All Chapters of その結婚お断り~イケメンと三角関係になり結婚をお断りしたらやばいヤンデレ爆誕して死にかけた結果幸せになりました~: Chapter 81 - Chapter 90

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2 招かれざる客

 ナディアは努めていつも通り振る舞おうとしていたが、今朝の出来事がずっと頭から離れなかった。それが表に出ていたらしく、何度かリンドに、「大丈夫か?」と声をかけられた。  リンドからはやはり警邏隊に言いに行った方がよいと何度も言われたが、「ただのいたずらですから大丈夫です」と言い張って断り続けた。けれど顔色がずっと悪かったらしく、「そんな顔をしていたら客が寄りつかない。今日はもういいから家に帰って休め」とリンドに言われた。  その言葉の意味を額面通り受け取ると、少々思いやりに欠ける発言のようにも思えるが、ナディアは仕事を通してリンドの人となりを理解している。  つまりは、厚い温情は持っているのに言動がぶっきらぼうすぎるこの店主の言葉を意訳すると、「無理するな、店のことはいいから家に帰って休め」という意味である。  ナディアはリンドの優しさに感謝しつつも、個人的な事情が理由で店に穴を開けたくなくて、「大丈夫です」と言い続けていた。けれどこの頑固ジジイも、おおそうか、と言って素直に納得するような性格はしていない。 「そんなボーッとした状態で会計でも間違えられたら店に損失が出る。家に帰るのが面倒なら二階で昼寝でもしてろ」と言われて無理矢理二階の従業員用休憩室に追い立てられてしまった。  リンドのあの様子だと階下に行ってもまた休憩室に戻されるなと悟ったナディアは、リンドの言葉に甘えて少しだけ休ませてもらうことにした。  本当は、これから先どうしたらいいのかと朝からいっぱいいっぱいの状態で、不安で溺れそうになっていた。落ち着いて考える時間ができたのはありがたい。  休憩室の中には茶器の入った棚にテーブルや椅子や、横になって仮眠が取れるくらいの大きさのソファなどがある。よろよろとソファに歩み寄ったナディアは、そのままバタリとソファに倒れ込むように横になった。  頭の中では、今朝の怪文書や犯人のことも考えたが、一番にはゼウスのことを考えていた。  自分の正体が明かされたらゼウスとは結婚できなくなる。  それどころか、ゼウスが『悪魔の花婿』ではないかと疑われる羽目になって、自分が処女であると証明できればゼウスは助かるかもしれないが、ナディア自身は処刑されるおそれがある。  今朝の怪文書事件は生きるか死ぬかの問題を孕んでいる。  自分の命だけを考えるなら、なり
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3 シャルロットの従僕

「もう我慢なりませんわ! あなた一体何なのですの?」 ナディアが一階に下りて行くと、そこにいたのは、元来の怖い顔にいつにも増して眼力の鋭さが加わり対決姿勢を見せるリンドと、元々可愛らしく美少女然とした顔つきではあるが、今は顔を思いっきりしかめてリンドを睨みつけ、畳んだ扇子をぎゅっと握りしめてかなり気分を害している様子のシャルロットだった。 シャルロットはいつもゼウスの前ではしなを作っていてお淑やかで可愛らしい自分を演出しているように見えていたが、今は明らかに不機嫌さを隠そうともしていない。 以前から、店にやって来ては時々ナディアをいびろうとしていたが、嫌味を言う時でもこんなに声を荒げることはなかったのに、今は違う。 シャルロットが声を大にしてここまで敵意を向き出しにするとは、かなり怒っているようだ。「塩をまくですって! 平民如きが目上の者への配慮のない振る舞いは目に余ります!」(え、リンドさん塩をまこうとしたの?) ナディアはリンドの手元を見た。塩は持っていないし、まいてもいないようだが、貴族にそんな言動をしたらまずいことくらい、人間社会暮らしの短いナディアでもわかる。「犯罪者は出入り禁止だ!」「何ですって!」 犯罪者呼ばわりされて激高したシャルロットは、持っていた扇子をリンド目がけて投げつけようとしたが、振り上げた腕を後ろから伸びてきた手に抑えられて、不発に終わる。「お、お嬢様…… 表立った暴力行為はいけません……」「ユト! 離しなさい! この駄犬!」 シャルロットを抑えたのは彼女の従者だ。彼の名前はユトというらしい。 ユトは背が高く鍛えているのか体には程よい筋肉がついている。しかし伸びた黒い前髪で目元が隠れていて根暗な印象があり、シャルロットの腕を掴んで彼女の暴挙を止めはしているものの、そのたたずまいはどこか恐縮しきりでおどおどしている。本日は他の貴族令嬢たちは来ておらず、シャルロットとユトの二人だけのようだ。「もう我慢ならないのはこちらの方だ。メリッサを貶める内容の手紙を書いてうちの郵便受けに入れたのはお前だな!」「知りませんわ! そんなもの!」「しらを切る気か! お前以外の誰がメリッサに対してあんなことをすると言うんだ!」「まあ! 証拠もなしに貴族を犯罪者呼ばわりするとはどういうことか、あなたわかっていらっしゃいますの?
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4 アンバー兄妹 1

「笑ってしまうのはこちらの方だ! 結婚の話が出ている状態の二人の間に入り込もうとするとは一体どういう神経をしているんだ! 貴族とか平民がどうとか以前に人としてどうかしているぞ! 誰が好き好んでお前のような性悪女と結婚するものか! あの青年がお前と結婚することは天地がひっくり返ったって絶対にないぞ! お前にかなりしつこく言い寄られて迷惑していると本人から直接聞いている。何度婚約話を断っても意味すら理解していないらしく、どうしたものかと困り果てていたともな。 貴族貴族と鼻にかけるなら貴族らしく矜持を持って引き下がったらどうだ? 貴族には権利があるのではない、義務があるんだ。 一平民の幸せを願うどころか邪魔しに来て何が貴族だ!」 ナディアは、自分をけなすシャルロットへ反論してくれたリンドの行動をありがたく思いながらも、別のことも考えた。(すみません本当は一平民じゃなくて獣人です…… 人間社会では何の権利も保証されてなくて、見つかれば死罪ほぼ確定の獣人です――) しかしそんなこと言えるはずもない。 リンドは普段は無口なのにこういう時ばかりはよく口が回る。ナディアの代わりに本来は雲上人である貴族令嬢に物言いしてくれたことは素直に嬉しいと感じた。この人は上司の鏡だ。 しかしリンドが何気にゼウスに確認してシャルロットとの関係性を調査済みだったことは驚きである。「何様のつもりよっ……!」 シャルロットは吐き捨てるようなセリフを言った。その顔は怒りで赤くなっている。ユトが腕を抑え続けていなければ、今にもリンドに向かって扇子を投げつけそうだ。 もしかするとシャルロットは、人としてどうなんだとか性悪女と言われたことよりも、ゼウスがシャルロットを選ばないだろうと言われたことよりも、「貴族としての在り方がなってない」と責められたことの方がこたえているのではないかと思った。 以前同じようにゼウスから手を引けとリンドが言っていた時は、ここまで怒っていなかったから。「愚弄なさらないで! 平民に貴族の如何を語られる筋合いはありません! 私は誇り高き宗家第三位アンバー公爵家の姫ですわ!」「そうだな。アンバー公爵家から犯罪者が出るとは嘆かわしいことだな」「お、お嬢様! いけません!」 シャルロットはユトを振り切って扇子を投げつけようとしていた。「私は犯罪者などでは
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5 アンバー兄妹 2

ナディアはシャルロットの兄ランスロットが、大事な話があると言って、彼の従者アンと共に古書店までやって来た日のことを思い出す―― その時はエリミナも店にいたので、二人に仕事を任せてとりあえずランスロットたちを二階の従業員用休憩室へ通した。 貴族の口に合うだろうかと思いながら粗茶を出し、ランスロットの謝罪を受けたりシャルロットについての話などを聞かされたりした。 そろそろ用件も終わりだろうかと思った頃に、ランスロットが憂いを含んだような表情で溜め息を吐き出した後、いきなり切り出した。 「愛しいゼウスの幸せのためならば、俺は何でもしようじゃないか」 ナディアは文字通り固まった。 聞き間違いか、いっそ何かの冗談であってくれないかと思ったが、なぜかナディアにゼウスへの思いを打ち明けてすっきりしたようにも見えるランスロットは、さらに言葉を続けた。 「初めてゼウスの姿を見た時に全身を駆け抜けた衝撃を何と言葉で表現すればよいのかわからない。まさしく雷に打たれたようだった。私の全身がゼウスを愛したいと強く訴えていた。あんな感覚は初めてだった。 けれどゼウスはなかなかにつれなくてね。そのうちに会えば憎まれ口を叩くようになってしまった。いや、愛しさと同時に私の中に確かにゼウスへの憎しみのような感情も生まれていたのだろう。私の愛に全く気づいてくれないから」 「……」 どうやらゼウスはこの男色貴公子のお眼鏡にかなってしまったらしい。 ナディアは顔を強張らせたまま何も言えなかった。あなたの彼氏を愛していると男の人に言われて、どういう風に返せばいいのか全くわからない。 ランスロットは固まっているナディアに観察するような視線を向けつつ、自らが同性愛者であると打ち明けたことには全く頓着していない様子で、優雅に紅茶をすすっている。 「私のゼウスへの恋心は常に苦しみと共にあった。愛情と憎しみは表裏一体のものであるのだとその時悟った」 ナディアは、「好きな子をいじめるとかそういうのかな?」と思いつつも、この人既婚者なのに何言ってるんだろうと思った。 もっとも、ランスロットの体からはアンと関係した匂いしかしない。少なくとも一年くらいは女性と関係していないと思う。 つまり、彼の奥方は妊娠中という話だったが、ランスロットの子供ではない。一体誰の子だ
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6 銃騎士隊の魔王

 ナディアがシャルロットから獣人による南西列島の襲撃について聞かされる少し前―― ノエルはジュリアスを訪ねて銃騎士隊本部を訪れていた。仕事のためにアテナと外国へ行かねばならず、その間のナディアに関する偽装工作を長兄に頼むためだった。 しかし本部にやって来れば建物内全体が何故だかバタバタしていた。ノエルは隊長一家の身内であり顔も知られているため、本部内に入っても特に咎められることもなく二番隊長執務室へと辿り着いた。「……」 一応扉をノックしてみたが返事はない。扉を開けてみたがやはりジュリアスは部屋にいなかった。 ノエルは扉を閉めようとしたが、部屋の中に突然現れた人影を見て手を止めた。「父さん、ジュリ兄さんは?」 瞬間移動で執務室内に現れたのは自分たちの父親であるアーク・ブラッドレイだ。 灰色の髪に灰色の瞳をした銃騎士は、家族に久しぶりに会っても笑顔や親愛の情一つ浮かべることもなく、いつも通りの無表情でノエルを見つめていた。「ジュリアスはキャンベル伯領で起こった襲撃事件の処理のために昨夜から現地へ行っていて不在だ」「そうですか……」 キャンベル伯領を治めるキャンベル伯爵家は長兄の婚約者の実家であり、獣人王シドの住む里から一番近い貴族領でもある。 シドが率いる獣人たちの襲撃にあってまた被害が出たのかと思うと心が痛い。 ノエルはナディアについては長兄ではなくて弟の誰かに頼もうと思った。しかし、その場を後にしようとしたノエルに向かって、アークはこんな提案をしてきた。「あの娘の監視ならば俺がやろう」 ****** ゼウスの危機を聞いて立ち尽くすナディアは、さらに何か言っているシャルロットの言葉の意味は全然理解できなかったし、リンドが本当に塩を持ち出してきて彼らにまいていたり、その行為に怒り心頭のシャルロットが、ユトに押さえられるように店の外に連れ出されたことにも無反応だった。 ただ、ゼウスのことだけが心配だった。彼は銃騎士で、死ぬこともあるのだという側面を今更ながらに突きつけられた気がした。「――ッサ、大丈夫か? メリッサ」 リンドの呼びかけに、ナディアはようやく正気に戻ってハッとした。 店の中にシャルロットの姿はない。彼女は既にユトの手により、店の前に停めていた公爵家の馬車に押し込められて去った後だった。「リンドさん! どうしよう!
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7 従僕の悲愛

 リンドに塩をまかれた後に逃げ返った格好になり、平民にこれ以上ない屈辱を味合わされたと感じたシャルロットは、馬車の中でも歯噛みしていた。「お、お嬢様…… お許しを……」 席に座っているシャルロットは、馬車の床に額を擦りつけてひれ伏すユトの頭をヒールのある靴で踏んづけていた。普段は虫も殺せませんわという雰囲気を漂わせる令嬢の裏の顔である。「なぜ私をあの店から連れ出したの! まるで私があのクソジジイに負けたみたいじゃないの!」「すみませんお嬢様…… すみません……」 ユトは今にも泣き出しそうな情けない声を出しているが、声の響きの中に別の感情が含まれていることをシャルロットは知っていた。 一見主人が下僕に無体を働いているようにも見えるが、なじりながらもシャルロットの足はユトの頭部を柔らかく踏んでいるだけだ。 それにユトだってこの状態に興奮して服の下に隠した凶器を硬くしているに違いないのだ。八つ当たりをしていることは否定できないが、同時に下僕が求める快楽も提供してやっているのだ。 シャルロットが現在、絶対に自分を裏切らないと確信し全幅の信頼を寄せているのはユトともう一人だけだ。 シャルロット至上主義であり、シャルロットのためならばその身を滅ぼしても構わないと思ってる自分だけの従僕ユトを、本気で痛めつけようとは思わないし、踏む力も加減はできる。 けれど古書店のあの横柄な偏屈ジジイへの怒りは加減できない。 先ほどの出来事については、本当は自分の婿になるはずだった、性癖に刺さりまくる容姿をした見目麗しい銃騎士ゼウスを寝取ったド平民生意気女よりも腹が立つ。 シャルロットはユトの頭から足をどかすと、「顔を上げなさい」と命令した。かがみ込み、頬を優しく撫でた後に野暮ったい前髪を上げると、吸い込まれそうに美しい輝きを放つ銀色の双眸と目が合った。こんな色合いをした瞳を持つ人間はそうそういない。 ユトは子供の頃から、人によっては不気味にも見えてしまう瞳のことをからかわれ続けた結果、前髪を伸ばして瞳を隠すようになり、卑屈な性格になってしまった。 しかしシャルロットにとっては、神秘的に感じられる銀色の大きな目を持つ男は魅力的に見えた。前髪を払えば顔の造形だって全部よいし、シャルロットのお眼鏡にかなうほどには美しく逞しい男がそこにいた。 本当はもう少し中性的
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8 シドの娘

 ナディアはいつものように起床する。昨日はゼウスの安否を確認できただけで安心し、西部へ向かうレインと別れてシリウスの家に戻った。 一人になって落ち着いてから、もう一度色々なことを考えて、やはりゼウスの所へ行こうと思った。だから仕事は辞める。(昨日はシャルロット様がやって来て言えなかったけど、今日こそはリンドさんにちゃんと言おう) 簡単に朝食の支度をして、配達された朝刊に目を通す。新聞は人間社会のことを知るために購読していた。 紙面をめくっていくと南西列島の襲撃についての記事が載っていて、銃騎士隊南西支隊は怪我人こそ出たが、誰も死ななかったことを再確認する。 レインには聞いていたが、怪我をしたのはゼウスではないという話だった。 新聞の見出しには西部の被害状況が書かれていて、レインが言っていたように南西列島よりもかなり深刻であると思った。やったのは父だ。何とも言えない気持ちが胸を支配する。 里にいた頃、父たちが「狩り」をすることに対しては、人間たちだってこちらを攻撃したり獣人を攫って殺したりすることもあるのだから、自分たちが対抗するのは仕方のないことだと思っていた。 人間を襲い、食料や金品や資源を奪ってくることは、自分たち獣人が生きていくのに必要だという理屈をナディアも信じていた。「狩り」をすることはナディアが里に生まれてから当たり前に存在している行為であり、そのことに対して深く熟考することもあまりなかった。強いものが正しいという里の価値基準にナディア自身もどっぷり染まっていた。 今思えば、ナディアは「狩り」に同行することもなく、魔の森から外へ出たこともなくて、どこかしら対岸の火事のように感じていたのだと思う。新聞なんてなかったし、こんな風に人間たちの被害をつぶさに知ることもなかった。「狩り」に疑問を持てるようになったのは、皮肉なことに里から無理矢理連れ出して、「もう二度とあそこに戻るな」という『死の呪い』をかけてきたシリウスのおかげだ。 里から出たことで「狩り」がどういうものだったのかがはっきりと見えてきた。 シリウスがそこまで考えて行動したのかはわからないが、気づかせてくれたことには感謝している。 きっと自分はシドや里の者たちをいさめなければいけなかった。(あの人が私の言うことなんて聞くわけないけど、人間を殺さずにすむ何か別
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9 円満退職

 食欲はないと言っていたが、台所にあった穀物で簡単に粥を作って持っていくと、リンドは上半身だけを起こした。ベッドの上に胡座をかいたリンドにお盆を渡すと、ぶっきらぼうに「ありがとう」と言ってから食べ始めてくれた。 ナディアは近くにあった椅子に座ってリンドに対する。「何だ? 話したいことがあるのか?」 お互い無言の状態がしばらく続いてから、口火を切ったのはリンドだった。 ナディアは座ったままどう切り出そうかと考えていたが、言いたいことがあると伝わったらしく、リンドが水を向けてくれた。 ナディアは姿勢を正す。本当はリンドの風邪が治ってからの方がいいのではと思っていたが、言える機会があるなら言ってしまおう。「すみません、実は、ゼウスの後を追いかけようと思いまして、お店を辞めさせてください」 ナディアは椅子に座ったまま頭を下げた。沈黙が続く。リンドは何も言ってくれなかったが、カタリとスプーンがお盆の上に置かれる音がした。 ナディアが顔を上げると、リンドはベッドから降りようとしていた。しかし病気のせいか立ち上がろうとして少しよろけていたので、ナディアはすかさずリンドのそばに行って支えた。「もう年だな。一人で立てないとは」「熱のせいですよ」 リンドはそれに答えることはなく、歩いて壁際の棚に近づいた。ナディアもリンドに従う。 リンドは引き出しを開けると、奥から厚みのある茶封筒を出してきてナディアに渡した。「昨日のうちに用意しておいたんだ。本当は臨時賞与のつもりで、長期休暇もやるからあの青年の所へ行って無事を確かめて来い言うつもりだったが、お前がそのつもりなら、退職金だな」 リンドはナディアの意向を受け入れてくれたようだ。「いや、でも、こんなに……」 中を確かめたが結構入っている。「賞与としては多いが祝儀のつもりもあった。退職金としては妥当だろう。今まで働いてくれてありがとう。幸せになりなさい」 強面のはずのリンドが微笑んでいるのを見て、ナディアは少しうるっときてしまった。「リンドさん、本当にありがどうございます! 私が辞めたら代わりの人を探さないといけなくて、迷惑をかけるのに、ここまでしていただいて――」「いや、店はもう閉めるつもりだ」 言葉の途中で声をかけられて、ナディアはピタリと動きを止めてリンドを見つめた。「えっ! 
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10 友の正体

 往診の手配やエリミナへの伝言を終えてからナディアは家には帰らず一度店に戻った。リンドに医者が午後来ることを伝えてから家に帰り荷作り等をしようと考えていたが、寝室にいるリンドは眠っていた。 ナディアはリンドが食べ終えた食器を片づけ始めた。皿を洗いながら自分も出立のためにシリウスの家の中を色々と片づけねばと思った。まだ帰らないシリウスには会わずに首都から出ることになるかもしれないが、もう仕方がない。置き手紙を残していくくらいしかできないだろう。 ナディアはふと思い立ち、リンドの家の洗濯場に行って洗い物らしき衣類を丸っと洗濯した。高熱のリンドに家事はできないだろうし、このくらいの恩返しはしておかなければと思った。大通りから隠れる位置にあるベランダに洗濯物を干し終えてから家の中に入り、再度寝室へ行きリンドの様子を見る。 眠ったままのリンドの額を触ればまだ熱は高い。氷嚢を取り替えてから一度家に帰ろうと階段を下り始めた所で、一階から漂うエリミナの匂いに気づく。「エリー、来てたの? 学校は?」 昼間だが店に来たエリミナに言葉をかけながら階段を下りるが、会計台あたりにいたエリミナは何も返事をしない。「……エリー?」 エリミナはこちらに背を向けたまま立ち止まるナディアの顔を全く見ない。彼女は杖を突きながら慌てたように従業員用通用口から外へ出て行ってしまった。「……?」 ナディアは首をかしげた。エリミナの様子が変だ。なぜ何も言わずに去ってしまったのか。 違和感を持ったナディアはエリミナの後を追おうとした。けれどナディアが外へ出るよりも先に、御者が鞭を入れる音と馬のいななきが聞こえ、何も言わないエリミナを乗せた屋敷の馬車は店から離れたようだった。 逃げるように馬車を出したエリミナの態度から、ナディアの胸に一抹の不安がよぎる。 ナディアはエリミナの馬車を追いかけるのではなくて店の中に戻り、エリミナが会計台で何をしていたのか、その残り香を嗅いだ。 集中すると頭の中に会計台の前にたたずむエリミナの姿が浮かんでくる。 獣人特有の鋭い嗅覚によって、脳内にはエリミナの先程の行動が再現される。ナディアがまだ二階にいる時のものだ。 エリミナは会計台にある書類立てをしばらく見つめた後、その書類立てに手を伸ばして、一枚の封筒を抜き取った。 それは昨日投函された怪文書が入っ
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11 火事

 シリウスの家に帰ったナディアは私物を片づけて荷作りをした。  持っていくものはトランク一つに入れて必要最小限にするよう努めた。残りの物は置いていくわけにはいかないので、全て処分するしかないだろう。  本や雑誌類は整理して売れそうなものは仕事場とは別の古本屋へ持って行こうと思った。リンドも店を片づけねばならないだろうから、余計な本が増えるのは困るはずだ。  服は持って行ける量を厳選して残し、あとは古着屋へ。誰かにあげてもいいのだろうが、アテナは不在なので渡す術がない。  エリミナの姿が思い浮かぶが、エリミナは自分よりも小柄なのでサイズが合わないだろうと思った。それにエリミナは――  片づけながらふとシリウスへの置き手紙を書かねばと思い至りペンを取ってみたが、何と書けばいいのか書き出せずに止まってしまい、しばらく固まっていた。  困った末に、「他に一生を共にしたい相手ができたのであなたとは一緒になれません。ごめんなさい。今までありがとう」とだけ書いた。  シリウスからはすごくたくさん手紙をもらったのに、初めて書く返事がこんな短い文章で申し訳ないと思いつつ、それ以上は何をどう書いたらいいのかわからなかった。 (本当は直接会って説明するべきよね……)  元はと言えば、シリウスが無理矢理にナディアを里から切り離したせいで、自分の人生がかなり変わってしまった訳なのだが、でも、その後のことには恩も感じているので。  ゼウスの所へ行くために持っていくものの整理はついたので、あとは残ったものを処分するだけになった。売れそうなものを一通り売り払った頃には日も暮れていた。  リンドはどうしているだろうと思い、ナディアは夕食をリンドと共にするつもりで食材を買ってから古書店に向かった。  その頃にはもう完全に日が落ちてしまい、ナディアは街灯の灯る首都の通りを買い物袋を提げて歩いた。  ふと、ナディアの鼻腔が独特の匂いを捉えた。何かが燃えている匂いだ。  遠くから半鐘が聞こえる。これは首都で火事が起こった時に鳴らされるものだと、人間社会にやってきてから知った。  ナディアは歩きながらずっとエリミナや犯人のことを考えていた。どこかで火事が起こったらしいことは知っても、最初は頭の片隅で漠然とそのことを認識しただけだった。  しかし歩いているうちに、聴覚だけではなく
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