Tous les chapitres de : Chapitre 21 - Chapitre 28

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第21話

その日は、夕方になっても司は家へ帰らなかった。あの家にはもう、自分の居場所はないことを、昨夜自覚してしまった。事務所の時計は、すでに十九時を回っている。運転手たちは全員引き上げ、車庫にはトラックの影だけが並んでいた。事務所に残っているのは、司と真澄だけだった。「社長、これ……今日中に目を通した方がいいと思います」真澄が、そっと書類を差し出す。いつもと同じ声。いつもと同じ距離。だが、司はそれを受け取らず、椅子に深く腰を沈めたまま天井を見上げていた。「……悪い。今、ちょっと」そう言ったきり、動かない。真澄は一瞬迷ったあと、書類を机に置き、司の向かいに座った。「何か……ありましたか?」その問いかけは、踏み込みすぎない、真澄らしい優しさだった。それなのに、その一言で、司の中の何かが決壊した。「……家でな」司は低い声で言った。「金の話ばっかりだ。車を勝手に注文したとか、塾代だとか、スマホだとか……」言葉が、止まらない。「俺は、払うだけ。相談も、選択肢もない。“稼いでるんだから当たり前”だってさ」司は、苦笑した。「なあ……それって、家族か?」真澄は、すぐには答えなかった。ただ、視線を落とし、司の言葉をそのまま受け止めている。「……俺さ」司は肘をつき、額に手を当てた。「昨夜、とうとう離婚って言葉が、頭に浮かんだ」それを口にした瞬間、喉が詰まった。「考えちゃいけないって、ずっと思ってた。でも……初めて、“楽になるかもしれない”って思った」しばらく、沈黙が落ちた。真澄は立ち上がり、コーヒーを淹れ始めた。カップが触れ合う、かすかな音だけが事務所に響く。「……社長」カップを司の前に置き、真澄は言った。「社長は、ちゃんと家族のことを考えてますよ」司は顔を上げた。「考えてなかったら、ここまで苦しくならないハズです」その言葉に、司の視界が一瞬揺れた。「……そうか?」「はい」真澄は、はっきりと頷いた。「でも、社長の気持ちを、誰も受け取っていないなら……それは、社長のせいじゃないと思います」司は、何か言おうとして、言葉を失った。胸の奥が、じわりと熱くなる。必死に抑えていた感情が、溢れそうになる。「……俺は」声が、震えた。「誰かに、“よくやってる”って言ってほしかっただけなのかもしれないな」その瞬間
last updateDernière mise à jour : 2026-02-19
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第22話

その日は、朝から嫌な予感がしていた。司が家の玄関を開けると、リビングのテーブルの上に、見慣れない封筒がいくつも並んでいた。請求書。見積書。そして、銀行からの通知。「おはよう」そう声をかけても、返事はない。美里はソファに座り、スマホを操作したまま言った。「司、あとで話あるから」“あとで”という言葉に、逃げ場はないと悟る。司は黙って上着を脱ぎ、椅子に腰を下ろした。「まずね」美里は、封筒の一つを司の前に滑らせた。「車のローン、今のままだと足りないから、増額して」司は封筒に目を落とした。金額を見て、息を詰める。「……聞いてないぞ」「だって、聞く必要ないでしょ?」美里は当然のように言った。「あなた名義なんだから。私、こういうの苦手だし」司は、何も言えなかった。「それから」次の封筒が置かれる。「湊の塾、夏期講習も申し込んだから。月謝、倍になるわ」「……もう少し、相談してからじゃ――」「何を相談するの?」美里は、ようやく司を見た。「子どもの将来でしょ?お金がないなんて言わないで。家も買った、車も買った。それなら、出すもの出せるはずよ」その言い方に、司の中で何かが冷えていく。「それと」美里は、最後の一枚を置いた。「莉子のスマホ、最新機種に替えたから。もう契約してある」司は、ゆっくりと顔を上げた。「……全部、事後報告か?」「何が悪いの?」美里は苛立ったように言う。「あなた、今まで何も言わなかったじゃない。黙って払ってきたでしょ?」その言葉は、責めではなく“事実”だった。そして、それが何より残酷だった。司は、初めてはっきりと理解した。――この女は、俺を“人”として見ていない。家計を支える存在。金を生み出す装置。それ以上でも、それ以下でもない。「……俺さ」司は、低い声で言った。「一度でも、“ありがとう”って言われたこと、あったかな」美里は、きょとんとした顔をした。「何それ。急に」「俺がどれだけ働いて、どれだけ我慢してるか、考えたことあるか?」美里は鼻で笑った。「被害者ぶらないで。あなたが勝手に仕事してるだけでしょ」その瞬間だった。司の中で、何かが音を立てずに終わった。怒りも、悲しみも、もう湧かなかった。ただ、確信だけが残った。――ここに、俺の居場所はない。「……わかった」
last updateDernière mise à jour : 2026-02-20
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第23話  離婚を切り出す決意(誰にも言えない夜)

夜の事務所は、昼間とは別の顔をしていた。蛍光灯を落とし、デスクライトだけを点けた室内は、静まり返っている。 外から聞こえるのは、遠くを走る車の音だけだった。司は、椅子に深く腰を沈め、天井を見上げていた。 ネクタイは外し、ジャケットは椅子の背に掛けたまま。 帰る気にはなれなかった。――家に、帰りたくない。それが正直な気持ちだった。机の上には、昼間、美里に突きつけられた請求書のコピー。 塾代。 車のローン。 スマホの分割明細。一枚一枚を見つめながら、司は思う。(俺は、いつから“家族”じゃなくなったんだろう)不仲になったのは、最近のことじゃない。 怒鳴り合いが増えたわけでもない。 浮気を疑われたこともない。ただ、感情が存在しない関係になっていただけだ。「……疲れたな」声に出してみると、思った以上に掠れていた。机の引き出しを開けると、古い写真が出てきた。 創立当初の会社の前で、美里と並んで撮ったもの。 笑っている二人。その写真を見て、胸が痛む――ことはなかった。代わりに、こんな感情が浮かんだ。(ああ……もう、戻りたくない)それは後悔ではなく、確認だった。司は、スマホを手に取った。 画面を開けば、真澄の名前がすぐに目に入る。――聞いてほしい。 ――誰かに、わかってほしい。そんな衝動が、一瞬、胸を突き上げた。だが、司は画面を伏せた。(ダメだ)今はまだ、誰にも言えない。 真澄に話せば、きっと優しい言葉をくれるだろう。 それが、どれほど救いになるかも、わかっている。それでも。(これは、俺一人で決めなきゃいけない)司は、立ち上がり、窓の前に立った。 夜の街の灯りが、静かに瞬いている。――離婚。その言葉を、頭の中でゆっくりとなぞる。恐怖は、なかった。 不安は、あった。だが、それ以上に――安堵があった。(やっと、終わらせられる)美里の顔が浮かぶ。 怒るだろう。 責めるだろう。 金の話を持ち出すだろう。それでもいい。もう、引き下がらない。司は、深く息を吸い、吐いた。「……俺は、離婚する」誰もいない事務所で、そう呟く。 その言葉は、空気に溶けて消えたが、司の中では、はっきりと形を持って残った。机に戻り、手帳を開く。 明日の予定の横に、短く書き込む。――「話す」それだけで、
last updateDernière mise à jour : 2026-02-21
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第24話  切り出す前夜(嵐の直前)

その夜、司は珍しく、まっすぐ家に帰った。玄関の灯りはついている。 リビングからはテレビの音が漏れていた。(いるな……)そう思っただけで、胸の奥がわずかに重くなる。 それでも、足は止めなかった。ドアを開けると、リビングのソファに美里が座っていた。 スマホを操作しながら、司を見ることもなく言う。「おそい」責めるような声でもなければ、心配する響きもない。 ただの事実確認のような一言だった。「仕事が立て込んでてな」司は靴を揃え、コートを脱ぎながら答える。 それ以上、言葉は続かなかった。美里はスマホから目を離さず、少し間を置いて言った。「そう。で、例の件だけど」――来た。司は、心の中でそう呟いた。「車、来月には納車できるって。頭金、早めに必要だから」「……ああ」「それと、湊の塾。夏期講習、追加で入れたから」「聞いてない」思わず出た言葉だった。美里は、初めて司を見た。 その視線には、驚きも、戸惑いもない。「だって必要でしょ?」当然だと言わんばかりの口調。「それに、莉子も言ってたわよ。クラスのみんな、もう新しいスマホなんだって」司は、何も答えなかった。頭の中で、昨夜、事務所で呟いた言葉が蘇る。――俺は、離婚する。この家に戻っても、その決意は揺らがなかった。 むしろ、確信に近づいていた。美里は続ける。「明日、銀行行ける? 私、昼は予定あるから」まるで、業務連絡のようだった。司は、ゆっくりと息を吸った。 そして、吐く。「……美里」名前を呼んだのは、久しぶりだった。美里は、少しだけ眉をひそめる。「なに?」司は、言葉を選んでいるようで、実はもう、選ぶ必要がないこともわかっていた。それでも、この瞬間だけは――慎重になる。「明日……話したいことがある」美里は一瞬、怪訝そうな顔をしたが、すぐに肩をすくめた。「なに? また仕事の愚痴?」「違う」その声は、低く、静かだった。美里は、司の表情を見て、ようやく違和感を覚えたようだった。 けれど、それを深く考えることはせず、ため息をつく。「明日ね。今日は疲れてるから」そう言って、ソファから立ち上がる。司は、それ以上、何も言わなかった。 今夜、切り出すつもりはなかった。――切り出すのは、明日だ。背中を向けて寝室へ向かう美里を見送りながら、司は、
last updateDernière mise à jour : 2026-02-22
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第25話  離婚

翌日。司は、仕事を早めに切り上げ、まっすぐ家に戻った。 リビングには、美里がいた。どれくらいここで、夕食を出してもらって居ないのだろう、司はふと考えた。帰ると「あなたのゴハン無いわよ」そのセリフが即座に飛んでくる。今日も美里は、昨日と同じようにソファに座り、スマホを手にしている。「話って、なに?」司が席に着くより先に、美里が切り出した。 声には、わずかな苛立ちが混じっている。司は、テーブルを挟んで向かいに座る。 背筋を伸ばし、逃げ場を断つように、視線を上げた。「離婚したい」その言葉は、思っていたよりも静かに、口から出た。一瞬。 空気が止まる。次の瞬間、美里が笑った。「……は?」笑いというより、鼻で息を吐いたような音だった。「なに言ってるの? 冗談でしょ」「冗談じゃない」司は、即座に否定した。美里の表情が、ゆっくりと変わっていく。 笑みが消え、目が細くなり、声が低くなる。「理由は?」「……もう、限界なんだ」司は、言葉を選ばなかった。 選べば選ぶほど、ここまで来た意味がなくなる。「家のローンも、車も、塾も、全部、俺一人で背負ってる。相談もなく決められて、俺は、ただ金を出すだけだ」「それが家族でしょ?」美里は、即答だった。「父親なんだから、当たり前じゃない」司は、その言葉に、小さく息を吐いた。「……俺は、父親である前に、一人の人間だ」その瞬間、美里の声が鋭くなる。「なにそれ。誰かに吹き込まれた?」司は、わずかに眉をひそめた。「誰も関係ない」「じゃあ何? 女でもできた?」その言葉が出た瞬間、司の心臓が一度、強く打った。 だが、美里の目には、疑念よりも苛立ちが勝っている。「違う」司は、即座に否定した。「私はね、あなたが浮気してるとか、そういうくだらないこと、考えてないから」美里は、腕を組み、言い放つ。「問題は、お金よ」司は、言葉を失った。「離婚するなら、この家のローンはどうするの?子どもたちの学費は?生活費は?」矢継ぎ早に浴びせられる言葉。 そこに、「気持ち」は一つもなかった。「養育費は払う」司は、低い声で言った。「でも、全部は無理だ。今まで通りの生活は、続けられない」美里の目が、大きく見開かれる。「ふざけないで」初めて、感情が露わになった。「子どもたち、どうするの?
last updateDernière mise à jour : 2026-02-23
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第26話  それぞれの戦場

その夜。司は、子どもたちをリビングに呼んだ。テレビは消され、テーブルの上には、冷めかけた夕食の皿が並んでいる。「話がある」その一言で、莉子は嫌そうに顔をしかめ、湊はスマホを置かずにいた。「ママと、離婚する」司の言葉に、空気が一瞬で固まった。「は?」最初に声を上げたのは莉子だった。「なにそれ。冗談でしょ?」「冗談じゃない」司は、視線を逸らさなかった。「もう、一緒に暮らしていけない」湊が、ようやく顔を上げる。「……なんで?」司は、少しだけ言葉を探した。だが、誤魔化すことはしなかった。「もう、お金がないんだ」その言葉に、二人の表情が変わる。「え?」「家のローンも、車も、塾も、全部、パパ一人で払ってきた。でも、もう限界だ」莉子は、唇を噛みしめた。「だから、離婚?」「そうだ」司は、ゆっくりと頷いた。「今まで通りの生活はできなくなる。おこづかいも、スマホも、全部、見直さなきゃいけない」沈黙。次に口を開いたのは湊だった。「……ボクたちのせい?」司は、即座に首を振った。「違う。それだけは、絶対に違う」だが、子どもたちの目に浮かんだ不安は、消えなかった。その様子を、キッチンの奥から美里が無言で見ていた。翌日。美里は、早々に弁護士を雇った。「離婚は構わない」そう前置きしたうえで、・住宅ローンの負担・養育費の金額・世間体・子どもたちの進学への影響それらを、淡々と、しかし執拗に訴えた。「私、被害者なんです」美里は、涙ひとつ見せずに言った。「夫が、突然、家庭を放り出そうとしている」弁護士は、静かに頷き、メモを取る。「条件次第では、かなり厳しく戦えます」その言葉に、美里は満足そうに微笑んだ。一方、司もまた、ある人物を訪ねていた。会社が、何度も世話になってきた顧問弁護士。学生時代からの友人でもある。「……で、離婚か」司の話を聞き終え、彼は深く息を吐いた。「正直に言うぞ」「頼む」「相手は、完全に“金と権利”で来る。感情論は通じない」司は、覚悟していたように頷いた。「でもな」弁護士は、司を真っ直ぐに見た。「お前が全部背負う必要はない。今まで、十分やってきた」その言葉に、司の胸がわずかに熱くなる。「条件は、整理しよう。守れるものと、手放すものを」司は、静かに言った。「……俺は
last updateDernière mise à jour : 2026-02-24
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第27話  真澄、異変に気づく

その頃、真澄は、いつも通りの朝を迎えていた。事務所の鍵を開け、照明を点け、ポットに水を入れる。運転手たちが来る前の、ほんの静かな時間。けれど、その日は、何かが違った。司が、出社してこない。前日も遅くまで会社に残っていたはずなのに、その翌朝、姿が見えないことは、ほとんどなかった。「……珍しいな」真澄は、コーヒーを淹れながら、ふと時計を見る。それでも、連絡を入れる理由にはならない。(忙しいだけよね)そう、自分に言い聞かせる。昼前になって、ようやく司が戻ってきた。スーツは着ているが、ネクタイは緩み、目の下には、はっきりとした隈が浮かんでいた。「おはようございます」真澄が声を掛けると、司は一瞬だけ驚いたような顔をしてから、いつものように微笑もうとした。「……ああ、おはよう」だが、その笑顔は、どこか歪んでいた。真澄は、胸の奥がざわつくのを感じた。書類を渡そうとして、司の手元を見る。指先が、微かに震えている。「社長……?」思わず呼び止めると、司は「ん?」と顔を上げた。「……何でもありません」そう言い直したものの、真澄の視線は、司から離れなかった。午後。司は、ほとんど自分の席を立たなかった。電話が鳴っても、すぐには取らず、一度、深く息を吸ってから、受話器を上げる。声は低く、短く、感情を削ぎ落としたようだった。真澄は、事務作業をしながら、何度も司の横顔を盗み見ていた。(……なんか、違う)疲れている、というだけではない。怒っているわけでも、苛立っているわけでもない。――追い詰められている。その空気を、真澄は感じ取っていた。夕方。真澄がコピーを取り終え、事務所に戻ると、司は一人、机に肘をつき、額を押さえていた。「社長、無理してませんか?」その言葉に、司の肩が、わずかに揺れた。「……大丈夫だ」そう言いながらも、顔を上げない。真澄は、一歩だけ近づいた。「大丈夫な人は、そんな顔してませんよ」その瞬間、司の手が止まった。しばらくの沈黙。やがて司は、ゆっくりと顔を上げた。「……真澄さんは、人の顔色を見るのが、上手だな」それは、褒め言葉のようでいて、どこか、助けを求める声にも聞こえた。真澄は、小さく首を振った。「違います。 社長が……隠すのが、下手なんです」司は、かすかに笑った。だが、その笑み
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第28話  離婚条件の提示

美里が連れてきた弁護士は、年配の男だった。無駄のないスーツに、感情の見えない声。「では、条件を整理します」机の上に並べられた紙。そこに書かれているのは、感情ではなく数字だった。・家は売却せず、美里と子どもたちが住み続ける・ローンは司が引き続き支払う・新車は契約済みのため、そのまま司名義で支払い・養育費は、二人分で月額○万円・私立高校、大学進学時の学費は別途協議・慰謝料は請求しない代わりに、世間体を保つ条件「父親としての責任ですから」弁護士は淡々と言った。司は、紙を見つめたまま、言葉を失っていた。「……それは、離婚しても、今と何が違うんでしょうか」その問いに、美里は即座に答えた。「違うわよ。あなたは“家族と一緒に住まなくていい”の」その一言で、司は理解した。――自分は、金だけを残して追い出されるのだ。「それに」美里は続ける。「あなた、社長でしょ? 離婚して生活が苦しいなんて、周りに知られたら困るでしょ」世間体。それが、最後の条件だった。司は、笑うことも、怒ることもできず、ただ、静かに頷いた。その日、真澄はコピー機の前にいた。事務所の奥、応接室から、低い声が漏れてくる。――社長の声だ。意図せず、足が止まる。「……だから、それ以上は無理なんです」司の声は、いつもよりも、はっきりと疲れていた。「無理、では済まされません」聞き慣れない男の声。「お子さん二人の将来がかかっています」真澄は、息を止めた。「家も車も、全部こちらの条件で進めます。あなたが父親である以上――」その先は、耳に入らなかった。真澄の胸が、締め付けられる。(……お金の話)それも、ただの経費や支払いではない。――生活そのものを削る話。「……わかりました」司の声が、ひどく遠く聞こえた。真澄は、その場から、そっと離れた。聞いてはいけないものを、聞いてしまった。それでも、司がどれほど追い詰められているかだけは、痛いほど伝わってきた。夜。事務所には、司と真澄、二人だけだった。書類を整理し終えた真澄が、帰ろうとすると、司が、ぽつりと声を掛けた。「……真澄さん」振り返ると、司は椅子に座ったまま、動かなかった。「少し、話してもいいか」真澄は、頷いた。司は、しばらく黙っていたが、やがて、低い声で言った。「俺は……何の
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