All Chapters of 地上のパイロットは同期の私に塩対応が過ぎる: Chapter 31 - Chapter 40

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第 31 話

「! ちょっと、瞳っ」「誘惑の暖簾?」隣で腰を浮かせた理華を遮るように、私は首を傾げた。「洗濯物、干しっ放しにしてたのよ。おかげで水無瀬君、部屋に入った途端に、ズラッと干されたブラジャーにお出迎えされたって」「~~っ!」理華は茹った顔をして、ストンと腰を落とす。 私はわずかにポカンとしてから、「ぷ」小さく吹き出す。「ふふっ……はははっ、理華らしい!」肩を揺らす私の隣で、彼女が「もう」と頬を膨らませる。「フライトで一緒になった瞳に話す、透も透だけど。藍里にまで暴露する瞳も瞳……」「いいじゃない。その時の水無瀬君、すでに理華にメロメロだったんだから」彼女からジロッと睨まれても、瞳は涼しい顔でジョッキを傾けていたけれど。「でも、そういう二人が、瞳のキューピッドじゃない? 整備士の佐伯君……」私が話の矛先を向けると、ブッと噴いた。 顔を横に背け、ゴホゴホと噎せ返る彼女の前で、理華が「そう!」といきり立つ。「佐伯君のメールアドレス知ってたのに、いきなり連絡できないって。佐伯君も照れちゃって、二人きりにされたら、どうしていいかわからないって言うから、透と私と四人で合コンしてね……」「すみませ~ん! オーダーお願いしま~す」私の方に身を乗り出して、意気揚々と話し出すのを、瞳が身を捩って後ろを向き、声を張って阻んだ。「あ。ズルーい」理華は唇を尖らせているけど、オーダーで誤魔化す瞳は耳まで赤い。「はは。……二人とも、いいなあ……」 私は、眉をハの字に下げて、独り言ちた。 瞳の彼は、同期の航空整備士、佐伯君だ。 二人のパートナーが共に同期のせいか、ついつい自分に重ね合わせてしまう。台風対応でドタバタだった、あの夜から十日ほど――。 私は一度、氷室君に抱かれた。身体を対価に手に入れたのは、『時々でいいから、休憩中一緒に食事する』……という権利。 本当は、もっと彼に望むことがあるのに、断られるのを恐れて踏み込めない。運航管理部の同僚には、『だいぶ打ち解けてきたね』と言われた。 とは言え、それまでがそれまでだったから、これでやっと『同じ職場で働く同期』っぽくなったという進歩でしかない。実際は、なにを交換条件にしたら拒否されないか。 そこで終わりにされないか。 慎重に考えて、本当に言いたい条件を口にするのを、先に延ばしている。
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第 32 話

塞ぎ込みかけた意識に、明るい声が割って入って、私はハッと我に返った。「え?」いつの間にか俯いていた顔を上げると、理華が首を傾げて私を覗き込んでいる。「二人ともいいなあ、って。言ったでしょ?」「あ……」独り言を、聞き拾われていたのだと気付く。「う、ううん。別に、なんでも……」ぎこちない笑みで、誤魔化そうとすると、「別に、じゃないでしょ」オーダーを終えた瞳が、テーブルにのせた両腕に体重を預け、身を乗り出してきた。「藍里はどうなのよ? そっちの方」「えっ……」上目遣いで見据えられて、図らずしてドキッと心臓が跳ねる。 「私は、念願の運航管理部に異動して間もないから。そういう……恋愛事に気を取られてる場合じゃない。人より努力しないと……」取ってつけたように言いながら、じっとりした視線を向ける二人から逃げ、明後日の方向に目を彷徨わせた。 それで、綺麗に収まったと思ったのに。「それ、この間透も心配してた。なんか、同期の氷室君が厳しくしてそうって。大丈夫?」「っ、え!?」理華に、思い出したように言葉を挟まれ、ひっくり返った声をあげた。「氷室君? ああ、ディスパッチャーの」瞳も運航部門という大きな括りで所属が同じだから、すぐにピンと来たようだ。「私は、業務上で関わりないけど、パイロットがよく話してる。無愛想だけど滅茶苦茶キレる……なんだっけ、孤高の狼?」「知的イケメンだよね~」「そのわりに、意外と華やかだったりして。年上の航空管制官と付き合ってたよね」軽い調子で相槌を打つ理華に構わず、目線を上に向けて記憶を手繰るような表情を見せる。「……えっ!?」私は、一瞬思考を巡らせてから、腰を浮かせて聞き返した。「ひ、瞳。それ、ほんと?」勢い込んで訊ねる私に、彼女は虚を衝かれたような顔をしたものの、一度、頷いて応えてくれる。「だいぶ前にね。CAが噂してたよ。二年……いや、三年くらいは前かな」唇に人差し指を当てて首を捻るのを見て、私は無言で椅子に座り直した。 きっと……間違いなく、彼女のことだ。 今、私が氷室君と妙な関係になったきっかけの、根底にいる人。 立花、実可子さん――。『それ以上は、立入禁止』最初にそう言われてしまって以来、踏み込めずにいたけど……。「…………」ドクドクと嫌なリズムで、心臓が拍動を強める。 氷室君か
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第 33 話

久しぶりの女子会から数日後。 早番で出勤した私は、濃霧で始発便からディレイという、私史上初の事態に遭遇した。台風と違って、霧発生の予測は難しい。 この間のように、巡航中の便を代替空港に着陸させる必要はないものの、後発便の離陸時間も後ろにずれ込む。夏休み真っ只中で、お盆のハイシーズン目前の今、どこの航空会社もかき入れ時。 各社とも、大幅に増便対応していて、フライトスケジュールは分刻みの過密状態。 うちの会社は特に、羽田空港でのハンドリングシェアを半数近く占めているから、影響も大きい。私は勤務開始時刻を待たずに、バタバタと慌ただしく業務に追われた。 霧が晴れても、離陸時間の変更や、各便との調整、管制塔への連絡など、やることが山積み。 休憩に入れたのは、いつもよりだいぶ遅い、午前十時半だった。普段、早番の休憩では、朝食感覚の軽い食事をとっているけど、今日はもうがっつりランチの気分。 一仕事終えた後のように、空腹だった。 食堂に行く準備をする私の横で、氷室君が先に席を立った。「あ、待って!」私は条件反射で彼を追って、エレベーターホールで追いつくことができた。 ちょっぴり息を上げた私を一瞥しただけで、彼はドア脇のランプに目を戻してしまう。「氷室君、一緒にランチしていい? えっと……私、航空無線通信士の勉強しててね。わからないところがあって、教えてくれないかなあって」私は、反応を窺いながら誘いかけた。 氷室君は、もう一度こちらを見下ろし……。「後のは、まだのんでないはずだけど」つれない一言を放ち、ちょうど到着したエレベーターに、さっさと入っていく。「う」地味に断られた……気がする。 同じ箱に乗るのは遠慮しようと、足を竦ませた私を見遣り、氷室君は「はあ」と溜め息をついた。「後払いする? なら、いいよ」ボタンを押して、ドアを開放させながら、私に『対価の支払い』を念押ししてくる。「っ……」私の心臓は、意志に反して跳ね上がった。 ドキドキと騒ぎ出す胸に手を当て、一瞬目を泳がせたものの。「……わかった」彼から視線を外してボソッと呟き、俯いてエレベーターに乗り込んだ。 私たち二人しか乗っていない箱の中、ドアの両サイドに分かれて立つ。 氷室君は、スラックスのポケットに片手を突っ込み、壁に寄りかかっていた。狭い箱によぎる、微妙
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第 34 話

メニューが展示されたショーケースに、サッと視線を走らせただけで、すぐに中に入っていく。「な、なににするの?」私はメニューが決まらないまま、先を行く彼を追いかけた。「ざる蕎麦」氷室君は迷うことなく、麺類のカウンターに向かう。「え? この時間じゃ、お昼……だよね。小食じゃない?」「朝から疲れたから、食欲ない」そう言って、流れで後ろに並んだ私を肩越しに一瞥して、「ランチだろ? 俺に合わせる必要、ないけど?」訝しげに、眉をひそめる。「あ、ええと……暑いし、さっぱりしたものがいいかなって」取ってつけたような説明をして、私はトレーを手に取った。「…………」氷室君は、黙ってひょいと肩を動かし、まっすぐ厨房の方に向き直った。 カウンター前で隣に並び、料理の提供を待つ間も、沈黙がよぎる。私は、今夜の都合を問われたきり、返事ができていない。 彼が私に言わせたいのも、その答えだろう。「えっと……霧って、大変だね」だけど私は、その話題を回避して、仕事の話を振った。 氷室君が、チラッと目を落としたのを感じる。「……そうだな」溜め息交じりの、相槌が返ってくる。 私が話題を逸らしたのを見透かしての溜め息かは、わからない。 でも、「数日前から予測できる台風と違って、霧は読めない」珍しく、自ら会話を続けてくれた。 私は意味もなくホッとして、何度も頷いて応える。「でも、氷室君はやっぱりすごい。全然動じないし、私への指示も冷静で……」私が話す途中で、氷室君は厨房職員からざる蕎麦を提供されていた。 そして、さっさとカウンターから離れていってしまう。「あ、待って」続いて同じものを受け取って、私はあたふたと彼の背を追った。 朝食にも昼食にも中途半端な時間だからか、食堂は空いている。氷室君は、周りに人がいないテーブルにトレーを置いて、椅子を引いて腰かけた。 そして、彼の向かいに立った私に、上目遣いの視線を投げてから、「座れば?」すぐに目を伏せ、麺つゆに薬味を入れながら、促してくれる。 座ったら、『今夜』に応じたことになる? 勉強の話をしなければ、セーフ? 私は、心を揺らして躊躇して、「う……うん」結局、腰を下ろした。氷室君は、ほんの少し私を見遣っただけで、ほとんど反応はない。 無言で箸で蕎麦を摘まみ、食欲がないわりには、ズズッ
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第 35 話

氷室君が、ちらっと私を見遣ってから、手を伸ばしてくれる。 彼が、「どこ?」と問いかけてきた、その時。「あら。珍しいわね。女性と一緒なんて」私たちのテーブルの横で、誰かが足を止める気配がして、そんな声が降ってきた。「え?」私は、条件反射で顔を上げた。 仰ぎ見た視界に、航空管制官の制服を着た女性が飛び込んでくる。「あっ」ドクン、と、心臓が嫌な拍動をした。「立花さん……」私は無意識に腰を浮かして、彼女の名を口にした。そして次の瞬間、彼女に声をかけられた氷室君を気にして、ギクッとする。 とっさに、彼に視線を走らせた。氷室君も、話しかけられたのは自分だと、わかってるだろう。 だけど、顔を上げることなく無反応……いや、私から参考書を受け取ったまま、固まっている。「あら? 私のことをご存知?」立花さんは、黙ったままの彼には構わず、私に問いかけてきた。「は、はい。私……この春、日本エア航空のOCOに異動した新米で、八巻藍里と申します」私は背筋を伸ばし、勢いよくペコッと頭を下げた。「運航管理部で、氷室……君に、指導してもらっていて」口を閉ざす彼を窺いながら、自己紹介をした。 立花さんは、「そうなの」と、わずかに虚を衝かれたような顔を見せる。「管制官の、立花です。穣……氷室君、は指導には向かないタイプだから、教わる方も大変でしょ」クスクス笑って自己紹介を返してくれるけれど、私は、彼女が氷室君を、『穣』と名前で呼んで言い直したのに、耳聡く反応してしまった。 彼をよく知ってるからできる言い回しが、胸に刺さる。「ええと……」返答に困って、言い淀んだ。 氷室君は、話題の中心にいるにもかかわらず、私の参考書を脇に置いて、食事を再開していた。 立花さんが、そんな彼に眉を曇らせ、小さく「ふう」と息を吐く。痺れを切らした様子で、足を引いて彼の方にまっすぐ向き直った。「氷室く……」「立花さん」硬い声で呼びかけたタイミングで、彼女と同じ制服の男性が、後方から近付いてきた。 立花さんは、ハッとしたように振り返る。「どうしたんですか? 早く戻らないと」同僚らしき男性から促され、やや名残惜しそうに頷いた。「そう、ね。行きましょう」男性を先に通してから、もう一度氷室君に視線を向ける。 なにか言いたげに唇を動かしたものの、突っ立ったままの私
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第 36 話

視線も声も届いていると思うのに、氷室君は一度も振り返らずに、下膳台の方に歩いていった。 まるで、自分の身代わりみたいに、前の席に私の参考書を置き去りにして。休憩から戻った後、氷室君は相変わらず無表情で、淡々と仕事をこなしていた。 だけど、午後一時十五分発の、岡山行き101便のフライトプランを確認した『鬼機長』久遠さんから、オンラインブリーフィングで、搭載燃料量の修正の相談があり――。『飛行ルート付近で、積乱雲が発生する予報が出ている。着陸許可を待って、低空飛行や待機旋回が長引き、燃料消費量が増える可能性がある』実際にコックピットで操縦桿を握るパイロットの、『現場』の意見は貴重なもの。 こうして機長からの意見で、フライトプランに修正が入ることも多々ある。 ところが。『本日の101便、満席の上、貨物もペイロードギリギリに積んでます。燃料を増やしたら、最大離陸重量二百十九トンをオーバーしてしまう。燃料タンクを満タンにはできません。羽田―広島間の飛行距離は七百九十キロ。787の一リットル当たりの燃費は0.084キロですので、単純計算で九千五百リットルあれば飛行できる。今日は予備燃料含めて、百十キロリットル搭載してますから十分です』氷室君は、涼しい顔して理詰めで攻め、『機体重量が重くなればなるほど、巡航中、揺れの予測に伴う高度変更の幅が狭まる。安全なフライトという意味でも、このプランがマストです。もちろん、飛行ルートも、より燃費のいい高度についても、地上から随時サポートします。久遠キャプテンの飛行技術があれば、なんの懸念もないですよ』……と、秒速で論破した。ペイロードというのは、旅客、貨物の総重量のこと。 101便はこの重量がMAXの状態だから、貨物を減らさないと、燃料を増やせない。 ブリーフィングに一緒に参加していた私は、無言で能面になっていく久遠さんにハラハラして、氷室君に『少し貨物を減らしてみては?』と進言したけれど。『航空会社にとって金になる、有償重量減らすほどの意見か。着陸順が優先された場合、旋回の必要もなく、最大着陸重量まで燃料消費しきれなくなる。燃料投棄なんて無駄なことさせるつもりか』ジロリと鋭い睨みをお見舞いされて、ぐうの音も出なかった。 見た目だけなら、休憩前後で変わった様子はない。 でも、氷室君がドSの方向に振り切り、む
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第 37 話

「あ、ふっ……氷室、く」激しく舌を絡ませ、執拗に音を立てるキスに、呼吸もままならない。酸素不足で頭の中がボーッとして、脳神経が麻痺しそうになる。 縺れ合ったまま室内に移動して、ベッドに組み敷かれ、「あ……っ!」服の上から胸を鷲し掴みにされ、私は悲鳴じみた声をあげた。 いやがおうでも、背が撓ってしまう。氷室君は構うことなく、私のシャツのボタンを、もどかしそうな手つきで外した。 いつも、『優しく脱がしてやったりしない』と、甘さを見せない人が、私のキャミソールとブラジャーを一気に喉元までずり上げる。「氷室君っ」力任せに暴いた胸に顔を埋め、まるで屠るみたいに強引な愛撫を始める。「っ、あ、んっ!!」いきなり弱いところを狙い澄まされ、私はビクンと痙攣した。 全身に力がこもり、足の爪先がエビ反りになる。彼の大きな手と長い指、薄い唇と熱い舌で嬲られたら、私はそれだけで蕩けきってしまう。 だけど、最初からピンポイントで仕掛ける性急さが、彼らしくない。業務中だけじゃない。 今もなお、彼から自我を奪い、急き立てるもの。 それは、私への情欲ではなく、彼の頭の中をいっぱいにしている、立花さんだとわかるから……。「待って、氷室く……」私は彼の肩を両手で掴み、必死に自分から剥がそうとした。 私の抵抗が邪魔なのか、彼の愛撫が執着めいていく。「ひゃんっ!!」堪らず甲高い声で鳴いて、腰を跳ね上げた。「嫌……やめて、氷室君!!」ほとんど絶叫する勢いで張った声に、氷室君がピクッと反応する。 愛撫がやみ、私は急いで彼の下から抜け出した。 片腕ではだけた胸を隠し、お尻をズリズリとずらして頭の方に逃げる私に、「なにが嫌? 約束の対価だろ」氷室君は濡れた唇を手の甲で拭って、不機嫌に顔を歪める。 私は、生理的な涙を目尻に滲ませ、勢いよく首を横に振ってみせた。「け、結局、勉強、教えてもらえなかった」「じゃあ、今度埋め合わせしてやる。どうせあんた、次も追いかけてくるんだろうし」ふん、と鼻を鳴らし、今度は私をベッドヘッドに追い詰めて、覆い被さろうとする。 私は反射的に、彼の胸に片腕を突っ張って止めた。「……八巻さん」苛立ちも露わな声に、怯みそうになるけれど……。「私を、立花さんの代わりにしないで!」「え?」勇気を絞って叫んだ私の上で、氷室君がゴ
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第 38 話

顔を強張らせる彼を、正視できない。私は彼から目を逸らし、ササッと胸元の服を直した。 そして。「ごめんなさい。その……CAの同期から、噂になってたって聞いて」俯いて謝る私の頭上で、氷室君はハッと浅い息を吐いた。 上から降ってくる彼の影が薄くなり、ベッドがギシッと軋む音がする。彼が離れていくのを感じて、私はそっと顔を上げた。 氷室君は私に背を向け、ベッドの真ん中で胡坐を掻いている。 やや顔を伏せ、無言で前髪を掻き上げる背中を見つめて、私はゴクッと唾を飲んだ。「立花さんが結婚したのは、二年前。氷室君との関係が終わって、わりとすぐ、だよね。……もしかして氷室君、今でも……」懇親会の時、『あんたに関係ない』とばっさり斬られたことを思い出し、言い回しを考え、たどたどしく続けると、「もういい。帰って」そんな言葉で、遮られた。「え?」「帰れ」怯みながら聞き返した私に、氷室君は素っ気なく繰り返す。 ここから先は、立入禁止――。 身体を重ねようとしてる今も、私は彼の心への侵入を拒まれる。「嫌なんだろ? それじゃ、一緒にいる意味がない」氷室君はこちらを見てくれず、私との間の溝をさらに深く深くする。「氷室君……」私は打ちひしがれて、悲しくやるせない気持ちで、掠れた声で呼びかけた。 この距離なら聞こえていると思うのに、彼はやっぱり私に背を向けたまま。 反応すら、返してくれない。私は、彼に対して、どうしようもなく無力だ。 それを嫌というほど思い知って、面を伏せ、唇を噛む。彼のそばにいたいのに。 今、なにを思っているか聞きたいのに。 踏み込めない自分が、堪らなく嫌になり――。「っ……」私は彼から目を逸らし、ベッドから飛び降りた。 ベッドに移動する間に落としたバッグを拾い上げ、バタバタと騒々しくドア口に走る。 ドアレバーに手をかけたところで、一度、後ろ髪を引かれる思いで振り返る。ベッドの真ん中で、片膝を立てて抱え込み、額を預ける彼にきゅんと胸を疼かせ――。 そんな想いを断ち切るように、勢いよく顔を背けた。 ドアを開け、部屋から転がり出る。 そのまま、立ち止まることなく逃げ出した。空港地下の駅から電車に乗り、いつもの帰路についた。 ドア脇の狭いスペースに背を預け、窓から暗いトンネルをぼんやり眺める。「……はあ」私は、声
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第 39 話

自分の思考に反論して悲鳴をあげるように、胸がズキッと痛む。 私は胸元に手を当て、ゆっくり目を開けた。 視界に映るのは、やっぱり変わらない、暗い闇。 だけど、一瞬前より明らかに、視界が開けた気がした。――大丈夫。間違ってたわけじゃない。彼自身が目を背けて認めようとしない、心を乱す原因を、今、客観的にまっすぐぶつけることができるのは私だけ。 私が言わずに、誰が言ってあげられるの。なのに私は、氷室君に拒まれて、勝手に傷ついて逃げてきた。 彼の心を土足で踏みにじって暴いておいて、一人で残してきてしまった。なんで私は、今一人でいるんだろう。 無力でもなんでも、私が言葉で傷つけてしまった彼を、一人にしてはいけなかったのに――。「っ……」弾かれたように背を起こすと同時に、次の駅に着いた。 ドアが開き、何人か乗客が入ってくる。 背を引いて、それを横目で見遣って……。 私は、思い切って電車から降りた。ホームに立って一歩踏み出すと、勢いがついて小走りになる。 エスカレーターをほとんど駆け足で上り、私は空港に戻るホームに向かった。堪らなく嫌で情けないのは、彼に踏み込めない自分じゃない。 中途半端に立ち入って、逃げ出した私だ。もう、こうなったら、どこまで拒まれても同じ。 それなら、今みたいに後悔して、後でクヨクヨ考えないよう、今、踏み込むだけ踏み込んでしまおう――! 氷室君が、まだあの部屋にいることを願って、私はホテルに引き返した。私は、ほんの三十分前に飛び出してきた部屋の前に立った。「よかった。氷室君、まだいてくれて」ドアを開けてくれた氷室君が、驚いた顔で見下ろしてくる。「……なんで」「お邪魔します」戸惑った様子で、眼鏡の向こうで瞳を動かす彼の横を摺り抜け、私は再び室内に戻った。「八巻さん」ドアを施錠した氷室君が、私の背中に呼びかけてくる。 返事をせず、ベッドサイドにストンと腰を下ろした私の目の前まで来て、両足を揃えて止めた。「ヤる気になった?」ベルトに右手の親指を引っかけ、小首を傾げる。 小気味よい仕草は、彼がやるとどこかアンニュイな印象だ。 でも、私の行動の裏が読めず、探ろうとしているのがわかりやすい。 私は、軽く喉を仰け反らせて――。「いいよ」氷室君を視界の真ん中に据え、彼に倣って短く答えた。 意表をつけ
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第 40 話

「氷室君……今でも、立花さんのこと好きなの?」オブラートに包むとか、遠回しなんて気遣いはせず、遠慮のない質問をぶつけた。 彼の眉尻が、ピクッと上がった。 その喉元で、喉仏がこくりと上下する。「忘れられない人……とか」私は、言い回しを変えて畳みかけた。 氷室君は答えるどころか、きゅっと唇を結んでしまう。 キスまであと数センチの距離で、身体を凍りつかせたまま動かない。 逡巡するような間の後、顎を引いた。「俺が彼女と付き合ってたってのは、あんたの中では決定なわけ?」皮肉めいた、刺々しい口調。 私は彼に焦点を合わせ、無言で一度頷いた。氷室君は不愉快そうに、「ちっ」と舌打ちをする。 勢いよく身体を起こし、ベッドを軋ませて床に降りた。 脱力したみたいに、ベッドサイドにドスッと腰を下ろす。私は彼の背を見つめながら、ゆっくり身体を起こした。 その場に、ペタンと座り込む。「そもそも、あんたとこんなことになったのは、あの日、見られたからだった」氷室君は、溜め息交じりに、抑揚もなく呟き――。「……そうだよ。俺は、立花さんと付き合ってた」相変わらず息継ぎの必要のない、短い言葉で肯定した。 私の胸が、ズキッと痛んだ。 強い決意で踏み込んでおきながら、どう反応していいかわからない。「……そっか」目を彷徨わせ、ぎこちなく相槌を打った。 氷室君は、膝に置いた自分の手を、睨むように見つめている。私たちの間に、気まずい沈黙が流れた。 それを払い除けるかのように、彼が静かにかぶりを振った。「でも、もう好きじゃない。……好きなわけがない。あんな勝手な女」「勝手……?」詰るような言い回しが引っかかって、私は自分の口で反芻した。 彼の説明を待って、息をひそめる。「勝手じゃなかったら、他になんて言えばいい」氷室君が、自嘲気味に顔を歪めた。「……あんた、なにをどこまで知ってる?」問いかけられて、私は一瞬返事に詰まった。「え、っと」無駄に瞬きをして、最後は俯く。「あくまでも、人から聞いた噂だけど……立花さんは氷室君と付き合ってたはずなのに、今の旦那さんと電撃結婚した、って……」口にしていいものか迷いながら答える私に、氷室君は何度か無言で首を縦に振った。「だいたい、合ってる。上司の紹介で見合いした男と結婚するから、別れてくれって。付き合っ
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