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52.初案件の夜

مؤلف: 中岡 始
last update تاريخ النشر: 2026-04-12 15:25:29

史人の部屋の夜は、昼より静かで、静かだからこそ音が立つ。冷蔵庫の低い唸り、換気扇の小さな回転、窓の外を通る車のタイヤが濡れた路面を削る音。仕事を辞めたはずなのに、史人の身体はその音の隙間に、通知音の幻を挟み込もうとする。耳が勝手に構える。

机の上にはノートパソコンが開き、画面には監視ツールのダッシュボードと、チャットのやり取りが並んでいる。客先常駐だった頃と似た景色だ。違うのは、背後に誰も立っていないことと、責任の矢印の向きが一本しかないことだった。自分に向く一本。逃げ道はない。でも、押し付けられることもない。

初案件は藤堂が紹介してきた小規模な運用保守だった。小規模と言っても、見えない地雷が埋まっているのはいつも同じだ。人が足りなくて回し続けた現場ほど、暫定対応が暫定のまま積み重なっている。ログが保存されていない。監視の閾値が雑だ。手順書が更新されていない。誰かがいなくなって、誰も気づかないまま放置された穴が、夜に口を開ける。

その口が開いたのは、二十三時を回った頃だった。

スマホが震えた。通知音は控えめに設定している。そ

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  • 依存の代償は、恋だった~抱かれて呼吸を取り戻す社畜と、音を失った天才   68.ノクターンの続き

    夜の部屋は、昼の部屋より狭い。狭いのに、隙間が多い。照明の下でだけ明るく、照明の外側は薄い影になって、そこに音が溜まる。冷蔵庫の低い唸り、換気扇の回転、隣室の水道の気配。遠い車の音が、窓ガラスで一度ひしゃげてから入ってくる。史人はテーブルの上に置いたスマホを、何度も見た。画面は暗い。通知はない。暗いままの画面が、かつては救いだった。今は違う。暗いままでも、胸の奥が勝手に騒ぐ。来るはずのない通知を待つ癖が、身体に残っている。それでも、いまは呼吸がある。逃げ場の呼吸じゃない。戻るための呼吸だ。律は台所に立ち、エプロンを胸元で結び直した。結び目を確かめる指が丁寧で、丁寧さが強がりではなくなっている。イタリアで身につけた動作だと史人は思った。向こうの市場の匂いを、ここへ連れてきたみたいに。「何作る?」律が振り返って言った。声は軽い。軽い声は膜ではなく、確かめの声になっていた。史人は冷蔵庫の中身を思い浮かべた。買い物は帰りに済ませている。袋から野菜を出して冷蔵庫に押し込み、冷える音と一緒に少しだけ安心した。生活は音があると分かりやすい。音があると、空白が薄まる。「鍋、でもええ?」史人が言うと、律は少し考えてから頷いた。「鍋はええな。あったかい」律の言葉に、史人の胸が少しだけ緩んだ。あったかい、は一番単純な答えで、一番強い合意でもある。鍋は誰かの体温を借りなくても、あったかくなる。逃避ではなく生活として、そこにある。史人はまな板を出し、包丁を手に取った。刃の重さが、手に馴染む。仕事のキーボードより、ずっと素直な道具だと思う。切れば切れる。切った分だけ形になる。進捗表の色みたいに、何をしても詰められることがない。切り口が揃わなくても、誰も責めない。律は野菜を洗い、手を拭いたタオルをきちんと掛け直した。掛け直す動作が、境界線の動作に見える。雑に扱わない。雑に扱うと、自分が雑に扱われる。律がその理屈を身体で知っているのが分かる。史人は白菜を切りながら、律の横顔を盗み見た。頬の線が少し柔らかい。けれど目の奥はまだ鋭い。鋭さは恐れの鋭さではなく、選ぶための鋭さだ。鍋に出汁を張る

  • 依存の代償は、恋だった~抱かれて呼吸を取り戻す社畜と、音を失った天才   67.境界線を引く言葉

    昼の光は、夜より残酷だと史人は思うことがある。夜は暗さが隠してくれる。昼は輪郭が出る。輪郭が出ると、見ないふりをしていたものが、机の上に置かれてしまう。午前の作業を切り上げて、史人はノートパソコンの蓋を閉じた。独立してから、閉じるタイミングを自分で決められるようになった。それでも、手が反射で震える瞬間がある。蓋を閉じても通知が鳴る気がする。梅田の終電レースが、身体の裏側にまだ貼り付いている。史人はその感覚を、呼吸で押さえた。最近は呼吸が少しだけ役に立つ。律の呼吸を見て学んだのかもしれない。台所から味噌汁の匂いが漂ってきた。律が小鍋を火にかけ、湯気を見ながら味噌を溶いている。湯気は祖父母宅の台所の湯気と似ていて、生活の匂いは人を油断させる。その油断の隙間に、影は入り込む。律のスマホがテーブルの上で震えた。音は鳴らない設定になっている。震えだけで十分だ。律の肩が、ほんの少しだけ上がる。上がった肩がすぐに落ちる。律が呼吸を選んだのが分かる。それでも指先は冷たくなるらしく、律は鍋の取っ手を握り直した。史人は椅子から立ち上がりかけて、止まった。止まることが、今の二人の合図になっている。何かが起きたとき、勢いで触れない。勢いで聞かない。まず止まり、息を整える。律は鍋の火を弱めてから、スマホを手に取った。画面を見て、目が一瞬だけ固くなる。固くなったのに、息は止まらない。律は親指で画面を滑らせ、通知の内容を確認する。確認したあと、スマホを伏せた。伏せる動作がゆっくりで、生活の動作に戻そうとしているのが分かる。史人は声を出さず、コップに水を注いで律の横に置いた。律は頷いて水を飲んだ。喉が鳴る。喉が鳴ると、史人の胸の奥の緊張が少しだけ緩む。律は水のコップを置き、息を吸って吐いた。吐く息が長い。長い息は、戻るための息だ。史人は言葉を選んだ。大丈夫? は言わない。大丈夫と言わせる言葉になるからだ。代わりに、必要なことだけを確認する。「今、読む?」律は一瞬だけ史人を見た。目の奥に影がある。影は恐怖の影だ。恐怖はまだ消えていない。でもその影の中に、薄い光もある。光は、境界線を引けるようになった光だ。「読む」

  • 依存の代償は、恋だった~抱かれて呼吸を取り戻す社畜と、音を失った天才   66.鍵を渡す日

    史人の部屋の鍵は、いつもより重かった。金属の重さではなく、手の中で鳴らない重さだ。ポケットの底で触れたとき、冷たいはずの感触がぬるく感じる。身体が勝手に体温を乗せる。自分のものだったはずの鍵が、誰かの手に渡る前に、別の意味を帯び始めるのが怖い。玄関の前に立つと、廊下の蛍光灯が白くて、少しだけ梅田の白を思い出した。あの白は人を干上がらせる。ここは違うと分かっていても、白は白だ。史人は息を吸い、吐いて、鍵穴に差し込んだ。音が小さく、乾いている。回す指の腹が少し汗ばんでいるのが分かる。背後で足音が止まる。律が立っていた。空港から戻って数日、律は祖父母の家に荷物を置き、必要なものだけをリュックに詰めて来た。史人の部屋で一度、試す。そこまでを二人は言葉にした。試す、という言葉が便利なだけではないと、史人は知っている。試すと決めることは、いつでも止まれると決めることだ。止まる権利を最初に置く。それが今回の合意だった。ドアを開けると、部屋の匂いがした。洗濯洗剤と、パソコンの熱が残ったような乾いた匂いと、少しだけ煙草ではない紙の匂い。律の匂いはまだ混ざっていない。混ざっていないことが少し寂しく、同時に安心する。混ざったら戻れない気がして、どこかで怖い。「入って」史人はそう言った。言葉が短い。短くないと、余計なものが紛れ込む。「お邪魔します」律は靴を脱ぎ、揃えた。揃え方が丁寧すぎて、史人は笑いそうになり、笑わなかった。律は気を張っている。気を張っているのに、張り詰めていない。張り詰める一歩手前で、止まれる感じがする。それが留学の成果なのだろうと、史人は勝手に思った。リビング兼寝室の狭さは変わらない。ベッドと机と、本棚と、最近買った折り畳みの小さなテーブル。宵だまりで飲んだ帰りに、何度もこの部屋へ戻った。その導線に律が乗ると、過去の逃避が一瞬だけ顔を出す。史人は喉の奥がきゅっとなるのを感じた。律は視線を部屋の隅に滑らせ、軽く息を吐いた。息が止まっていない。史人はそれだけで少し落ち着く。「荷物、ここでええ?」律がリュックを持ち上げる。置き場所を聞くのが、律の条件提示の仕方だと史人は理解している。勝手に置かない

  • 依存の代償は、恋だった~抱かれて呼吸を取り戻す社畜と、音を失った天才   65.ストリートピアノの余韻

    ホテルを出た瞬間、空気が変わった。夜の間に溜まった湿り気が、朝の光に薄く引き延ばされている。ロビーに漂うコーヒーの匂いはまだ強く、スーツケースの車輪が床を擦る乾いた音が、どこか遠い。窓の外には滑走路が見え、昨夜と同じ点滅が今は淡く、昼に飲み込まれかけていた。史人はカードキーを返却機に入れる前、指先に残るプラスチックの角の感触を一瞬だけ確かめた。握りしめれば、昨夜の熱まで握りしめられそうで怖い。握りしめないほうがいい。逃避に戻らないために、ここで眠ったのだと、自分で決めたのだと、忘れないために。律はフロントを横目に見ながら、ひとつ息を吸った。浅くない。胸の奥まで入って、肋骨の裏側に柔らかい重みが広がる。その重みが「生きてる」を支えるのだと、律は知っている顔をしていた。以前の、息を止める顔ではない。史人はそれに気づいた瞬間、言葉が喉に詰まった。上手く言えない。おかえりの次に何を置けばいいのか、まだ分からない。ただ、呼吸が止まっていない。それだけで、胸の中の硬い塊が少しだけ溶ける。連絡通路を渡ると、窓が大きくなり、海の色が見えた。空港の外側は、思っていたより明るい。明るさは現実を連れてくる。昨夜の余韻を抱えたまま現実に踏み出すと、いつか転ぶ気がする。史人はその恐怖を、足の裏の感触で誤魔化した。床が固い。歩ける。歩くしかない。電車の時間を確認しようと、律がスマホを取り出す。画面の白さが朝の光と重なり、史人は反射で身構えた。通知音が鳴っていないのに、身体が先に構える癖は、まだ完全には抜けていない。律の指先が画面を滑り、数秒、止まる。律は眉を少しだけ上げた。見つけたのは、情報だった。脅しでも、契約書でもない。ただの、駅周辺の案内の一行。けれど律は、その一行に目を留める顔になった。逃げ場を探す顔ではなく、自分で選ぶ顔。「なあ」声は小さく、滑走路の遠い音に溶けそうだった。それでも史人は聞き取る。「ちょっと寄り道したい」史人は足を止めた。すぐに理由を聞きそうになって、飲み込む。理由を聞けば、正しさで埋めてしまいそうな気がした。今は、正しさより、律が今ここで何を欲しがっているかを確かめたい。「寄り道?」

  • 依存の代償は、恋だった~抱かれて呼吸を取り戻す社畜と、音を失った天才   64.チェックアウト、ここから先の現実

    朝の光は、夜の約束を容赦なく薄める。ホテルのカーテンの隙間から差し込む白さは、昨夜のスタンドの円い灯りとは違って、輪郭をはっきりさせた。ベッドのシーツの皺も、床に落ちたタオルの端も、窓の外の滑走路の線も、現実の線として並び直される。史人は目を開けた瞬間に、自分が息をしていることを確かめた。胸の奥が浅くならない。終電の計算も、通知音の幻も、今はない。代わりに、隣の体温がある。体温があるのに、逃避の甘さだけではない。昨夜、言葉で合意した「止まれる」という感覚が、まだ身体の奥に残っている。律はまだ眠っていた。横顔の角が、梅田の夜より少しだけ丸く見える。寝ているのに眉間の皺が薄い。眠りが浅いときに出る肩の硬さも、今はない。史人はそれを見て、胸の奥が熱くなりそうになり、熱くなりすぎる前に息を吐いた。熱くなるのは悪いことではない。ただ、熱だけで動くと、また同じ場所に戻る。戻る場所が、宵だまりと1Kだけになってしまう。史人は静かにベッドを抜けた。床は冷たい。足裏が冷えると、頭が少し冴える。洗面台の前で顔を洗う。水が頬を叩き、夜の余韻を削る。鏡の中の自分は、寝不足の目をしているのに、目の奥が変に澄んでいた。澄んでいるせいで、怖い。澄んでいると、逃げ道がない。逃げ道がないのは、悪いことではない。選ぶしかないからだ。コーヒーメーカーのボタンを押すと、低い振動音が小さく響いた。豆の香りが、空調の乾いた匂いに混ざり、部屋に生活の気配を増やしていく。史人は紙コップに注ぎ、湯気を見つめた。湯気はすぐ消える。消える速度が、今の自分の生活と似ていると思った。整えても、放っておけばまた散らかる。散らかる前に手を入れるしかない。律が身じろぎをした。布団の擦れる音が微かに聞こえ、次に、息を吸う音が聞こえた。律は目を開け、天井を見て、状況を確かめるように瞬きをした。目が史人を見つけるまでに一拍ある。その一拍が、昨夜の「止まれる」拍に似ていた。律が掠れた声で言う。「……朝やな」史人は頷いて、コーヒーを差し出した。「飲む?」律は起き上がり、受け取った。指が史人の指に触れ、触れた瞬間に引っ込めない。触れたまま、律は紙コッ

  • 依存の代償は、恋だった~抱かれて呼吸を取り戻す社畜と、音を失った天才   63.窓の外の機体灯

    未明のホテルの部屋は、昼の白さをすっかり失っていた。壁の灯りは落とされ、ベッドサイドのスタンドだけが、淡い円を床に作っている。空調の乾いた息が一定の間隔で吐かれ、肌の汗を薄く冷やした。窓の外には、滑走路の点滅が規則的に並び、黒い空を切り取るガラスに、細い光が浮かんでいる。機体灯が遠く動くたび、ここが「空港の夜」だと改めて突きつけられる。史人はベッドの端に座り、手のひらを膝の上で組んだ。指先に残る体温が、まだ熱い。熱いのに、落ち着いている。さっきまでの熱が、虚しさに沈んでいかない。それが不思議で、怖かった。怖いのは、これがただの一夜の慰めに戻れないからだと、史人は薄く理解していた。律は浴室から出てきたところだった。濡れた髪をタオルで乱暴に拭きながら、部屋の薄い灯りの中で一瞬だけ立ち止まる。ホテルの部屋着は体の線を隠しきれず、肩から首筋にかけての白さが、灯りを柔らかく受けている。史人は視線を逸らすべきか迷い、迷ったまま見てしまった。見てしまっても、律は何も言わない。言わないまま、窓の方へ歩く。窓際に置かれた小さなテーブルの上には、さっき律が飲んだ水のボトルが半分残っている。律はそれを指で回し、キャップの感触を確かめるように握った。握った指が、ほんの少し震えた。震えは寒さのせいではない。史人は、それが「言葉」を出す前の揺れだと感じた。史人は息を吸い込み、吐いた。吐く息は長くする。長くすると胸の奥が少し広がる。広がった場所に、律の存在が入ってくる。入ってくるのに、押し潰されない。押し潰されない自分になったのだと、史人は思い込みたい。律は窓の外に目をやった。点滅する灯りを眺めながら、喉の奥で何かを飲み込む仕草をした。言葉を選ぶときの癖だ。梅田で、鍵盤に触れる前も、こんなふうに息を止めかけた。あの時は音が先で、言葉は後だった。いや、言葉は後に来なかった。来なかったことが、ずっと史人の胸の奥で残響になっていた。律が背中越しに言う。「なあ」史人はすぐに返せない。喉が固まる。返事をしない沈黙が、律を追い詰めるかもしれないと思い、史人は無理に声を出した。「うん」律は振り返らなかった。振り返らないまま、続ける。

  • 依存の代償は、恋だった~抱かれて呼吸を取り戻す社畜と、音を失った天才   62.触れる前に、止まれる

    史人の額が律の肩に触れたまま、二人の呼吸が同じ速度を探す。ホテルの空調は乾いていて、肌の熱を少しだけ奪う。その奪われる感覚が、逆に熱をはっきり輪郭づけた。汗と石鹸の匂いが混ざり、遠い場所の移動の疲労が、今ここでほどける準備をしている。律は史人の手を握ったまま、ゆっくり指を絡めた。絡める指先が、急がないことを約束するみたいに丁寧だった。史人はその丁寧さに胸が痛んだ。痛みは罪悪感ではなく、ようやく触れられる場所に触れてしまった感覚だった。律が顔を上げ、史人の目を見た。見て、確かめる。以前なら、目を合わせる前に身体で答えを取りに来た。今は目を合わせてから、返事を

  • 依存の代償は、恋だった~抱かれて呼吸を取り戻す社畜と、音を失った天才   61.中立地帯としての部屋

    部屋の扉が閉まった瞬間、外の反響が一枚剥がれた。空港のロビーに満ちていた金属音やアナウンスの残り香が、ホテルの絨毯に吸われていく。代わりに、白い灯りの静けさが落ちてきて、空調の乾いた風が首筋を撫でた。史人は息を吐き、吐いた息がどこにも引っかからずに落ちていくのを感じた。逃げ場を閉じたというより、ここから先は自分たちの選択でしか進まない、という薄い緊張が部屋の空気を支えている。律はキャリーケースの取っ手から手を離し、肩のストラップを指でずらした。指先が少し赤い。長い移動と、空港の冷気が残っている色だ。律は部屋の中を一度だけ見回した。ベッドの白いシーツ、机の上

  • 依存の代償は、恋だった~抱かれて呼吸を取り戻す社畜と、音を失った天才   60.夜着陸のロビー

    関空の夜は、都市の夜より静かだった。静かなのに、音がはっきり刺さる。誘導灯の緑が床の光沢に細く伸び、ガラスの向こうで滑走路の点滅が規則正しく呼吸しているように見える。史人は到着ロビーの端に立ち、背中を壁に預けるのをやめた。預けると、そこから動けなくなる気がした。待つ、という行為は、ただ立っているだけのはずなのに、体力を食う。空港の冷気が足元から上がってきて、喉の奥が乾く。乾きは、梅田の蛍光灯の乾燥とは違う。ここは人が目的地へ戻る場所だ。誰かが誰かを迎え、誰かが誰かに手を振る。そこに混ざるだけで、史人の胸は勝手に忙しくなる。史人はスマホを取り出し、画面を見な

  • 依存の代償は、恋だった~抱かれて呼吸を取り戻す社畜と、音を失った天才   59.迎えに行く理由

    史人は、スマホの画面を見つめたまま指を止めていた。画面の上には、律とのトークが開かれている。最後に届いた短い連絡は、日付と便名と、たったそれだけの事実でできていた。ターキッシュエアライン。イスタンブール経由。関西空港、夜着。文字の並びが、胃の奥を軽く押した。嬉しい、と言い切るには胸がうるさすぎた。怖い、と言い切るには、もう逃げる言い訳が薄すぎた。史人は指先に汗がにじむのを感じながら、画面を一度閉じた。閉じても、文面はまぶたの裏に残ったままだった。机の上にはノートパソコンが開いたままになっている。作業中のターミナルが黒い窓をいくつも並べ、監視のログが淡々と流

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