Tous les chapitres de : Chapitre 51 - Chapitre 60

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第 51 話

「この忙しい時期に、夏バテして体調崩されても困る。それだけ」相変わらずのノンブレスで、やたら早口で言い切った。 所在なさげに動いた目が、開いたままの参考書に留まる。「あ。ああ。これ」私は彼の目線を追って、参考書を持ち上げた。「航空無線通信士のテキスト。来年二月の国試、受けるつもりで。食堂は賑やかだから、ここで勉強を」そう言って、ぎこちなく笑って見せると。「……わからないところがあるから、教えろって言ってたっけ」「え?」ポツリと呟かれて、瞬きで返した。 瞬時に記憶を手繰って、前に、一緒に休憩に入る口実に出したことを思い出す。「どこ」氷室君は私の手から参考書を取り上げると、ペラペラとページを捲り出した。「え。でも……」――その対価は、払えず仕舞いだ。 言い淀む私の思考を見透かしたのか、私をちらっと一瞥して。「これは、最初の対価の一部」「最初?」「俺も、楽になるって言った。あんた、営業上がりで、俺よりずっとコミュニケーションがスムーズだ。無線交信やってくれれば、確かに楽」素っ気なく言って、私の参考書を真剣に読み始める。 わからないところを教えてほしいなんて、ただの口実、覚えててくれたなんて……。 胸が、きゅんと疼いた。氷室君に失恋してから、一週間。 彼は私に仕事を振って、指導してくれる。 淡々……というより、冷え冷えと、その上超スパルタだけど、それでも私の覚悟は変わらない。『自分がかけた半分の時間で、立派なディスパッチャーに成長できる』ついさっき北澤さんから聞いた、嬉しい言葉が脳裏をよぎる。 ――本当かな。 氷室君、私を認めてくれてる? 彼の真意は別のところにあるかもしれないけど、今はほんのちょっと、自惚れても許されるだろうか……。「八巻さん。ここ、間違ってる」氷室君は、章末問題の私の回答にそう指摘して、こちらに参考書を広げた。 眼鏡の向こうの目を問題に伏せたまま、わりと丁寧に解説してくれるのを聞きながら、気付かれないように、上目遣いで彼を探る。自惚れでも自己満足でもないと思いたい。 少なからず、氷室君に近付けてるはずだから。 私はわずかに頬を火照らせ、静かに胸を弾ませた。
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第 52 話

休憩を終えてデスクに戻ると、午後十時の終業時間までノンストップで仕事だ。 このハイシーズンは、とにかくフライト数が多い。 午後七時になっても、フライトスケジュールはびっしり。 滑走路からは、他社便も含めて、ほぼ分刻みで離陸していく。「八巻さん。午後九時台の関空、伊丹全便、ロードプラン急がせて」カンパニーラジオのインカムを装着した氷室君が、マイクをオフにしながら私に指図した。「すぐ、コントローラーに連絡します」「それから、さっき離陸した広島12便。ランディングで強風の影響受けるかもしれない。気象データ確認して」私が最初の命令を実行しようと、電話の受話器を持ち上げる間にも、間髪入れずに次の指示が入る。「はい。広島、広島……」短縮番号をプッシュして、左の肩と耳で受話器を挟み、右手でマウスを動かす。 耳に、『はい、ステーションコントロール部です』と、受話器越しの応答が届いた。「お疲れ様です。運航管理部、八巻です。すみません、午後九時台の広島全便のロードプラン、急いで……」パソコンモニターに展開した、広島の天気図に目を凝らしながら、ほとんど無意識に口を動かすと。「違う。関空、伊丹」隣からビシッと声を挟まれ、マウスを動かす私の手は、条件反射で止まった。「……え?」受話器を右手で支えて、隣のデスクに顔を向ける。「広島は気象データ。ロードプランは大阪」氷室君はこちらをちらりとも見ず、フライトプランを作成しながら、やや棘のこもった声で、一語ずつ区切って繰り返した。 私は、言われたことを頭の中で噛み砕いてから、ハッと我に返る。「す、すみませんっ! 急いでほしいのは、九時台の大阪……関空、伊丹便です」冷や汗を掻きながら、電話の向こうのロードコントローラーに訂正した。 一年のうちで、一二を争うハイシーズン――。 OCOで初めて迎えるお盆シーズンは、目が回るほどの忙しさ……もとい、私は本当に目を回していた。 氷室君のフォローで、なんとか無事、関空、伊丹便のロードプランを急かして電話を切ると、半分デスクに突っ伏しながら「ふーっ」と息を吐いた。「氷室君。ロードプラン、あと十分って……」報告しながら、顔だけ彼の方に向ける。 だけど、返事はなく。「こちら東京OCO。JAK60便コックピット、応答願います」氷室君は表情一つ変えずに、巡航中の
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第 53 話

私は、まっすぐモニターを見据え、無線交信を続ける彼の横顔を見つめた。来年二月の国試に合格出来たら、私も彼に替わって、コックピットとの交信を担当できる。 そうしたら、氷室君はフライトプランの作成に集中できるし、少なくとも腕一本くらいの役目を務めることはできるはず。 日々、彼の隣のデスクで仕事をしていれば、仕事に対する決意と覚悟は、自然と確固たるものになる。だけど、それと比例して、恋心まで刺激される。 私は、ついつい、休憩中のことを思い出した。 体調を心配してくれたり、試験勉強を見てくれたり。 少し前より確実に、彼に近付けていると自負している。 なのに、想いは届かなくて――。 私は、その狭間で、ジレンマに揺れている。「八巻さん。広島の気象データ、送って」報われない恋心にちょっぴり切なくなった時、抑揚のない低い声が、氷の刃のように私の意識を裂いた。 一瞬にして、ハッと我に返る。「っ、え?」なにを言われたか瞬時に理解が繋がらず、私は戸惑った声で聞き返した。「気象データ」氷室君が短い一言と共に、私にちらりと横目を向けた。 二本の指で、鼻根のブリッジをクッと押す。 その仕草に導かれ、私の目に、彼の怪訝そうな眉間の皺が映った。「はいっ」私は慌てて、ひっくり返った声で返事をした。 パソコンモニターを目視確認して、急いで転送する。「広島の、気象データ……。今、氷室君のパソコンに送信しました」「サンキュ」氷室君は早速気象データを展開して、モニターを注視している。 私は、無駄にドキドキと騒がしい胸に手を置き、物理的に静めようとしながら、デスクに目を落とした。「広島、風速強まってる。煽り風受けて、水平バランス保てない可能性あるかも」氷室君は私をまったく気にすることなく、あっという間に広島の風を分析していた。私に……というより、独り言みたいにブツブツ言って、「こちら東京OCO。JAK12便コックピット、応答願います」次の瞬間には、広島12便のコックピットに無線で呼びかけていた。 サザッというノイズの後、『JAK12便。東京OCO、どうぞ』コックピットから応答が入る。「広島空港付近、南南東の風、毎秒十三メートル。午後七時五十分の着陸時、強風の影響が予想されます」氷室君がインカムのマイク位置を調整しながら、右手で忙しなくテン
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第 54 話

「ありません。滑走路は乾いているはずです」『横風、追風にならなければ、ランディングOK。ゴーアラウンドの可能性も含め、広島アプローチと交信します』コックピットからの応答に、氷室君は広島空港管制塔の無線周波数を伝えた。『ラジャー。サンキュー』「よいフライトを」そう言って、マイクをオフにすると、「八巻さん。広島の気象状況、モニタリング継続。風向きが変わって横風になると、十三メートルでも着陸できない」こちらを見ずに、私に指示する。 交信中、完全に彼に見入っていた私は、一拍遅れてシャキッと背筋を伸ばした。「はいっ」気合を入れ直し、デスクに戻ろうとして――。「っ……」一瞬目の前がグラッと揺れた。 頭の中で脳が動く、不快な眩暈を感じて、とっさに額に手を当てる。「八巻さん?」気配を感じ取ったのか、氷室君が私に視線を流してきた。「ご、ごめんなさい。大丈夫」慌てて、ぎこちなく笑みを浮かべた。 自分のデスクに手をついて、ふらつく身体を支えようとしたものの。 眩暈に襲われて視界が狭窄していたのか、大きく目測を誤った。 私の手はデスクを掠めて滑り、体重を支えられずに身体が大きく傾き――。「あ……」「っ、八巻っ……!?」聴覚が、私を呼ぶ彼の鋭い声を拾ったのが、意識の最後。 なにかガツンとくる痛みに神経を支配されて、目の前が真っ暗になった。――隣のデスクで、氷室君がフライトプランを作成している。 その横で、彼に頼まれたデータを分析していた私は、ふと眉間に皺を寄せた。『氷室君。関空上空、気圧に変化があって、大気が不安定になってるみたい』モニターに映し出した天気図に目を凝らしたまま、彼に告げた。『え?』氷室君が椅子から立ち上がって、私の後ろに立った気配がする。 椅子の背もたれに手を置き、グッと背を屈める。 私の肩越しにモニターを見つめ、『ほんとだ。落雷あるかも。八巻さん、関空23便に連絡して』『はい』彼が指示を出す途中で、私はインカムを装着した。『こちら東京OCO。JAK23便コックピット、応答願います』 マイクをオンにして、口元に動かしながら、関空空域を巡航中の機体に交信する。 コックピットから応答が入ると、キビキビと気圧の変化と落雷予測の情報を伝えた。 『JAK23便、ラジャー。大阪タワーに、旋回待機リクエストします』
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第 55 話

私を見る目にもかけてくれる言葉にも、彼らしくない慈愛が漂っていて、条件反射でドキッとする。『カンパニーラジオでの交信も、だいぶ様になってきた。左腕くらいの役には立ってる』どこまでも上から目線の激励に、私はほんのちょっぴりカチンとしながらも……。『見てて。必ず、立派な右腕って言わせて見せるから!』目の下をほんのり染め、嬉しいのを押し隠して、天邪鬼に返す。 氷室君は、私の照れ隠しなど、お見通しだ。 ふっと睫毛を伏せ、薄い唇の端に、どこか満足気な笑みを浮かべて……。『頼もしくなったな。俺の立派なバディになる日も、すぐそこまで来てるかも』――。 「ふふっ。ふふふ……」「……寝ながらニヤニヤするなよ。気持ち悪い」「……? ……!!」なんとも言えないいい気分に鋭く割って入る、容赦ない辛辣な言葉にギクッとして、私はパチッと目を開けた。 開けた視界で捉えたのは、見慣れない低い天井。 辺りは薄暗く、どこかから零れる蛍光灯の明かりで、辛うじて照らされている。「あ、あれ?」自分が横になっていることに気付いて、訝しい思いで身体を起こした。 その途端、ズキッと頭に痛みが走り……。「っ、痛っ!?」思わず、額に手を遣って顔をしかめる。「ああ、ああ、寝てろ。あんた、倒れた時デスクに額ぶつけて、結構デカいたん瘤できてるから」説明を聞くまでもなく、額の真ん中に不自然な隆起を感じる。「痛。いたたたた……」「人騒がせな真似しておいて、夢見てにやけるとか。頭打って、脳細胞死滅したんじゃないの?」呆れ果てた溜め息をつくのが誰かは、目にしなくても十分わかる。 私は、額のたん瘤を怖々と撫でながら、「氷室……君」首を捩じって、声の方向に顔を向けた。 私は粗末な狭いベッドに横たわっていて、彼はベッドサイドのパイプ椅子に座っていた。 長い足を組み上げ、腕組みをして、私にじっとりとした視線を送っている。「覚えてない? あんた、仕事中にぶっ倒れたんだよ」「え?」「ついでに、ここは空港内の医務室」彼の言葉で記憶が導かれ、その時のことが脳裏に蘇ってきた。「ごめん……! 今、何時? 12便は……」「今は十時半。もう夜勤に引き継ぎ終えて、勤務は終了してる。12便は、横風に煽られはしたけど、無事着陸した」「よかっ……え? 十時半……!?」思わず彼の方に身を乗り出
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第 56 話

まさに、氷室君が心配してくれた矢先に、こんなことに……。「ごめん。ごめんなさい……」私は、条件反射で肩を縮めた。 消え入りそうな声で謝ると、無言の溜め息が返ってくる。 なにも言ってくれないから、私も次の言葉を発せられず、薄暗い医務室に気まずい沈黙がよぎった。「……とにかく、帰ろう」氷室君は顔を背けながら言って、スッと立ち上がった。「あ」「荷物なら、持って来てある。立てそう?」「う、うん」私の返事を聞いて、自分のリュックと私のバッグを右肩に背負って、開け放たれていたドアの方に進む。 私はササッと髪を手櫛で直して、ちょっと慎重にベッドから降りた。 そして、ドアから出たところで立ち止まって待ってくれている彼の方に、肩を竦めて歩いていった。空港地下の駅のホームに降りた時、ちょうどタイミング悪く、一本行ってしまった後だった。 次の電車まで十分あるのを確認すると、氷室君は小さな息をついて、待合のベンチに向かって進む。後を追っていいものか迷ったものの、私のバッグはずっと彼が背負ってくれているまま……。 妙に恐縮して、先に座った彼の隣に腰かけた。 氷室君は大きく背を預け、やや喉を仰け反らせて天井を見上げていたけれど。「あんたさっき、なんの夢見てたんだ?」私に視線を投げることもせず、ポツリと質問してくる。 そのおかげで、一瞬自分に問われていると思えず、私はやり過ごしかけた。 けれど。「夢……やっぱり、夢だったかあ……」ものすごくいい夢、幸せな夢だったことを思い出し、がっくりとこうべを垂れる。 氷室君は、胡散臭そうに私を見下ろし、「よほどいい夢だったんだろうな。なんせ、寝ながら気持ち悪くにやけられるくらいだし」呆れを通り越して、冷ややかにツッコんでくる。 私は、「う」と口ごもったものの。「ほんと……いい夢だった……」夢の余韻を思い出し、うなだれた。 氷室君が、「はあ」と溜め息をついた。そして。「どんな夢?」「え?」「いい夢って」ちらりと横目を向けて訊ねられ、私はわずかに逡巡してから。「……氷室君に、左腕くらいにはなったって、認めてもらえる夢」ボソボソと歯切れ悪く呟く。 氷室君は、無言で私を見遣っていたけれど。「そんなことで、あんなにニヤニヤできるんだ」独り言みたいに言って、ハッと浅い息を吐いた。 そんな彼
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第 57 話

「なっ……」素っ気ないを通り越して冷たい言い草に、思わず息をのむ。 氷室君は、ホームに少しずつ増え始める旅客たちを一瞥して、足を組み上げた。「俺たちディスパッチャーが、業務に当たる上で忘れちゃいけないのは、他のなんでもない、安全安心なフライト」「そりゃ……もちろん」彼が言わんとするところを探って、やや窺うような口調になる。 氷室君は、私を視界の端で見留めて。「だったら、俺のバディになることを、一番の目標にするな」抑揚のない声で淡々と言って、再び顔を前に向けた。「あんたは頑張りすぎって言ったろ? 無理して体調崩して、ディスパッチャー不在になったりしたら、空にいるパイロットを誰が支えるんだ」「っ……」「一度飛び発ったら、パイロットには自分たちの周りの空しか見えない。俺たちが地上からサポートするから、コックピットは乗客乗員の命を預かれるんだ」淡々と告げられる真っ当な正論に、ガシッと心を鷲掴みにされた気分だった。 返す言葉に窮して、ただただ彼の横顔を見つめる私に、氷室君はふっと口角を上げる。「だから、見すぎ」皮肉げに呟き、スッと立ち上がった。 電車の停止線にまっすぐ歩いて行く彼を、私も一歩遅れて追いかける。 足を止めた彼の横に並び、改めて隣から見上げると。「あんたが立派なディスパッチャーになりたいなら……目標にするのは俺じゃない。操縦桿を握るパイロットのバディ。……違う?」顎を引いて見下ろす瞳と、真っ向から視線が合った。私の心臓は、その途端にひっくり返った音を立てる。 静かに諭すような声色に、私も反論せずに耳を傾ける。「ディスパッチャーが空を飛ぶことはないけど、『地上のパイロット』なんて言い方もされる。それがどういう意味か、ちゃんとわかってる?」重ねて問われ、私は彼にまっすぐ視線を返した。 ドキドキと加速する鼓動。 煽られるがまま高揚して、私は無意識に胸元のシャツをぎゅっと握りしめた。「っ……」何故だか胸がいっぱいで、声が喉に引っかかる。 返事の代わりに、大きくぶんぶんと首を横に振った。 氷室君は、私の反応を一から十まで観察して、「パイロットだけじゃない。ロードコントローラーも、航空整備士も、航空管制官も……一つのフライトに関わるすべての職に就く人間、すべてのバディ。……って、俺もそう言われただけで、受け売りだけど」
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第 58 話

今日の休憩中――手塚さんから聞いて、堪らなく嬉しかった言葉。 それを、今、彼自身の口から直接聞けて、飛び上がりたいほど嬉しくて、幸せで……。 無意識に、ズッと洟を啜った。「あり、がとう」声を詰まらせながら、たどたどしくお礼を告げる。 氷室君は、それには返事をせずに、私から目線を外した。 私は、涼し気で端整な横顔を見つめて……。「だったら……私は、氷室君とはバディじゃなくて、OCO一の名コンビになる」自分を奮い立たせるように、大きく顔を上げて続けると、彼が視線を向けてくるのを感じた。 だけど、あえて彼には目を向けずに、自分に言い聞かせるように、大きく首を縦に振る。「氷室君は、私が憧れるディスパッチャー。それは、なにがあっても変わらないから。どんな形でも目標にしていたい。……それは、許してくれるよね?」そう言って、彼を見上げた。 視線が宙でバチッとぶつかる。 氷室君は、どこか困惑したように、瞳を揺らしていたけれど……。 次の瞬間。「っ……!?」私は、彼に抱き竦められて、ひゅっと喉を鳴らして息をのんだ。 背中に回った彼の腕に、グッと力がこもる。頭のてっぺんに、彼が顔を伏せているのが、微かな吐息で感じられる。「ひっ。……氷室、く……?」ドキドキを通り越して、ドッドッと脈打つ心臓。 私は、おずおずと彼の腕に手をかけ……。「どんな形でも、目標……そうだな。ありがとう」すぐ耳元で囁かれ、ドキッと胸を弾ませながら、顔を横に向けた。「氷室君?」躊躇いながら呼びかけると、氷室君はゆっくり腕の力を緩めた。 電車が到着するアナウンスがホームに響き、抱擁を解く。間もなく、電車がホームに滑り込んだ。 ドアが開く。 降車客はおらず、氷室君はさっさと乗り込むと、ドア脇のスペースに身を寄せた。 私も後に続いて、彼の横に回る。ドアが閉まり、暗いチューブのような線路を走り出した電車の中で、私は彼の横顔を窺った。 氷室君は、窓の外に目を遣ったまま、黙っている。なにか……私の言葉が彼に響いたのは、察せられた。 だけど、それがどういう意味のものかは、わからない。確実に近付けているようで、やっぱりまだまだ心は遠い――。 こんなに近くにいるのに、拒まれるのを恐れて、思い切って踏み込めない自分が、もどかしかった。翌日。 昨日と同じ遅番勤務が
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第 59 話

現実の彼との関係を、何度も自分で復唱して意識に刻みつけ、気を取り直して椅子から立ち上がる。「お先に失礼します」夜勤の同僚に声をかけ、オフィスを出た。 従業員用のセキュリティを通過したところで、「あれ? 藍里! 偶然」後ろからポンと肩を叩かれた。 弾かれたように振り返ると。「あ。瞳!」「遅番? 終わり、この時間なんだ」同期のCA、瞳が、キャリーケースを引きながら、私の隣に並ぶ。 私は頷いて返し、彼女と揃って歩き出した。「瞳も遅いね」「私も午後からだったの。広島ステイからの一・五往復」「広島ステイ? あ!」思わず声をあげた私に、瞳が「ん?」と首を傾げる。「もしかして、昨日の12便、乗務だった?」「ん? そうそう」「強風、大変だったね」私がやや勢い込んで言うと、一瞬きょとんとした顔をして、「ああ! もしかして、ディスパッチャー、氷室君だった?」すぐに合点した様子で訊ねてくる。 私は何度も首を縦に振って応えた。「着陸時、十一メートルの横風で。もっと強かったら、ゴーアラウンドになったかもしれないって」「確かに、ちょっと揺れた。そっか、あの時、地上のパイロットは氷室君だったか」地下の駅に下りるエスカレーターに乗った瞳が、唇に指を当てて目線を上に向ける。 そして、後に続いた私を見上げ、「で、地上のパイロットの卵が、藍里」からかうように言われて、私は苦笑いを浮かべた。「それが……私は、ほぼ役に立たずで」手すりに手をのせ、「はーっ」と声に出して溜め息をついて、うなだれる。「関空と伊丹と広島ごっちゃにするし。聖徳太子が聞き耳立ててフォローしてくれなかったら、役立たずどころか足手纏いに。その上、ぶっ倒れるし……」「? ごめん、藍里。まったく意味わからない」瞳が怪訝そうに眉根を寄せ、ツッコみを入れてくる。「要は、氷室君はやっぱりすごいってことで……」「ねえ。あれ、その聖徳太子じゃない?」「ん?」あれ、と視線を促されて顔を上げると、エスカレーターの降り口の少し先に、氷室君の姿を見つけた。「あ!」「せっかくだ。ちょっと声かけて、一杯くらい飲みに行かない? 私、明日非番だし」瞳は私の返事を待たず、キャリーケースをひょいと持ち上げ、ズンズン下っていく。「え!? ちょ、ちょっと瞳」私はひっくり返った声をあげて、彼女を追っ
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第 60 話

肩を動かして手を払われ、不服そうに口を曲げるのと同時に、私もフロアに降り立った。 立ち尽くす私の視界の真ん中で、二人が連れ立って先に歩いていく。瞳は、彼らと私を交互に見遣っていたけれど……。「あれ……管制官の立花さんじゃない? なに? あの意味深な空気」隣にそそっと寄ってきて、コソッと耳打ちする。 私の心臓が、ドクッと嫌な音を立てて沸いた。「いくら元カレ元カノでも、立花さんは結婚してるんだし……あの雰囲気はマズいんじゃ」やや困惑が混じる声色に煽られ、ドッドッと早鐘のように拍動を強める。 思考は、『氷室君、行っちゃダメ!』と叫んで、二人を追いかけて彼を奪還するという、強引な方向に振り切っていた。 でも、一度氷室君にはっきり拒まれているという、消したくても消えない事実があったから、足が竦んで動けなかった。氷室君と立花さん、二人の様子を見ても、会う約束をして待ち合わせていたのは、一目瞭然だった。 こんな時間から? いったい、なんの約束? 猛烈に加速する心拍で、私の胸は張り裂けそうに痛み――。「え……? ちょっ、藍里、どうしたの?」瞳の、ギョッとしたような声が聞こえる。「……え?」『どうしたの?』と問われて逆に戸惑い、私は彼女の方に顔を向けた。 だけど、瞳が見えない。 どんな表情をしているかもわからない。「瞳? ……あ、あれ?」視界が滲んでぼやける。 おかしい、と思って目元に両手を遣って、私は初めて、自分がポロポロ涙を零して泣いていることに気付いた。夜遅い時間帯でも、ターミナル内を行き交う人の姿は絶えない。 往来のど真ん中に立ち尽くし、涙を流す私に向けられる好奇の視線から隠すように、瞳が身体を盾にしてくれた。 私を片腕で抱え、もう片方の手でキャリーケースをグイグイ引いて、通路の隅まで移動すると、「藍里」私の両腕を両手でグッと掴んだ。 わざわざ腰を曲げて、俯く私の顔を覗き込んでくる。「この間、氷室君の元カノの噂、聞きたがってたよね。今、藍里を泣かせてるのは、氷室君で間違いない?」これだけ近付いても、やっぱり瞳の顔はぼやけて、輪郭しか掴めない。 私の目には、それほどまでに、涙がいっぱい溢れ返っているということ。意味深な空気を漂わせる氷室君と立花さんを見送った後じゃ、なにも誤魔化せない。 私は、一度小さく頷いて応
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