All Chapters of 捨てた妻は財閥の頂点にー今さら跪いても、もう遅い: Chapter 91 - Chapter 100

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第91話  置き去りにされた女

部屋の中は、異様なほど静かだった。テレビはついている。昼のワイドショーが流れているはずなのに、美里の耳には、何一つ入ってこない。スマホだけを、じっと見つめていた。通知は、ない。既読も、未読も、増えない。――おかしい。これまでなら、何か書けば、必ず反応があった。同情の言葉、共感、怒りの拡散。「かわいそう」「ひどい男」「許せない」そういう言葉に、美里は救われてきた。それなのに。どれだけ画面を更新しても、何も起きない。「……なんで?」美里は、思わず声に出した。自分でも驚くほど、かすれた声だった。あれだけ“正しいこと”を書いたのに。自分は、被害者なのに。裏切られた妻で、子どもを抱えた母なのに。なのに、世間は、黙ったままだ。テーブルの上には、雨宮グループから届いた通知書のコピーが置かれている。文字を追うたび、胸の奥がひりつく。「デマ拡散による信用毀損」「被害総額の算定」「今後の法的措置」専門用語が並ぶ文章は、冷たく、容赦がなかった。「……脅しでしょ、こんなの」そう呟きながらも、指先は震えている。荒木に連絡しようとして、ふと手が止まった。――最近、荒木も、苛立っている。「まだか」「どうなってる」「向こうは何も言ってこないのか」責めるような言葉ばかりが、浮かぶ。以前のように、一緒に憤ってはくれない。美里は、ソファに沈み込み、天井を見上げた。自分は、間違っていない、そう信じたい。でも、誰も味方にならない現実が、その考えを、少しずつ削っていく。ふと、思い出す。黒瀬司が、黙って頭を下げていた姿。雨宮真澄が、感情を見せずに立っていた姿。――あの女は、泣かない。――怒らない。――私みたいに、感情をぶつけたりしない。「……ずるい」美里は、歯を食いしばった。泣けば負けだと思っていた。声を上げなければ、誰も助けてくれないと思っていた。でも、現実は違った。声を荒げた自分だけが、取り残されている。「……私、何か悪いことした?」誰に向けたわけでもない問いが、部屋に落ちる。答えは、返ってこない。美里は、スマホを胸に抱きしめた。かつては、ここに“世界”があった。自分を肯定してくれる場所があった。今は、ただの、光る板だ。追い詰められているのに、逃げ場がない。怒りだけが残り、使い道を失っている。美
last updateLast Updated : 2026-03-17
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第92話  子どもたちの声

夕方の部屋は、薄暗かった。カーテンの隙間から差し込む光が、床に細い線を落としている。美里は、ダイニングテーブルに肘をつき、スマホを見ていた。何度も同じ画面をスクロールし、何も変わらないことを確かめるように。そのとき、背後から声がした。「……ママ」振り返ると、莉子と湊が立っていた。二人とも、学校の制服のまま。どこか、緊張した顔をしている。「どうしたの?」美里が言うと、莉子は一度、唇を噛みしめた。「ママ……もう、やめようよ」その言葉に、美里の眉がぴくりと動く。「やめるって、何を?」「パパのこと。お金のこと。ネットに書くのも……全部」美里は、鼻で笑った。「あなたたちには、分からないわ。大人の問題よ」すると、今度は莉子が、一歩前に出た。「ママはさ……自分ばっかり、って言うけど」その声は、震えていたが、きっぱりと言った。「パパのこと、大事にしてあげたこと、あるの?」美里の胸が、ぎゅっと締めつけられる。「何言ってるの。私は――」「違う」莉子は、首を振った。「パパ、いつもママの顔色見てた。怒らせないようにしてた。それを、ママは“当たり前”みたいにしてた」そのとき、湊が小さな声で言った。「……ママが、そんなんだからさ」俯いたまま、ぽつりと。「パパに、捨てられちゃうんだよ」言葉が、床に落ちたように静まり返る。美里は、何も言えなかった。喉が、詰まった。しばらく沈黙が続いたあと、莉子が続ける。「ねえ、ママ。お金があれば、幸せなの?」その問いに、美里は、反射的に答えた。「当たり前でしょ。お金があれば、なんだってできるじゃない」声は、強がっていた。だが、莉子は、じっと美里を見つめたまま、静かに言う。「……でも、ママは今、不幸に見えるよ」その一言が、深く突き刺さる。そのとき、湊が、突然泣き出した。「もう、わがまま言わない……!」袖で目をこすりながら、必死に言葉をつなぐ。「ゲームもいらないし、塾もやめる。だから……だから、ママも、もうパパにお金のことばっかり言うの、やめてよ……」小さな肩が、震えている。莉子も、目に涙を溜めたまま、美里を見た。「私も……スマホは我慢する。お小遣いもいらない。バイトだってするし……」一瞬、間を置いて。「ママも、働いたら?」美里は、答えられなかった。その沈黙に
last updateLast Updated : 2026-03-18
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第93話 美里、社会に出る

朝、目覚ましが鳴っても、美里はすぐに起き上がれなかった。枕元で鳴り続ける電子音が、やけに耳障りに感じる。止めればいいだけなのに、その手を伸ばす気力すら、なかなか湧いてこない。ようやく腕を伸ばしてアラームを止めても、そのまま天井を見つめたまま動けなかった。カーテン越しの光が、やけに現実を突きつけてくる。昨日と同じ朝。何も変わらない部屋。何も始まっていない一日。――働いたら?莉子の言葉が、頭の奥で何度も反響する。軽く言われた一言のはずなのに、どうしてこんなにも重く残るのか。「……簡単に言わないでよ」小さく呟いた声は、自分でも驚くほど弱々しかった。分かっている。言っていることは正しい。けれど――“働く”ということが、自分にとってどれほど遠いものになってしまっているのか、あの子は知らない。呟きながらも、美里はスマホを手に取り、求人サイトを開いた。指先が、ほんのわずかに震えている。久しぶりに見る「未経験歓迎」「シフト制」「時給○円」という文字列。どれも、かつては何気なく見ていたはずの言葉。それなのに今は、まるで別世界の言語のように感じる。指が止まる。スクロールすることすら、怖い。資格もない。ブランクは長い。履歴書には、胸を張って書ける職歴もない。――私に、できるの?心の中で、何度も同じ問いが繰り返される。応募ボタンが、やけに遠く見える。それでも――応募しなければ、何も始まらない。そう自分に言い聞かせて、震える指で画面をタップした。たったそれだけのことなのに、心臓が大きく跳ねた。面接当日。慣れない服装に袖を通し、鏡の前に立つ。どこかぎこちない自分の姿に、違和感しかない。“ちゃんとしているふり”をしているだけ。そんな感覚が拭えなかった。小さな事務所で、若い女性が淡々と質問を投げかける。机の向こう側に座るその女性は、自分よりもずっと年下に見えた。それなのに、はるかに“社会の中にいる人”だった。「これまでのお仕事は?」「……専業主婦です」言葉にした瞬間、自分の中で何かが小さく崩れた気がした。一瞬の沈黙。ほんの数秒。それだけのはずなのに、やけに長く感じる。それだけで、美里は答えを悟った。ああ、ダメなんだ。この一言で、もう評価は決まっている。視線のわずかな動き。空気の変化。それを
last updateLast Updated : 2026-03-18
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第94話  荒木、消える

荒木からの連絡が途絶えて、三日が過ぎた。最初は、苛立ちだった。既読もつかないメッセージ。折り返しのない電話。「何してるの?」と打ちかけては消し、また打っては消す。そんなやり取りを一人で繰り返している自分に、さらに苛立ちが募った。次に、不安。時間が経つにつれて、その苛立ちは静かに形を変えていく。何かあったのではないか。事故か、トラブルか、それとも――スマホを握る手が、じわりと汗ばむ。そして――嫌な予感。胸の奥に、言葉にならない感覚が広がる。これまで何度も、都合の悪い現実から目を逸らしてきた。けれど今回は、逃げても意味がないと、本能が告げていた。美里は、荒木のアパートへ向かった。足取りは重く、それでも止まることはできなかった。確かめなければ、前にも後ろにも進めない。だが、管理人は首を振る。「先週、出ていきましたよ。急に」その一言で、空気が変わった。「……どこへ?」かすれるような声で問い返す。「さあ。荷物も最小限でしたし」あっさりとした返答。まるで、最初から“いなかった人”のように扱われている。スマホを握りしめ、何度も電話をかける。指が震える。それでも、止めることができない。呼び出し音の後、無機質なアナウンスが流れた。――現在使われておりません。その瞬間、美里は悟った。逃げたのだ。自分を置いて。胸の奥で、何かが静かに崩れる音がした。「……最低」声に出しても、誰も返さない。怒りなのか、悔しさなのか、それとも情けなさなのか。感情が混ざり合って、うまく整理できない。ただ一つだけはっきりしているのは、自分が、完全に切り捨てられたという事実だった。家に戻ると、ポストに封筒が一通届いていた。無機質な白い封筒。だが、その差出人の名前を見た瞬間、背筋が冷えた。雨宮グループのロゴ。心臓が、嫌な音を立てる。鼓動が早くなる。手のひらに汗が滲む。開けたくない。けれど、開けなければならない。震える手で封を切る。内容証明郵便で届いた、『警告書』。紙に並ぶ文字は、冷たく、容赦がなかった。デマ拡散による被害総額。黒瀬司との婚姻中に、雨宮真澄が支払った、養育費に対する、調査済みの事実関係。そして、今後一切の接触・拡散を禁ずるという一文。一行一行が、逃げ場を塞いでいく。そこに、荒木の名前はなか
last updateLast Updated : 2026-03-18
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第95話  子どもたちの選択

夕方、学校から帰ってきた莉子は、家の空気が違うことにすぐ気づいた。玄関のドアを開けた瞬間、いつもなら聞こえるはずの生活音がなかった。テレビの音も、キッチンからの物音もない。ただ、妙に静かな空気だけが広がっている。靴を脱ぎながら、莉子はわずかに眉をひそめた。テレビは消えたまま。リビングに入ると、美里はソファに座り、スマホを握りしめたまま動かない。視線は落ちたままで、まるで時間が止まってしまったかのようだった。「……ママ?」呼びかけても、返事はない。その声すら届いていないように見える。湊も、不安そうに姉の袖を引いた。小さな手が、ぎゅっと莉子の制服を掴む。テーブルの上には、開封された内容証明の封筒。見慣れない文字が並ぶ紙。だが、文字の意味はすべて分からなくても、これは“悪い知らせ”だと直感で理解できた。部屋の空気が、それを物語っていた。「ママ……荒木さんは?」莉子は、慎重に問いかける。その問いに、美里は顔を上げなかった。ただ、乾いた声で答える。「いない。……いなくなった」短く、感情のない声。それが逆に、莉子の胸を締めつけた。怒っているわけでも、泣いているわけでもない。ただ、何かが完全に抜け落ちてしまったような声だった。湊が、小さく呟く。「……パパは、逃げなかったよ」その一言に、美里の指が、ぴくりと動いた。スマホを握る手に、わずかな力が入る。「パパは、怒っても、ちゃんと話してくれた」「叱られても、理由を教えてくれた」湊の言葉は拙いが、まっすぐだった。思い出を辿るように、一つずつ言葉にしていく。莉子は、その横顔を見ながら、ゆっくりと口を開く。「私たち……パパに会いたい」その言葉に、美里は、はっと顔を上げた。驚きと、戸惑いと、焦りが一瞬で混ざる。「なに言ってるの。今さら――」反射的に出た言葉だった。だが、その続きを遮るように、莉子が言う。「今さらじゃないよ」珍しく強い口調だった。まっすぐに、美里を見る。「パパは、私たちを捨ててない」その言葉に、美里の表情がわずかに揺れる。「捨てられたって思ってたのは、ママだけだったんじゃない?」胸の奥に、突き刺さる。否定したいのに、言葉が出てこない。美里の喉が、詰まる。莉子は、淡々と続ける。「パパの家は、静かで……ごはんも普通で……」思い出すよ
last updateLast Updated : 2026-03-19
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第96話  父のいる場所

黒瀬カーゴの事務所は、夕暮れの中に静かに佇んでいた。西日が傾き、建物の影が長く伸びている。周囲の倉庫も少しずつシャッターを下ろし始め、仕事の終わりを告げる時間だった。看板は色褪せ、窓の一部にはひびが入っている。かつての賑わいを知る者が見れば、あまりにも小さく、頼りなく見えるかもしれない。それでも、シャッターは開いていた。中で、誰かが働いている気配がある。「……ここ?」湊が、不安そうに姉を見る。その声には、期待と戸惑いが混じっていた。「うん。前より、小さくなったけど……」莉子はそう言いながら、なぜか胸の奥が落ち着いているのを感じていた。見た目は変わってしまった。けれど、この場所には、嘘のない空気がある。派手さはない。でも、逃げ場のない、現実の場所だ。ドアを開けると、油と紙の匂いが混じった空気が流れ出た。少し重たいその匂いに、どこか懐かしさを感じる。「いらっしゃ――」声を上げかけて、司は言葉を失った。目の前に立っていたのは、制服を着た莉子と、湊だった。「……莉子? 湊?」一瞬で、時間が巻き戻る。同時に、胸が締めつけられる。忘れたことなど、一度もなかった存在が、目の前にいる。「どうして……」言葉が追いつかない。湊が一歩前に出た。「パパ……会いに来た」その一言に、司の中で何かが揺れる。司は、何も言えずに二人を見つめた。怒鳴りたい気持ちも、責めたい気持ちも、どこにもなかった。ただ、来てくれたという事実だけが、重かった。「……入れ」司は、ゆっくりと言った。事務所の奥の小さなテーブル。椅子を引いて、三人で向かい合う。距離が近いはずなのに、どこかぎこちなさが残る。「ママが……行っていいって言った」莉子は、視線を逸らさずに続けた。「私たち、自分で決めたの、パパのところに、来たいって」その言葉は、はっきりしていた。司の喉が、ひくりと鳴る。「……俺は」言葉が詰まる。拒む理由はなかった。でも、簡単に「いい」と言えるほど、無責任にもなれなかった。「パパは、完璧な父親じゃない、それに、お金も家も、前みたいには――」「知ってる」莉子が遮る。迷いのない声だった。「でも、私たちはパパの子どもでしょ?」その一言で、司の中の何かが崩れた。言い訳も、遠慮も、全部意味を失う。湊が、小さく笑う。「
last updateLast Updated : 2026-03-19
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第97話  真澄の知らない夜

夜の黒瀬カーゴの事務所には、昼間の埃っぽさとは違う、静かな生活の気配が漂っていた。ソファには、湊の制服のジャケットが無造作に掛けられ、その前のテーブルには、問題集と開きっぱなしのノート。「……ここ、意味わかんない」湊が、苛立ちを隠さずに言った。中学三年生。受験を控え、焦りと不安が入り混じる時期だ。司は、コーヒーを置き、湊の隣に腰を下ろす。「どれだ?」「この証明。先生の説明、早すぎて」以前なら、「今は忙しい」「あとでな」そう言っていたかもしれない。だが司は、ノートを覗き込み、黙ってペンを取った。「……パパだって、こんな難しい問題……ああ、これは、こう書いたら分かり易くなるんじゃないか」湊は一瞬、驚いた顔をしてから、ゆっくりと頷いた。「……パパ、こんなのわかるんだ!? ……今までは絶対見てくれなかったよね」その言葉に、司は小さく息を吐いた。「今までが、ひどすぎたんだ。ごめんな」少し離れた机では、莉子がスマホを伏せ、英語の長文に目を通していた。高校生になった莉子は、もう子どもではない。父親の変化にも、家庭が壊れた理由にも、薄々、気づき始めている。「パパ」莉子が顔を上げる。「あんまり怒らなくなったね」司は、一瞬だけ言葉に詰まった。「……怒っても、何も変わらないって、やっとわかった」莉子は、少しだけ笑った。「ちょっと遅いけど……まあ、いいかな」その言葉に、司は救われた気がした。同じ夜――真澄は、雨宮グループ本社ビルの最上階で、ひとり書類に目を通していた。CEOとしての日々は、思っていた以上に、容赦がなかった。判断。責任。結果。社員の人生を背負う数字が、淡々と並ぶ。スマートフォンが、静かに震える。相沢恒一からのメッセージだった。『今日は無理しないで。夕食、後日にしよう』真澄は少し迷い、短く返信する。『ありがとう。今日はここで済ませます』画面を伏せ、窓一面に広がる夜景を見つめる。――今頃、どうしているのだろう。今も、時々考えてしまう。落ち込んでいないだろうか。ちゃんとご飯をたべているだろうか。ちゃんと眠れているだろうか。子どもたちとは、うまくやれているだろうか。考えまいとするほど、その想像は、胸の奥で静かに響いた。「……私も……」真澄は、小さく呟く。「忘れる努力をしなくちゃいけな
last updateLast Updated : 2026-03-19
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第98話  噂

雨宮グループ本社、役員フロア。朝の会議を終えた真澄は、自席に戻ると、秘書の差し出したタブレットに目を通していた。数字は順調。物流部門の外部委託先の見直しも、想定通り進んでいる。「真澄様」控えめな声で、秘書が一歩近づく。「本日の午後、物流関連のヒアリング資料です。中小事業者の再編についての報告も含まれています」「ありがとう。後で確認します」淡々と答えながら、真澄は一瞬、画面に映った社名に目を留めた。――黒瀬カーゴ。指先が、ほんのわずかに止まる。すぐに視線を逸らし、何事もなかったかのように、タブレットを閉じた。その様子を、秘書は見逃さなかったが、何も言わなかった。午後。別件で呼ばれた打ち合わせ室には、相沢恒一も同席していた。「最近、地方の運送会社の話が多いね」穏やかな声。それ以上踏み込まず、余計なことを探ることもないが、恒一らしい感想だった。「私が先日まで関係していたから、内容などはわかっているし、物流は、結局“人”ですから」真澄は資料をめくりながら答える。「人が残る会社と、残らない会社。数字より、そこが分かれ目になります。そこを延ばしていくことができれば、数字も大きく変わりますよ」「……変わったね、真澄は」恒一が、ふっと笑った。「昔の真澄なら、もっと数字の話をしていた」真澄は一瞬、言葉に詰まったが、すぐに首を振る。「変わらざるを得なかっただけです」そのとき、会議室のドアがノックされ、別の役員が資料を追加で持ってきた。「そういえば」何気ない口調で、その役員が言った。「最近、ちょっと面白い話を聞きまして」真澄は、顔を上げない。「前は五十数台も抱えていたのに、急に倒産の危機にまで陥った会社があって、今は、五台だけになった小さな運送会社があるんですがね。 社長が、自ら現場に出て、みんな楽しそうに仕事をしているんです」その言葉に、真澄の胸が、かすかに軋んだ。「以前は、かなり荒れていたらしいんですが……その社長の話を耳にしたのですが、倒産寸前までいってから、自分の行いが悪かったと気づいたらしく、今は運転手とも、ちゃんと話すようになったとか」恒一が、ちらりと真澄を見る。「社名は?」役員は、資料を確認しながら答えた。「黒瀬カーゴ、だったかな」一瞬、会議室の空気が止まった。その話をしてきた役員は、真澄と黒
last updateLast Updated : 2026-03-20
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第99話

夜。自宅に戻った真澄は、コートを脱ぎ、ソファに腰を下ろす。玄関を開けた瞬間から、外の世界とは切り離された静けさが広がっていた。一日の喧騒が嘘のように、部屋の中は整いすぎるほど整っている。ヒールを脱ぎ、足先に残るわずかな疲れを感じながら、深く息を吐いた。テーブルの上には、相沢恒一から届いていたメッセージ。『今日もお疲れさま。無理しないでちゃんと休んで』簡潔で、押しつけがましくない言葉。けれど、その一文に込められた気遣いは、確かに伝わってくる。画面を見つめ、真澄はしばらく考えた末、短く返信した。『ありがとう。今日は、少し考え事をしていました』送信して、スマートフォンを伏せる。それ以上、言葉を続ける気にはなれなかった。今の自分の中にあるものを、誰かに説明できるほど、整理できていなかったからだ。頭に浮かぶのは、さきほど聞いた“噂”。仕事の合間、何気ない会話の中で耳にした名前。意識していなかったはずなのに、その瞬間、思考が止まった。五十数台あった頃は、確かに荒れていた。規模は大きく、仕事も回っていた。けれど、その裏側では、空気が常に張り詰めていた。ただ、荒れていたのは、司が、離婚した妻と置いてきた子供たちに執着し始めてからだった。運転手が道を間違えては怒鳴り、荷物を破損させたと怒鳴り…ほんの些細なミスにも、容赦なく感情をぶつけていた。怒鳴ることでしか、自分を保てなくなっていたようにも見えた。とにかくイライラしていた頃は、たしかに荒れていた。あの頃の事務所の空気を、真澄ははっきりと覚えている。でも今は……残った五台と、残った五人の運転手が誰だったのかを考えていた。数を減らしたという事実よりも、“残った人間”の方が、意味を持つ。司を慕い、最後まで一緒に頑張ってくれているのは、あの、結婚披露パーティーで、神父役をしてくれた、古参の運転手だろうか…あの時、照れくさそうに笑いながら、二人を祝ってくれた姿が、ふと浮かぶ。もしも。ほんの少しだけ、タイミングが違っていたら………その思考を、真澄は首を振って振り払った。過去に意味を見出そうとするほど、今の自分が揺らぐ。「……私は、もう、雨宮のCEOなのよ。あの会社のことは、関係のないこと……」そう言い聞かせるように呟く。それは、誰かに向けた言葉ではなく、自分自身への確
last updateLast Updated : 2026-03-20
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第100話  交わらない距離

雨宮グループ本社、物流戦略部。真澄は大型モニターに映し出された資料を、無表情で見つめていた。「今回は、地方物流の再編案件です。大手が拾わないルートを、地場業者と組んで再構築します。まずは、数台~十数台程度の保有台数しかない、小企業の視察後、投資から管理まで、月に数回の頻度で雨宮側で行います。」別の担当者が説明を代わる。「中には、コンプライアンス軽視の、古い考えを持つ経営者などが居りますので、厳選して、まずは五社から始めたいと思っております」担当者の説明に、真澄は静かに頷く。「候補企業は?」「いまのところ、三社ありますが……」そこで、名前が挙がった。「まずは、白峰ロジスティクス(しらみね・ロジスティクス)ですが、堅実・無事故・山間部や地方路線に強く、雨宮グループの案件にも自然に絡めやすい印象です。現場を見てください、という姿勢がいいと思います」会議に出ている皆が、スクリーンに映る、トラックを見て「今回の案件には、大手と言える規模では…?」と、考えていた。担当者は続ける。「二社目は、東和トランスポート(とうわ・トランスポート)。昔ながらの中規模運送会社で、経営者の顔が見えるタイプの会社です。ただ、規模はあるが柔軟さに欠ける点が気になっております」担当者は、またスライドを変え、「三社目ですが、楓谷運輸(ふうこく・うんゆ)。ここは地方の老舗で、家族経営でやっております。現在、二代目が継いで、若いドライバーが増えつつあります。社名も、正式には“ふうこく”ですが、現場では“ふうやさん”と呼ばれており、素朴な社風です。」役員の一人が質問を投げる。「楓谷運輸は、雨宮に対してどうなんだ?」「はい。規模としては小さいですが、弊社に対する態度も誠実で、好ましく思っております」担当者が言い終わると、役員たちが質問を始めた。真澄は黙って聞いていたが、皆を制止し、口を開いた。「三社のうち、一社…東和トランスポートは、非協力的なのではないですか?」担当者は頷き、続けて言った。「経営者自身が、少し懐疑的でした。―そこで提案ですが、黒瀬カーゴという運送会社を、代替案として、考えております」「黒瀬カーゴ………」一瞬、会議室の空気が張り詰める。だが真澄は、何も変わらない声で言った。「条件は?」担当者は、内心ほっとしたように資料をめくる。「車両五台、
last updateLast Updated : 2026-03-20
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