その日は、夕方になっても司は家へ帰らなかった。あの家にはもう、自分の居場所はないことを、昨夜自覚してしまった。事務所の時計は、すでに十九時を回っている。運転手たちは全員引き上げ、車庫にはトラックの影だけが並んでいた。事務所に残っているのは、司と真澄だけだった。「社長、これ……今日中に目を通した方がいいと思います」真澄が、そっと書類を差し出す。いつもと同じ声。いつもと同じ距離。だが、司はそれを受け取らず、椅子に深く腰を沈めたまま天井を見上げていた。「……悪い。今、ちょっと」そう言ったきり、動かない。真澄は一瞬迷ったあと、書類を机に置き、司の向かいに座った。「何か……ありましたか?」その問いかけは、踏み込みすぎない、真澄らしい優しさだった。それなのに、その一言で、司の中の何かが決壊した。「……家でな」司は低い声で言った。「金の話ばっかりだ。車を勝手に注文したとか、塾代だとか、スマホだとか……」言葉が、止まらない。「俺は、払うだけ。相談も、選択肢もない。“稼いでるんだから当たり前”だってさ」司は、苦笑した。「なあ……それって、家族か?」真澄は、すぐには答えなかった。ただ、視線を落とし、司の言葉をそのまま受け止めている。「……俺さ」司は肘をつき、額に手を当てた。「昨夜、とうとう離婚って言葉が、頭に浮かんだ」それを口にした瞬間、喉が詰まった。「考えちゃいけないって、ずっと思ってた。でも……初めて、“楽になるかもしれない”って思った」しばらく、沈黙が落ちた。真澄は立ち上がり、コーヒーを淹れ始めた。カップが触れ合う、かすかな音だけが事務所に響く。「……社長」カップを司の前に置き、真澄は言った。「社長は、ちゃんと家族のことを考えてますよ」司は顔を上げた。「考えてなかったら、ここまで苦しくならないハズです」その言葉に、司の視界が一瞬揺れた。「……そうか?」「はい」真澄は、はっきりと頷いた。「でも、社長の気持ちを、誰も受け取っていないなら……それは、社長のせいじゃないと思います」司は、何か言おうとして、言葉を失った。胸の奥が、じわりと熱くなる。必死に抑えていた感情が、溢れそうになる。「……俺は」声が、震えた。「誰かに、“よくやってる”って言ってほしかっただけなのかもしれないな」その瞬間
Dernière mise à jour : 2026-02-19 Read More