All Chapters of 捨てた妻は財閥の頂点にー今さら跪いても、もう遅い: Chapter 61 - Chapter 70

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第61話  すれ違う帰路

莉子からの電話で、司は自分の家へ向かった。真澄のことは、頭の隅にもなかった。体調が悪いと言っていた――それだけの認識だった。玄関の扉を開けた瞬間、嫌な空気が肌にまとわりついた。リビングに入ると、美里は腕を組み、ソファには荒木が足を組み、まるで主のように座っていた。「……なんだ、その態度は」司がそう言うより早く、美里が口を開いた。「ちょうどいいところに帰ってきたわ」その声は、妙に落ち着いていて、余計に神経を逆なでした。「養育費、今の額じゃ足りないの。湊も大きくなってきたし、これからお金がかかるのよ」「……またその話か」司が低く言った、その瞬間。「会社、順調なんだろ?」荒木が鼻で笑った。グラスをテーブルに置く音が、やけに大きく響く。「ケチるなよ。子どものためなんだろ?」その一言で、司の中で何かが音を立てて切れた。「――お前が口出すな!!」司は一歩踏み出した。「ここは俺の家だ。赤の他人が偉そうに言う場所じゃない」「は?」荒木が立ち上がり、司に顔を近づける。酒の匂いがした。「家?」荒木はせせら笑った。「あんた、もうここに住んでねえだろ。書類上も、生活実態もな」「何を――」「それにさ」荒木は、わざとらしく部屋を見回した。「この家、俺の方がいる時間長いんじゃねえの?」その言葉に、司のこめかみが跳ねた。「ふざけるな!!」美里が、鋭く割って入る。「やめて!!」その声は司ではなく、荒木を庇うようだった。「どうせ今さら戻る気もないくせに。あなた、自分から出て行ったじゃない」「……それは」「それとも何?」美里は一歩前に出て、司を睨みつけた。「私と離婚する前から、その“今の女”と一緒にいたんじゃないの?」その言葉が、司の胸に突き刺さる。「違う!!」「違わないわよ!」美里は声を荒げた。「急に家に帰らなくなって、スマホを肌身離さず持って、あれで何もなかったなんて、誰が信じるの?」「俺は――」「どうせ、再婚して幸せなんでしょ?」美里は笑った。だが、その目は笑っていない。「だったら、その人と子どもでも作って、そっちにもお金を使えばいいじゃない」「……何を言ってる」「現に、私たちの生活は苦しいのよ」美里は、荒木の腕に手をかけた。「この人だって、仕事探してるけど、なかなか決まらないし」「探し
last updateLast Updated : 2026-03-07
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第62話  残されたもの

翌日。真澄は、会社に来なかった。午前中、司はそれを特別なことだとは思わなかった。一昨日の夜、顔色が悪かったことを思い出す。体調不良だと言っていた。それだけだ。(無理させすぎたかもしれないな)そう思いながら、机に向かい、次々と書類に目を通す。やることは山ほどあった。会社は、待ってはくれない。自分が止まれば、現場も、金も、人も止まる。昼を過ぎても、真澄からの連絡はなかった。だが、それでも司は気に留めなかった。(夕方には、何か連絡してくるだろ)そう決めつけていた。いつもそうだったからだ。真澄は黙って休んでも、必ず一言、状況を伝えてくる。――だが。夕方になっても、スマホは鳴らない。司は、ふとペンを止めた。胸の奥に、説明のつかない引っかかりが生まれる。(……遅いな)スマホを手に取り、画面を見る。着信なし。メッセージも、来ていない。司は、舌打ちしそうになるのをこらえ、電話をかけた。呼び出し音。長い。出ない。もう一度、かける。それでも、出ない。「……なんだよ」苛立ちが、声に滲む。メッセージを送る。《大丈夫か?》《今日は休むなら、ちゃんと休め》送信。画面を見つめる。既読が、つかない。胸の奥が、ざわついた。今まで、こんなことはなかった。(スマホを、見ていないだけだ)そう自分に言い聞かせる。だが、妙に落ち着かない。司は、仕事を切り上げた。今日は、アパートに戻るつもりだった。車を走らせながら、昨夜のことが頭をよぎる。美里。荒木。怒鳴り合い。湊の部屋で、一人で眠った夜。(ちゃんと、説明しなきゃな)司はハンドルを握りしめた。(誤解させたままだった)真澄には、わかってほしかった。自分が、どれだけ追い詰められているか。子どもたちを守るために、どれだけの金を払い、どれだけ自分を削っているか。(俺は、逃げてるわけじゃない)美里や荒木と争ったこと。湊の部屋に泊まったのは、父親として当然だと思ったこと。それを、ちゃんと話せば、真澄は理解してくれる。(あいつは、俺の味方だ)そう、どこかで疑っていなかった。アパートの前に車を停め、鍵を手に取る。胸のざわつきは、なぜか消えなかった。鍵を開ける。――静かすぎた。電気はついていない。生活音が、まったくない。「真澄?」声が、空
last updateLast Updated : 2026-03-08
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第63話  鳴らない電話

司は、アパートのリビングに立ち尽くしたまま、何度もスマホを見下ろしていた。画面は暗い。着信も、通知も、何もない。「……真澄」名前を呼んでみても、返ってくるのは静寂だけだった。胸の奥が、ざわざわと落ち着かない。電話をかける。呼び出し音。出ない。もう一度。それでも、出ない。「何やってるんだよ……」声が、自然と荒くなる。「具合悪いって言ってただろ。だから休めって言ったじゃないか」通話が切れる。司は、苛立ちを抑えきれず、すぐにかけ直した。「勝手に消えるなよ。社会人だろ。連絡くらい――」言いかけて、通話終了音が響く。司はソファに腰を落とし、頭を抱えた。(……違う)自分でもわかっている。怒りたい相手は、真澄じゃない。「美里……」低く、唸るように名前を口にする。「お前らのせいだろ……」荒木の顔が浮かぶ。あの薄ら笑い。金を当然のように使う態度。「人の金で、好き放題しやがって……」再び、スマホを握る。今度は、美里の番号。コール音。出ない。「……ちっ」荒木の番号は、すでに削除している。それでも、無意識に履歴を探してしまう。「全部……全部、お前らが引っ掻き回したせいだ」吐き捨てるように言ってから、司はハッとした。(違う)美里や荒木のせいにすれば、楽だ。だが――「……俺が、ちゃんと向き合わなかった」その事実が、じわじわと胸に染みてくる。司は、真澄にもう一度電話をかけた。「……出てくれ」今度は、声が震えていた。「怒ってるなら、怒ってもいい。だけど……」返事はない。「俺だって……余裕がなかったんだ」独り言のように、言葉を継ぐ。「子どもたちのことも、会社のことも……全部、俺が背負わなきゃって……」通話は、また切れる。司は立ち上がり、部屋を歩き回った。何か、何でもいいから、手がかりがほしかった。テーブルの上。棚の隙間。ゴミ箱。――何もない。「……勝手だよな」今度は、真澄を責める気持ちが湧き上がる。「黙っていなくなるなんて……」「相談すればよかっただろ……!」声を荒げた直後、胸が締めつけられた。「……いや、違う」相談されるような空気を、自分は作っていただろうか。養育費の話。仕事に追われる日々。イライラした態度。真澄が、何も言えなくなっていった理由が、少しずつ、
last updateLast Updated : 2026-03-08
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第64話  届いた手紙

午前中の業務は、いつも通り忙しかった。司は机に向かい、請求書と運行表を突き合わせながら、頭の中で段取りを組んでいた。電話が鳴れば短く応対し、部下に指示を出し、また書類に目を落とす。仕事をしていれば、考えずに済む。そう思っていた。「郵便です」郵便局員が、封筒を数通、机の端に置いた。請求書、銀行、保険会社。いつもと変わらない束の中に、ひとつだけ、妙に白い封筒が混じっていた。差出人の欄に、見覚えのある文字。――雨宮 真澄一瞬、呼吸が止まった。(……会社に?)なぜ会社に。なぜ、今。胸の奥がざわついたが、司は周囲を気にして、すぐには手を伸ばさなかった。事務所には運転手がいる。今は仕事中だ。封筒を裏返す。手書きの文字。震えも、乱れもない、整った筆跡。嫌な予感が、確信に変わりつつあった。昼休み。事務所の人間が出払ったのを見計らって、司はようやく封筒を手に取った。休憩室でもなく、仮眠室でもなく、自分のデスクで。指が、わずかに震えている。(……読みたくない……)逃げるわけにはいかなかった。封を切り、便箋を取り出す。文字を追い始めた、その数行で、胸が締めつけられた。――――――――――黒瀬 司 様突然このような形で失礼します。直接話す勇気も、もう言い争う気力も残っていないので、手紙にします。私たちの結婚生活は二年でしたね。長くはなかったけれど、私にとっては人生そのものみたいで、とても幸せな時間でした。私は、あなたを愛していました。心から。でも同時に、あなたと過ごす毎日は、いつからか呼吸が苦しくなるような日々でもありました。あなたはいつも優しかった。表面だけは。でもその優しさの裏にある本音を、私はずっと感じ取っていました。私が欲しかったのは肩書きでも名字でもなく、私自身を見てくれるまなざしでした。でも、私が見ていたあなたの目はいつもどこか別の場所を向いていた。私は、あなたの子どもを妊娠しました。この世で、一番愛するあなたの子を、身ごもったと知った日、私は涙が出るほど嬉しかった。壊れかけていた私たちの関係にも、まだ未来があると信じたかったから。でも、あなたの口から出たのは、「オレの子どもは莉子と湊だけだ」でしたね。あの日の空気の冷たさを、私は一生忘れないと思います。それだけが理由ではありません。
last updateLast Updated : 2026-03-08
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第65話  遅すぎた未来

手紙を読み終えてから、どれくらいの時間が経ったのか、司にはわからなかった。事務所の時計は、確かに秒針を刻み続けているはずなのに、司の時間だけが、どこかで止まってしまったようだった。机に突っ伏したまま、司は何度も、何度も、同じ行を思い出す。文字にすれば短い、その一文。――私は、あなたの子どもを妊娠しました。――だから私は手術を受けました。「……子ども……」声に出した瞬間、喉の奥が詰まり、言葉にならない嗚咽とともに、涙が溢れ出た。目の前が歪み、書類も、机も、床も、すべてがぼやける。真澄が、あの穏やかな顔で、どんな思いで腹を押さえていたのか。不安も、喜びも、恐怖も――誰にも打ち明けられず、すべてをひとりで抱え込んでいたのだと思うと、胸が締めつけられた。(オレは……何をしてたんだ)司の脳裏に、次々と映像が浮かぶ。美里の顔。金の話をするときの、あの苛立った声。荒木の、相手を見下すような薄ら笑い。莉子の、平気なふりをしながら震えていた指先。湊の、小さな背中。守っているつもりだった。父親として、責任を果たしていると、そう思い込んでいた。自分は正しいことをしているのだと、疑いもしなかった。だが――その間に、真澄は静かに、確実に壊れていった。もしも、そのとき。あの日、真澄が震える声で「赤ちゃんができたみたい」と言ってくれたら。「ありがとう」と、ただ言えていたら。理屈でも、責任でもなく、まずは人として、夫として、そう言えていたら。抱きしめて、「一緒に考えよう」と言えていたら。「怖いよな」「不安だよな」と、真澄の気持ちを先に受け止めていたら。司の頭の中に、ありえたはずの未来が、残酷なほど鮮明に浮かび上がる。真澄が、少し困ったように笑いながら、お腹を撫でる姿。「まだ分からないね」と言いながら、二人で名前を考える夜。小さな靴下を買いに行く休日。夜中に泣く赤ん坊を、眠い目をこすりながら、二人であやす日々。「……会いたかった……」見たこともない子ども。抱くことも、名前を呼ぶことも、もうできない命。それが、自分の言葉ひとつで、選択ひとつで、消えてしまった。(言えなかったんだよな……)真澄は、きっと何度も考えたはずだ。相談すれば、司は苦しむ。話せば、また子どもたちの話になる。自分は、後回しにされる。そうやって、
last updateLast Updated : 2026-03-09
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第66話  動き出す者たち

 翌日、司の事務所に、見慣れない男が現れた。黒いスーツに身を包み、背筋を伸ばして立つその男は、名乗る声すら低く抑えられていた。歩き方に無駄がない。視線は常に一定の高さを保ち、周囲を必要以上に見回すこともない。ただ“用件だけを果たしに来た”――そんな空気を纏っていた。応接スペースに通され、司と向かい合って腰を下ろすと、男は静かに名刺を差し出した。そこに記されていた肩書きを見た瞬間、司の眉がわずかに動く。雨宮グループ専属弁護士。「黒瀬司さんですね」低く、感情のない声だった。確認というより、事実の読み上げに近い。司が返事をする間もなく、男は黒い革鞄から書類を取り出し、机の上に置いた。紙の端が揃えられ、ぴたりと音もなく並べられる。一目でわかった。――離婚届。「……真澄は?」司の口から、思わずその名がこぼれた。だが、弁護士は答えない。視線を落とすことも、表情を変えることもなく、淡々と説明を続ける。「すでに、必要事項はすべて記入されています。慰謝料は一切求めませんので、あなたの署名と押印だけで、法的には成立します」司は、しばらく書類を見つめていた。白い紙。規定の枠。そこに並ぶ、すでに記された真澄の文字。紙切れ一枚。それが、二人の結婚の終わり。しかも――雨宮グループとは?司の頭に、祖父母と会ったときの記憶がよみがえる。穏やかな老夫婦。孫を思いやる、普通の祖父と祖母。とても、この場に現れた弁護士の背後にあるような、巨大な組織を感じさせる人たちではなかった。だからこそ、この弁護士の登場が、司には理解できなかった。なぜ今、なぜ雨宮グループが出てくるのか。「……サインはする」司は、そう言った。逃げるつもりはなかった。もう、先延ばしにできる段階ではないことも、わかっていた。だが、ペンを取る前に、司は顔を上げた。「ひとつだけ、頼む。真澄に……一度でいいから、会わせてくれ」声が、わずかに震えていた。「謝りたい。話したい。それだけだ」弁護士は、その言葉を聞いても、すぐには反応しなかった。ほんの一瞬だけ、視線を逸らし、ため息をつく。「……少々、お待ちください」そう言って立ち上がると、部屋を出て、廊下で電話をかけ始めた。司には、その後ろ姿しか見えない。「――雨宮龍堂様。黒瀬司さんが、サインには応じますが…
last updateLast Updated : 2026-03-09
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第67話  連れて行かれる

事務所を出ると、黒塗りの車が停まっていた。いつもの社用車でも、知っている取引先の車でもない。無駄のないフォルム。磨き上げられた車体。“迎えに来た”というより、“回収しに来た”――そんな印象を司は受けた。弁護士が無言で後部座席のドアを開ける。司は一瞬だけ足を止めたが、何も言わずに乗り込んだ。断る理由も、逃げる場所も、もう残っていない。ドアが閉まる音は、思った以上に重く響いた。走り出した車内は静かだった。エンジン音も、外の喧騒も、ガラス一枚隔てた向こう側にある。弁護士は前の座席に座り、振り返ることもない。司は窓の外を見つめた。見慣れた街並みが、少しずつ遠ざかっていく。信号、交差点、会社の看板。いつもなら気にも留めない景色が、やけに鮮明だった。(……どこへ行くんだ)住所は告げられていない。雨宮家。その言葉だけが、重く胸に残っている。真澄の祖父母と会ったときのことを思い出す。穏やかな笑顔。静かな言葉遣い。あの人たちの“家”に行くのだとしたら――この異様な緊張感は、何なのだろう。車は高速に乗った。流れる景色が単調になり、時間の感覚が曖昧になる。司は、膝の上で拳を握りしめた。逃げたいわけじゃない。ただ、怖かった。真澄に会えるのか。それとも、会えないまま、すべてを突きつけられるのか。「……」口を開きかけて、やめた。弁護士に何を聞いても、答えは返ってこない気がした。代わりに、司の頭の中には、真澄の姿が浮かぶ。最後に見た背中。あの夜、何も言わずに針に糸を通していた横顔。そして、手紙の文字。――私は自由になります。その言葉が、胸の奥で鈍く痛んだ。(自由にしたのは……オレだ)美里。莉子。湊。守っているつもりだった。正しいことをしているつもりだった。だが、その“正しさ”の行き着く先に、真澄はいなかった。車は次第に、街から離れていった。高い塀。緑の多い道。人の気配が薄れていく。やがて、ゆっくりとスピードが落ちる。門が見えた。重厚な門扉。警備員らしき人物が立ち、車が近づくと無言で頭を下げる。――ここが、雨宮家。司の喉が、無意識に鳴った。門をくぐると、さらに長い私道が続く。屋敷という言葉が、頭に浮かぶ。だが、それは豪奢というより、圧倒的な“重さ”を持っていた。車が止まった。
last updateLast Updated : 2026-03-09
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第68話  雨宮龍堂の目

屋敷の中は、静まり返っていた。足音が吸い込まれるような廊下を、司は弁護士の後ろについて歩く。壁に掛けられた書や絵はどれも控えめで、だが一つひとつが“本物”だと分かる重みを持っていた。――先日、真澄と一緒に祖父母と会ったときとは、まるで違う。あのときは、昼下がりの柔らかな光が差し込み、龍堂は穏やかに笑い、「孫がお世話になっています」そう言って、司の手をしっかり握ってくれた。誠実そうな人だ。真澄を大切にしている祖父。司の印象は、それだけだった。襖の前で足が止まる。「どうぞ」弁護士が一礼して下がり、襖が静かに開いた。畳の奥。低い座卓の向こうに、雨宮龍堂が座っていた。背筋はまっすぐ。白髪は整えられ、目だけが、鋭く澄んでいる。司は、その視線を受けた瞬間、悟った。――この人は、先日の“祖父”ではない。「座りなさい」低く、よく通る声だった。怒鳴っているわけでも、威圧しているわけでもない。だが、逆らうという選択肢を最初から奪う声だった。司は正座をし、深く頭を下げた。「……黒瀬司です」名乗った瞬間、龍堂の目がわずかに細くなる。「覚えている。真澄の夫だった男だ」“だった”その過去形が、胸に刺さる。司は、言葉を探した。謝罪。懇願。だが、どれも、この場には軽すぎる気がした。龍堂は、司をじっと見つめている。まるで、人ではなく“本質”を見極めるような目だった。(……見られている)会社の数字。金の流れ。人間関係。父親としての振る舞い。夫としての未熟さ。何も言われていないのに、すべてを量られている感覚。「先日会ったとき、私は君を“誠実な男”だと思った」龍堂は、淡々と続ける。「孫に優しく、社員にも慕われ、苦しい状況でも逃げずに立っている。 そういう男だと」司の喉が鳴った。「……だが」その一言で、空気が変わる。「誠実というのは、“誰にでも優しい”という意味ではない」龍堂の目が、さらに鋭くなる。「守るべき順序を間違えないことだ。君はそれを、完全に誤った」司は、反論できなかった。真澄の顔が浮かぶ。あの夜の沈黙。縫い直された袖。言えなかった言葉。龍堂は、畳に置いた手を、静かに組んだ。「君は、子どもを守ろうとした。それは立派なことだ。 だがそのために、私の孫を孤独にした」一拍置いて、続け
last updateLast Updated : 2026-03-10
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第69話  雨宮という世界

応接室に通された司は、しばらく言葉を失っていた。広い。ただ広いだけではない。壁一面に並ぶ額縁、棚に収められた分厚い資料、無駄のない調度品。どれもが、金を誇示するためではなく、「ここにあるのが当然」という顔をして置かれている。弁護士と数名の秘書が、淡々と資料を広げていく。「こちらが、雨宮グループの全体図です」一枚、また一枚。司の前に並べられていく紙の量に、まず息を呑んだ。金融。不動産。物流。医療法人。海外投資。名前だけ聞けば、ニュースで目にする企業ばかりだ。「……全部、雨宮……?」思わず漏れた声に、誰も驚かない。「中核企業だけでこの数です。関連会社を含めると、正確な把握には時間がかかります」淡々とした説明。感情の入り込む余地がない。司は、ただ眺めていた。理解が追いつかない。というより、現実感がない。(……そんな世界が、真澄の“日常”だったのか)頭に浮かんだのは、意外にも、派手な場面ではなかった。安いスーパーで、値引きシールを眺めていた真澄。「今日はこれでいいかな」と笑っていた顔。冬場でも、古いコートを大事そうに着ていた後ろ姿。そして――「今回の案件、取れました」あっさりと、そう言った日。司が胃を痛めながら通っていた取引先。何度も断られていた企画。それを、真澄は、数日のうちにまとめてきた。「たまたまだよ」そう言って、深くは語らなかった。(……たまたま、なわけがない)司は、ようやく気づき始めていた。真澄が、“仕事ができた”のではない。“仕事を動かせる立場”にいたのだ。だが、彼女はそれを、一度も振りかざさなかった。「真澄様は、結婚後、ご自身の資産からの支援をすべて断たれていました」弁護士の言葉が、静かに落ちる。「生活費は、基本的にあなたの収入のみ。ご本人の希望です」司の胸が、ぎゅっと縮んだ。(……我慢、してたんだ)狭い部屋。古い家具。将来への不安。それらすべてを、“選ばされた”のではなく、“選んで”いた。司のために。「雨宮家の令嬢であれば、経済的に困ることなど、あり得ません」その事実が、司の胸を強く打つ。金のない生活。不安定な将来。元妻との問題。それでも真澄は、司の隣に立つことを選び、黙って耐えていた。(オレは……)守っているつもりだった。支えているつも
last updateLast Updated : 2026-03-10
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第70話  選ばれなかった理由

応接室の空気は、相変わらず静かだった。だが、司の胸の内だけが、ざわついていた。弁護士は、資料を一枚閉じると、司の方をまっすぐに見た。そこには、責めも同情もない。ただ、事実を伝える者の目があった。「お伝えしておくべきことがあります」司は、何も言わず、頷いた。「真澄様は――」その名前を聞いただけで、胸がきゅっと縮む。「あなたが、本当に真澄様のことを大切にされ、守ってくれる方だと判断した場合、雨宮グループの後継者に任命するおつもりだったと、仰っていました」一瞬、言葉の意味が理解できなかった。「……後継者……?」司の喉から、掠れた声が漏れる。「はい。正式な判断ではありませんが、真澄様ご本人の意向としては、 あなたと人生を共にする覚悟で、その未来も見据えておられた」司の頭に、真澄の顔が浮かぶ。派手な言葉を使わず、自分の立場をひけらかすこともなく、ただ、黙って隣に立っていた女。(……そんなこと、ひとことも言わなかった)弁護士は、そこで一拍置いた。「ただ――」その言葉が、司の心臓を強く打つ。「あなたは、元のご家族と、節度のあるお付き合いさえ、できないようでしたので」司は、息を呑んだ。「金銭問題、感情的な衝突、第三者の介入。 それらを整理できないまま、真澄様を巻き込み続けた」否定しようとした。だが、できなかった。美里の怒鳴り声。荒木の挑発。莉子と湊を盾にした、曖昧な態度。「……」司は、唇を噛んだ。「雨宮グループ全体の判断として、ご離縁いただくよう、取り計らいました」淡々とした声。だが、その一言は、司の胸を深く抉った。「今後は、あなたの元奥様などから、脅迫、金銭要求、接触などがなされないよう、こちらで一定の配慮はいたします」それは、保護であり、同時に、完全な線引きだった。(……オレが、守れなかった)真澄を。彼女の覚悟を。彼女が信じてくれた未来を。司の中にあったのは、怒りでも悔しさでもない。ただ、圧倒的な申し訳なさだった。(オレは……何も返せなかった)「……真澄は……ここにいるんですか」絞り出すように、司は尋ねた。弁護士は、首を横に振る。「こちらには居られません。現在は、真澄様専用の屋敷にいらっしゃいます」“専用”という言葉が、遠く感じられた。もう、会えない。そう、はっきり突きつけら
last updateLast Updated : 2026-03-10
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