えもある。今は何より、啓介と秀子のことが最優先だった。二人に家族がそばにいたほうがい
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第853話

親というものは、ときにこういうものなのだ。子供のことで腹を立てたり、あれこれ心配したりする。人の一生など、結局はそんなものなのかもしれない。子供が産声を上げてこの世に生まれたその瞬間から、親の尽きることのない心配が始まる。生まれたばかりの頃は、お腹を空かせていないか、寒くないかと気を揉み、少し大きくなれば、学校でいじめられないか、勉強についていけているかと心配する。さらに成長すれば、今度は仕事や将来のことを気にかけるようになり、たとえ結婚して家庭を持ったとしても、今度は孫たちのことを絶えず心配し続ける。心配事は尽きず、腹を立てることも尽きない。そうして最後に息を引き取り、この世のしがらみから解き放たれて初めて、すべてを手放せるのだろう。人間とは、結局そういうものなのだ。両親の賛成も得られたため、咲夜と千暁はその日のうちに啓介と秀子の家へ引っ越した。午後三時半、瞳がやって来た。そこで咲夜と顔を合わせたが、瞳の表情は至って自然で、咲夜の出生の秘密を暴いたことに対する後ろめたさなど微塵も感じられなかった。咲夜は唇を引き結んだ。啓介と秀子の前で、瞳にあからさまに冷たい態度を取るわけにもいかない。ただ無表情のまま軽く頷き、それを挨拶代わりにした。瞳も気にする様子はなく、咲夜の横を通り過ぎると、にこにこしながら祖父母のもとへ向かい、啓介と秀子に挨拶をした。どうやら瞳は、秀子に呼ばれて来たらしい。咲夜たちが引っ越してきてから間もなく、ちょうど瞳から電話がかかってきたため、秀子は医師から言われたことを彼女に話したのだ。千暁が咲夜を連れて、こちらへ引っ越してくることも伝えていた。啓介の体調があまりよくないと聞いた瞳は、すぐに用事を切り上げ、二人の顔を見に行くと言った。結局、瞳はそのまま残って夕食を一緒に取ることになった。食卓で、秀子が瞳に尋ねる。「瞳、今夜はこっちに泊まっていく?」瞳も泊まるのなら、孫娘の部屋を片づけて、布団も新しいものに替えておかなければならない。瞳はちらりと咲夜に目をやると、にこやかに答えた。「うん。じゃあ今夜は帰らないことにする。恭介に連絡しておくね」恭介の名前を聞いて、秀子は改めて、瞳がもう結婚しているのだと実感した。秀子は慈愛に満ちた表情で、席を立って窓辺へ行き、電話をかけ始めた
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第854話

秀子は、孫娘が幼かった頃と同じように、手を伸ばしてその髪を優しく撫でた。瞳の顔を見下ろしながら、穏やかに語りかけた。「何をもって間違いだというの?この世に絶対的な間違いなんてないのよ。大切なのは、その選択が瞳にとってどんな意味を持つかでしょう。瞳自身が、それだけの価値があると思えるのなら、それは間違いなんかじゃない。周りの目を気にしすぎる必要もないし、他人の評価の中で生きる必要なんてもっとないの。瞳は瞳。誰とも違う、かけがえのない一人の人間なんだから。誰にも瞳を変えることはできないし、瞳が下した決断を責める権利もない。おばあちゃんが願っているのはただ一つ。どんな決断をしても、自分で選んだことを後悔しないでほしい。それだけよ」秀子は小さく息をついた。「おばあちゃんがずっと言ってきたこと、覚えてる?勇気を持って自分らしく生きなさい。他人の目に縛られて生きてはいけないよ。瞳のことを、瞳自身より分かっている人なんていないんだから。おばあちゃんはね、瞳が元気で幸せに笑っていてくれれば、それでいいのよ」秀子の優しく慈愛に満ちた言葉を聞きながら、瞳の胸にはさまざまな感情が激しく押し寄せていた。幸せ――?自分はもう、幸せがどんなものだったのかさえ忘れてしまった気がする。あの出来事が起きてから、瞳の心にはぽっかりと穴が開いてしまった。心の底から笑うというのがどんな感覚だったのかも、もう思い出せない。胸の中は空っぽで、まるで何かとても大切なものを失くしてしまったようだった。きっと自分は、もう二度と幸せにはなれない。瞳の目の奥が熱くなり、視界がぼやけていく。秀子に優しく慰められるほど、胸の奥に長くのしかかっていた重石が、ますます重くなっていくようだった。胸の奥が押し潰されそうなほど苦しかった。瞳は深く息を吸い込み、意地でも涙をこぼすまいと堪えた。何も言わず、ただ頭の中を空っぽにした。まるで森の中で迷子になった子供が、ようやく一時的に身を寄せられる場所を見つけたかのように、ほんのひとときだけ安らぎを得ていた。ここへ来るまでの数日間、瞳はろくに眠れていなかった。いや、もっと以前から、夜遅くまで眠れず、朝早く目が覚める生活が当たり前になっていたのかもしれない。一晩に五時間も眠れないことさえあった。ここ数日は
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第855話

瞳は勢いよく目を開けた。額には冷や汗がびっしりと浮かび、荒い息を繰り返している。その目には、まだ恐怖の色が残っていた。夢に陽向が出てきたのだ。全身を血まみれにした陽向が血溜まりの中に倒れ、見開かれた目には無念と、それ以上に深い恨みが滲んでいた。目に焼きつくような真紅の血が、四方から彼女を取り囲んでいく。恐怖のあまり瞳は何度も後ずさりし、その拍子にはっと目を覚ましたのだった。瞳が顔を上げると、心配そうに自分を見つめる秀子と目が合った。それでようやく、悪夢の中から完全に現実へと引き戻された。ゆっくりと体を起こし、秀子の手を握った。「おばあちゃん、大丈夫。ちょっと怖い夢を見ただけ。私……お母さんの夢を見たの」そう言い終えると、瞳は後ろめたそうに目を伏せた。秀子に本当のことを話す勇気はなかった。だから、絢子の夢を見たことにするしかなかったのだ。瞳が母親の夢を見たと聞くと、秀子は愛おしそうに彼女の頬を伝う涙を拭った。「馬鹿ね。明日はおばあちゃんも一緒に、お母さんのお墓参りに行ってお線香をあげましょう。亡くなった人はもう戻ってこないけれど、生きている人はちゃんと自分の人生を生きていかなきゃ。お母さんを心配させたら駄目よ。お母さんだって、瞳に憎しみを抱えたまま生きてほしいなんて、きっと思っていないわ。おばあちゃんの言っていること、分かるでしょう?」秀子は瞳のことを思い、諭すように言い聞かせた。絢子の死が、この孫娘にとってどれほど大きな打撃だったのか、秀子はよく分かっていた。瞳が胸の奥に抱える憎しみに、秀子が気づかないはずがなかった。どれだけ隠そうとしても、ふとした瞬間に滲み出るものまではごまかせない。それこそが、秀子が何より見たくないものだった。今はただ、瞳が母親の復讐のために荻野グループへ入ったのではないかと、それだけが心配だった。瞳では天志に敵わない。そのことを、秀子自身もよく分かっている。だからこれまで何度となく、絢子の死に囚われるのはやめて、自分の人生を大切にしてほしいと、瞳を懸命に説得してきた。瞳は、心配に満ちた祖母の眼差しを見つめ返した。胸が激しく締めつけられる。この瞬間、瞳は自分がひどく不甲斐ない人間に思えた。いつもこうして、大切な人たちを心配させている。以前
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第856話

瞳は部屋へ戻ると、酒を一本と煙草を一箱手に取り、バルコニーへ出た。吊り椅子に腰を下ろし、酒を飲みながら煙草を吸い、ふと夜空を見上げる。今夜は星々もどこかへ隠れてしまったのか、見渡す限り真っ暗だった。まるで今の自分の心そのもののように、何もなく、ひどく寂しい。瞳はあっという間に煙草を一本吸い終えた。傍らに置いていたスマホを手に取り、アルバムアプリを開く。それはパスワードでロックされたプライベートアルバムだった。パスワードを入力すると、瞳はそこに保存されている写真を一枚ずつ見ていき、やがて苦々しい笑みを浮かべた。手にしていた酒はすでに半分以上なくなっていた。彼女は立ち上がって部屋へ戻ると、バッグの中から薬の瓶を取り出した。再びバルコニーへ戻り、手のひらに薬を二錠出して口に入れると、そのまま酒瓶を掴んでまたあおった。「瞳」そのとき、隣から咲夜の声が聞こえた。咲夜がバルコニーへ出たとき、ちょうど瞳は薬を取りに部屋へ戻っていたため、隣に咲夜がいることには気づいていなかった。そのため、薬を飲んだ直後に酒をあおるところを、咲夜にしっかり見られてしまったのだ。咲夜が止めようとしたときには、すでに瞳は薬も酒も口にしていた。二つのバルコニーは仕切られており、咲夜が外へ出ても、そのまま瞳のところへ行くことはできなかった。瞳は声のしたほうへ目を向けた。相手が咲夜だと分かると、どこか小馬鹿にしたような表情で視線を逸らした。そして咲夜の目の前で、もう一本煙草に火をつけた。咲夜は思わず問いかけた。「今、何の薬を飲んだの?薬を飲んだのにお酒まで飲むなんて、命が惜しくないの?」今回瞳と会ってから、咲夜は彼女が明らかに以前とは変わったと感じていた。以前よりずいぶん痩せ、ひどく疲れているように見える。最近、いったい何をしているのだろう。瞳はまだ自分に腹を立てているようだが、煙草を吸い、酒を飲み、そのうえ薬まで飲んでいる姿を、咲夜には見て見ぬふりなどできなかった。瞳は気怠そうに目を上げ、咲夜を一瞥した。煙草を指に挟んだまま咲夜のいるほうへ歩み寄り、傍らへ軽く灰を落とす。何気ない仕草に見えたが、実際には煙が咲夜のほうへ流れないよう避けていた。以前と同じだった。瞳は煙草を吸うとき、決して咲夜のほうへ
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第857話

咲夜は瞳と視線を合わせたまま、しばらく黙り込んでいたが、やがて小さな声で答えた。「私は、今のままでも十分いいと思ってる」それを聞いた瞳は鼻で笑った。「何がいいのよ?お兄ちゃんもあなたも、今までずっと父に押さえつけられて、仕事にも就けないし、起業しようとしても邪魔される。手元にある貯金だって、あとどれくらい持つと思ってるの?あなたが自分名義の不動産を全部売ったことくらい、私だって知ってる。本当にこのままお兄ちゃんと一緒に景浦市に留まって、何もできずに一生を終えるつもり?」話せば話すほど、瞳の苛立ちは募っていった。彼女には本当に、咲夜と兄がいったい何を考えているのか理解できなかった。咲夜は小さくため息をつく。「じゃあ、ほかにどうすればいいの?」「あなたは鷹司家のお嬢様なんでしょう?お兄ちゃんのために鷹司家へ戻ることくらいできないの?少なくとも鷹司家なら、あなたたちを守ってくれる。いくら父でも、そこまで好き勝手に手は出せないでしょう」瞳は苛立ちを露わにして言った。こんな単純なことが、どうして咲夜と千暁には分からないのだろう。なぜ二人とも、そこまで頑なになっているのか。瞳は腹立たしげに咲夜を睨んだ。「母が死んだことは、あなたにはほとんど関係ないって分かってる。私が意固地になって、いつまでもそこから抜け出せずにいるだけ。でも咲夜、母はもう、この件で犠牲になった。お兄ちゃんだって、あなたのために何もかも捨てたのよ。これ以上、自分勝手でいちゃ駄目でしょう」ここまできついことを言うつもりはなかった。それでも、口を開くと、思っていた以上にきつい言葉が出てしまった。瞳は本気で二人のことを考えているのだ。それなのに、どうして二人には分からないのだろう。咲夜はようやく、瞳本人の口から、母親の死は自分のせいではないと思っていることを聞けた。瞳を見つめながら尋ねる。「私を信じてくれるなら、恭介とどんな取引をしたのか教えてくれない?」咲夜のほうから恭介の名前を出した。瞳は横目で彼女を見やり、隠すことなく答える。「利害が一致しただけの結婚よ。どんな取引だと思う?私は五十嵐家の力を利用して欲しいものを手に入れる。あの人は家族を納得させるために妻が必要だった。それだけ」瞳にとって、これは別に隠すようなことでもなかった。
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第858話

咲夜はすぐに、瞳の言っていた「足を引っ張る」という言葉の意味を知ることになった。翌朝、咲夜は足の怪我の経過を診てもらうため、病院を訪れていた。一通りの検査を終え、結果が出るのを待っていたところ、突然真澄から電話がかかってきた。千暁が事情聴取のため、警察に連れていかれたという。啓介が今朝、食事を終えたあと突然血を吐き、病院へ搬送された。検査の結果、長期間にわたって少量ずつ毒物を摂取させられていたことが判明したのだ。そして、あらゆる証拠が、啓介と秀子と一緒に暮らしていた千暁を指し示していた。真澄の話を聞いた咲夜は、あまりにも馬鹿げているとしか思えなかった。「おじいちゃんはどこの病院にいるの?今はどんな状態なの?」咲夜は緊張した声で尋ねた。千暁が毒を盛ったなど、絶対にあり得ない。今の咲夜が何より心配しているのは、啓介の容体だった。真澄は答えた。「天志様が面会を認めていません。秀子様とも連絡が取れない状態です。今回の件は、どう考えても社長を狙ったものです」事件が起きた直後から、真澄はすぐに事情を調べていた。屋敷の使用人たちは、ここ数日、千暁が何度もキッチンで何かに薬を混ぜているところを自分の目で見たと言い張っていた。目撃していたものの、怖くて言い出せなかったという。中には、その様子をスマホで撮影していた者までいた。ただし、写真に写っているのは後ろ姿だけで、顔までは確認できない。何より厄介なのは、使用人たち全員が「千暁が薬を入れているところを直接見た」と頑なに証言していることだった。全員の証言が一致しており、千暁にとって極めて不利な状況になっている。そのうえ真澄は秀子とさえ連絡が取れず、啓介の容体を確かめようにも、天志に面会を拒まれていた。そこで真澄が真っ先に連絡を取ったのが咲夜だった。咲夜は話を聞き終えると、低い声で告げた。「今すぐそっちに行く」電話を切るなり、咲夜は慌ただしく外へ飛び出した。ちょうどそのときエレベーターの扉が開き、中から良太が姿を現した。「奥さん、俺が送っていくよ」良太は白衣を脱ぎ、後ろにいたアシスタントへ手渡した。どうやら良太のもとにもすでに知らせが入っており、咲夜が自分が勤める病院へ足の再検査に来ていることを知って、直接迎えに来たらしい。咲夜は感謝を込めて良
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第859話

咲夜はスマホを取り出し、瞳に電話をかけた。電話はすぐにつながり、電話の向こうから、声を潜めた瞳の「もしもし」が聞こえてきた。「一つだけ聞くわ。あなた、この件に関わってるの?」咲夜は遠回しなことは言わず、いきなり本題を切り出した。瞳の声に不快感が滲む。「被害に遭ったのは私の祖父で、疑われてるのは私の兄よ。私がそこまで見境のない人間だと思ってるの?」今この状況で、咲夜が自分を疑うのも無理はないと瞳自身、分かっていた。そもそも啓介の体調がよくないことを千暁に伝えたのは瞳だ。そう考えれば、自分に疑いが向くのも当然だった。いくら弁解したところで、簡単に疑いを晴らせるような状況ではない。電話の向こうで、咲夜はしばらく黙り込んでいた。その沈黙から、自分が信じてもらえていないことを悟った瞳は、冷たく言い放つ。「私じゃない。信じるかどうかは勝手にすれば」それだけ言って、電話を切った。わざわざ電話をかけて問い詰めてきたこと自体、咲夜が自分を信じていない証拠だった。そう思った途端、瞳の中に怒りが込み上げた。今、彼女は例の私立病院にいた。啓介はまだ処置室で救命処置を受けていた。そして今回は、天志も処置室の外にいた。胸の内に溜まっていた怒りを抑えきれず、瞳は踵を返すと、険しい表情で処置室のほうへ歩いていった。遥斗を見つけるなり、その腕を掴んだ。「ちょっと来て」遥斗は瞳に引っ張られるまま、非常階段へ向かった。「おじいちゃんの件、遥斗兄ちゃんとお父さんが仕組んだんでしょう?」二人きりになるなり、瞳は容赦なく問い詰めた。遥斗は訳が分からないという顔で彼女を見る。「瞳、何を言ってるんだ?どうして俺と父さんが仕組んだことになる?おじいちゃんもおばあちゃんも俺たちの顔なんて見たくないんだぞ。俺も父さんも、本家の門すらくぐれないじゃないか」啓介も秀子も、天志と自分を歓迎していない。瞳は目を細めた。「おじいちゃんの体調がよくないって教えてくれたのは遥斗兄ちゃんでしょう。それに、時間を作っておじいちゃんの顔を見に行ったほうがいいって言ったのも遥斗兄ちゃん。こんな偶然がいくつも重なるわけがない」遥斗が教えてくれなければ、瞳も啓介の体調が悪いことには気づかなかっただろう。そして知ってしまった以上、千暁に知らせないという選択
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第860話

瞳の手のひらが痺れていた。怒りに任せ、全身の力を込めて遥斗の頬を叩いたからだ。手のひらにじんじんとした痛みが走って初めて、怒りに駆られて遥斗を叩いてしまったことを実感した。彼女は拳を強く握りしめ、憎しみのこもった目で遥斗を睨みつける。「言い逃れなんてしなくていい。千暁兄ちゃんがおじいちゃんに手を出すはずがない。たとえおじいちゃんを利用するためだったとしても、こんなふうに傷つけることだけは絶対にしない」自分には痛いほど分かっていた。啓介が千暁にとって、どれほど大切な存在なのか。特に母親が亡くなってからは、千暁も自分と同じように、祖父母を何より大切にしていた。そんな兄が、祖父に対してこれほど人の道に外れたことをするはずがない。遥斗は気持ちを落ち着かせると、冷え切った目で瞳を見た。「気は済んだか?もう片方も叩くか?」そう言いながら瞳へ近づき、まだ叩かれていないほうの頬を自ら彼女の前へ差し出した。その意味は明らかだった。まだ怒りが収まらないのなら、反対側も好きなだけ叩けばいいということだ。遥斗が近づいてくるのを見て、瞳は二歩後ずさった。「近寄らないで」今は遥斗のそばにいることすら嫌だった。ただただ気持ち悪いとしか思えない。遥斗は冷笑を浮かべ、ゆっくりと顔を上げた。「何事も証拠が必要だ。さっきからお前が何を言っているのか、俺には本当に分からない。瞳、お前自身が弁護士なんだから、証拠に基づいて話すべきだってことくらい分かってるだろ。証拠もないのに、口先だけで何でも俺のせいにするな。たとえお前が俺の妹でも、何度も何度も黙って許してやるつもりはない」遥斗は瞳に向かって、弁護士のくせに根拠もなく人を犯人扱いするような真似をするなと警告した。瞳は馬鹿馬鹿しくなって笑った。「あなたの妹?遥斗、何の冗談を言ってるの?」その瞬間、遥斗の纏う空気が一瞬にして冷え切った。凍てつくような眼差しが瞳へ向けられた。そこには、これまで彼女に見せてきた寛容さも優しさも、微塵も残っていなかった。あるのは凍てつくような冷たさだけ。よく見れば、その奥には微かな殺意さえ滲んでいた。これ以上言えば殺す――そう告げているかのような目だった。だが、その視線を真正面から受けても、瞳はまるで怯まなかった。一言一言、噛
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