All Chapters of 『RE:LAY ―幽霊となった伝説のモデルが妹をプロデュースする話―』: Chapter 81 - Chapter 90

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第81話《最初の仮縫い》

午後のAtelier SAKUMAには、ミシンの音だけが一定の間隔で響いていた。 机の上には、糸、針、型紙、裁断された布。 その中央に、白い服が置かれている。 本番で使う生地ではない。 色もない。 装飾もない。 形だけを確かめるための、最初の仮縫いだった。 佐久間博之は服を持ち上げ、正面から見る。 肩の位置。 袖の付け根。 腰から裾へ落ちる線。 背中へ回した布の量。 何度確認しても、大きな破綻はない。 「……悪くない」 思っていた以上だった。 展示会の夜。 歌原彩だけを思い浮かべて描いた、最初のデザイン。 あの紙の上にしかなかった線が、ようやく人の身体へ着せられる形になった。 けれど佐久間は、すぐに首を横へ振る。 「まだだ」 まだ彩が着ていない。 トルソーで成立している服と、人の身体で成立する服は違う。 まして。 これは歌原彩から作ろうと決めた服だった。 本人が入るまで、何も決まっていない。 その時、インターホンが鳴った。 佐久間は仮縫いをトルソーへ戻し、一度だけ大きく息を吐いてから扉へ向かった。 * やって来たのは、良太と彩。 その後ろに相沢七瀬と高梨奏。 そして良太にだけ見えているレイラも、当然のように工房へ入ってくる。 「今日はお願いします」 良太が頭を下げる。 「こちらこそ」 彩も続いた。 「お願いします」 七瀬は工房へ入るなり、作業机、照明、鏡、トルソーを順に見た。 奏はほとんど迷わず、中央の白い仮縫いへ視線を止めた。 佐久間は二人の反応に気づく。 「まだ本番用じゃありません。形を見るためのものです」 「分かってます」 七瀬が答える。 奏も小さく頷いた。 良太は白い服を見る。 専門的な良し悪しは分からない。 だから隣へ視線だけを送った。 《どう?》 レイラはしばらく答えなかった。 服の正面から背中までを見ている。 《着てから》 《え?》 《服は、着る前に決めない》 良太は黙って頷いた。 佐久間も同じように彩を見る。 「試着してもらっていいですか」 「はい」 佐久間は仮縫いをトルソーから外し、彩へ渡した。 「こちらで」 試着室の扉が閉まる。 途端に、佐久間が机の上を整え始めた。 すでに揃っている型紙を重ね直し、ペンの向きを直す。 良太はそ
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第82話《正しい人たち》

Atelier SAKUMA。 白い仮縫いの中で、彩が立っている。 その正面に佐久間博之。 少し離れたところに相沢七瀬。 二人とも彩を見ていた。 ただし、見ているものは違う。 「これは、僕が作った服です」 佐久間が言う。 七瀬はすぐに返した。 「歌原彩が着た時点で、あなた一人の服じゃありません」 空気が硬くなる。 良太は二人を見てから、彩へ視線を移した。 彩は何も言わない。 どちらかに賛成すれば、もう一方を否定するような気がしているのかもしれない。 「七瀬さん」 「何ですか」 「触る前に、佐久間さんへ確認してください」 七瀬の眉がわずかに動く。 「確認したら、変えてくれるんですか?」 「必要なら変えます」 佐久間が答える。 「必要です」 「僕は、まだ必要だと思っていません」 「だから説明してるんです」 「説明は聞きました。その上で、今は変えません」 良太が口を挟む。 「前に約束しましたよね。ヘアメイクは七瀬さんへ任せる。でも、他の担当の仕事を勝手に変えない」 「勝手にはしてません」 「してます」 良太は即答した。 「佐久間さんが触らないでと言ったのに、触ろうとした」 七瀬が良太を見る。 「じゃあ、間違ってると思っても黙ってろってことですか?」 「違います。意見を言うなじゃなくて、勝手に変えるなって言ってるんです」 一拍。 「七瀬さんの仕事を、佐久間さんが勝手に変えたら嫌でしょう」 七瀬はしばらく黙った。 やがて、小さく息を吐く。 「分かりました。触りません」 良太は少しだけ肩の力を抜いた。 隣でレイラが腕を組んでいる。 * 佐久間は彩の首元を見る。 「ここを高くしたのは、歌原さんを大人にも子どもにも寄せたくなかったからです。今しかない曖昧さを残したかった」 「意図は分かります」 七瀬は答える。 「でも今の高さだと、顎の影が首元へ落ちすぎる」 「照明で調整できます」 「会場も照明も分からないのに?」 「照明も含めてランウェイでしょう」 「面白さのために、彩を消さないで」 「消してません」 二人とも声は大きくない。 それでも引かない。 少し離れた場所で、奏が仮縫いを見ていた。 首元。 肩。 腰。 裾。 何かを探しているようだった。 良太は心の中で聞く。
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第83話《ちゃんと歩ける服》

「だから、ちゃんと歩ける服にしてほしいです」 白い仮縫いの中で、彩が佐久間博之を見ていた。 佐久間はすぐには答えなかった。 首元。 肩。 腰。 裾。 自分が引いた線を、一つずつ確かめるように見る。 歌原彩だけを見て描いたはずの服だった。 けれど今、その服の中にいる彩は、少し苦しそうに立っている。 「……分かりました」 佐久間がようやく答えた。 「直します」 「全部ですか?」 「いいえ」 佐久間は首を横に振る。 「好きだと言ってくれたところは残します」 一拍置いて、仮縫いを見る。 「歩けないところだけ、全部見つけます」 彩は小さく頷いた。 「お願いします」 その言葉は、服を作ってもらうだけの人のものではなかった。 自分が着る服に、自分も関わろうとしている。 良太には、そう聞こえた。 * 「一度、座ってみてください」 佐久間が椅子を出した。 彩が腰を下ろす。 その瞬間、背筋が不自然に伸びた。 七瀬がすぐに気づく。 「苦しい?」 「少し」 「どこが?」 今度は佐久間も、先に服を見るのではなく彩へ聞いた。 彩は腰の後ろを示す。 「後ろへ引っ張られる感じがします」 奏が彩の背後へ回った。 布と身体の間を確認する。 「背中の布が上へ引かれてます」 七瀬は顔を見ていた。 「顎も上がってる」 「顎?」 佐久間が彩を見る。 「苦しいから、身体が逃げてるんだと思います」 七瀬の言葉に、佐久間は何も返さなかった。 少し前までなら、首元の高さを巡って反論していたかもしれない。 今は彩の姿勢を見ている。 七瀬も同じだった。 「私、顔しか見てなかった」 小さく言う。 「首元が顔を消す。そればっかり」 佐久間は白い服を見る。 「僕は、服しか見てませんでした」 奏が裾の近くへしゃがんだ。 手を伸ばしかけて。 止まる。 「触ってもいいですか?」 佐久間が一瞬だけ奏を見る。 「お願いします」 許可を得てから、奏は裾を少し持ち上げた。 「私は、動きばかり見てました」 良太は三人を見た。 「みんな彩を見てたんじゃないの?」 誰もすぐには答えなかった。 隣にいるレイラが小さく言う。 《見てたわ》 良太だけに届く声。 《自分が見たいところだけ》 良太は何も返さなかった。 そ
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第84話《新人の目》

午後のAtelier SAKUMA。 作業机の上には、厚さも硬さも違う布が並んでいた。 奏は一枚を持ち上げる。 揺らす。 落とす。 次の一枚。 また同じことをする。 良太が少し離れたところから見ていた。 「何してるの?」 奏は布から目を離さない。 「探してます」 「何を?」 少し考えてから答えた。 「彩さんを待たせない布です」 今の仮縫いは、立っている時には綺麗だった。 けれど、歩くと裾が一拍遅れる。 彩の足が先へ出て。 布があとから追いつく。 奏は今の布を持ち上げた。 「外側は、このままでいいと思います」 佐久間博之が見る。 「静けさを残すために選んだ布です」 「はい。そこは残したいです」 奏は別の薄い布を、その内側へ重ねた。 「変えるなら、中だけかなって」 佐久間が二枚を受け取る。 軽く揺らすと、内側が先に動き、外側が少し遅れて落ちた。 「……面白い」 奏の胸が少しだけ軽くなる。 その直後。 「根拠は?」 七瀬の声が入った。 奏の手が止まる。 「歩幅が変わっても同じ? ターンでも? 本番用の生地に変えても?」 奏は答えられなかった。 頭の中には形がある。 でも。 説明できるほど確かではない。 「……たぶん。試してみないと」 「本番で『たぶん』は使えない」 七瀬はそこで止めた。 やめろとは言わない。 ただ。 考えろと言っている。 良太が白い仮縫いを見る。 「じゃあ、試してみれば?」 七瀬が見る。 「失敗したら?」 「仮縫いですよね」 一拍。 「試すためにあるんじゃないですか」 佐久間が奏を見る。 「どれくらい時間が必要ですか?」 「二十分ください」 「分かりました」 奏の手が動き始めた。 * 仮縫いの裾を一部だけ外す。 外側の形は触らない。 内側に二種類の布を重ねる。 佐久間が横から見る。 「ここまで入れると、ターンした時に中が見えます」 「少しなら、見えていいと思います」 「最初のデザインとは変わりますよ」 否定ではない。 理由を聞かれている。 奏は白い服を見る。 「この服って、立ってる時はすごく静かですよね」 「はい」 「でも、歩いてる時まで全部が静かだと」 一拍。 「彩さんが、服の中に閉じ込められて見えるんです」 佐
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第85話《先生と呼ばれる人たち》

午後。 高梨奏は、桐島誠司の事務所で資料棚の前に立っていた。 UTAHARA MODEL OFFICEへ二か月間貸し出されている今も、所属先はここだ。 指定された過去のコレクション資料、国内外のブランド資料、生地見本を鞄へ入れていく。 机の向こうでは、桐島が別件の資料を読んでいた。 奏は何度か、その横顔を見る。 聞きたいことはあった。 佐久間博之の服へ、自分がどこまで意見を出していいのか。 世界へ続く大会の衣装に、自分が好きで見てきたものを入れていいのか。 けれど。 ここで聞けば、また桐島の答えを待つことになる。 奏は何も言わず、鞄を閉じた。 その時。 机の上のスマートフォンが震えた。 《RE:CODE MODE CONTEST 出場チーム主要スタッフ追加発表》 何気なく通知を開く。 最初に表示されたのは、御堂玲奈。 その下に。 ヘア。 メイク。 スタイリング。 トレーナー。 演出。 雑誌やショーのクレジットで何度も見た名前が並んでいる。 指を滑らせる。 次。 真壁ミラ。 クロスリンク・エンタメ。 担当マネジメント、南条圭介。 さらに下。 スタイリスト――桐島誠司。 奏の指が止まった。 一度、画面を閉じる。 もう一度開く。 名前は変わらない。 「先生」 桐島は資料から目を離さない。 「何だ」 「RE:CODE MODE」 一拍。 「出るんですか」 桐島の手が止まった。 奏は画面を向ける。 「真壁ミラさんの、スタイリストとして」 桐島は見た。 驚かなかった。 「そうだ」 短い返事だった。 奏は何も言えない。 自分を二か月だけチーム彩へ送り出した人。 大会の外から見ている人。 どこかで、そう思っていた。 その先生が。 今度はランウェイの向こう側へ立つ。 「どうして……」 「依頼を受けたからだ」 「そうじゃなくて」 奏は言葉を探す。 「先生が、私たちと同じ大会に……」 「同じではない」 奏が止まる。 桐島は椅子へ背を預けた。 「俺は真壁ミラを立たせる」 一拍。 「お前は、歌原彩を立たせる」 視線が奏へ向く。 「別のチームだ」 その一言で。 曖昧だった距離が、はっきりした。 * 「先生と、戦うんですね」 「俺と?」 桐島が眉を寄せる
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第86話《十六歳の夜》

七月十五日。 夜の1207号室には、小さなケーキが置かれていた。 白いクリームに苺。 その上に、十六本のろうそく。 「……多くない?」 良太が言うと、七瀬が冷たく返した。 「十六歳なんだから十六本でしょ」 「そうじゃなくて、燃えない?」 「その前に、早く吹き消してもらえばいいでしょ」 「なるほど」 「最後、つきました」 奏が慌てて十六本目から手を離す。 佐久間博之が照明を消した。 部屋が暗くなり。 十六本の火が、彩の顔を照らす。 歌原彩。 今日で十六歳。 テーブルを囲むのは、良太、七瀬、奏、佐久間。 そして仕事を終えて駆けつけた南条圭介。 その少し外側に。 もう一人。 誰にも見えないレイラがいる。 《彩》 良太にだけ届く声。 《お誕生日、おめでとう》 彩には聞こえない。 それでもレイラは、まっすぐ妹を見ていた。 「願い事した?」 良太が聞く。 「まだです」 「火が消える前にしなさい」 七瀬に言われ、彩は目を閉じた。 レイラはその横顔を見る。 何を願ったのか。 聞くことはできない。 けれど。 願える未来がある。 今は。 それでよかった。 彩が息を吹く。 十六本の火が揺れ。 ほとんど消えた。 端の一本だけが残る。 「あ」 奏が声を上げる。 「欲張ったんじゃない?」 「一つしか願ってません」 「大きい願いなんでしょう」 南条が笑う。 彩がもう一度息を吹いた。 最後の火が消える。 拍手が起きた。 レイラも。 音の出ない手を叩いた。 「十六歳、おめでとう」 良太が言う。 「ありがとうございます」 彩が笑う。 その返事を聞いて。 レイラも、少しだけ笑った。 * ケーキを食べたあと。 小さなプレゼントが彩の前へ並んだ。 南条からは革のブックマーカー。 佐久間からは、本番衣装に使う布を収めた小さな額。 七瀬からは携帯用の鏡。 奏からは黒いリボンのチャーム。 「かわいい」 彩が言うと、奏が少し照れた。 「本番衣装とは関係ないんですけど……私が好きなので」 「私も好きです」 奏の顔が明るくなる。 良太からは大きめの水筒だった。 七瀬が見る。 「実用性しかない」 「毎日使えるだろ」 彩は水筒を抱える。 「使います」 「ほら」 「彩が
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第87話《休まない》

翌朝。 良太は1207号室のリビングで、スマートフォンを握っていた。 画面には、まだ送っていないメッセージ。 《今日はウォーキング練習を中止にします》 昨夜。 歌原陽子の名前がニュースに出た。 レイラの死に関わった可能性がある重要参考人として。 「送ればいいじゃない」 隣でレイラが言った。 「そう思ってる」 《なら送って》 良太は画面を見たまま動かない。 「でも、勝手に決めていいのかな」 レイラが黙った。 あんなニュースを見た翌日だ。 休ませる。 普通なら、それでいい。 けれど。 最近の彩は、自分で決めるようになっていた。 苦しいことを言う。 嫌なことも伝える。 RE:CODE MODEへ出ることも、自分で選んだ。 「本人に聞いてからでいいだろ」 《聞いたら、行くって言うわよ》 「なんで分かるんだよ」 その時。 廊下の扉が開いた。 彩が出てくる。 練習用の黒いパンツ。 薄手のトップス。 肩にはバッグ。 片手には。 昨日、良太が贈ったばかりの水筒。 準備は終わっていた。 レイラが言う。 《ほら》 「怖いな、お前」 「おはようございます」 「……おはよう」 良太は彩の顔を見る。 目元に少し疲れが残っている。 「今日、練習行くつもり?」 「はい」 「今日は休みにしようかと思ってた」 彩の手が止まる。 「どうしてですか」 「昨日のことがあったから」 少しの間。 「大丈夫です」 その言葉に。 レイラの表情が変わった。 昨夜。 明日になったら、大丈夫って言うかもしれない。 大丈夫じゃないのに。 そう言っていた。 良太は否定せずに聞く。 「それでも行きたい?」 「はい」 「一日休んでも、大会が駄目になるわけじゃない」 「分かってます」 「なら」 「休みたくないです」 声は強くない。 でも。 迷ってはいなかった。 「理由、聞いていい?」 彩は水筒を見る。 「何もしないでここにいたら」 一拍。 「ずっと昨日のことを考えると思います」 顔を上げる。 「練習したいです」 「大会だから?」 「それもあります」 そして。 「私が出るって決めた大会なので」 良太はスマートフォンの画面を閉じた。 「分かった」 彩の表情が少し緩む。 「ただし
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第88話《切り替え方》 

朝の教室。 歌原彩は教科書を開いていた。 文字は読める。 意味も分かる。 それなのに。 三行前から先へ進めない。 スマートフォンは鞄の中に入れてある。 見ないと決めた。 それでも。 母親の顔が頭から離れなかった。 《歌原レイラさん死亡事件》 《実母・歌原陽子氏を重要参考人として捜査》 まだ何も決まっていない。 だからこそ。 考えても終わらない。 「彩」 隣から声がした。 神谷章介が、自分のノートを指で叩いている。 「そこ、次のページ」 彩は教科書を見る。 授業はとっくに進んでいた。 「あ……ありがとう」 慌ててページをめくる。 章介は、それ以上何も言わなかった。 * 昼休み。 章介は弁当を食べながら、数学の問題集を開いていた。 彩の弁当は、ほとんど減っていない。 「食わないの?」 「食べてるよ」 「全然減ってない」 彩は卵焼きを一つ取った。 章介はそれを見届けると。 また問題集へ戻る。 その距離が。 今日はありがたかった。 しばらくして。 彩が小さく呼ぶ。 「章介くん」 「ん」 「聞いてもいい?」 章介のペンが止まる。 「内容による」 「そういうところ、変わらないね」 「何を聞くの」 彩は少し迷った。 「章介くんって」 一拍。 「どうやって切り替えてるの?」 章介が顔を上げる。 「何を」 「家のこととか。新聞配達とか。学校とか」 言ってから。 少し踏み込みすぎたかもしれないと思う。 けれど章介は。 問題集を閉じただけだった。 「俺、切り替えてないよ」 彩は瞬きをする。 「え?」 「朝は眠いし、雨の日は最悪だし」 章介は普通に言う。 「家のこと、授業中に考える時もある」 彩は黙った。 章介は。 全部きれいに分けられる人なのだと思っていた。 「じゃあ、どうして普通にできるの?」 「普通にはできてない」 「でも」 「彩がそう見てるだけ」 短い返事だった。 章介は机へ手を置く。 「考えたからって、その場で何かできるわけじゃない時あるだろ」 「うん」 「学校にいる時に、家のこと思い出しても、すぐ帰れない」 「うん」 「なら、後で考える」 彩の目が止まる。 「後で?」 「忘れるんじゃなくて」 一拍。 「後にするだけ」
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第89話《今は、服を見る》 

RE:CODE MODE CONTESTまで、あと一か月。 午後のウォーキングスタジオで、彩は佐久間が用意した調整用の衣装を着ていた。 本番用そのものではない。 丈や重さ、歩いた時の布の動きを確かめるために、本番へ近い条件に寄せたものだ。 良太はスタジオの端で資料を持っている。 七瀬は彩の顔。 奏は裾。 佐久間は少し離れた位置から全体を見ていた。 良太の隣には、レイラもいる。 もちろん。 彩には見えない。 「今日は、一つだけ決めてきました」 彩が言った。 良太が資料から顔を上げる。 「何を?」 彩は自分の袖を見る。 「歩いている間は、服を見ます」 「服を見る?」 「はい」 少し考えてから続ける。 「考えないようにするんじゃなくて」 一拍。 「今は、後にします」 良太には、すぐ意味が分からなかった。 「後にする?」 「昨日、友達に教えてもらいました」 彩はそれ以上言わなかった。 良太も聞かなかった。 レイラだけが、じっと彩を見る。 《悪くないわ》 良太は心の中だけで返す。 《珍しいな》 《何が?》 《お前が、人のやり方をすぐ否定しないの》 《失礼ね》 良太の口元が少し緩む。 七瀬が気づいた。 「何?」 「いや、何でもないです」 佐久間が立ち上がる。 「では、一度歩いてみてもらえますか」 「はい」 彩がスタート位置へ向かう。 床に引かれた一本のライン。 昨日も歩いた場所。 彩は一度だけ目を閉じた。 それから。 歩き出す。 一歩。 二歩。 昨日より、歩幅は少し小さい。 正しく歩こうとしているわけではない。 裾。 肩。 腰。 布がどこで身体から離れ、どこで戻るのか。 そこを確かめながら進む。 ターン。 戻る。 佐久間が足元を見る。 奏も同じ場所を見ていた。 良太には、昨日との違いがまだはっきり分からない。 《どう?》 レイラは少し待ってから答えた。 《昨日よりは、いる》 《いる?》 《服の中に》 良太は彩を見る。 昨日は。 間違えないように歩いていた。 今日は。 歩くたびに、自分の身体と服の関係を見ている。 彩が戻ってくる。 「佐久間さん」 「はい」 「この裾って、もう少し動いた方がいいですか?」 佐久間はすぐには答えなかっ
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第90話《一緒に立つ》

衣装合わせの日。 1207号室の事務所スペースには、佐久間博之が持ち込んだ服が掛けられていた。 最初の仮縫いから、いくつも修正が入っている。 高い襟元。 肩から落ちる静かな線。 歩いた時だけ、少し遅れて動く裾。 彩が「残したい」と言ったものは残しながら、首や肩、腰を締めつけていた部分は直されていた。 佐久間が最後の留め具を確認する。 「一度、着てもらえますか」 「はい」 彩は服を受け取り、別室へ向かった。 母親のことが消えたわけではない。 ニュースも続いている。 考えれば、胸はまだ重くなる。 それでも。 今、何を見るのか。 それくらいは、自分で決めてもいい。 彩はそう思えるようになっていた。 * 彩が着替えている間、良太はノートパソコンを開いていた。 RE:CODE MODE CONTEST運営から、出場チーム紹介ページの最終確認が届いている。 名前。 所属。 年齢。 これまでの仕事。 チームメンバー。 順番に確認していた良太の指が止まった。 《世界的モデルとして活躍した故・歌原レイラさんの妹》 その下には、 《姉と同じ世界の舞台を目指す、16歳のモデル》 とある。 「……これか」 七瀬が画面を覗き込む。 「どうするの?」 「彩に聞く」 少し離れた場所にいたレイラが良太を見る。 《消さないの?》 「俺が決めることじゃないだろ」 《でも、彩の紹介よ》 「だからだよ」 レイラは黙った。 以前なら、自分が先に決めていたかもしれない。 使わせない。 比べさせない。 彩を守るためなら、それが当然だと思っていた。 けれど。 今の彩は、自分で選び始めている。 その時、別室の扉が開いた。 * 佐久間の服を着た彩が戻ってきた。 佐久間が立ち上がる。 奏は足元を見る。 七瀬は顔を見る。 彩が一歩、前へ出た。 布が身体についてくる。 裾が少し遅れて揺れた。 けれど、彩を待たせない。 肩にも余計な力は入っていなかった。 「良太さん?」 彩が声をかける。 「どうしました?」 「ああ。大会の紹介文が来てるんだ」 良太は画面を彩へ向けた。 「最終確認してほしいって」 彩が近づき、画面を読む。 《歌原彩 16歳》 《UTAHARA MODEL OFFICE所属》 《
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