Semua Bab ROH-Ray of hopeー白狐・和泉の恋愛草子100年の時を超えてー: Bab 21 - Bab 30

111 Bab

第21話 揺らぎの中で

鏡の中の自分が、少しだけ遠く見えた。 見慣れているはずの輪郭なのに、どこか、焦点が合っていない。 和泉は、しばらくそのまま立ち尽くしていた。 何を考えているのか、自分でもわかっている。 わかっているのに、言葉にした瞬間、壊れてしまいそうで。 息を、ゆっくり吐く。 整えようとすればするほど、内側は静かに揺れる。 ——遠くの光。 ——近くの光。 どちらも、否定できなかった。 窓の外は、夜のままだ。 街の灯りは変わらず、一定の距離を保って瞬いている。 手を伸ばしても届かない場所にある、あの光。 それでも、目を離せない。 ずっと、そうだった。 一方で。 足元は、暗くない。 見えている。 ちゃんと、自分の輪郭がわかる程度には。 「……変だな」 小さく呟く。 どちらかを選べば、もっと楽になるはずなのに。 迷いは消える。 形も、はっきりする。 それなのに—— 選びたくない、と思っている自分がいる。 どちらも、嘘じゃないから。 洗面台に手をつく。 冷たい感触が、少しだけ現実を引き戻す。 「ママ」 背後から、声がする。 振り返ると、小さな影が扉のところに立っていた。 「どうしたの」 自然と、声がやわらぐ。 「……なんか、静かすぎて」 その言い方に、わずかに笑いそうになる。 静かなのは、悪いことじゃないはずなのに。 「大丈夫だよ」 そう答えると、子どもは少しだけ首をかしげた。 「ほんとに?」 問い返されて、言葉が一瞬止まる。 嘘ではない。 でも、完全な本当でもない。 「……うん」 それでも、頷く。 それしか、できなかった。 子どもは、しばらくこちらを見ていた。 何かを見透かすような目で。 それから、小さく息をついて。 「そっか」 それ以上は聞かなかった。 聞かない優しさ。 踏み込まない距離。 その在り方に、ふと重なるものを感じる。 ——選ばない。 胸の奥が、わずかに揺れる。 「もう寝なさい」 やわらかく言うと、子どもは素直に頷いた。 足音が、廊下の向こうに遠ざかっていく。 再び、一人になる。 鏡の中の自分は、まだそこにいる。 変わっていないはずなのに、同じには見えない。 「……選べない、か」 声に出してみる。 その響きは、思ったよりも静かだった。 逃げてい
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第22話 届く想い

夜の空気は、少しだけ湿っていた。 雨上がりの匂いが、まだ残っている。 和泉は、マンションの前で立ち止まる。 ここで別れるはずだった。 いつも通りに。 「……今日は、ここまでで」 そう言いかけたとき。 「和泉さん」 先に、名前を呼ばれた。 その声は、いつもよりほんの少しだけ低かった。 振り返る。 優士は、いつもと同じ距離に立っている。 近すぎず、遠すぎない位置。 でも—— 何かが、違った。 「……ひとつだけ、いいですか」 問いかけという形をとっているのに、逃げ道を塞ぐような響き。 それでも、強くはない。 あくまで、選ばせる温度。 「……なに?」 視線を合わせたまま、答える。 逃げなかったのは、自分の方だった。 優士は、少しだけ間を置いた。 言葉を選んでいるようでいて、もう決まっている沈黙。 「無理、してませんか」 一瞬、意味がわからなかった。 問いの形が、想定と違っていたから。 「……無理?」 繰り返すと、優士は小さく頷く。 「誰かに合わせてるときの顔、してるから」 その言い方は、やわらかい。 責めるでもなく、断定するでもない。 ただ、見えていることを、そのまま置いてくる。 逃げ場は、ある。 でも—— 逃げたくなくなる。 「……そんな顔、してた?」 問い返す声は、少しだけ静かだった。 優士は、ほんのわずかに目を細める。 「はい」 短く、肯定する。 それ以上は、重ねない。 説明もしない。 ただ、それだけ。 その在り方が、逆に逃げられなくする。 「……別に」 否定しようとして、言葉が続かなかった。 完全に違うとは、言えない。 「……そうかもしれない」 結局、そう落ちる。 優士は、それを受け取るように、静かに頷いた。 「でも」 そこで、ほんの少しだけ、声の温度が変わる。 低くなる。 踏み込む、手前の音。 「それ、和泉さんのやり方じゃないですよね」 心臓が、わずかに強く打つ。 図星、というより。 見られている、という感覚。 「……どうして、そう思うの」 問い返す。 少しだけ、防御の混じった声。 優士は、少しだけ視線を外した。 それから、また戻す。 「息が、浅くなるから」 その言葉に、何も返せなかった。 ——息。 第19話の記憶が、静かに重なる
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第23話 遠くの光

空気が、少しだけ重い。理由はわからない。でも、わかってしまうような気もする。和泉は、足を止めた。オフィスの廊下は、いつもと変わらないはずだった。照明の色も、温度も、音のなさも。それなのに。一歩踏み出すごとに、足音だけがやけに響く。「……誰か、いる?」小さく呟く。返事はない。当たり前だと思いながら、それでも、どこかで“いる”と感じている。その感覚が、消えない。背中に、視線のようなものが触れる。振り返る前に、わかってしまった。「——遅いな」声が、落ちる。低く、抑えられているのに、逃げ場がない響き。和泉は、ゆっくりと振り返る。そこに立っていたのは、変わらない姿だった。整ったスーツ。無駄のない立ち方。夜の中で、ひとりだけ輪郭がはっきりしている。「……レオン」名前を口にした瞬間、胸の奥がわずかに沈む。懐かしさじゃない。安心でもない。もっと、別の感覚。「久しぶり、か」レオンは、わずかに視線を傾けた。問いかけの形をしているのに、答えを必要としていない。「……どうして、ここに」そう聞く声は、思ったよりも静かだった。逃げようとしていない自分に、少しだけ驚く。レオンは、ゆっくりと一歩だけ近づく。距離は、まだある。触れられる位置ではない。それなのに。空気が、一瞬で変わる。「呼ばれたからだ」簡単に言う。説明になっていないのに、それ以上聞く気を削がれる。「……呼んでない」和泉は、小さく返す。その言葉に、レオンはわずかに目を細めた。「そうか」否定しない。肯定もしない。ただ、そのまま受け取る。その在り方に、違和感が走る。前は、こんなふうではなかった。もっと——直接的だったはずなのに。「顔色が悪いな」不意に言われる。その声は、やけに近く感じた。「……普通」即座に返す。距離を取るように。でも。「嘘だ」かぶせるように、低く落ちる。その一言だけで、逃げ場がなくなる。心臓が、わずかに強く打つ。怖いわけじゃない。でも、安定していた呼吸が、少しだけ乱れる。——浅くなる。気づいてしまう。優士の言葉が、重なる。「……関係ないでしょ」視線を逸らさずに言う。前よりも、引かない。その変化に、自分でも気づいている。レオンは、ほんのわずかに口元を緩めた。笑っているわけではない
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第24話 重なる温度

朝の空気は、夜よりも軽いはずなのに。胸の奥だけが、少し重い。和泉は、ゆっくりと息を吐いた。整えようとしているのに、どこかで乱れている。原因は、わかっている。わかっているのに、言葉にすると輪郭がはっきりしてしまいそうで、触れずにいた。「……おはようございます」背後から、声が落ちる。振り返ると、優士が立っていた。いつもと同じ距離。変わらないはずの立ち方。それなのに——少しだけ、近く感じる。「……おはよう」自然と、声がやわらぐ。その変化に、自分で気づいて、わずかに視線を逸らした。優士は、それを追わない。ただ、そこにいる。「昨日、ちゃんと眠れましたか」静かな問い。踏み込みすぎない形で、確かめてくる。「……うん」短く答える。嘘ではない。でも、完全でもない。優士は、それ以上深く聞かない。その代わり。「無理は、しないでください」そう、続ける。同じ言葉なのに、昨日より少しだけ重い。意味が増えている。和泉は、ほんの一瞬だけ息を止めた。「……優士さんって」言いかけて、言葉を探す。何を言おうとしたのか、自分でも曖昧なまま。優士は、待つ。急かさない。その沈黙が、言葉を引き出す。「……ずるいよね」ぽつりと、落とす。昨日と同じ言葉。でも、少しだけ違う意味。優士は、わずかに目を細めた。「そうかもしれません」否定しない。そのまま受け取る。その在り方が、また胸を揺らす。「……でも」優士が続ける。ほんの少しだけ、声が低くなる。「逃げ場にするつもりはないです」その一言で、空気が変わる。やわらかさの中に、芯が通る。「……え」思わず、顔を上げる。優士は、視線を逸らさない。「楽な方を選んでほしいわけじゃないので」静かに言う。強くはない。でも、揺るがない。「ちゃんと選んでください」逃がさない言葉。それなのに——押しつけではない。選ぶのは、あくまで和泉だと、わかる形。胸の奥が、強く揺れる。安心だけじゃない。覚悟を、求められている。そのとき。「——なるほど」もうひとつの声が、割り込む。空気が、一瞬で変わる。和泉の呼吸が、わずかに止まる。振り返らなくても、わかる。「……レオン」名前が、自然に落ちる。さっきまでの温度が、わずかに引いていく。レオンは、少し離れた位置に
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25話 ほどけていく

部屋は、静かだった。静かすぎるくらいに。さっきまであったはずの空気の余韻が、きれいに消えている。誰もいない。何も起きていない。それなのに。「……つかれた」小さく呟いた声が、自分でも思ったより軽かった。重くない。むしろ、少しだけ浮いている。ソファに腰を下ろす。身体を預けると、力が抜けるはずなのに、どこか落ち着かない。足元は、見えている。ちゃんと、立っていられる。それでも。「……なんで」視線を落とす。答えは、わかっている。わかっているのに、整理がつかない。優士の言葉が、残っている。——ちゃんと選んでください。レオンの声も、重なる。——選ばせてみろ。同じような言葉なのに、意味が違う。温度が違う。それが、わかってしまう。「……ずるい」誰に向けたのか、もうわからない。ただ、その言葉だけが残る。目を閉じる。浮かぶのは、顔じゃない。感覚だった。触れていない距離。言葉の置き方。踏み込まないのに、逃がさない在り方。——優士。名前を思い浮かべただけで、呼吸が少し深くなる。その変化に、気づいてしまう。「……なに、それ」小さく笑う。笑っているのに、どこか力が抜けている。こんなふうになるとは思っていなかった。安心、というより。“戻れる場所”みたいな感覚。それが、怖い。依存に近い形に、変わってしまいそうで。「……違う」すぐに否定する。そうじゃない。そうしたくない。でも。完全に違うとも言い切れない。目を開ける。天井が、やけに遠く見える。——レオン。今度は、もうひとつの名前。胸の奥が、少しだけ強くなる。安心ではない。でも、無視できない。引き寄せられる感覚。「……最悪」吐き出す。正反対のものに、同時に引かれている。そんな状態が、正常なはずがない。それでも。どちらも、本物だった。ソファから身体を起こす。じっとしていると、沈んでいきそうで。窓の方へ歩く。外は、いつも通りの夜だった。光は、変わらない。遠くで、静かに瞬いている。手は届かない。でも。消えない。そのことが、少しだけ救いになる。ガラスに、指先が触れる。ひんやりとした温度。現実の輪郭を、確かめるみたいに。「……選べない」声に出す。逃げているわけじゃない。決めたくないわけでもない。ただ
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第26話 1歩引く

空気が、少しだけ遠い。同じ場所にいるはずなのに、昨日までと、温度が違う。和泉は、ふと足を止めた。違和感、というほど強くはない。でも。確実に、何かが変わっている。「……おはようございます」声をかける。いつも通りの距離に、優士はいた。変わらない立ち方。変わらない表情。それなのに。「おはようございます」返ってきた声は、静かだった。いつも通りのはずなのに、どこかだけ、触れない。一歩、引かれている。その感覚だけが、はっきりと残る。「……今日、少し早いんだね」何気ない言葉を選ぶ。確かめるように。優士は、小さく頷いた。「少しだけ」それ以上、続かない。会話が、伸びない。沈黙が落ちる。重くはない。でも——近くない。「……優士さん」名前を呼ぶ。理由はない。ただ、この距離をそのままにしておきたくなかった。優士は、ゆっくりと視線を向ける。逃げてはいない。でも、踏み込んでもこない。「……何かあった?」問いかける。その言葉は、思ったよりもまっすぐだった。優士は、ほんの少しだけ間を置く。考えているというより、選んでいる沈黙。「……いいえ」短く、答える。否定。でも、終わりではない。「ただ」そこで、一度言葉が止まる。ほんのわずかな呼吸。「少し、距離を取ろうと思って」その一言で、時間が止まる。意味は、すぐに理解できた。できてしまった。「……どうして」問い返す声は、静かだった。責めてはいない。でも、揺れている。優士は、視線を逸らさない。その在り方だけは、変わらない。「和泉さんが、選べなくなると思ったので」まっすぐな理由。逃げも、濁しもない。そのまま、置いてくる。「……」言葉が出ない。それが、正しいとわかってしまうから。「俺が近くにいると、楽な方に流れるかもしれない」優士は、続ける。声は、変わらず穏やかだった。「それは、違うと思うので」否定ではない。導くでもない。ただ、守ろうとしている。和泉の“選択”を。「……ずるい」また、その言葉が出る。今度は、少しだけ違う意味で。優士は、わずかに困ったように笑った。「そうかもしれません」やっぱり、否定しない。「でも」ほんの少しだけ、声が低くなる。踏み込まないまま、芯だけを置く。「いなくなるつもりはないで
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第27話 奪う手

夜は、少しだけ冷えていた。 昼間の空気が嘘みたいに、静かに温度を落としている。 和泉は、ゆっくりと歩いていた。 急ぐ理由はない。 でも。 どこか、落ち着かない。 ——距離を取る。 優士の言葉が、まだ残っている。 理解はしている。 納得も、している。 それなのに。 胸の奥に、空白みたいなものができている。 「……変だな」 小さく呟く。 一人の時間が、こんなに長く感じるのは久しぶりだった。 足音が、やけに響く。 自分のものだけなのに、誰かに追われているみたいに。 そのとき。 「——帰りか」 声が、落ちる。 低く、迷いのない音。 足が、止まる。 振り返る前に、わかる。 「……レオン」 名前が、静かに出る。 レオンは、少し離れた場所に立っていた。 街灯の下。 影と光の境界に、はっきりと立っている。 「こんな時間に一人で歩くとは、随分不用心だな」 軽く言う。 責めるでもなく、ただ事実を置くように。 「……関係ないでしょ」 和泉は、短く返す。 距離を保ったまま。 レオンは、わずかに視線を細めた。 それだけで、空気が変わる。 「関係ない、か」 繰り返す声は、やけに静かだった。 そのまま、一歩近づく。 距離が、縮まる。 逃げるほどではない。 でも、止まるには十分な距離。 「……今日は、来ないのか」 不意に言われる。 意味が、すぐにはわからない。 「……何が」 問い返すと、レオンはわずかに口元を動かした。 笑っているわけではない。 ただ、知っている顔。 「そばにいる男だ」 その一言で、胸がわずかに揺れる。 優士の存在が、名前もなく触れられる。 「……関係ないでしょ」 同じ言葉を、もう一度。 今度は、少しだけ強く。 レオンは、それを否定しない。 ただ。 「そうだな」 あっさりと受け取る。 その反応が、逆に怖い。 「だから」 続けて、言葉が落ちる。 低く、迷いなく。 「今は、俺の時間だ」 その瞬間。 空気が、一気に近づく。 距離が、詰まる。 気づいたときには、もう遅い。 手首に、触れられる。 強くはない。 でも。
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第28話 会いたくなる

落ち着かない夜だった。部屋にいるのに、どこにもいないみたいな感覚。静かなはずの空間が、やけに騒がしい。——奪う。レオンの言葉が、まだ残っている。強くはないはずなのに。消えない。それよりも。もっと、はっきり残っているものがある。「……いなくなるつもりはないです」優士の声。あの時の、温度。距離を取ると言ったのに。消えないと、言った。「……ずるい」また、小さく呟く。あの人は、いつもそうだ。必要なことだけを残していく。足りないまま。考えるのをやめようとしても、戻ってくる。なら。「……行けばいいだけか」答えは、単純だった。立ち上がる。迷う時間は、もういらない。理由なんて、後でいい。今は——会いたい。それだけで、十分だった。夜のオフィスは、静かだった。灯りは落ちている場所が多い。足音が、やけに響く。こんな時間に来るのは、初めてじゃないのに。今日は、少し違う。自分で来たから。誰かに呼ばれたわけじゃない。ただ、自分の意思で。そのことが、少しだけ怖い。——いる。奥の方に、光が残っている。わかる。あの人だ。足が、少しだけ遅くなる。逃げたいわけじゃない。でも。踏み込む一歩が、重い。それでも。止まらない。ドアの前で、ほんの一瞬だけ立ち止まる。深呼吸。整わないまま。それでも、手をかける。静かに開く。「……こんな時間に、どうしたんですか」先に気づいたのは、優士だった。振り返る。驚きはある。でも、それだけ。責める色は、ない。和泉は、言葉を探す。用事なんて、ない。理由も、曖昧なまま。それでも。「……顔、見に来た」出た言葉は、思ったよりもまっすぐだった。優士は、ほんの少しだけ目を細める。その反応が、静かに刺さる。「そうですか」それ以上、何も言わない。否定もしない。受け入れもしない。ただ、そこに置く。それが、逆に距離を感じさせる。「……迷惑だった?」問いかける。少しだけ、弱く。優士は、首を振った。「いいえ」短い答え。でも。「ただ」続ける。やっぱり、ここで止まらない。「来ない方がいいと思っていました」その一言で、足が止まる。意味は、わかる。ちゃんと、わかってしまう。「……なんで」問い返す。わかっているのに、聞く。優士は、視線
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第29話 選ばせる気はない

空気が、張り詰めていた。さっきまでの静けさとは違う。わずかに揺れている。それなのに。壊れない。そんな、危うい均衡。「……選べないよ、まだ」和泉の言葉が、まだ残っている。優士は、何も返さなかった。返せなかった。その代わりに。距離を、保ったまま立っている。近づかない。触れない。でも。離れない。それが、今の限界だった。——足りない。その言葉が、胸の奥に残る。嬉しいのか。苦しいのか。自分でも、わからない。ただ。動けば、壊れる。そんな予感だけがある。そのとき。「……なるほどな」低い声が、割り込む。空気が、変わる。振り返る前に、わかる。「レオン……」和泉の声が、わずかに揺れる。レオンは、ドアにもたれるように立っていた。いつからいたのか。気配が、なかった。「いい場面だ」淡々と、言う。感情は、見えない。でも。明らかに、観ていた側の言葉。「盗み聞き?」和泉が、短く返す。少しだけ、強い。レオンは、肩をすくめた。「聞くつもりはなかった」否定はしない。ただ、それだけ。「だが——」視線が、二人をなぞる。逃さない。「聞く価値はあった」その一言で、空気が冷える。優士は、何も言わない。ただ、レオンを見る。正面から。逃げない。「……で?」和泉が、先に言う。間を渡さないように。レオンは、ゆっくりと歩み寄る。音がしない。それなのに。距離だけが、確実に縮まる。「結論は出ていないらしいな」短く言う。確認でもなく。事実として。「……だから何」和泉は、視線を逸らさない。今度は、揺れない。レオンは、わずかに口元を動かした。笑ってはいない。ただ。「都合がいい」その一言が、落ちる。優士の視線が、ほんのわずかに鋭くなる。それを、レオンは気にしない。「選ばせる必要がない」続ける。空気が、一気に張る。「……何言ってるの」和泉の声が、低くなる。レオンは、答えない。代わりに。一歩、踏み込む。距離が、近すぎる位置まで来る。逃げ場が、消える。「決まっているだろう」その声は、静かだった。でも。強い。「俺が奪う」再び、その言葉。今度は、もっと近くで。「……ふざけないで」和泉は、即座に返す。怒りが、はっきりと乗る。でも。レオンは動じない。「
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第30話 踏み込ませない

残っている。さっきの空気が、まだ消えない。人の気配はもうないはずなのに、視界の端にあの距離が焼き付いたまま離れず、音のない場所ほど思考だけがはっきりと響く。——選べない。あの言葉は、想定していたはずだった。そうなるだろうと、わかっていた。だから、距離を取った。近づけば楽になるのは自分の方で、選ばせる前に奪ってしまうこともできると、冷静に計算できるくらいには余裕があった。それでも、そうしなかった。そうしないと決めた。なのに。来た。自分から。「……困るに決まってるだろ」誰に聞かせるでもなく、低く落とす。あの距離で、あの視線で、あの言葉を向けられて、平気でいられるほど完成された人間じゃない。——足りない。その一言が、思っていたより深く刺さっている。嬉しいと感じたのは一瞬で、そのあとに来たのは、踏み込めば壊すという確信だった。手を握る。指先に、わずかに力が入る。触れなかった距離が、何度も頭の中で再現される。あのまま一歩踏み込めば、全部変えられた。引き寄せてしまえば、それで終わった。迷う余地なんて、本当はなかった。「……でも、それじゃダメだ」はっきりと口にする。誰に言うでもなく、自分にだけ向けて。それをやった瞬間、自分は“選ばれる側”ではなくなる。レオンと同じになる。奪う側に立つ。それは違う。そういう形で残る関係は、いずれ歪む。——選ばせる。それだけが、守れるラインだった。「……ほんと、ずるいのはどっちだよ」苦く笑う。来たのは向こうで、揺らしたのも向こうで、それでも決めるのは自分じゃないという構図が、やけに理不尽に感じる。それでも。それでもいいと思ってしまった時点で、もう引き返せない。窓の外に視線を向ける。夜の光は一定で、どこも変わらない。ここだけが、少しずれているみたいに感じる。「……待つしかないか」簡単な言葉に落とす。選択肢は、それしかない。一番きつい形だと、わかっている。触れられる距離で触れないまま、選ばれるのを待つ。そんな都合のいい話はない。でも。「……それでいい」小さく息を吐く。納得ではない。ただの選択。それでも、自分で選んだという事実だけが、かろうじて支えになる。残っている感覚は消えない。それでも、消さないまま進むしかない。
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