All Chapters of ROH-Ray of hopeー白狐・和泉の恋愛草子100年の時を超えてー: Chapter 41 - Chapter 50

109 Chapters

第40話 星空の下で

館内は、ほとんど暗かった。足元のわずかな光と、頭上に広がる星だけが、空間を保っている。「……すごいね」和泉が、小さく言う。声が、自然と抑えられる。この場所に合わせるみたいに。優士は、隣で静かに頷く。「思っていたより、近いですね」星のことを言っているのか。距離のことを言っているのか。わからない。でも。どちらでもいいと思えた。二人は並んで座る。肩が、軽く触れる位置。離そうと思えば、離せる。でも。離さない。星が、ゆっくりと流れる。時間が、ゆるやかに動く。会話は、ほとんどない。でも。不思議と、満たされている。「……眠くなりそう」和泉が、小さく笑う。力が抜けている声。優士は、横目で見る。「無理してませんか」また、その言葉。和泉は、首を横に振る。「してない」即答する。それから。少しだけ視線を落とす。「……むしろ、落ち着く」ぽつりと落とす。その言葉に、嘘はない。優士は、何も言わない。ただ、少しだけ肩を寄せる。今度は。はっきりと。和泉は、一瞬だけ驚く。でも。そのまま、受け入れる。逃げない。その距離が、当たり前みたいに感じる。「……優士さん」名前を呼ぶ。小さく。優士は、すぐに応じる。「はい」その声が、近い。距離じゃなく。感覚として。和泉は、少しだけ迷う。でも。そのまま、顔を上げる。優士を見る。暗闇の中で、輪郭だけがわかる。目が、合う。逃げられない距離。「……なんかさ」言葉が、少しだけ途切れる。優士は、待つ。急かさない。「……こういうの、ずるいよね」小さく言う。優士は、わずかに息を吐く。「そうですね」否定しない。そのまま。少しだけ、顔を近づける。ほんのわずか。でも。確実に。和泉の呼吸が、止まる。距離が、消える。あと少しで。触れる。——キスできる距離。「……」言葉が、出ない。頭の中が、静かになる。ただ、目の前の存在だけが、はっきりする。優士も、動かない。止まらない。でも。急がない。そのまま。時間だけが、伸びる。「……いいんですか」優士が、低く言う。確認。最後の線。和泉は、答えられない。でも。目を逸らさない。そのまま。ほんの少しだけ。顔を近づける。無意識に。その瞬間。優士の手が、動く。
last updateLast Updated : 2026-04-13
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第41話 湯気の向こうで

目が覚めたのは、静かな違和感だった。 ——プラネタリウムの帰り道。 優士が、ふと口にした言葉が、なぜか残っている。 「お子さんだけで行くスイミング合宿、ありましたよね」 あのとき。 何を言われるか、わかっていたのに。 拒まなかった。 「二人で一泊だけ、温泉に行きませんか」 その声を、思い出す。 隣にあるはずの気配が、ない。 和泉は、ゆっくりと身体を起こす。 時計を見る。 深夜。 外は、完全に夜の色だった。 「……優士さん?」 小さく呼んでみる。 返事はない。 少しだけ迷って、それから息を吐く。 「……お風呂、かな」 そう思っただけ。 深い意味はない。 でも。 なんとなく、気になった。 そのまま部屋を出る。 廊下は静かで、人の気配も少ない。 こんな時間だから、当たり前だけど。 浴場の前で、一瞬だけ立ち止まる。 「……いる、かな」 自分でもわからないまま、扉に手をかける。 軽く開ける。 湯気が、ふわっと流れてくる。 一歩、中に入る。 その瞬間。 「——っ」 視線が、合う。 湯気の向こう。 はっきりとは見えない。 でも。 輪郭だけで、わかる。 「……優士さん」 名前が、自然に出る。 優士も、わずかに動く。 一瞬だけ、間が空く。 それから。 「……すみません」 低く言う。 すぐに、視線を外す。 完全に。 でも。 気配は、近い。 「……ここ、混浴……?」 和泉が、小さく呟く。 状況を整理するみたいに。 優士は、少しだけ息を吐く。 「そのようです」 短く答える。 それだけ。 説明はしない。 できない。 和泉は、立ち尽くす。 今さら引き返すのも、変な気がする。 でも。 このままいるのも、落ち着かない。 「……ごめん、知らなくて」 とりあえず、そう言う。 優士は、首を横に振る。 「いえ」 短い返答。 それ以上は、続かない。 沈黙が落ちる。 湯の音だけが、かすかに響く。 距離は、近い。 でも。 見えない。 湯気が、ちょうどいい壁になっている。 それでも。 気配だけは、はっきりと伝わる。 「……その
last updateLast Updated : 2026-04-13
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第42話 恋の予感

目が覚めた瞬間、少しだけ息が止まった。——思い出す。湯気の中。見えない距離。近づきかけて、止まった気配。「……」布団の中で、小さく目を閉じる。消えない。昨日の感覚が、そのまま残っている。「……やば」小さく呟く。何が、とは言わない。言えない。そのまま、ゆっくりと起き上がる。隣を見る。優士は、もういなかった。少しだけ、安心して。少しだけ、残念に思う。その感情に、自分で驚く。「……なにそれ」小さく笑う。自分に向けて。身支度を整えて、部屋を出る。廊下の空気は、昨日よりも少し軽い。朝の光が、柔らかい。食事処に向かう途中。見慣れた背中が、目に入る。「……優士さん」呼ぶ。いつもより、少しだけ小さく。優士が振り返る。ほんの一瞬だけ、間が空く。それから。「……おはようございます」いつも通りの声。でも。ほんの少しだけ、低い。「……おはよう」和泉も返す。それだけで、少しだけ空気がぎこちなくなる。沈黙。でも。逃げるほどじゃない。優士は、先に歩き出す。和泉も、並ぶ。距離は、昨日と同じくらい。でも。少しだけ、意識する。「……眠れましたか」優士が、先に口を開く。無難な話題。でも、それがちょうどいい。「……まあまあ」曖昧に答える。本当は、あまり眠れていない。でも、それは言わない。優士も、深くは聞かない。「そうですか」それだけ。会話が、続かない。でも。それでいいと思える。食事処に入る。席に座る。向かい合う距離。昨日とは、違う緊張。「……あのさ」和泉が、先に言う。優士が顔を上げる。「はい」短く応じる。和泉は、少しだけ迷う。言うか、言わないか。でも。「……昨日のこと」そこまで出して、止まる。優士は、視線を逸らさない。逃げない。でも、急かさない。「……ごめん」小さく言う。理由もつけずに。優士は、ほんの少しだけ眉を動かす。「謝ることではありません」すぐに返す。迷いなく。「……でも」和泉が、続ける。「変だったよね」困ったように笑う。優士は、少しだけ間を置く。それから。「……そうですね」正直に言う。でも。すぐに続ける。「ただ」そこで一度言葉を切る。「嫌ではありませんでした」静かに言う。その一言で、空気が止まる。
last updateLast Updated : 2026-04-14
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第43話 共にいよう

チェックアウトを終えて、外に出る。朝の光は、昨日よりも少しだけ強い。でも、刺さる感じはない。やわらかいまま、包むように落ちてくる。「……あっという間だね」和泉が、ぽつりと呟く。誰に向けたわけでもない。でも、優士はすぐに反応する。「そうですね」短く返す。その声に、いつも通りの落ち着きが戻っている。でも。どこかだけ、違う。二人は並んで歩く。温泉街の石畳を、ゆっくりと。観光客の声が、遠くに聞こえる。日常に戻る途中みたいな空気。「……帰ったらさ」和泉が、ふと口を開く。優士は、視線を向ける。「はい」「……また、会うよね」少しだけ照れながら。でも、ちゃんと聞く。優士は、一瞬だけ目を細める。それから。「会います」迷いなく答える。それだけ。でも。その言い方に、揺らぎがない。和泉は、少しだけ笑う。「……よかった」小さく言う。そのまま。ほんの少しだけ、距離が近づく。無意識に。歩幅が、合う。前までは、どちらかが合わせていた。でも今は。自然に揃う。そのことに、気づく。「……優士さん」名前を呼ぶ。いつもより、少しだけ近い声。優士は、すぐに応じる。「はい」和泉は、少しだけ迷う。でも。今回は、止まらない。「……私ね」言葉を選ぶ。慎重に。でも、逃げない。「ちゃんと、選ぶ」昨日言ったことを、もう一度。今度は、少しだけ強く。優士の足が、ほんの一瞬だけ止まる。でも、すぐにまた歩き出す。「はい」それだけ。でも。受け取っているのがわかる。「……時間、かかるかもしれない」続ける。正直に。優士は、頷く。「構いません」即答。迷いなく。和泉は、少しだけ笑う。「……だよね」そのまま。少しだけ視線を落とす。繋いでいない手を見る。昨日、触れた。今は、触れていない。でも。距離は、遠くない。「……でもさ」ふと、言葉が続く。優士が、待つ。「……もう、離れないでね」小さく言う。少しだけ、冗談みたいに。でも。本音。優士は、一瞬だけ息を止める。それから。「……はい」低く答える。その声が、少しだけ変わる。抑えていたものが、わずかに滲む。その瞬間。和泉の手が、動く。今度は。迷わず。優士の手に触れる。そのまま。軽く、握る。初めて。自分から
last updateLast Updated : 2026-04-14
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第44話 抑えきれない欲望

静かだった。いつもと同じ部屋。同じ時間。同じはずの空間。それなのに、どこかだけ落ち着かない。優士は、ゆっくりとネクタイを緩める。ソファに腰を下ろす。そのまま、しばらく動かない。——思い出す。湯気の中。見えない距離。声だけが、近かった。「……」小さく息を吐く。それだけで、何かが抜けるわけじゃない。むしろ、鮮明になる。「見ていません」あのとき、そう言った。嘘ではない。本当に、見ていない。でも。「……」視界に入らなかっただけで、意識はしていた。気配。距離。温度。全部。はっきりと。手を見る。何も触れていないはずなのに。残っている気がする。——触れられたら。一瞬、浮かぶ。すぐに消す。「……違う」小さく言う。あれは、そういう時間じゃない。そうしてはいけない距離だった。自分で決めたこと。それを崩すわけにはいかない。それでも。「……近かったな」ぽつりと落とす。抑えていたものが、少しだけ滲む。あの距離で。何もしないままでいられたのは、正直、ぎりぎりだった。「……危ないな」苦く笑う。余裕があるつもりだった。線は引けていると思っていた。でも。違った。あの瞬間、少しでも踏み込んでいたら。「……」そこから先は、考えない。考えれば、理由が崩れる。自分が守っているものが、曖昧になる。ゆっくりと、背もたれに身体を預ける。目を閉じる。浮かぶのは、同じ顔。同じ声。「……優士さん」あの呼び方。少しだけ近い距離。何度も頭の中で繰り返される。「……ずるいのは、そっちだろ」小さく呟く。聞こえるはずもないのに。和泉は、何もしていない。ただ、そこにいただけ。それだけで。十分だった。「……」しばらくして、目を開ける。部屋は、変わらない。何も起きていない。でも。確実に、変わっている。自分の中が。「……離れない、か」ふと、口に出る。自分で言った言葉。あの約束。軽いものじゃない。言った以上、守る。どんな形でも。それが、今の自分の役割。「……困るな」少しだけ笑う。本音と、理性がずれる。それでも。どちらも、捨てない。テーブルの上に置いたスマホに視線を落とす。連絡は、ない。当然だ。何も決めていない関係。でも。「……また、会う」小さく
last updateLast Updated : 2026-04-15
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第45話 再会の温度

「……久しぶり、だね」和泉が、少しだけ笑って言う。実際は、そこまで時間は経っていない。でも。体感は、もっと長い。優士は、軽く頷く。「そうですね」それだけ。でも。視線が、少しだけ深い。お互いに、同じことを思い出しているのがわかる。あの夜。あの距離。触れなかった温度。「……元気だった?」和泉が、なんでもないように聞く。優士は、少しだけ考える。それから。「普通です」短く答える。和泉は、少しだけ笑う。「なにそれ」優士も、わずかに口元を緩める。「和泉さんは」同じように返す。和泉は、少しだけ視線を逸らす。「……まあ、普通」同じ答え。でも。どこかだけ、違う。沈黙が落ちる。でも。前みたいな気まずさはない。むしろ。その沈黙が、少しだけ心地いい。「……あのさ」和泉が、先に口を開く。優士が視線を向ける。「はい」「……この前のこと」言いかけて、少しだけ止まる。優士は、待つ。逃げない。「……まだ、考えてる」正直に言う。優士は、ゆっくりと頷く。「はい」それだけ。責めない。急かさない。その態度に、少しだけ安心する。「……でも」和泉が、続ける。「前よりは、わかってきた」少しだけ、強く言う。優士の目が、わずかに動く。「何がですか」静かに聞く。和泉は、少しだけ息を吐く。それから。「……どっちが、安心するか」言い切る。その言葉に、嘘はない。優士は、すぐには答えない。ただ、受け取る。「……そうですか」短く言う。それ以上は、踏み込まない。でも。空気が、少しだけ変わる。和泉は、その変化を感じる。「……ずるいよね」小さく言う。優士は、少しだけ首を傾げる。「何がですか」「……そうやって、待てるところ」そのまま言う。逃げない。優士は、少しだけ息を吐く。「待っているわけではありません」静かに否定する。和泉が、少しだけ驚く。「え?」優士は、視線を逸らさない。「離れていないだけです」はっきりと言う。その言葉に、空気が止まる。和泉の呼吸が、わずかに揺れる。「……それ、同じじゃないの」少しだけ笑って言う。でも。優士は、首を横に振る。「違います」短く。迷いなく。「待つのは、選ばれる側です」そのまま続ける。「俺は、離れていないだけです」
last updateLast Updated : 2026-04-15
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第46話 離れる理由

帰り道。いつもと同じはずの景色が、少しだけ違って見える。夕方の光が、長く影を伸ばしている。二人は並んで歩く。言葉は少ない。でも。それでよかった。さっきまでの距離が、まだ残っている。袖を掴んだ感触。離していない気持ち。そのまま、歩いている。「……和泉さん」優士が、ふと口を開く。和泉は、視線を向ける。「なに?」優士は、少しだけ間を置く。それから。「一度、距離を置きましょう」静かに言う。その一言で、時間が止まる。「……え」声が、わずかに揺れる。意味が、すぐに理解できない。優士は、視線を逸らさない。逃げない。「このままでは」言葉を選ぶ。慎重に。「俺が、守れなくなる」低く言う。あの夜と同じ言葉。でも、今は重さが違う。和泉の胸が、強く締まる。「……なに、それ」小さく言う。笑えない。冗談にもならない。優士は、ほんの少しだけ息を吐く。「中途半端なまま、近づくのは違うと思っています」淡々と。でも。抑えているのがわかる。「……だから?」問い返す。逃げない。優士は、ほんのわずかに目を細める。「選ぶ時間を、きちんと取ってください」はっきりと言う。「その間、俺は踏み込みません」その言葉に、距離が一気に広がる。さっきまで近かったのに。一瞬で。「……離れるってこと?」確認する。優士は、少しだけ首を横に振る。「違います」短く。「離れないまま、距離を取るだけです」その言い方が、余計に苦しい。和泉は、言葉を失う。どうしていいかわからない。「……なんで」やっと出た言葉。優士は、少しだけ視線を落とす。それから、戻す。「これ以上、近づいたら」一瞬、言葉が止まる。それでも続ける。「止められる自信がありません」はっきりと言う。嘘じゃない。その声でわかる。和泉の心臓が、大きく鳴る。「……」何も言えない。わかってしまうから。優士は、一歩だけ下がる。ほんの少し。でも。決定的な距離。「……また連絡します」いつも通りの言葉。でも。いつもと違う意味。そのまま、背を向ける。歩き出す。迷いなく。「……待って」気づいたら、声が出ていた。優士の足が、止まる。振り返らない。でも。止まる。和泉は、一歩踏み出す。距離を詰める。さっきの分を、取り戻す
last updateLast Updated : 2026-04-16
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第47話 雨の中で

仕事を終えて、外に出た瞬間だった。——雨。さっきまで降っていなかったはずなのに。細かい粒が、静かに落ちてくる。「……最悪」小さく呟く。傘は、ない。天気予報も見ていなかった。少しだけ空を見上げる。濡れる。でも。それでもいいかと思うくらい、今日は頭がぼんやりしている。——あのときのこと。腕を掴んだ感触。離したくなかった気持ち。思い出すだけで、少しだけ息が詰まる。「……」歩き出す。そのまま、雨の中へ。濡れる感覚が、現実に戻してくれる。それでも。完全には戻らない。「……優士さん」小さく名前が出る。無意識に。そのとき。横を、一台の車が通り過ぎる。小さな、軽い音。少しだけ速度を落として。——止まる。和泉の少し先で。「……え」足が止まる。運転席の窓が、ゆっくりと下がる。見慣れた横顔。「……和泉さん」低い声。雨音に混じって、はっきりと届く。「……優士さん?」信じられないみたいに、名前を呼ぶ。優士は、軽く頷く。「乗っていきますか」それだけ。いつも通りの言い方。でも。タイミングが、できすぎている。「……なんで」思わず聞く。優士は、少しだけ視線を逸らす。「会社に車を返して、その帰りです」淡々と説明する。それ以上は言わない。和泉は、少しだけ迷う。数秒。でも。「……じゃあ、少しだけ」小さく言う。そのまま、ドアを開ける。助手席に乗り込む。ドアを閉める。雨の音が、急に遠くなる。代わりに。静かな空間。エンジンの振動。ワイパーの音。「……ありがとうございます」和泉が、少しだけ小さく言う。優士は、軽く頷く。「いえ」それだけ。車が、ゆっくりと動き出す。沈黙が落ちる。でも。嫌じゃない。むしろ。落ち着く。窓の外を、雨が流れていく。街の光が、にじむ。「……なんか」和泉が、ぽつりと呟く。優士が、少しだけ視線を向ける。「はい」「……タイミングよすぎない?」少しだけ笑う。冗談みたいに。優士は、少しだけ考える。それから。「そうかもしれません」否定しない。その答えに、少しだけ笑ってしまう。「……ほんと、ずるい」小さく言う。優士は、何も返さない。でも。口元が、ほんの少しだけ緩む。また、沈黙。ワイパーの音が、一定に続く。「……この
last updateLast Updated : 2026-04-16
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第48話 触れる温度

雨音だけが、残っていた。ワイパーが止まったままのフロントガラスに、水滴がゆっくりと流れていく。外の光が、にじむ。その中で。優士の視線だけが、はっきりとこちらを向いている。「……無理でした」さっきの言葉が、まだ残っている。距離を置くはずだった。そう言ったばかりなのに。——無理でした。その一言で、全部が崩れる。「……」和泉は、何も言えない。でも。目を逸らさない。逃げたくないと思っている自分に、気づく。優士の手が、わずかに動く。ハンドルから、離れる。ほんの少しだけ。迷いが見える。でも。止まらない。ゆっくりと。こちらへ、伸びる。触れる直前で、一瞬だけ止まる。確認するみたいに。「……いいですか」低く、静かに。問いかける。最後の線。和泉は、答えない。でも。ほんの少しだけ、顔を近づける。それが、答えだった。優士の息が、止まる。そのまま。距離が、消える。触れる。軽く。ほんの一瞬。確かめるみたいに。唇が重なる。長くはない。深くもない。でも。はっきりと、残る。「……」すぐに、離れる。優士の手が、空中で止まる。それ以上、触れない。和泉の呼吸が、少しだけ乱れる。頭の中が、静かになる。音が、遠くなる。「……今の」和泉が、小さく言う。自分でも、何を言おうとしているのかわからない。優士は、少しだけ視線を落とす。それから、戻す。「……止められませんでした」低く言う。謝らない。言い訳もしない。ただ、事実として。その言葉に、少しだけ笑ってしまう。「……ずるい」小さく言う。優士は、わずかに息を吐く。「そうですね」否定しない。そのまま。少しだけ距離を取る。完全には離れない。でも。さっきまでとは違う。戻れない距離。「……信号、変わるよ」和泉が、ぽつりと呟く。視線は前。でも。まだ、心臓が速い。優士も、前を見る。信号は、青に変わる。ワイパーが、また動き出す。現実が、戻ってくる。車が、ゆっくりと進む。何もなかったみたいに。でも。何もなかったわけじゃない。「……和泉さん」優士が、少しだけ声を落とす。和泉は、返す。「なに」優士は、一瞬だけ言葉を探す。それから。「もう、戻れません」静かに言う。その意味は、はっきりしている。和泉
last updateLast Updated : 2026-04-16
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第49話 名前の無い関係

朝、目が覚めた瞬間。——思い出す。赤信号。止まった時間。触れた感触。「……」布団の中で、少しだけ顔を覆う。消えない。というか。消える気配がない。「……やばい」小さく呟く。声に出しても、現実味は増さない。それでも。ちゃんと起きたことだと、わかってしまう。スマホに手を伸ばす。画面をつける。何もない。通知も、メッセージも。「……そりゃそうか」小さく笑う。昨日、あのまま送ってもらって。「じゃあまた」と言って。それだけ。何も決めていない。何も言っていない。それでも。「……」指が、画面の上で止まる。送るか、送らないか。何を?どういう立場で?「……」一度、スマホを置く。考えすぎると、動けなくなる。そのまま、起き上がる。日常が始まる。いつも通り。でも。どこかだけ、違う。「おはよー」子どもの声。「おはよう」自然に返す。ちゃんと笑える。無理じゃない。それでも。心のどこかが、そわそわしている。キッチンに立つ。朝の準備。同じ動き。同じ音。「……お母さん?」呼ばれる。「なに?」「なんか今日、機嫌いい?」少しだけ笑ってしまう。「そう?」「うん」無邪気な答え。ごまかせているのか、いないのか。自分でもわからない。「……普通だよ」それだけ言う。それ以上は、言わない。言えない。昼を過ぎる。仕事に入る。患者と向き合う。集中する。いつも通り。でも。ふとした瞬間に、戻る。——あの距離。——あの一瞬。「……」手が、わずかに止まる。すぐに動かす。何もなかったみたいに。夕方。仕事が終わる。外に出る。昨日とは違って、晴れている。それでも。空気が少しだけ違って感じる。スマホが、震える。「……!」一瞬で、視線が落ちる。画面を見る。——優士。名前だけで、心臓が少し跳ねる。開く。短いメッセージ。『昨日は、ありがとうございました』それだけ。余計なことは書いていない。いつも通り。でも。少しだけ違う。「……」和泉は、少しだけ息を吐く。それから、打ち始める。止まる。また打つ。消す。「……なにこれ」小さく笑う。結局。『こちらこそ、ありがとうございました』無難な一文になる。送る。既読がつく。すぐに。また、震える
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