All Chapters of 獣人姫は逃げまくる~箱入りな魔性獣人姫は初恋の人と初彼と幼馴染と義父に手籠めにされかけて逃げた後その中の一人と番になる~: Chapter 101 - Chapter 110

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2 天敵

「ちょっと待って! レインって、レイン・グランフェル? まさかあの男? なんで? 姉様はあの男に見切りをつけたんじゃなかったの? 姉様に変な薬を飲ませて首輪や枷まで着けて弄ぼうとしてた変態じゃないの! どこがいいのよあんな変態! 姉様を監禁して一生性奴隷にしようとしてたわよ絶対! あれのどこがいいわけ? 駄目駄目! 絶対駄目! 顔だけはいいけど獣人界ではあのくらいザラにいるじゃないの! もっと他にいい男はいっぱいいるから! 目を覚まして! ちょっと優しくされたくらいで騙されちゃ駄目よ! もし本気であの男が好きなら姉様は男の趣味が悪すぎる!」 ナディアに声高に全否定されて気分が沈んでいく。ナディアは快活な性格ではあるが、こんなにはっきり滅多糞に言われるとは思わなかった。 (でもまあ確かにナディアが指摘するように、レインの言っていた「奴隷」って、性奴隷のことをなんだろうなとは思ってたけど…… というか……?) 「ナディア、レインを知っていたの?」 ナディアにレインの名字を告げたことはない。 ナディアに問いかけると、彼女は先程の勢いを抑えて話し出した。 「ええ、知っているわ。昨日はゆっくり話をしている余裕もなかったから言ってなかったけど、私も銃騎士隊とちょっと色々あってね…… 里を出た最初の頃はしばらく首都に住んでいたのよ。あの男とはそんなに接触したわけでもないけど、知っているわ」 「レインは、レインは首都に住んでいるの? 普段のレインってどんな感じなの? 何かレインのことで知っていることがあったら教えてもらえないかしら?」 今度はヴィクトリアが身を乗り出すようにして問いかけるが、ナディアはヴィクトリアとは違い、さっきまでの浮かれたような色は一切消して真顔になっていた。 「姉様、昨日も言ったけど、銃騎士隊員を番にしようとするのは絶対にやめた方がいいわ。彼らは私たち獣人を殺して駆逐して存在を消していくことこそが仕事なのよ? 殺されるわ」 殺される、とナディアはやけにはっきり言い切った。 その言葉に、ヴィクトリアの胸の内にあった罪悪感が騒ぎ出す。 (私はレインに対して、殺されてもおかしくないようなことをしてしまっている) 急にしおらしくなってしまったヴィクトリアを前に、ナディアは自分の意見を述べた。 「私だ
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3 切羽詰まった男

 黒衣に身を包み、魔法で見た目を茶髪に茶色の瞳の少年「オリオン」の姿に変えているシリウスが病室に入ると、レインがシリウスを射殺さんばかりの視線で睨みつけた。「遅いぞ!」 シリウス何も言い返さず、ややムスッとした表情をレインに向けていた。 シリウスはちょっとこの男に怒っていた。 現在、二度目のシドの脱獄を防ぐべく、魔法使い全員が許可なく九番隊砦から出ることが禁じられている。魔法は対象から一定の距離を離れてしまうと効力が失われるからだ。 さらに明日の昼に首都近郊で行われる公開処刑のために、今日中にはシドを処刑場近くの監獄まで移送するための、監視の任務がそのうち始まる。 シドを拘束したことを広く国民に知らしめるべく移送は魔法で転移させるのではなくわざわざ檻を馬に引かせて首都までの街道を進むことになっていた。 最初にこの男から『オリオンを呼べ!』という要請が来た時、シリウスは兄たちに許可を取った上で素直にレインの所に来た、はずだった。 しかし、病室に入る前にレインの「所業」を知り、結局会わずにトンボ帰りをした。それが昨日の話。 その後も何度かレインからの呼び出しがあったがシリウスは無視をし続けていた。正直こちらは再びシドに拘束を破られないようにとピリピリしていてそれどころではなかったというのもあるが、一番の理由はレインが兄や自分たちの忠告を無視して、シドの処刑前にヴィクトリアと肉体関係を持とうとしたことだ。 長年、給仕係の少女などに化けて里に潜入し続けていたシリウスにとって、ヴィクトリアは妹のような身近な存在であるが、レインが無理矢理に手折ろうとしたこと自体は別にいい。 シリウスも同じ穴のムジナとでも言うべきか、恋に心が掻き乱されて喉から手が出そうなほど相手が欲しいのに、手に入らなくて苦しくて発狂しそうになる気持ちはよくわかっているからだ。 獣人は人間とは違う理の中にいる生き物だ。どんなに嫌われていたとしても、一回抱いてしまえば惚れてくるのだから、叶わない恋の苦しみから解き放たれるためにも、相手が嫌がろうが無理矢理事に及んでしまうのも一つの方法ではある。 シリウスもレインの恋を応援していたうちの一人だ。ただ、時期が早すぎた。(馬鹿だ。あれほど言ったのに) キスくらいなら最悪シドが脱獄してもレインが八つ裂きにされる程度ですんだだろ
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4 同じ穴のムジナ

シリウスは仕方がないとばかりにため息を吐いた。 「力を貸すなら条件がある。シドの処刑がすむまでは姫さんに手を出すな。番になるなんてもっての外。キスも禁止。シドが知ったら激怒しそうなことは姫さんにはするな。奴が死んだら抱き放題なんだからそこまで我慢しろ」 「わかった」 「それからお前自身も反省しているんだろうけど、俺からの余計な一言。絶対に逃げられないように頭を使え。 薬を盛ることができたんだったら体の動きを封じるだけじゃなくて、意識も奪っておけばよかったな。せっかく監禁部屋を用意してあるんだから本懐を遂げるならそこに運んでからにしろ。 せっかくのお楽しみは細心の注意を払った上で誰にも邪魔されないようにするんだ。どこから邪魔が入るかわからないからな」 シリウスは窓の外に目をやり遠くを見ながら何かを懐かしむような、どこか悔しさをにじませた表情をしている。 「そうだな。どうせやるならもう少し上手くやるべきだった。俺も失敗したなと思っている」 男たちは至極真面目に語り合っているが、話の内容はヴィクトリアが聞いたら卒倒しそうなものだった。 「姫さんはおそらく里に帰っていると思う」 一通り危険な内容の話をし終えた後、シリウスが自分の見解を述べると、レインの顔色が急速に悪くなっていく。 「やっぱりそう思うか。俺もヴィクトリアは里に帰ったんだろうなって思っている…… あんな所に…… 昔ヴィクトリアの血を飲みまくっていた変態がいたり、何よりあのクソ忌々しいリュージュがいるような危険な場所に! 今頃リュージュの毒牙にかかって二人で一緒に朝を迎えてしまっていたら、俺は一体どうしたらいいんだっ!」 里に潜入するシリウスからたびたびヴィクトリアの様子を聞いていたレインは、彼女に馴れ馴れしく接するリュージュのことを最初から心よく思っていなかった。 レインはヴィクトリアに近づく全ての男を完全排除したいという思想すら持っていた。 レインはヴィクトリアがリュージュに好意を寄せるようになったと知って以降、リュージュに対してより激しい嫉妬心と敵愾心を燃やすようになった。 たまに潜入から戻った時にシリウスはレインに隠し撮りしていたヴィクトリアの写真を渡していたが、リュージュはヴィクトリアと仲が良かったので写真に一緒に写り込んでしまうことがあっ
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5 魔力持ち

シドの移送が始まるまであまり時間がない。シリウスは瞬間移動を繰り返して里まで向かったが…… シリウスはなかなかレインの元に戻れなかった。ヴィクトリアが里にいなかったからだ。 シリウスが病室に戻ってくると、すぐさまレインが心配そうな顔で「どうだった?」と聞いてくる。 「ええと…… 最終的には発見したんだけどさ……」 シリウスはレインの目を見ないし歯切れが悪い。 「どうしたんだ! ヴィクトリアに何かあったのか? ヴィクトリアは無事か? 今どこにいるんだ!」 シリウスはレインに肩を掴まれてガクガクと激しく揺さぶられた。 里に様子を探りに行ったシリウスは知ってしまった。 ヴィクトリアはリュージュと関係を持つ一歩手前まで行っていた。番にこそはなっていなかったが、まさかそんなことになっているとは思わなかった。 それから事あるごとにヴィクトリアを遠くから舐めるように見ていた吸血幼馴染からも襲われていた。 (レインの心配が当たっていた) それをこの男に話すべきかどうか。 (……いや、余計錯乱しそうだ。やめとこ) 「いやいやいや、無事だったよ。姫さんはやっぱり里に一回帰っていたけど、お前に会うために里を出ていたよ。いやー、姫さんが移動した道筋を辿るのにちょっと魔力を使いすぎて疲れたなあ、アハハ」 自分が動揺しているのは疲れのせいだと誤魔化す。 「ヴィクトリアが俺に会いたがっているのか?!」 (良かった。違う所に食いついた) シリウスはホッと息を吐き出した。 「それで、ヴィクトリアは今どこに?」 「姫さんはこの街まで戻って来ていた。里まで行ったのに灯台下暗しだったな。今は銃騎士隊駐在所の近くにある公園の噴水の所に一人で座ってる」 レインはシリウスの肩から手を離し病室から飛び出そうとする。 「待て! レイン!」 シリウスは声を張り上げてレインを呼び止めた。 聞いておかなければならないことがあったのを忘れていた。 「お前、昨日姫さんを襲った時に彼女の怒りを買って氷漬けにされなかったか?」 「氷漬け?」 レインは首をひねっている。何のことだかわからない様子だ。 「急所を蹴られて凍りつかなかったか?」 「ああ、是非触ってほしかったが、残念なことにそこまではいかなかった」 もしこの
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6 見守る男

 シリウスはレインに幸せになってほしいと思っているが、同じくらいヴィクトリアにも幸せになってほしいと思っている。 シリウスは里に潜入しながら、ずっとヴィクトリアのことを見守ってきた。 潜入している間、シドや他の獣人に酷い目にあわされる者たちを何人も見てきた。その全員を助けることは実質的には不可能だった。 シリウスはたった一人で敵地に侵入しており、もしおかしな行動をシドに見咎められて諜報員であることに気づかれれば、自身の命が危ぶまれた。窮地に陥った誰かを助けることもあったが、それは自分の身に危険が及ぼない範囲においてのみだった。 けれど、ヴィクトリアのことだけは違った。シリウスは自身が手を出さずとも事態が収まるかどうかを見極めながら、ヴィクトリアがどうにもならない時は、何としてでも彼女を助けようと決めていた。 それは、「ヴィクトリアを必ず守ってほしい」とレインにずっと強く頼まれ続けていたからだった。シリウスは友の願いを叶えたかった。 本当のことを知ったレインがそれでも自分のことを友だと思ってくれるかどうかは微妙だったが、シリウスにとってレインは友だった。 時々向こう見ずで突っ走ってしまうが、レインの直情的で苛烈な所もシリウスは嫌いではなかった。 ヴィクトリアが、屋上でシドに犯されそうになった時に、雷を落として助けたのはシリウスだった。 ヴィクトリアが里から出奔したあの夜に部屋でシド襲われていた時も、ここで助けに入ったら正体がバレて確実に自分の身が危うくなると知りつつ、これ以上は危険と判断した時点で彼女を助ける道を選んだ。(結局、ヴィクトリアは自力で危機から抜け出せていたが……) シリウスはあの日の夜を思い出す―― ****** あの時のシドの怒りは凄まじかった。 ヴィクトリアを逃がすために一人で立ち向かっていたリュージュに、こっそりと気づかれない程度に攻撃力や素早さが上がる魔法をかけながら、シリウスは里から離れていくヴィクトリアを「依り代」に追わせた。 シリウスが札を使って魔法で作り出した依り代は、闇夜に紛れやすい真っ黒な鴉だった。 依り代は札のままでも作用できるが、偵察や伝令のためには空を飛んで移動できる鳥の形を取ることが多い。依り代は生き物に似せた形を取っていても、魔力で動いているだけで生命体ではない。 シリ
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7 襲来

 ヴィクトリアは陽の光の入る窓辺に椅子を寄せて座り、ナディアに後ろ髪をハサミで整えてもらっていた。 ヴィクトリアの銀色の髪は、急いで切り落としたままだったので所々短かったり長かったりしていたが、ナディアがクシとハサミを動かして器用に整えてくれる。 終わって鏡台の前に立てば肩のあたりで綺麗に切り揃えられていて、ヴィクトリアも満足のいく出来栄えだった。「ありがとう。ナディアは美容師にもなれそうね」  ヴィクトリアは微笑み、隣で同じように鏡を覗き込んでいたナディアに声をかけた。「あら、褒めてもらって嬉しいわ。じゃあ家庭教師の職が駄目になったら次は美容師になろうかしら?」 人間社会で暮らすにはお金が必要で、ナディアはこの街に移り住んでからは就学前の子供に読み書きや算術を教える仕事に就いていた。 本当は教師になってみたかったそうだが、学校は公的な機関であり身分の証明が難しく、今は家庭教師を斡旋する小さな会社に席を置いている。 仕事は歩合制だが運よくこの街の裕福な家の姉妹に気に入られて、その子たちの専属で勉強を教えているそうだ。 ナディアは里では人間の世話、言ってしまえば人間たちが逃げ出さないように見張るのが仕事だった。 獣人は文字が読めない者が多かったので、昔から里に連れて来られた人間たちは手紙の回し読みなどで結託し、逃走や時には反乱まで起こすことがあった。それを防ぐために人間の世話係は文字を読めることが望ましいとされていた。 ヴィクトリアは里にいた頃に図書棟でよくナディアと遭遇したし、彼女が仲よくなったらしき人間から読み書きを教わっている場面を見かけたことがある。 ナディアは里では珍しく読み書きの出来る獣人だった。それが幸いして人間社会でも仕事に就くことができたらしい。 「平穏に暮らしていきたいけど、銃騎士隊に正体を気づかれたら仕事も住む所も何もかもを捨てて逃げなきゃいけないからね。教師になれないってわかった時は悔しかったけど、でも今思えばこの現状が最善なのかもしれないって思うわ…… 生活していく上で関わり合いになる相手が少なければ、獣人だとバレてしまう危険性も下がるしね」 そう語るナディアの顔は少し悔しそうで、「これでよかった」と言いながらも心から満足しているわけではなさそうだった。 ナディアは現在「アイリーン・スチュアート」と偽名を使
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8 あの男が姉様以外の女を愛するようになったらどうするつもりなの?

 ナディアは銃騎士隊の襲来に恐怖心を募らせながらも、集団の中に一人だけ異質な中年が混じっていることに気づいた。彼だけは隊服を着ていない。「しゃ、社長……」 気の弱そうなその男はナディアの雇い主だった。お縄にはかかっていないが、うつむきがちに銃騎士隊と歩く姿はまさに連行されているといった形だった。 彼らは明らかにナディアの住居に向かっている。 なぜこんなことになっているのか、ナディアには思い当たる節があった。(馬……) ナディアは公園の噴水でヴィクトリアを発見した後、ひとまず自分の住居に彼女を連れ帰ったが、本来は仕事に行くはずだった。しかしこんな状態のヴィクトリアを一人にはしておけないし、馬も目立つから何とかしなければいけなかった。 ナディアは「一度出勤するけどすぐ戻るから」と言ってヴィクトリアを休ませた後、馬を連れて所属する家庭教師事務所へ向かった。急だが本日は休むことの連絡と、本日行うはずだった授業の日程調整を頼むためだった。 それから、「この馬がワケありなので誰にも見つからないように何とか隠しておいてください!」と社長に無理を言って頼んできたのだが、ちょっと無茶振りが過ぎたようだ。馬からヴィクトリアの居場所に足がついてしまったのだろう―― ******「姉様、逃げましょう」 ナディアがヴィクトリアの腕を引いて連れていこうとするが、ヴィクトリアは動かなかった。その場に留まり首を横に振る。「ナディア、ごめんなさい…… 私このままレインと一緒になりたい。私、奴隷になる」 ナディアは目を見開いてヴィクトリアを見つめた後、窓のカーテンを引いてヴィクトリアとレインが視線を交わし合っているのを遮断してしまった。「姉様、何言ってるのよ、しっかりして。刹那的な気持ちに流されて決めないで。将来のことを決めるのは、もっとよく考えてからにして」「考えても答えは同じよ。私はあの人を愛している。それ以外の答えなんて出てこない。私にはレインしかいない」「答えがそれしかなくても、人間と番になろうとするなら覚悟が必要よ」「覚悟ならもうできてる」「じゃあ聞くけど、あの男が姉様以外の女を愛するようになったらどうするつもりなの?」「え……」 滑らかに動いていたはずのヴィクトリアの口が、止まった。「人間は獣人とは違う。永遠の愛を誓った所で変わってしまうこともあ
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9 籠城からの脱出

「ヴィクトリア! いるんだろう?! 出てきてくれ!」  レインの声と玄関の扉を叩く音、それから扉に体当たりをするような音まで聞こえてくるが、扉は開かない。  なぜならナディアがベッドやテーブルを玄関前に移動させて、その重さで扉が簡単には開かないようにしてしまったからだ。  ベッドは扉を覆い隠すように立てられるという本来の役目を成さないようなおかしな向きに置かれ、その後にテーブルが続いて、テーブルの上に重厚感のある鏡台が乗せられていた。  ナディアに説得されてとりあえずこの場はレインから逃げることにしたヴィクトリアだったが、いざ逃げようとするとなぜかナディアに止められた。 「昨日追いかけてきた人数より規模が多い。あれを巻くのは結構大変よ。私に考えがあるわ」  ナディアはそう言って玄関近くにバリケードを築いていったのだった。  鏡台の次に手をかけたのは本棚だったが、ナディアはそれを持ち上げると、玄関先には持って行かずに少し離れた床の上に置いた。 「これは……!」  ヴィクトリアは驚く。大きめの本棚がどかされた床の上に、赤いインクで幾何学模様のような絵が描かれていた。  昔読んだ魔術書に、似たような絵が載っていたことを思い出す。 (これは魔法陣。おそらく転移用の) 「こんなことになるなんて思ってなかったからさっきは言ってなかったけど、ほら、私を助けてくれた闇医者夫婦がいたって話をしたでしょ? 実はその奥さんの方が魔法使いだったのよ。でも彼らも命がかかっているから、そのことは秘密にしておいてね」  ヴィクトリアは先ほどのナディアの話を思い出す。ナディアは首都から逃げ出した後にとある医師とその妻に保護されて、この街に来る前までそこで匿われて静養していたらしい。  医師の名はロイ・クロムウェル。妻はマリアだ。  ナディアは、闇医者――医師免許を持たずに医療行為をしている――と言っていたけど、『信用できる人たちだから、姉様も何か困ったことがあったら頼って』と言っていた。 「この魔法陣の先が彼らの家の屋根裏部屋に繋がっているの」  その魔法使いの女性はナディアを心配して一度訪ねて来たことがあり、その時に、『もしもの時はこれを使って逃げて来なさい』と言ってこの魔法陣を描いていったそうだ。  魔術書には、「魔法陣があれば魔法使い以外の者でも転移魔法を
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10 あなた誰?

 部屋に残ったナディアは、鏡台を移動させる時に床に落ちていた口紅を拾い上げた。 魔法陣の描かれた部分に上から口紅で出鱈目な図を描き加え、魔法が発動しないように細工してしまう。 札がもうない以上魔法陣は使えないし、ナディアは自力で逃げるしかない。銃騎士隊がヴィクトリアの行方を追えないように手掛かりは潰しておく必要があった。 本棚を元の位置に戻してから、ナディアは急いで逃走に必要なものを鞄に詰めていく。 荷物は鞄が重くならないように厳選して最低限。おそらくもうここには戻れないだろう。 きっと銃騎士隊が自分の正体を職場に告げてしまったに違いない。仕事も住処もまた何もかもを失う。 昨日街で偶然銃騎士と一緒にいるヴィクトリアを見かけた時、そのまま何もせず通り過ぎることもできた。 でもそうしなかったのは、里にいた頃に助けてやれなかったという後悔と、彼に似ているヴィクトリアをそのままにはしておけなかったからだ。 それからレインがヴィクトリアを見る目の奥に仄暗いものを感じたことも理由の一つだ。 執着か、情念か、どちらかと言えば負の感情に近いものが男の瞳に見え隠れしていた。それは、里にいた頃に父――シドがヴィクトリアに向けていたものと同じ視線だった。 父と性質が似た男と一緒にいたら絶対にろくなことにはならないとナディアは直感していた。 父のせいで散々な目にあってきたヴィクトリアをもうこれ以上苦しめたくなかった。 だが、レインと一緒にいるヴィクトリアはとても楽しそうで、あの男を見る瞳は完全に恋する者の目だった。 ヴィクトリアはなぜあんな男を好きになってしまったのだろうと思った。恋は盲目だ。 以前首都でも人間のふりをしていた時に会ったレインは、友好的な雰囲気をまとっていて、とても紳士的だった。ナディアはレインのことを根は善良なのだろうと思っていたが、昨日のレインの様子を見てそれはとんでもない勘違いだったのだと気づいた。 あの男は結構な闇を抱えている。 それはヴィクトリアに過去の経緯を聞いて確信に変わった。間違いなく、レインに闇をもたらしたのはその出来事であり、あの男のヴィクトリアへの執念もそれが起因しているのだろうと。 ナディアはレインがヴィクトリアをじっと見ていた目つきを薄ら寒く感じていた。 レインのその目は父だけではなくあの変態にもそっく
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11 闇医者

「ああ、そっか。ヴィーと最後に会ったのはヴィーがまだ一歳くらいの時だったし、それに見た目だってその時とは違うからわかるわけないよな」 男は先程までの困惑したような顔ではなく、優しく朗らかな印象を持つ表情になり、ははっと笑う。その笑い方が、誰かに似ている。「おーい、マグー? マグちゃん? いるー?」 男は自分が上がってきた四角い穴に向かって誰かを呼んでいる。「とにかくこんな所で話をするのも何だし、ヴィーも下においで」 階下に繋がっているらしき梯子を下りながら、男が手招きしてヴィクトリアにも来るように促す。 ヴィクトリアはその気安い態度と優しい声音に戸惑った。彼にしてみれば突然自宅の屋根裏部屋に現れた不審者だろうに、警戒されるどころかむしろ歓迎されているらしい。「マグちゃーん?」 男は完全に下の部屋に下りて誰かを探しに行ってしまった。男の正体はわからないままだが、悪い人ではなさそうだ。ヴィクトリアは彼の言う通り下の部屋に行くことにした。 梯子に足をかける前に、ヴィクトリアは背後を振り返った。 ナディアは、まだ来ない。 ――男を追ってヴィクトリアは一階まで下りてきていた。二階建ての家は二階が居住用で、一階の一部が小さな診療施設になっているようだった。 一階まで来る途中で見た窓の向こうには小麦畑や牧場といったのどかな景色が広がっていて、民家はちらほらと点在しているだけだった。「ありゃー、こりゃまたえらい別嬪さんじゃのう。新しい看護師さんかい?」 男の匂いを辿り目の前の扉を開けると、白い壁に囲まれた診察室らしき部屋で、杖を持った一人の白髪の老人が診察用の椅子に座っているのに出くわした。「クロさんにいつもの薬を出してくれと言ってくれんかのう? あの人話も聞かずにどこかへ行ってしまって、戻って来たと思ったらまたどこかに行ってしまったんだよ」「クロさん?」「クロムウェルだからクロさん」(ああ、なるほど) ナディアから闇医者の名前がロイ・クロムウェルというのは聞いていた。ただ、ナディアはロイについての詳細は語らず、「詳しくは本人から聞いて」と言っていたので、闇医者であることも含めて訳ありのようである。「マグさんを探しに外に行ったみたいだから連れてきてくれんかの? 儂は足が痛くて追いかけられん」「マグさん?」「奥さんのマリアさんのことじゃ。
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