Tous les chapitres de : Chapitre 11 - Chapitre 20

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第11話

 美里の待望の家が、ついに完成した。  真新しい外壁と、整えられた庭を前に、美里は満足そうな表情を浮かべていた。 美里の実家は、頭金を出してくれるわけでもないのに、両親が頻繁に現れては、  「ここをこうしろ」  「他の家より見劣りしないようにしろ」  と、やたらと口を出してきた。 司が何度、「建売りだから」と説明しても聞く耳を持たず、細かい部分にまで難癖をつける。  予算のことなどお構いなしで、大工に文句を言い続けた結果、契約した時とはまるで違う家になってしまっていた。 ローンの支払いと、家具の選択、そして家族写真を飾る位置だけは、司が決めた。  これから二十年以上、自分がローンを払い続けるのだ。それくらいはいいだろうと、そこだけは譲らなかった。 だが、完成した新築の家の中に、司の居場所はどこにもなかった。 すでにこの家庭は壊れているのだ。  そう思うようになったのは、いつからだろうか。 会社にいる時が、一番心の充足を感じられる。  そんな思いを抱えたまま、司は今日も玄関のドアを開けた。 「ただいま」 「……。」 やはり、何の返事も返ってこない。  新しい家になっても、何も変わっていなかった。 それどころか、前のアパートに住んでいた頃のほうが、まだ家族の距離は近かった気がする。  今は、家が広くなった分だけ、心の距離も広がってしまった。 子どもたちは、それぞれに与えられた自分の部屋に引きこもり、顔を合わせるのは食事の時くらいだ。  その食事の場でも、会話はほとんどない。 司の耳に届くのは、  「パパ、おこづかいちょうだい」  それだけだった。 そして美里は、美里で、次の要求を口にする。 「家が新築なんだから、車も新車にしなきゃかっこ悪い」 免許も持っていないくせに、なぜ新車でなければならないのか。  司には理解できなかった。 さらに、娘の莉子の高校受験も迫っている。  美里は、私立のお嬢様学校へ行かせるつもりでいた。 司が「家のローンもあるし、学費は払えない」と言っても、  「家が買えるんだから、学費だって払えるでしょ」  と、まともに取り合おうとしない。 そして、最後に美里が言い出したのは、  「あなた、おこづかい、いらないわよね。生活費が足りないから、あなたのお小遣いを無しにするわ」  
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第12話

 ある日、真澄は会社の仮眠室のリネンを交換していた。  この会社では、泊まった者は自分でシーツを外し、廊下のカゴに入れる決まりになっている。だが連泊する場合、そのままにして出かけてしまう者も少なくなかった。  その際は、ドアノブに「外出中」と書かれた札を掛ける――それが暗黙のルールだ。 だが、ここ最近、一室だけがずっと「外出中」の札を下げたままだった。  真澄は少し首をかしげ、そっとその部屋のドアを開けてみた。 中には、何枚もの洋服がハンガーに掛けられ、スマホの充電器や歯磨きセットが整然と置かれている。  一晩だけの仮眠ではない。  ――ここで、誰かが生活している。 真澄は余計な詮索はせず、静かに部屋へ入った。  窓を開け、淀んだ空気を外へ逃がし、シーツを新しいものと交換する。  すべて終えると、何事もなかったかのように窓を閉め、ドアを静かに閉じた。 その日、司がその部屋に戻ったとき、いつもの重たい空気が消えていることに気づいた。  シーツも、枕も、新しい感触に変わっている。 「真澄さん……」 思わず漏れた声は、誰にも聞かれなかった。  新しいシーツに身を沈めた瞬間、胸の奥がふっと軽くなる。  言葉にされない、だが確かな優しさ。  司はその小さな気遣いに、心を掴まれていく自分を自覚しながら、必死にブレーキを踏んでいた。 ――そんなある日。 真澄は朝から体調の異変を感じていた。  たぶん熱がある。自分では分かっていた。  それでも、「自分が休めば、社長に負担を掛けてしまう」と思い、出社した。 昼頃になると、立ち上がるたびに視界が揺れた。  額に触れると、はっきり分かるほど熱い。  寒気までしてきて、背中に嫌な汗がにじむ。 「風邪だったら、運転手さんたちにうつしちゃいけない……」 そう思い、真澄は風邪薬と水を持って休憩室へ向かおうとした。  そのとき、出先から戻ってきた司と鉢合わせた。 「真澄さん、体調悪いのか?」 真澄は薬を見せ、「すみません。薬を飲んで、ちょっと仮眠してもいいですか?」と頭を下げた。 「それは構わないけど、病院に連れて行こうか?」 「いえ、少し眠れば治ると思います」 そう言って、真澄は仮眠室へ入っていった。 薬を飲み、二時間ほど眠ると、少しだけ体は楽になっていた。  起き上がり、部
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第13話

翌日。  昨夜の出来事が頭から離れず、真澄は自分でも驚くほど落ち着かなかった。  司に書類を渡そうとして手が触れそうになると、反射的に引っ込めてしまい、結果として書類を床に落としてしまう。拾おうとして顔を上げた瞬間、司と目が合い、思わず視線を逸らす。  そんな些細なことの繰り返しに、胸の奥がじんと熱くなり、恥ずかしさでいっぱいだった。 一方の司も、昨夜から自分の中で何かが決定的に変わってしまったことを、はっきりと自覚していた。  ――自分は真澄に惹かれている。  しかし、自分は既婚者だ。  たとえ美里とうまくいっていなくても、それを理由に真澄に逃げることは許されない。  そう頭では分かっているのに、気がつけば真澄の姿を目で追ってしまっている自分がいる。 (これはマズイだろう)  司もまた、目が合うたびに慌てて顔を反らし、そのたびに胸の奥が苦しくなった。 そんなある日、会社の創立記念日がやってきた。  運転手全員を休みにし、日頃の労をねぎらうという名目で、会社の車庫でバーベキューを行うことにしていた。  晴れた週末の、ほんの短い休息。  配送業という仕事柄、全員が揃うことは滅多にない。  この日ばかりは、皆で火を起こし、肉を焼き、酒を飲む。  車での出社は禁止し、酒を飲めない者には送迎を頼み、飲める者は心置きなく楽しめるよう配慮した。 あまり顔を合わせない者同士も、自然とグループを作り、皿を配ったり、笑い声を上げたりしていた。  真澄も参加していたが、「真澄さんはここに座っててね」と、誰もが気遣ってくれる。  それが、ありがたくもあり、少し照れくさくもあった。 夕方が近づくころ、「次、行こうか」と声が上がり、後片付けが始まった。  そのとき、車庫の入口に一台のタクシーが止まり、派手な服装の女性が会社の敷地に入ってきた。  誰もが手を止め、「誰だろう?」とそちらを見る。  女性は立ち止まることなく事務所へ入っていった。 しばらくすると、事務所の中から言い合う声が聞こえてきた。  内容は分からないが、かなり怒っていることだけは伝わってくる。  片付けを終えた真澄が戻ってくると、運転手の一人が声を掛けた。 「真澄さん、今は事務所に行かない方がいいよ」 「なんか、すごく派手な格好したおばさんが来て、社長と言い合いしてる
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第14話  何もなかった朝

翌朝。 司は、ほとんど眠れないまま会社へ向かった。夜が明けたという実感もないまま、目覚ましの音で身体を起こし、 いつも通りシャワーを浴び、ネクタイを締める。 鏡に映る自分の顔は、どこか輪郭がぼやけて見えた。――昨夜のことは、夢じゃない。そう思った途端、胸の奥がじくりと痛む。 思い出そうとしなくても、真澄の体温や、あのか細い声が、勝手に蘇ってきた。会社に着くと、すでに事務所の灯りは点いていた。 ドアを開けた瞬間、聞き慣れた声がする。「おはようございます、社長」あまりにも、いつも通りの声だった。 司は一瞬、足を止める。「……おはよう」それだけのやり取り。 真澄は司を一瞥すると、すぐにパソコンの画面へ視線を戻し、電話の応対を続けていた。昨夜、確かに自分の腕の中にいたはずの人。 唇に触れた温もりも、鼓動も、すべてが司の中にだけ閉じ込められた出来事のようだった。午前中、真澄はいつも以上に淡々と仕事をこなしていた。 書類の受け渡しも、指示の確認も、必要最低限。 手が触れそうになる距離では、自然と一歩引く。司は、その距離がひどく堪えた。(触れない……か)それが暗黙の了解のように思えて、胸の奥がざわつく。 自分だけが、昨夜に縛られているような感覚。昼休み。 真澄は「外で少し食べてきます」とだけ告げ、事務所を出て行った。 司は机に残され、コーヒーを一口飲む。――後悔しているのか。 ――なかったことにしたいのか。 ――それとも、最初から意味なんてなかったのか。考えれば考えるほど、答えは見つからなかった。午後も、仕事は滞りなく進んだ。 真澄は一度も私的な表情を見せない。 その完璧さが、司の心を少しずつ削っていく。夕方。 最後の運転手が戻り、事務所が静かになる。「では、社長。お先に失礼します」真澄はカバンを手に取り、そう言って軽く頭を下げた。 それだけだった。司は、引き止める言葉を探したが、何一つ見つからなかった。ドアが閉まり、事務所に一人残される。 司は、しばらく動けずにいた。ゆっくりと、自分の手のひらを見つめる。 昨夜、確かにそこにあったはずの温もり。 抱きしめた感触。それらはもう、どこにも残っていなかった。「……俺は、何を期待してるんだ」ぽつりと呟いた声が、静かな事務所に虚しく落ちた。
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第15話  無自覚な優しさ

翌日も、真澄はいつも通り出社してきた。 挨拶も、仕事ぶりも、何一つ変わらない。ただ一つ違うのは、 司と必要以上に視線を合わせないことだった。司はそれに、すぐ気づいた。(距離を取られている……)それが配慮なのか、拒絶なのか、 あるいは真澄自身を守るための無意識なのか。 司にはわからなかった。午前中、司は運行表を確認していて、思わずため息をついた。 急な欠員が出て、夜間便の段取りが崩れている。「社長、その便、私が代わりに手配しますよ」背後から声がして、司は肩を揺らした。 振り返ると、真澄が書類を抱えて立っている。「……大丈夫か? まだ本調子じゃなかっただろ」「もう平気です。先日はありがとうございました」それだけ言って、真澄はにこりと笑った。 その笑顔が、司の胸を強く締めつける。あの夜のことに、一切触れない。 触れさせない。それなのに―― こうして、当たり前のように気遣ってくる。司は思わず目を逸らした。(優しくするな……)その一言が、喉の奥で引っかかる。 優しさは、今の司にとって毒だった。昼過ぎ。 真澄は司の机に、そっと紙コップを置いた。「今日は冷えますから」中身は、温かいコーンスープだった。 何も言わず、ただそれだけ。司は、そのカップを見つめたまま、しばらく動けなかった。家では、誰も自分を気遣わない。 会社でも、社長としては敬われるが、“司”として心配されることはない。それを、 この人だけが、自然にやってくれる。(まずい……)ブレーキを踏もうとするほど、アクセルを踏まれている感覚だった。夕方、事務所が落ち着いた頃、真澄がコピー機の紙詰まりに手こずっていた。「貸してみろ」司が声を掛けると、二人の距離は一気に縮まる。肩が触れるほど近くで、司は機械に手を伸ばした。ふと、真澄の髪から、あの時と同じ、柔らかな匂いがした。司の手が止まる。真澄も、息を詰めたのがわかった。一瞬。 ほんの一瞬だったが、空気が変わった。「……直ったぞ」司は低く言い、真澄から距離を取る。「ありがとうございます」真澄はそう言って、 いつもより少し早足でその場を離れた。残された司は、自分の手が、わずかに震えていることに気づく。(もう、後戻りできないところまで来ている)理性では、わかっていた。 家庭があ
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第16話

玄関の鍵を開けた瞬間、司は胸の奥が重く沈むのを感じていた。 新築の家は、相変わらず静かだった。「ただいま」習慣のように口にした言葉は、壁に吸い込まれて消える。 リビングの電気はついているが、人の気配は薄い。 テレビの音だけが、無機質に流れていた。ソファに腰を下ろそうとした司の背中に、スリッパの音が近づく。「司」振り向くと、美里が腕を組んで立っていた。 今日も完璧に整えられた化粧と、派手すぎるほどの服装。 新しい家に負けないように――そんな意図が、透けて見える。「ちょっと話があるんだけど」司は黙って頷いた。「莉子の高校のこと、ちゃんと考えてる?」切り出しは、いつも同じだ。 司はため息をつきそうになるのを堪えた。「この前も言っただろ。私立は厳しいって。家のローンもあるし……」「だから何?」 美里は即座に言葉を被せた。 「みんなそれくらい払ってるわよ。家も建てて、私立にも行かせて。それが普通でしょ?」“普通”。 その言葉が、司の胸に小さく刺さる。「それにね」 美里はスマホを操作し、画面を司の前に突き出した。 「車。もう次の車検通さない方がいいと思うの。新築であの車は正直ダサいし」司は画面を見なかった。「……免許持ってないのに?」思わず漏れた一言に、美里の眉がつり上がる。「だから何?あなたが運転するんでしょ。父親なんだから」父親。 夫。 稼ぐ人間。役割の名前だけが、次々と被せられていく。「それと」 美里は畳みかけるように続けた。 「生活費、全然足りないの。あなたのおこづかい、もういらないわよね?」司は返事ができなかった。「別に困らないでしょ?会社の社長なんだから」その言葉を聞いた瞬間、司の中で何かが静かに崩れ落ちた。――俺は、何のために働いてるんだ。家族のため。 そう言い聞かせてきたはずなのに、そこに自分の居場所は一つもなかった。「……わかった」絞り出すように言うと、美里は満足そうに頷いた。「じゃあ決まりね。週末、また打ち合わせあるから。遅れないでよ」それだけ言って、寝室へ戻っていく。 残された司は、リビングの真ん中で立ち尽くした。二階から、子どもたちの笑い声が一瞬だけ聞こえた。 だが、それは自分に向けられたものではない。司は上着を手に取り、玄関へ向かった。「ちょっと、どこ
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第17話

会社の駐車場に車を停めた瞬間、司はようやく肩の力が抜けた気がした。 エンジンを切ると、周囲は静まり返っている。 この時間、事務所に灯りが点いていることはほとんどない。だが、その夜は違った。事務所の窓から、柔らかな光が漏れていた。 司は少しだけ眉をひそめ、それからドアを開ける。「……真澄さん?」カウンターの向こうで、真澄が書類をまとめていた。 驚いたように顔を上げる。「社長……? どうしたんですか、こんな時間に」司はネクタイを緩めながら、曖昧に笑った。「ここに忘れ物してたみたいでな。……君こそ、まだ残ってたのか」「ちょっと、片付けが終わらなくて」それ以上、言葉は続かなかった。 沈黙が、気まずさではなく、妙に心地よい間として流れる。司は椅子に腰を下ろした。 今日一日の出来事が、遅れて身体にのしかかってくる。「……疲れてますね」真澄が、そっと言った。「顔に出てるか」「はい。すごく」責めるような口調ではない。 ただ、事実を静かに受け止める声だった。真澄は、コーヒーを淹れて司の前に置いた。 砂糖もミルクも、聞かなくても司の好み通りだ。「ありがとう」司がそう言うと、真澄は小さく頷いた。「社長、無理しすぎですよ」その一言が、司の胸に深く刺さった。無理をしている。 誰のために? 何のために?「……俺さ」司は、カップを見つめたまま口を開いた。「家にいても、ここにいても、結局ずっと仕事のことばかり考えてるんだ」真澄は黙って聞いている。「でもな、ここに来ると……少しだけ、息ができる」司は顔を上げ、真澄を見た。「それは……」真澄は言いかけて、言葉を飲み込んだ。司は立ち上がり、ゆっくりと距離を詰める。 近づくほどに、真澄の呼吸がわずかに乱れていくのがわかった。「社長……」呼ばれた瞬間、司の中で最後の理性が揺らいだ。守るべき立場。 越えてはいけない線。それでも――「少しだけでいい」司はそう呟き、真澄の肩に手を置いた。真澄は逃げなかった。 ただ、目を伏せ、唇を噛みしめる。司はその顔を見て、すべてを悟った。唇が触れたのは、一瞬だった。 だが、その一瞬で、すべてが変わった。真澄の指が、司のシャツを掴む。 司は思わず、彼女を抱き寄せた。「……ダメだって、わかってます」真澄が、震える声で言
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第18話

翌日の夜、会社の灯りは、いつもより遅くまで消えなかった。司は事務所の椅子に座ったまま、書類に目を落としていたが、文字はまったく頭に入ってこない。 背後から聞こえる、キーボードを打つ音。 それが止まるたびに、無意識に肩が強張る自分に気づいていた。「……社長」真澄の声が、静かに響く。振り向くと、彼女はバッグを手に立っていた。 帰り支度をしているはずなのに、足は玄関へ向いていない。「今日は、もう帰ります」そう言いながらも、視線は司から外れない。「送ろうか」司は立ち上がり、そう言った。 自分でも、なぜそう口にしたのかわからない。 理性が、もう言葉を選べていなかった。「……大丈夫です。近いので」真澄はそう答えたが、その声はわずかに揺れていた。沈黙が落ちる。 逃げ道は、どこにもなかった。「真澄さん」司が名を呼ぶと、彼女は小さく息を吸い、立ち止まった。「昨日のこと……」それ以上、言葉は続かなかった。 言葉にすれば、すべてが壊れる気がしていた。「忘れた方がいいって、わかってます」真澄が、絞り出すように言う。「でも……」その続きを、司は待てなかった。気づけば、司は一歩、距離を詰めていた。 真澄の背中が、わずかに壁に触れる。「俺は、忘れられない」低い声だった。 それは告白であり、言い訳でもあった。「社長……ダメです」そう言いながらも、真澄の手は、司の胸を押し返すほどの力を持っていない。「わかってる」司はそう答えながら、真澄の額に自分の額をそっと重ねた。近すぎる距離。 呼吸が絡み、互いの鼓動が伝わる。「でも、もう……」その先は、言葉にならなかった。唇が触れたのは、ためらいの後だった。 前の夜とは違う。 逃げ場を残さない、深いキス。真澄の身体が、司の腕の中で小さく震えた。「……やめてください」そう言いながら、真澄の指が、司の背中を掴む。司は、その矛盾に、最後の理性を失った。抱きしめる力が強くなり、言葉は消えた。 ただ、触れることでしか、確かめられない夜だった。その後の時間を、司ははっきりと思い出せない。 ただ、気づいた時には、事務所の明かりは落ち、どちらともなく仮眠室へ、手を繋いだまま歩いて行った。仮眠室のドアが閉じる音と共に、司が必死で引いてきた境界線が、崩れる音と重なった。二人は、
last updateDernière mise à jour : 2026-02-17
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第19話

目を覚ました瞬間、司は自分がどこにいるのか理解するのに、わずかな時間を要した。天井は見慣れたものだった。 会社の仮眠室。 だが、隣に感じる温もりが、いつもとは違う。ゆっくりと視線を動かすと、真澄が眠っていた。 規則正しい寝息。 少しだけ乱れた髪。 昨夜の名残が、はっきりとそこにあった。胸の奥が、ずしりと重くなる。――やってしまった。司は、音を立てないようにベッドから起き上がった。 シャツを手に取る指が、微かに震えている。後悔していないわけじゃない。 だが、なかったことには、もうできない。時計を見ると、まだ朝の六時前だった。 外は薄曇りで、世界は何事もなかったかのように静かだ。司は仮眠室を出て、洗面所で顔を洗った。 冷たい水が、やけに現実を突きつけてくる。鏡に映る自分の顔は、ひどく疲れて見えた。 同時に、どこか安堵している自分も、確かにいた。「……最低だな」小さく呟いても、答えは返ってこない。仮眠室へ戻ると、真澄が起きていた。 ベッドの端に座り、膝の上で手を組んでいる。目が合った瞬間、二人とも言葉を失った。「……おはようございます」先に口を開いたのは、真澄だった。 その声は、いつもより少しだけ硬い。「ああ……おはよう」それだけで、精一杯だった。沈黙が、重く横たわる。 昨夜、確かに抱き合っていたはずなのに、今はひどく遠い。「……会社、開けますね」真澄が立ち上がる。 視線を合わせないまま、淡々とした動きだった。「真澄さん」司が呼び止めると、彼女は一瞬だけ立ち止まった。「……昨日のこと」そこまで言って、司は言葉を失う。 謝る資格があるのか。 引き止める権利があるのか。「……忘れましょう」真澄は、静かに言った。「仕事に戻ります。今まで通りで……」その言葉は、優しさでもあり、残酷でもあった。司は、何も言えなかった。 ただ、頷くことしかできない。真澄はドアを開け、事務所へ向かった。 その背中を見送りながら、司は胸の奥に、言いようのない痛みを感じていた。しばらくして、事務所に朝の空気が流れ込む。 運転手たちが、いつも通りに出社してくる。「おはようございます!」「今日も寒いっすね!」変わらない日常。 だが、司の中だけが、完全に変わってしまっていた。真澄は、いつも通りに笑顔で
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第20話

その日の夜、司は久しぶりに早く家へ戻った。玄関の灯りは点いていたが、 それが「迎えられている」証には、もうならない。「ただいま」返事はない。 代わりに、リビングからテレビの音と、スマホを操作する音が聞こえてきた。司が靴を脱いで上がると、美里がソファに座ったまま言った。「遅いじゃない。ご飯、もう終わったわよ」責めるでもなく、気遣うでもない。 ただの事実として吐き捨てるような口調だった。「……構わない」司はネクタイを緩め、ソファの端に腰を下ろした。「それより」美里は、テーブルの上に何かを置いた。 封筒と、分厚い書類の束。「今日、ディーラー行ってきたの」司の胸が、わずかにざわつく。「新車、注文しておいたから」「……は?」司が顔を上げると、美里は当然のように続けた。「だって、新築の家に中古車なんて、みっともないじゃない。 ご近所の目もあるし」司は言葉を失った。「……いくらだ」「細かいことはいいでしょ。ローンにすれば大した額じゃないわ」細かいこと。 それが、司が毎日必死で考えていることだった。「それとね」美里は話を畳みかける。「湊、塾に行かせることにしたから。もう中学だし、このままじゃ遅れるわ」「……聞いてない」「聞かなくても決まるでしょ。あなたは払うだけなんだから」その言葉が、胸に突き刺さった。払うだけ。 それが、自分の役割なのだと。そのとき、莉子がスマホをいじりながら顔を上げた。「ねえパパ。私のスマホ、もう限界なんだけど」司は疲れた目で娘を見る。「まだ使えるだろ」「無理。カメラも遅いし、みんな最新機種だよ?」そう言って、当然のように手を差し出す。「買って」命令でも、お願いでもない。 要求だった。司は深く息を吐き、天井を仰いだ。「……金の話ばっかりだな」思わず漏れた言葉に、美里がピクリと反応する。「何それ。家族のためでしょ?」「家族、家族って……」司は言いかけて、言葉を飲み込んだ。言ったところで、何も変わらない。 そう思ってしまう自分が、もう限界だった。「あなた、ちゃんと稼いでるんだから問題ないでしょ」美里は、悪びれもせず言う。「家もある、車もある。それで文句を言われる筋合いないわ」その瞬間、司の中で、何かが静かに切れた。――俺は、何のために働いてる?家族のた
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