All Chapters of 捨てた妻は財閥の頂点にー今さら跪いても、もう遅い: Chapter 1 - Chapter 10

28 Chapters

第1話 赤いポストと白い封筒

道路に立ち尽くしている赤いポストに、真っ白な封筒を投函した。あれほど愛していたのに、もうどうでもよかった。 ポストの奥で、コトンと小さな音が聞こえた瞬間、雨宮真澄は自由になった気がした。これを受け取った後、彼がどう処理するかなんて、もう真澄には関係ない。ポストから離れ、一歩、また一歩と後退する。濡れたアスファルトが靴裏に張りつくような感触を返してくる。この雨も、もうすぐ雪に変わるだろう。そう、彼に、心を奪われた夜の、あの大雪の日のように……振り返ればまだ赤い色が視界の端にあるのに、真澄はもう戻らないと決めていた。たった2年間の結婚生活。 幸せだった時間は確かにあった。出会った頃の黒瀬司は穏やかで、彼女の話を楽しそうに聞いてくれる人だった。だが社長としての責務が重くなり、離婚した妻が、自分の友人と親しくしていることを知ってから、彼は「離婚した妻と残してきた子供たち」への未練や「血筋」や「未来の相続」という言葉を、悪気もなく会話の端々に混ぜるようになっていった。まるで真澄自身ではなく、彼の人生計画の一部として彼女たちが存在しているかのようだった。それでも、真澄は彼を愛していた。 今、目の前にある、その優しさが本心から来るものでないと気づきながらも、司の笑顔を見るたびに「まだ修復できる」と自分に言い聞かせてきた。転機は妊娠だった。 子供を身ごもったとわかった日、真澄は震えるほど喜んだ。新しい命は、二人の関係を結び直す糸になると思っていた。だが、その話をする前に、司の口からでてくるのは、二人の未来ではなく、「元の妻との子供たち」の話だけだった。その瞬間、真澄の胸の奥で何かが砕けた。胎内の鼓動を感じる前に、現実の重さだけが覆いかぶさった。仲がうまくいっていなかったのも事実だ。仕事が忙しいと言っては、家に帰って来ない日が増えた。司は「会社に泊まった」「急な仕事で遠方に行った」などと、その都度言い訳をしていた。同じ家にいても食卓の会話は短く、寝室での距離は遠く、互いの沈黙は気まずさで埋まっていた。真澄が話そうとすると司に掛かってきた電話で遮られ、司が語る未来にはいつも「前の家族のため」が主語だった。だから彼女は決断した。誰にも相談せず、ひとりで病院の予約を入れ、手術台に上がった。手術前の問診票に署名するとき、彼女は涙も迷いもすでに使い果たしていた。医
last updateLast Updated : 2026-02-13
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第2話 雪の夜

黒瀬司と知り合った時、雨宮真澄は23歳だった。天宮家の令嬢としてではなく、ひとりの新社会人として世に出てから、まだ一年。AMG――天宮グループの名は、彼女の肩書として表に出ることはない。両親を失った幼少期から祖父・龍堂と祖母・静江に育てられた真澄は、守られながらも、どこか自分の居場所を探し続ける癖があった。その年の冬は雪の日が多かった。特にこの夜の雪は容赦がなかった。出張帰りの新幹線が急停車し、長時間の缶詰の末に「運転見合わせ」のアナウンスだけを残して完全に止まった。駅構内は次々と閉鎖され、暖房の効いた待合室すら追い出された。人々は白い息を吐きながら外へ流れ出る。キャリーバッグの車輪は雪で役に立たず、スマホの電池も寒さで消耗が早い。タクシー乗り場は機能しておらず、道路はすべて交通がストップしていた。歩くしかない。そう腹をくくって外へ出た瞬間、真澄の足は雪の冷気に包まれた。濡れたヒールが白い歩道に突き刺さるたび、身体が小さく揺れる。革靴の底は滑り、つま先はすぐに感覚を失いかけた。彼女は震えながらも前だけを見た。ホテル検索アプリも読み込みが遅く、電波は雪で弱っている。それでも、もう少しだけ歩いた先にホテルがあるはずだった。道路の列の一番前で、異様な光景が見えた。大きなトラックがスリップして横を向いていた。車体は斜めに折れ、赤いテールランプが雪に滲んでいる。トラックの運転手は、空転するタイヤを何とかまっすぐに向けようと、ハンドルを切ったりアクセルを踏んだりしていた。エンジンの唸りとタイヤが雪を噛む悲鳴が混ざり、あたりの空気まで焦げつきそうな緊迫感が漂う。その横の歩道を、真澄は進んでいた。恐怖で足が止まりそうになりながらも、「ここで止まったら凍えてしまう」と自分に言い聞かせる。雪は降り続け、街灯の黄色い光に照らされながら無数の結晶が舞い落ちる。彼女のコートの肩も、まつ毛も、髪の毛先も、瞬く間に白く染まった。ふと視線を横へ移すと、対照的な存在がいた。スリップしているトラックの後ろで、大型トレーラーの若い運転手が、軽妙にタイヤチェーンを掛けている。動作は無駄がなく、手際は見惚れるほど鮮やかだった。チェーンの金属音がリズミカルに鳴る。焦りも苛立ちも見せない。吹雪の中なのに、その男の周囲だけ時間の流れが違うかのようだった。真澄が見ていると、若い運転手はチェ
last updateLast Updated : 2026-02-13
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第3話

雪が降る、あの夜から十五年。黒瀬司の人生は、あの冬の道路で、見知らぬ女性――雨宮真澄にサンダルを置いた男とは、まるで別人のものになっていた。かつてはトレーラーの運転席に座り、凍える指先でハンドルを握っていた司は、今では小規模物流会社「黒瀬カーゴ」の代表取締役社長として、重厚な木製の机の前に座っている。エンジン音の代わりに耳に入るのは、壁掛け時計の乾いた秒針の音だけだった。司はふと顔を上げ、社長室の壁に飾られた一枚の写真を見つめる。そこには、先代社長であり、父親でもある男の姿があった。父親と二人で運送会社を始めた頃、司はまだ若く、結婚したばかりだった。愛する妻と、幼い二人の子どもを抱え、必死で働いた日々。トラックは中古ばかりで、修理代を工面するのも一苦労だったが、不思議と不安はなかった。家族の存在が、司を前へ進ませていた。少しずつ従業員が増え、トラックの台数も増え、会社も生活も安定していく。「順調だ」そう思い始めた矢先、父親が突然の病に倒れ、帰らぬ人となった。司が三十五歳の時だった。それからは、考える暇も悲しむ余裕もなかった。自分が事務所を切り盛りするしかなく、毎日は無我夢中で過ぎていった。現場と経営の両立、資金繰り、従業員の生活。どれも放り出すわけにはいかなかった。「家族にも協力して欲しい」司は、妻の美里にそう懇願した。だが返ってきたのは、冷たい言葉だった。「結婚するとき、専業主婦でいいって言ったじゃない!!」四歳年上の妻に、司は頭が上がらなかった。自分が決めたことだ、と自分に言い聞かせるしかなかった。仕方なく司は、「事務員急募!」という求人広告を出した。急ぎで事務処理ができる経験者を探していた。請求書も帳簿も、数字を追うたびに頭が痛くなり、司は毎晩机に突っ伏していた。そんな中、応募してきたのが「雨宮真澄」だった。雨宮真澄は二十八歳、独身。パートではなく正社員でフルタイム勤務を希望し、事務職、しかも経理経験者。書類を見た瞬間、司は胸の内で安堵した。経理がさっぱり分からず、毎日数字を見て頭を抱えていた司にとって、これ以上ない人材だった。面接もそこそこに、司は即採用を決めた。ある日の昼休み、雑談の中で司は何気なく尋ねた。「雨宮さん、ご家族は?」その瞬間、雨宮真澄は少し影のある微笑を浮かべ、視線を落とした。「両親が子どもの
last updateLast Updated : 2026-02-13
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第4話

雨宮真澄が入社してからというもの、事務処理全般を安心して任せられるようになり、黒瀬運送は目に見えて業績を伸ばしていった。請求書の発行、入金管理、経費の整理、取引先との事務的なやり取り――これまで司が夜遅くまで残って一人で抱え込んでいた仕事が、驚くほど滑らかに回り始めたのだ。なによりも、雨宮真澄は仕事ができるだけの存在ではなかった。容姿もさることながら、その気立ての良さが、事務所の空気そのものを変えていた。いつの間にか事務所は常に整えられ、床に埃が溜まることもなくなった。観葉植物の葉は艶やかで、古いソファにはきちんとクッションが並べられている。朝、事務所に入るだけで、どこか胸の奥が軽くなる。真澄の明るい性格が、そのまま空間に染み込んでいるようだった。会社の運転手たちも、すぐに彼女の存在に懐いた。「事務所に帰ってくるのが楽しみなんですよ」そう言っては、仕事が終わってもなかなか帰らず、事務所のソファに腰を下ろし、コーヒーを飲みながら雑談に興じている。以前なら、さっさと車庫に戻っていたはずの男たちだ。協力会社の社長たちも同じだった。「真澄さん、おみやげ♪」そう言って、彼女が喜びそうな菓子や果物を手に、用もないのに頻繁に顔を出すようになった。「お前たち!! 真澄さんに負担ばっかり掛けるなよ!」司はそう言って苦笑していたが、内心では分かっていた。自分の仕事の大半を、真澄が静かに、確実に支えてくれていることを。そんな従業員たちや司の様子を見て、真澄は決まって柔らかく笑う。「役に立ててるなら、私も嬉しいですよ」そう言いながら、慣れた手つきでコーヒーを淹れてくれる。その湯気と香りに包まれる時間が、司には、本当に幸せだと思えるようになっていた。一方で、疲れ切って家へ帰ると、待っている現実はまるで違った。玄関を開けて最初に聞こえるのは、妻・美里の不満だった。「こんなアパートから早く出たい」「帰ってきたなら、育児か家事を手伝ってよ!」専業主婦で、発散する場所がないことは司にも分かっていた。それでも、かつて「疲れた体を休める場所」だったはずの家は、いつしか司にとって「帰りたくない場所」へと変わっていった。会社の事務所で、運転手の一人が冗談交じりに言ったことがある。「ここは、オレのオアシスだ」皆に笑われた一言だったが、司は笑えなかった。自分にとって
last updateLast Updated : 2026-02-13
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第5話

司は、妻・美里から無造作に手渡されたパンフレットを、黙って見下ろしていた。それは一冊や二冊ではない。一軒家とマンションのパンフレットが、十冊以上。美里はそれらを抱え込むように持ってきて、司の前に放り投げたのだった。「いい加減に家を持たないと、近所やママ友から笑われる」吐き捨てるような声だった。紙の束が床に散らばり、司は一瞬、拾うのをためらったが、結局しゃがみ込んで一冊ずつ手に取る。「会社がもう少し順調になってから……」そう言いかけた、その瞬間だった。美里は司の言葉を待たずに、一歩、距離を詰めてくる。「いつまで同じことを言ってるのよ!? そのセリフは聞き飽きたわ。私だって、ずっとガマンしているのよ!」鋭い声に、司は反射的に口を閉じた。言い返す言葉は、いくつも浮かんでいた。それでも、どれもこの場では無意味だと分かってしまう。司は黙って、散らばったパンフレットを拾い続けた。「そのうちのどれかを、絶対に買うから! 今日中にどれがいいか決めなさいね!!」命令口調で言い放ち、美里は憤慨したまま部屋を出て行った。ドアが閉まる音が、やけに大きく響く。司はパンフレットを抱えたまま、ソファに腰を下ろした。その中の一冊を開いてみる。日本家屋風の落ち着いた佇まいの家。直線的で洗練された、今風のモダンな家。木の温もりを強調した、カントリー調の家。どれも整っていて、どれも「理想」と書かれているようだった。自分の家を持ちたいという気持ちは、司にだってある。パンフレットに載っているような家に、愛する家族と住めたら、それだけで幸せなのだろう。「………愛する、家族……?」司は、思わず小さな声で呟いていた。自分にとって、愛する家族とは何だろう。妻と子どもたちの三人は、お互いを慈しみ合っているように見える。—では、自分は?司は、今の家族に愛されているという確信を、いつの間にか失っていた。結婚した時、子どもが誕生した時、確かにその頃は愛されている自信があった。家へ帰るのが楽しみで、仕事帰りに毎回のように子どもたちへの土産を買って帰り、美里に「甘やかしすぎよ」と叱られていた。それでも、あの頃の美里は、司の体調や仕事の心配をしてくれていた。「無理しないでね」そう言ってくれた声が、今では遠い。そんな思い出に浸っているうちに、司の胸の奥に、言葉にでき
last updateLast Updated : 2026-02-13
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第6話

司が会社へ戻ると、敷地の奥に停められた一台のトラックが目に入った。運転席の中だけが明るく照らされ、エンジンはかかったまま。人影が動いているのが見える。「お疲れさん。どうかしたのか?」声をかけると、運転席の中にいた運転手が大きく肩を跳ねさせた。慌ててドアを開け、ほとんど転げるように地面へ飛び降りてくる。「し、社長!! どうしたんですか、こんな時間に!!」その様子に、司は苦笑しながら運転席を見上げた。警告ランプが点灯しているのが目に入る。「何かあったか?」司の問いに、運転手は運転席の中を指さした。「もう帰りたいのに、DPF(ディーゼル微粒子捕集フィルター)が終わらなくて、ボタンを何回も押してました」トラックのDPF――ディーゼルエンジンの黒煙に含まれるPM(粒子状物質)を捕集し、燃焼除去する排ガス浄化装置。定期的に作動させ、完全に燃焼させておかなければ、マフラーが詰まり、最終的にはエンジン故障につながる。運転手は会社に戻ってきた途端、そのDPFの警告ランプが点灯し、装置が自然に停止するまで待つしかなくなったのだった。焦ってボタンを何度も押したものの、時間は短縮されない。司は一通り事情を聞き、うなずいた。「終わったら俺がエンジン切ってやるよ。お前はもう帰れ」そう言って、軽く笑う。その瞬間、運転手の顔がぱっと明るくなった。「いいんですか!? ありがとうございます!!」弾んだ声でそう言い、慌てて帰り支度を始める。「嫁さんが、明日から連休だからって、早く帰って来いってうるさいんですよ!!」そう言って笑い、「お疲れさまでした!!」と元気よく頭を下げると、自分の乗用車に乗り込み、勢いよく走り去っていった。司はその背中を、自然な笑顔で見送った。だが、振り返った瞬間、その笑顔はすっかり消えていた。(俺にもあんな時があったよな……)胸の奥に、かすかな痛みが残る。家に帰れば、待っている人がいて、早く顔を見せたくて、エンジンを切るのももどかしかった頃。そんな時間が、確かに自分にもあった。司は軽く頭を振り、考えを追い払うように呟く。「事務所、寒いかな」そう言って、事務所のドアを開けた。「………!?」思わず足が止まる。事務所の中は明るく、そして驚くほど暖かかった。暖房がしっかり効き、冷え切っていた身体が一気に緩む。さらに、鼻腔を
last updateLast Updated : 2026-02-13
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第7話

「し、社長!!」真澄は包丁を持ったまま、はっと振り返った。そして同時に口を開く。「こんな時間にどうしたんですか?」「こんな時間になにしてるんだ!?」ほぼ同時に言い合い、二人は顔を見合わせた。一拍置いて、思わず吹き出す。しばらく二人で笑い合うと、司の胸の奥がじんわりと温かくなっていることに気づいた。「真澄さん、こんな時間に何で?」あらためてそう聞くと、真澄は少し照れたように笑いながら答える。「長距離から帰ってくる運転手さんで、一人暮らしの人のために、こういう連休の前だけ、料理を作っておいてあげるんですよ」司は目を丸くする。「前から作ってたのか?」真澄は皿を用意しながら、手を止めずに言った。「はい。年末なんかは寂しいですよね。せっかく頑張って帰ってきたのに、帰ってカップラーメン食べて寝るって聞いちゃったら、つい……あ!」司が首を傾げる。「?」真澄は慌てて手で口を押さえた。「すみません、材料費は……経費で計上してました」そう言って、上目遣いで司を見る。司は一瞬きょとんとし、意味を理解すると、腹を抱えて大笑いした。「じゃあ、その料理を、俺が食べても文句はないよな?」そう言って、食卓のテーブルに腰を下ろす。真澄は温かいシチューとご飯を盛った皿を司の前に並べ、スプーンを置いてくれた。司はシチューをすくい、口に入れた瞬間、「うまい!!」と感嘆の声をあげた。真澄は少し照れながら、「ホントですか?」と聞き、もう一皿シチューをテーブルに置いて、自分も食べてみる。「寒い日はシチューですよね」そう言って司に微笑んだ。司はその笑顔にドキッとしながらも、同じように微笑み返し、黙ってシチューを食べ続けた。やがて食事の片付けが終わるころ、司は先ほどのトラックを見に外へ出ようとする。すると、真澄も帰り支度を終え、事務所から出てきた。「真澄さん、帰るなら送ろうか?」司が声を掛けると、真澄はコートを羽織りながら首を振る。「自分の車で帰りますよ。社長は何をするんですか?」そう言って、司の後をついてくる。司はトラックのドアを開けながら言った。「こいつのエンジンを切って終わりだ」そう言って、運転席に乗り込んだ。その時――真澄の脳裏に、あの雪の日のトレーラーの運転手の姿がよみがえった。大雪の中、困っている運転手を助け、自分にサ
last updateLast Updated : 2026-02-13
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第8話

 一人、会社に残った司は、もう一度トラックの運転席に座っていた。 エンジンはすでに止まっている。それでも、ハンドルに触れずにはいられなかった。 先ほどまで、確かに横に真澄が座っていた。その事実が、妙に現実味を帯びて胸に残っている。 ――「私のヒーローだったんです」 たったそれだけの言葉が、何度も頭の中で反芻されていた。 十数年も前の出来事を、彼女は覚えていてくれたのだ。 しかも、“ヒーロー”だと。 司は、ハンドルを両手で握った。 長年、重たい荷物を握り続けてきた自分の手。 この手で、家族を支え、会社を守り、社員を守ってきたはずだった。 それなのにいつの間にか、自分には価値がないのではないか、と感じるようになっていた。 家では感謝されることもなく、顔を合わせれば不満と要求ばかり。 会社では社長としての責任を果たしていても、それは「当たり前」だと受け取られる。 ――だが、真澄は違った。 ただ一人の若い女性が、自分を“ヒーロー”だと覚えていてくれた。 壊れかけていた自尊心が、ゆっくりと、だが確かに修復されていく感覚があった。 その時の光景が、鮮明に脳裏によみがえる。 助手席から降りようとしていた真澄は、想像以上の車高の高さに、足を出すのを躊躇していた。 高い位置から見下ろすその姿は、いつも事務所で見る彼女より、ずっと小さく見えた。 「怖い………」 そのか細い声に、司は反射的に運転席から降り、助手席の方へ回った。 両手を上げ、自然と口をついて出た。 「手を、手すりから離さずに、ステップに足を掛けて降りておいで」 真澄は青ざめながら「はい」と答え、言われた通りに右足を最初のステップに乗せた。 その瞬間だった。 靴が滑り、真澄の体が大きく傾いた。 司は考えるより先に動いていた。 力強く腕を伸ばし、落ちかけた体を抱きとめる。 腕の中に収まった真澄は、驚いたように息を詰め、しばらく動けずにいた。 その温もりと、思いのほか柔らかな感触が、司の腕に生々しく伝わる。 「大丈夫か?」 自分でも、少し低く、落ち着かせるような声だったと思う。 司の声にハッとした真澄は、自分が抱きしめられている状況に気づき、「す、すみません!」と慌てて司から離れた。 その体温が、すり抜けるように失われる。 一瞬で終わったはずなのに、司の腕には
last updateLast Updated : 2026-02-13
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第9話

 会社の休憩室で寝てしまった司は、翌日の朝、ゆっくりと家に帰った。  特に急ぎの仕事があったわけではない。ただ、今ではもう、会社の方が不思議なほどよく眠れるようになってしまっていた。  狭い簡易ベッドと、機械の低い音に囲まれた空間の方が、心が落ち着くのだ。 玄関のドアを開けると、司は反射的に口を開いた。 「ただいま」 返事が返ってくることはないと分かっていた。  それでも言ってしまうのは、長年の癖のようなものだった。 会社に戻ったときは、「おかえりなさい」と真澄が柔らかく微笑んでくれる。  だが、この家では、返ってくるのは無言の沈黙だけだった。 リビングへ入ると、家族三人が、ちょうど朝食を終えたところだった。  テーブルには食べ終わった皿と、飲みかけのコーヒーカップがそのまま置かれている。 「あら、あなた帰ってきたの?」 美里が、まるで予想外の来客を見るような調子で言った。  莉子と湊は、顔も上げず、スマホの画面を指でなぞっている。 司は上着をソファに投げると、短く言った。 「家、買うんだろ?」 自分でも驚くほど、感情のこもらない声だった。  だが、その言葉に、美里の表情は一気に明るくなる。 「本当に行くのね? 莉子、湊も支度しなさい!!」 そう言い残すと、朝食の片付けもせず、さっさと寝室へ向かってしまった。 その背中を見送りながら、湊がぽつりと呟いた。 「また厚化粧して出かけるんだ」 莉子は画面から目を離さないまま、「私、友達と約束があるから行かないわ。パパ、おこづかい!」と、当然のように手を差し出した。 司は小さくため息をつき、ポケットから財布を取り出す。  一万円札を一枚抜き取り、無言で莉子の手に置いた。 それを見た湊も、同じように司の前に手を出す。 「お前は無しだ」 司がそう言うと、湊は露骨に顔をしかめ、「じゃあ、俺も行かない」と吐き捨てるように言い、自分の部屋へ引きこもってしまった。 リビングには、再び沈黙が落ちた。 司はテーブルの上に残された皿をまとめ、流しへ運んだ。  水を流しながら、これが誰のための家なのか、分からなくなってくる。 その時、しっかりと着飾った美里がリビングに現れた。  ブランド物のバッグを肩に掛け、香水の匂いをまとっている。 「莉子も湊も行かないって言ってるわよ。司、
last updateLast Updated : 2026-02-14
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第10話 居ていい場所

 司が事務所のドアを開けると、すでに中は明るかった。  エアコンの音と、プリンターが紙を吐き出す規則正しい音が、静かに重なっている。 「おはようございます」 デスクから顔を上げた真澄が、いつもと変わらない調子で言った。  作りものではない、ただの挨拶。  それだけなのに、司の胸の奥に溜まっていたものが、少しだけほどけた気がした。 「おはよう」 短く返しながら、司は自分の席につく。  机の上には、昨日の続きをまとめた書類が、きれいに揃えられていた。 「昨日の請求書、未回収分だけチェックしてあります。ここが要確認です」 真澄はそう言って、付箋の貼られた一枚を差し出した。  司はそれに目を通し、自然と頷く。 「ここは今月中でいい。先方には俺から一言入れておく」 「分かりました」 それだけだった。  反論も、ため息も、嫌な顔もない。 司はふと気づく。  自分が決めたことを、そのまま受け取ってもらえることが、どれほど久しぶりか。 しばらくして、真澄がコーヒーを淹れてくれた。  砂糖とミルクが入った、司好みの味だ。 「今日は天気が崩れるみたいですね」 真澄が何気なく言う。 「ああ、夕方から雨らしいな」 それだけの会話。  意味も目的もない雑談なのに、司は肩の力が抜けていくのを感じていた。 運転手が一人、事務所に顔を出し、昨夜の運行の愚痴をこぼす。  真澄は相槌を打ち、司は笑いながら短く指示を出す。  それで話は終わり、運転手はすっきりした顔で出て行った。 時計を見ると、思った以上に時間が経っていた。  司は、時間を気にしていなかった自分に気づき、わずかに戸惑う。(ここは気持ちが楽だ……) そう思ってしまったことに、司は内心でブレーキをかける。  これは仕事だ。  ここは会社だ。  それ以上でも、それ以下でもない。 それでも、家にいるときのような胸の重さはなかった。  言葉を選ばなくていい。  顔色をうかがわなくていい。  ただ、役割を果たせばいい。 真澄は、何も特別なことをしていない。  優しさを押し付けるわけでも、距離を縮めるわけでもない。  ただ、そこにいて、仕事をしているだけだ。 それが、司には救いだった。 夕方になり、真澄が資料をまとめながら言う。 「今日もお疲れさまでした」 司
last updateLast Updated : 2026-02-14
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