「この忙しい時期に、夏バテして体調崩されても困る。それだけ」相変わらずのノンブレスで、やたら早口で言い切った。 所在なさげに動いた目が、開いたままの参考書に留まる。「あ。ああ。これ」私は彼の目線を追って、参考書を持ち上げた。「航空無線通信士のテキスト。来年二月の国試、受けるつもりで。食堂は賑やかだから、ここで勉強を」そう言って、ぎこちなく笑って見せると。「……わからないところがあるから、教えろって言ってたっけ」「え?」ポツリと呟かれて、瞬きで返した。 瞬時に記憶を手繰って、前に、一緒に休憩に入る口実に出したことを思い出す。「どこ」氷室君は私の手から参考書を取り上げると、ペラペラとページを捲り出した。「え。でも……」――その対価は、払えず仕舞いだ。 言い淀む私の思考を見透かしたのか、私をちらっと一瞥して。「これは、最初の対価の一部」「最初?」「俺も、楽になるって言った。あんた、営業上がりで、俺よりずっとコミュニケーションがスムーズだ。無線交信やってくれれば、確かに楽」素っ気なく言って、私の参考書を真剣に読み始める。 わからないところを教えてほしいなんて、ただの口実、覚えててくれたなんて……。 胸が、きゅんと疼いた。氷室君に失恋してから、一週間。 彼は私に仕事を振って、指導してくれる。 淡々……というより、冷え冷えと、その上超スパルタだけど、それでも私の覚悟は変わらない。『自分がかけた半分の時間で、立派なディスパッチャーに成長できる』ついさっき北澤さんから聞いた、嬉しい言葉が脳裏をよぎる。 ――本当かな。 氷室君、私を認めてくれてる? 彼の真意は別のところにあるかもしれないけど、今はほんのちょっと、自惚れても許されるだろうか……。「八巻さん。ここ、間違ってる」氷室君は、章末問題の私の回答にそう指摘して、こちらに参考書を広げた。 眼鏡の向こうの目を問題に伏せたまま、わりと丁寧に解説してくれるのを聞きながら、気付かれないように、上目遣いで彼を探る。自惚れでも自己満足でもないと思いたい。 少なからず、氷室君に近付けてるはずだから。 私はわずかに頬を火照らせ、静かに胸を弾ませた。
Dernière mise à jour : 2026-02-02 Read More