All Chapters of 元夫の後悔をよそに、天才妻は御曹司と溺愛婚: Chapter 661 - Chapter 670

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第661話

階下へ降りた凛は、料理を運んでいた美穂子と鉢合わせた。美穂子は凛を見て挨拶しようと口を開きかけたが、凛の顔が真っ赤なのに気づき、すぐに口を閉じた。これは、そっとしておいたほうがいい。先にダイニングへ行ってもらって、少し落ち着いてから料理を持っていこう。たったそれだけのことで、美穂子の想像はすでに二人の子供にまで飛んでいた。名前は何になるのかしら?もうすぐ竹内家の三代目のお世話をすることになったりして?竹内家は給料も待遇もよく、何より雇う側が使用人をきちんと尊重してくれる。福利厚生も手厚く、美穂子本人だけでなく、家族の仕事や子供の教育まで何かと気にかけてもらっていた。この先、竹内家の次の世代まで見守ることができたなら、それも悪くない人生だ。一方、凛の姿が見えなくなった海斗も、ようやく少しずつ落ち着きを取り戻していた。階下へ降りると、料理を手にしたままぼんやりしている美穂子が目に入る。「美穂子さん」「あ、海斗様でしたか。策先生から激しい運動は禁止って言われてますからね。ちゃんと先生の言うことは守ってくださいよ」海斗は軽く咳払いした。「ああ」ダイニングへ行くと、凛はテーブルの端に座っていた。海斗もいつもの上座には行かず、その隣の椅子を引いて腰を下ろす。隣に座られた途端、凛の身体がわずかに強張った。まださっきのことを意識しているらしく、ひたすら水を飲み始める。海斗はそのグラスを凛の手から取り上げると、テーブルに置かれた料理を半分ほど器によそい、凛の前へ置いた。「こっちを食べろ」凛はまともに海斗の顔を見られず、ちらりと横目で窺うだけだった。鋭く整った横顔。けれど口元にはうっすら笑みが浮かんでいて、いつもの近寄りがたい雰囲気はずいぶん和らいでいる。食事の途中で、策がやってきた。もう8時だというのに、二人が今頃夕食を食べていることに驚いたものの、自分も一緒に食べようとは思わない。自分は海斗の傷の処置に来ただけだ。二人が食べ終わるのを待って、策は何か思いついたように凛を見た。「凛さん、竹内社長の包帯替えてみる?」その瞬間、美穂子もぴんときた。こういうのって、二人の距離がぐっと縮まる定番の展開じゃない!二人がそれぞれ別の思惑を巡らせているのを、海斗は一目で見抜いた。「策」低い声が飛ぶ。「金だけもらって
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第662話

策はそれで押し切るつもりらしい。だが、恋愛小説を読み漁っている美穂子にごまかしが通じるはずもない。海斗に至っては、男同士のうえに策と千晴の事情も知っている。今のメッセージがどういう意味なのかなど、説明されるまでもなかった。3人の間に、妙な結束感が生まれる。結局、何も分かっていないのは凛だけだった。もっとも凛は他人の事情を詮索する性格でもない。策が副業をしようが、本人の自由だ。処置を終えて帰ろうとした策を、海斗が呼び止めた。「どうやったんだ?」聞くつもりはなかった。だが、策に突然とんでもない幸運が舞い込んだように見えて、さすがに気になったのだ。海斗はてっきり、策はこのまま一生思いを胸に秘め、遠くから千晴を見つめ続けるものだと思っていた。以前、パーティーで千晴が別の男と踊る姿を遠くから見つめながら、策が苦しげな顔でこう呟いたことがある。「高嶺の花っていうのは、遠くから眺めてるから綺麗なんだよ」その時初めて、海斗は策の気持ちを知ったのだ。策も、海斗には隠しきれないと分かっているし、隠すつもりもなかったが、凛の前であまり露骨な話をするわけにもいかない。それに、海斗の聞き方も妙に真面目だった。「偶然」と一言で片づけ、策はまた腰を下ろした。「学術とは無関係の交流の場で、ある化学物質の影響もあって、その後さらに別の場所で……かなり踏み込んだ交流をすることになったんだ。その結果、特定の面では相性が悪くないことが分かった。あるいは、俺の行動や考え方が相手から一定の評価を得た、と言ったほうが正確かな。それに対して報酬が支払われている。ただ、俺としてはその報酬を受け取るつもりはない。でも向こうには向こうのルールがあって、受け取らない限り、この関係は続けられないらしい」どこまでも事務的だった。さらに真顔で付け加える。「でも、この方法はあんたには向いてない。相手の性格が違えば、取るべき方法も違うからな。まあ、こういうことだ」今度は美穂子がぽかんとし、凛も分かったような分からないような顔をしていた。海斗だけが「そうか」と頷き、もう帰っていいと目で告げる。策は薬箱を手に、逃げるように出ていった。これ以上、あの場にはいられなかった。外の冷たい風に当たると、ようやく頭が冷えてきた。携帯を取り出す。千晴はまた策
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第663話

智也は柚葉を凍りつくような目で睨みつけた。「お前、自分が梅毒に感染してることも、そのせいで子どもを無事に産めない可能性が高いことも、全部知ってたんだろ?だから最初から産むつもりなんてなかった。けど、自分から堕ろしたんじゃ、谷口家の望みどおりになる。それが嫌だった……違うか?うまく運ばないと悟ったお前は、別の方法を思いついた。流産を俺のせいにし、俺に罪悪感を抱かせる……そうすれば、俺が裁判でお前を庇うかもしれないし、多額の財産を返すことになっても、助けてもらえるかもしれない。そう考えたんだろ?」最後の一言は、歯を食いしばるように吐き出された。反射的に身を引こうとした柚葉だが、全身傷だらけで、思うように動けない。「柚葉……お前、どこまで人を利用すれば気が済むんだ!」自分を怒鳴りつける智也を見て、柚葉は心の底から恐怖を覚えた。凛を車で轢こうとしたときは、どちらかが死ねばいいとまで思っていたが、事故のあと、血まみれで車から這い出した瞬間、死ぬのが怖くなった。今の自分は身動きすら満足に取れない。智也が本気で何かしようとしたら、自分はどうなる?柚葉は必死にナースコールを連打した。智也は振り返ると、病室のドアを閉めた。今日は何があっても答えを聞くつもりだった。「智也……何するの?」「子どものこと、最初から全部仕組んでたんだろ?」智也が一歩ずつ迫ってくる。柚葉は首をすくめ、歯を食いしばった。「今さらそんなこと蒸し返して、何になるの?もう終わったことでしょ?」「終わってない」智也は柚葉を憎んでいた。それなのに、子どものことを思うと、どうしても罪悪感が消えずに、そのわずかな罪悪感が毎日のように彼を苦しめていたのだ。「やっぱりわざとだったんだな。先に薬を飲んで、それからエスカレーターで俺に近づいた。俺がお前を生理的に受け付けなくなってることを知っていたから、俺が突き放すのを待ってたんだろ?そうすれば、俺のせいで流産したことにできるから。いろんな男と関係を持って梅毒にまで感染して……今じゃ、あの子が本当に俺の子だったのかさえ疑わしい」自分と智也の関係が、愛情から憎悪へ変わってしまったことくらい、柚葉はもう分かっていた。なら、自分だけが苦しむつもりはない。「子どもは間違いなくあなたとの子だから」柚葉はきっぱりと答えた
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第664話

柚葉は目を見開いた。必死にベッドから降りようとしたが、智也が一歩下がったため、そのまま床へ転げ落ちてしまい、全身に激痛が走る。ナースコールを受けた看護師が、外からドアを叩いていた。この患者が病院の大株主に目をつけられていることは知っているが、それでも、患者に何かあっていいわけではないし、上からもそう厳命されていた。「何してるんですか!開けてください!警察を呼びますよ!」そのとき、夕食を手に戻ってきた利明が異変に気づき、病室に駆け寄った。床に倒れている柚葉と、それを冷ややかに見下ろす智也。バンッ!利明が病室のドアを力任せに蹴り開けた。智也が振り返る。「神谷弁護士が戻ってきたぞ」明らかに、柚葉に聞かせるための言葉だった。柚葉は怯えきった顔で、二人を話させまいと涙ながらに利明の名を呼び続ける。利明は智也を鋭く睨みつけると、すぐに柚葉を抱き上げ、ベッドへ戻し、智也に向き直ろうとした瞬間、柚葉がその腰にしがみついた。柚葉の体は、利明の腕の中で、まるで過度に怯えた小動物のように震えていた。利明は彼女をなだめながら、看護師に声を荒らげ、智也を病院から追い出すよう要求した。そんな柚葉を見て、智也はようやく分かった。自分が当事者になって初めて、かつて凛がどれほど苦しんでいたのかを思い知る。何も見ようとせず、何も分かろうとしなかった昔の自分。目の前の利明と、何が違うというのだろう。智也が口を開こうとした瞬間、柚葉が利明の腕の中で意識を失った。「柚葉!おい、柚葉!」利明が医師と看護師を呼ぶと、駆けつけた医療スタッフに押しのけられる形で、智也は病室の外へ出た。それでも智也は腹が立たなかった。病室の外に出るとすぐ、智也は警察に通報した。柚葉による凛への殺人未遂を訴え、昨夜の録音データもそのまま提出する。そして、柚葉がこれまでしてきたこともすべて利明に突きつけるつもりだった。彼女が最後にすがっている相手までが、真実を知ればどうなるのか……智也はもう容赦する気はなかった。だが、その後、利明と顔を合わせる機会はなかった。利明は昼夜を問わず柚葉につきっきりで、智也が姿を見せるたび、柚葉は利明の腰にしがみつき、怯えたように震えた。もっとも、そんな芝居がいつまでも続くはずもない。恐怖に怯えるふりを続けているうちに、柚
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第665話

柚葉はたちまち不安で顔をこわばらせた。「息子は、正月明けにでも折原家のご令嬢である折原早紀(おりはら さき)さんと婚約させるつもり。あなたが以前、海外で一度あの子を助けてくれたことには感謝してるわ。だから利明も、自分の貯金をあなたのために差し出し、将来を棒に振る覚悟でA市まで来て、あなたのそばにいた。それで十分よね?」「母さん!」利明が割って入った。「僕は早紀さんと婚約するなんて、一度も言っていないだろ?」「あなたの意思なんて関係ないの」彰菜は利明を冷ややかに見た。「これはお父さんと私で決めたことだから、あなたに口を挟む権利なんてない」そして、まるで品定めでもするような彰菜の視線が、再び柚葉に向けられる。その目には明らかな不満が表れていた。「これ以上あなたの好きにさせたら、自分から身を滅ぼすだけだから」「どうして昔から、何ひとつ僕自身に決めさせてくれないんだ?」利明は初めて、彰菜に真正面から反発した。「子どもの頃、りんご飴が食べたいって言えば不衛生だから駄目。幼なじみと同じ高校に行きたいって言えば父さんに反対されて、彫刻を学びたいって言ったときは、勝手に法学部を選ばれた。30年生きてきて、僕が自分で選べたものなんて一つでもあったと思う?」意地になったように柚葉のそばへ行き、その手を強く握る。「僕が好きになったのは柚葉だけ。早紀さんと婚約する気も、結婚する気もないから」そこまで強く選ばれても、柚葉の胸に喜びはなかった。あるのは、どうしようもない不安と恐怖だけ。とりわけ彰菜から冷たい視線を向けられると、名家の人間が持つ無言の圧力に息苦しささえ覚えた。「利明、私たちが今までしてきたことの何が、あなたのためじゃなかったっていうの?全部あなたの将来を思って、道を整えてきたのよ?」ずっと聞き分けのよかった息子が、よりにもよってこんな女のために、自分に反抗してきた。彰菜の怒りは一気に燃え上がり、柚葉を鋭く睨みつける。「大したものね。人の家庭を壊して、一人の男の人生まで台無しにして、それでも足りずに今度は私の息子の未来まで潰すつもり?」「そんな……誤解です……」柚葉は慌てて否定しながら、利明と美雪へ助けを求めるように視線を向けた。「母さん、柚葉は悪くない。すべて僕が勝手にやっていることなんだから、責めるなら僕だけにしてくれ
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第666話

病室で起きたことは、すべて海斗と凛の耳にも入っていた。もちろん、智也が証拠を持って利明を訪ねたことも。「これだけじゃ足りない」凛が言った。「小林さんを有罪にする決定的な証拠にはならないし、殺人未遂として立件するにも弱い」だが海斗は、別のところに引っかかっていた。「いや、何かがおかしい」凛が振り向く。「おかしいって何が?」「小林一人でここまでやれるとは思えないんだ。裏に誰かいる気がする」リビングにいた全員の視線が、一斉に海斗へ集まった。真っ先に口を開いたのは日和だ。「黒幕?小林さんの両親は田舎の実家へ戻ったし、松田家も見放してるんでしょ?谷口さんに関しては論外。殺してないだけ理性的なくらいなんだから。利明もそんなことするとは思えない。家族と揉めてはいるけど、神谷家そのものを潰すような真似はしないと思う。犯罪に手を染めたら、それこそ一族の面汚しだもんね」策も同意するようにうなずいた。彼にも、ほかに思い当たる人物はいない。凛は一人の名前を思い浮かべた。「陸川さん?」しかし、海斗が首を振る。「違う。陸川社長は利益で動く人間だ。得になる相手には手を貸すが、価値がなくなればすぐ切る。松田さんが失脚した今、小林を助けるメリットはないからな。それに今回、巻き込まれたのは俺だ」ディープデータ・テクノロジーが竹内グループに喧嘩を売るはずがない。同じ規模の会社を十社束ねたところで、竹内グループには到底及ばないのだから、損得で動く人間が、そんな無謀な賭けをするはずもないのだ。凛にも、ほかには思いつかない。日和と策も首をひねった。すると、ふと日和が口を開く。「そういえば、彰菜さんがA市に来たんだよね?だったら、うちの両親も食事くらい一緒にするんじゃない?私たちも呼ばれるんじゃ……」その瞬間、電話が鳴った。「あ……」日和はスピーカー通話に切り替える。「もしもし、お母さん。今、お兄ちゃんのところにいるよ」「知ってるわ。いったん戻ってきて。これから食事に行くから」「彰菜さんと?」「ええ、さっき美雪ちゃんとA市に到着したのよ」日和は、目の前の海斗と凛をちらりと見た。「じゃあ、お兄ちゃんは?」「彼女ができたばかりの人が、わざわざ来る必要ないでしょ?」瑶子は、みんなが何を気にしているのか分かっていた。
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第667話

凛は裕二に礼を言った。裕二は穏やかにうなずくと、ふと思い出したように尋ねる。「二人は、最近策に何があったか聞いているかい?」「え?」「あいつ、急に勉強熱心になって、薬の研究に取り組むと言い出したんだよ。5年前にD国の生物医学ではトップクラスの大学に留学させようとしたんだけど、行き先で突然引き返してきてね。でも、最近になってまた興味が湧いたようで、憑かれたように猛勉強を始めているんだ」海斗は何かを察したように答えた。「5年前にあいつを引き返させた人が、今度は前に進む理由になったんでしょう」裕二は一瞬きょとんとしたあと、納得したように笑った。「なるほど、そういうことだったのか」検査結果を手に病院を出ると、凛は海斗に尋ねた。「策先生が好きな人って?」海斗は頷き、簡潔に答える。「千晴さん」凛の足が止まった。だが、思い返してみれば納得できることばかりだったのかもしれない。クルーズ船では、策はずっと千晴のそばにいたし、診療所でも彼女の癖や好みを驚くほどよく把握し、何かと細かく気を配っていた。そして数日前の二人の、どこか妙な空気……そういうことだったのか。では、5年前に何があったのだろう?「5年前に千晴さんが大病を患って、策は心配でたまらなかったらしい。だから、乗り継ぎの空港に着いた途端、そのまま引き返してきた」まるで凛の考えていることが分かっているかのようだった。凛は顔を上げ、海斗の端正な横顔を見つめる。自分が見られていることに気づいたのか、海斗は嬉しそうに話を続けた。「D国への留学には、3年留学しただけなのに、体感では7年っていう有名な冗談があるんだ。だから、策があそこへ行っていたら、いつ戻ってこられるか分からなかった」凛は頷いた。「でも、策先生はまた挑戦するんでしょ?」「あいつならD国だけは絶対避ける」それはそうかも。車に乗ると、凛は海斗に告げた。「今日は家に帰るね。康平も戻ってきてるから」海斗は名残惜しかったが、引き止めはしなかった。何しろ、まだ式も挙げずに入籍すら済ませていないのだから、自宅に戻るのが当たり前である。今日はいつものセンチュリーではなく、カリナンで来ていたため、警備員に止められた。二人は車を降り、歩いて中へ入ろうとする。そのとき、凛が足を止めた。「すみません。も
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第668話

もともと凛は、自分の気持ちを大げさに口にするタイプではない。嬉しいときも、心を動かされたときも、表に出すのはほんの少しだけ。そんな凛が、自分のことを「パートナー」と言った。自分が思ってる以上に、凛は自分のことを好きなんじゃないか?でなければ、「パートナー」なんていうはずがない。込み上げる喜びをどうにか抑えながら、海斗は自ら運転して敷地内へ入り、以前日和の車が停まっていた場所に自分の車を停めた。カシャッ。凛が見ると、海斗が今停めたばかりの車を撮っている。「ん?」凛は不思議そうに海斗を見つめた。海斗は携帯を下ろし、凛にも見えるようにして、その写真を日和へ送った。文章など必要ない。この1枚の写真だけで、自分の立場を示すには十分だった。もう日和の車を借りてこっそり入る必要はない。これからは自分の車で堂々と凛の家まで来られる。凛は、写真1枚にこれでもかと滲み出る海斗の得意げな気持ちを察し、笑いそうになった。同時に、胸の奥がじんわり温かくなる。海斗が携帯をしまった直後、着信音が立て続けに鳴り始めた。凛が横目で見る。しかし、海斗は平然としていた。「悔しがってるやつは放っておけばいい」凛はとうとう吹き出した。「日和さんはあなたの妹でしょ?」「君たちは距離が近すぎるんだ」「は?」温かな手が凛の指の間に入り込み、そのまましっかりと指を絡める。海斗はつないだ手を持ち上げ、念を押すように言った。「君には俺がいる」凛はその手を見つめ、二人の間へ下ろした。「知ってるよ」「ならいい」口調には少しだけ釘を刺すような響きがあったが、その目は優しかった。凛も素直に何度もうなずいた。階段では、海斗が少し前を歩き、凛の手を引いて上っていく。凛にとって3階くらい大したことはなかったが、海斗に手を引かれていると、心なしか体を軽く感じる錯覚に陥った。きれいに掃除された階段は明るく、少し前を歩く海斗の姿がよく見える。凛はいつの間にか、その背中をじっと見つめていた。気づけば彼は少しずつ自分の日常へ入り込んできて、いつの間にか欠かせない存在になっていた。だから恋人になった今も、不思議なくらい違和感を感じない。むしろ、こうなるのが自然だったような、妙な安心感があった。海斗が歩を止めた。振り返ると、凛がまだ自分
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第669話

凛は唇をきゅっと結んだものの、こらえきれずに小さく笑った。海斗はたまに子どもみたいに思える時がある。でも、そこが可愛い。康平には姉がなぜ笑っているのか分からなかったが、凛につられて白い歯を見せた。しばらくにこにこしたあと、自分の部屋を指さす。「薬草、覚える」まだ宿題が残っているらしい。凛は「頑張って」と部屋へ戻るよう促し、自分は冷蔵庫を開けた。果物に手を伸ばしたところで、横から海斗の手が伸び、目の前にあったブドウを一房丸ごと持っていく。「ほかは?」「メロンがあるけど、それくらいでいいよね。夜だし、食べすぎないほうがいいから」海斗はメロンも丸ごと取り出し、視線でその先を促した。果物を食べるのだから、当然、洗って切る必要がある。分かっていて聞いているようにしか見えない。凛がキッチンへ向かうと、海斗もついてきた。凛が袖をまくろうとしたところで、海斗が先にシンクの前に立つ。「凛はそこで指示して」場所を取られ、凛は仕方なく横へ退いた。海斗は袖をまくり、引き締まった腕をあらわにすると、大きな手でブドウを一粒ずつ洗い始めた。その姿を見ていると、凛にはどうにも大げさに思えてしまう。「皿」と言われて、凛はすぐに食器棚を開け、白い皿を一枚差し出した。つやつやしたブドウが次々と皿に盛られていく。続いてメロン。表面を水で洗い、まな板に載せ、包丁もさっとすすぐ。そのまま迷いなく切り分けていく。大きさは少々不揃いだったが、手つきだけ見れば慣れたものだった。実は、海斗がメロンを切るのはこれが初めてだ。ただ、もともと覚えがいい。これくらいなら、一度やり方を見れば十分だった。三角形に切り分けたメロンの一つを、海斗は真っ先に凛の口元へ運んだ。凛が手で取ろうとすると、渡してくれない。食べろということらしい。凛は素直に口を開け、差し出されたメロンをかじった。甘い、驚くほど甘かった。「彼氏って何のためにいるか知ってるか?」海斗は、凛がゆっくり咀嚼するのを見ながら尋ねた。まだ口の中にメロンが残っていて、凛は答えられない。「彼氏は使うためにいるんだよ。だからいろんな意味で、遠慮なく使えばいい」ブドウとメロンを二皿に分けると、海斗は両手に一皿ずつ持ち、顎で凛に先に出るよう促した。一皿は康平の部屋へ。康平は素直に
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第670話

やがて胡蝶蘭を抱えて戻ると、そっとローテーブルに置く。すっと伸びた茎も、瑞々しい蕾も、きれいなままだ。「まだ咲かないのか?」「調べたけど、もう少しかかるみたい」凛は目の前の胡蝶蘭を眺めながら、嬉しそうに言った。「海斗、私ね、毎晩これを見ながら寝てるの」凛にしてみれば、ただの何気ない話だった。だが次の瞬間、海斗に顎を軽くつままれ、顔を彼のほうへ向けられる。目が合った。海斗の指が、柔らかさを確かめるように頬を軽くつまむ。そして凛が不思議そうに見返したその直後、唇が重なった。あまりに突然のキスだった。それも、ほんの一瞬。けれど凛の胸には、小石を落とした水面のように、幾重にも波紋が広がっていく。触れたばかりの柔らかな熱が、まだ唇に残っている気がした。心臓が何度も大きく跳ねる。そんな初々しい反応を見ていると、海斗はまたキスしたくなる。だがこの家には康平もいるし、先ほど凛の彼氏と呼ばれたばかりだ。さすがに今日はこのくらいにしておこう。海斗は携帯を取り出し、胡蝶蘭の写真を一枚撮った。それを見た凛が、つい口にする。「私も毎日、朝起きた時に撮ってるよ」「そんなに好き?」凛は澄んだ瞳で海斗を見つめた。「うん」胡蝶蘭を眺め終えた海斗は、帰ることにした。これ以上ここにいれば、欲張って凛を困らせてしまいそうだった。それに、さっき寝室で見かけた紙。あそこに書かれていた内容を思えば、凛が自分との関係に踏み出すまで、どれほど勇気が必要だったのかも分かる。「今夜は本邸に帰る」玄関まで来た凛がうなずいた。「見送りは大丈夫だ」凛が階段を下りていく自分をいつまでも見送らないように、海斗は自分からドアを閉めた。だが、バルコニーからも外が見えることまでは頭になかった。車のそばまで来た海斗は、何となく凛の家を振り返った。すると、ベランダに凛がいて、自分に向かって小さく手を振っていた。海斗の足が止まった。帰りたくない……凛はいつだって無自覚に、こうして自分の心を揺らしてくる。彼女の細やかな優しさに触れるたび、あのとき諦めずに手を伸ばしてよかったと心から思うのと同時に、智也には一言言いたくなる。こんなにいい女を、よくあんな扱いができたな。海斗は凛にメッセージを送った。【寒いから中に入れ】【分かった】と
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