All Chapters of 地上のパイロットは同期の私に塩対応が過ぎる: Chapter 11 - Chapter 20

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第 11 話

とりあえずバスローブを身に着け、髪をタオルで拭いながらバスルームを出る。 そして、窓際の簡素なテーブルの前の椅子に、ゆったりと腰かける氷室さんを目にして、ドキッとして足を止めた。彼もバスローブ姿のまま、長い足を組み上げている。 裾が割れ、引き締まったヒラメ筋を惜しみなく披露する彼が、ちらりと私に視線を流してきた。「なんだよ」一瞬私が怯んだのを見逃さず、むっと口をヘの字に曲げて、腕組みをする。「い、いえ。一度帰るって言ってたから、まだいると思わなくて」タオルを口元に当て、モゴモゴと言い訳をする私に、ハッと短い息を吐く。「置いて帰ったかって? いくらなんでも、薄情だろ」「えっと……ありがとうございます……?」正直なところ、朝を迎えたら昨夜のテンションが気まずいし、こっそり帰ってくれてた方がありがたかった気もする。 私はサッと室内を見回し、ベッドの足元にちょこんと腰を下ろした。 彼がまだ私に視線を流しているから、意味もなく肩に力を込める。……こうなったら、とにかく言わなきゃ。 昨夜のことをちゃんと謝って、酔ってたからとか、言い訳でも弁解でもいい。あんな風に男の人を連れ込んだのは、昨夜、氷室さんが初めて。 もちろん、この先二度とない、人生最初で最後の大失態だ。 とにかく、酔っ払ったら誰とでも簡単に寝る女だなんて、思わないでほしい。だけど、説明がしどろもどろになっては、元も子もない。 どんな言葉を選ぶのが正解なのか。 失敗して、かえって軽蔑されたら堪らない……!私は焦燥感に駆られながらも、心の中でジレンマと闘い、結局なにも言えないまま、膝の上に置いた両手に目を落とした。 すると。「……なにがいい?」思いがけず、氷室さんの方が先に口を開いた。「え?」反射的に顔を上げると、まっすぐこちらを見ていた彼とバチッと目が合う。「対価、もらったから」氷室さんは素っ気なく言って、おもむろに足を組み替えた。「あんた、交換条件のつもりで、俺とヤったんだろ?」眉根を寄せて言われて、私は無意識にゴクッと喉を鳴らした。「氷室さん、昨夜のことは、その……」「一つだけ、言うこと聞いてやる。常識的な範囲で」むしろ、ここがチャンスとばかり、『昨夜のことは忘れてください』と言いかけた私を遮って、どこか不服そうに顔を歪める。「……え?」問われ
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第 12 話

いやがおうでも、私の鼓動は限界を突破する。「じゃ、じゃあ……」聞いてもらえる交換条件は、たった一つ。 私が一番、彼に望むこと。 それは――。「氷室さんの絶対的バディになれるように、指導してください」膝の上に置いた手をぎゅっと握りしめ、前のめりになって答えた。「まずは、氷室さんが私じゃなきゃダメだって言ってくれるような……運航支援者になりたいんです!」勢い込んで言い放った私に、彼は一瞬、ほんのわずかに目を丸くした。午後二時。 運航管理部、遅番勤務者の始業時間だ。 簡単なミーティングの後、早番勤務者から申し送りを受けて、早速業務に取りかかる。「八巻さん。南紀白浜空港上空の気象データ、集めて」氷室さんは自分のデスクに着くより先に、私に指示を出した。「はい」私も中腰の体勢でマウスを動かし、パソコンモニターに天気図を展開させる。 氷室さんは隣のデスクの椅子を引いて腰を下ろし、カンパニーラジオのインカムを装着していた。「JAK103便。コックピット、応答願います」早番から引き継いだ、現在飛行中の機体のコックピットに、無線で呼びかける。 ザザッと無線特有のノイズが走った後、『こちら、JAK103便、コックピット。どうぞ』コックピットから、応答があった。「ここからサポート交替します。東京OCOの氷室です。よろしくお願いします」普段と変わらない涼しい表情で、コックピットとやり取りする横顔を、私はそっと窺った。『キャプテン、久遠です。どうも』無線にのって、JAK103便の機長の声が聞こえる。 どうやら、日本エア航空史上最年少のエリート機長のようだ。 エリートと呼ばれるに相応しく、操縦技術は天下一品。 自分にも他人にも厳しく、運航管理部のディスパッチャーが『鬼機長』と恐れるパイロットの一人だ。氷室さんとは本質的に似た者同士だからか、普段からあまり剃りが合わない。 だけど。『フライト、おおむね良好です。大きな揺れもない』「了解です。なにか異変があれば、ご連絡を」『ラジャー』彼は鬼機長相手にもぶれずに、淡々と交信を終えて、マイクの音声をオフにした。早番から引き継いだのは、伊丹空港行きのフライトだ。 私に命じた南紀白浜空港上空の気象データは、午後十七時の便のフライトプランを作成するため。 氷室さんは無線交信
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第 13 話

飛行中の機体を幾つも監視しながら、同時進行で一便ごとにフライトプランを作成する。 始業早々、息つく暇もない。「氷室さん。気象データ、送信しました」私は、彼が無線交信を終えたタイミングを測って、声を挟んだ。「了解」氷室さんは、返事と共に、早速データを確認している。 私の視線を感じているのか、わずかに眉根を寄せて、中指と人差し指で眼鏡のブリッジをクッと押し上げた。「見すぎ」やや鬱陶しそうに横目を流してくるけれど、すぐにハッとしたように、正面に向き直って口元に手を当てる。 そして、「はあ」と声に出して溜め息をつき……。「……ロードコントローラーから、小松84便と広島12便のデータもらって」いつもは、さっさと自分で手配してしまい、私に振ってくれない仕事を命じてくれる。「はいっ!」これも、昨夜の醜態もののやらかしの、『怪我の功名』。 彼からちゃんと、『氷室さんのようなディスパッチャーに育ててもらう』権利を勝ち取れたおかげだ。そもそも、氷室さんは私の指導担当で、本来当然の権利だけど、今朝も、『一つだけ言うこと聞いてやる』と言ったくせに、ものすごく渋い顔をした。 とは言え、塩対応の自覚はあったようで、苦々しく不本意そうでありながら、承諾してくれたのだ。ここぞとばかりに、塩対応の理由も聞いてみた。 正直言うと、同期とは言え、彼の方は私の存在すら知らなかっただろうし、いきなり嫌われたのだとしたら立ち直れない。それには、『仕事で関わるだけの人間に、嫌いも好きもない。指導が面倒なだけ』という返事だった。 私の指導を命じられた時も、部長に盾ついて拒否したそうだから、よほど指導に就くのが不服だったのだろう。『ド新人に教えてやらせるより、自分でやった方が断然早くて正確』……と、明らかに指導担当には不向き。 元も子もない言い訳だけど、以前から運航支援者のアシストを必要としないそうだから、私に限ったことでもない。だけど、それも昨日までのこと。 今日からは大手を振って質問できるし、過去は流すに限る。私は鼻歌を歌いたいくらいの高揚感をなんとか抑え、同じOCO内のステーションコントロール部に電話を入れた。 氷室さんに指示された、ロードデータ。 機体のウェイトアンドバランスを表したデータだ。例えば空席が多い便で、乗客が前方の席に偏ってたりする
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第 14 話

隣に顔を向けると、氷室さんはモニターをジッと見つめて、やや難しい顔で顎を撫でていた。「氷室さん? どうかしましたか?」椅子ごと移動して、彼がなにを見ているのか、ひょいと覗き込んでみる。「うるさい」氷室さんはモニターから目を離さず、いつもの調子で返してきたものの……。「……グアム島沖の低気圧。台風発生しそう。七十二時間予測確認して」今朝の約束を思い出したのか、渋い顔で私に仕事を振ってくれた。「はい! フライトに影響しそうですか?」椅子のキャスターを転がして自分のデスクに戻り、早速データ収集に取りかかる。 氷室さんは、こちらを見ずに「いや」と言った。「今のところは」軽くテンプルを持ち上げて、眼鏡を掛け直す横顔は、相変わらず顔面神経が働いていない。 それでも、なにか気になっている様子だから、私も天気図に目を凝らしてみた。「まだ発生前だし、進路予想も出てない……」私が独り言ちる隣で、彼はインカムのマイクをオンにしていた。「JAK20便コックピット、東京OCO。どうぞ」こうしている間にも、巡航中のコックピットから無線が入る。交信に耳を傾けてみると、どうやら関空近辺で機体の揺れを観測したという報告のようだ。 氷室さんはすぐに、フライトレーダーを確認して、当該機の正確な位置と高度を割り出している。「位置、了解です。後続機に伝えます」そう言って、JAK20便との交信を終了させて、すぐに後続機のコックピットに周波数を合わせる。 コックピットからの情報に、スピーディーに対応する頭の回転の速さ。 私は、無意識にゴクリと喉を鳴らした。この三ヵ月ちょっと、私はいつも隣のデスクでこの人の仕事ぶりを見て、憧れを強めてきた。 こんなすごい人に、直接指導してもらえる幸運――昨夜の暴挙は、この幸運を無駄にしたくないという思いが高まった結果だった。 今朝はあまりの恥ずかしさに、『なかったことに』と言いそうになったけど、言わなくて本当によかった――。これからの期待に、気が昂る。 私が思わず武者震いした時、氷室さんが後続機との交信を終えた。 「ふう」と息をついて、軽く眼鏡をかけ直す。 フレームが持ち上がり、泣き黒子がちらりと見えて、私の胸は意思に反してドキッと跳ね上がった。「っ……」嫌でも、昨夜彼とした行為が脳裏を掠めて、顔が茹る。 私は慌て
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第 15 話

ところが、今日も例に違わず、氷室さんは私の誘いの途中でしれっと席を立ち、さっさと出口に歩いて行ってしまう。「あ、待って!」オフィスを出ていく背中を、急いで追いかけた。 だけど、どれだけ足が速いのか。 私がオフィスを出た時には、彼の姿はどこにも見当たらなかった。「……つれない」無意識に独り言ちて、がっくりとこうべを垂れた。 シフト勤務の上、毎日決まった時間に休憩に入れるわけじゃない。 そう簡単に誰かと約束もできないし、どうせお互い、一人で食べることになるのに。しゅんとしたものの、なにも今に始まったことじゃない。 もしも食堂で見つけたら、ダメ元で話しかけてみよう……。 そう気を取り直して、職員食堂に向かった。 空港内に二つある職員食堂は、全空港勤務者共有のもので、日本エア航空の社員食堂ではない。 制服姿のグランドスタッフやショップ店員、入国管理官に警備スタッフ。 パイロットやCAも、フライト合間のブレイクで立ち寄ったりする。 ちょうど夕食時なのもあり、かなり広い食堂も混雑していた。今日はこの後午後十時まで仕事だから、がっつり力をつけようと、私はかつ丼をセレクトした。 丼をのせたトレーを持ち、席を探しながら奥に進み……。「あ!」見つけてしまった。 奥まった窓際の席に、氷室さんがいる。「ひむ……」自分の背を押し、思い切って声をかけようとして、私は無意識に足を止めた。 彼の向かいに、白いワイシャツに三本ラインのパイロットがいたからだ。 それは、私もよく知っている人で――。「あれ。八巻さん。お疲れ」思い切ってテーブルに近付いていくと、同期の副操縦士、水無瀬君が私に気付き、ひらひらと手を振ってくれた。 それにつられて、氷室さんもこちらを振り返る。 彼が渋く眉根を寄せるのを横目に、私は水無瀬君に「お疲れ様」と返した。「八巻さんも休憩? よかったら一緒にどう?」同期入社の訓練生の中で一番早く副操縦士になった、将来有望なパイロット。 だけど、偉ぶったところのない、爽やかなイケメン。 ついこの間、同じく同期で本社の財務部勤務の望月理華と入籍したばかりの既婚者だけど、OCOの女性たちからも人気がある。 彼の気さくな誘いに、私は「うん」と言いかけて……。「い、いいですか? 氷室さん」氷
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第 16 話

「八巻さん、どう? 運航管理部は」水無瀬君がカップを口に運びながら、私に訊ねてくれる。「うん。今までの営業と勝手が違って、最初は大変だったけど……念願だったから、楽しい」私はそう返事をしながら、隣の彼を横目で窺った。 氷室さんは私が同席するのと同時に、黙々と箸を動かしていた。「氷室が指導してくれるなら大丈夫だよ。氷室、頼りになるし」水無瀬君は、にっこりと笑う。「ああ、うん。ほんと、氷室さんってすごくて……」さすがに本人目の前にして、他人に今までの塩対応を語るわけにいかない。 私は、曖昧に言葉を濁した。 水無瀬君は、氷室さんが無言で食事のペースを上げるのに気付いたのか、「ん?」と首を傾げる。「氷室、どうした?」「……別に」取りつく島もない返答に、戸惑い気味に眉をハの字に曲げて……。「ねえ。ふと気になったんだけど、どうして八巻さん、氷室のこと『さん』付けで呼ぶの?」「えっ?」いきなりの話題転換に、私はギクッとして聞き返した。「同僚で同期なのに、なんか違和感。仕事だからこそ、仲良くやろうよ」クスクス笑って言われて、氷室さんの反応を探る。 ――異動初日に、本人の拒否に遭った、とは言いにくい。言われなくても私だって、いくら手の届かない遠い遠い雲の上の人でも同期だし、和気藹々と、楽しく仕事できたらいいなと思っていた。『今日からよろしくお願いします。ディスパッチャーの氷室君にずっと憧れてたから、直々に教えてもらえるの、嬉しいです! あ、同期だし、氷室君って呼んでいい?』明るく挨拶した途端、彼の鋭い睨みに遭い……。 和気藹々と仕事をするのは、初日にして諦めた。 だけど、彼とも親しい水無瀬君もそう言ってくれるし、今ならこれまでの関係性にメスを入れることもできる……気がする。「ええと……氷室君って呼んでもいい?」質問したものの、返事が怖い。 背中に変な汗が伝うのを感じながら、私はぎこちない笑顔を浮かべて、氷室さんの答えを待った。 彼は一度食事の手を止めて、興味なさそうに私を一瞥して……。「昨夜のたった一回で、そこまで欲張る?」すぐにまっすぐ正面に向き直って、素っ気なく言った。「っ!」なにを匂わされたか、瞬時に理解が繋がり、私はひゅっと音を立てて息をのんだ。 一瞬にして呼吸が止まり、身体が固まる。 だけど、水無瀬君に、意
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第 17 話

その日は、一日通して大きなトラブルもなく、穏やかに遅番業務を終えることができた。 夜勤者への引き継ぎも滞りなく済み、私が帰り支度をしていると。「お先」氷室さんは右肩にひょいとリュックを背負い、椅子の背もたれに掛けていた上着を小脇に抱えて、デスクから離れていった。「あ。……お疲れ様です」休憩に入る時と同様、業務以外は塩対応継続――。 私はここでもがっかりして、肩を落とした。いや、でも、昨日までと比べたら、どう考えたって大きく一歩前進だ。 昨夜のアレで、彼が聞いてくれると言った願いは一つ。 渋々なのがわかりやすいけど、約束は守ってくれている。 一つ上手くいったからって、調子に乗ってあれもこれもと願う私は、確かに彼が言う通り欲張ってる……。「お先……失礼しまーす……」夜勤の同僚に尻すぼみの挨拶をして、私もオフィスを後にした。 従業員用のセキュリティゲートを通過して空港ターミナルから出て、地下にある電車のホームに向かう。 業務時間中はあんなにウキウキ張り切っていられたのに、仕事から離れると、帰宅の足取りは重い。「はあ……」電車の自動改札に定期券のICカードを翳して構内に入ると、無意識に溜め息が漏れた。ホームに下るエスカレーターに乗って、私はがっくりとうなだれた。 エスカレーターから降りると同時に、ぼんやりと前に顔を向けて、「っ……」思わず息をのみ、その場で足を止める。「ん?」すぐ近くの停車位置に立っていた氷室さんが、気配を察知した様子で首を傾げた。 そして、私とバチッと目が合うと、眼鏡のテンプルを指で摘まんで眉間に皺を寄せる。「追いつかれたか」「追いつかれた、って。同じ方向なのに、途中まで一緒に……とは思わないですか」反応を考えながら言い返す私に、ちらりと視線を流してくる。「昨夜の今日だし、そっちの方が気まずいんじゃないかと思ったんだけど。そんな繊細じゃなかった?」ひょいと肩を竦める様子に、私の胸がドキッと跳ねた。 まさか……業務以外では相変わらず素っ気ないのは、彼なりに私を気遣ってくれた……ということだろうか? 内心そわそわしながら、思い切って足を踏み出す。「氷室さんは、どうなんですか……?」彼の隣に並んでいいか、それとも、別の停車位置まで進むべきか……。 頭の中で天秤を揺らして迷い、結局勇気を出して隣で
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第 18 話

「え?」背を仰いで聞き返すと、氷室さんはまっすぐ前を向いたまま、「明後日」と繰り返す。「ええと……氷室さんと一緒のはずです。早番……」明日は、私も彼も公休だ。 そして、休日明けの明後日は早番勤務。と言うか、ほぼ同じシフトで組まれていることは今朝も言ったはずなのに、やっぱり全然心に留めてもらえていない。 がっかりしながらも、氷室さんの方から声をかけてくれたから、私は再び彼の横に戻った。「明後日、なにかあるんですか?」涼しい横顔を見上げて、そっと問いかけてみる。 氷室さんは、私には視線を向けずに「ん」と言って、上着を抱えた方の手をスラックスのポケットに突っ込んだ。「夜。予定空けておいて」「え……」意志とは関係なく、私の胸がドキッと跳ねた。 早番勤務後の、長い夜。 これは、お誘い? ――どういう……?「夜、ですか。ええと……」取ってつけたような言葉で間合いを取りながら、彼の意図を探って目を凝らす。でも、ほとんど表情の変化のない横顔から、彼の心を読むなんて、私には到底無理だ。「なんで、ですか?」降参して、答えを求めて訊ねてしまう。 氷室さんが、わずかに首を捻って私に目を落とした。 レンズの向こうでやや伏せられた目元が、どうしてだか艶めいて見えて、私の心臓はドキドキと騒ぎ出す。「帰してやれないだろうから」氷室さんはわずかに口角を上げて、しれっと答えた。「!」意味深を通り越して直情的な返事に、私の鼓動はひっくり返った音を立てた。 帰してやれない、って……。 胸元でバッグを抱える腕に、力を込めた。 その下で、私の心臓は、太鼓が乱れ打つような音を立てて高鳴っていく。無意識に、彼の言葉を奥深くまで深読みして、いやがおうでも昨夜の甘くふしだらな記憶がよぎった。 それは、私の頭の中で、くっきりと鮮明に色づいていく。「それって、どういう……」返事を警戒しながら、しどろもどろになって意味を問い返した。 氷室さんが、今度こそちゃんと、私の方にまっすぐ向き直ってくれた。 そして。「どうって、言葉通り。明後日は、帰さない」胸を張って、堂々と繰り返される言葉。「っ……」胸に浮かび上がった『予感』の輪郭が、私の中ではっきりと縁取られる。 理性のメーターが、大きく振り切ってショートした。私は三年ほど前から、羽田空港への通勤
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第 19 話

早番は午前五時半勤務開始と不規則だし、これで通勤に時間がかかると体力がもたない。駅から徒歩五分、十階建ての単身者専用マンションの五階。 三十平米のワンルームが、私の城だ。 決して広くはないし、万事快適とは言えないまでも、千葉にある実家から毎日通うことを考えれば、十分天国。自分の部屋に帰り着いた途端、一日の仕事……いや、昨夜から丸一日の疲れが、肩にドッと降りてきた。 真っ先にエアコンを点けると、ほとんど脱力気味に床にペタンと座り込んだ。 ベッドに寄りかかって、低い天井を仰ぐ。「……ふーっ」頬を膨らませて、唇から吹くように息を吐く。 意味もなく辺りに目を走らせてから、抱え込んだ膝に額を預けた。――さっきのアレは、どういう意味で捉えればいいんだろう……。『明後日は、帰さない』駅のホームで氷室さんに言われた言葉。 気にしないようにしたいのに、自分自身が『考えるな』と強く念じているせいで、事あるごとに思考回路の真ん中にしゃしゃり出てくる。夜……どうしても、昨夜のことを連想してしまう。 滝汗を掻きそうなほど、恥ずかしくて堪らない出来事。 仕事に集中することで、オフィスではなんとか普通の顔をしていられたけど、氷室さんの隣の席で、内心ドキドキだった。氷室さんの方は、私とは真逆で、まったく平然としていた。 でも、まさか……そういうお誘いだろうか。思考が深まるにつれ、静かに確実に鼓動が騒ぎ出す。 それに伴って、全身が火照って熱くなる。 私は頭を起こして、無駄に手の平をひらひらさせて、頬に風を送った。昨夜のは、酔った勢いで私が仕掛けて、氷室さんは乗っただけ。 でも、私の深読みが間違ってなければ、正常な思考回路のもと、彼の方から『二度目』のお誘いということ。 さっき、駅のホームで匂わせた『気遣い』も、彼の方こそ繊細に、私を意識していたから、だったりして……。単なる勘違いで自惚れては、恥ずかしい。 だけど、あんな意味深に言われたら、どうしたって気になって、明後日の夜のことばかり考えてしまう。明日はシフト狭間の公休。 公休明けに早番で出勤したら、その夜、また、昨夜のように――。「〜〜っ!」火を噴く勢いで、顔が茹る。 周りに人がいないせいで、妄想ばかりが逞しく膨らむ。一人ジタバタしそうになって、私は人の声を求めてテレビを点けた。
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第 20 話

昼間、氷室さんが言っていた、まさにそれだ。『台風十三号は、予想よりやや北寄りに進路を変え、明後日夕刻には沖縄に上陸する可能性が高くなっています』「え……」私は、思わず身を乗り出して、天気図を凝視した。翌々日、公休明け。「台風十三号ですが、急速に発達していて、予報より速い速度で沖縄に接近しています。午後の那覇空港発着便は全便欠航を予定しておりますが、九州便にも影響が出る可能性があります。フォロー願います」早番業務開始前のミーティングで、国内長距離線担当チームのリーダーの言葉に、私はゴクリと唾を飲んだ。 この三ヵ月、私は運がいいのか悪いのか、台風や大雨といった悪天候の中、業務に就いたことがない。 先輩たちから、荒天時がどれほど大変かは聞いているけれど、みんなが右往左往するOCOを、初めて見ることになるかもしれない――。とは言え、台風十三号は沖縄に上陸した後、中国大陸に向かって北上する見込みで、私たちが担当する短距離線のフライトは予定通りだ。 午前中のうちは、氷室さんも、いつもと変わらず淡々と仕事をこなしていた。ところが、正午を過ぎて、状況が一変した。 那覇空港周辺の天候が予想を遥かに上回る早さで悪化し、午前中に羽田を発った飛行機が、着陸できない事態に追い込まれたのだ。台風が沖縄を通過する、午後六時までの那覇発着便は全便欠航。 すでに離陸済みの那覇便を着陸させる代替空港確保のため、他の九州便、四国中国便を減便して、対応することになった。私たち早番の終業時間が近付いても、九州地方のフライトレーダーでは、他社便も含めて、多くの着陸待機便が確認できる。 デスクの横を通り過ぎていく、ディスパッチャーと運航支援者のキビキビとやり取りする声が、私の耳に届いた。「那覇16便の燃料どうですか? 福岡までダイバートできます?」「う~ん……沖縄でドッグ入りの予定だったから、燃料余分に積んでないんだよね。福岡までは厳しいかな。16便は、鹿児島が空くのを待ってホールド。旋回待機続行させた方が安全だな」燃料は、多く積めばいいというわけではない。 飛行機は着陸の衝撃に備えて、最大着陸重量が定められていて、着陸態勢に入る前に、機体重量を制限内に抑えなければならない。 燃料が余った状態で着陸できないため、無駄にならない量を計算して、フライトプランは作られている。
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