All Chapters of 捨てた妻は財閥の頂点にー今さら跪いても、もう遅い: Chapter 71 - Chapter 80

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第71話  泣くしかなかった場所

真澄は、屋敷の奥の部屋から、ほとんど出なくなっていた。白を基調とした広い部屋。手入れの行き届いた庭が大きな窓の向こうに広がっている。けれど、その景色を眺める気力さえ、もう残っていなかった。朝になっても、カーテンを開けない。昼になっても、食事には手をつけない。夜になれば、枕を濡らしながら、声を殺して泣いた。泣く理由は、ひとつではなかった。司の顔。交わした言葉。言えなかったこと。言わなければよかった言葉。そして――生まれてくるはずだった、小さな命。(……どうして、あのとき)何度も、同じ問いが頭の中を巡る。もっと、司の立場を理解すべきだったのか。彼は、父親だった。責任を背負っていた。簡単に割り切れる状況じゃなかった。(わたしが、急ぎすぎた?)もしも、子どもができたと、きちんと告げていたら。もしも、怖くても、逃げずに話し合っていたら。もしも――あの命を、産んでいたら。それよりも、司さんの前の家族に対して、もっと配慮をすればよかったのか…答えは、どれも、もう存在しない。真澄は、布団の中で身体を丸めた。お腹に手を当てる癖だけが、まだ残っている。そこに、もう何もないと分かっていても。司が、雨宮龍堂に会いに来たことを、真澄は知らなかった。自分がこの屋敷に引き取られ、外界と切り離されている理由も、深く考えなかった。考える力が、もうなかった。そんな日々の中でも、時折、相沢恒一が訪ねてきた。海外から戻るたび、小さな箱や、異国の菓子、あるいは、何でもないキーホルダーを持って。「ほら、ついで」そう言って、深く踏み込まない距離を保ちながら、真澄の部屋のソファに腰を下ろす。彼は、何も聞かなかった。「大丈夫か」とも、言わなかった。ただ、天気の話。海外の空港での出来事。仕事の失敗談。真澄は、それを聞きながら、ぽつりぽつりと、自分の言葉を落としていった。ある日。窓の外が夕焼けに染まる中、真澄は、ふと呟いた。「……一生に一度しかない恋だと思ってた。 彼を愛してたけど、彼の一番にはなれなかったのね…わたし」恒一は、何も言わなかった。ただ、視線を逸らさずに、そこにいた。「彼は、優しかった」「でも……優しさの行き先が、いつもわたしじゃなかった」声が、震える。「わたし、ずっと待ってたの。いつか、わたしだ
last updateLast Updated : 2026-03-11
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第72話  公の光、私的な闇

しばらく経ったある日。その日、都内の大型会見場は、朝から異様な熱気に包まれていた。「雨宮グループ、新CEO就任」それだけで、十分すぎる見出しだった。老舗財閥、非上場、実態がほとんど表に出ない巨大企業。そのトップに立つ人物が、三十代の女性だという噂は、すでに市場とマスコミをざわつかせていた。フラッシュが焚かれる。壇上に現れたのは、黒のパンツスーツに身を包んだ雨宮真澄だった。装飾は一切ない。髪はすっきりとまとめられ、表情には感情の揺れがない。だが、その立ち姿には、揺るぎのない「覚悟」だけがあった。「本日付で、雨宮グループCEOに就任いたしました、雨宮真澄です」声は、よく通っていた。震えも、迷いもない。その横に、自然な距離で立つ男がいる。相沢恒一。相沢グループ代表取締役社長。雨宮グループに次ぐ規模を持つ企業のトップであり、長年、雨宮家と協力関係を築いてきた人物。「今後も、相沢グループは、雨宮グループの最重要パートナーとして——」恒一が一歩前に出て、そう述べると、会場がざわめいた。「距離、近くない?」「付き添いってレベルじゃないぞ」「これ、婚約間近じゃ……?」記者たちのペンが走る。フラッシュが、さらに激しくなる。真澄は、そのざわめきに一切反応しなかった。ただ、まっすぐ前を見据え、淡々と、未来のビジョンを語る。経営方針。事業再編。海外戦略。——それは、かつて司の隣で、黙って帳簿を見ていた女性の姿ではなかった。同じ頃。司は、事務所の小さなテレビの前で、立ち尽くしていた。「……真澄……?」画面に映る彼女は、別人のようだった。いや、違う。本当の姿だったのだと、遅れて理解する。自分のために、節約し、自分のために、安い服を選び、自分のために、静かに笑っていた女性。——あれは、真澄が「選んで」いた姿だった。「CEO……?」喉が、からからに渇く。隣に立つ男。相沢恒一。名前は知っていた。だが、ここまで近い存在だとは、思っていなかった。テレビのテロップが、無情に流れる。【雨宮グループ新体制 相沢グループとの連携強化へ】【“次期婚約者か”との声も】司の膝が、かすかに揺れた。「……嘘だろ」呆然とする司の背後で、スマホが鳴る。美里だった。『ねえ、見た?ニュース』声は、興奮で上ずっている。
last updateLast Updated : 2026-03-11
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第73話

真澄が雨宮グループのCEOに就任したというニュースは、黒瀬カーゴの運転手たちにも、瞬く間に広がった。夜明け前の休憩所。エンジンを止めたトラックの間で、スマホを覗き込んでいた若い運転手が、声を上げた。「……え?これ、社長の奥さんですよね?」画面に映っているのは、記者会見の壇上に立つ真澄だった。端正なスーツ姿。一切の無駄がない立ち居振る舞い。“雨宮グループCEO”というテロップ。「うそだろ……」年配の運転手が、思わず息を呑んだ。「あの人が……?」誰もが、同じ顔を思い浮かべていた。夜中。深夜便から戻ると、事務所の奥で灯りが点いていて、真澄がキッチンに立っていた姿。「お疲れさまです。温かいの、ありますよ」そう言って、鍋いっぱいのカレーや、煮物や、炊き込みご飯を差し出してくれた。誰かが風邪を引けば、「無理しないでくださいね」と、蜂蜜入りの紅茶を淹れてくれた。書類仕事で遅くなった日には、司より先に、運転手たちの名前を呼んで、「今日は大変でしたね」と笑った。「……あの人が、財閥のトップ?」「俺ら、どんな人に飯食わせてもらってたんだよ」休憩所に、重たい沈黙が落ちた。最年長の運転手が、ぽつりと言った。「だからか……」「?」「社長が荒れてからも、あの人だけは、俺らの前で顔色ひとつ変えなかった」皆、思い当たる節があった。司が苛立ちを隠さなくなってからも、真澄は決して、会社の空気を悪くしなかった。自分が責められても、怒鳴られても、ただ一度も、現場に不満を漏らさなかった。「……俺、社長に怒鳴られてるあの人、見てられなくてさ」若い運転手が、唇を噛んだ。「でも、あの人、“司さんは、疲れてるだけですから”って……」その言葉が、全員の胸に刺さった。「守られてたのは、社長のほうだったんじゃねえか」誰かが、そう呟いた。誰も否定しなかった。ニュースは、続けて流れている。【雨宮グループ、新体制へ】【相沢グループとの連携強化】画面の中の真澄は、もう“社長の奥さん”ではなかった。黒瀬カーゴの現場で、黙って皆を支えていた女性でもない。——選ばれるべき場所に、最初から立っていた人間だった。その夜。数人の運転手が、退職届を書いた。誰に強制されたわけでもない。話し合ったわけでもない。ただ、同じ思いだった。「今の社長
last updateLast Updated : 2026-03-11
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第74話  脅し

美里は、ニュース映像を何度も巻き戻して見ていた。雨宮グループCEO就任会見。黒のスーツに身を包んだ真澄の横には、相沢恒一が立っている。完璧に整えられた照明。質問に一切ぶれない受け答え。一切の無駄を削ぎ落とした立ち姿。「……やっぱり」美里は、唇を歪めた。「ただの地味な妻なわけ、ないと思ってたのよ」その声には、悔しさと、後悔と、そして――取り逃がした“獲物”への執着が滲んでいた。ソファに寝転がっていた荒木が、片目だけ開ける。「何が?」美里は、リモコンを放り投げるように置き、画面を指差した。「雨宮グループよ。あの女」荒木は、面倒くさそうに身体を起こし、画面を見る。そして、すぐに鼻で笑った。「なるほどな。司、ずいぶんスケールのデカい女を、抱いてたわけだ」その言葉に、美里の胸の奥が、ぎゅっと掴まれる。――抱いてた。その言葉が、嫌に生々しく響いた。(……やっぱり、そうよね)美里の頭に、過去の光景が蘇る。司と離婚する前、何度も責め立てた夜。「ねえ、あんた。本当に何もないの? あの女と」司は、いつも決まって、疲れた顔で否定した。「真澄は部下だ。それ以上でも以下でもない」その言葉を聞いた瞬間、美里の脳裏に浮かんだのは――司が家に帰らなかった夜のこと。妙に静かで、妙に満たされたような司の背中。(……あの夜、だったんじゃないの?)真澄と、初めての夜を過ごした日。司の中で、何かが決定的に変わった夜。美里は、それを「女の勘」で嗅ぎ取っていた。「……ねえ」現実に引き戻すように、美里は荒木を見る。「……あの女、私と司が結婚してた頃から、司と関係があったと思わない? 司の会社でも働いてたし」荒木は、少しだけ考えるふりをし、すぐに頷いた。「十分ある。離婚してすぐ再婚。しかも財閥の令嬢。普通に考えたら、裏がある」「でしょ?」美里の声が、少し弾んだ。「不倫よ。婚姻中の不倫。雨宮グループなら、一番嫌うやつじゃない?」荒木の目が、はっきりと変わる。金の匂いを嗅ぎつけた獣の目。「……それ、使えるな」荒木は、顎に手を当て、計算を始める。「証拠はなくてもいい。“疑惑”ってだけで、企業は動く」「でしょ? ああいう会社ほど、イメージに弱いのよ」美里は、すでに勝った気でいた。「マスコミに流すって、言えばいいのよ」「
last updateLast Updated : 2026-03-12
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第75話  崩壊

黒瀬カーゴは、すでに“会社”の形を失いつつあった。運転手は、五人だけ。トラックも、五台だけ。かつて五十数台並んでいた車庫は、もうない。新しく建てたばかりだった事務所も、売却された。机も、棚も、壁に掲げていた社名プレートも、すべて撤去された。残ったのは、古い机と、最低限の書類と、司ひとり。空っぽの部屋に座ると、音がやけに大きく響いた。紙をめくる音、椅子が軋む音、自分の呼吸。電話が鳴らなくなったのは、いつからだろう。思い返せば、兆しはあった。運転手たちの視線が、少しずつ変わっていったのだ。――社長、最近、顔色悪いですね。――家のこと、大丈夫ですか。最初は、心配だった。だが次第に、それは「不信」に変わっていった。司は、現場で怒鳴るようになった。ミスに過敏になり、余裕を失い、説明もなく指示を変えた。給与の遅れはなかった。だが、将来が見えなかった。「社長、俺たち、この先どうなるんですか」そう聞かれたとき、司は、答えられなかった。――自分が、家庭の問題で足元を掬われていることを、――会社にまで持ち込んでいると、運転手たちは、誰よりも早く気づいていた。一人、また一人と辞めていった。最後に辞表を出した運転手の言葉が、司の胸に残っている。「社長は、いい人です。でも……今の社長の背中は、怖いです」その言葉通り、取引先も離れていった。かつては、「黒瀬さん、お願いできませんか」そう頭を下げてきた会社が、今は電話にも出ない。銀行からの返事は、冷たかった。「これ以上の融資は難しいですね」司は、何も言えなかった。――自分で、壊した。真澄を失い、会社を失い、信用を失った。すべては、守っている“つもり”だったもののために、目の前のものを見失った結果だった。そこへ、美里からの電話。「司、ちょっと話があるの」声は、妙に明るかった。嫌な予感が、背中を走る。「雨宮グループにね、“相談”しようと思ってるの」司の背筋に、冷たい汗が流れた。「……何をする気だ」「何って。事実を伝えるだけよ」「事実?」「私と結婚してた頃から、あの女と関係があったんじゃないかって話」司の頭が、真っ白になる。「……ふざけるな」「ふざけてないわ。財閥なら、スキャンダルは困るでしょ?」その言い方で、司は悟った。――脅しだ。事
last updateLast Updated : 2026-03-12
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第76話  光の中の影

会見が終わった瞬間、フラッシュの嵐とざわめきの中心から、二人の姿がゆっくりと切り取られていった。相沢恒一は、自然な所作で真澄の腰に手を添えた。抱き寄せるというほど強くはない。だが、はっきりと「守る位置」だった。そのまま、カメラの視線から外れるように、二人は会見場を後にする。スクリーンの中で、新CEOと協力会社社長は、静かに画面の端へと消えていった。控室へ向かう廊下。恒一は歩幅を合わせながら、低い声で言った。「……テレビ中継、元の旦那さんに見られるかもしれないよ」その言葉に、真澄は足を止めなかった。ただ、ほんの一瞬だけ、口元を緩める。笑顔だった。だが、どこか影を落とした、不完全な笑顔。「……ええ」そう答えて、真澄は俯いた。その視線の先に、何が浮かんでいたのか、恒一は聞かなかった。会見場と同じホテルの、最上階。用意されていたスイートルームは、夜景を一望できる造りだった。扉が閉まると、外の喧騒は完全に遮断される。代わりに広がったのは、静寂と、ガラス越しの光。「お疲れさま」恒一はそう言って、シャンパンを開けた。音は控えめだったが、その一音が、今日という日の区切りを告げているようだった。グラスに注がれた泡が、静かに立ち上る。恒一は真澄にグラスを差し出す。「CEO就任、おめでとう」真澄は受け取り、軽く触れるようにグラスを合わせた。「……ありがとう」乾杯の音は、ほとんど響かなかった。真澄は、グラスを口に運ぶことなく、窓際へ歩いた。床から天井まで続くガラスの向こうに、街のネオンが広がっている。無数の光。人の数だけ、人生がある光。そのすべてが、どこか遠かった。恒一は少し離れた場所で、彼女の背中を見ていた。CEOとしての強さをまとった姿。だが、その背中は、どこか細く見えた。「真澄」呼びかけると、彼女は振り返らなかった。「……ところで、どうしても聞きたかったことがあるんだ」恒一は、言葉を選ぶように一拍置いた。「なんで、あんな会社で働いていたんだ?」あんな会社。黒瀬カーゴ。問いは率直だった。責める調子ではない。ただ、純粋な疑問だった。真澄の指が、シャンパングラスの縁をなぞる。泡が、ひとつ、弾けた。「……彼は……私のヒーローだったから………」しばらくして、そう答えた。恒一は、黙って続き
last updateLast Updated : 2026-03-12
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第77話 女の勘という名の暴走

雨宮グループ本社ビルは、美里がこれまで足を踏み入れてきた、どんな建物とも違っていた。広すぎるロビー。白とガラスで統一された空間。足音さえ、場違いに響く。受付で用件を告げると、美里と荒木は、法務部の応接フロアへ案内された。迎えたのは、三人の弁護士だった。全員、無駄のないスーツ姿。感情の読めない、淡々とした表情。「ご用件を伺います」美里は、胸を張った。「私の元夫、黒瀬司と、あなた方のCEO、雨宮真澄さん。 私たちが婚姻中に、不倫関係にあったはずです」室内の空気が、一瞬だけ止まる。「証拠は?」弁護士の一人が、即座に聞いた。「……ありません」「具体的な日時、場所、写真、録音、記録は?」「それは……」美里は、語気を強めた。「女の勘です。妻だった私には、わかるんです。 あの二人、絶対におかしかった」沈黙。弁護士たちは、互いに一瞬だけ視線を交わした。呆れ。それ以上でも、それ以下でもない反応だった。「承りました」一人が、静かに言った。「当社としては、事実確認のための調査を行います。 本日は、これ以上お話しすることはありません」「ちょっと、待って!」美里が声を荒げる。「私は被害者なんです! 慰謝料の話も――」「調査の結果が出次第、書面でご連絡します。 本日は、お引き取りください」それで終わりだった。謝罪もない。説明もない。感情を逆なでする言葉すら、投げられない。ただ、事務的に、外へ追い出された。帰宅した美里は、怒りを隠そうともしなかった。「何よ、あの態度……! 人を、バカにして!」荒木が、酒をあおりながら言う。「調子に乗ってるだけだろ。でかい会社ほど、スキャンダルには弱い」その言葉が、火をつけた。「そうよ。“雨宮のCEOに夫を寝取られた、かわいそうな妻” これ、ウケると思わない?」美里は、匿名アカウントを作り、次々と書き込んだ。・婚姻中の不倫・財閥の圧力・泣き寝入りを強いられた元妻感情的で、具体性のない言葉を、事実のように並べ立てた。だが――マスコミは、動かなかった。まとめサイトも、拾わない。何日待っても、拡散すらされない。不審に思い始めた頃、一通の封書が届いた。差出人は、雨宮グループ法務部。中身を読んだ瞬間、美里の顔から血の気が引いた。【通知内容(抜粋)】・虚
last updateLast Updated : 2026-03-13
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第78話 格の違い

内容証明郵便は、白く、分厚く、無感情だった。美里の名前。荒木の名前。そして、差出人――雨宮グループ法務部。封を切る前から、胸の奥が冷えていく。中に入っていたのは、感情の一切を削ぎ落とした文章だった。・ネット上における虚偽情報の拡散行為について・当該行為により、雨宮グループが被った被害金額の算定 (ブランド価値低下、広報対応費、法務対応費を含む)・雨宮真澄が、黒瀬司との婚姻関係にあった期間に支払った 養育費・教育費・生活費補助の総額・そのうち、用途が養育目的と認められない金額の返還請求数字は、具体的だった。桁も、容赦なかった。「今後、当社および関係者に対する誹謗中傷、虚偽情報の流布、接触行為が確認された場合、上記金額を損害賠償として請求いたします」美里は、紙を落とした。「……こんなの、脅しよね?」声が、かすれている。荒木は、しばらく黙っていたが、やがて苛立ったように立ち上がった。「大丈夫だ。向こうがデカいからって、何でもできるわけじゃない」だが、その言葉には、もう自信がなかった。荒木は、携帯を取り出し、昔の知り合いに次々と電話をかけ始めた。中小企業の社長。同業者。かつて、酒の席で威勢のいいことを言っていた連中。「なあ、雨宮グループって知ってるだろ? あれ、ちょっと叩けば――」だが、返ってくるのは、どれも同じだった。『無理だ』『関わりたくない』『冗談じゃない』中には、はっきり言う者もいた。『相手が悪すぎる』『あそこは、“潰す”とかいう次元じゃない』『火の粉が飛んだら、会社が終わる』電話は、次々と切られていった。最後の一件は、話を聞く前に断られた。荒木は、ソファに崩れ落ちる。「……なんでだよ」美里は、その背中を見つめながら、初めて理解し始めていた。自分たちは、専業主婦と、無職の中年男。一方で、雨宮グループは、国とも、金融機関とも、世界とも繋がっている巨大な存在だ。怒鳴っても、泣いても、感情をぶつけても、相手は一切、揺れない。脅し返されることもない。ただ、数字と事実で、逃げ道を一つずつ塞いでくる。「……格が、違う…?」美里は、小さく呟いた。これ以上、近づけば、本当に、すべてを失う。それが、雨宮グループから突きつけられた、静かで、絶対的な現実だった。美里と荒木は、ようやく知
last updateLast Updated : 2026-03-13
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第79話 向き合う場所

夕方の空は、鈍い色をしていた。雲は低く垂れこめ、今にも雨か雪か分からないものが落ちてきそうな重たい気配を帯びている。冬の終わりの空は、いつもこんな色だった。黒瀬カーゴの小さな事務所に、司は一人で座っている。古びた蛍光灯が、わずかに唸るような音を立てて天井から白い光を落としていた。机も椅子も、何年も使い込まれて角が擦り減っている。窓の外には、静かな道路と、薄暗くなり始めた空。人通りはほとんどない。机の上には、未処理の書類と、冷めたコーヒー。コーヒーの表面には薄い膜が張り、もう香りも立っていない。書類の束は、午前中からほとんど減っていなかった。電話は、今日も一度も鳴らなかった。静けさが、事務所全体に沈んでいる。遠くを走る車の音が、時折壁を震わせるだけだった。――慣れてきたな。そう思ってしまう自分に、司は苦笑する。かつては、電話が鳴らないことに、胸がざわついた。何かトラブルが起きているのではないか。仕事が回ってこなくなったのではないか。誰かが自分を避けているのではないか。そんな考えが、次々と頭をよぎって落ち着かなかった。今は、ただ「そういう時期だ」と、受け止めている。いい意味でも、悪い意味でも、諦めに近い落ち着きだった。ポケットの中で、携帯が震えた。一瞬、身構える。この静かな時間を破る通知は、たいてい良い知らせではない。支払いの催促か、仕事のキャンセルか、あるいは美里からの連絡か。だが、表示された名前を見て、肩の力が抜けた。【莉子】司の、娘。画面の文字を見つめたまま、司の指が、止まる。出ていいのか、迷う。電話に出れば、きっと何かを求められる。金のことかもしれない。愚痴かもしれない。あるいは、ただの暇つぶしかもしれない。それでも、電話に出ない理由を探している自分に気づいた瞬間、司は小さく息を吐いた。だが、逃げる理由は、もうなかった。「……もしもし」受話口の向こうで、ほんの一瞬の沈黙があった。『……パパ?』少し、遠慮がちな声。それだけで、胸が締めつけられる。小さかった頃の莉子の声が、一瞬、頭の奥に重なった気がした。「どうした?」できるだけ、いつも通りの声で言う。『別に……用はないんだけど』莉子の声は、どこか曖昧で、少しだけ躊躇いが混じっていた。『ママが、出かけてて』沈黙が落ちる。受話器の向こうで、何
last updateLast Updated : 2026-03-13
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第80話 莉子の本音

莉子と約束したのは、駅前の小さなファミリーレストランだった。ガラス張りの入り口の向こうには、昼下がりの光が柔らかく差し込んでいる。学生や買い物帰りの客がぽつぽつと席に座り、店内には落ち着いたざわめきが流れていた。司が指定したわけではない。場所を決めたのは、莉子のほうだった。電話越しに、少し迷ったような声で、莉子が言ったのだ。『ここなら……ママにも言いやすいから』その一言で、司は悟った。――これは、莉子なりの勇気なのだと。家でもなく、どちらかの生活圏の奥でもない。誰にも偏らない、ただの「外の場所」。そういう場所でなければ、この時間は成立しなかったのだろう。店に入ると、莉子はすでに席についていた。窓際の二人席。外から見える位置ではないが、店内の様子はよく見える席だ。制服姿のまま、メニューも開かず、両手を膝に置いている。背筋を伸ばして座るその姿は、まだ高校生のはずなのに、どこか大人びて見えた。司はゆっくりと歩み寄る。その数歩が、妙に長く感じられた。「……久しぶりだな」声をかけると、莉子は顔を上げた。そして、小さく頷く。「うん」それだけだった。それ以上の言葉は続かない。司は向かいの席に腰を下ろし、メニューを開くふりをした。店員が来て、ドリンクと簡単な料理を注文する。ごく普通のやり取りなのに、どこか現実感が薄かった。注文を終えると、しばらく沈黙が流れる。周囲の客の会話や、食器の触れ合う音が、やけに大きく聞こえた。司は、焦らなかった。無理に話題を作れば、きっとすぐに崩れてしまう。今は、待つしかないとわかっていた。やがて、莉子が口を開いた。「パパさ……」司は静かに顔を上げる。「うん」短く答える。それだけでいいと思った。「私ね。ずっと思ってた」テーブルの上に置かれたスプーンを、莉子は手に取った。そのスプーンを握る手が、少し震えている。「パパは、逃げたんだって」その言葉は、静かだった。だが、鋭かった。司の胸に、鋭い痛みが走る。息が一瞬、詰まりそうになる。だが、否定しなかった。「……そう思わせたな」それしか言えなかった。莉子は、ゆっくり顔を上げた。その目は、真っ直ぐだった。逃げも、迷いもない。「ママが悪いとか、あの人が悪いとか、そういうのじゃなくて」一度言葉を区切り、莉子は続ける。
last updateLast Updated : 2026-03-14
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