Tous les chapitres de : Chapitre 41 - Chapitre 50

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第41話

「社長!」「……」それからというもの、有真は昼休憩に毎回忠嗣の元へ行くようになっていた。ちょっと前まで彼だけの秘密の空間だったその場所は、いつからか一人増えた。有真は飲み物を片手に、忠嗣の横顔をチラリと見上げた。(やっぱり……私、彼のことを好きになっているんだ……)ずっと気付かないフリをしていたが、ここまで来たら認めざるを得なかった。有真は忠嗣に惹かれている。二十も年上で、それも子供のいる男性に恋をするだなんて。こんな恋愛は初めてだった。彼といると胸がドキドキして落ち着かない。そういえば、入浴剤をあげたあの日から、彼の目の下のクマがほんの少しマシになっているような気がする。「社長、最近は眠れているようですね」「……以前よりはな」その返事を聞いた有真は安心した。忠嗣は仕事をしすぎて、いつか過労死してしまうのではないかと有真は心配していたからだ。彼女はほとんど表情が変わることのない彼の顔をじっと見つめた。何の感情も宿していないように見える、虚ろな目から有真はほんの僅かだがある思いを読み取ることができた。(どうして……)――すごく、寂しそうに見えるんだろう。***九条忠嗣と前妻・美佐子の出会いは約三十年前のことだった。美佐子は若い頃、モデルとして芸能事務所に所属していた。世間に名を知られるほどの有名人ではなかったものの、その美しさから雑誌内では人気モデルとなっていた。美佐子の所属する芸能事務所は、忠嗣の知り合いの社長が経営していた。社長の紹介で二人は出会い、美佐子の猛アタックにより交際することとなった。忠嗣は美しく、自分への気持ちを隠すことなくハッキリ伝えてくる美佐子に好感を抱いていた。彼は彼女を愛していた。しかし、美佐子のほうは純粋な愛情から彼に近付いたというわけではなかった。幼い頃、貧乏な家庭で育った彼女は、何が何でもお金持ちと結婚したいという願望を強く持っていた。彼女は二十を過ぎたあたりから夜の街へ頻繁に行くようになり、ハイスぺックな男性が集まる場所を多く訪れた。そんな彼女の新たなターゲットになったのが、忠嗣だった。当然、彼は彼女のそんな気持ちなど知る由もない。交際してから二年、二人は結婚した。美佐子の希望で結婚式は盛大に行われ、指輪もハイブランドのものを用意した。その三年後に娘の香織が生まれてからは、美佐子も夜遊びをや
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第42話

忠嗣にとって、有真はこれまで出会ったことのないタイプの人間だった。社長である自分に臆することもせず、周囲と同じように明るく気さくに接する。離婚してからというもの、彼に近寄ってくる女といえば財産や地位目当ての者ばかりだった。そのたびに美佐子の言うことは間違いではなかったのだと、彼は悟った。(当然だ、私ですら自分を好きにはなれないのだから……)自分でもわかっていた。たった一人の娘すら大切にできない男は、誰からも愛されなくて当然だ。忠嗣はずっとそのように考えていた。そんなある日のこと、有真が彼に意外なことを尋ねた。「社長、どうしてそんなに悲しそうな顔をしているんですか?」「…………何だと?」突然何を言い出すのか、忠嗣は眉を上げた。しかし、有真はそんな彼を前にしても怯まなかった。「私には、社長がすごく寂しそうに見えるんです」「何を馬鹿なことを……」忠嗣は不快そうな顔をしていたが、完全に否定することはできなかった。有真の言う通り、彼がずっと一人で寂しさを感じていたのはたしかだったからだ。(……お前にはわかるのか)忠嗣は心配そうに顔を覗き込む有真をじっと見つめ返した。ここまで無礼に物申す社員は初めてかもしれない。彼は思わず笑みを零した。――だけど、彼女のその気遣いが、今は何故か嬉しかった。誰も気付くことの無かった忠嗣の心の闇に、有真だけが気付いたのだ。その瞬間、彼は彼女に特別な感情を抱くようになった。この日を境に、二人の関係は大きく変わっていった。***それから三年後に、忠嗣と有真は結婚した。有真は美佐子と真逆の女性で、再婚だからと式も望まなかった。庶民的で、慎ましい女だった。忠嗣は彼女になら、自分が仕事で忙しい間香織を任せられるとも思った。有真も当然、香織とは親しくしたいと思っていた。何より香織は愛する彼の大切な娘だったから。「香織さん、おはようございます」「……」香織は突然継母となった有真になかなか心を開かなかった。それどころか、有真に関する事実無根の噂を流されることもあった。しかし、それでも彼女は諦めなかった。母親が家を出て行き、父親とも疎遠になっていた彼女の辛さを知っていたからだ。彼女がどれほど自分を毛嫌いしようとも、かまわなかった。それから香織は結婚を機に家を出て行き、忠嗣との連絡を断つようになった。彼はそのことに寂しさを
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第43話

香織が有真から忠嗣の話を聞いていた頃。亮太は日菜乃と共に羽川家にいた。彼の記事が週刊誌に掲載されてからというもの、二人は近隣住民たちからの軽蔑の目に晒され、あまり外へ出ることが出来なくなっていた。「クソッ……何故俺たちがこんな目に……!」亮太は部屋で香織への怒りを募らせていた。ちょっと前までは全てが完璧だった。会社に利益をもたらす女を本妻として迎え、指一本触れることなく、愛する女との間に子供を作った。そうすることで、彼は全てを手に入れることができた。香織と日菜乃。どちらも亮太にとってはそう簡単には切り捨てられない存在だった。(俺たち家族の幸せのために……あの女には犠牲になってもらっていたというのに……!)ついさっき、香織の父親から離婚を言い渡された。このまま離婚となってしまえば、亮太が妻へのDVを認めたも同然だ。そうなれば、これまで彼が築き上げてきたものが一瞬で崩れ去ってしまう。(ここにはいられなくなるかもな……)最悪の場合、日菜乃と朱里を連れてどこか遠くへ行かなければならないかもしれない。亮太は荒々しい手で髪をかき上げた。(クソッ……何故こんな面倒なことに……)元はといえば、香織が週刊誌に暴露するからこのようなことになるのだ。そのせいで、今では好きに外を歩くこともできないではないか。亮太の脳裏に、離婚した香織が別の男と再婚して幸せになっている姿が浮かんだ。その姿を想像した瞬間、彼の中で底知れない怒りが沸き上がってくる。いや、そんなことあってはならない。俺たちをどん底に突き落としたあの女がのうのうと幸せを享受するのだけは、絶対に許せない。亮太は香織が幸せになるのだけは何が何でも阻止したかった。「――社長、落ち着いてください」「日菜乃……」怒りを抑えきれない様子の彼の肩に手を触れたのは日菜乃だった。聖母のように慈愛に満ちた笑みを浮かべていたが、亮太は何故か彼女の笑顔にゾッとした。日菜乃は亮太の耳元に、真っ赤な唇を近付けて囁いた。「――私たちが心配する必要はりません、あの女はもう終わりです」「……!」彼女の言葉に、亮太はニヤリと口角を上げた。彼はすぐに機嫌を直したようで、日菜乃の腰を抱いた。「ああ、そうだったな。すっかり忘れていたよ」「もう、社長ったら。こんなに大事なことを忘れるなんて」日菜乃は彼の首に腕を回した。彼女は
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第44話

有真と話をしてから数日後。香織は父親の書斎へと向かっていた。今日は休みの日だというのに、家でも相変わらず仕事をしているようだ。忠嗣の仕事人間っぷりは今に始まったことではなかった。(有真さんはホンット、よくあんな人と結婚したわね)まぁ、男の趣味で言えば前世の香織のほうが百倍悪いが。そのことに気付いた香織は思わず笑みを零した。前世の自分はとても愚かだった。認めざるを得ない。香織は父親の書斎の扉をノックし、中に入った。「失礼します、お父さん」「…………香織?」突然部屋を訪れた娘を、忠嗣は驚いたように見つめた。彼はいつもきちっとしたスーツを着ているが、今日は白いシャツにズボンと軽装だった。忠嗣は書類を手に持ったまま、固まっている。香織が仕事中に彼の元を訪れたことは初めてだった。彼女は別に忠嗣を避けていたわけではなかった。ただ、仕事中に行くのは迷惑になるだろうと遠慮して行かなかっただけだ。「……お茶を持ってきました」「……」その言葉に、忠嗣は彼女が持っていた紅茶のティーカップに視線を移した。(……前世では亮太のために猛練習していたけれど、結局一度も飲んでもらえなかったわね)香織は前世で亮太のためにあらゆる花嫁修業をしていたが、結局どれも役に立つことはなかった。亮太は彼女の作った料理や淹れたお茶は絶対に飲まなかったし、邸宅の中を歩き回られるのも困るからと家政婦を雇っていた。そのときに培った技術が、今になって役に立つだなんて。香織は父親の机の上にティーカップの乗ったトレーを置いた。「……私のために?」「他に誰がいるんですか、お父さん」香織は素っ気なく返事をした。親子の溝も、今ではだいぶマシになったように感じる。(有真さんからあの話を聞いていなければ、私はきっと今もお父さんのことが好きではなかったでしょうね)忠嗣は娘の香織を嫌ってはいなかったし、家族のことも大切に思っていた。ただ、香織がずっと勘違いしていただけだ。もちろん、原因を作ったのは彼だったが。『旦那様は香織さんのことが嫌いだから連絡を断っていたわけではありません。香織さんに対して負い目があったからですよ。だから、香織さんから歩み寄れば旦那様はきっと受け入れてくださいます』香織がお茶を持って忠嗣の書斎へやってきたのは、少し前に有真に言われた言葉がきっかけだった。彼は机に置かれた
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第45話

香織はソファに座ったまま、横目でチラチラと忠嗣を見ていた。話しかけようにも、何だか緊張してしまう。書斎に静寂が流れ、気まずい空気となった。(私ってこんなんだったっけ……)父親の前になると、彼女は上手く立ち回ることができない。今ではだいぶマシになっているが、小さい頃は足がすくんでしまうことさえあった。忠嗣はふと書類から顔を上げ、香織に尋ねた。「……仕事はうまくいっているか」「……!」話しかけられて我に返った香織は、すぐに返事をした。「はい、優しくしてくださる先輩がいて……続けられそうです」「そうか、それはよかった」香織がそう答えると、忠嗣は彼女を見て僅かに口角を上げた。彼が彼女に笑いかけるのは二回目だった。(やっぱり私がずっと勘違いしていたようね……)今世ではもしかすると、忠嗣や有真と良い関係を築いていけるかもしれない。有真とは血は繋がっていないが、年の離れた姉妹のような関係になれるのではないだろうか。香織は少しずつそんなことを思い始めていた。「――ところで、好きな男でもできたか?」「な、何を急に……!?」香織は驚いて飲んでいた紅茶を噴き出しそうになった。「さっきから何か私に話したそうにしていたから、結婚したいと思う男でも見つけたのかと思ってな」「ち、違います……!大体亮太との離婚すら済ませていないのに、恋愛なんてしませんよ……!」「そうか……」香織は再婚なんて考えていなかった。前世のことがあるし、もう二度と結婚で辛い思いはしたくなかった。(あのような末路を迎えるくらいなら一生独身でいいわ……)忠嗣はそんな娘の考えを見透かしたのか、苦笑した。「何だ、一度男選びに失敗したから結婚はもうしたくないのか?」「ええ、そうですね……」香織は視線を逸らしながら頷いた。亮太は香織にとって最低最悪の夫だった。元々、彼との結婚は香織が強く望んだものだった。その点でいえば、好きでもない女との婚約を結ばされた亮太も被害者だった。しかし、いくら九条グループが相手とはいえ、羽川家の御曹司なら結婚の話を断ることだってできただろう。香織との結婚を受け入れたのは亮太本人だった。その方が自分にとって都合が良く、会社に多くの利益をもたらすと彼自身が判断したからだろう。(夫婦として過ごしている間、彼はずっと私のせいにしていたけどね……)香織と結婚した
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第46話

その翌日。「お嬢様!!!大変です!!!」「美由紀さん……?どうかしたの……?」休日で仕事の無い香織は、珍しく昼まで寝ていた。日菜乃がいる羽川邸で過ごしていた頃は、一日に三時間ほどしか眠れなかったため、疲れが溜まっていたのだ。今日は久々によく眠れた。香織はベッドから体を起こして伸びをした。しかし、美由紀の表情は切羽詰まったように焦りに満ちている。「お、お嬢様……」「……美由紀さん?」彼女の手には丸めた雑誌が握られていた。一体何が起きているというのか。嫌な予感がした香織は目をこすりながら美由紀と向き合った。「こ、これを見てください!」「……」美由紀は香織の目の前に雑誌内の一ページを広げて見せた。そのページの一番大きな見出しに書かれていた文字に、香織は思わず目を見張った。『九条グループの令嬢、金と欲にまみれたふしだらな私生活』香織は美由紀から雑誌を奪い取り、内容をじっくりと読んだ。「どういうこと……?」九条家の令嬢である九条香織は学生時代から男遊びを繰り返し、気に入らない女子生徒がいると無視したり罵詈雑言を浴びせるなどの虐め行為をしていた。さらに学生であるにもかかわらず、夜な夜なクラブに行っては酒を飲み、遊び歩いていた。そして、悪事がバレそうになるたびに父親の権力を使ってもみ消していた、など心当たりのないことばかりが書かれていたのだ。記事には香織の大学時代の同級生を名乗るAさんが登場しており、彼女が香織の裏側を赤裸々に暴露していた。何でも彼女は大学時代に、香織から虐めを受けたうちの一人であり、階段から突き落とされたり、公衆の面前で罵倒されるなどの被害に遭ったのだという。もちろん、香織はそのようなことしていない。「な、何よこれ……」「一体誰がこのようなことを……」そもそも香織は大学時代、亮太しか見えていなかったため、虐めるほど他人に興味を持った覚えがない。夜な夜なクラブで飲み歩いていたというのも、厳格な忠嗣がそのような娘の行動を許すはずがなかった。「ふざけてるわ……」「お嬢様がこのようなことするはずがありません」元々亮太のDV疑惑で香織は世間から注目されていたこともあり、記事は瞬く間に話題となった。大手ニュースサイトのトップを飾り、新聞でも大きく報じられた。SNSでは夫の亮太を擁護する声で溢れかえった。『こんな女、暴力振るわれ
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第47話

週刊誌片手に、香織はスマホで彼女に関する記事が掲載されたニュースサイトのコメントを読んでいた。内容は主に香織に対する中傷。昨日まで香織に同情していた人たちが、今では彼女を非難している。隣で香織と共にコメントを読んでいた美由紀は、思わず拳を握りしめた。「散々な言われようですね……事実確認もしないで好き勝手……」「こうなるのも仕方が無いわ。この人たちにとっては私が本当に悪女かどうかなんてどうだっていいのよ」「と、いいますと?」「この人たちは何も被害者のことを思って私を批判しているわけじゃない。ただ、日ごろのストレスを発散したくてやっているだけよ」「……」香織はわかっていた。彼らにとって記事の真偽などどうだっていいということを。ただ単に大金持ちの家の令嬢として生まれた香織を妬み、叩きたいだけなのだ。「……それにしても、一体誰がこのようなことをしたのでしょうか。お嬢様はAさんに心当たりはありますか?」「……全くないわね。大学時代の同級生なんてほとんど覚えていないし」香織は大学時代のことを思い浮かべた。彼女は亮太と同じ城星大学の出身だった。一年生の頃に彼とすれ違い、一目惚れした。学部が違っていたため関わる機会はほとんど無かったが、香織は彼のファンクラブ入り、追いかけ続けた。(あのときの私の頭の中は常に亮太のことでいっぱいだったし……他人にかまっている暇はなかったのよね……)あまりにも亮太に夢中になっていたせいか、香織は友人もほとんどいなかった。ただゼミで時々話す同級生が何人かいたくらいだ。彼らの存在も、今ではよく覚えていないが。「これは九条グループに喧嘩を売っているも同然です!何としてでも首謀者を見つける必要がありますね」意気込んだ美由紀に、香織は淡々と告げた。「――あぁ、首謀者ならもうわかってるわ」「そ、それは本当ですか!?」香織は記事を見つめながら頷いた。このようなことを平然とやってのけるのは、彼女が知っている人の中では一人しかいなかった。犯人を確信している様子の香織に、美由紀はモジモジしながら尋ねた。「あ、あの……もしかして……羽川社長でしょうか……?自身の名誉を挽回させるために、社長がやったとしたら……」「そうねぇ、まぁ、あの人も無関係ってわけではないでしょうね」「……!」その一言で、美由紀は誰が犯人かある程度の予想がつい
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第48話

「香織、しばらく仕事を休んだらどうだ」「お父さん……」翌朝、仕事へ行こうと準備をしていた香織に、忠嗣が声をかけた。香織を見つめる彼の目は、彼女への心配に満ちていた。(昨日あんな記事が出たから……)当然、忠嗣は記事の内容を信じてなどいなかった。今回の件に亮太たちが絡んでいるということは誰から見ても明白だったからだ。しかし、相手が羽川家だからこそ厄介だった。いくら忠嗣でもそう簡単に手を出せる相手ではない。それでも、娘があのようなことをされた以上、仕返ししないわけにもいかないが。「お気遣いありがとうございます。私は平気です」「そうか?あまり無理はするな」香織は心配そうな父親を安心させるように笑った。(仕事を休んだら、逆に変な憶測を立てられてしまうわ……)何より、優しくしてくれる柚果を始めとした人たちに迷惑はかけたくなかった。メイクと着替えを終えた香織が家を出ようとすると、キッチンから出てきた有真が笑顔で彼女を見送った。「香織さん、いってらっしゃい」「いってきます、有真さん」「今日も美味しいご飯を作って待ってますね」「楽しみにしてます」有真はいつもと変わらない様子で香織と接した。変に記事の内容に触れることもなく、ただいつものようにそっと見守るだけ。それが彼女にとって最適だと考えたからだろう。香織は普段通り、徒歩で会社へと向かった。通勤中のサラリーマン、子供を送り迎えしている主婦、学校へ向かう学生など、多くの近隣住民たちとすれ違った。昨日暴露記事が掲載されてからというもの、香織は有名人となっているようで、通りすがりの人たちが彼女を見てヒソヒソと噂をしている。「見て、あの人……」「最近噂になってる九条家の令嬢よね……よく堂々と外を歩けたわね」「でもそんなことをする人には見えないわ……人は見かけによらないのね……」香織に向けられたのは、疑惑や蔑みを含んだ目だった。香織は気にしないフリをして歩き続けた。日菜乃は我慢できずに近隣住民とトラブルを起こしたようだが、そんなことをすれば相手の思う壺だ。何を言われても動揺してはいけない。感情をうまくコントロールする術は、父親の忠嗣から学んだことだ。亮太への熱烈な恋心の前ではまるで役に立たなかったが。しばらくして、職場に到着した。香織の所属する部署のオフィスへ入ると、彼女は出勤早々好奇の目に晒され
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第49話

一方その頃、株式会社avisの本社ビル。社長室にて、礼音は一人ボーッと考え事をしていた。彼の頭の中を占めているのは、この間出会った女のことだった。(何故、こんなにも胸が痛むのだろうか……)彼女の顔を思い浮かべるたびに、礼音の胸はチクリと痛んだ。こんな気持ちは初めてだった。彼は今でこそ成功を収めた若き敏腕経営者として知られているが、幼少期の境遇は決していいとは言えなかった。彼はお金持ちの家の息子として生を受けたが、婚外子だった。父親が愛人にしていた女との間に生まれた子供で、彼の存在を疎ましく思った母親が父に押し付けたのだ。父親は仕方なく彼を引き取り、礼音は義母と異母兄弟たちの元で過ごすこととなった。家族の中で、自分だけ母親が違う。何歳になってもそのような疎外感が消えることはなかった。義母は彼を毛嫌いし、異母兄弟たちも彼をのけ者にした。父親は見て見ぬフリ。家族旅行ですら、彼だけが参加することを許されなかった。幼かった彼はそんな理不尽な状況に耐えるしかなかった。この地獄のような生活にも、いつかは終わりが来ることを信じて。それから彼は大学に進学し、経営学を学んで独立した。地位や金が目当てだったわけではなく、一刻も早くあの家と縁を切りたかったからだ。その目標は既に達成された。家族とはもう何年も会っていないし、自分を捨てた母親は今どこで何をしているかすらわからない。あのあと別の男性と結婚して新しい家庭を持っているという噂はチラッと聞いたが、真偽は不明だ。別に寂しいとも思わなかった。両親の存在は、礼音にとっていつも苦でしかなかったから。「俺が一人の女をこんなにも気にかけるなんて……初めてだな……」礼音は元々あまり異性に興味がないタイプだった。それでも十代の頃は度々遊んではいたものの、仕事が忙しくなった今では女性とはほとんど関わる機会がなくなっていた。彼はその類稀なる美貌から惚れられることはよくあったが、誰かに恋をしたことは一度もなかった。あるとすれば、二十年近く前のあの日に出会った――「…………ッ」突然、原因不明の頭痛が彼を襲った。思い出そうとした初恋の少女の顔が、黒く塗りつぶされていく。礼音は思わず額を手で押さえた。(……何だ?一体何が起きているんだ……)真っ黒に染まった彼の脳裏に、ある情景が浮かび上がった。降りしきる雨の中、男が一人の女性を抱い
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第50話

夜の八時。仕事を終えた香織は帰路についていた。既に辺りは暗くなっており、人通りも少なかった。今の彼女にとってはむしろ好都合だった。人々の好奇の視線に晒されることもなく、ゆっくりできるのだから。「それにしても、社内に私のことを理解してくれる人がいてよかったわ……」昨日掲載された記事のせいで散々な罵声を浴びせられた一日だったけれど、何も味方がいないわけではなかった。柚果を始めとした優しい先輩社員たちはこれまでと変わらずに香織に接してくれたし、噂を真に受けている人ばかりではなかった。そのことが香織にとってせめてもの救いとなった。「まぁ、あまりにも酷いようだったらお父さんに言えばいいしね!」彼女は権力を乱用するのはあまり好きではなかったが、仕方が無い。むしろ彼女が今職場で置かれている状況を知れば、忠嗣はきっと胸を痛めるだろう。「亮太と日菜乃があそこまでするとは思わなかったけど……」香織は羽川家を出るとき、最後に見た二人の顔を思い浮かべた。離婚を言い渡されて覇気のない亮太と、香織への底知れない憎しみを隠すことすらしなかった日菜乃。「亮太はともかく、日菜乃は本当に何をするかわからないから……」香織が警戒しているのは羽川家の社長である亮太よりも、その愛人の日菜乃のほうだった。彼女は前世、日菜乃の危険性を全くわかっていなかった。そのせいで最後は激しい拷問により命を落とした。(思えば、亮太が私に暴力を振るうようになったのも日菜乃と出会ってからだったわね)日菜乃と出会う前の亮太はあそこまで暴力的な人間ではなかったし、香織を嫌ってはいても公衆の面前で貶めたりなどはしなかった。日菜乃との出会いが、亮太を変えたのだろう。だからといって亮太に同情の余地なんて無いが。考え事をしながら歩いていると、香織は突然声をかけられた。「あれ、九条グループの令嬢じゃん」「……誰ですか?あなた」振り返ると、見覚えのない若い男が立っていた。香織は知らなかったが、相手は彼女のことを知っているようだ。(昨日の一件で有名になったから、当然のことかしら……)男は香織をまじまじと見ながら、下劣な笑みを浮かべていた。顔がほんのりと赤くなっているのを見るに、酒を飲んで酔っているようだ。飲み会帰りの大学生だろうか。「なぁ、お前誰とでも寝るんだって?普段は高貴なお嬢様ぶっといて本当はそんな女
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