All Chapters of 捨てた妻は財閥の頂点にー今さら跪いても、もう遅い: Chapter 81 - Chapter 90

115 Chapters

第81話 湊の涙

湊は、電話に出なかった。コール音だけが、虚しく耳に残る。何度かけても、反応がない。時間を置いてかけ直しても、結果は同じだった。呼び出し音のあとに続くのは、ただの沈黙だけ。司は、スマートフォンを静かにテーブルの上に置いた。そして、ふと莉子の言葉を思い出していた。――ちゃんと話してくれるなら。あの小さなファミリーレストランで交わした約束。あの時、莉子の目は、まっすぐだった。だから、司は逃げなかった。電話に出ないからといって、理由にすることはできないと思った。直接、湊に会いに行った。夜の街を歩きながら、司の足取りは決して軽くなかった。久しぶりに向かうその場所は、どこか遠く感じられた。やがて、美里の家の前に立つ。見慣れたはずの玄関。だが今は、よその家のように感じられた。美里の家の前で、司は深呼吸をする。胸の奥に溜まっているものを、ゆっくり吐き出すように。逃げるな、と自分に言い聞かせながら、指を伸ばす。インターホンを押すと、しばらくして足音が近づいてきた。そして、ドアが開く。湊が出てきた。以前より少し背が伸びた気がする。だが、表情は固く、どこか壁を作っていた。「……何しに来たの?」冷たい声。視線も合わない。司は、その空気を受け止めながら答える。「話をしに来た」湊はすぐに返した。「今さら?」その言葉には、皮肉も怒りも混ざっていた。「今だからだ」短い答えだった。湊は、しばらく黙っていた。何かを考えているような沈黙。やがて、乱暴にドアを開け、背を向けた。「……入れば」投げるような言い方だった。司は、黙って中へ入る。玄関の空気は、どこか重かった。部屋の中は、散らかっていた。床には雑誌やゲームのケースが転がり、テーブルの上には飲みかけのペットボトルがいくつか置かれている。テレビの音だけが、やけに大きい。バラエティ番組の笑い声が、空気に浮いていた。司は立ったまま、湊の背中を見る。「学校は?」できるだけ普通の声で聞いた。湊は、振り向かないまま答える。「普通」短い返事。「……そっか」それ以上、続く言葉はなかった。沈黙。テレビの音だけが、やけに存在感を持っていた。突然、湊が言った。「俺さ」司は、顔を上げる。「パパに期待するの、やめてた」その言葉は、静かだった。だが、重かった
last updateLast Updated : 2026-03-14
Read more

第82話 距離を取る愛

司は、それから頻繁に子どもたちに会おうとはしなかった。毎週、毎日――そんなことは、もうしないと決めていた。連絡は、月に数回。短いメッセージだけ。『元気か』『困ってることはないか』返事が来ない日もある。司はそれでも、構わなかった。――子どもたちに寄り添うとは、物理的に近くに居ることではなく、離れていても、何かあれば、いつでも守ってやる、いつも見守っていると、子どもたちを安心させてやることだ。司は、ようやくその違いを理解していた。莉子は、ある夜、母・美里の背中を見ながら考えていた。リビングのソファで、スマホを操作しながら、誰かに愚痴をこぼす母。「ほんと最低よね。男って」「私がどれだけ我慢してたと思ってるのかしら」その言葉は、何度も聞いてきた。昔は、それをそのまま信じていた。でも、最近は違う。――パパは、一生懸命働いていた。家族のため、私たちのためと、休みも取らず。家だって買ってくれた。スマホも、最新機種を買ったって、叱られもしなかった。――逃げたけど、悪口も言わなかった。ファミレスでの、あの沈黙を思い出す。謝るしかできなかった父の顔。(……あの人、言い訳しなかった)美里は、よく言っていた。「大人になったら、分かるわよ」「結婚なんて、結局、女が損するの」その言葉に、ずっと違和感があった。(ママは一度だって、働いたことないじゃない…)ある日、莉子は、司からのメッセージを読み返していた。『無理しなくていい』『話したくなったらでいいよ』それだけ。責める言葉は、ひとつもない。莉子は、初めて思った。――両親は、――同じ方向を見ていなかったんだ。母は、怒りで繋ぎ止めようとし、父は、沈黙で逃げようとした。どちらも、不器用だった。(だから、壊れたんだ)誰が悪い、ではなかった。噛み合わなかっただけ。それに気づいた瞬間、莉子の胸の奥にあった、重たいものが、少しだけ溶けた。司は、夜の事務所で、ひとり書類を整理していた。今、自分に残ったのは、五台のトラックと五人の運転手。失ったものは、数えきれない。だが、取り戻そうとしないものも、決めていた。――子どもたちの「生活」を壊さない。それが、父としての最低限の責任だ。一緒に暮らすことも、父親面をすることも、今はしない。ただ、あの子たちからは逃げない。
last updateLast Updated : 2026-03-14
Read more

第83話 五台のトラック

朝六時。空はまだ完全には明るくなりきっておらず、東の空だけがわずかに白み始めている。冬の朝の空気は鋭く、吐く息が白く見えた。まだ空気の冷たい車庫に、五台のトラックが並んでいた。整然と並んでいるが、その間隔はどこか広い。かつては、この車庫いっぱいに車両が詰まっていたからだ。かつては、五十台以上あった。朝になると、エンジンの始動音が次々に響き、車庫全体が低い振動に包まれていた。ドライバーたちが忙しなく動き回り、荷台の確認や点呼の声が飛び交う。エンジン音が重なり、朝礼の声が響き、誰かの冗談に笑いが起きていた。そんな光景が、当たり前のように毎朝続いていた。今は、静かだ。広い車庫に残っているのは、わずか五台のトラックと、数人の人影だけ。遠くでカラスが鳴く声が聞こえるほど、朝は静まり返っていた。司は、缶コーヒーを手に、トラックの前に立っていた。冷たいアルミ缶の感触が、手のひらに伝わる。湯気のように立ち上る温かさを感じながら、ゆっくりと一口飲む。目の前にあるトラックは、古い車両だった。塗装の色も、ところどころ薄くなっている。運転席についた、小さな傷とバックミラーの角の欠け。どれも、覚えがある。この傷は、狭い路地でバックした時についたものだ。ミラーの欠けは、強風の日に荷主の倉庫の壁に当たった時だった。一つ一つの痕跡に、時間が刻まれている。司は、トラックのボディを軽く叩きながら、小さく息を吐いた。「……残ってくれて、ありがとうな」誰にともなく、呟く。それがトラックに向けた言葉なのか、それとも人に向けたものなのか、自分でもわからなかった。五人の運転手は、年齢も経歴もバラバラだった。若い者もいれば、長年ハンドルを握ってきたベテランもいる。性格も、働き方も、まったく違う。大手に行けなかった者。一度の大きな事故で、職を失った者。家庭の事情で、近場を探していた者。そして、「今さら他に行けない」と言った者。それぞれ事情を抱えながら、この小さな会社に残った人たちだった。司は、朝礼で、深く頭を下げた。ドライバーたちの前に立ち、ゆっくりと腰を折る。朝の冷たい空気の中で、その動きは静かだった。「給料も、条件も、胸を張れるもんじゃない」正直な言葉だった。誇れる待遇ではないことは、司自身が一番わかっている。「でも、逃げない。俺は、ここでや
last updateLast Updated : 2026-03-15
Read more

第84話 残った運転手の言葉

再出発の、最初の仕事を終えた日の夜。昼間は慌ただしく過ぎていったが、夜になると、車庫も事務所もすっかり静かになっていた。トラックのエンジン音も消え、外では時おり遠くを走る車の音が聞こえるだけだ。簡単な報告を兼ねて、司は事務所の小さな机を囲んで、残った五人と缶コーヒーを飲んでいた。古い事務所の机は、もともと四人用だったものを無理やり寄せて使っている。椅子もばらばらで、ひとつは背もたれが少し曲がっていた。空調の効きも悪く、壁も薄い。冬は寒く、夏は蒸し暑い。外の車の音や、隣の倉庫の作業音がそのまま聞こえてくるような建物だ。それでも、どこか穏やかな空気が流れていた。今日一日、誰も事故なく戻ってきた。それだけで、この場所の空気は少し柔らかくなる。司は缶コーヒーのプルタブを静かに開け、机の上に置いた。小さな金属音が、部屋の中に響く。「今日は、お疲れさまでした」司がそう言うと、年嵩の運転手が照れたように笑った。顔に刻まれた皺が、少し深くなる。長年ハンドルを握ってきた手が、缶コーヒーをゆっくり持ち上げた。「久しぶりに、“仕事終わった”って感じがしましたよ」その言葉に、他の運転手たちも小さく頷いた。以前は、仕事が終わってもどこか気が抜けない日が続いていた。会社の状況も悪く、皆それぞれ不安を抱えていたからだ。だが今日は違う。小さな仕事でも、確かに終えたという実感があった。しばらく、他愛のない話が続いたあと、誰かが今日の配送先の話をし、別の者が渋滞の愚痴をこぼす。誰かがコンビニの新しい弁当の話をして、軽く笑いが起きた。一人が、ぽろっと口を滑らせた。「……そういえば」その声に、全員の視線が、自然とそちらに向く。机の上の缶コーヒーから立ち上る湯気が、ゆらりと揺れた。「真澄さんが居た頃は、楽しかったですね」その名前が出た瞬間、司の肩が、わずかに強張った。ほんの一瞬だったが、自分でもわかるほど体が固くなる。運転手は、慌てて続ける。「あ、いや……変な意味じゃなくて」手を振りながら、言い訳するように言った。「夜中に戻ると、コーヒー淹れてくれて」「弁当の差し入れもあったし」その光景が、自然と浮かぶ。深夜、配送から戻ったドライバーたちに、真澄が笑顔でコーヒーを差し出していたこと。紙袋に入った弁当を机の上に置きながら、「お疲れさまです」と声を
last updateLast Updated : 2026-03-15
Read more

第85話  信頼は金で買えない

数日後。冬の空気は相変わらず冷たく、街の空はどこか白く霞んでいた。朝からいくつかの雑務を片づけたあと、司は一人で車に乗り込み、ある場所へ向かっていた。司は、ある取引先を、自分の足で訪ねていた。以前なら、営業は部下に任せていた。社長自らが出向くようなことは、ほとんどなかった。だが今は違う。小さくなった会社にとって、仕事一つひとつが大事だった。向かっているのは、かつて断られた、小さな会社。それほど大きな企業ではない。だが地域ではそれなりに仕事量があり、運送会社としてはぜひ取引をしたい相手だった。受付で名前を告げると、相手は少し驚いた顔をした。受付の女性は、司の顔を一瞬じっと見てから、名簿のようなものに目を落とす。そして、どこか戸惑ったように言った。「……まだ、やってたんですか」その言葉に、司は頷いた。特別な感情は表に出さない。ただ事実として答える。「五台だけですが……」それが、今の現実だった。やがて案内され、司は小さな応接室に通された。壁には古いカレンダーが掛けられ、窓からは倉庫の屋根が見える。応接室で出されたコーヒーは、安物だった。紙コップに入れられたインスタントの香り。以前の司なら、こういう扱いに内心で不満を覚えたかもしれない。だが、司は気にしなかった。それどころか、そのコーヒーを静かに口に運びながら、相手が来るのを待った。やがて担当者が入ってくる。以前も顔を合わせたことのある人物だった。司は、姿勢を正して言った。「正直に言います」最初から、飾るつもりはなかった。「今のうちは、大口は無理です」それが事実だった。五台のトラックでは、対応できる量には限りがある。「でも、嘘はつきません」司の声は静かだったが、はっきりしていた。相手は、しばらく黙っていた。テーブルの上に置かれた書類を指で軽く叩きながら、司の顔を見ている。「……前はね」やがて、相手が口を開く。「条件は良かった。でも、現場が荒れてた」その言葉に、司は目を伏せることなく聞いた。「電話も繋がらないし、対応も雑だった」過去の評価だった。そして、それは間違っていない。司は、うなずいた。言い訳はしない。「今は?」相手が短く聞く。司は、静かに答えた。「今は……」相手は、少し考えてから言った。「丁寧だ。遅れても、理由を説明してくれる」それ
last updateLast Updated : 2026-03-15
Read more

第86話  最初の仕事(赤字覚悟)

電話が鳴ったのは、午後三時だった。事務所の中は静かで、古い壁掛け時計の秒針の音がやけに大きく聞こえていた。窓の外では、冬の淡い光が車庫のコンクリートを白く照らしている。その静かな空間に、突然、電話のベルが響いた。司は、一瞬、顔を上げる。そして、わずかに動きを止めた。「黒瀬カーゴさんですか?」受話器の向こうから、落ち着いた男性の声が聞こえてきた。司は、一瞬、言葉に詰まった。“電話が鳴る”こと自体が、久しぶりだった。以前は一日に何十回も鳴っていた電話。クレーム、確認、依頼、催促。次々とかかってきて、電話が鳴らない時間のほうが少ないほどだった。だが今は違う。電話が鳴らない時間のほうが、当たり前になっていた。司は受話器を持ち直し、落ち着いた声で答える。「はい、黒瀬カーゴです」内容は、地方の小さな工場の配送依頼。相手の説明を聞きながら、司はメモを取っていく。配送先、荷物の内容、時間帯、距離。距離は短い。単価は、安い。――計算すると、赤字。司は、すぐにそれを理解した。頭の中で大まかな数字を弾くだけで、結果は見えてしまう。燃料費、人件費、諸経費。すべてを考えると、利益どころかマイナスになる可能性が高い。司は、即答しなかった。電話口の向こうで、相手が少し不安そうに黙っているのが伝わってくる。司は、ゆっくり口を開いた。「……正直に言います」嘘をつくつもりはなかった。「この金額だと、こちらは厳しい」率直な言葉だった。相手は、困ったように笑った。「ですよね。でも……他に断られてしまって」その声には、どこか申し訳なさが混じっていた。司は、窓の外を見る。車庫のコンクリートの上に、五台のトラックが並んでいる。塗装の色も、年季も、それぞれ違う。だが、どの車両も今日も無事に戻ってきたばかりだった。五台のトラック。五人の顔。頭の中に、ドライバーたちの姿が浮かぶ。朝礼で笑っていた顔、整備をしていた背中、コーヒーを飲みながら雑談していた様子。司は、ゆっくりと息を吐いた。「やります」短い言葉だった。電話の向こうで、ほっとした声がした。「ああ……助かります。本当に」相手の安堵が、受話器越しにも伝わってくる。その夜、運転手たちを集めた。事務所の小さな机の周りに、五人が自然と集まる。仕事を終えたばかりで、まだ作業
last updateLast Updated : 2026-03-16
Read more

第87話 雨宮グループの影(直接は関わらない)

司は、あとになってから気づいた。最初は、ただ運がいいだけだと思っていた。小さな会社でも、仕事が少しずつ回り始めることはある。営業のタイミングや、たまたま人手が足りない取引先があったり、そういう偶然が重なることもある。だが、日が経つにつれて、司の胸の奥に、微かな違和感が芽生え始めていた。おかしい、と。仕事が――「不自然に、うまくいき始めている」ことに。五台のトラック。五人の運転手。会社としての規模は、決して誇れるものではない。むしろ、小さすぎると言っていい。大手と競える条件もないし、価格でも勝負にならない。条件は、決して良くない。それなのに、一度断られた会社から、再び連絡が来る。最初は一度きりの依頼かと思った仕事が、次の週にも、また入る。小さな仕事だが、継続前提。それも、無理な条件ではない。こちらの状況を踏まえた内容になっている。支払いも、きちんとしている。以前のように、曖昧な約束や遅延もない。期日通りに振り込まれる。「……珍しいな」司がそう呟くと、事務の代わりをしている運転手が首を傾げた。伝票の整理をしていた手を止めて、こちらを見る。「何がです?」「いや……最近、話が通りやすいんだよ」司は、机の上の書類を指先で軽く叩きながら言った。値切られないわけじゃないし、無理難題が消えたわけでもない。相変わらず、値段交渉はあるし、急な依頼も来る。だが、最初からちゃんと、こちらの“要望を聞いてくれる”。配送時間、車両の都合、ドライバーの負担。そういった話を、きちんと会話として扱ってくれる。それが、以前とは違っていた。以前は、ただの下請けとして扱われることも多かった。条件を押しつけられ、無理をするのが当たり前のような空気だった。今は違う。それが、かえって不思議だった。数日後。ある取引先の担当者が、ぽつりと言った。雑談の流れの中で、ふと漏れた言葉だった。「黒瀬さんのところ、評判、悪くないですよ」司は、思わず聞き返した。「……どこで?」相手は、少し言いにくそうに視線を逸らす。書類を整えながら、言葉を選ぶように口を開く。「大手とは聞いてますが、名前は、出ませんでした……」少し間を置いて、続ける。「“今は、真面目にやってる”って」その言葉を聞いた瞬間、司の胸に、微かな違和感が走った。誰が、そんなことを?
last updateLast Updated : 2026-03-16
Read more

第88話 戻り始めたもの

雨宮グループのCEOとしての日々は、容赦がなかった。朝、オフィスに入った瞬間から、時間は休みなく流れ始める。秘書が手渡すその日のスケジュールには、隙間らしい隙間がほとんどない。会議。決裁。海外拠点とのオンラインミーティング。想定外のトラブル処理。一つ終われば、次が来る。メールの返信をしている最中にも、新しい報告が届く。会議室を出れば、すぐ次の打ち合わせが待っている。時差のある海外拠点との連絡は、夜遅くまで続くことも珍しくなかった。立ち止まる暇など、最初から与えられていない。それでも真澄は、淡々と仕事をこなしていた。書類に目を通す視線は冷静で、決裁の判断も早い。迷いを見せることはほとんどない。感情を挟まず、迷いも隙も見せない。そして、判断には、私情を持ち込まない。周囲は、そう評価した。「さすが雨宮の血筋だ」「冷静で、強い」――本当は、ただ、感情を切り離すことを覚えただけなのに。そうしなければ、前に進めないことを知ったから。心の奥に触れないように、静かに扉を閉めただけだった。仕事の合間、時折、相沢恒一と食事をした。海外出張の帰りに寄った店。打ち合わせを兼ねた、静かなレストラン。都会の喧騒から少し離れた場所にある、小さな店だった。照明は柔らかく、会話も自然と落ち着いた声になる。個室でも、派手な店でもない。それが、かえって居心地がよかった。恒一は、あまり踏み込まなかった。過去のことは聞かない、そして、未来も迫らない。ただ、「今日はどうだった?」それだけを聞いた。仕事の報告でも、励ましでもない。ただ、その一言だけ。真澄は、最初こそ言葉少なだったが、いつしか、少しずつ笑うようになった。仕事の失敗談や、社員の何気ない一言など。海外で見た、くだらない土産話。「空港で買ったチョコが、全部溶けてたんです」そんな、どうでもいい話でさえ、二人は笑った。気づけば、心のどこかが、ゆっくりと温まっていた。――笑っている。その事実に、真澄自身が、少し驚いていた。自分が、こんなふうに自然に笑えるとは、思っていなかったから。そんなある日、雨宮龍堂に呼ばれた。雨宮家の本邸。広い廊下を歩き、応接間の扉を開けると、そこには祖父の姿があった。応接間には、祖母の静江もいる。珍しく、三人だけだった。重厚な家具と
last updateLast Updated : 2026-03-16
Read more

第89話  泣いてもいい場所

「お祖父ちゃん、ごめんなさい……私……」言葉にならない声が、真澄の喉から零れ落ちた瞬間だった。立っていられなくなった真澄の身体が、わずかに揺れる。その異変に、静江が慌てて駆け寄り、真澄を強く抱きしめた。「真澄、いいの。あなたの気持ちは、お祖母ちゃんはわかってる」背中に回された静江の手は、昔と変わらず温かい。そのぬくもりに触れた途端、張り詰めていた何かが切れた。真澄は、小さな子供のように、声をあげて泣いた。嗚咽を隠そうともしない。涙を堪えることもしない。そして、途切れ途切れに、必死に言葉を紡ぐ。「お祖父ちゃん、恒ちゃんのことは好きだけど、形だけの結婚はしたくないの。恒ちゃんがいい人だから、そんなヒドイことをしたくない……」その言葉に、静江は何も返さず、ただ真澄を抱き締めたまま、ゆっくりとソファに座り込んだ。真澄も、力が抜けたように、静江の隣へ身を預ける。その光景を、龍堂は少し離れた場所から、目を細めて見ていた。雨宮グループの総帥としての鋭さは、そこにはなかった。やがて、龍堂は静かに歩み寄り、ソファの、真澄の隣に腰を下ろした。震える真澄の肩に、そっと手を伸ばす。「お前はまだ、あの男を忘れることができないんだな………」龍堂の声は、責めるものではなかった。ただ、確信を伴った、理解の声だった。「お前の両親が亡くなった時のことを思い出したよ。お前は強いフリをして葬式では泣かなかったが……家に着いた瞬間に、今みたいに泣いていたな……」龍堂の脳裏に、あの日の光景が鮮明によみがえる。息子と、その妻。雨宮グループの跡取りだった二人が、たった一瞬の交通事故で命を落とした日。龍堂も、静江も、声を上げて泣いた。未来が、突然断ち切られた喪失に、立っていられなかった。だが――一人娘の真澄は違った。葬儀の間、真澄は口を一文字に結んだまま、怒ったような表情で、一言もしゃべらず、涙も見せなかった。まだ幼い少女だったというのに。誰にも、心配をかけまいとするように。しかし、火葬場から自宅へ戻り、玄関のドアをくぐった瞬間――静江の腕にすがり、大声で泣き出した。嗚咽が止まらず、なだめようとしても、まったく泣き止む気配がなかった。それほどまでに、真澄は「外」で強くあろうとする子だった。――あんな小さな頃に、両親を亡くしたというのに。
last updateLast Updated : 2026-03-17
Read more

第90話  静かな変化

倉庫の裏手に、冷たい風が吹き抜けていた。夕方の空は鈍く曇り、今にも雨が落ちてきそうな色をしている。「……」黒瀬司は、トラックの横で、伝票を手に立ち尽くしていた。かつての司なら、ここで怒鳴っていたはずだ。積み込みの順番が違う。時間が押している。誰かの判断ミスが、全体を狂わせている。以前の司なら、理由を聞く前に声を荒げていた。苛立ちを、相手にぶつけることでしか、処理できなかった。だが――今日は違った。「……確認しよう」司は、低い声でそう言った。怒気は、そこにはなかった。少し離れた場所で、その様子を見ていた莉子が、わずかに目を見開く。隣に立つ湊も、何も言わないまま、司の背中を見つめていた。「順番、どこで入れ替わった?」司は問い詰めるのではなく、事実を拾い集めるように尋ねた。運転手は一瞬、身構えたあと、恐る恐る説明を始める。話を遮らず、声を荒げない。腕を組んで睨みつけることもしない。司はただ、黙って聞いていた。説明が終わると、司は一度、息を吐いた。「……わかった。次はこうしよう」それだけだった。その場の空気が、ふっと緩む。誰もが、怒鳴られる覚悟をしていたからこそ、その静けさが際立った。作業が再開され、運転手たちが散っていく中、莉子は、司の背中から目を離せずにいた。「……変わったね」小さく呟いた言葉は、湊の耳にだけ届いた。「うん」湊は短く答える。説明は要らなかった。以前の司は、追い詰められると逃げた。怒鳴るか、黙り込むか、そのどちらかだった。でも今は違う。逃げない。感情をぶつけない。「完璧じゃないけどさ」莉子は、少しだけ笑った。「前より、ずっといい」湊は、その言葉に、ゆっくりと頷く。そのとき、司が二人に気づき、こちらを見た。一瞬、気まずそうな顔をしたあと、照れたように視線を逸らす。「……何か、変だったか?」司の問いに、莉子は首を振る。「ううん。ただ――」言いかけて、言葉を飲み込む。「なんでもない」司は少し不思議そうな顔をしたが、それ以上は聞かなかった。その“踏み込まなさ”も、以前の司とは違っていた。小さな変化。誰かが拍手するような劇的なものではない。けれど――怒鳴らなかったことと、逃げなかったこと。それだけで、莉子と湊にとっては、十分だった。三人の間に、言葉にし
last updateLast Updated : 2026-03-17
Read more
PREV
1
...
789101112
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status