ROH-Ray of hopeー白狐・和泉の恋愛草子100年の時を超えてー のすべてのチャプター: チャプター 31 - チャプター 40

111 チャプター

第31話 空白の距離

静かだった。 音がないわけじゃない。 空調の低い音も、外のわずかな車の気配もある。 それなのに。 二人の間だけが、異様に静かだった。 「……まだ、いるんですか」 優士が、先に言う。 背を向けたまま。 振り返らない。 和泉は、少しだけ間を置いてから答える。 「……うん」 それだけ。 理由は、言わない。 言えない。 帰るつもりでいた。 でも。 足が、動かなかった。 ——足りない。 あの感覚が、まだ残っている。 優士は、ゆっくりと振り返る。 目が合う。 それだけで、呼吸が浅くなる。 「……帰った方がいいです」 静かに言う。 強くはない。 でも。 はっきりとした線。 「……帰りたくない」 和泉は、即答する。 考える前に出た言葉。 自分でも、少し驚くくらい。 優士の視線が、わずかに揺れる。 それだけで、十分だった。 「……困ります」 また、その言葉。 でも。 前とは違う。 少しだけ、低い。 「……知ってる」 和泉は、小さく言う。 困らせているのは、わかってる。 それでも。 動けない。 「……じゃあ」 優士が、一歩、近づく。 ほんのわずか。 でも。 距離が、確実に変わる。 「どうしたいんですか」 問いかける。 逃げ場のない言葉。 和泉は、答えられない。 選べない。 でも。 一つだけ、確かなものがある。 「……ここにいたい」 それだけ。 優士の表情が、止まる。 その一言で。 空気が、変わる。 わずかに。 危うく。 「……それは」 言いかけて、止まる。 言葉が続かない。 代わりに。 もう一歩、近づく。 気づけば。 手を伸ばせば届く距離。 近すぎる。 逃げられない。 「……ほんとに」 優士の声が、少し低くなる。 抑えていたものが、わずかに滲む。 「それでいいんですか」 確認。 最後の線。 和泉は、答えない。 でも。 視線を逸らさない。 それが、答えだった。 その瞬間。 優士の手が、動く。 ゆっくりと。 迷いながら。 でも、確実に。 和泉の方へ。
last update最終更新日 : 2026-04-08
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第31話 踏み込まない理由

残っている。 さっきの空気が、まだ消えない。 人の気配はもうないはずなのに、視界の端にあの距離が焼き付いたまま離れず、音のない場所ほど思考だけがはっきりと響く。 ——選べない。 あの言葉は、想定していたはずだった。 そうなるだろうと、わかっていた。 だから、距離を取った。 近づけば楽になるのは自分の方で、選ばせる前に奪ってしまうこともできると、冷静に計算できるくらいには余裕があった。 それでも、そうしなかった。 そうしないと決めた。 なのに。 来た。 自分から。 「……困るに決まってるだろ」 誰に聞かせるでもなく、低く落とす。 あの距離で、あの視線で、あの言葉を向けられて、平気でいられるほど完成された人間じゃない。 ——足りない。 その一言が、思っていたより深く刺さっている。 嬉しいと感じたのは一瞬で、そのあとに来たのは、踏み込めば壊すという確信だった。 手を握る。 指先に、わずかに力が入る。 触れなかった距離が、何度も頭の中で再現される。 あのまま一歩踏み込めば、全部変えられた。 引き寄せてしまえば、それで終わった。 迷う余地なんて、本当はなかった。 「……でも、それじゃダメだ」 はっきりと口にする。 誰に言うでもなく、自分にだけ向けて。 それをやった瞬間、自分は“選ばれる側”ではなくなる。 レオンと同じになる。 奪う側に立つ。 それは違う。 そういう形で残る関係は、いずれ歪む。 ——選ばせる。 それだけが、守れるラインだった。 「……ほんと、ずるいのはどっちだよ」 苦く笑う。 来たのは向こうで、揺らしたのも向こうで、それでも決めるのは自分じゃないという構図が、やけに理不尽に感じる。 それでも。 それでもいいと思ってしまった時点で、もう引き返せない。 窓の外に視線を向ける。 夜の光は一定で、どこも変わらない。 ここだけが、少しずれているみたいに感じる。 「……待つしかないか」 簡単な言葉に落とす。 選択肢は、それしかない。 一番きつい形だと、わかっている。 触れられる距離で触れないまま、選ばれるのを待つ。 そんな都合のいい話はない。 でも。 「……それでいい」 小
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第32話 触れる手

夜の空気が、少しだけ重い。さっきまでの静けさとは違う。残っている。触れなかった距離が、まだ体に残っている。——触れてほしかった。その感覚を、消せないまま。和泉は歩いていた。足取りは、一定じゃない。考えているわけでもないのに、思考だけがまとまらない。そのとき。「……また一人か」低い声が、落ちる。足が止まる。振り返る前に、わかる。「……レオン」名前が、自然に出る。レオンは、少し離れた場所に立っていた。街灯の下。影の中に、はっきりと輪郭だけが浮かぶ。「随分、顔色が悪い」淡々と言う。心配しているようには聞こえない。ただ、観察している声。「……放っておいて」和泉は短く返す。今は、関わりたくない。それなのに。レオンは動かない。むしろ、一歩近づく。「そうはいかないな」静かに言う。その距離感が、逃げ場を消す。「……何がしたいの」問いかける。わかっているのに、聞く。レオンは、少しだけ視線を傾けた。「決まっている」短く。迷いなく。「奪う」その言葉に、心臓が一度だけ強く跳ねる。拒絶したいのに。体が、完全には拒否しない。その事実が、苛立つ。「……無理だって言ったでしょ」和泉は、強く言う。今度は、はっきりと。レオンは、わずかに口元を動かした。笑っていない。でも。余裕がある。「そうか」それだけ。否定しない。でも。次の瞬間。距離が、一気に詰まる。気づくより先に。手首を、掴まれる。強くはない。でも、逃げられない。「……レオン」名前を呼ぶ。止めるために。レオンは、離さない。視線が、まっすぐ落ちてくる。逃げ場がない。「顔に出ている」低く言う。「何が」返す声が、少しだけ揺れる。レオンは、ほんの少しだけ近づく。呼吸が触れる距離。「足りないんだろう」その一言で、思考が止まる。否定できない。でも。認めたくもない。「……違う」反射的に言う。でも。弱い。レオンは、それを逃さない。「違わない」静かに断言する。「だから、ここにいる」そのまま。もう一歩、踏み込む。完全に距離が消える。「……やめて」声が、少しだけ弱くなる。拒絶しているはずなのに。力が入らない。レオンは、手首を引く。強引じゃない。でも。確実に、自分の方へ。距離が、
last update最終更新日 : 2026-04-09
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第33話 あなたである理由

静かすぎた。部屋に戻っても、音が戻らない。靴を脱ぐ音も、鍵を置く音も、どこか遠く感じる。自分の部屋のはずなのに。落ち着かない。「……最悪」小さく呟く。何に対してなのか、自分でもわからない。ベッドに座る。手を見る。さっき触れられた場所。もう感触はないはずなのに。残っている気がする。——触れた。レオンは、迷わなかった。あの距離で。あのまま、進めたはずなのに。「……なんで止まったの」思わず、口に出る。自分で止めたくせに。それでも。ほんの一瞬だけ。その先を、想像してしまった。すぐに、首を振る。違う。それじゃない。そうじゃない。「……優士さんは」自然に名前が出る。あの距離。あの手。止まった指先。——触れなかった。あれは、止めたんじゃない。止めた。自分で。「……守れなくなる、か」小さく繰り返す。あの言葉の意味が、今になってはっきりとわかる。触れなかったんじゃない。触れられたのに、触れなかった。その違いが、胸に残る。「……ずるいよ」どっちに向けた言葉なのか、わからない。レオンか。優士か。それとも。自分か。ベッドに倒れ込む。天井を見上げる。思考が止まらない。「……なんで、選べないの」問いかける。誰も答えない。でも。理由は、わかっている。レオンは、強い。迷わない。引っ張ってくる。あのまま任せれば、楽になる。考えなくていい。選ばなくていい。「……でも」目を閉じる。浮かぶのは、優士の顔。あの距離で。触れなかった理由。「……それじゃダメなんだよね」ゆっくりと言う。誰に言うでもなく。ただ、確かめるように。レオンの手は、拒めなかった。でも。優士の手は——触れてほしかった。その違いが、はっきりしてしまう。「……ああ、もう」顔を覆う。どうしようもなく、苦しい。どっちも、消えない。どっちも、嘘じゃない。でも。同じじゃない。「……好き、なんだ」ぽつりと落ちる。静かな部屋に、はっきり響く。優士の名前は、出さない。でも。わかっている。「……じゃあ、なんで」問いが、続く。好きなのに。揺れる。それが、自分で許せない。「……弱いな」自嘲気味に笑う。でも。否定できない。これが、今の自分。ゆっくりと、息を吐く。少しだ
last update最終更新日 : 2026-04-09
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第34話 恋の距離感

朝の空気は、少しだけ軽かった。昨日よりも、ほんの少しだけ。それでも。完全に戻ったわけじゃない。胸の奥に残っている感覚は、そのまま。——選ぶ。そう決めた。まだ答えは出ていない。でも、逃げないと決めた。それだけで、少しだけ違う。「……おはようございます」いつもの場所。いつもの声。優士が、そこにいる。振り返る。その瞬間、ほんの一瞬だけ間が空く。昨日と同じ空気。でも。どこかだけ、違う。「……おはようございます」優士も、返す。声は変わらない。でも。視線が、少しだけ深い。それに気づいてしまう。「……昨日は」和泉が、先に口を開く。言葉を探す。でも。続かない。優士は、それを待たない。「大丈夫ですか」短く聞く。いつも通りの言い方。でも。距離が、少しだけ近い。ほんのわずか。でも、確実に。「……うん」頷く。それだけで、十分だった。優士は、ほんの一瞬だけ目を伏せる。それから。もう一歩、近づく。昨日なら、止まっていた距離。でも今日は。違う。「……和泉さん」名前を呼ぶ。少しだけ、低い。和泉は、視線を逸らさない。逃げない。優士も、逸らさない。そのまま。距離が、詰まる。手を伸ばせば、届く。いや。もう、届いている距離。「……選ぶって、言いましたよね」静かに言う。確認じゃない。覚えているという事実。和泉は、小さく頷く。「……うん」優士の呼吸が、わずかに変わる。抑えていたものが、少しだけ揺れる。「……なら」その一言のあと。ほんのわずかな沈黙。それが、長く感じる。「待ちます」結局、その言葉に落ちる。でも。前とは違う。ただ待つだけじゃない。その先が、含まれている。「……でも」続ける。ここが、違う。「全部、譲るつもりはないです」その言葉に、空気が止まる。和泉の目が、わずかに見開く。優士は、視線を逸らさない。「選ぶのは、和泉さんです」変わらない。でも。「その結果を、受け取るのは俺です」少しだけ、踏み込む。言葉で。距離じゃなく。想いで。「……だから」ここで、初めて。手が動く。ゆっくりと。迷いながら。でも、止まらない。和泉の手に——触れる。一瞬だけ。指先が、軽く触れる。ほんのわずか。それだけ。でも。確かに、触
last update最終更新日 : 2026-04-10
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第35話 触れられたか?

指先に、まだ残っている。ほんの一瞬だけ触れた感触。強くもない。でも。消えない。和泉は、自分の手を見た。何も変わっていないはずなのに、少しだけ違って見える。「……ほんと、ずるい」小さく呟く。今度は、少しだけ笑っている。さっきまでの苦しさとは、違う温度。軽くなっている。確実に。——進んだ。それだけで、こんなにも変わるのかと、自分でも驚く。「……和泉」背後から、声が落ちる。一瞬で、空気が変わる。さっきまでの温度が、静かに引いていく。振り返る。そこにいるのは、変わらない姿。「……レオン」名前を呼ぶ。さっきまでと同じはずなのに、距離の感じ方が違う。レオンは、ゆっくりと歩み寄る。その動きに、迷いはない。「随分と、表情が違うな」低く言う。和泉は、何も返さない。否定する理由が、見つからなかった。レオンは、目を細める。観察するように。逃さないように。「何があった」問いかける。優しくはない。でも、強くもない。ただ、確かめる声。「……別に」短く返す。でも。完全には隠せていない。それが、自分でもわかる。レオンは、一歩近づく。距離が、詰まる。昨日と同じはずの距離。なのに。「……違うな」小さく言う。その一言が、刺さる。「……何が」問い返す。逃げないまま。レオンは、ほんの少しだけ顔を傾ける。「目だ」短く言う。「迷い方が変わった」その言葉に、息が止まる。見抜かれている。曖昧な変化を、正確に。「……意味わかんない」強く返す。でも。声に、わずかに揺れがある。レオンは、それを見逃さない。「何かがあった」断言する。「それも、つまらない変化じゃない」その言い方に、苛立ちが混じる。わずかに。でも、確かに。「……関係ないでしょ」和泉は、視線を逸らさない。前よりも、強く。レオンは、しばらく黙っていた。それから。「そうだな」あっさりと認める。でも。そこで終わらない。「だが、関係なくはない」一歩、踏み込む。距離が、危険な位置まで縮まる。「俺にとっては」低く言う。逃げ場を残さない。和泉は、動かない。逃げない。でも。完全には、揺れが消えていない。それが、わかる。レオンは、それを見ている。そして。「触れられたか」唐突に言う。和泉の心臓
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第36話

いつもと同じ帰り道。同じ時間。同じ並び方。それなのに。距離の感じ方だけが、少し違う。和泉は、隣を歩く優士を見ないまま、前を見ていた。視線を向ければ、何かが変わりそうで。変わってしまいそうで。「……今日は、静かですね」優士が、先に言う。特別な意味はない言い方。でも。どこかだけ、違う。「……そうだね」短く返す。それ以上は続かない。沈黙が落ちる。でも。気まずくはない。むしろ。このままでもいいと思える静けさ。その空気の中で。優士が、ふと足を止める。和泉も、つられるように止まる。「……和泉さん」名前を呼ばれる。少しだけ、低い。和泉は、ゆっくりと振り向く。距離が、近い。昨日よりも。ほんのわずか。でも、確実に。「……なに?」問いかける。逃げないまま。優士は、少しだけ視線を落とす。それから、戻す。迷いを消すように。「少しだけ、いいですか」確認。でも。断らせない優しさ。和泉は、頷く。その瞬間。優士の手が、動く。ゆっくりと。迷いなく。今度は、止まらない。指先が触れる。一瞬じゃない。そのまま。軽く、手を取る。強く握らない。でも。離れない程度に。「……優士さん」名前を呼ぶ。驚きと、戸惑いが混ざる。優士は、手を離さない。視線も逸らさない。「これくらいは、許してください」静かに言う。言い訳みたいに。でも。はっきりと。和泉の心臓が、少し速くなる。拒否しようと思えば、できる。手を引けばいい。それだけ。でも。動かない。動けない。「……ずるい」小さく言う。今度は、少しだけ笑っている。優士は、わずかに息を吐く。「そうですね」あっさりと認める。そのまま。少しだけ、距離を詰める。肩が、触れるか触れないかの位置。逃げ場は、ある。でも。選ばない。そのまま、歩き出す。手は、つながったまま。沈黙が続く。でも。さっきまでとは違う。確かに、何かが変わっている。「……選ぶって、言いましたよね」優士が、ぽつりと落とす。和泉は、頷く。「……うん」それだけ。優士は、それを確認するように、軽く手に力を入れる。強くはない。でも。意志は、伝わる。「急がなくていいです」続ける。優しい言い方。でも。「ただ」そこで、一度言葉を切る。
last update最終更新日 : 2026-04-11
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第37話 レオン 幕引き

夜の街は、穏やかだった。特別な日じゃない。いつもと変わらないはずの景色。それでも。隣にいる相手が違うだけで、少しだけ重く感じる。「……珍しいな」レオンが、ふと口を開く。視線は前を向いたまま。「お前から誘うとは」和泉は、少しだけ間を置く。「……最後だから」短く言う。その言葉は、軽くはなかった。レオンは、すぐには返さない。数秒の沈黙。それから。「そうか」それだけ。否定もしない。引き止めもしない。ただ、受け取る。その反応が、少しだけ意外だった。「……怒らないんだ」和泉が、小さく言う。レオンは、わずかに口元を動かした。「怒る理由がない」淡々と。事実を言うように。「最初から、そういう話だったはずだ」その言葉に、少しだけ胸が締まる。確かに、そうだった。選ぶのは、自分。奪うと言ったのは、レオン。でも。それでも。「……それでも」言葉が続かない。レオンは、横目で見る。逃がさない視線。「何だ」促す。優しくはない。でも、急かさない。「……嫌いじゃなかった」ようやく出た言葉。正直な、言葉。レオンは、少しだけ目を細める。それだけ。「知っている」短く言う。「でなければ、ここにいない」その通りだった。何も言い返せない。二人の間に、静かな時間が流れる。会話は少ない。でも。嫌な沈黙じゃない。むしろ。終わりに向かっていることを、静かに受け入れている空気。「……楽だったよ」和泉が、ぽつりと落とす。「考えなくてよかったから」レオンは、少しだけ笑う。今度は、はっきりと。「そうだろうな」認める。否定しない。「お前は、考えすぎる」その言い方は、いつも通りだった。少しだけ、強くて。少しだけ、正しい。「……うん」素直に頷く。それも、事実だった。レオンといると、流される。でも。それはそれで、楽だった。「……でも」ここで、言葉が止まる。その先を言えば、終わる。完全に。それでも。「……それじゃダメだった」静かに言う。逃げないまま。レオンは、何も言わない。ただ、聞いている。最後まで。「……選びたかった」続ける。「ちゃんと、自分で」その言葉に、嘘はなかった。レオンは、ほんの一瞬だけ目を閉じる。それから。「そうか」短く言う。それだけ。
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第38話 始まりの優士

風が、やわらかかった。強くもなく、弱くもなく。ただ、そこにあるだけの空気。公園のベンチに座りながら、和泉は少しだけ視線を落とした。隣には、優士がいる。それだけで、少しだけ落ち着く。でも。完全じゃない。「……こういうの、久しぶりかもしれない」ぽつりと呟く。誰に言うでもなく。でも、優士には届く距離。「どれですか」優士が静かに返す。いつも通りの声。でも、少しだけ柔らかい。「……何も決めずに、ただ会うの」少し考えてから、言葉を選ぶ。デート、とは言わない。まだ、その言葉がしっくりこない。優士は、小さく頷く。「そうですね」それ以上は言わない。無理に広げない。その距離感が、心地いい。沈黙が落ちる。でも。今度は、嫌じゃない。逃げなくてもいい沈黙。「……あのさ」和泉が、少しだけ声を落とす。優士は、視線を向ける。「はい」短く応じる。その一言だけで、ちゃんと聞いているのがわかる。「……これって、デート?」言ってから、少しだけ後悔する。子どもみたいな聞き方だったかもしれない。優士は、一瞬だけ考える。それから。「そう思っていただいて構いません」静かに言う。断言はしない。でも、否定もしない。その言い方に、少しだけ笑ってしまう。「……なにそれ」小さく笑う。優士も、ほんの少しだけ口元を緩める。「違いますか」問い返す。やわらかく。和泉は、少しだけ考える。「……違わない、かも」はっきりしない答え。でも。それでいいと思えた。また、静かな時間が流れる。風が、木を揺らす。葉の音が、かすかに響く。「……昨日のこと」優士が、ふと口を開く。和泉の呼吸が、少しだけ止まる。「……うん」短く返す。逃げない。「……後悔してませんか」静かに聞く。優士らしい問い。自分のことじゃない。和泉のことを、優先する。「……してない」すぐに答える。迷わない。「……よかった」それだけ。でも。その一言に、少しだけ温度がある。和泉は、視線を落とす。ベンチの隙間を見つめながら。「……でもね」続ける。「まだ、全部決まったわけじゃない」正直に言う。優士は、頷く。「わかっています」それも、迷いなく。「……それでも、いいの?」問いかける。確認するみたいに。優士は、少しだけ間を
last update最終更新日 : 2026-04-12
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第39話 水族館の2人

館内は、薄暗かった。昼間の明るさが、嘘みたいに遮られている。水の色だけが、静かに揺れている。「……思ってたより、暗いね」和泉が、小さく言う。声が、少しだけ響く。優士は、隣で頷く。「その分、落ち着きますね」短く返す。それだけ。でも、声が近い。距離が、近い。二人は並んで歩く。同じ方向を見ながら。話は、あまり続かない。でも。不自然じゃない。むしろ。この静けさの方が、しっくりくる。大きな水槽の前で、足が止まる。青い光が、ゆっくり揺れている。魚の影が、静かに横切る。「……きれい」思わず、呟く。子どもみたいな感想。でも。それでよかった。優士は、何も言わない。ただ、同じ景色を見ている。そのことが、わかる。ふと。指先が触れる。偶然みたいに。ほんの一瞬。でも。どちらも、引かない。そのまま。少しだけ、近づく。触れたまま。繋がない。でも、離れない。「……こういうの、いいね」和泉が、小さく言う。優士は、わずかに笑う。「そうですね」それだけ。でも。少しだけ、空気が柔らかくなる。また、歩き出す。今度は、さっきより少しだけ近い。肩が、触れるか触れないか。距離の取り方が、自然に変わっている。クラゲの水槽の前で、また止まる。ゆっくりと、漂っている。時間が、止まっているみたいに。「……なんか、ぼーっとする」和泉が、少しだけ力を抜いて言う。優士は、横目で見る。「無理してませんか」静かに聞く。和泉は、首を振る。「してない」すぐに答える。そのまま。少しだけ、視線を落とす。「……楽なだけ」ぽつりと落とす。その言葉に、嘘はない。優士は、何も言わない。ただ、少しだけ距離を詰める。今度は。ほんの少しだけ、はっきりと。肩が、触れる。逃げない。そのまま。静かに、並ぶ。水の音だけが、かすかに響く。「……優士さん」名前を呼ぶ。低く。優士は、すぐに応じる。「はい」その距離のまま。その声で。和泉は、少しだけ迷う。言うか、言わないか。でも。「……あのさ」口を開く。優士は、待つ。急かさない。「……こういうの、続けてもいい?」少しだけ、照れながら。でも、ちゃんと聞く。優士は、一瞬だけ目を細める。それから。「もちろんです」迷いなく答える。そ
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