Tous les chapitres de : Chapitre 71 - Chapitre 80

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第71話

涼から一度離れた湊斗は、近くにいた一人の若い女に尋ねた。「――お前」「は、はい……!」女は密かに湊斗を狙っていた。初めて見る彼の美貌の虜になり、あわよくば彼の愛人になりたいとさえ願っていた。湊斗と本妻の瀬奈の不仲は有名だった。上手くいけば愛人から本妻に……なんてこともありえるだろう。意中の相手に話しかけられたことで、彼女は舞い上がっていた。湊斗は女を前に、ニコッと笑みを浮かべた。「ちょっと聞きたいことがあるんだが、いいか?」「な、何でしょう……?」笑顔を向けられたことで、彼女は顔を真っ赤にした。一体何を聞かれるんだろう、もしかしたらこのままホテルにでも連れて行かれるのだろうか。胸がドキドキした。「さっき、そこにいた顔を隠した女についてなんだが……」「女……?」彼女は期待外れの問いにがっかりした。しかし、湊斗はそんな彼女の頬に優しく手を添えた。彼の大きな骨ばった手が、頬に触れた。「……!」その時点で、彼女はもう彼の前で嘘なんてつけなかった。女はうっとりした顔で湊斗を見上げた。「あの女の素顔を見たか?」「はい」彼女は何かに導かれるように首を縦に振った。湊斗の問いかけは続いた。「どんな女だった?」「ロングヘアの綺麗な女性でした……」「歳は?」「年齢は二十代後半くらいだったと思います……」「……そうか」そこで湊斗は女からパッと手を離した。彼女は突然夢から覚めたかのように困惑した。「しゃ、社長……?」「貴重な情報感謝するよ」呆然とした女を一人置いたまま、湊斗は彼女の前から去って行った。(二十代後半か……ならアイツではなさそうだな……)瀬奈の年齢は三十八歳だった。しかし、彼女は二十代にも間違われるほどの美貌の持ち主だ。湊斗はそのことに気付かなかった。ようやく瀬奈を見つけたと思ったのに、と湊斗は落胆した。まぁ、仮に彼女が瀬奈だったとしても、既に遠くへ行ってしまっただろうから何の意味もない。女に興味を失った湊斗は、そのまま主催者である泰西の元へと向かった。「――湊斗、久しぶりだな。元気にしていたか?」「……お久しぶりです、暁さん」泰西は瀬奈の兄で、彼にとっては義理の兄にあたる人だ。「いやぁ、湊斗が参加してくれるとは思っていなかったから驚いたよ」「……そうですね」普段なら暁家のパーティーなんて絶対に参加していなかっ
last updateDernière mise à jour : 2026-04-03
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第72話

目の色を変えて会場から出て行った湊斗を、泰西は面白そうに見つめていた。何故、彼が今回このようなことをしたのか。――泰西は暁家の長男として生まれ、幼い頃から何不自由なく育った。そんな彼は、ある日を境にこの世の全てがつまらなく感じるようになった。泰西はあまりにも優秀すぎたのだ。何においても完璧で、学校の同級生たちは彼の足元にも及ばない。何をやっても手ごたえを感じない。優秀すぎるあまり、何もかもつまらない。いつからか、そんな感情が彼を支配するようになった。――そのため、彼は自分を退屈させることのない何かを常に求めていた。二つ下の妹の瀬奈は、あらゆる場で彼のターゲットになった。そのような思いから、泰西は今回のことを仕組んだのである。「……これからが楽しみだな」泰西は湊斗が去って行った方向を見つめながらニヤリと笑みを深めた。***急いで会場を出た湊斗は、女の行方を決死の思いで追っていた。「どこへ行ったんだ……?」周辺を探すが、女の姿はどこにも見当たらない。涼は既に瀬奈を帰したと言っていたから、きっともうホテルから離れているだろう。そう思った湊斗は、スマートフォンを取り出し、一馬に電話をかけた。「湊斗、どうかしたのか?」一馬は今日湊斗がパーティーへ行く影響で、定時に上がっていた。家でくつろいでいたときに、突然湊斗から電話がかかってきたのだ。「……瀬奈を見つけた」「な、何だって!?」一馬は驚きで声を上げた。彼の声色には焦りと困惑が混じっていた。「せ、瀬奈ちゃんは今そこにいるのか……?」「いや……ここにはいない。さっき瀬奈と思しき女と会ったんだ」湊斗は女が瀬奈だということをほとんど確信していた。こっちは三十年近く彼女を見てきたのだ。顔を隠したくらいでは、誤魔化すことなどできない。「一馬、今ならまだ瀬奈は区内にいるはずだ」一馬は嫌な予感がした。湊斗はよくとんでもないことを言い出して部下たちを困らせることがある。今がまさに良い例だ。「ま、まさか今から探せっていうのか……?」「さっさとしろ」「湊斗!勘弁してくれよ!」久々にゆっくりできると思ったのに。湊斗は喚く一馬との通話を強引に切った。それから湊斗は、迎えの車に乗り込んだ。あまりにも早い帰宅に、運転手は驚きを隠せなかった。彼はよくパーティーを途中で抜け出すが、ここまで短時間で帰ってく
last updateDernière mise à jour : 2026-04-04
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第73話

湊斗は車に揺られている最中、ずっと落ち着かなかった。もうすぐあれほど探し求めていた瀬奈に会えるのかもしれないと思うと、彼は妙にソワソワした。結婚していた頃はあんなに冷遇し、会うことを避けていたというのに。離れていった途端こうも狂おしく探すだなんて、狂っている。彼自身もわかっていた。しかし、自分を抑えられそうになかった。(瀬奈が会場を出てからまだそれほど時間は経っていない……)湊斗は手首に巻かれた腕時計にチラチラと視線をやった。パーティーが行われたホテルから最寄りの黒川駅まではそう遠くはなく、十分も歩けば着く。瀬奈がタクシーを使っていたとしたら既に着いている頃だろうが、彼は諦めなかった。焦りを見せる湊斗に、運転手が遠慮がちに尋ねた。「社長、さっき言ってたことなんですけど……アイツとは……元奥様のことでしょうか?」「元だと……?」湊斗は眉をピクリと動かし、表情が一瞬で険しくなった。湊斗は未だに瀬奈が置いていった離婚届を提出していなかった。つまり、彼らは戸籍上はまだ夫婦なのだ。「い、いえ!失礼いたしました!瀬奈奥様のことでしょうか!?」「……そうだ」「そ、そうでしたか……」運転手は戸惑いを隠せなかった。湊斗は妻である瀬奈を嫌っていたはず。それなのに何故、今になってこれほど執着しているのか。てっきりすぐにでも沙織を妻として迎えると思っていたのに。「奥様は駅にいらっしゃるのですか?」「……その可能性が高い」湊斗は肘をつき、窓の外を眺めながら返事をした。「ですが、駅に行ったところで見つけられないのではありませんか?黒川駅は大きな駅ですし、この時間だと人の出入りも激しくなります」湊斗たちの住む黒川区はかなり都会で、黒川駅はその中でも最も大きな駅だ。一日の利用者数は都内でも上位に入るほどであり、たとえ彼が駅に着いたとしても、その中から瀬奈の姿を見つけられる可能性は限りなく低かった。それに加えて、今は夕方だ。帰宅途中の大学生や高校生が駅に溢れる時間帯である。運転手はそのことを危惧していたが、湊斗はそんなもの気にも留めなかった。(見つけられないだと……?馬鹿を言うな……)彼はフッと笑みを零した。運転手はそんな湊斗の様子に、ビクリと肩を上げた。最近の湊斗は誰から見ても様子が変だった。「その心配は無用だ」「しゃ、社長……?」ルームミラー越しに
last updateDernière mise à jour : 2026-04-04
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第74話

車で数分走らせると、黒川駅に到着した。湊斗はすぐに車から降り、瀬奈の姿を探した。駅は学生やサラリーマン、外出中の子連れ主婦など様々な人で溢れかえっていた。運転手の言う通り、この中から瀬奈の姿を捜し出すのは容易なことではなかった。しかし、湊斗は絶対的な自信があった。(どこにいるんだ……?一体どこに……!)彼は人混みをかき分け、瀬奈を探し続けた。違う、違う、違う。すれ違うロングヘアの女は全て他人だ。わざわざ顔を見なくても、彼には一瞬でわかる。それほどに、彼は彼女のことを――「いないのか……?」どこへ行っても彼女の姿は見当たらなかった。湊斗は思わず立ち止まり、拳をギュッと握りしめた。(俺があのとき、瀬奈を捕まえていれば……)湊斗の胸に後悔が押し寄せた。一度は手の届く距離にいたというのに、何故逃してしまったのか。これほど絶望を感じたことはない。(瀬奈……)――そのとき、彼の視界の端に漆黒の美しい髪の毛が映った。遠くから見てもわかるほど綺麗なロングヘアに、彼は思わず目を奪われた。「……あれは」湊斗の足は勝手に動いていた。彼女に向かって手を伸ばすが、あと一歩のところで届かない。「ウッ……クソッ……!」その瞬間、駅の改札から溢れた人々で湊斗の体は外に押し出された。瀬奈はそのまま改札を通り、中へ入って行く。湊斗はすぐにでも後を追おうとしたが、彼女の姿は既に見えなかった。「どっちへ行ったんだ……?」湊斗が改札に入ろうとすると、突然若い男に肩をつかまれた。「――おっさん、お前のせいで腕怪我したんだけど」「何だと……?」彼が振り返ると、そこにはガラの悪そうな男三人がニヤニヤしながら立っていた。男たちは下卑た笑みを浮かべながら湊斗の耳元で囁いた。「おっさん、ちょっと表に出ろよ。あと、財布出す準備しとけよ?」「……」***「ウッ……!」「ギャアッ!た、助けて!」駅近くの路地裏にて、三人の男が顔面をボコボコにされて倒れていた。「ガキども、誰に喧嘩売ってんだ?」湊斗はそのうちの一人の胸倉を掴んだ。男は涙目で必死に懇願した。「も、もうしません!大人しく帰りますから!」「いいや、ダメだ。俺はちょうど今イラついてたんだ。もう一発ぶん殴らせろ」「ちょ、ちょっと待ってください!イラついてるって俺ら何の関係もないじゃないですか!」男たちは
last updateDernière mise à jour : 2026-04-04
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第75話

暴漢たちの処理を終えた湊斗が駅に戻った頃には、既に多くの電車が発車したあとだった。今からホームへ行ったところで、瀬奈を見つけられる可能性は低い。黒川駅の電車は数分おきにやってくる。探したところで、無駄なだけだ。「……」彼は悔しさで唇を噛んだ。あとちょっとで見つけられそうだったのに。「湊斗!」「……一馬?」駅構内で呆然としていた彼に声をかけたのは、一馬だった。一体いつからそこにいたのか、湊斗は全く気が付かなかった。彼はただ、瀬奈が消えて行った駅の改札を名残惜しそうにじっと見つめていた。「瀬奈ちゃんを見つけたっていうのは本当か!?」「……見失ったよ」「そ、そうか……」湊斗のその報告に、一馬は喜ぶべきなのか悲しむべきなのかわからなかった。瀬奈が幸せでいてほしいという気持ちは変わらない。しかし、湊斗が日に日にやつれていくところを見ると、彼の気持ちに迷いが生じた。「俺は……何をしていたんだ……」「湊斗……」湊斗は一馬に肩を支えられながら、外で待たせている車まで歩いて行った。***「姉さん!ただいま!」「おかえり!!!」その頃、稲田町では無事に自宅へ戻った瀬奈を静香が笑顔で出迎えた。「良かった!誰にも見つかることなく帰ってこられたのね!」「ええ、父さんにも挨拶は済ませたし……しばらくは何も言われなさそうだわ」父親の話で沈んだ顔をした瀬奈を見た静香は、全てを悟った。「父さんは相変わらずのようね」「ええ、私のことを心配すらしていなかったわ」瀬奈の記憶の中にいる父親は、いつだって彼女に冷たい目を向けていた。二十年ぶりに会った今日も、それだけは変わらなかった。(我が子を愛さない親だなんて……)里亜を産んだ今となっては、父親の気持ちが理解できなかった。静香は暗い表情の妹の肩に手を置いた。「瀬奈、父さんのことはもう気にしなくていいのよ。私たちはあの人とは縁を切っているも同然なんだから」「……そうね」表情が柔らかくなった瀬奈に、静香は安心した。父親のことで長年悩まされていたのは、静香も同じだった。「あぁ、そういえばパーティーで湊斗に会ったわ」「え!?!?!?」突然の爆弾発言に、静香は驚いて声を上げた。何気なくサラリと口にした瀬奈に、静香はさらなる衝撃を受けた。「ど、どういうこと!?湊斗が暁家のパーティーに来ていたの!?」「え
last updateDernière mise à jour : 2026-04-04
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第76話

翌日、瀬奈は何とか与えられた試練を乗り越え、いつも通りの日常へ戻った。「皆さん、昨日は突然休んでしまってすみませんでした。迷惑をかけたお詫びです」出勤した瀬奈は、昨日黒川区のデパートへ立ち寄った際に購入したお菓子を職場の人たちに手渡した。詫びの品でもあるが、誕生日プレゼントのお返しでもあった。「あら、いいの?こんなに高そうなものもらっちゃって」「どうぞどうぞ」稲田町にいる人たちは普段、あまり町から出ない。そのため、このような都会の高級お菓子は見る機会が無かった。(急に休みを取ったせいで迷惑をかけただろうし……)せめてものお詫びとして、それくらいはしておきたかった。瀬奈の予想通り、彼らはプレゼントをとても喜んでくれた。「子供が喜ぶわ。ありがとう、暁さん」「どういたしまして」瀬奈はニッコリと微笑んだ。昨日湊斗に会ったばかりだとは思えないほどに、穏やかな日常だった。(私の噂も、今ではあまり言われなくなったし……)彼女は順調に平穏な生活を取り戻しつつあった。今では真由子とも和解し、彼女の敵となるような人たちはいない。「暁さん、今日はランチにでも行かない?私が奢るからさ、たまには来なよ」「いいんですか?ありがとうございます」瀬奈はいつもお弁当を持参しているが、昨日のことで疲れてしまった彼女は今日手ぶらだった。コンビニでパンでも買おうと思っていた瀬奈だったが、思いもよらない嬉しい誘いを受けた。瀬奈たち三人は会社の近くにあったカフェへ入り、ランチプレートを三つ注文した。先輩社員の二人が頼んだのは、数種類あった中でも特に野菜中心で健康的なランチだった。「出産してから体型が戻らなくて困ってるのよ……」「私も。若い頃と比べたら十キロも増えたわ」二人はそんなやり取りをしながら、瀬奈の細い腕をじっと見つめた。「え……」羨むようなその視線に、瀬奈は何だかいたたまれなくなった。二人の会話に、自分だけがついていけないこの状況に何を言えばいいかわからなかった。「暁さんは小さい子供がいるとは思えないほど綺麗よね……」「そうそう、ダイエットとかしてるの?」「いえ、私は……」瀬奈は昔から食べても太りにくい体質だった。本当は甘い物が大好きで、お菓子やジャンクフードもよく食べます――とはとても言えなかった。「何を聞いてるの、してないわけがないでしょう」
last updateDernière mise à jour : 2026-04-05
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第77話

その日の夜。「里亜、明日の遠足の準備は済ませた?」瀬奈は明日の準備をする里亜の隣に座りながら尋ねた。入浴を終え、もうすぐ寝る時間だ。瀬奈は幼稚園から配られた持ち物リストを一つ一つ確認した。「お弁当と水筒は明日私が用意するから……雨具に帽子……」「おやつもだよ!」「今渡したら絶対食べちゃうから明日ね」「えーそんなー!」残念そうに眉を下げる里亜が愛らしくて、瀬奈は思わず笑みを零した。「明日の遠足、ずっと前から楽しみにしてたもんね」「うん!」瀬奈の言葉に、里亜は目を輝かせた。今日はきっとドキドキしすぎて眠れないだろう。何事においても、初めての経験は緊張するものだ。もちろんそれは、母親である瀬奈も同じだった。(私もそんなときあったなぁ)不安な気持ちが無いことは無いけれど、里亜ならきっとうまくやれるだろう。瀬奈はワクワクを隠しきれない里亜を寝かしつけた。「さぁ、早く寝ましょう。寝れないならママが絵本を読んであげるわ」「今日はシンデレラがいいな!」「はいはい」瀬奈は子供向けのシンデレラの本を手に取り、里亜に読み聞かせた。里亜は布団の中でじっと瀬奈の柔らかい声を聞いていた。「――シンデレラは王子様と結婚して、末永く幸せに暮らしましたとさ……」全てを読み終えた瀬奈がパタンと本を閉じた。ちょうど里亜はウトウトし始めていた。この様子なら、きっとすぐに眠りに就くだろう。里亜は眠たい目を必死で開けながら、口を開いた。「ママ……」「里亜、どうしたの?」瀬奈が尋ねると、里亜は予想外のことを口にした。「ママにとっての王子様はさ……やっぱりパパだったの……?」「え……」思いがけない問いに、瀬奈はドキリとした。里亜が彼女の前で父親のことを聞くのは初めてだった。これまであまり気にしていないのかと思っていたが、どうして急に。瀬奈は困惑しながらも、里亜の質問の意味を考えた。(王子様……)里亜のパパは湊斗だ。湊斗は結婚してからも瀬奈を決して愛さず、優しさの欠片すら見せなかった。そんな彼が王子様?ありえない。あんなヤツが王子様だなんて、絶対にない。瀬奈はそう思っていたが――「そう、だね……ママにとっての王子様はパパ一人だけだったよ」そう答えるほかなかった。物語に出てくる王子のようにお姫様のピンチを助けたこともないうえに、幾度も姫を裏切り傷付けた
last updateDernière mise à jour : 2026-04-05
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第78話

翌朝、里亜は元気いっぱいで目を覚ました。「ママー!早く行こうよ!」「まだ幼稚園が始まる一時間前よ、里亜」昨日はぐっすり眠れたようだ。おまけに良い夢でも見たのだろうか。顔がいつもよりしゃきっとしている。「今日は遠足の日だもん!早く行きたい!」「はいはい、早く行っても始まる時間は同じなんだから」瀬奈は今にも飛び出していきそうな里亜を何とか落ち着かせた。彼女は遠足のお弁当を作っている最中だった。(今日は特別な日だから、豪華なメニューにしましょう……)瀬奈はいつもより早起きし、里亜のために弁当を作っていた。今日は特別な食材を使ったスペシャル弁当だ。「わぁ、とっても美味しそう!」椅子の上に立った里亜が、料理中の瀬奈の手元を覗き込んだ。水筒にお茶もたっぷり入れたし、遠足の準備は万端だ。「今日はきっととっても楽しい一日になるわよ」「うん!」お弁当をカバンに詰めた里亜は笑顔で大きく頷いた。――この遠足が、里亜にとって大きな意味を持つ一日となることを、まだ彼女たちは知らなかった。「そろそろ行きましょう、里亜」時間になり、瀬奈が里亜を車に乗せ、幼稚園まで送って行った。「ママ、行ってきます!」「いってらっしゃい、里亜」瀬奈は嬉しそうに駆けて行く里亜の後ろ姿に手を振り続けた。里亜が見えなくなると、彼女はそのまま会社へと車を発進させた。***「それで、今日はお弁当のメニューがいつもより豪華なんだ?」「はい、娘のお弁当の残り物ですが……」その日の昼、瀬奈は職場の人たちと昼食を摂っていた。この間外でランチをしていた先輩社員二人は、ダイエットのために自分で弁当を作ることにしたようだ。彼女たちの小さなお弁当箱にはゆで卵やささみ肉など、ヘルシーな食べ物が詰め込まれていた。本格的にダイエットを始めている彼女たちの横で、瀬奈だけが普通の弁当なのは何だか申し訳ない。「娘さんのためにそこまでするだなんて……暁さんはとっても素敵な母親ね」「ありがとうございます」瀬奈にとっては何よりの褒め言葉だった。彼女は満足げに弁当を食べ進めた。「不安じゃない?初めての遠足なんでしょう?」「もちろん、最初は不安な気持ちもありましたが……娘を信じています。あの子ならきっと何事もなく終えられるって」そう言い放った瀬奈に、先輩の一人がからかうように口を開いた。「そう?暁
last updateDernière mise à jour : 2026-04-06
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第79話

「困ったなぁ……みんなとはぐれちゃった……」瀬奈が職場の人たちと話している頃、里亜は広い公園に一人ポツンと取り残されていた。周囲を見渡しても誰もいない。彼女は迷子になってしまったのだ。「みんな、どっちに行ったんだろう?」里亜は辺りをウロウロして先生たちを探した。しかし、どこへ行こうと誰も見つけられなかった。困り果てた里亜は、一度公園から出ることにした。瀬奈は事前に里亜に、迷子になったときはその場から動いてはいけないと注意深く言い聞かせていた。しかし、彼女は初めて遠足に行くという楽しみのあまりそのことをすっかり忘れていたのだ。水筒を首にぶら下げ、お弁当の入ったリュックサックを背負った里亜は住宅街を歩き回った。「まったく知らない場所に来ちゃった……ここはどこだろう?」里亜がこの場所を知らないのは当然だった。ここは稲田町でもなければ、羽根町でもない。彼女が生まれて初めて来る知らない市だった。しばらく歩いた里亜は、遠くに一際目立つ建造物を見つけた。「わぁ、とっても大きな建物……!絵本で読んだお城みたい……!」里亜は何かに導かれるように、その建物へと駆けて行った。***「湊斗!早く早く!早く行きましょうよ!」「……走るなよ、みっともない。というかそんなに急がなくてもいいだろ――優里亜」その頃、湊斗はとある市に位置する大劇場にいた。キチッとしたスーツ姿で歩く湊斗の横で、上品なドレスに身を包んだ優里亜が彼の手を引っ張っていた。「公演を見たあとは私とホテルに行く約束でしょう?忘れたとは言わせないわよ!」「ホテルのランチな。誤解を招くようなこと言うなよ」湊斗は呆れたようにため息をついた。優里亜とは、ずいぶん昔から付き合いのある女だ。しかし、彼ら二人は周囲からそう見えるように男女の関係というわけではなかった。――実は、湊斗と優里亜は従兄妹だった。母親の妹の子供が優里亜で、湊斗は幼い頃から彼女のことを知っていた。(コイツの我儘っぷりはいくつになっても変わらないんだな……)湊斗は従兄妹である優里亜を女として見れないどころか、できるだけ関わりたくないとさえ思っていた。ただ単に、親族だから付き合っているというだけだ。彼女の母親は湊斗の母の妹であり、叔母だった。無下に扱えば何を言われるかわからない。親族ともめ事を起こすのだけは御免だった。「湊斗ったら
last updateDernière mise à jour : 2026-04-07
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第80話

湊斗は優里亜から逃れるように大劇場の外へ出た。(やっぱり、アイツといると疲れるな)優里亜は昔から湊斗に熱烈な想いを寄せていた。しかし彼は、従兄弟である優里亜など当然恋愛対象外だ。どうしても女として見ることができない、俺のことは諦めてくれ、と何度言っても優里亜は彼を追いかけ続けた。彼女は未だに湊斗を想っており、三十五を迎えた今でも結婚していない。彼にとっては迷惑この上なかった。外へ出た湊斗はタバコを吸いながら、大劇場を見上げた。「そういえば、この劇場……昔アイツと行ったことがあったな」まだ彼が子供だった頃、瀬奈と二人でこの場所で観劇をしたことがあった。あのとき、自分は何て言ったっけ。子供ができたらこういう名前を付けたいとかそんな馬鹿げたことを言っていたような気がする。ふいに思い浮かぶ瀬奈との記憶に、湊斗の口元が僅かに緩んだ。あのときはみすみす逃してしまったが、まだ彼は諦めていない。今度こそは、絶対に彼女を捕まえてみせる。彼はパーティーから帰ったあと、そう心に誓った。(俺も大して優里亜と変わらないんだな……)彼はフッと笑った。なら優里亜に対するこの気持ちは同族嫌悪なのか。劇場のすぐ傍で一人立ち尽くしていた湊斗に、近付く影があった。「――社長、観劇は楽しめましたか?」「……お前」湊斗に声をかけたのは、彼の専属の運転手だった。彼と優里亜を車でこの大劇場まで送ってきたのも彼だ。彼は神宮司家に仕えて長く、両親がまだ生きていた頃から湊斗の運転手をしていた。「……俺が今楽しそうに見えるか?」「いえ……申し訳ありません」湊斗が優里亜をあまり好いていないのは神宮司家の誰もが知っていることだ。一時は優里亜の名前を出すだけで眉間にシワが寄っていたほどである。彼は自身が失言したことに気付き、慌てた。「気にするな」しかし、思いもよらぬ優しい言葉に、彼は驚いて顔を上げた。てっきり厳しく叱責をされると思っていたのに。思えば、あの日瀬奈と会ってからの湊斗は機嫌が前よりも多少マシになっていた。彼はそのことにひとまず安堵した。「社長、そろそろ戻られたほうがよろしいのではありませんか?あまり優里亜さんを待たせると……」「……そうだな」今頃、優里亜がいつまでも帰ってこない湊斗に痺れを切らして探し回っている頃だろう。その過程で何か問題を起こされたら面倒だ。(気
last updateDernière mise à jour : 2026-04-07
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