All Chapters of 元夫の後悔をよそに、天才妻は御曹司と溺愛婚: Chapter 651 - Chapter 660

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第651話

「もう寝てる」じゃあ、切るよ?」「切らなきゃ駄目か?」凛は少し考えて、さっき美穂子が持ってきてくれた充電器に目をやった。白い充電器はベッド脇のコンセントに差し込まれ、ケーブルがこちらまで伸びている。「充電器を持ってるか聞いたのって、このため?」「うん」海斗は悪びれもせず認めた。結局、凛は電話を切らずに、今夜撮った3枚の写真を海斗から送ってもらった。その中から海斗の横顔が写った1枚を選び、さらに海斗の投稿をスクリーンショットした。名前とアイコンは切り取り、写真と文章だけを残して自分のSNSに投稿する。添えた言葉は――【許可しました】投稿を終えると、そのまま眠りについた。隣の部屋でそれを目にした海斗は、嬉しさのあまり一睡もできなかった。すぐに凛の投稿をスクリーンショットし、同じように名前とアイコンを消して、また自分のSNSに載せた。普段は1年に1度投稿するかどうかという男が、一晩で2回。しかも同じ内容の投稿だ。翌朝それを目にした恵と理央は、言葉にせずとも同じことを思った。社長が冷淡で口が悪くて強引で、女心なんて分からないって言ったの、誰?好きな人が相手なら、誰よりも女心が分かってるじゃない!一方、柊病院を出た隆も、瑶子に話していた。「凛さんがようやく海斗と付き合うことにしたらしい。海斗のやつ、一晩で2回も投稿してたぞ。プライベートも仕事用も両方」瑶子は夫を見て、嬉しそうに笑った。「よかったわね」隆もうなずく。「ああ、本当によかった」長年の心配事が、一つ解決に向かいそうだ。凛がいなければ、息子は一生独身なのではないかと本気で心配していたのだから。二人はそのまま南山ヒルズ1号棟へ向かった。凛はすでに起きていて、髪を一つにまとめ、キッチンでお湯を注いでいた。足音に気づいて振り返る。「隆さん、瑶子さん。おはようございます」これまでは二人の前でも比較的自然に振る舞えていた凛なのに、今朝はどことなくぎこちない。海斗と付き合い始めたことで、自分の立場を意識してしまうのだ。もっとも隆と瑶子からすれば、凛は最初から未来の嫁候補で、あとは息子がいつ口説き落とせるか、それだけの問題だった。「おはよう、凛さん」瑶子は近づいてきて聞いた。「昨夜はよく眠れた?」「はい。よく眠れました」海斗が夢に
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第652話

凛の足が止まった。続いて海斗の声がする。「凛に200億円なんて渡したら逆効果だ」「確かに。凛さん、そういう子だから、驚かせないほうがいいわね。結婚の話もまだ駄目だから、絶対言わないようにしましょう」瑶子が隆に視線を向ける。隆も真剣に頷いた。凛はしばらく固まっていた。昨夜付き合い始めたばかりなのに、翌朝にはもう「結婚」という単語が飛び出している。飛行機だって、ここまで速くない。自分と海斗は、まだ「付き合ってみよう」と一歩踏み出したばかりなのに。コンコン。凛は気を取り直してドアを叩いた。海斗がすぐに顔を上げる。「凛が来た」その瞬間、隆と瑶子が揃って姿勢を正した。凛の前では、少しでも印象を良くしておきたい。一般的には親が嫁を選ぶと言うが、二人の感覚は逆だった。結婚して相手の家族と付き合っていくのは嫁のほうなのだから、嫁が義父母を見極めるのが当然だと思っている。それに日和が結婚する時だって、相手の両親がどんな人間かは必ず見るつもりだ。ならば、自分たちも同じように振る舞うべきだろう。凛は片手に水、もう片方に薬を持ったまま二人に挨拶し、海斗のベッドまで歩いていった。すると、瑶子が立ち上がる。「私たちは下にいるわ。海斗、ちゃんと凛さんの言うことを聞くのよ」海斗は両親が出ていくのを見送った。残された凛は、なぜか少し居心地が悪い。「薬を持ってきたの」本当に、それだけだった。海斗は口元を緩め、ベッドの端を軽く叩いた。「ここに座って」凛が腰を下ろすと、マットレスがわずかに沈んだ。薬と水を海斗の前へ差し出す。グラスにはガラス製のストローが入っていた。美穂子に頼んで用意してもらったのだ。海斗はそのストローをじっと見つめる。もう30近いいい大人の男が、水を飲むのにストローを使うなんて。だから、凛は説明した。「頭を上げたり下げたりするとつらいでしょ?ストローのほうが楽だと思って」凛は薬を海斗の口元へ運ぶ。すると、海斗の深い瞳がふわりと彼女の方へ向き、そこにはかすかな笑みが浮かんだ。海斗が口を開くと、その唇が凛の指先にかすかに触れた。凛は反射的に指を引っ込め、ストローをもう一度海斗の唇に当て直す。「ちゃんとストローで飲んで」海斗は素直に水を飲み、薬を流し込んだ。しかし、その間も視
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第653話

海斗はどうにも納得できなかった。凛の手をしっかり握ると、半ば強引に言う。「呼び方、変えて。聞いただけで恋人同士だって分かるやつ」できることなら、世界中に言いふらしたいくらいだ。しかし、凛はもともと目立つことが好きではないし、控えめな性格だ。だから、考えた末、試しに「海くん」と少し可愛らしい感じで呼んでみることにした。だが、海斗にはちょっとしっくりこなかった。なぜなら、「海くん」というのは海斗が幼い頃呼ばれていたあだ名だったため、恋人という感じがしなかったのだ。凛は自分の恋人なのだから、もっと特別な呼び方がいい。「別の」「竹内教官、早く治ってね。まだ路上教習が残ってるから」これには海斗も何も言えない。それでも、いつもと違う呼び方が嬉しかったのか、口元は緩んでいた。凛の指を軽くつまみながら言う。「朝食を食べてから研究開発センターへ行くんだぞ」凛の表情も自然と柔らかくなる。「うん、わかってる」立ち上がろうとしたが、海斗が手を離さずに、じっと凛を見つめていた。凛は不思議に思い、もう一度手を引いてみたが、やはり離してくれない。朝食を食べたら行っていいと言ったくせに、これでは行かせる気があるのかないのか分からない。凛は仕方なく、もう一度ベッドの端に腰を下ろした。「竹内教官、私たち、ちゃんと意思疎通について話したほうがいいかも。私、海斗が何を考えてるのか分からない時があるから、してほしいこととか、欲しいものがあるならちゃんと言ってほしい」「キスしてから行って」言葉を失った凛。しまった。海斗がふっと笑う。「してほしいことはちゃんと言えって、今君が言ったんだろ?」そしてもう一度、はっきり繰り返した。「キスしてから行って」凛は無意識に唾を飲み込み、海斗の唇に目を落とす。「俺からしてもいいけど、今は頭を大きく動かせな……っ」言い終わる前に、凛の唇が重なった。ほんの一瞬。触れただけですぐ離れる。凛はそのまま立ち上がろうとしたが、海斗の手が後頭部に添えられ、引き戻された。今度は海斗から唇を重ねる。昨夜と同じように、そのキスはすぐには終わらなかった。なかなか離してくれない。昨夜よりも長く、深く。凛はどうしていいか分からず、頭の中が真っ白になる。海斗の呼吸が次第に熱を帯びるにつれ、
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第654話

もちろん凛は聞き入れず、そのまま研究開発センターへ向かった。車に乗ってからも、頭の中は海斗のことばかり。エレベーターでの最初の出会いから、上司と部下、そしてメディアのフラッシュを浴びながらの共同プロジェクト。仕事のパートナーから友達、そして恋人へと、気がつけば3ヶ月の時が経っていた。この3ヶ月、あまりにも多くのことがあったし、どの場面にも海斗がいた。海斗は、結婚生活でぼろぼろになった自分も、仕事で成功を収めた自分も知っている。涙を流す姿も、嬉しそうに笑う姿も見せてきた。海斗と過ごしたこの3ヶ月は、智也と過ごした4年間よりも濃かった。人を想う気持ちは、一緒にいた時間の長さでは決まらないらしい。凛は窓の外を流れていく街路樹を眺めた。冬の街はまだどこか寂しい。けれど冬が終われば、必ず春が来るのだ。その時、携帯が震えた。画面を見ると、海斗からだった。【今どこ?】【車の中】【随分遅いな】【出発してまだ10分しか経ってないよ】【遅い】凛は思わず笑った。前に座る運転手も、バックミラー越しにそんな凛をちらりと見て、つられるように笑みを浮かべる。事故は災難だったが、海斗にとっては思わぬ幸運も舞い込んだらしい。車は静かに道を進んでいく。【会社に着いたら連絡して】【研究室に入る時も】【昼飯は俺のカードを使え】【昼休みは社長室で休んでいいからな】凛は連続で届くメッセージを眺めていた。うるさい。でも、悪くない。ずっと静かで変化の少なかった凛の日常が、海斗のおかげで急に賑やかになった。口元をほころばせながら、返信を打つ。【先生から、ちゃんと寝てなきゃ駄目だって言われてるでしょ?私のことは心配しなくて大丈夫だから】海斗はそのメッセージを見つめた。そもそも凛は、自分が心配するようなことをほとんどしない。何でも自分できちんとこなしてしまうから、海斗としては出番がなさすぎて物足りないくらいだった。「海斗様、凛さんにメッセージを送っているんですか?もう、顔がにやけっぱなしですよ」そう聞いたのは、美穂子だった。昨夜、海斗が事故に遭ったと聞いた時には、生きた心地がしなかったが、駆けつけてみれば、凛と海斗が恋人同士になっている。おかげで沈んでいた気持ちも一気に吹き飛んだ。海斗が顔を上げる。そ
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第655話

【お昼、食べに行って】まるで凛が携帯を開く時間を見計らっていたかのようだった。凛は思わず笑い、そのまま海斗の社長室へ向かう。すると、恵と理央は凛の姿を見るなり、意味ありげな笑みを浮かべた。恵は言った。「社長の休憩室、備品も全部新しいものに替えておいたよ」理央も付け加える。「これが社長の社食カード」それは、今まで一度も使われたことがないものだった。それをわざわざ探し出して凛に渡した理由など、聞くまでもない。理央は凛に言った。「ちょうどいいから、一緒に社員食堂に行こうよ。食べ終わったら凛さんはここでお昼寝ね。私と恵さんは南山ヒルズに行って、昨日の件を社長に報告してくるから」恵が凛の顔を覗き込む。「昨日のこと、少しは落ち着いた?それにしても、小林さんも思い切ったよね。あんな人通りの多い場所でさ」凛が今も引きずっているのは、事故そのものではない。海斗が自分をかばって怪我をしたことだった。社員食堂へ向かう途中、恵から、あとで警察が事情を聞きに来ると告げられた。凛が頷くと、今度は理央が口を開く。「ホワイトタワーの調査で分かったんだけど、小林さんは事故のあと自分で車から出て、その後、谷口さんが病院まで連れていったみたい」智也が凛にとってもう過去の人だということは、二人とも分かっている。だから今さら名前を出すことに気を遣う必要もなかった。だが凛は、別の部分に引っかかった。「智也もあの場にいたの?」恵が答える。「監視カメラを見る限り、到着したのは事故のあとみたいだけど」竹内グループの社員食堂は、フロアの半分を占めるほど広い。1日3食のそれぞれの食堂に加え、カフェや書店まであり、反対側にはジムと運動スペースも設けられていた。凛は海斗の社員証を端末にかざした瞬間、初めて気づく。これ、ほかの社員のものと違う。別に音が鳴ったわけでも、何か特別な表示が出たわけでもない。それでも周囲の社員たちは、そのカードを見ただけですぐに気づいた。以前から海斗と凛の関係を怪しんでいた受付の女性は、今や興奮を抑えきれない様子で唇を噛み締め、隣の同僚の肩をバンバン叩いている。やっぱり!あの二人、絶対そうだと思ってた!海斗のアカウントは、プライベートのものも会社のものも、基本的に親しい関係者にしか公開されていないため、海斗があの投稿をしたか
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第656話

その日の午後、凛は時間を作って柊病院へ向かった。柚葉の怪我は海斗よりずっと重いらしく、額には包帯が巻かれ、脚はギプスで固定されている上に、腕にも分厚い包帯が巻かれている。凛が入ってきても、柚葉は驚かなかった。「警察の事情聴取ならもう終わったわ。ブレーキが壊れたのは私のせいじゃない。ただの事故」凛には、その強がりの裏にある動揺が見えていた。「ただの事故なら、どうしてそんなに怯えてるの?」柚葉が恐れているのは竹内家だった。今の状況は、逮捕されて刑務所に入るのと大差ないとさえ感じている。凛を見る目には、隠しきれない憎悪がにじんでいた。「分からないの?竹内家が今やってることなんて、軟禁と同じ!竹内家なら、私みたいな人間なんて虫けらみたいに潰せるでしょうからね!そもそも竹内社長が怪我したのは、あなたを助けたからでしょ!?なんで竹内家がその責任まで私に押しつけるのよ!」声が次第に荒くなり、最後はほとんど怒鳴り声だった。そのせいで激しく咳き込み、青白かった顔が赤くなる。凛は相手の感情に引きずられなかった。そして、バッグの中のボイスレコーダーを作動させ、静かに尋ねる。「どうして車で私を轢こうとしたの?」「だから、ブレーキが利かなかったって言ってるでしょ!」乗ってこない。凛は話を続けた。「松田さんが告発されたのは、私の仕業だと思ってる?」柚葉が凛を睨みつける。「違うっていうの?」「違う」凛の声は静かだった。柚葉は鼻で笑う。「誰が信じると思ってるの?あんた以外に誰がいる?私があんたの男を奪ったから、お爺様が研究所でずっとあんたを目の敵にしてたから……私たちが不幸になるのを一番望んでたのなんて、あんたしかいないじゃない!」「智也ならあなたにあげたでしょ。私はゴミなんていらない」柚葉が小さく笑った。「智也にも聞かせてあげたいわ。自分が好きな女から、こんなふうに言われてるって」「別に構わない」どうでもいい相手の言葉では、もう傷つかない。凛は再び話を戻す。「私が松田さんを告発したと思ってるから、私は死んでもいいと思ったってことね?」「死んで当然でしょ!」柚葉は反射的に言い返した。凛は間髪入れずに畳みかける。「だから車で轢き殺そうとした柚葉は口を開きかけた。だが、寸前で言葉を飲み込む。そして突
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第657話

「僕のキャリアをあなたに心配してもらう必要はない。それより、自分の心配をしたらどうだ?業界の重鎮を排除しようとする、その狭量さでこの先どこまでやっていけるのか見ものだな。それに、竹内社長と付き合えたからって、すべて解決したと思うな。竹内家と草壁家は代々続く家同士の付き合いがあるし、しかも両家には昔から縁談の話があって、竹内家で未婚なのはもう竹内社長だけだ。いずれ美雪と彼は結婚する。どれだけ好き合っていようが、家同士の決定には逆らえないんだよ」利明自身も、これまで30年間、すべては親が決めたレールの上を歩むしかなかった。あいつに、君のために全てを捨てる覚悟があるのなら別だけどな」利明は嘲るように笑った。だが、海斗は利明とは違う。海斗はその手中に巨大なビジネス帝国を収め、その影響力と地位は国内はおろか海外にまで及ぶ。「海斗が私のために何かを捨てる必要なんてありません」喧嘩を売るような勢いでまくしたてる利明に、凛は冷静に言い返した。「相手にすべてを捨ててもらわなきゃ一緒にいられないなら、それは自分自身に力がないだけですから」海斗と結ばれると決めたとき、凛はそれぞれの家格や階層が抱える問題についても、心の中で一通りの解決策を用意していた。A大学で教壇に立つことも、そのための第一歩。二人の未来なら、二人で歩いていけばいい。縁談の話を聞かされても凛がまるで動じないことに、利明は苛立った。渾身の一撃を、柔らかな綿に受け止められたような感じがする。「相変わらず身の程知らずだな。何の後ろ盾もない人間が、名家と張り合えると本気で思ってるのか?」吐き捨てるように言い残し、利明は凛の横を通り過ぎて病室へ入った。つい先ほどまで刺々しかった声が、ベッドに横たわる柚葉を前にした途端、嘘のように柔らかくなる。凛は相手にしなかった。今は、智也を探しに行かなければならない。しかし、その前に特別宿舎へ一度戻る必要がある。以前、海斗から渡された切り札を取りに行くために。智也にまつわる、重要な切り札。みんなが好き勝手に引っかき回しているのなら、自分もそこに手を突っ込んでみよう。思わぬものが出てくるかもしれない。海斗の怪我を思い出すと、凛の胸がまた痛んだ。……智也のもとを、凛が訪ねて来ているという連絡が、受付から入った。智也の
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第658話

4年間一緒に暮らしていても、互いの人生に深く踏み込んだ夫婦ではなかった。それでも凛は、智也がどういう人間かくらいは分かっている。自分に対しては最低だった。だが、身近な人間にまで冷酷になれる男ではない。柚葉の本性を知ってなお完全に見捨てきれなかったのも、理由は一つ。流産によって、柚葉の身体に後遺症が残ったからだ。裁判でも、柚葉が腹部に手を添えるたび、智也は口を閉ざしたし、自分が不利になると分かっていても、柚葉を道連れにしようとはしなかった。感染症をうつされたと知ってからでさえ、自ら柚葉に報復することはなかった。柚葉の所業を周囲に広めたのは、親友のために腹を立てた正人だ。その話は日和から聞いていた。「……薬?」智也の身体が強張った。資料へ手を伸ばしながら、掠れた声で尋ねる。「どういう意味だ?」「書いてある通り。自分で読んで」智也は資料に目を通していった。そこには、柚葉の流産と身体へのダメージが、転落と中絶薬の両方によって引き起こされたと記されている。「中絶薬?」信じられないという顔で智也が凛の顔を見上げた。凛は頷き、淡々とした口調で告げる。「薬で中絶できる時期には制限があるし、服用にも手順がある。つまり小林さんは、あなたにキスしようとして拒まれ、エスカレーターから転落する前に、すでに中絶薬を飲んでいたということ」「俺は強く押してない。突き落とすつもりなんてなかった。ただ、近づかれるのが気持ち悪くて……」智也は激しい嫌悪感を露わにする。その言葉に、凛の目がわずかに動いた。「押してないの?」智也は真剣な顔で頷く。「ああ」「小林さんは、自分があなたにそこまで嫌われてるって知ってた?」その一言で、智也の動きが止まった。キスも抱擁も、智也は以前から拒絶していたのだから、柚葉は知っていたはずだ。凛は続ける。「それに、感染症にかかった状態で妊娠すれば、妊娠の継続や出産には大きなリスクがあることくらい、小林さんも分かっていたはずじゃない?」智也の目が徐々に見開かれていく。当時の彼は怒りで頭に血が上っていたし、一連の出来事が終わってからは、柚葉のことなど二度と考えたくもなかった。だから、細かく振り返ろうともしなかった。しかし、柚葉は妊娠を利用して、智也に罪悪感を植えつけようとしたのではないかと、凛は以
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第659話

二人のボディーガードも続いて凛に挨拶をした。凛も軽く頭を下げ、ふと二人の胸元にあるシンプルなロゴに目を留める。描かれていたのは、白い塔のマーク。ホワイトタワー――以前、日和が話していた竹内家の警備会社だ。ただ、その名を耳にする機会はほとんどない。わざわざ調べでもしない限り、存在すら知らない人のほうが多いだろう。実際、検索してみてもホワイトタワー警備会社は驚くほど表に出ておらず、公式サイトも拍子抜けするほど簡素だった。しかも、竹内グループとの直接的な資本関係もなく、傘下企業というわけでもない。凛はロゴから目を離し、そのまま中へ入った。美穂子は凛を見るなり、満面の笑みを浮かべた。「海斗様、今日はお食事とお手洗い以外、ちゃんとベッドで休んでましたよ。お薬も時間どおり飲んでます」今はまだ恵と理央が仕事の報告をしているという。それなら終わるまで待とうと思ったのだが、美穂子はもう寝室のドアをノックしていた。「海斗様から、凛さんが帰ってきたらすぐ知らせるように言われてますから」部屋へ入ると、恵と理央も凛を見て笑顔になった。まるで家中が浮き立っているようで、海斗が怪我をして療養中だということを忘れそうになる。もっとも、怪我をしている海斗自身も、どこか機嫌がよさそうだった。「凛さんも帰ってきたことですし、ちょうど報告も終わったので、私たちはこれで失礼しますね」恵と理央が部屋を出ていき、美穂子もそのあとに続いた。凛がベッドへ近づくと、海斗は壁の時計を見た。もう7時半を過ぎている。片眉を上げ、凛を見た海斗。「『すぐ帰る』って言ってなかった?」竹内家は多くの不動産を所有しており、海斗名義の資産も数えきれない。それでも彼がこの南山ヒルズを常宿としているのは、ここが竹内グループの本社ビルに近いからだ。「ちょっと用事があって」海斗が尋ねる。「誰に会ってた?」海斗はあえてそれ以上聞かなかった。凛が自分から話してくれるか、知りたかったのだ。「人」あまりにも素っ気ない凛の答えに、海斗が黙る。「男も女も。小林さんと智也に会ってきた」海斗は内心、ほっと息をついた。少なくとも隠すつもりはないらしい。とはいえ、運転手から報告を受けるのと、凛本人の口から「智也に会った」と聞くのとでは、やはり胸に刺さるものが違う。
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第660話

凛は男女のことを何も知らないわけではないし、夫婦生活がどういうものかも理解していた。かつて智也と結婚した時も、何も知らないままではいざという時に戸惑い、互いに嫌な思いをするかもしれないと、わざわざネットで調べたことがある。けれど、凛が心の準備を整えても、智也が彼女に触れることはなかった。もちろん、不思議に思わなかったわけではない。同じような夫婦について調べたこともある。夫婦でありながら長期間、肉体関係がないケースは実際にあり、男性側が身体的な問題を隠していたり、心理的な拒絶があったり、冷え切った夫婦関係が原因だったりと、理由はさまざまだった。それに、当時の智也は仕事が軌道に乗り始めたばかりで、とにかく忙しかったため、凛は何らかの身体的な事情に加えて、仕事の疲れもあるのだろうと思っていた。それが珍しいことではあっても、そういう夫婦がいないわけではない。だから、たまたま自分たちがそうだったのだと、自分に言い聞かせてきた。それが違うと知ったのは、3か月前。身体の問題でも、疲労のせいでもなかった。智也はただ、自分をそういう相手として受け入れられなかっただけ。彼にとっては、それが自分の愛を貫くことだったのだろう。しかし、柚葉とはいつでもキスができたし、酒に酔った勢いとはいえ、子供まで作った智也。結局、身体は正直なのだ。そして今、海斗がそれを身をもって証明してくれている。キスをしただけで、こんなにも分かりやすく反応してしまうのだから……凛の身体からは力が抜け、呼吸まで熱を帯びていく。腰に当たる硬い感触を意識した途端、顔が一気に熱くなった。海斗は獲物を捕らえた獣のように、凛のうなじに唇を寄せ、柔らかな肌を軽く噛む。抑えようとすればするほど、呼吸は深く……そして、荒くなっていく。我慢するほど腕の筋肉が硬く張り詰め、凛の体全体をしっかりと抱き寄せた。重なる吐息と鼓動が、やけに大きく聞こえる。「海斗……まだ怪我、治ってないでしょ」凛は唾を飲み込んだが、掠れた声は戻らなかった。海斗自身は、もう大した怪我ではないと思っていた。周りが少し大げさに心配しすぎているだけ。それでも、海斗はそこで止めた。凛にはまだ早い。たとえ凛に結婚経験があるといっても、自分たちは付き合い始めてまだ2日目。抱きしめて、キスまで許して
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