All Chapters of ROH-Ray of hopeー白狐・和泉の恋愛草子100年の時を超えてー: Chapter 11 - Chapter 20

111 Chapters

第11話 裏切り

 制御室の空気が、張り詰める。 レオン。 優士。 そして――和泉。 三つの意思が、同じ場所に存在していた。「諦め悪いって、いい言葉っすよね」 優士は、軽く笑う。 だがその目は、笑っていなかった。「無駄だ」 レオンは冷たく言い放つ。「理想では、世界は変わらない」「じゃあ」 優士は一歩踏み込む。「現実ごと変えればいいじゃないですか」 その瞬間。 空気が、わずかに歪んだ。 レオンの視線が鋭くなる。「……何をした」 優士は肩をすくめる。「別に」 軽い調子で。「ただのバックドアっすよ」 制御室のスクリーンが、一斉にノイズを走らせる。 人間のデータが、崩れる。 選別アルゴリズムが、停止する。「お前――」 レオンの声が、初めてわずかに揺れた。「最初から、そのつもりで」「ええ」 あっさりと肯定する。「潜入ってそういうもんでしょ」 和泉の呼吸が止まる。「……優士」 その名前を呼ぶ。 だが。 優士は、振り向かない。「和泉さん」 静かに言う。「巻き込んですみません」 その一言で、すべてを理解する。 最初から。 彼は。 このためにここにいた。 味方ではなかった。 だが。 敵でもない。「……裏切りか」 レオンの声は、再び冷たさを取り戻す。「違いますよ」 優士は笑う。「最初から、あんたの側じゃないだけです」 その言葉に、空気が凍る。「人間を選別するシステム?」 優士はスクリーンを指差す。「そんなもん、壊すに決まってるでしょ」 その瞬間。 警報が鳴り響く。 AI中枢が暴走を始める。 赤い光が、制御室を染める。「停止しろ」 レオンが命じる。 だが、応答はない。「無理っす」 優士は言う。「もう止まらない」「何をした」「だから言ったじゃないですか」 振り返る。 その目は、まっすぐだった。「現実、壊すって」 制御システムが、次々と崩壊する。 選別対象だった人間のデータが、解放される。 管理が、消える。 秩序が、消える。 世界が――揺らぐ。「……愚かだ」 レオンは低く言う。「これでは、混乱が広がるだけだ」「それでもいいんですよ」 優士は静かに答える。「選ばれるより、マシでしょ」 その言葉に。 和泉の胸が、大きく揺れる。 レオンは、黙る。 
last updateLast Updated : 2026-03-24
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第12話 灯台の内側

 夜風が、頬を撫でる。 冷たい。 けれど、どこか現実的な温度だった。 崩壊した施設の外。 和泉は、しばらく動けなかった。 呼吸が浅い。 まだ、身体が理解していない。 終わったのか。 それとも、始まったのか。「……大丈夫ですか」 隣で声がする。 優士だ。 いつもの、軽い声。 けれどその奥に、ほんの少しだけ緊張が残っている。「……大丈夫じゃないかもしれない」 正直に言う。 誤魔化す余裕は、もうなかった。 優士は、少しだけ笑った。「ですよね」 あっさりと受け止める。 否定もしないが 励ましもしない。 ただ、そこにいる。 その距離感に、和泉はわずかに息をつく。「……全部、壊れた」 小さく呟く。 Ray of Hope。 レオン。 選別システム。 すべてが、終わった。「壊しましたからね」 優士は肩をすくめる。 悪びれもなく。「……あなた、最初から知ってたの?」「まあ、ある程度は」 あっさりと言う。 和泉は、少しだけ眉を寄せる。「じゃあ、私を利用した?」 問い。 静かな声。 責めるわけではない。 ただ、確かめる。 優士は、少しだけ考える。 そして。「半分は」 正直に答えた。 和泉の胸が、わずかに痛む。 だが。 不思議と、嫌ではなかった。「……残りの半分は?」 優士は、ふっと息を吐く。「気になったからです」 まっすぐに言う。 軽くもなく。 重くもなく。 ただ、事実として。「変な人だなって」「ひどいわね」 少しだけ笑う。 そのやり取りが、妙に自然だった。「普通、あんな状況で“選ばない”なんて言いませんよ」 優士は言う。「だいたいの人は、誰か一人選びます」 合理的に。 感情的に。 どちらにしても。「でも和泉さんは、全部守るって言った」 少しだけ視線を外す。「……あれ、結構無茶ですよ」「知ってる」 即答する。 優士は、少しだけ笑った。「でも」 和泉は空を見上げる。 夜空。 灯台の光が、遠くで回っている。「それでも、そうしたかった」 静かな声。 それが、すべてだった。 優士は、何も言わない。 ただ隣に立つ。 風の音だけが、二人の間を流れる。 しばらくして。「……帰りますか」 優士が言う。「子どもたち、待ってるでしょ」
last updateLast Updated : 2026-03-24
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第13話 触れない距離

 玄関の扉を開けた瞬間、室内の空気がわずかに揺れた。灯りは点いているのに、どこか静かすぎる気配がある。「ただいま」 声を落として言うと、奥から足音がして、先に現れたのは李雨だった。眠そうな顔で、それでもこちらをまっすぐに見上げる。「おかえり、ママ」 少し遅れて、奏音が顔を出す。画面の光を消したばかりなのか、目の奥に残像が揺れている。「……遅かったね」 責める響きはないが、確かめるような声音だった。「ごめんね」 それ以上は言わない。言えないことの方が多い夜だった。 靴を脱ぎ、部屋に上がる。背後で扉が閉まる音がして、現実が静かに定着する。あの場所の崩壊は、ここには届いていない。 優士は一歩引いたところで立ち止まり、室内を見渡した。入ることも、引き返すこともできる位置にいる。「……お邪魔、していいですか」 遠慮がちでもなく、踏み込みすぎてもいない言い方だった。「どうぞ」 短く答えると、李雨がくすっと笑う。「ママの“どうぞ”は、ほんとのどうぞ」 軽口に近い言い方なのに、どこか核心を突く。優士は小さく肩をすくめた。「じゃあ、遠慮なく」 そう言って靴を揃え、静かに中へ入る。動きに無駄がないのに、威圧感は残らない。 リビングの灯りの下で、四人の距離がゆるやかに定まる。誰も急いで話さない。必要以上に近づかないまま、同じ場所にいる。「お腹、すいてる?」 和泉が問うと、奏音は少しだけ迷ってから頷いた。「……少し」 冷蔵庫を開ける。あり合わせの材料で、温かいものを用意する。鍋の中で水が温まり、音が戻ってくる。ささやかな生活の音。 優士は、頼まれもしないのに皿を出し、位置を整えた。手際は良いが、主張はしない。指示もいらない。「手伝います」 そう言って、包丁の位置をずらす。危なくないように、ただそれだけ。 否定もせず、励ましもしないまま、必要な分だけ関わる距離が、妙に落ち着く。 食卓に湯気が上がる。李雨が嬉しそうに箸を手に取り、奏音は少しだけ表情を緩めた。「いただきます」 四人の声が重なる。 味は特別ではない。けれど、身体に染みる温度だった。 食事の合間、李雨がふいに優士を見る。「ねえ、ユウシ」「ん?」「ママのこと、すき?」 あまりにも真っ直ぐな問いで、空気が一瞬だけ止まる。 和泉が制止しようとする前に、優士は箸を置
last updateLast Updated : 2026-03-26
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第14話 見えているもの

 朝の光は、やわらかく差し込んでいた。 カーテンの隙間から入る白い光が、部屋の輪郭をゆっくりと浮かび上がらせる。昨夜の気配が、まだどこかに残っているようだった。 和泉は、キッチンに立っていた。 湯気の立つカップを見つめながら、ぼんやりと考える。 何が変わったのか。 何も変わっていないのか。 答えは出ないまま、時間だけが進んでいく。「ママ」 後ろから声がする。 振り返ると、奏音が立っていた。まだ眠そうな顔をしているが、その目はどこか鋭い。「昨日の人」 短い言葉。 だが意味ははっきりしている。「優士のこと?」「うん」 少し間を置いて、奏音は続ける。「いい人だと思う」 和泉は、わずかに驚く。「そう?」「うん。でも」 そこで言葉を止める。 考えている。 何かを測っている。「……危ない人でもある」 静かな声だった。 子どもの言葉とは思えないほど、確信に近い響きがある。 和泉は何も言わない。 ただ、その言葉を受け止める。「どうしてそう思うの?」「なんとなく」 奏音は視線を逸らす。「空気が、違う」 その一言で、すべてを言い切る。 和泉の胸が、わずかに揺れる。 子どもは、理屈ではなく本質を見る。 善悪ではなく、気配で判断する。 その感覚は、ときに大人よりも正確だ。「でも」 奏音は言う。「ママのこと、ちゃんと見てる」 その言葉に、和泉の指先が止まる。「レオンって人は、見てなかったでしょ」 はっきりとした言い方だった。 否定ではなく、ただの事実として。 和泉は、ゆっくりと息を吐く。 反論はできない。 しない。「……そうかもしれないね」 小さく答える。 その時、リビングから声がした。「ママー、おなかすいたー」 李雨だ。 いつも通りの、明るい声。 その無邪気さに、少しだけ救われる。「はいはい」 和泉は振り返り、朝の準備を続ける。 日常が、戻ってくる。 壊れたはずの世界の上に、当たり前の時間が重なっていく。 それが、少しだけ不思議だった。 朝食を囲む。 いつもと同じようで、少しだけ違う。 見えない何かが、確かに変わっている。 その時。 玄関のチャイムが鳴った。 短く、一度だけ。 和泉の手が止まる。 この時間に来る人間は、限られている。 立ち上がる。 足音を
last updateLast Updated : 2026-03-26
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第15話 触れそうな距離

 昼下がりの光は、やわらかく部屋に満ちていた。 食後の片付けを終え、和泉はキッチンに立っている。背後では、李雨がテレビの音に笑い、奏音はソファでタブレットを操作している。 いつもと変わらない、はずの時間。 ただ一つだけ違うのは、そこに優士がいることだった。「これ、どこに置けばいいですか」 優士が手にしているのは、洗い終えた皿だ。「そこ、上の棚」 振り返らずに答える。 足音が近づく。 すぐ後ろで、気配が止まる。 棚に手を伸ばす、その動作の中で、距離がわずかに縮まる。 触れてはいない。 けれど。 触れそうな距離だった。 ほんの少し息を止める。 気づかれていないはずなのに、意識してしまう。 皿が置かれる、小さな音。「届きました」 それだけ言って、優士は一歩下がる。 距離が戻る。 それなのに。 さっきより近く感じるのは、なぜなのか分からない。「……ありがとう」 遅れて言う。 声が、少しだけやわらかくなる。 優士は気づいたようで、気づかないふりをする。「どういたしまして」 軽い調子で返す。 けれどその視線は、どこか静かに和泉を見ていた。 その時。「ねえ、ユウシ」 李雨が声を上げる。「ん?」「ママと並ぶと、いい感じだね」 あまりにも自然に言う。 和泉の手が止まる。「李雨」 たしなめようとするが、遅い。「夫婦みたい」 続けて言う。 悪気はない。 ただ、見えたままを口にしているだけだ。 沈黙が落ちる。 優士は一瞬だけ目を伏せ、それから軽く笑った。「それは、ちょっと気が早いな」 否定はしない。 けれど、踏み込まない。 その距離の取り方が、妙に心地いい。 和泉は何も言えずに、視線を逸らす。 胸の奥が、少しだけ騒がしい。 困るはずなのに。 嫌ではない。 むしろ――「ママ、顔赤いよ」「……赤くない」 即座に返す。 けれど説得力はない。 優士はそれを見て、少しだけ困ったように笑う。「李雨くん、あんまりいじめないであげて」「いじめてないよ?」 無邪気な顔。 それが一番厄介だ。 奏音が小さくため息をつく。「……ほんと、空気読まないよね」 だが、その目はどこか楽しそうだった。 和泉は、そっと息を吐く。 騒がしいのに、穏やかな時間。 崩れる気配はない。 ただ、少し
last updateLast Updated : 2026-03-26
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第16話 ほどける指先

 午後の光は、少しだけ傾いていた。 窓から差し込む影が長くなり、部屋の中の輪郭をやわらかく変えていく。時間がゆっくりと流れている。 李雨はソファで眠っていた。小さな寝息が、一定のリズムで続いている。 奏音は部屋に戻り、扉の向こうで静かな電子音だけがかすかに聞こえる。 リビングには、和泉と優士の二人だけが残っていた。 言葉は、特にないが沈黙が、重くない。 それが、少し不思議だった。 和泉はテーブルの上を整えながら、視線を落とす。 優士は、その少し離れた場所に立っている。 近づきすぎない。 けれど、離れすぎもしない。 ちょうどいい距離。 それを、無意識に守っているようだった。「……静かだね」 和泉が、ぽつりとこぼす。「ですね」 優士も、小さく返す。 それだけで会話は終わる。 けれど、終わっていないようにも感じる。 和泉は、ふと手を止める。 視界の端に、優士の手が入る。 何かを取ろうとして、同じ場所に伸びた。 重なる。 ほんの一瞬。 指先が、触れる。 驚くほど、あっさりと。 熱も、衝撃もなかった。 ただ、触れたという事実だけが、そこに残る。 和泉はすぐに手を引こうとする。 けれど。 優士は、引かなかった。 掴むわけでもなかった。 押さえるわけでもない。 ただ、そのままにしている。 逃げ道はあるのに、閉じられていない。 選べる余白。 その中で、和泉は一瞬だけ迷う。 離れることもできる。 何事もなかったように戻れる。 それでも。 すぐには動かなかった。 ほんの、数秒。 それだけの時間。 けれど。 それで十分だった。 優士が、静かに手を離す。「……すみません」 軽く言う。 謝っているようで、責めていない。 なかったことにも、していない。「……ううん」 和泉は、小さく首を振る。 鼓動が、少しだけ速い。 理由は分かっているのに、言葉にはしない。 優士は、視線を少しだけ逸らす。 そして、何も続けない。 その沈黙が、やさしい。 触れたことを、意味にしない。 けれど。 消しもしない。 その扱い方が、心地いい。 和泉は、ふと息を吐く。 胸の奥にあった何かが、ほどけていく。 怖さではない。 警戒でもない。 ただ、張っていたものが、少しだけ緩む。「……優士」 
last updateLast Updated : 2026-03-26
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第17話 ほどけていくもの

 夜は、思ったよりも静かに降りていた。 子どもたちは先に眠り、リビングにはやわらかな灯りだけが残っている。時計の針の音が、やけにゆっくりに感じられた。 和泉はソファに腰を下ろし、カップを両手で包んでいる。温もりが、指先からじわりと伝わる。 向かいには、優士がいた。 言葉は少ない。 それでも、沈黙が気まずくなることはない。 何かを埋める必要のない距離だった。「……静かですね」 優士が言う。「うん」 短く返す。 それだけで、十分だった。 窓の外に目を向ける。遠くに見える灯りが、規則的に瞬いている。灯台の光と、どこか似ていた。「こういう時間、嫌いじゃないです」 ぽつりと落ちる声。 独り言のようでいて、ちゃんと届く位置にある。 和泉は、少しだけ視線を動かす。「私も」 自然に出た言葉だった。 作ったものではない。 そのことに、自分で少し驚く。 優士は何も言わない。 ただ、わずかに目を細める。 それだけで、会話は続いていた。 沈黙の中に、違和感はない。 むしろ。 何かが、少しずつほどけていく感覚があった。 張りつめていたものが、ゆるむ。 気づかないふりをしていた感情が、形を持ち始める。 その時。「……怖くないですか」 優士が、静かに言った。 和泉は顔を上げる。「なにが?」「近づくこと」 短い言葉だった。 けれど、その意味は深い。 和泉はすぐには答えない。 カップの中の水面を見つめる。 揺れている。 わずかに。「……怖いよ」 やがて、そう言った。 否定しない。 強がらない。 ただ、事実として置く。 優士は、頷くでもなく、否定するでもなく、その言葉を受け止める。「でも」 和泉は続ける。「それでもいいって思えるときが、ある」 視線を上げる。 優士を見る。 逃げない。 逸らさない。 優士は、ほんの少しだけ息を吐いた。「それなら、十分です」 それ以上は言わない。 踏み込まない。 選ばせない。 その距離が、崩れない。 和泉は思う。 この人は、急がない。 奪わない。 でも、離れない。 だから―― 安心してしまう。 それが一番、危ないのかもしれないのに。 優士が立ち上がる。「そろそろ帰ります」 いつものように言う。 当たり前のように。 和泉は頷く。 
last updateLast Updated : 2026-03-31
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第18話 選ばない男

夜風が、やわらかく頬を撫でていく。建物の外に出た瞬間、少しだけ肩の力が抜けた気がした。空気が違う。それだけで、人はこんなにも楽になるのかと思う。「……送りますよ」隣から、静かな声が落ちる。驚くほど自然で、まるで最初からそう決まっていたみたいな言い方だった。和泉は、一瞬だけ言葉を探して、やめた。断る理由が、見つからなかったから。「……ありがとう」短く返すと、優士はそれ以上何も言わなかった。並んで歩き出す。歩幅が、少しだけ違う。けれど、それを合わせようとする気配もない。ただ、無理のない距離で、隣にいる。それが、心地よかった。会話は、ほとんどなかった。気まずいわけじゃない。言葉がなくても、崩れない空気。むしろ、何かを足してしまう方が、壊してしまいそうで。足音だけが、一定のリズムで続いていく。街灯の下を通るたび、影が少しだけ伸びて、重なる。触れてはいない。でも、離れすぎてもいない。その距離が、なぜか意識に残る。「……ここで大丈夫です」マンションの前で立ち止まる。そう言った瞬間、少しだけ、惜しいと思った。自分でも理由がわからないまま。「そうですか」優士は、あっさりと頷いた。引き止めることも、踏み込むこともない。ただ、それだけ。「……あの」和泉が声をかけると、優士はゆっくりと視線を向ける。夜の光を受けて、その目はやけに静かだった。「……今日、助かりました」言葉にすると、少しだけ現実味が増す。さっきまでの出来事が、遠くならずに済む。優士は、わずかに笑った。「それなら、よかったです」それだけだった。評価も、意味づけもない。ただ、受け取るだけの返し方。「……じゃあ」和泉が視線を外すと、優士は軽く頷いた。それ以上は、何もない。ドアの前まで見送ることも、名前を呼ぶことも。ほんの少し手を伸ばせば届く距離にいながら、その一歩を、越えてこない。——選ばない。その在り方が、こんなにも穏やかだとは思わなかった。オートロックの扉を抜ける。振り返るべきか、迷って。結局、そのまま進んだ。背中に、視線を感じることはなかった。部屋に入ると、灯りが静かに迎える。いつもの空間。何も変わっていないはずなのに、ほんの少しだけ、違って見えた。安心、なのか。それとも——ただ、静かなだけなのか。靴
last updateLast Updated : 2026-04-01
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第19話 灯台の違い

部屋の灯りは、少しだけ落としてある。白すぎる光が苦手で、いつからかこの明るさに落ち着いた。静かだ。さっきまで感じていたざわつきは、薄く伸ばされたみたいに、輪郭をなくしている。完全に消えたわけじゃない。ただ、強く主張してこないだけ。「……ママ」呼ばれて、視線を上げる。廊下の先に、小さな影が立っていた。「まだ起きてたの」そう言いながら、自然と声が柔らかくなる。子どもに向ける声は、いつも少しだけ温度が違う。「うん。ちょっとだけ」そのまま近づいてきて、ソファの端に座る。隣ではない。でも、離れてもいない距離。その位置取りに、ふと既視感を覚えた。——さっきの、あの距離。一瞬だけ、胸が静かに揺れる。「どうしたの」そう聞くと、子どもは少しだけ考えるように視線を落とした。言葉を選んでいるときの仕草。「……ねえ」やがて顔を上げて、まっすぐにこちらを見る。その目は、驚くほど澄んでいた。「ママ、あの人のこと、好きなの?」息が、わずかに止まる。予想していなかったわけじゃない。でも、真正面から問われると、答えは簡単には出てこない。「……どうしてそう思うの」時間を稼ぐように、問い返す。子どもは、少しだけ首をかしげた。「なんか、違うから」短い言葉だった。でも、それ以上の説明は、必要ないような気がした。「前はさ」ぽつり、と続く。「ママ、あの人の話するとき、ちょっと苦しそうだった」“あの人”。名前を出さなくても、わかる。「でも、今日は」少しだけ、間があく。「……息、してた」思わず、目を伏せる。そんなところまで、見えているのかと。「……そっか」それしか言えなかった。言葉を重ねると、何かが崩れてしまいそうで。子どもは、しばらく黙っていた。それから、ゆっくりと口を開く。「でもね」その声は、やけに静かだった。「ママが見てる“灯台”と、あの人がいる場所、ちょっと違う気がする」心臓が、わずかに強く打つ。「……どういう意味?」問いかける声は、思ったよりも落ち着いていた。子どもは、少しだけ考えてから答える。「ママが見てるのは、遠くの光でしょ」ゆっくりと言葉を選びながら。「でも、あの人は……」ほんの少しだけ、言葉を探すように間を置いて。「近くにあるやつ」それは、灯台じゃない。でも、暗いところで
last updateLast Updated : 2026-04-02
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第20話 光を奪う理由

雨の音が、やけに遠く感じる夜だった。 窓を叩く水滴は確かにそこにあるのに、音だけが薄く、現実から切り離されたみたいに響いている。 レオンは、グラスに触れたまま、しばらく動かなかった。 中の液体は、ほとんど減っていない。 飲むために用意したはずなのに、その行為自体に意味を見出せなくなっていた。 「……くだらないな」 誰に向けるでもない言葉が、低く落ちる。 その直後、ほんの一瞬だけ、視線が揺れた。 ——息をしていた。 思い出したのは、それだった。 和泉の顔でも、言葉でもない。 ただ、そこにあった“状態”。 あれは—— 「……弱い」 吐き捨てるように言う。 そうでなければ、説明がつかない。 人は、あんなふうに緩むべきではない。 隙を見せるべきでもない。 守れなくなる。 簡単に、奪われる。 そうやって—— 消える。 グラスの中の液体が、わずかに揺れた。 その揺れに合わせるように、記憶が引き上げられる。 古い、匂いの薄い時間。 雨の夜だった。 窓の外は暗く、光はほとんど届かない。 部屋の中も、同じだった。 灯りはついていたはずなのに、温度がない。 声も、なかった。 ただ—— 気配だけが、あった。 「……大丈夫だよ」 あのとき、誰かがそう言った。 優しい声だった。 信じてしまいそうになるくらいに。 でも。 その人は、消えた。 理由は、知らない。 説明も、なかった。 ただ、いなくなった。 その事実だけが、残った。 ——与えられる光は、消える。 それが、最初の理解だった。 だから。 奪うことにした。 奪えば、なくならない。 自分の手の中に置けば、消えない。 そう思った。 それが、正しいと。 ずっと、そうやってきた。 必要なものは、すべて。 手に入れてきた。 手放したことは、ない。 それなのに—— 「……なぜだ」 和泉の顔が、浮かぶ。 正確には、表情ではない。 あの、わずかな緩み。 息をしている、あの感覚。 「……あんなもの」 理解できない。 理解したくもない。 あれは、危険だ。 ああいう状態の人間は、壊れる。 守れない。
last updateLast Updated : 2026-04-02
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