All Chapters of 地上のパイロットは同期の私に塩対応が過ぎる: Chapter 61 - Chapter 70

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第 61 話

――ふわふわする。 頭も、身体も。 微かな振動を受け、ゆらゆら揺れる。「う、ん……」私は、夢と現の狭間で、呻いた。「……むろ、く」ぼんやりと口にした名前。 それが、夢の中だったか、現実で口を突いて出た寝言かも判断できない。 自分の身体の感覚も思考も、酷くぼんやりして、曖昧で心許ない。だけど、ただ一つ。 胸に当たる硬い感触が、とても温かく心地よかったから、今自分がどんな状況にあったとしても、不安はなかった。「くん、の、バカ……」重い意識の中、なにも恐れることなく、心のままに唇が動く。「意地悪。鬼。冷酷非道。人でなし……」ポッと浮かび上がる罵詈雑言を、意味を考えることもせず、つらつらと口にする。「思わせぶりな、スケコマシ。遊び人。女の敵。……さいてー」最後はむにゃむにゃと言って、口を噤み……。 ……そんな男でも、私は――。「……好き……」――だから、私も。 あの人みたいに、『穣」って呼びた……。 ……――。「寝言のわりに、随分とこき下ろしてくれるな。今度はどんな夢見てるんだ?」突然、刺々しい低い声に、ふわふわした意識を切り裂かれた。 鼻をギュッと摘ままれる感触。 ――息苦しい。 一拍分の間の後、鼻呼吸ができないのを自覚して、「ん、むっ!?」私は、ぷはっと口を開けた。 浜辺に打ち上げられた魚みたいに、口をパクパクさせて酸素を取り込む。目蓋の裏が白く明るいのに気付き、バチッと目を開けた。 途端に降り注ぐ、黄金色の明かり。 私は「うっ」と呻いて、目を眩ませた。何度か瞬きをして明かりに慣れると、真上から降ってくる影にも意識が向いた。 うっすら白い膜がかかった視界で、必死に焦点を合わせ――。「……。……氷室、君っ!?」不機嫌そうに眉を寄せる、作り物みたいに整った顔を認識して、私は弾かれたように飛び起きた。 途端に襲ってくる頭痛と眩暈に、「う」と額に手を当てる。「やっと気がついたか」溜め息が聞こえる方向に、ぐるんと顔を向けた。 氷室君はノーネクタイで、白いシャツの第二ボタンまで開き、シャープな鎖骨ラインをチラチラさせている。眼鏡をかけていなかったから、頬骨あたりの泣き黒子が目に入り、条件反射でドキッとして……。「えっ!? こ、ここここ、ここどこ!?」私は、ひっくり返った声をあげ、忙しなく辺りを見
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第 62 話

『仕方ないだろ』と言われても――。 何故、私が氷室君の家に連れて来られる事態になったのか、まったく理解が追いつかない。 落ち着きなく、ソワソワと視線を走らせる。 氷室君はとてつもなく苦い顔をして、ザッと前髪を掻き上げた。 「昨夜のこと。あんた、どこまで覚えてる?」「え。昨夜って……」私は、おどおどと、彼に目を向け直した。 氷室君は長い足を組み上げ、膝に肘をのせて頬杖をつき、私をジッと見据えている。 そんな視線に、ドキッとしながら……。「……もう、朝?」恐る恐る問いかけると、もう何度目かの溜め息を返される。「少なくとも、鶏が鳴く時間で正しい」「って、昨夜? 昨夜って……あ」朧気ながら、記憶の断片が脳裏に浮かび上がる。 昨夜――。 遅番の仕事が終わって、空港を出るところで瞳と会った。 途中で、氷室君と立花さんを見かけた。 私は、二人の親密な様子がショックで、泣き出してしまい……。「仕事帰り……に、瞳と飲みに行って、それで……」――記憶を、辿れない。「今野さんの話じゃ、さめざめと泣きながらピッチ早く飲んで、酔い潰れたそうだよ。どうやって電話番号知ったのか疑問だけど、すごい剣幕で俺に電話してきた」「えっ!?」「『こうなったのは氷室君のせいだから、責任もって介抱しなさい』って。なにが俺のせいかも説明せずに。ったく……なんで俺が、二日も連続であんたの世話しなきゃならないんだか……ただただ謎」私の中で、サーッと血の気が引いていく音がした。 なんとなく理解が繋がった。 私が酔い潰れたのは、確かに氷室君のせいだ。瞳に彼への想いを見透かされ、お酒の勢いもあり、つらつらと恨み節で語った。 ――その途中から、記憶がない。ほどよいエアコンが効いた室内。 暑くもないのに、変な汗が背筋を伝う。「え……ええと……」弁解の言葉を探しても、なんにも浮かんでこない。 氷室君は私の答えを待って、じっとりした視線を送っていたけれど。「……まあ、無理矢理言わせなくても、無意識下の罵詈雑言でなんとなくわかった」足を組み替えて、腕組みをする。「え?」「タクシー降りて、部屋までおぶってきたんだけど。あんた俺の背中で、人のこと随分と詰ってくれた。バカ、冷酷非道。人でなし」「!?」「スケコマシ。遊び人。憤慨したいところだけど、あんたに言われる
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第 63 話

自虐的に揶揄されて、思わずカッとする。「違う……そうじゃない。そうじゃない!」弾かれたように腰を浮かせ、ベッドの上で正座した。 氷室君は相変わらず涼しい瞳で、いきり立つ私を底意地悪く観察している。「私、氷室君を信じてる。立花さんと縁り戻すなんて思ってない……!」私は絡みつく視線を振り解くみたいに、両肘を抱えてブルッと身を震わせた。「……ふーん」氷室君は目を細め、鼻を鳴らした。 ベッドに片腕を突いて、ギシッと軋んだ音を立てる。「じゃあ、なんで?」身を乗り出し、わざわざ目線を合わせて畳みかけてきた。「なんで、って……」私は背を反らして彼との間隔を保ちながら、グッと口ごもった。 また意地悪に巧妙に、言わされるだけかもしれない。 だけど――。「……け、ないの」「え?」掠れた上に、喉に引っかかった声に、彼は眉根を寄せて聞き返してきた。 私は一度唇を噛み、思い切って顔を上げると。「信じてるけど、嫌だって思っちゃいけないの!?」振られてからもずっと、心の奥底で燻らせていた想いを迸らせた。「私は氷室君の彼女でもなんでもないし、文句は言えない。非難もできないけど、それでも嫌だって……もう会わないでって思って、なにが悪いの!?」面を伏せ、激しくかぶりを振って怒鳴った。 両手でシーツをギュッと握りしめ、唇を戦慄かせる。「言わせてくれないし、聞きたくないとも言われたけどっ。ひ、氷室君、私の気持ち知ってるくせにっ……」興奮して、我を忘れて口走る途中で、私は声をのんだ。 大きく目を瞠り、開けた視界いっぱいに、彼の綺麗な顔が映り込む。 近すぎて輪郭もぼやけるけど、唇を食まれる感覚だけはやけにリアルだった。 この感触と温もりを忘れられるほど、時間は経っていない。嫌でも、鼓動は煽られる。 胸がきゅんと疼いて締めつけられて、息苦しい――。 やがて、氷室君の方から、顎を引いて唇を離した。「……なんで、キス?」私は呆然として、自分の胸元で服をギュッと握りしめる。「…………」氷室君は、返事をしない。 まだすぐ目と鼻の先で、私と目が合うのを避けるように、顔を伏せる。「夏バテしないかって心配してくれたり。試験勉強、教えてくれたり。き、昨日も抱きしめられた。私が酔い潰れたって、ほっときゃいいじゃない。なのに、二日連続でお世話してくれるとか……
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第 64 話

「昨夜立花さんと会った理由は、弁解しておきたい。縁り戻そうなんて考えないし、もちろんなにもしてない。ただ、ちゃんとまっすぐ目を見て、断らなきゃって思ったから」氷室君は私をまっすぐ見つめて言い切ると、スッと手を引っ込めた。 私は、彼の手の温もりを閉じ込めるかのように、自分の頬に手を当て……。「氷室、く」戸惑う私の前で、氷室君は肩を動かして大きく息を吐く。「俺、さ。あの人と顔合わせる度に、感情揺さぶられて……今までずっと、冷静に話せなかったんだ」目を伏せ、淡々と切り出す彼に、私の胸がドキッと跳ねた。「あの人がなにを考えてるのか、理解できなくて。あの人のこと考えすぎて、まだ好きだったのかって、錯覚起こすくらい混乱してた。でも、違う。俺は、あの人にそういう気持ちはもうないから……今の俺の気持ちを冷静に伝えれば、納得してくれるんじゃないか、って」淡々と続ける彼を、私はジッと見つめた。「なんで……急に?」思い切って、質問を挟む。「この間、食堂で会った時もそうだったけど、氷室君……どっちかって言うと、立花さんのこと持て余し気味で……打てども響かずな態度で、彼女が諦めるのを待ってる感じだったのに」言い回しを考えながら続けると、氷室君はやや自嘲気味に口角を上げた。「否定しない」「なら、どうして……?」私は、彼の綺麗な横顔に目を凝らした。返事を待って、緊張からか、鼓動がドキドキと速まっていく。 氷室君は、唇をきゅっと真一文字に結んで……。「あんたが言ったから」「っ、え?」「俺はあんたが憧れるディスパッチャーで、なにがあっても変わらないから、どんな形でも目標にしたい、って」――そう言った時、『ありがとう』と言われた。 いきなり抱きしめられて、耳元で囁かれたことまで思い出し、カアッと頬が火照る。「あ、あの……それで、どうして」目を泳がせながら、彼の言動の意味を問いかけたものの――。 ここまでの思わせぶりな態度のせいで、自分に都合のいい方向にしか思考が働かない。 どうしても……彼からの答えを期待してしまう……。自分でもわかる。 私は今、自分の表情を統制できていない。 多分、ものすごく複雑で微妙な顔をしていたんだろうけど、視界の端で窺うようにしていた氷室君は……。「……くっ」睫毛を伏せ、小さな笑い声を漏らした。 そもそも、彼が『笑う
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第 65 話

さらりと答えられ、ひゅっと喉を鳴らして息をのんだ。 それは紛れもなく、立花さんが彼を名前で呼ぶのを聞いた時から、私が心の奥底で願っていた、欲張りな欲求。 彼への罵詈雑言と一緒に、心の声として漏れていたことを察する。「~~……!」今さらながら、お酒に潰れた自分を深く恥じた。 勢いよく頭から布団を被り、身を縮めて丸くなる。ハリネズミみたいになった私を、氷室君がどんな目で見ているかはわからないけれど……。ギシッとベッドが軋む音がした。 微かに空気が揺れ、彼が立ち上がった気配を感じる。「今日、そっちも休みだろ。車で送る。支度して」相変わらずの素っ気なさで促す声の後、ドアが閉まる音がした。 氷室君が寝室から出て行ったのを感じて、私は布団から顔を出した。二日連続――。 言われるまでもなく、彼に相当な迷惑をかけた自覚はある。 今後、塩を通り越して、ブリザード級の冷たい対応に出られても、文句の一つも言えないくらい。なのになんか……氷室君が、優しい……!? 今までが今までなだけに、ほんのちょっぴり態度が軟化しただけで、私のお手軽な思考回路は、彼を優しいと変換してしまえるんだろうか。「氷室君。……穣……」ドキドキとうるさい心臓の音から意識を逸らし、許可を得たばかりの名前で呼んでみる。「穣……」彼の名前を紡ぐ自分の唇を、無意識に指でなぞって……。「っ……」じわじわ来る嬉しさと猛烈な照れの極致で、胸がきゅんと疼いてときめく。 私は、膝を抱え込んで小さくなった。お盆時と言えど、まだ夜が明けて間もない東京の街は、道路渋滞もない。 東の空に昇った金色の朝日ばかり眺めていたら、せっかくの氷室君とのドライブが、あっという間に終わってしまう。彼が一人で暮らすマンションは、空港から私と同じ路線で、一駅手前という近距離にある。 私は、愛車の黒いVOXYを運転する彼をチラチラ見遣りながら、今だけは、もう少し遠い街で一人暮らししていてもよかったな、なんて現金なことを考えた。走り出して五分ほどして、交通量の少ない広い国道で赤信号に捕まり、氷室君が静かにブレーキを踏んだ。 ほとんど振動もなく、スーッと滑らかに停止線で停まる、丁寧なブレーキング。 私は、運転席の彼をそっと窺った。いつものスーツとは違う、カーキ色のTシャツと白いスラックス姿が、カジュアルで
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第 66 話

一人、地味に葛藤する私に、「なに。ジロジロと」氷室君がハンドルに右手を置いたまま、ちらりと横目を流してきた。「っ、え?」私は一瞬ギクッとして、反射的に胸元に手を当てた。「言いたいことがあるなら言えば?」わずかに眉根を寄せて言われて、心臓がドキッと跳ね上がる。 私の葛藤、バレバレだった……。「ごめんっ」私は助手席のドアギリギリまで、飛び退いた。 氷室君はまっすぐ前を向いたまま、これ見よがしな溜め息をつく。「聞いてやるから、言って。運転中に、そんな熱い眼差しで見られると、気が散る」「う……。ごめん」だけど、『聞いてやる』と言ってくれたのは好都合だ。 早速、氷室君を名前で呼ぶチャンス……! 『氷室さん』から『氷室君』に変えた時の、何倍も緊張する。「それじゃあ、あの……穣、君」その上、何十倍も照れ臭くて、記念すべき第一声は、あの時と同様、たどたどしくなってしまった。 氷室君はまたしても表情も変えずに、私を冷ややかに見て、呆れているだけ……かと思いきや。 何故だか、ブルッと肩を震わせた。「? ど、どうかした?」予想外の反応に、私までつられて身を竦める。「……こそばゆい」氷室君は大袈裟に首を縮めて、左手を口元に運んだ。「なんだよ、『穣、君』って。いいよ、敬称略で」口を覆った大きな手にくぐもってしまうけれど、私は身を乗り出して聞き拾った。 眼鏡のリムの下、頬骨のあたりが、ほんの少し赤く染まっているのに気付く。「もしかして……照れてる?」ギロッと睨まれる覚悟で、ツッコんでみた。 氷室君は、一瞬動きを止めて固まって……。「照れてない。ゾワッときただけ」運転席側の窓の方に、プイと顔を背けてしまった。 この反応……十中八九、『照れてる』で間違いない。「いや、でも……ほっぺ、赤いよ?」いつもなら絶対にできないけど、私には妙な確信があって、彼の頬を人差し指でツンと突いてみた。 途端に、「うるさい」鬱陶しそうに手を払われたものの、慌てて引っ込めるには至らない。 人差し指を彼の方に向けたまま、次の反応を待っていると。「……はあ」氷室君は、忌々し気に溜め息をついた。「たいていの人間は、『氷室君』か『氷室』。下の名前で呼ぶのは、そこそこ親しい友人。そういう人間は、わざわざ『君』なんてつけない。そんな風に呼ぶの、子供の
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第 67 話

嬉しくて胸を弾ませた時、車内にスマホの着信音が鳴り響いた。 無機質な電子音は、私のものではない。 氷室君のスラックスのポケットから、聞こえてくる。私も彼も、ほとんど同時にそこに目を落とした。 スマホの振動を感じていたのか、氷室君は不快気に顔を歪めた。 でも、着信を続けるスマホは放置して、サッと前を向く。 運転中だから、スマホを手に取って、相手が誰かを確認しない。着信音は、鳴りやまない。 涼しい横顔だけど、彼も気にしているはず。「車……停めていいよ?」私が声をかけると。 氷室君はわずかに逡巡した後、「ちっ」と小さく舌打ちして、左のウィンカーを出した。一番左の車線まで移り、路肩に車を停めると、スラックスのポケットからスマホを取り出す。 モニターに目を落とし、やや硬い表情を浮かべる。 それを見ていた私の脳裏に、私と同じように、彼を名前で呼ぶ女性の姿がよぎった。「……立花さん?」氷室君は私の質問には答えず、無言で着信を拒否して、スマホをポケットに捻じ込んだ。 着信音がやみ、車内はしんと静まり返る。 答えてくれなくても、わかりやすい。「あの……穣。昨夜、立花さんとは……」私が遠慮がちに訊ねると、無言でフロントガラスに目線を戻し、右のウィンカーを出した。 後続車はなく、なんなく走行車線に戻り、速度を上げていく。 私は、返事を待っていたけれど……。――やっぱり、この話は立入禁止か。 諦めて、俯いた。 だけど。「途中でほっぽって来たから、蹴りがついたんだかどうだか、よくわからない」返事をしてもらえて、弾かれたように顔を上げる。「ほ、ほっぽって……?」「誰かさんのせいで、呼び出されたから」まっすぐ前を向いたまま皮肉げに言われて、私は「う」と口ごもった。「多分その電話だろうから、後で折り返す」「重ね重ね、すみません……」首も肩も縮めて、消え入りそうな声で謝ると、ふんと鼻を鳴らして返された。「まあ、いいよ。もともと、そういう気になったのは、あんたのせいだし」「……え?」なにか意味深なことを言われた気がして、私の反応は一拍分遅れた。 詳しい説明を求めて、彼の横顔に目を凝らす。 氷室君は、視界の端で私を捉えているようだ。 だけど、求める説明はしてくれず……。「あんたって、バカだな」「は?」なんの脈絡もなくディ
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第 68 話

なんとなく助手席側の窓の方に顔を向けて、車窓の風景が見慣れた街並みに変わっていることに気付いた。 もう、あと五分もしないうちに、私のマンションに着いてしまう――。少しずつ。 少しずつでも、氷室君の心に近付けている自信はある。なのに、一番言いたいこと、聞きたいことは、拒まれるのを怖がって躊躇している。『なんでそんなに、俺が好き?』考えてみれば、私はちゃんと告白できていないのに……とか、思うところはあるけれど。 そんな質問にも狼狽えてしまう、不器用な自分が初々しい。 まるで、中学生の頃の、淡い初恋のよう。 実際は初々しくも淡くもない、一線を越えた大人の関係だというのに、この矛盾が焦れったくてもどかしい……。彼の意地悪な質問に私が答えられないまま、会話は途切れた。 それから間もなくして、カーナビの音声が終了して――。 キッと甲高いブレーキ音を鳴らして、車が停まる。「ここ?」氷室君が、フロントガラス越しにマンションの外観を眺めて、訊ねてきた。「うん、そう。送ってくれて、ありがとう」彼のマンションから、たった十五分足らずの初ドライブが、終わってしまった。 結局、大した会話もしてないし、聞きたいことも知りたいことも、全部曖昧なまま。 名残惜しい思いもあるけれど、これ以上続いたら私の心臓がもたない。氷室君はハンドルに預けた両腕に顎をのせ、私に横目を流している。 彼の視線を感じてドキドキしながら、私は伏し目がちにシートベルトを外した。「それじゃ、また……」高鳴る胸が苦しくて、彼の方を見られないまま、助手席側のドアに手をかける。 と、その瞬間、後ろからグッと肩を掴まれ――。「っ、え?」力任せに振り向かされて、驚いて目を瞠った。 氷室君は眼鏡をスッと抜いてインパネにのせると、どこかもどかしそうに自分のシートベルトを外して、私の方に大きく身を乗り出してくる。「じょ……」とっさに彼の名を口にしようとした唇は、途中で彼のそれに塞がれていた。 大きく見開いた目に、伏せられた長い睫毛が映り込み、ドクッと心臓が沸き立つ。「んっ、じょ、穣っ……」グイグイと踏み込んでくる彼に、ほとんどドアに押さえつけられるような格好で、私は背筋をゾクッとさせた。 さっきとは全然違う、明らかな情欲が感じられるキスに、嫌でも身体が戦慄いてしまう。「待っ……
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第 69 話

いったい、どれくらいの間、そうやってキスを続けていたか。 お互い息を乱しながら、氷室君の方から唇を離した。 生理的な涙が滲んだ瞳で彼を見上げる私から、ふっと目を逸らし――。「どうせ、『どうして』って聞かれると思うから、先に言っておく」「え……?」「今、すごく抱きたい。あんたのこと」「……!!」氷室君らしくない直情的な言葉に、私はひゅっと喉を鳴らして息をのんだ。 彼の欲情を真っ向から浴びているのを自覚して、カッと顔が茹る。「でも、理性総動員して、抑えてる。同じこと二度繰り返すって、大人としてどうかと思うから、ちゃんと問題片付いてからにする」「~~っ……!!」意味深の域を、完全に通り越している。 これを口説かれてると言わずに、なんと言うの……!?それでも、今までのことを走馬灯のように思い出す。 『いや、自惚れちゃいけない』と言い聞かせる自分と、心の中で地味に葛藤していると。「ここは自制するから。あんたも、手、放して」「え? 手……」「放してくれないなら、俺も好き勝手に触るけど」「……!」氷室君が下げた目線につられて、彼の胸元にしがみついたままだったことに気付く。 意地悪にからかいながらも、やっぱり欲情を憚らない言い草にギョッとして、私は勢いよく両手を放した。「……ふっ」氷室君が吐息交じりに笑って、ゆっくり身体を起こす。 運転席に戻り、シートベルトを締め直すのを見て、私は急いでドアを開け、飛び降りるようにして地面に立った。心臓はバクバクと爆走している。 辛うじて早朝だという意識が働き、できるだけ静かにドアを閉めようとすると。「またな」その隙間から声をかけられ、ピタッと手を止めた。 道路に立ち尽くし、運転席の彼を見上げる。 氷室君は、ちらりと私に視線を下ろし……。「じゃ」「う、うん」短く促されて、私は慌てて、しっかりとドアを閉めた。 氷室君も、ハンドルから身体を起こす。 ハザードランプが消え、ブレーキが解除された車から、私は大きく二歩離れた。 ゆっくり走り出す車を目で追いながら、「……また、ね」彼がしてくれた挨拶を、反芻する。 彼の黒いVOXYが、角を曲がって見えなくなるまで見送って――。「っ」彼の感触と温もりを刻みつけられた唇を手で押さえ、早鐘のような鼓動を鎮めようと努力した。
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第 70 話

お昼過ぎに瞳からLINEをもらい、あの後の大まかなアウトラインは報告した。 でも、散々迷惑をかけてしまったし、ちゃんと謝罪とお礼をしておかなければ……。『今度、時間合わせて会えないかな』それには、『OK!』と、指サインのスタンプが返ってきた。 お互いシフト勤務の上、瞳は毎日東京に帰ってくるわけではない。 彼女とは、それから一週間後の八月下旬に、空港の職員食堂で会う約束をした。公休明け、私は新任運航支援者フォローアップ研修のために、五日間本社勤務で、氷室君……穣と勤務は別々だった。 間に公休を挟んで迎えた、瞳との約束当日。 一週間ぶりにOCOに出勤すると、穣の方が公休で不在だった。結局、瞳との約束までに、彼と話すことはおろか、顔を見ることもできなかった――。 LINEで伝えた以上のことは、なにも報告できない。お盆のハイシーズンが過ぎ、私たちの業務もだいぶ落ち着いていた。 でも、世間はまだまだ夏休みで、業界的にはオンシーズン。 お昼のピークを過ぎても、食堂に出入りする職員は多い。 私はミートソーススパゲティをのせたトレーを持って、キョロキョロと辺りを見回しながら、奥まで進み……。「藍里、こっち!」大きな柱の影になるテーブルに、CAの制服をビシッとカッコよく着こなした瞳がいた。 座ったまま身を捩って振り返り、手を上げて合図してくれる。 彼女はフライト合間のブレイク中で、三十分だけ時間を取ってくれていた。「あ」私はやや急ぎ足で、彼女の方に急いだ。 その向かいの席に、作業服姿の短髪の男性がいるのを見留めて、少し手前で足を止める。「お疲れ様、八巻さん」私に向けてくれる、素朴で屈託のない笑顔。 同期の航空整備士、佐伯君。瞳の彼だ。「えっと……お疲れ様」私はテーブルの側まで歩いて行って、同じ労いを彼に返した。 佐伯君も昼食休憩のようだけど、食事は終わっているようだ。 彼の前のトレーには、綺麗に空になったプレートがのっている。「ごめんね。充とは、偶然会っちゃって」瞳が、私に向かって両手を合わせる。「ううん。ええと……私、今日は遠慮しようか?」佐伯君は私もよく知る同期だけど、せっかく恋人同士で休憩中なのに、割って入るのは気が引けた。 若干腰を引かせて気遣うと、瞳が「なに言ってんの」と頬を膨らませる。「変な
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