『RE:LAY ―幽霊となった伝説のモデルが妹をプロデュースする話―』 のすべてのチャプター: チャプター 11 - チャプター 20

32 チャプター

第11話《服の行き先》

──世界が動いたあと、最初に訪れるのは拍手ではない。本当の仕事だ。1 UTAHARA OFFICE・ロビー昼。ガラス張りのロビーに、柔らかな光が差し込んでいる。歌原彩はソファに座っていた。膝の上には、例の雑誌。中央ページ。そこに立つ自分を、まだ少し不思議そうに見ている。その前に立つ男。三堂蓮。俳優。そしてブランド Iva Lucia の創設者。蓮は少し姿勢を正した。蓮「イヴァ・ルシアのイメージモデルとして」一拍。蓮「歌原彩さんと、正式に契約したい」ロビーの空気が静かに張る。彩は顔を上げる。彩「……契約?」蓮「うん」蓮「単発じゃない」蓮「ちゃんと、うちの顔になってほしい」一拍。蓮「スポンサーオファーだと思ってもらっていい」その言葉の意味を、彩はまだ完全には理解できていない。スポンサー。契約。どれもまだ、自分の世界の言葉ではない気がした。そこへ、ヒールの音が近づいてくる。コツ。コツ。コツ。振り向くと、黒いスーツの女性が立っていた。柳田真悠。歌原彩のマネージャー。2 ロビー柳田は蓮を見て、一瞬で状況を把握した。柳田「三堂さん」蓮「どうも」柳田「ご用件を伺っても?」蓮は軽く頷く。蓮「ちょうどよかった」一拍。蓮「イヴァ・ルシアのイメージモデルとして」視線を彩へ向ける。蓮「歌原彩さんと、正式に契約したい」ロビーの空気が静かに張る。彩はまだ言葉が出ない。柳田は一切表情を変えない。柳田「条件があります」蓮「どうぞ」柳田「歌原彩は学業優先です」柳田「メディア露出は制限します」柳田
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第12話《崩れたもくろみ、それでも離れない欲望》

歌原レイラは知っていた。家族という言葉ほど、人間を長く縛るものはない。そして――欲望は、一度手に入れた金を決して忘れないことを。深夜。ガラス越しの街が、蛍光灯の白で滲んでいる。歌原レイラ――死まで、あと三年。妹を守る戦いは、法廷を越え、“家族”という名の欲望さえ、敵へ変えようとしていた。1 ホライゾン本社・夜高層ビルのロビーは、夜でも冷たく明るかった。無機質な床が蛍光灯を鏡のように返し、そこに立つ人間の輪郭まで、どこか薄く見せている。和人と陽子は受付前に立っていた。場違いなほど整えた服装。場違いなほど作り込んだ笑顔。だが、そのどちらもこの場所では浮いていた。和人「歌原です。常務の渡辺さんに面会の約束を。……取り次いでくれ」受付の女性は一瞬だけ表情を止めたが、すぐに内線を取った。短い応対のあと、奥のエレベーターホールから男が現れる。スーツ姿。無駄のない足取り。目だけが冷たい。渡辺。かつて歌原レイラを預かり、そのキャリアを世界へ押し上げた人物の一人。現在はHORIZON 常務取締役。日本最大級の芸能事務所の経営中枢にいる男だった。渡辺は二人を見て、すぐに事情を悟ったようだった。渡辺「……外で話そう。ここじゃ目立つ」それだけ言って、背を向ける。和人と陽子は顔を見合わせ、そのあとを追った。2 喫茶店・半個室古いジャズが、低く流れている。コーヒーの匂いが、店の奥に沈殿していた。半個室の席。渡辺は先に腰を下ろし、メニューにも触れないまま水だけを口にした。和人と陽子は落ち着かない。視線の置き場を探すように店内を見て、結局また渡辺を見る。しばらくして、渡辺が口を開いた。渡辺「……で、要件は」和人は待っていたように身体を乗り出した。和人「
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第13話 《最後の交渉》

歌原レイラ――死まで、あと三年。 残された時間は、変わらない。三年。その時間の中で、レイラは一つずつ終わらせていく。 その一つが、今夜の交渉だった。 0 夜の住宅街 黒い車が、静かな住宅街の前で止まった。 歌原レイラは車を降り、門の前で足を止める。 三年前まで暮らしていた家。 白い外壁も、庭の木も、何も変わっていない。 レイラ(心の声) 《ここを出たのは十八歳のとき》 モデルの仕事が増え始めた頃だった。 最初に入ったのは事務所の寮。 それから小さなアパート。 そして今は、都心の高層マンションに住んでいる。 伝説のモデル。 そう呼ばれるようになった今でも、この家の前に立つと、胸の奥に残っている時間が静かに動き出す。 レイラ(心の声) 《本当は、ここに来る必要はなかった》 訴訟はすでに始まっている。 弁護士を通して話を進めればいい。 直接会う理由はない。 むしろ会わない方が合理的だった。 それでも来た。 レイラ(心の声) 《最後に一度だけ、家族として話すために》 《今日で終わらせる》 門を開け、玄関へ向かう。 インターホンを押す。 数秒後、ドアが開いた。 母・陽子だった。 陽子 「……来たのね」 レイラ 「話をしに来た」 陽子はわずかに視線を逸らし、黙って身を引いた。 1 歌原家・リビング リビングには父・和人がいた。 ソファに座っていたが、レイラが入ってくるとゆっくり立ち上がる。 和人 「久しぶりだな」 レイラ 「三ヶ月ぶり」 それだけで会話は止まった。 テーブルの上には湯呑みが三つ。 しかし湯気はもう消えている。 母が先に口を開いた。 陽子 「今日は……謝りたかったの」 レイラは何も言わない。 和人 「今までのことは、少しやり過ぎた」 陽子 「家族なのに裁判なんて……」 父はため息をついた。 和人 「裁判、取り下げてくれないか」 レイラ 「理由を聞かせて」 陽子 「あなた、有名人でしょう」 「家族と裁判なんてイメージが悪いわ」 父が続ける。 和人 「彩も最近注目されている」 「モデルを始めたそうだな」 和人 「騒ぎになれば彩にも良くない」 レイラは黙って聞いている。 父は少し言葉を選んで続けた。 和人 「支援は今まで通
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第14話《裁判の勝利》

歌原レイラ(28歳)──死まで、あと29日。 歌原彩(15歳・高校一年生)──春。 0 夜明けの法廷前 夜と朝の境目だった。 家庭裁判所の前に広がる石畳は、まだ冷えたまま、薄い青を帯びている。 街は起ききっていない。 人の気配も、車の音も、まだ遠い。 その静けさの中に、歌原レイラは一人で立っていた。 黒いスーツ。 細いヒール。 風に揺れる髪。 その立ち姿だけで、そこがランウェイの入口のように見えるのに、今日の彼女が立つ場所は舞台ではない。 法廷だった。 レイラは正面を見たまま、ゆっくり息を吸う。 冷たい空気が肺の奥まで落ちていく。 レイラ・心の声 《今日で終わる》 《でも、それは──始まりでもある》 その言葉は、自分に言い聞かせるためのものではなかった。 もう覚悟は、とっくに終えている。 三年前。 あの夜、家族と最後の交渉をした日から。 門をくぐり、玄関に立ち、母の顔を見て、父の声を聞いて。 彩の親権を渡してほしいと告げて。 それでも二人は最後まで、彩を“娘”ではなく“可能性”としてしか見なかった。 あの夜に終わったのだ。 家族として話し合える余地は、すべて。 だから今日の判決は、決着ではあっても、驚きではない。 ただ一つ、あの日の自分が知らなかったことがある。 それは──この勝利に、自分の命の残り時間が重なっていることだった。 レイラ・心の声 《三年》 《裁判に費やした時間》 背後の道路の向こうで、かすかにシャッター音が鳴る。 まだ夜明け前だというのに、もう記者は来ているらしい。 レイラは一瞬だけ顔を上げた。 東の空に淡い光が差し込み始めていた。 頬に当たる風が、少しだけ春の匂いを含んでいる。 レイラ・心の声 《今日で、終わらせる》 《今度こそ、本当に》 彼女はそう思い、静かに裁判所の建物を見上げた。 1 三年の重さ 三年に及ぶ親権裁判は、世間が想像するほど劇的なものではなかった。 誰かが泣き叫び、誰かが劇的な告白をし、正義が一瞬で勝つような話ではない。 本当は、もっと地味で、もっと長く、もっと消耗するものだった。 一度の正しさでは足りない。 一度の証明でも足りない。 「この人に任せてよい」と社会に認めさせるためには、生活そのものを差し出さなければならない。 レイラ
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第15話《春の並走》

歌原レイラ(28歳)──死まで、あと29日。歌原彩(15歳・高校一年生)──春。1 裁判所の外裁判所の門を出ると、空気が少しだけ柔らかくなっていた。昼の光が石畳を白く照らしている。門の外では、街がいつものように動いていた。車の音。信号の変わる電子音。遠くの人の話し声。何も変わっていないように見える。けれど彩は知っていた。今日、世界がひとつ変わったことを。隣を歩くレイラを見る。黒いスーツ。静かな歩き方。背筋を伸ばした姿。どこに立っても、その場所が舞台の入口のように見える人。歌原レイラ。世界が選んだモデル。けれど彩にとっては、ただ一人の姉だった。三年前のことを思い出す。初めてモデルの仕事をした日。立ち方も、目線の置き方も、身体の使い方も、何も分からなかった。ただ、姉の背中を見ていた。三年。その時間は、短いようで、決して短くはなかった。彩は、その三年をただ守られて過ごしていたわけではなかった。2 毎朝の習慣朝。まだ街が眠っている時間。彩は鏡の前に立つ。床にマットを敷く。深く息を吸う。ゆっくり吐く。レイラ体操。業界ではそう呼ばれている。モデルの身体を整えるための基礎トレーニング。背骨。肩。骨盤。脚。身体の軸を整える。レイラが世界で戦うために続けてきた習慣。それを彩は三年間、一日も欠かさなかった。雨の日も。眠い朝も。学校のテストの日も。毎日。三十分。身体は少しずつ変わっていく。姿勢が整う。重心が安定する。鏡の中の自分が、少しずつ“モデルの身体”に近づいていく。レイラの言葉を思い出す。レイラ「モデルは、自分を見せる仕事じゃない」一拍。レイラ「服に、生きる場所を与える仕事よ」だから身体を作る。服を立たせる身体を。彩は鏡の前で姿勢を整える。顎の角度。肩の高さ。背骨の伸び。ほんの数ミリ。その違いが、写真の中ではまったく別の印象になる。トレーニングのあと、彩は机に向かう。英語の単語帳。イタリア語のノート。書き込みの増えた教科書。ノルディの母国語。最初は発音も分からなかった。けれど三年続ければ、少しずつ聞き取れるようになる。言葉は世界を近づける。モデルは、服を着るだけの人間ではない。服が生まれた場所へ、自分の感覚を近づけていく人間
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第16話《教室と姉妹》

歌原レイラ(28)──死まで、あと28日。 歌原彩(15・高校一年生)──春。 1.早朝の街角 (無音。冷えた空気。自販機の明滅。路地の奥で新聞の束が落ちる鈍い音) 心の声(彩) ──昨晩も、帰ってこなかった。 テーブルに転がる空き缶。 アルコールの匂い。 窓を開けても、胸の重さは消えない。 (玄関のチェーンが外れる。頬に触れる冷気) 心の声(彩) ──吸い込む空気に、味がある。 (角を曲がると、自転車を押す背の高い影。指先にインク。新聞を縄で締め直す) 彩 「……おはよう」 (彼は顔を上げ、会釈だけして去る。肩が少し強張っていた。テールライトが朝靄に滲む) 心の声(彩) ──神谷章介。 中一から同じ学年。高校では隣の席になった。 あの時「よろしくね」と言った声の震えまで覚えてる。 返事は……なかった。 (白線の上を朝日が淡く照らす) 2.引っ越しの朝 段ボール箱は三つだけだった。 衣類。 教科書。 ノート。 それから、三年間毎日使ったヨガマットと、擦り切れた単語帳。 それが、歌原彩の「家」だった。 今日、私は姉のマンションへ移る。 玄関に箱を置いたまま、彩は一度だけ振り返る。 もう何度も見たはずの廊下。 剥がれかけた壁紙。 アルコールの匂いが染みついた空気。 ここで過ごした時間を、嫌いだったわけじゃない。 でも、好きだったとも言えない。 ただ、ここで生きた。 彩(心の声) ──ここは、私が生き延びた場所だった。 3.実家・玄関 鍵を開ける音。 和人の帰宅と鉢合わせる。 目が赤い。 和人 「おやおや……裏切り者のお嬢様じゃないか。 姉上様の庇護下でぬくぬく暮らすとはな。」 彩はジャージ姿のまま、玄関に立ったまま言う。 彩 「お姉ちゃん、先に荷物積んでて。 ちょっとだけ、お父さんに言うことあるから」 レイラ 「分かった。」 玄関のドアが静かに閉まる。 彩 「深夜まで飲み歩いて、仕事もしないで……。 最後くらい、“父親”らしい背中を見せたら?」 和人の顔色が変わる。 立ち上がる音。 足音。 胸ぐらをつかまれる。 和人 「……なん
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第17話《光を支える手たち》

歌原レイラ(28)──死まで、あと18日。 歌原彩(15・高校一年生)──春 0.プロローグ:静寂の中の光 白い壁。 木目の床。 午前の光がブラインドの隙間から差し込み、誰もいないオフィスの空気を淡く切り分けていた。 香水の残り香が、まだ静かに漂っている。 机の上には、整然と積まれた資料の束。 企画書、予算案、撮影進行表、スポンサー候補一覧、SNS分析資料。 レイラはまだ椅子に座らず、長机の端に立ったまま、それらを見つめていた。 心の声(レイラ) ──今日も戦場だ。 ──光を浴びる日じゃない。 ──光を、“創る”日。 光は、ひとりでは作れない。 誰かが布を整え、 誰かが光を当て、 誰かが角度を決め、 誰かが残し、 誰かが守り、 誰かが、次へ進める。 その全部の上にだけ、人は立てる。 レイラは会議室の扉を開けた。 1.光を支える者たち 《UTAHARA OFFICE》会議室。 マネージャー・加納。 スタイリスト・井原。 カメラマン・黒瀬。 SNS担当・南条。 メイク・安藤。 ディレクター、レタッチャー。 そしてもう一人、壁際に立って資料を確認している女性がいた。 柳田真悠。 事務所No.1マネージャー。 それは、この事務所の中でという意味ではない。 日本のモデル業界において、最も多くのトップモデルを育て、最も多くのトップブランドと交渉してきたマネージャーという意味だった。 そして──歌原彩の専属マネージャー。 レイラが席に着く。 加納 「議題は三つ。新プロジェクト、SNS戦略、衣装とロケ地。」 南条 「ヨーロッパ圏の数字、かなり伸びてます。」 井原 「前回の黒ドレス、海外勢が黙ってないわよ。」 レイラ 「撮ったのは私じゃないでしょ。私ひとりじゃ何もできない。」 井原 「それを真ん中に座ってる人が言う?」 笑いが起きる。 柳田は笑わない。 資料をめくりながら、冷静に次の話題に移る。 柳田 「レイラの話はいいとして、彩のスケジュールも確認しておきます。」 会議室の空気が少しだけ変わる。 柳田 「今月は撮影一件、ショーのフィッティング一件。以上です。」 南条 「少なすぎません?」 柳田 「意図的に減らしています。」 加納 「スポンサーの追加オファー、
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第18話《香りの罠》

歌原レイラ(28)──死まで、あと18日。歌原彩(15・高校一年生)──春。0.プロローグ夜の歌舞伎町。雨上がりのアスファルトに、赤と青のネオンが滲んでいる。排水溝へ流れていく濁った水が、光の切れ端を細く引きずっていた。人の笑い声。遠くのクラクション。酔った男の怒鳴り声。どこかで割れたグラスの音。それでも、この街の底には奇妙な静けさがある。欲望が飽和しきった場所にだけ沈む、鈍い静寂。遠くでサイレンが鳴っていた。近づいてくるでもなく、遠ざかるでもなく、ただ夜の奥で低くうなっている。ナレーション光と影の狭間で、ひとつの運命が、静かにほどけはじめていた。この夜、まだ誰も人を殺していない。だが、戻れなくなった人間は、もう元には戻らない。1.《Club RAZE》バックヤード(閉店後)白い蛍光灯。ロッカーの金属臭。香水と酒と煙草が、湿った空気の中で混ざり合っている。営業を終えた店内は静まり返っていた。バックヤードのソファに、赤西が深く腰を下ろしている。黒いシャツの第一ボタンを外し、首筋を押さえる。疲労が、目の下に色濃く滲んでいた。スマートフォンの画面を開く。表示。手術費用総額 ¥100,000,000送金済額   ¥85,200,000不足金額   ¥14,800,000赤西は、その数字をじっと見つめる。赤西(心の声)──もう少しだ。──あと少しで届く。背後で缶が軽く鳴る音。No.2の西尾が、缶コーヒーを投げてよこした。西尾「ほら、ブラック。」赤西「……悪い。」プルタブを開ける。短い金属音。西尾は壁にもたれ、横目でスマホを見た。西尾「……すげぇな、お前。」赤西「何が。」西尾「ここ二年、ほぼ休みなしだろ。 売上もずっとトップ。 娘のためってなると、男はここまでやれんだな。」赤西「……やるしかねぇからな。」西尾「で、どんくらいまで来た?」赤西「八千五百二十万。」西尾「おお。」小さく口笛を吹く。西尾「じゃあ、もう見えてんじゃん。 一億まで、あと少しだろ。」赤西「……ああ。」その時。スマホが震えた。通知音。赤西が視線を落とす。通知。海外医療センター為替変動により手術費用が変更されました赤西「……は?」通知を開く。画面が切り替わる
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第19話《同じ手》

歌原レイラ(28)──死まで、あと18日。 歌原彩(15・高校一年生)──春 1.裏通り/深夜 (雨は止んでいた。 だが、路地の奥にはまだ湿った夜気が残っている。 繁華街のネオンは遠く、ここまで来ると光は鈍い。 排水溝の脇に吸い殻が溜まり、古い雑居ビルの壁には剥がれた貼り紙。 人目のある街の裏側にだけ生きている、息の浅い静けさ。) (赤西が歩いてくる。 黒いジャケットの襟を立て、ポケットに手を入れたまま。 だがその足取りには、店で見せる余裕はない。 一歩進むたびに、“ここへ来てしまった”という実感だけが重くなる。) 心の声(赤西) ──引き返せる。 ──今なら、まだ引き返せる。 (立ち止まる。 目の前には、看板も出していない古びた雑居ビルの扉。 西尾に渡された紙片の住所。 ポケットの中で、それが汗を吸って柔らかくなっている。) (赤西は目を閉じる。 脳裏に浮かぶのは、昼の病室。) 心音の声 「ねぇ、紹介するね──お父さんだよ。カッコいいでしょ?」 (赤西の喉が詰まる。 次に浮かぶのは、車内の陽子の横顔。) 陽子の声 「必要とされたいの。」 (赤西、目を開く。 そのまま扉を押す。) 2.雑居ビル三階・小部屋 (狭い部屋。 蛍光灯は一本だけ。 机と折り椅子、棚、灰皿。 薬品とも埃ともつかない、乾いた匂いがこびりついている。 窓はなく、時間の感覚が失われる空間。) (机の向こうに男が一人。 四十代半ば。無表情。 誰かの人生が壊れる場面を見慣れた顔。) 男 「西尾の紹介?」 赤西 「……ああ。」 男 「何が要る。」 (赤西、答えられない。 自分の口からそれを言った瞬間、引き返せなくなると分かっている。) 男 「睡眠導入、鎮静、胃に来るやつ、心臓に来るやつ。 “自然に見せたい”のか、“早く終わらせたい”のかで変わる。」 (赤西の眉がわずかに動く。 その言葉の生々しさに、吐き気に似たものが込み上げる。) 赤西 「……やめろ。」 男 「は?」 赤西 「そういう言い方、するな。」 男は少しだけ笑う。 人の良心が削れる瞬間を、何度も見てきた人間の笑い。 男 「ここに来といて、今さらだろ。」 (沈黙。) 男 「誰に使う。」 赤西 「……関係ないだろ。」
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第20話《伝説の理由》

歌原レイラ(28)――死まで、あと10日。ノルディ・コレクション東京開催まで、あと3ヶ月。1.朝のニュース/都内各所春の朝。空気はやわらかいのに、街だけが妙に落ち着かない。駅の大型ビジョン。通勤電車の車内モニター。コンビニのレジ横。ホテルのロビー。百貨店のエントランス。どこでも同じ顔が流れていた。《速報 ノルディ、東京開催へ》《ノルディ・コレクション、会場下見のため来日》《世界最高峰の舞台、日本上陸》キャスターの声が、朝の日本を塗り替えていく。「ファッション界の帝王、アレッサンドロ・ノルディ氏が本日来日。三ヶ月後に開催されるノルディ・コレクション東京の会場視察、ならびに関係各所との会談が予定されています」「ノルディ・コレクションがアジア圏で本格開催されるのは異例中の異例。都内ホテル、百貨店、セレクトショップ、イベント事業者など、関連業界への経済効果は計り知れないとみられています」映像が切り替わる。羽田空港。黒塗りの車列。集まる報道陣。長玉レンズ。一斉に上がるフラッシュ。続いて、街頭インタビュー。「え、あのノルディが東京でやるの?」「本物の海外モデルが日本に来るってことでしょ?」「やばい、見たい……」「ファッション業界、今年全部これに持ってかれるんじゃない?」別のニュース番組では、経済アナリストが数字を出していた。「関連来日者数、推定数千人規模。トップモデル、デザイナー、バイヤー、編集者、インフルエンサー、ブランド関係者。宿泊・交通・警備・小売・広告・配信まで含めれば、波及効果は数百億円単位になる可能性があります」画面の右上には、すでにトレンド表示。#ノルディ東京開催#世界が東京に来る#レイラは本当に伝説だったそこに、別の文字列が混ざる。#歌原彩がいなければ一瞬だけ。だが、確かにそこにあった。2.ワイドショー・スタジオ/午前セットの中央に、
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