All Chapters of 元夫の後悔をよそに、天才妻は御曹司と溺愛婚: Chapter 681 - Chapter 690

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第681話

しかも事情を知る者の多くは、英樹の孫娘である柚葉が私怨から凛を狙ったと考えていた。だから、研究者としての凛を狙った事件とは言い難いのだ。公安調査庁が重要研究者を守るのは、その人物が担う国家的な研究や立場を守るためであって、個人的な揉め事すべてを扱うためではない。それでも、凛は自分の立場を使うことを選んだ。今回の襲撃が研究者としての自分に対する報復だった可能性がある。そう正式に申し立てれば、「可能性」である以上、公安調査庁も無視はできない。そして研究所の新しい責任者が今の地位に就けたのは、英樹の失脚があったからでもあるし、その失脚には凛の存在が深く関わっていた。だから、責任者はすぐに了承し、その場で証明書の発行と公安調査庁への正式な連絡手続きを進めた。念のため、凛自身もオンラインで申請を出す。公安調査庁まで調査に加われば、今度こそ柚葉の犯行を裏付ける証拠が見つかる可能性は高いし、柚葉に罪名がつくだろう。海斗が負った傷を、なかったことにはしたくない。海斗が外で待っていることを思い出し、凛はオンライン申請を手早く済ませて研究所を出た。道路脇にはカリナンが停まっていた。海斗は車の横に立っている。冷たい風が、髪と頬を撫でていた。凛は急いで駆け寄った。「車の中で待っててって言ったのに」「知り合いを見かけたから、挨拶しようと思って」海斗が言う知り合いとは、彰菜だった。実際には、海斗が車内にいたところで外からはほとんど見えないため、わざわざ降りて挨拶する必要もなかった。しかし、彰菜は神谷家の人間だ。しかも、彰菜は研究所から出てきた。数分前、凛は「B市から来た人に呼ばれた」と言って中へ入っている。彰菜もB市から来たばかりだ。海斗が車を降りたところで、彰菜はすでに慌ただしく車へ乗り込み、そのまま走り去ってしまった。海斗のすぐそばを通ったのに気づきもしない。眉を寄せたまま、明らかに上の空だった。海斗は凛に尋ねた。「誰に会ったんだ?ずいぶん早かったけど」凛は自分のマフラーを外し、そのまま海斗の首に巻いた。「乗ってから話すよ」首元に暖かさが広がるのと同時に、凛の纏う淡いオーガニック系の香りが海斗を包んだ。凛はシートベルトを締めると、さっきの問いに答えた。「会ってたのは、美雪さんたちのお母さんの彰菜さんだっ
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第682話

もともとは3日間待つ約束だった。ところが、凛に会った彰菜はホテルへ戻るなり、慌ただしく荷物をまとめ始めた。利明が自分から帰らないなら、力づくでも連れて帰る。縛ったままでは飛行機に乗せられないなら、車で高速を使えばいい。美雪が「何かあったの?」と聞いた途端、彰菜はぴしゃりと遮った。「帰るわよ。今すぐに」母親のあまりに切迫した様子に、美雪の疑問はますます深まった。そこへ、利明を連れ戻しに行ったボディーガードから電話が入った。抵抗されて怪我をさせるわけにもいかず、無理に連れてくることはできないし、利明本人も帰る気はないという。彰菜は腹を立て、そのまま病院へ向かった。美雪も後を追いながら、こっそり携帯で連絡を入れようとする。しかし、彰菜に携帯を取り上げられてしまった。「利明のことは今日、何が何でも連れて帰るから!」美雪は取り上げられた携帯を一瞥しただけで、特に取り返そうとはしなかった。それよりも、母親の異変のほうが気になる。「お母さん、何があったの?」「お母さん」と呼ばれたことで、彰菜の足が止まった。荒立っていた気持ちが、すうっと落ち着いていく。彰菜は美雪の手を強く握りしめ、言い聞かせるように言った。「美雪、あなたもお兄ちゃんも、ちゃんとお父さんとお母さんの言うことを聞くのよ。私たちは、あなたたちを傷つけるようなことは絶対にしないから」「うん、分かってるよ。お母さん」美雪は母親の手がひどく冷えていることに気づき、握り返して優しくさすった。彰菜は思わずため息を漏らす。「やっぱり、美雪は本当にいい子ね」そしてまた前を向く。その眉間には薄い憂いが残っていた。美雪は彰菜の肩へそっと頭を預けた。「だって私、お母さんの娘だもん。娘がお母さんに優しいのは当たり前でしょ?」彰菜はすぐに答えた。「もちろん。あなたは私の娘よ」その言葉に、美雪の胸はかえってざわついた。普通なら、「本当にいい娘ね」とでも返すところだ。わざわざ「あなたは私の娘」と、母娘関係そのものを念押しする必要などない。関係を確認するような言葉が出るということは、その前に何かを疑ったということではないのか?美雪は諦めきれず、もう一度探りを入れた。「お母さん、凛さんには会えた?何を話したの?」彰菜は少し黙ったあと、うなずいた。「ええ」それだけで
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第683話

次に恐れたのは、父親が凛と会い、親子ならではの何かを感じ取ること。けれど、それも起こらなかった。茂はすでに凛に会っている。A市に長く滞在していた理由も、おそらく凛に関係しているのだろうと美雪は思っていた。なのに、父親は何一つ露骨な行動を見せなかった。彰菜から一本の電話が入ると、すぐに家へ戻り、凛についても一切口にしない。だから、美雪も一時は自分の考えすぎかと疑った。だが、親子鑑定のサンプルは自分で用意したし、検査の過程も人をつけて確認させたから、結果が偽物であるはずがないのだ。それなのに、今日の母親の反応はあまりにもおかしい。凛に会った途端、急いで帰ろうとしている。それも、まるで逃げているように……一体何から?凛から?だったら、どうして?どれだけ考えても分からない。やがて車が病院へ着き、美雪の思考は中断された。彰菜は怒りの形相で病室の前に立つと、問答無用で連れてきたボディーガードに指示を出し、利明を拘束しようとした。利明は、母がここまで強硬に出るとは思わなかった。「3日っていう約束だろ?なのに、なんで突然こんなことをするんだ?」「私があなたの母親だからよ。あなたが30歳だろうが40歳、50歳だろうが、私が生きている限り、あなたは私の息子なの」彰菜はそう言うと、自分から前に出て言った。「さあ、帰るわよ」しかし、利明も譲らない。「嫌だ」責めるような彰菜の眼差しに対し、利明は言葉を続けた。「少なくとも、今は無理だ」柚葉は今日も事情聴取を受けたばかりで、精神的にもかなり参っている。そんなときに一人残していけるはずがなかった。「あなたに決める権利はない!」「母さん!」利明は苦悶の表情を浮かべた。「そこまで僕を管理しないと気が済まないのか?」「ええ」利明は、何をするにも制限される人生にもう耐えきれなくなっていた。そして自分でも思いもしなかった言葉を口にする。「だったら……もう僕のこと、息子じゃないって思ってくれないか?」彰菜は全身を震わせ、信じられないという目で利明を見た。「私がどれだけ苦労してあなたを産んで、育ててきたと思ってるの?それなのに今さら、息子なんていなかったことにしろって?よくそんなことが言えるわね!」利明は美雪を一度見た。「母さんには、僕一人じゃないだろ?」彰
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第684話

利明には、凛という女がまるで疫病神のように思えてならなかった。どこまで行っても神谷家につきまとってくる。人の将来を潰し、縁談を横取りし、関わる人間をことごとく苛立たせる。ろくなことをしない女だ。「母さん、何しにあの女のところへ行ったんだよ?」利明は苛立たしげに尋ね、美雪をちらりと見た。「美雪の縁談のため?草壁家と神谷家の結婚は昔から決まってるんだから、あの二人がどれだけ想い合ってたって、最後はどうせ美雪と結婚するんだろ?」「それが分かっているなら、どうしてあなたは私たちの言うことを聞かないの?早紀さんはバレエ団のプリンシパルなのよ。柚葉さんなんかよりよっぽどいいじゃない!」彰菜に睨まれ、利明は言葉に詰まった。母親と言い争っても勝てない。そう悟った利明は背を向け、父親に電話をかけた。「父さん」その一言を口にした途端、彰菜が利明の携帯を奪い取る。「何するつもりなの!」利明も限界だった。目を真っ赤にさせ、彰菜に言い返す。「それはこっちの台詞だよ!美雪のことで凛さんに会いに行って、話がうまくいかなくて腹を立てたなら、凛さんに言えばいいだろ!なんでその八つ当たりを、僕にするんだよ!」彰菜の瞳が揺れた。何か言おうと唇を開いたものの、反論の言葉が出てこない。利明が携帯を奪い返し、もう一度茂へ電話をかけた。「父さん。もう僕への資金援助も止めたし、神谷家の人脈も使わせないようにしただろ。だったら父さんも母さんも、僕のことには口を出さないでくれ」利明が彰菜を冷たく見て言い放った。「母さんがA市に来て、僕を連れ戻そうとするんだ」電話の向こうから、茂の落ち着いた声が返ってきた。「もうそっちへ向かっている。母さんに代わってくれ」利明は携帯を彰菜へ差し出す。彰菜は受け取ると深く息を吸い、なんとか感情を抑えて口を開いた。「あなたが利明への援助も人脈も全部断ったこと、私は最初から反対だったわ。それに、柚葉さんとのことも絶対に認めない。あなたが来たって同じよ」「利明のことで行くんじゃない」「じゃあ、何……」そこまで言った瞬間、彰菜は何かに気づいたように言葉を止めた。先ほどまでの勢いが、嘘のように消える。「分かった。利明を無理に連れ帰るのはやめる。だからあなたは来なくていいわ。私が美雪を連れて、今すぐ帰るから」茂は溜息をついた。「もう
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第685話

消毒薬の匂いが漂う病院の廊下で、利明が言う。「母さん、今日は美雪を連れてホテルに戻ってくれ」彰菜も、これ以上息子を説得するのは無理だと分かっていたし、何より美雪の体調が心配だったため、仕方なく美雪を連れ、ホテルへ戻った。美雪は様子をうかがいながら尋ねる。「お母さん……今日、帰るの?」彰菜は窓の外を眺めたまま、複雑な表情を浮かべた。「お父さんがもうこっちへ向かってるから。それに……また喧嘩しちゃったし」「また?」その言葉に美雪は引っかかりを覚えた。記憶にある限り、両親が本気で喧嘩したことなどない。父はいつも母に折れていたし、母もたまに感情的になってきついことを言うことはあったが、度を越すことはなく、落ち着けば自分から謝っていた。以前、親戚から聞いたことがある。母は自分を出産したあと、産後うつになった。しかし、母が情緒不安定になり、ひどく取り乱すことがあっても、そのたびに父が根気強く寄り添っていたという。彰菜は我に返り、うなずいた。「あなたが生まれたばかりの頃、一度だけ大喧嘩したことがあるの」美雪の目から、すっと感情が消えた。「私が女の子だったから?」彰菜の瞳が大きく見開かれた。何かを言おうとしたものの、すぐには声が出ない。それから一拍遅れて、強く否定する。「そんなわけないでしょ!何を考えてるの?さっき病院でお母さんとお兄ちゃんが言い争ってたから?あれはそういう意味じゃないのよ」彰菜は美雪を抱きしめ、慰めるように言った。「お母さんも、お兄ちゃんも、そんなつもりじゃない。だから、変なこと考えないで。私の娘はあなただけ。誰よりも大事に決まってるでしょ?」「うん。分かってる」美雪は甘えるように母親へ頬を寄せた。声はいつも通り、素直で柔らかいが、その瞳には暗い影が沈んでいた。「お母さん、疲れたでしょ?少し休んだら?」彰菜は確かに疲れ果てていた。利明のことで、心身ともに消耗している。「お母さん、休んできなよ」美雪は立ち上がり、母親が寝室へ入っていくのを見送った。彰菜からも「あなたもちゃんと休みなさい」と念を押され、美雪は素直に「うん」と答えた。胸にはまだ鈍い痛みと息苦しさが残っている。だが今は、それどころではない。突然ぶつかり始めた両親、急にA市へ向かってきた父。そして、これから自分が何をすべきか……それに比べれば、この痛み
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第686話

一番町特別宿舎10号棟。家にいるのは凛と海斗だけだった。凛はソファに座ったまま、ずっと黙り込んでいた。やがて湯気の立つハーブティーが目の前に置かれ、ようやく顔を上げて海斗を見る。「さっき車の中で言ってたこと……どういう意味?」本当は、意味なら分かっていた。ただ信じられないだけ。あるいは、そんなことがあるはずがない、自分が考えすぎているだけだと思いたかった。海斗はそんな凛を見て、あんな不用意なことを言わなければよかったと、これまでの人生で一番の深い後悔に襲われていた。凛に何かを隠し通すのは、ひどく難しい。彼女が黙り込んだり、何かに悩み始めたりすると、途端にすべて話してしまいたくなる。海斗は拓海に電話をかけ、スピーカーにして携帯をテーブルへ置いた。凛が不思議そうに見る。「社長」「調べはついたか?」海斗はいきなり本題に入った。「28年前、彰菜さんが美雪さんを出産した病院は特定できました。ただ、当時出産を担当した医師や看護師は全員すでに退職していますし、電子カルテもない時代なので、残っている紙の記録も不完全です。住所が分かる人は一通り当たりましたが、区画整理や転居などで追えない人も多く、有力な証言は得られませんでした。ただ、一つ気になる噂がありました」凛の呼吸が止まった。「どんな噂ですか?」「凛さん?」拓海は一瞬驚いたようだったが、すぐに平静を取り戻した。「当時の病院関係者の間で、ある政府関係者の奥さんが出産のため入院していたという話が残っています。ところが出産後、赤ちゃんが半日ほど行方不明になったらしいんです。その日の夜には見つかったそうですが、母親はひどく取り乱して、その直後に退院したと……それで、その女性が彰菜さんだったみたいです。いったん行方不明になったあと戻ってきた赤ちゃんが美雪さんってことは、以前、社長がお母様から聞いた話とも一致していると思います」凛は驚いて海斗を見た。海斗と瑶子たちは、ずっと前からこの話をしていたのだろうか?海斗は話の続きを促す。「続けろ」「はい。それから当時の坂本先生――坂本徹(さかもと とおる)さんについてですが、茂さんと同じく上層部から昇進候補に挙げられていました。二人は同僚であり、同時にライバルでもあったようです。当時の実績、家柄、人柄の三点から比
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第687話

神谷家の人間が実際にどう思っているのかまでは、海斗にも分からない。「いつから調べていたの?」凛が海斗に尋ねた。「G県から戻ってきてすぐ」「そんなに前から……」凛は小さく呟いた。「凛が自分の生い立ちをどう思ってるのか、分からなかったから、黙って調べてたんだ」凛は何も言わないが、怒っているようにも見えない。かといって、気にしていないようにも見えない。海斗は落ち着かなかった。他人なら、いちいち自分の行動を説明しようとは思わない。だが、凛は違う。自分で選んだ、大切な恋人なのだ。「俺は昔からこうなんだ。疑問があれば、全部調べてはっきりさせたい。何か起きてからじゃ遅いから、できる限り先回りして、状況を把握しておく。それに、もし凛がいつか自分の生い立ちを知りたいと思ったとき、すぐに調べたことを渡せるようにしておきたかった。それと最近、美雪が凛のことを妙に気にしてるし、それが恋愛絡みだけの理由だとは思えないんだ。だから、凛に危険が及ぶ可能性があるなら、先に潰しておきたくて」凛は自分のもの。自分のものは、自分で守る。美雪の名前を聞いたところ、凛の目がわずかに動いた。「何か思い当たることでもあるのか?」凛はカフェで初めて美雪に会ったときを思い出した。突然現れて無理やりコーヒーをご馳走すると言った、あの奇妙な執着心。あのときから妙に積極的だった。それに、施設で自分についてあれこれ尋ねていたこともある。「G県から戻ってきてから、美雪さんとはほとんど関わってないよ」「ああ」海斗もホワイトタワーへ行っていなければ深く考えなかっただろう。だが、調べたからこそ分かった。それに、表立って接触しないこと自体が、美雪の巧妙さなのかもしれない。幼い頃から父に言われてきた。本当の権力は、人前で振りかざすものではない。姿を見せず、裏側から人を動かすもの。役職や肩書きなど、その力が目に見える形になったものの一つにすぎない。表に出ている人間や出来事の裏には、時として見えない手がある。まるで操り人形の糸を引くように……海斗は尋ねた。「ノートパソコン、借りていいか?」凛は書斎のデスクへ目を向けた。海斗はそこへ行き、パソコンで一枚の相関図を開いて凛に見せる。「分かるか?小林の一件、あちこちに美雪が絡んでる」凛の表
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第688話

凛は、一人になって少し考えたいと言った。凛がそう言ったので、海斗はいつものように彼女の意思を尊重する。「分かった」それだけ言って立ち上がった。部屋を出る前、海斗は一度だけ振り返った。広い机の前に座る凛は、何も言わずただ窓の外を見つめていて、いつもよりずっと小さく見えた。ドアが閉まると、海斗は車に戻った。けれど、そのまま帰ることはしない。自分がまだ本当の意味で凛の心の奥まで入れてはいないことを、海斗は分かっていた。凛はあくまで「付き合ってみよう」と言ってくれただけ。だから、こんなときまで無理にそばに残れば、かえって彼女を困らせる。一人になりたいと言うなら、その時間を与えてあげよう。恋人だからといって、相手のすべてを埋め尽くしていいわけではない。大人には、一人で考える時間も必要だ。凛も、海斗を責めているわけではなかった。ただ今はまだ、自分の考えていることも、過去も、すべてをさらけ出して海斗に話せるほど、自分の中で整理できていないのだ。施設の子供たちは、多かれ少なかれ一度は実の親を探したいと思うが、本当に見つかる子はどれほどいるだろう?多くはそのまま里親や養親に引き取られていくのが関の山だった。凛と同じ時期に施設にいた子は、女の子が多かった。理由の大半は、遺棄。子どもの頃は、捨てられることの意味すら分からなかった。親の愛を欲したこともあるが、少し大きくなって現実を知ると、そんな夢はいつの間にか消えてしまった。憎まずにいられるだけでも十分なのに、どうしてわざわざ、自分を捨てた人を探しに行かなければならないのか。施設には、その後も次々と子供がやってきた。最初は女の子が多かったが、やがて、障害のある子供たちが増えていった。そんな現実を見続けるうちに、皆の心も少しずつ冷めていった。捨てられたことが変えられない運命なら、自分を捨てた親を追いかけないことくらいが、最後に残った意地だった。学生時代の凛には、親探しに割く余裕などなかったし、卒業して結婚してからは、そんなことを考える暇もなかった。だから、いつの間にか、自分には最初から親を探したい気持ちなどなかったのだと思うようになった。でも、それは違ったらしい。海斗から「若い頃の茂に似ている」と聞いた瞬間、初めて気づいた。その気持ちは、消えていたのではなく、ずっと心の
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第689話

イタリア風シーフードスープ、パイナップル入り酢豚、アスパラガスの牛肉巻き……これらを見て凛は思い出した。どれも、以前海斗に作ったことのある料理だった。あのとき、このメニューを選んだのは海斗の好みを考えたからで、実際、海斗はとても喜んでくれた。ただ、途中で智也のことで急に外へ出なければならなくなり、戻ったときには海斗はもういなかったのだが、代わりに冷蔵庫には、凛のために食事が残されていたことを今でも覚えている。凛はそれらのメニューを選んだ。それから携帯を探す。しかし、いつの間にか電源が落ちていたため、すぐに充電器につなぎ、起動する。通知が表示された瞬間、凛は自分が海斗からのメッセージを期待していることに気づいた。だが、海斗からは何も届いていない。心が少し沈む。凛はトーク画面を開き、文字を打ち始めた。もう家に帰った?ご飯食べた?怒ってる?しかし、それらを送る前に、海斗からのメッセージが届いた。【落ち着いたか?】凛は一瞬固まった。どうしてこの人は、まるでこちらの様子が見えているみたいなタイミングで連絡してくるのだろう?打ちかけていた文章を消す。【少しは】【海斗はもう家に着いた?】【夕飯は食べた?】最後の「怒ってる?」を打つ前に、海斗が一つずつ返信してきた。【まだ帰ってない】【まだ食べてない】そして、間髪を入れず、こんなメッセージが送られてくる。【少し落ち着いたなら、もう会っていい?】凛は目を見開いた。胸の中に、一つの答えが浮かび、勢いよくバルコニーへ向かう。薄暗い街灯の下、駐車場を見ると凛の駐車スペースに車が停まっていた。カリナンが、まだそこに停まっている。凛は携帯を握る手に力を込めた。そして、メッセージを返す。【海斗、見えない】次の瞬間だった。カリナンのライトが点いた。運転席のドアが開き、海斗が長い脚を踏み出す。そのまま車の前へ出て、ヘッドライトの中に立つと、光が彼の影を長く伸ばした。凛がバルコニーから見ていることを、海斗は知っていた。顔を上げる。けれど、もうそこに凛はいなかった。ほどなくして、階段を駆け下りる足音が響き、足音に反応して、廊下の照明が次々と点いていく。建物から飛び出した凛は、車の前に立つ海斗を見つけ、ようやく足を緩めた。海斗も凛に気づいた。二人
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第690話

凛はブランド物にまったく疎いわけではない。特に腕時計やネクタイ、ベルトの類なら、以前は智也のためにずいぶん念入りに選んだこともある。千万円をも軽く超える高級時計を、海斗はまるで何でもないもののように「買ってきた」と差し出した。莫大な資産を持つ海斗にとっては、指の隙間からこぼれる砂粒ほどの金額なのかもしれないが、凛にとっては十分すぎるほど高価なものだった。しかもこれは、何かのお礼でも対価でもない。プレゼント。智也も昔はくれたことがあったが、これまで、誰かから贈り物をもらうことはあまりなかった。凛はケースの中の時計を見つめた。嬉しくないわけではない。むしろ、嬉しかった。それでも、もうたった一つの優しさだけで簡単に心を許す自分には戻りたくなかった。凛はケースを閉じ、海斗を見た。「高すぎるよ。たぶん、私はつけない」「分かってる」すべては海斗の予想通りだった。「俺が贈るのは俺の自由だし、使うかどうかは凛の自由だ。でも、受け取って」それが、凛に向ける海斗の数少ない強引さだった。凛の胸が小さく揺れた。この人は、どうしてこんなに自分と噛み合うのだろう、と凛は改めて思う。自分が傷ついて縮こまっているところでは、海斗が一歩踏み込んできてくれるし、逆に傷ついたせいで自分が壁を築いているところでは、無理に壊そうとせず一歩引く。自分に変わることを求めずに、そのままの自分に合わせるように、絶妙に距離を取ってくれる。あまりに出来すぎていて、逆に詐欺かと思うくらいだった。「そんなに俺のことを見て、どうしたんだ?」海斗は、凛の澄んだ瞳にうっすら笑いが浮かんでいることに気づいた。何か面白いことでも考えているらしい。しかも、その原因はたぶん自分だ。返事がないので、海斗はもう一度、「ん?」と促した。少し伸びた男の語尾が、凛の耳に妙に残る。28歳にもなった大人の女の心を、平然とかき乱してくる声だ。「上でご飯食べよう」凛は自分から海斗の手を引いて先を歩いた。後ろは振り返らなかったが、すぐ後ろから海斗の低い笑い声が聞こえた。次の瞬間、大きな手が凛の手をしっかり握り返す。ただ手をつないだだけ。それなのに凛は、ひとつ気づいた。自分から何かすると、海斗は嬉しそうにする。そして、その心から嬉しそうな様子を見ると、凛まで少し幸せになるのだ。家のドアを
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