All Chapters of 『RE:LAY ―幽霊となった伝説のモデルが妹をプロデュースする話―』: Chapter 11 - Chapter 20

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第11話《服の行き先》

世界が動いたあと、最初に訪れるのは拍手ではない。 本当の仕事だ。 * 昼。 UTAHARA OFFICEのガラス張りのロビーで、歌原彩はソファに座っていた。 膝の上には、あの雑誌が開かれている。 中央ページ。 そこに立つ自分を、彩はいまだに少し不思議なものを見るように眺めていた。 その向かいに立つのは、人気俳優であり、ブランド《Iva Lucia》の創設者でもある三堂蓮。 蓮は少し姿勢を正した。 「イヴァ・ルシアのイメージモデルとして、歌原彩さんと正式に契約したい」 彩が顔を上げる。 「……契約?」 「うん。今回みたいな単発じゃない。ちゃんと、うちのブランドの顔になってほしい」 蓮は続けた。 「スポンサーオファーだと思ってもらっていい」 スポンサー。 契約。 どちらも、彩にはまだ自分の世界の言葉ではないように聞こえた。 モデルの仕事を始めたばかりで、一度雑誌に出ただけだ。 それなのに、自分がブランドの「顔」になると言われている。 どう返事をすればいいのかわからない。 そのとき、ロビーにヒールの音が響いた。 振り向くと、黒いスーツ姿の柳田真悠がこちらへ歩いてくる。 彩のマネジメントを任されたばかりのマネージャーだった。 柳田は蓮と、その手にあるIva Luciaの紙袋を見て、二人の前で足を止めた。 「三堂さん」 「どうも」 「ご用件を伺ってもよろしいですか?」 「ちょうどよかった」 蓮は彩へ視線を向ける。 「イヴァ・ルシアのイメージモデルとして、歌原彩さんと正式に契約したいと思っています」 柳田の表情は変わらなかった。 「条件があります」 「どうぞ」 柳田はタブレットを開く。 「歌原彩は学業を最優先とします。メディア露出は制限。モデルとしての仕事も、基本的に月一回です」 蓮が黙って聞いている。 「受けるのは、本人がモデルとして経験を積める案件のみ。それ以外についてはお断りします」 そこで柳田はいったん言葉を切った。 「歌原レイラの方針です」 蓮は冗談にもしなかった。 条件を聞き終えると、一度だけ深く頷く。 「いいね」 柳田がわずかに眉を動かした。 「……よろしいんですか?」 「むしろ、その方がいい」 蓮は手にしている紙袋へ目を落とした。 「大量に露出させて、話題になって、飽
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第12話《崩れたもくろみ、それでも離れない欲望》

歌原レイラは知っていた。 家族という言葉ほど、人間を長く縛るものはない。 そして欲望は、一度手にした金を簡単には忘れない。 歌原レイラ、二十五歳。 死まで、あと三年。 妹を守るための戦いは、法廷の外でも続いていた。 今度の相手は、「家族」という言葉にしがみつく者たちだった。 * 夜。 HORIZON本社の高層ビルは、遅い時間になっても明るかった。 白い照明を反射する床の上で、和人と陽子は受付の前に立っている。 二人とも普段よりきちんとした服装だった。けれど、周囲を行き交う社員たちの中では、その作り込んだ身なりがかえって浮いて見えた。 和人が受付へ身を乗り出す。 「歌原です。常務の渡辺さんに会いたい。取り次いでくれ」 受付の女性は一瞬だけ表情を止め、それでもすぐに内線を取った。 短いやり取りのあと、奥のエレベーターホールから一人の男が現れる。 渡辺。 かつて歌原レイラを預かり、そのキャリアを世界へ押し上げた人物の一人。現在はHORIZONの常務取締役として、事務所の経営中枢にいる。 渡辺は二人を見た途端、足を少し緩めた。 「……外で話そう」 それだけ言う。 「ここじゃ目立つ」 和人と陽子は顔を見合わせ、その背中を追った。 * 本社から少し離れた喫茶店。 古いジャズが低く流れ、店の奥にはコーヒーの匂いが残っていた。 半個室の席へ着くと、渡辺はメニューにも触れず、水を一口飲んだ。 向かいに座る和人と陽子は、落ち着かない様子で何度も店内へ目をやっている。 「……で、要件は」 渡辺が先に切り出した。 和人は待っていたように身体を前へ出す。 「レイラの件だ。家庭裁判所で揉めてる」 渡辺の表情は変わらない。 「それで?」 「少しでいい。不利になる情報が欲しい」 和人は声を落とした。 「あんたも昔、あいつで旨い思いをした仲だろ」 陽子もすぐに口を挟む。 「あなたが今の地位まで来られたのだって、私たちの協力があったからじゃない」 運ばれてきたコーヒーから、細い湯気が立つ。 渡辺はそれを見たまま、何も言わなかった。 その反応が気に入らなかったのか、和人がさらに続ける。 「レイラがここまで来たのは、俺たちが預けたからだ。最初にあんたらへ渡したのは、こっちだろ」 「恩を返してって言ってるだけよ」 陽子が
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第13話《最後の交渉》

歌原レイラ、二十五歳。 死まで、あと三年。 残された時間は変わらない。 その中でレイラは、一つずつ終わらせようとしていた。 今夜、その一つに決着をつける。 * 黒い車が、静かな住宅街で止まった。 レイラは車を降り、門の前で足を止める。 三年前まで暮らしていた家だった。 白い外壁も、庭の木も変わっていない。 家を出たのは十八歳のとき。 モデルの仕事が増え始め、最初は事務所の寮へ入った。そのあと小さなアパートへ移り、今は都心の高層マンションで暮らしている。 伝説のモデル。 そう呼ばれるようになった今でも、この家を前にすると、置いてきたはずの時間が少しだけ動き出す。 本当なら、来る必要はなかった。 手続きはもう始まっている。 これから先は弁護士を通せばいい。直接顔を合わせる理由など、ほとんど残っていない。 むしろ会わない方が合理的だった。 それでも来た。 最後に一度だけ。 家族として話すために。 ――今日で終わらせる。 レイラは門を開け、玄関のインターホンを押した。 数秒後、扉が開く。 母の陽子だった。 「……来たのね」 「話をしに来た」 陽子はわずかに視線を逸らし、黙って身体を引いた。 * リビングには父の和人がいた。 ソファに座っていたが、レイラを見るとゆっくり立ち上がる。 「久しぶりだな」 「三か月ぶり」 それだけで会話は止まった。 テーブルには湯呑みが三つ並んでいる。 用意されたのは少し前なのだろう。もう湯気は残っていなかった。 陽子が先に口を開く。 「今日は……謝りたかったの」 レイラは座ったまま、続きを待った。 「今までのことは、少しやり過ぎた」 和人が言う。 陽子も頷いた。 「家族なのに裁判なんて、やっぱりおかしいでしょう?」 和人がため息をつく。 「取り下げてくれないか」 「理由を聞かせて」 陽子はすぐに答えた。 「あなた、有名人でしょう。家族と裁判なんてことになったら、イメージが悪いわ」 和人も続ける。 「彩も最近、注目されてるそうじゃないか。モデルを始めたんだろ」 レイラの表情は変わらない。 「騒ぎになれば、彩にもよくない」 そこまで言って、和人は少し間を置いた。 「支援も、今まで通りとは言わない」 「そうよ」 陽子が身を乗り出す。 「そこま
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第14話《裁判の勝利》

歌原レイラ、二十八歳。 死まで、あと二十九日。 歌原彩、十五歳。高校一年生になった春。 夜と朝の境目、家庭裁判所の前に広がる石畳はまだ冷えたまま、薄い青を帯びていた。 街は起ききっていない。人の気配も、車の音も遠い。 その静けさの中に、レイラは一人で立っていた。 黒いスーツに細いヒール。風が長い髪を揺らす。 ただ立っているだけで、そこがランウェイの入口のように見える。 けれど今日、彼女が立つ場所は舞台ではない。 法廷だった。 レイラは正面を見たまま、ゆっくり息を吸った。冷たい空気が肺の奥まで落ちていく。 ――今日で終わる。 そして、始まる。 自分に言い聞かせるための言葉ではなかった。 覚悟なら、とっくに終えている。 三年前。 あの家へ戻り、父と母へ最後の交渉をした夜。 彩を手放してほしいと告げた。 それでも二人が最後まで見ていたのは、彩という娘ではなかった。 これから稼ぐかもしれない「可能性」だった。 あの瞬間に、家族として話し合える余地はなくなった。 だから今日の決定は、決着ではあっても驚きではない。 三年。 ここまで来るのに、三年かかった。 道路の向こうから、小さくシャッター音が聞こえた。 まだ朝にもなっていないのに、記者が来ているらしい。 レイラは一度だけそちらへ目をやり、すぐに裁判所へ視線を戻した。 東の空がわずかに白み始めている。 風には、春の匂いが混じっていた。 今度こそ、本当に終わらせる。 レイラは門へ向かって歩き出した。 * 三年間に及んだ手続きは、外から想像されるほど劇的なものではなかった。 誰かが法廷で泣き叫び、隠されていた真実が一度に暴かれ、その場で正義が勝つ。 そんな出来事はなかった。 実際に必要だったのは、書類と記録と時間だった。 一度の正しさでは足りない。 一度、彩を守っただけでも足りない。 この先も継続して十五歳の少女を守れるのか。 生活は安定しているか。 学校へ通わせられるか。 必要な時間を確保できるか。 感情ではなく、生活そのものを示し続けなければならなかった。 レイラは、そのために仕事を変えた。 パリ。 ミラノ。 ニューヨーク。 ロンドン。 毎シーズンのように届いていたショーへの招待も、キャンペーンも撮影も、海外へ長く滞在する仕事は断っ
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第15話《家族の終わり》

歌原レイラ、二十八歳。 死まで、あと二十九日。 歌原彩、十五歳。高校一年生になった春。 裁判所を出た石段には、昼の光が満ちていた。 朝の冷たい青はもう消え、春の白い陽射しがガラス壁と石畳を照らしている。 報道陣の列。 向けられるカメラ。 差し出されるマイク。 さきほどまで制度の言葉だけが支配していた場所へ、今度は人の感情が押し寄せようとしていた。 レイラは彩の隣に立っていた。 法的な判断は出た。 けれど、それだけで三年分のすべてが終わるわけではない。 人垣の向こうが大きく揺れた。 報道陣をかき分けるようにして、和人と陽子が前へ出てくる。 父と母。 その呼び方は、もう血縁以上の意味を持たなかった。 和人の顔には、敗北を受け入れきれない怒りが浮かんでいる。 陽子も同じだった。 何かを失った人間というより、まだ失っていないと思い込みたい人間の顔だった。 彩が小さく息を呑む。 レイラはその気配に気づいた。 それでも動かなかった。 ただ、二人を見る。 怒りもない。 憎しみもない。 もう、そこへ向ける熱そのものが残っていなかった。 和人が先に口を開いた。 「金は山ほど稼いでただろう!」 記者たちの空気が変わる。 マイクが一斉に和人へ向いた。 「自分の稼ぎだけじゃなく、彩の稼ぎにまで目が眩んだのか!」 彩の肩がわずかに固くなる。 レイラはそれを視界の端で確認した。 すぐには答えなかった。 怒鳴り返さない。 否定を急がない。 その沈黙に耐えられなかったように、陽子が続ける。 「三年も親にろくな支援もしないで、親不孝までして……! それで今度は彩まで奪うなんて、ひどい娘よ!」 声は震えていた。 けれど、その震えは家族を失う悲しみではなかった。 自分たちに流れていた金。 生活。 娘という肩書き。 そうしたものまで失うことへの焦りだった。 春の風が石段を抜ける。 レイラは一度だけ呼吸を置いた。 そして父と母を見た。 「私が初めて、自分の稼ぎでコスメを買った日のこと、覚えてる?」 和人の眉が動く。 陽子の口元が固まった。 「十四歳のとき。雑誌の仕事のあとに、初めて自分のお金で買ったものだった」 レイラの声は静かだった。 記者のペンだけが動いている。 「そのとき、言ったよね」 返事はな
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第16話《春の並走》

歌原レイラ、二十八歳。 死まで、あと二十九日。 歌原彩、十五歳。高校一年生になった春。 裁判所の門を出ると、空気が少しだけ柔らかくなった。 昼の光が石畳を白く照らしている。 車の音。信号の電子音。遠くを歩く人たちの話し声。 街は昨日までと何も変わらないように動いていた。 けれど彩は知っている。 今日、自分の世界が一つ変わった。 隣を歩くレイラを見る。 黒いスーツ。背筋を伸ばした姿。一定の歩幅。 どこにいても、その人が歩けば道の方がランウェイに見える。 歌原レイラ。 世界が選んだモデル。 けれど彩にとっては、ただ一人の姉だった。 三年前。 初めてモデルの仕事をした頃の自分は、何も知らなかった。 立ち方も。 目線の置き方も。 身体をどう使えば服が変わるのかも。 ただ、姉の背中を見ていた。 あれから三年。 彩はただ守られていただけではない。 * 朝は、毎日同じところから始まった。 まだ街が完全には目を覚ましていない時間に起き、彩は部屋の床へマットを敷く。 鏡の前に立ち、息を吸う。 ゆっくり吐く。 背骨。 肩。 骨盤。 脚。 身体の位置を一つずつ確認しながら、三十分かけて整えていく。 モデルの身体を作るためにレイラが長年続けてきた基礎トレーニング。 いつしか周囲では「レイラ体操」と呼ばれるようになったものを、彩も三年間続けてきた。 眠い朝もあった。 試験勉強で遅くまで起きていた日もある。 雨音を聞きながら、もう今日はいいんじゃないかと思ったこともあった。 それでも、マットを敷いた。 毎日。 三十分。 それだけは変えなかった。 最初は、鏡を見ても違いなどほとんどわからなかった。 けれど一年、二年と続けるうちに、少しずつ身体が変わった。 立ったときに重心がぶれなくなった。 肩へ無駄な力が入らなくなった。 歩いたあと、次の一歩へ身体が自然につながるようになった。 ほんの数ミリの顎の角度。 左右の肩の高さ。 背骨を伸ばす位置。 普段なら誰も気づかない違いが、写真の中ではまるで別のものになる。 レイラがよく言っていた。 「モデルは、自分を見せる仕事じゃない」 彩はその言葉を何度も聞いた。 「服に、生きる場所を与える仕事よ」 だから、身体を作る。 服が立てる身体を。 トレー
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第17話《教室と姉妹》

歌原レイラ、二十八歳。 死まで、あと二十八日。 歌原彩、十五歳。高校一年生になった春。 早朝の住宅街は、まだ冷えていた。 自動販売機の明かりだけが妙に鮮やかで、路地の向こうから新聞の束を置く鈍い音が聞こえる。 昨晩も、母は帰ってこなかった。 リビングのテーブルには空き缶が転がり、窓を開けてもアルコールの匂いがわずかに残っていた。 彩は玄関を出て、朝の空気を吸い込む。 冷たい。 それなのに、家の中にいるときより息がしやすかった。 角を曲がったところで、一人の男子生徒が自転車を押していた。 新聞の束を荷台へ載せ、縄を締め直している。指先には青いインクがついていた。 「……おはよう」 彩が声をかける。 男子生徒は顔を上げた。 一瞬だけ肩が強張り、それから小さく会釈する。 返事はない。 そのまま自転車へ跨がり、朝靄の中へ走っていった。 神谷章介。 中学一年から同じ学年で、高校では隣の席になった。 新学期の日、彩は「よろしくね」と声をかけた。 章介は何も返さなかった。 あのときは、嫌われているのだと思った。 赤いテールライトが遠ざかっていく。 彩はその背中を少しだけ見送り、学校とは反対の方向へ歩き出した。 今日は、もう一つやることがある。 あの家を出る日だった。 * 段ボールは三箱しかなかった。 衣類。 教科書とノート。 それから三年間、毎朝使ってきたヨガマットと、角が擦れて柔らかくなった単語帳。 彩は玄関に並べた箱を見た。 十五年間暮らした家から持っていくものにしては、驚くほど少ない。 必要なものの多くは、すでにレイラのマンションに揃っている。 それでも、これが自分で選んだ荷物だった。 彩は一度だけ廊下を振り返った。 剥がれかけた壁紙。 閉じたままのドア。 生活の匂いが薄い部屋。 この家は、いつからか静かになった。 怒鳴り声がない日もあった。 その代わり、誰も帰ってこない日が増えた。 朝食がなくても自分で用意した。 電気がつけっぱなしなら消した。 「おかえり」と言う人がいなくても、制服を脱ぎ、宿題をして、翌日の準備をした。 暮らせないわけではない。 水は出る。 電気もつく。 鍵だって閉まる。 けれど。 ――誰も、ここで生活してなかったんだ。 父は金の話ばかりしていた。
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第18話《香りの罠(前)》

歌原レイラ、二十八歳。 死まで、あと十八日。 歌原彩、十五歳。高校一年生になった春。 夜の歌舞伎町。 雨上がりのアスファルトに、赤と青のネオンが滲んでいた。 排水溝へ流れる濁った水が、光の切れ端を細く引きずっていく。 笑い声。 遠くのクラクション。 酔った男の怒鳴り声。 どこかでグラスの割れる音。 いくつもの音が重なっているのに、この街の底には妙な静けさがあった。 欲望が満ちきった場所にだけ沈む、鈍い静寂。 遠くでサイレンが鳴っている。 近づいてくるでも、遠ざかっていくでもない。 ただ、夜の奥で低く響いていた。 この夜。 まだ、誰も人を殺してはいない。 けれど。 戻れなくなる人間は、 戻れなくなる前から、少しずつ道を外れている。 * 《Club RAZE》の営業が終わったあと。 バックヤードには、白い蛍光灯だけが残っていた。 ロッカーの金属臭に、香水と酒、煙草の匂いが混ざっている。 赤西はソファへ深く腰を下ろしていた。 黒いシャツの第一ボタンを外し、首筋を押さえる。 二年間、ほとんど休まず働いてきた疲労が、目の下にはっきり残っていた。 スマートフォンを開く。 画面に並ぶ数字。 《手術費用総額 100,000,000円》 《送金済額 85,200,000円》 《不足金額 14,800,000円》 赤西は、その数字を長く見つめた。 あと少し。 ここまで来た。 娘の心音を助けるために必要な金。 一億円という、最初は現実味すらなかった数字へ、ようやく手が届きかけている。 背後で缶が鳴った。 「ほら、ブラック」 振り向くと、No.2の西尾が缶コーヒーを投げてきた。 赤西は片手で受け取る。 「……悪い」 プルタブを開ける。 短い金属音が、静かな部屋に残った。 西尾はロッカーへ背中を預け、赤西のスマートフォンへ目をやる。 「……すげえよな、お前」 「何が」 「ここ二年、ほぼ休んでないだろ。売上もずっとトップ」 西尾は自分の缶を開けた。 「娘のためってなったら、男ってここまでやれんだな」 「やるしかねえからな」 それ以上の理由などなかった。 西尾が聞く。 「で、どこまで来た?」 「八千五百二十万」 「おお」 西尾が小さく口笛を吹く。 「じゃあ、もう見えてんじゃん。一億ま
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第19話《香りの罠(後)》

歌原レイラ、二十八歳。 死まで、あと十八日。 歌原彩、十五歳。高校一年生になった春。 人は壊れるとき、必ずしも叫ばない。 自分に都合のいい言葉を、一つずつ選び始める。 それは言い訳というより、まだ自分を見捨てずにいるための祈りに近かった。 * 都内の高層ホテル。 窓の外では、雨に濡れたガラスをネオンの赤がゆっくり流れていた。 室内で点いているのは、ベッド脇のランプだけだった。 白いシーツには、脱ぎ捨てられた衣服の影が落ちている。 陽子は薄いガウンを肩に掛け、窓際に立っていた。 グラスには触れない。 ただ、街を見ている。 赤西は部屋の中央に立ったまま、その背中を見ていた。 慰め合うような空気ではなかった。 二人とも、何かがすでに遅くなっていることだけはわかっていた。 「もう三年ね」 陽子が言った。 「ええ」 「三年も経ったのに」 窓に映った自分の顔を見る。 「結局、何も戻らなかった」 赤西は答えなかった。 若くはない。 けれど、終わった女だとは思いたくない。 そんな顔がガラスの向こうから見返している。 「でも、お金は減っていくの」 乾いた笑いが漏れた。 「人って怖いわね」 それは笑いというより、息だった。 「必要とされなくなったら、終わりよ」 赤西は動かなかった。 頭の中には、別の数字がある。 三千万。 正確には、それでも足りない。 だが、それだけあれば娘の治療へ大きく近づく。 「あなたは、私を呼ぶでしょう?」 陽子が振り返らずに聞いた。 赤西は少し間を置いた。 「……ええ」 愛情ではなかった。 約束でもない。 今、この女を自分から離さないために返しただけの言葉だった。 けれど陽子には、それで十分だった。 ゆっくり振り返る。 「なら、まだ私は終わってないのね」 赤西は肯定しなかった。 否定もしなかった。 陽子にとっては、否定されなかったことだけが救いになった。 甘い香水の残り香が、部屋の中に沈んでいる。 華やかな場所へ出るための匂いではない。 自分がまだ必要とされていた頃を、少しでも長く残そうとする匂いだった。 * 地下駐車場を出た車が、雨の夜道を走っていた。 ワイパーが一定の間隔で水を払う。 視界が鮮明になり、またすぐ滲む。 車内は暗く、メーターの淡い光
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第20話《同じ手》

歌原レイラ、二十八歳。 死まで、あと十八日。 歌原彩、十五歳。高校一年生になった春。 雨はもう止んでいた。 それでも繁華街の裏通りには湿った夜気が残り、排水溝の脇には吸い殻が溜まっている。 遠くではまだネオンが光っていた。 けれど、この路地まで届く頃には、その色もずいぶん鈍くなっていた。 赤西は一人で歩いていた。 黒いジャケットの襟を立て、両手をポケットへ入れている。 店にいるときの余裕はない。 一歩進むたびに、自分がどこへ向かっているのかを身体の方が先に理解していく。 ――引き返せる。 赤西は足を止めた。 目の前には、看板も出ていない古びた雑居ビルがある。 西尾から渡された住所。 ポケットの中では、小さく折った紙が汗を吸って柔らかくなっていた。 今なら、まだ帰れる。 そう思った途端、病室の光景が浮かぶ。 白いシーツ。 細い身体。 それでも笑っていた娘。 『ねえ、紹介するね。お父さんだよ。カッコいいでしょ?』 心音の声。 そのあとに、昨夜の陽子が重なる。 『必要とされたいの』 赤西は目を開けた。 扉を押した。 * 雑居ビルの三階。 狭い部屋には、机と折り椅子しかなかった。 天井の蛍光灯が一本だけ点いている。 窓もない。 埃と古い薬品を混ぜたような乾いた匂いが、空気に染みついていた。 机の向こうには、四十代半ばほどの男が座っている。 赤西を見る目に興味はなかった。 こういう場所へ来る人間を、何人も見てきたのだろう。 「西尾の紹介?」 「……ああ」 「何が要る」 赤西は答えられなかった。 口にした瞬間、自分の中でも形になってしまう。 男はしばらく待った。 「事故に見せたいのか。それとも、別の理由があるのか」 赤西の眉が動いた。 「……そういう言い方するな」 「ここに来て、それ言うのか」 男は笑いもしなかった。 ただ事実を確認しているだけの声だった。 「誰に使う」 「関係ないだろ」 「関係ある」 男が赤西を見る。 「素人が感情で動くと、余計なことになる。そういう面倒はこっちも困る」 赤西の拳に力が入った。 誰に使う。 その問いに答えたくなかった。 答えれば、その相手に顔が戻る。 名前が戻る。 歌原レイラ。 世界中が知るモデルではなく、 誰かの姉であり、
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