All Chapters of 捨てた妻は財閥の頂点にー今さら跪いても、もう遅い: Chapter 101 - Chapter 110

115 Chapters

第101話

数日後。郊外の簡素な事務所前に、雨宮グループの車が止まった。司は、その車を見た瞬間、息を呑んだ。まさか、雨宮グループがここへ来るなんて……そんなはずはない。だが、一番初めに降りてきたのは、見慣れたスーツの弁護士でも、役員でもなく――黒のジャケットに、シンプルなパンツ。無駄な装飾のない姿の、雨宮真澄だった。司は、一歩も動けなかった。雨宮グループの役員数名と、担当役員など、整ったスーツに磨き上げた革靴の男性が、真澄を案内して事務所の方へ歩いてくる。真澄は事務所の手前で止まり、司を見て、ほんの一瞬だけ視線を止めた。それから、何事もなかったように言った。「本日は、業務ヒアリングに参りました。雨宮グループCEO、雨宮真澄です」その声は、冷静で、揺れがない。「……黒瀬カーゴ代表、黒瀬司です」名乗りながら、司はようやく頭を下げた。一年半ぶりの再会だった。だが、そこに「感情」は、許されていなかった。事務所内。古い机と、最低限の設備。真澄は、ゆっくりと室内を見渡した。「……無駄がありませんね」 評価とも、感想とも取れる言葉。その言葉に、司は淡々と答える。「今は、必要なものだけです」「五台で、回せていますか」「はい。無理な仕事は、取らないようにしています」真澄は、資料に目を落としながら、頷いた。「事故ゼロ。ドライバーの離職も、止まっています」司は、少しだけ間を置いて言った。「……怒鳴るのを、やめました」真澄のペンが、止まる。だが、顔は上げない。「それは、経営判断として正しいですね」ただ、それだけ。司の胸に、何かが刺さった。評価されたいわけじゃないし、許されたいわけでもない。――だが、何もなかったように扱われるのは、想像以上に苦しかった。ヒアリングが終わり、真澄は立ち上がった。「条件面については、社に持ち帰ります。結果は、改めて連絡します」「……ありがとうございました」司が頭を下げると、真澄は一瞬だけ、言葉を選ぶように間を置いた。「黒瀬さん」名前を呼ばれ、司は顔を上げる。「仕事としては、誠実でした」それ以上は、なかった。私情は、ない。評価は、評価。真澄は、それだけを置いて、事務所を出ていった。車に戻った真澄は、深く息を吐いた。窓の外に流れる景色が、滲む。「……近すぎたわ」誰にともなく、呟く
last updateLast Updated : 2026-03-21
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第102話

今回のプロジェクトの選考結果は、静かに、しかし確実に、業界に波紋を広げた。投資先として選ばれたのは、楓谷(ふうこく)運輸と黒瀬カーゴ。雨宮グループはこの二社に対し、資金を投じ、輸送実態を管理しながら、大手が拾いきれなかった輸送貨物を集中的に任せるという戦略を取ることを決めた。大手物流会社は、効率を優先するあまり、利益率の低い案件や細かな輸送を切り捨てがちだ。だが、小規模な運送会社は違う。若い人材を多く抱え、柔軟に動き、現場の判断が早い。そこへ資金を入れ、車両と人を増やし、周囲の小規模事業者を吸収させていく。そうして、これまで見過ごされてきた輸送案件を次々と拾い上げ、利益に変えていく――それが、雨宮グループの狙いだった。楓谷運輸も、黒瀬カーゴも、規模は小さい。だが、どちらもコンプライアンス遵守を明確に掲げ、労務管理や運行管理に妥協がなかった。雨宮グループとして管理しやすいことも、最終決定を後押しした要因だった。その決定の裏に、雨宮グループCEOの強い意見があったことを、楓谷運輸も、黒瀬カーゴの司も、知る由はなかった。知らせを聞いたとき、事務所には莉子と湊も一緒にいた。電話を切った司は、一瞬言葉を失い、それから勢いよく立ち上がった。「やったぞ!!」思わず飛び出したガッツポーズに、莉子が目を見開く。湊も顔をあげ、「どうしたの、パパ?」と、きょとんとした顔で司を見た。「すごく大きい仕事が入ってくるんだ!!」司は興奮を隠しきれないままそう言うと、外へ飛び出した。車庫でトラックを洗っていた運転手のもとへ走り寄り、「やったぞ!!仕事が取れた!!」と声を張り上げる。洗車用のホースを持ったまま固まる運転手たちの顔が、次第に笑顔に変わっていった。事務所の中で、莉子と湊は顔を見合わせ、少し苦笑した。あまりにも分かりやすい父親のはしゃぎようだったが、「良かったね、パパ」と、二人とも同じ気持ちで、外で大騒ぎする背中を見つめていた。その頃――。美里は、一人、自宅のリビングのソファに沈み込んでいた。目の前のテーブルには、開いたままの求人雑誌と、雨宮グループから届いた内容証明郵便。何度見返しても、そこに記された数字は変わらない。デマ拡散による被害総額――三十七億八千六百万円。ネット上での虚偽情報の拡散、企業価値の毀損、ブランドイメ
last updateLast Updated : 2026-03-21
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第103話

それからの黒瀬カーゴの発展は、誰の目にも明らかだった。雨宮グループからの投資が本格的に動き出すと、仕事量は一気に増え、会社の雰囲気そのものが変わっていった。求人募集をかけると、途切れることなく応募があり、面接日には常に四、五人の面接者が事務所を訪れた。年齢も経歴もさまざまで、中にはかつて黒瀬カーゴを辞めた人物の姿もあった。だが司は、その顔を見て一瞬驚いたあと、何も言わずに椅子を勧め、これまでと同じように話を聞いた。過去よりも、これからどう働くか。司の判断基準は、それだけだった。また、楓谷運輸の社長とも、仕事を通じて自然と意気投合していった。どちらかが人手不足や車両繰りに困ると、互いにトラックを回し合い、無理のない形で助け合う。競争相手ではなく、支え合う存在として、二社の関係はとても良好なものになっていた。事務所も、以前より少し広くて新しい場所を借りた。簡易ベッドを置いた休憩スペースがあり、長距離運転の合間に体を休めることができる。シャワー室も設けられ、汗を流してから帰れるようになった。司は、窓際に立ち、新しく整備された車庫を眺めた。並んでいるトラックは、今や十五台。かつて数台で回していた頃を思えば、まるで別の会社のようだった。それもこれも、『雨宮グループ』のおかげだった。真澄との結婚を、自分のせいで破談にしてしまった。本来なら、恨まれても仕方がない。それなのに、仕返しどころか、こうしてグループに助けられている。相変わらず、真澄とは会うことさえできていない。だが司は、もう一度、真澄に会うことを切望していた。会って、どうしても謝りたかった。そして……その先の言葉は、まだ胸の奥にしまったままだった。司の会社がどんどん大きくなり、父親が元気と笑顔を取り戻していく姿を、莉子も湊も、ずっと間近で見ていた。仕事終わりの司の表情は明るく、声にも張りがあった。自分たちも成長した。莉子は大学生になり、湊ももうすぐ高校三年生になる。両親がなぜ離婚したのか、感情だけでなく、現実として理解できる年ごろになっていた。ある日、学校帰りの湊は、校門の近くに立つ見慣れた後ろ姿に気づいた。同級生に冷やかされながらも、「姉ちゃんだよ!!」と言って、迷わず駆け寄る。「姉ちゃん、どうしたの?」息をはずませて聞くと、莉子は少し真剣な表情で、「
last updateLast Updated : 2026-03-21
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第104話  許しを請う男

 雨宮グループ本社の応接室は、静まり返っていた。 重厚な木の扉の向こうに広がる空間は、豪奢ではあるが、どこか古びている。 それは、この場所が長い年月、数え切れない決断と別れを見送ってきた証のようでもあった。 黒瀬司は、背筋を伸ばしてソファに腰を下ろしていた。 だが、手のひらはわずかに汗ばんでいる。 運送会社の社長として、いくつもの交渉の場をくぐってきたはずなのに、今日は違った。 ――これは、仕事じゃない。 扉がゆっくりと開き、杖をついた老人が入ってくる。 雨宮龍堂。 かつて財界に名を轟かせ、今もなお雨宮グループの“象徴”として君臨する人物だ。 白髪は増え、歩みもゆっくりになっている。 だが、その目だけは、少しも衰えていなかった。「……久しぶりだな、黒瀬くん」 低く、落ち着いた声。 司は反射的に立ち上がると、深く頭を下げた。「本日は、お時間をいただき、ありがとうございます」 龍堂は何も言わず、向かいのソファに腰を下ろす。 その仕草一つ一つに、八十年を超えて積み上げてきた重みがあった。「用件は、聞かなくても分かっている」 龍堂は、司をまっすぐに見据えた。「真澄のことだろう」 司の喉が、わずかに鳴る。 それでも、目を逸らさなかった。「……はい」 一拍、深く息を吸う。「私は、取り返しのつかないことをしました。 真澄さんを……雨宮家を、深く傷つけました」 言葉を選ばず、飾らず、司は続けた。「会社が苦しいとか、守るものが多いとか…… そんな言い訳で、自分の弱さから逃げました。 結果、真澄さんを一人にしてしまった」 司は立ち上がり、龍堂の前で深々と頭を下げた。「許していただけるとは、思っていません。 ただ……人として、謝らせてください」 応接室に、沈黙が落ちる。 時計の秒針の音だけが、やけに大きく響いた。 やがて、龍堂は小さく息を吐いた。「……時間は、かかったな」 その言葉に、司は顔を上げる。「だが、お前は逃げ切らなかった。 ここへ来たということは、それだけは評価しよう」 龍堂は、杖に手を置いたまま、静かに続けた。「私はな、黒瀬くん。お前を許すかどうかよりも…… なぜ、真澄があれほど泣いたのかを、ずっと考えていた」 司は、何も言えなかった。「真澄は、強い子だ。あの子が声を殺して泣くほどの相
last updateLast Updated : 2026-03-22
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第105話  戻る場所・戻れる場所

 久しぶりに鍵を回した玄関の音が、やけに大きく響いた。 ガチャリ――。 莉子は一歩だけ中に入って、足を止めた。 見慣れているはずの家なのに、空気が違う。 人の気配が薄く、生活の音が消えた家は、まるで時間が止まっているようだった。「……変わってないね」 後ろから湊が言う。 だが、その声は少しだけ硬い。 リビングに入ると、美里はソファに座っていた。 テレビはついていない。 テーブルの上には、読みかけの求人誌と、折り畳まれたエプロン。 二人の姿を見た瞬間、美里は立ち上がった。「……莉子……湊……」 名前を呼ぶ声が、震えた。 駆け寄りたいのに、足が動かない。 それが、今の美里の立場そのものだった。 莉子は一歩前に出て、深く息を吸った。「ママ。 ……私たち、帰ってきたよ」 それだけの言葉なのに、美里の目に涙が溜まる。「ごめんね……」 美里は、思わずそう口にしていた。「本当に……ごめん……」 湊は俯いたまま、靴を揃える。 その仕草が、もう子どもではないことを、はっきりと示していた。「……ここ、俺たちの家だろ」 ぽつりと、湊が言った。「ママを一人にしとくの、かわいそうだなって思って………」 美里は、何も言えず、ただ何度も頷いた。 三人で座った食卓は、どこかぎこちない。 以前のように、言いあう怒鳴り声も、ため息もない。 代わりにあるのは、気まずさと、慎重な沈黙だった。「……バイト、始めたの」 美里が、ぽつりと切り出した。「毎日じゃないけど…… 近くのスーパーで、三時間だけ」 莉子は少し驚いた顔をしてから、静かに笑った。「そうなんだ」 責めるでも、褒めるでもない。 ただ、受け止めるような笑顔だった。「……無理しなくていいから」 湊が言う。「俺、もうすぐ受験だし。大学行ったら、バイトもできるし」 美里は、はっとして湊を見る。「そんなこと……」「いいんだよ」 湊は、珍しくきっぱりと言った。「俺も、家族なんだから」 その言葉に、美里の胸が締めつけられる。 ――ああ、私は。 この子たちを守ってきたつもりで、 一番守られていたのは、自分だった。 夜。 それぞれの部屋に灯りが戻った家で、美里は一人、リビングに座っていた。 洗濯物の音。 シャワーの水音。 誰かが家にいるという、当たり前の気
last updateLast Updated : 2026-03-22
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第106話  久しぶりの再会

 待ち合わせ場所に選んだのは、駅前の小さな喫茶店だった。 派手さはないが、静かで、長居しても咎められない場所。 司は、少し早めに着いていた。 コーヒーに口をつけながら、何度も時計を見る。 ――緊張している。 それを自覚して、苦笑した。 ドアのベルが鳴る。 振り向くと、美里が立っていた。「……久しぶり」 それだけで、十分だった。「ああ……久しぶりだな」 二人は向かい合って座る。 距離は、テーブル一枚分。 だが、昔よりずっと遠く感じた。「莉子と湊……そっちに帰ったって聞いた」 司が先に口を開いた。「うん。ありがとう……いろいろ」「俺は、何もしてないよ」 司は、そう言って首を振る。「二人が、自分で決めたんだ」 沈黙。 だが、気まずさはなかった。「……司、変わったわね」 美里が、ふとそう言った。「前はさ……もっと、疲れた顔してた、いつも」 司は少し驚いたように目を瞬かせてから、穏やかに笑った。「そうか?」「うん。今は……穏やかな顔してる」 司は、しばらく考えてから答えた。「怒る余裕が、なかっただけだよ。会社とか、お前たちを守らなきゃいけないって、必死で」 美里は、その言葉に小さく息を吸った。「……私もね」 声が、少し震える。「司がいないと、生きていけないって思ってた。お金も、安心も、全部……」 司は、黙って聞いていた。 否定もせず、責めもしない。「でも今は……自分の足で立たなきゃって、思ってる」 美里は、指先をぎゅっと握る。「三時間のバイトだけど……それでも、私には大きな一歩だと思った」「……そうだな」 司は、ゆっくり頷いた。「それでいいと思う」 その言い方に、美里は目を伏せた。「司は……戻りたいって、思わない?」 正直な問いだった。 司は、少しだけ視線を下げ、それから真っ直ぐ美里を見る。「……戻れない」 はっきりとした声だった。「俺たち、あの頃には戻れない。良くも悪くも」 美里は、驚いたように目を見開き、そして――少しだけ、安心したように笑った。「……だよね」 その笑顔には、もう縋る色はなかった。「離婚ってさ……失敗だと思ってたの」 美里が言う。「でも今は……通過点だったんだって、思える」 司は、静かに微笑んだ。「俺もだ」 コーヒーが、もう冷めている。 そ
last updateLast Updated : 2026-03-23
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第107話 雨宮家の恩情

久しぶりに司に会い、懐かしくもあり、ほんの少し寂しさもあった。言葉を交わした時間は、決して長くはなかった。 けれど、その短い時間の中で、変わったものと、変わっていないものの両方を、美里は確かに感じ取っていた。以前のような勢いも、余裕もなかった。 だがその代わりに、逃げない覚悟のようなものが、静かに滲んでいた。「惜しい男を逃しちゃったかな……」美里は苦笑しながら独り言を言った。それは冗談のようでいて、どこか本音でもあった。 過去に戻れるなら――そんなことを一瞬だけ考えてしまう自分に、すぐに苦笑する。もう戻れない。 だからこそ、今をどうするかしかない。家に戻ると、莉子と湊がリビングでテレビを見ている。テレビの音はついているが、二人の視線はそれぞれ別の方向にあった。 莉子はスマホを片手に何かを見ていて、湊もまた、ぼんやりと画面を眺めている。テレビを見ているのか、スマホを弄っているのかわからないが、二人とも自分のことで忙しそうだ。以前なら、その光景に苛立っていたかもしれない。 「ちゃんとしなさい」と、意味もなく口を出していたかもしれない。だが今は、違った。それぞれが、それぞれの形で考え、前に進もうとしていることを、美里は少しずつ理解し始めていた。美里は手を洗うと、「ごはん作るわね」と言い、キッチンへと行こうとした。その言葉も、どこか自然に出たものだった。 “やらなければ”ではなく、“やろう”と思って出た言葉。すると湊が一通の封筒を差し出す。「なんか手紙来てるよ」何気ない一言。 だが、その手にある封筒を見た瞬間、美里の時間が止まる。美里が湊の手元を見ると、「AMG」の文字が目に入った。美里の表情がサッと曇る。胸の奥が、強く締めつけられる。手紙を受け取る手が震えていた。あの内容証明。 あの数字。一度見た恐怖が、鮮明に蘇る。それを察した湊は、封筒を持ち上げ、自分で封を切る。ためらいはなかった。 まるで、美里を守るように、先に受け止めようとしているかのようだった。そして中身を読むと、無言で美里に手渡した。その仕草が、少しだけ大人びて見える。先日届いた内容証明郵便。あの、損害額の数字が頭をよぎる。今の、たかが週二から三回の三時間のパートでは、どうあがいても払えるわけがない。現実は、あ
last updateLast Updated : 2026-03-23
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第108話  背中を押す言葉

 夜の事務所は、昼間とは別の顔をしていた。 エンジン音も、人の声もない。 昼間は出入りするトラックと人の気配で満ちている場所が、今はまるで別世界のように静まり返っている。 ただ、事務机の明かりだけが、静かに点いている。 その光の中で、司は一人、書類に向き合っていた。 だが、目は文字を追っているようで、実際には何も読んでいない。 司は、書類に目を落としたまま、手を止めていた。 考え事をしている時の、癖だった。 頭の中には、仕事のことだけではない、いくつもの想いが渦巻いていた。 会社の再建、子どもたちのこと、そして――真澄のこと。「……パパ」 不意に声がして、顔を上げる。 ドアのところに、莉子が立っていた。 少しだけ息を弾ませている。 学校帰りに、そのまま寄ったらしい。「どうした?」「ううん。なんとなく」 莉子はそう言って、司の向かいに座った。 椅子を引く音が、小さく響く。 しばらく、二人とも何も話さない。 だが、親子の間には、沈黙が苦しくない時間が流れていた。 言葉がなくても、そこにいるだけで成り立つ距離。 それは、いつの間にか取り戻していた関係だった。 ふと、莉子が口を開く。「……そういえばさ」 司が視線を上げる。「ママのところに、手紙が来たんだって」「手紙?」「うん。雨宮グループから」 司の表情が、わずかに引き締まる。 嫌な予感が、先に立つ。 だが、莉子は落ち着いた様子で続けた。「前に言ってたでしょ。ママが、変なことしてて……損害賠償の話が来てたって」「ああ……」 司は、静かに頷く。 あの件の重さは、よく分かっている。「それがね、棄却するって」 司は、一瞬言葉を失った。「……棄却?」「うん。ちゃんと生活を立て直すなら、もう請求しないって」 その言葉に、司の胸の奥で何かが動いた。 理由は、一つしか思い浮かばない。 莉子が、少し考えるように言う。「ねえ、パパ」「なんだ?」「……パパのお嫁さんが動いてくれたのかな」 その言葉に、司の呼吸がわずかに止まった。 否定は、できなかった。 むしろ―― それしか、あり得ないと思った。 直接手を差し伸べるのではなく、 けれど確実に、相手の未来を壊さない形で道を残す。 それは、真澄が選びそうなやり方だった。 司は、ゆっくりと息を
last updateLast Updated : 2026-03-24
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第109話  真澄、夜の涙(遠くから見た黒瀬カーゴ)

夜の車内は、静かだった。 エンジンの低い振動と、タイヤがアスファルトをなぞるわずかな音だけが、一定のリズムで続いている。 外の世界は動いているのに、この空間だけが切り離されたように、時間がゆっくりと流れていた。 後部座席に座る真澄は、窓の外に流れる街灯を、ただ黙って見つめている。 等間隔に並ぶ光が、規則的に視界を横切っていく。 まるで、自分のこれまでの選択を一つずつなぞるように、途切れることなく続いていた。 運転席には、専属ドライバー。 バックミラー越しに何度か視線を送ってきている気配はあったが、余計なことは一切聞いてこない。 それが、この車内の“当たり前”だった。 行き先は告げていない。 ただ、「少し遠回りを」と、それだけだった。 自分でも、どこへ行きたいのか分かっていなかった。 それでも、まっすぐ帰る気にはなれなかった。 やがて、車は減速する。 わずかな違和感に、真澄の意識が現実へと引き戻される。 真澄の視線の先に、小さな車庫が見えた。 見慣れたはずの景色。 だが、どこか距離を感じる場所。 明かりが点いている。 数は多くない。 だが、規則正しく並ぶトラックと、清掃された地面。 無駄なものはなく、けれど雑でもない。 そこにあるのは、“立て直そうとしている現場”の空気だった。 ――黒瀬カーゴ。 社名の入ったプレートは、控えめだが、きちんと掲げられていた。 以前よりも小さくなったはずなのに、なぜか、その存在は消えていなかった。 真澄は、胸の奥が、きゅっと縮むのを感じた。 息が、少しだけ浅くなる。 以前の自分なら、きっと、ここに立っていた。 事務所で書類を整理し、運転手たちにコーヒーを配り、司の背中を、当たり前のように見ていた。 忙しさに追われながらも、どこか満たされていた日々。 あの空間の中で、自分は確かに“誰かの隣”にいた。 あの頃は、それが「特別」だとは、思っていなかった。 当たり前に続くものだと、疑いもしなかった。「……順調、みたいね」 誰に言うでもなく、呟く。 その声は、自分でも驚くほど静かで、感情を押し殺したものだった。 トラックの脇で、誰かが笑っている。 作業を終えたあとの、力の抜けた笑い声。 疲れと安心が混じった、現場の音。 司ではない。 だが、その笑顔の輪の中心に、司が
last updateLast Updated : 2026-03-24
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第109話  黒瀬司、雨宮龍堂のもとへ

雨宮本家の庭は、静かだった。 冬を越えた木々が、ゆっくりと芽吹き始めている。 まだ冷たさの残る空気の中で、小さな新芽だけが、確かに季節の移ろいを告げていた。 司は、門の前で、深く一礼した。 この門をくぐることの意味を、誰よりも理解しているつもりだった。 ここは、簡単に訪れていい場所ではない。 ――ここに来る資格が、自分にあるのだろうか。 そう考えながらも、引き返すことはできなかった。 ここで逃げれば、もう一生、自分は逃げ続ける。 それだけは、はっきりと分かっていた。 案内されるまま屋敷に入り、廊下を進む。 一歩ごとに、背負っているものの重さが増していくようだった。 応接間に通されると、そこには、雨宮龍堂と、静江が並んで座っていた。 空気が、違う。 静かなのに、張り詰めている。 龍堂は、以前よりも、少し痩せたように見える。 八十を超えた身体は、それでも、威厳を失ってはいない。 その視線だけで、逃げ場を塞がれるような圧があった。「……お久しぶりです」 司は、深く頭を下げた。 声はかろうじて出たが、喉の奥は乾いている。「今日は、何の用だ」 龍堂の声は、淡々としている。 感情を排したその声音が、逆に重く響いた。 司は、正座したまま、額が畳につくほど頭を下げた。「……謝罪に来ました」 静江が、わずかに眉をひそめる。「謝罪……とは?」「真澄さんを――深く、傷つけました」 司の声は、震えていた。「守ると誓ったのに、信じきれなかった。逃げて、弱さを押し付けました」 その言葉は、自分自身に向けた刃でもあった。 ふと、龍堂の低い声が落ちる。「……一度目の離婚のときは、どんな覚悟があった?」 空気が、止まる。 司は、一瞬、言葉を失った。 問いは静かだったが、逃げ道はなかった。 脳裏に浮かぶのは、美里との離婚の時の自分。 ――覚悟など、あったのか。 思い出せば思い出すほど、答えは一つだった。 なかった。 ただ、疲れていた。 向き合うことから逃げたかった。 家庭の歪みを正すこともせず、 話し合うこともせず、 ――逃げただけだった。 司の喉が、かすかに動く。 さらに龍堂が続ける。「では、二度目はどうだ」 その言葉に、胸の奥が強く痛んだ。 二度目――真澄との離婚。 あの日の光景が、鮮明に蘇る。
last updateLast Updated : 2026-03-25
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