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第701話

凛は日和の大げさな言い方を聞いているうちに、なんだか顔が熱くなってきた。海斗だって、妹に二人きりの邪魔をされたくはなかったが、凛が心に違和感を持っている今、凛といちゃついている場合ではない。茂が何も答えず、逃げるように帰ってしまったことが、凛の心に引っかかっているのだろう。はっきりした答えは得られなかったものの、茂の表情や態度を見れば、凛と神谷家に何らかの関係があることはほぼ間違いなかった。ただ、それがどんな関係なのかまでは分からないし、これ以上無理に踏み込むべきでもない。凛が口にした「偶然だと思う」という言葉からも、神谷家と関わりたくないという気持ちは伝わっていた。今の凛には恋人だけではなく、そばにいてくれる人生の先輩や友人も必要だ。人は恋愛だけで満たされるものではない。海斗は昔から、そういうところによく気が回る。感情を表に出さない凛は、何を考えているのか分かりにくいけれど、ずっと彼女を見つめ、大切に思ってきた海斗には分かっていた。一見すると海斗らしくない気遣いも、これまでさまざまな愛情に恵まれずに生きてきた凛には、その意図がきちんと伝わっている。凛は海斗の手をぎゅっと握り、日和に言った。「一緒にいこう」日和はくるくると目を動かしていたが、やがて二人の意図を察したらしい。背筋を伸ばし、得意げに顎を上げる。「そこまで言うなら、この私が二人のスティーブになってあげましょう!」カップルの行く先々についてきて、食事でも旅行でも記念写真でも必ず一緒にいる第三の友人――それが「スティーブ」。デートにいつも友人のスティーブがついてくるというSNSで流行った歌が元になっている。日和は二人の前を歩きながら、上機嫌に鼻歌まで歌い始めた。「スティーブ、トゥルトゥトゥトゥ、スティーブ」その姿を見ているうちに、凛の顔に残っていたかげりもいつの間にか消えていた。海斗に何か言おうと顔を向けると、彼はごく自然に身をかがめ、耳を寄せてくる。「日和さん、本当に可愛いね」「へぇ、そうか?」と、じっと横目で見てくる海斗。凛は、そんな海斗もかわいいと思った。とはいえ、大の男に向かって「かわいい」と言うのもどうかと思い、口にはしない。凛は杏に電話をかけ、これから夕食を食べに行くと伝えた。すると杏は凛に返事をするより先に、そばにい
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第702話

案の定、一言一句そのまま伝えると、利明の顔はみるみる険しくなった。立場が違えば、同じ場所に立っているように見えても越えられない壁があり、家柄も力も、その間に目には見えない境界を作る。実権を握る者と、肩書しか持たない者では、置かれた立場がまるで違うのだ。利明も頭では分かっていたが、ここ最近になって初めて、権力が持つ圧力を身をもって思い知らされていた。海斗の言い分は間違っていない。今の彼と対等に話せるのは、同じように組織や一族を背負い、実権を握っている人間だけだ。利明は下ろしていた手を強く握った。凛に会えないだけではなく、家同士が古くからの付き合いで、自分より年下の海斗にすら会えない。弁護士としても、自分個人としても、神谷家の御曹司としても通用しなかった。かなり堪えている様子を見て、恵は少しだけ口調を和らげた。「社長は大変忙しい方ですので、事前のお約束がなければお会いになるのは難しいんです」「忙しいって、恋人と出かけるからですか?」恵は赤い唇に笑みを浮かべた。「仕事と家庭をどう両立するかは、社長ご自身がお決めになることです。あの立場にいながら両方をこなせないようでは、それこそ名ばかりの社長になってしまいますから」遠回しに自分まで皮肉られた気がして、利明は黙り込んだ。恵は続ける。「社長のご両親ですら、社長の私生活には口を出しませんから」ましてや部外者のあなたには関係ない――そこまで言わなくても、意味は十分伝わるだろう。それでも利明は、海斗に会わなければ凛にも会えないと分かっていたため、席を立とうとしなかった。「待ちます」「ご自由にどうぞ」恵は受付に、飲み物などは普通に出すよう伝えてから自分のオフィスへ戻る。そして海斗に状況を報告しながら、神谷家の御曹司も面倒な人だと内心で呆れていた。海斗からはすぐに返信が来た。【そのまま放っておけ】【君たちは定時に上がっていいし、相手をする必要はない】海斗は凛の目の前で堂々と返信しており、隠す気などまるでない。凛にも人のやり取りを覗き見る趣味はないのだが、海斗がわざわざ携帯を見えるところに置いているせいで、恵から届く文面がすべて目に入ってしまう。「神谷弁護士はどうしてあなたのところにまで来たの?」「君に会う手段はないが、神谷の名前があれば俺には会えると思ったん
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第703話

日和は幼い頃から仲のいい両親を見慣れているので、二人が手をつなぐくらい何とも思わない。なのに海斗は凛越しに、冷ややかな非難の目を向けてくる。今度は一体何なのだ?兄を怒らせるようなことをしたのか?自分にだって人権はある!日和はむっとして窓の外を向いた。そこでようやく、凛も海斗の視線に気づき、つないだ手を指先で軽く挟んだ。何も言わなくても海斗には伝わったらしい。「怒ってない」日和が勢いよく振り返った。「怒ってた!凛さん、お兄ちゃんに言ってやってください!」海斗まで凛を見て訴える。「俺は何も言ってない」兄妹に挟まれた凛は、何とも幸せな板挟みだった。どちらの肩を持つべきか、これはなかなか難しい。「着いたよ」凛が窓の外を見ると、ちょうど車が静かに停まった。3人が降りたあと、海斗は腕時計を確認して「あと2分待って」と言った。2分もしないうちに理央が車でやって来て、後部座席から贈り物を取り出す。「社長、ご要望の品です」海斗が受け取ると、凛と日和はそろって不思議そうな顔をした。いつの間に用意したのだろう?だが、杏のところへ行こうと言い出したのは海斗だ。何の準備もせずに来るはずがない。海斗にとって、凛の家族同然の人に会うのはこれで二人目だった。一人目は柑奈。二人とも凛の人生で母親のような存在なのだから、軽く考えられるはずがない。隆にも言われている。相手の大切な人たちを大切にできない男に、彼女の心を手に入れる資格はないため、当然、祝福してもらえるはずもない。贈り物を手に中へ入っていく海斗を見ながら、凛はふと気づいた。海斗は最初から、結婚を見据えて自分と付き合っている。ずっと家庭を持つことを望んできた凛にとって、それはあまりにも心に響いた。また海斗に惹かれていく。この人はいつも、自分の心を動かすところを外さない。海斗は杏を「二宮教授」とは呼ばず、「杏さん」と呼んだ。凛の恋人になってから杏と顔を合わせるのは、今日が初めてだった。杏はずっと以前から、海斗が凛にひそかに思いを寄せていることには気づいていて、そして当時から今まで、心の片隅には一つの懸念が残っている。それは、家柄や立場の違いを気にしているわけではなく、心配なのは二人とも口数が少ないこと。そして何より、海斗があまりにも大きな力を持っている
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第704話

凛は驚いて海斗を見る。自分の立場を知る前から好きだったの?そんなに前から?しかし、杏は驚かなかった。初めて海斗が凛のそばにいるのを見たときから、すでに気づいていたからだ。だからこそ当時、竹内家の娘は素直でいい子だが、兄のほうはなかなか腹の内を見せない男だと思っていた。竹内家は名家とはいえ、実業家の一族だ。商売をする人間は利益を求めるもので、まして頂点に立つ海斗ほど忙しい人間が誰かに近づくなら、何かしら目的があるはず。だが当時、凛の立場は伏せられていて、実業家として海斗が求めるほどの価値は表に出ていなかった。となれば、残るのは男女の感情しかない。それでも杏は、二人が付き合うことはないと思っていた。でも、まさか本当に一緒になるとは……凛に寄り添ってくれる人ができたことは嬉しいし、海斗が周囲に交際を公表したことからも、本気なのは分かる。ただ、人の気持ちは変わってしまうもの。ここ2年ほど、自分でも体力の衰えを感じていた杏は、慎重にならざるを得なかった。二度と凛を、智也のような男に傷つけさせるわけにはいかない。「竹内社長。あの頃、凛はまだ離婚していなかったわよね?」「はい」杏が何を聞きたいのか、海斗には分かっていたし、自分でも褒められたことではないと思っている。「ですが、凛が離婚に向けて動いていることは知っていました。だから、たとえ谷口の父親が口を出さなかったとしても、俺が何かしていたと思います」杏は聞いた。「凛から聞いたの?」凛は、あとになって海斗にも話した覚えはある。ただ、最初に打ち明けたのは日和だった。日和はすぐに首を横に振った。「凛さん、私はいつでも凛さんの味方ですよ」そう言うと、再びおとなしく口を閉じた。海斗も首を振る。「聞いていません」凛は思わず尋ねた。「私が言ってないのに、どうして分かったの?」海斗は横を向き、凛を見つめた。「谷口と結婚してどのくらいか、何度か聞いたことがあるだろ?3回とも、君はまったく同じ日数を答えた」日和がその数字を口にする。「4年と115日!」海斗は頷く。「海斗……」凛は唇を結び、それ以上何も言わなかった。そんな細かなことまで覚えていたのなら、海斗が最初からどれほど凛を気にかけていたかが分かる。すると、杏はさらに、一つの仮定を投げかけた。「もし凛が最後まで離婚し
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第705話

凛は杏と仁をちらりと見て、つないでいる手を引こうとしたが、抜けなかった。海斗は明らかに力を入れていない。けれど凛も……それほど力を入れていなかった。まあ、いいか。このままつないでいよう。そんな二人に気づいた日和は、うつむいてこっそり笑った。凛が何事もなかったように座り直すと、海斗はわずかに口元を緩め、杏に向き直って最初の質問に答えた。「初めて会ったときから、俺は凛のことが好きでした」「私たち、もっと前に会ったことあった?」凛は不思議そうに海斗を見た。髪は乱れ、頬には平手打ちされた跡が残り、泣きじゃくっていたあのときの自分を見て好きになったとは、とても思えない。「エレベーターで会ったとき」え?聞きたいことはあるのに、どう聞けばいいのか分からなかった。一目惚れというのは、もっときれいな姿を見たときにするものではないのだろうか。よりによって、あんなにぼろぼろだった自分に一目惚れするなんて。凛は探るような目で海斗を見つめた。だが海斗はそれ以上説明せず、杏に向かって続けた。「凛がほかの人に好かれるかどうかは知りません。でも、俺はすごく好きです。凛は俺の好みそのものでした。というより、凛に出会って初めて、自分がどんな人を好きになるのか分かったんです」凛に出会うまで、海斗は自分がどんな女性を好きになるのか知らなかった。明るくて可愛い女性?家にはすでに騒がしい妹が一人いる。華やかで堂々とした女性?たとえ策がいなかったとしても、千晴に心を動かされることはなかっただろう。優しく控えめな女性?美雪がどれだけ手を尽くしても、海斗は何も感じなかった。杏が訊ねる。「つまり、凛は初めて本気で好きになった人ってこと?」海斗は頷いた。「はい。だから俺は凛を見上げていたい。俺がそうしていれば、誰も凛を見下せませんから」智也も谷口家の人間も、ずっと凛を見下してきた。海斗の言葉に、凛の心はすっかり乱されていた。「普段はこんなこと言わないくせに」咎めるような言い方だったが、本気で責めているわけではない。ただ、どう反応すればいいのか分からなかった。胸がざわつき、鼓動は速くなる。いろんな感情が次々と込み上げてきて、落ち着かない。「もういいから。水飲んで」凛はひたすら海斗のグラスに水を注ぎ、海斗も出された分を素直に
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第706話

凛は杏と仁に手を振って別れた。海斗は車のそばで待っており、日和はすでに助手席に座っている。「どうして助手席に乗ってるの?」凛は不思議そうに聞いた。日和は窓から顔を出し、呆れたように兄を横目で見た。「私、助手席が好きなんです。助手席って良いと思いません?」凛が海斗を見る。「俺は何も言ってない」実際、海斗は何も言っていなくて、日和が自分で察しただけだった。今までは兄が凛にちょっかいを出さないか心配で、何度も二人についてきた。だが今はれっきとした恋人同士なのだから、そろそろ邪魔をするのも控えたほうがいい。兄がすかさず弁解する姿を見て、日和は声を上げて笑い、そのまま窓を閉めた。海斗はすぐに凛へ訴えた。「濡れ衣だ」大柄な男が、まるでひどい目に遭ったかのように真顔で訴えてくる。凛は以前、海斗に頭を撫でてもらったときのように、自分も頭を撫でて慰めてあげたいと思った。もちろん、まだそこまではできない。代わりに海斗の手を取り、指を軽く握った。「分かったから。乗ろう」「ああ」海斗は先に凛を乗せ、自分も後から乗り込んだ。座った途端、前の座席との間にある仕切りがゆっくり上がっていく。海斗は内心、気が利くなと思った。凛は不思議そうに仕切りを見つめる。急に車内で二人きりになったような感覚になった。乗り込んだときから海斗は手を離しておらず、今も二人の手はつながったまま。それどころか、海斗は凛の指を弄び始めた。一本ずつ指を絡めたり、軽く押したり、指を組んだかと思えば、今度は手のひらごと包み込んだりする。こんなことを続けられたら、さすがの凛も平静ではいられない。「海斗」「ん?」海斗が目を上げてこちらを見る。ずっと指を弄んでいた本人とは思えないほど、何食わぬ顔をしていた。凛はようやく、以前日和が兄を「むっつり」と評した意味が分かった。「もう、いじらないで」海斗が小さく笑う。「何を?」凛はごくりと唾を飲んだ。「手。私の手」「手じゃなかったら、何をいじればいい?」「何かいじらなきゃ駄目なの?」「ああ」当然だ。凛の手は柔らかいし、自分が好きなように触れていても嫌がらない。それどころか、手のひらごと包み込ませてくれる。本当は、手だけで満足しているわけではない。ほかにも触れたいところはある。
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第707話

「え?」海斗の目は、今にも火がつきそうなほど熱を帯びていた。「ちゃんと答えて。俺の言葉、どのくらい響いた?」凛の呼吸が少し速くなった。「かなり。でも、人を好きになるのに、理由がないなんてことはないでしょ?あなたが言ったのは漠然としすぎてる。私のどこが好きなのかもっとちゃんと聞きたい」本当は、そこまで知りたいわけではなかった。ただ、この話をしていれば、二人とも少しは冷静になれると思っただけだ。車には運転手もいれば、日和もいる。「じゃあ、凛の具体的な理由は?」海斗にはとっくに分かっていたが、それでも凛の口から聞きたかった。すると凛は、以前あの紙に書いた理由にはなかった言葉を口にした。「正しいから」「ん?」海斗がわずかに首を傾げる。凛はその深い瞳を見つめた。二人の距離は近く、車内も薄暗い。それなのに海斗の目だけはひどく鮮明で、そこに自分の姿まで映っているような気がした。「海斗といると、正解が分かるの。一緒にいると楽しいし、大切にしてもらえるし、ちゃんと好きでいてもらえる。海斗が何かしてくれたり、何か言ってくれたりするたびに、ああ、こういうのが正しいんだって気づけた。実験で正しい結果が出れば、そのデータが研究を前に進めてくれるでしょ。海斗も同じ。私にこれでいいんだって思わせてくれるし、私の人生を前に進めてくれたの」「んっ……」凛がそう言い終わるや否や、海斗が身を寄せてきて、その唇を奪われた。凛の両手は左右に押さえられ、背中には温かな座席、目の前には熱を帯びた海斗の体がある。逃げ場を塞がれ、じっとしているしかなかった。唇を強制的にこじ開けられる。激しいキスだった。やがて手首は解放されたものの、今度は腰と顎を取られた。凛は行き場をなくした手で座席をつかみ、勢いの止まらない口づけを受け止めるしかない。「凛……」海斗は凛の名前を呼び、キスの合間に途切れ途切れに囁いた。「さっきは杏さんの前だったから言えなかったけど、俺が凛に抱いてる気持ちは、そんなきれいなものばかりじゃない」唇が離れた。海斗は凛のまぶたにそっと触れる。「俺が口付けをすると、君はいつも息をするのを忘れるだろ?息を止めてるから、目が赤くなって潤んで……今みたいに、泣きそうな顔になる。そういう凛を見ると、俺はすごく……」海斗は凛
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第708話

「海斗、いい加減にして」凛は、甘えるように迫ってくる海斗に耐えられなかった。深い瞳には笑みが浮かんでいるのに、そこに宿る欲は隠しようもない。凛の呼吸までまた乱れてくる。口を塞ごうとすれば手のひらにキスされるし、ならばと目を覆えば、海斗が瞬きをするたびに睫毛が手のひらをくすぐり、それすら口づけのように感じてしまう。凛には、どうにも海斗を抑えられない。もっとも、海斗のほうは凛になら抑えられても構わないらしく、ようやく大人しくなった。甘い空気は少し落ち着いたものの、海斗の下半身はまだ平静を取り戻せていない。困った凛が窓を開けようとすると、海斗が止めた。「君が冷えるから、開けなくていい。そのうち勝手に収まるから」凛は黙って窓の外を向いた。車が竹内家の本邸の門前に着いても、首筋に残った赤みはまだ消えていなかった。日和は車を降りると、気を利かせて窓を叩いて挨拶することもなく、携帯にメッセージを送ってきた。【先に家に戻りますね】【おやすみなさい、凛さん】それを見た凛は、さらに顔を赤くした。すぐに携帯を伏せて膝の上に置き、軽く咳払いをする。喉が少し乾いていた。すると次の瞬間には、海斗が蓋を開けたミネラルウォーターを差し出してきた。凛はすぐに受け取り、何口も飲む。海斗も新しい一本を開け、一気に飲み干した。思わず凛が驚いて見ると、海斗は空になった容器を手にして言った。「ちょっと頭冷やしてる」車は再び走り出し、一番町特別宿舎10号棟へと向かった。駐車場に着いても、海斗は一緒に上がろうとはしなかった。ここで部屋までついていけば、今度こそ自制できる自信がない。凛も、今は駄目だと言っていた。凛が建物の中へ入るのを見届けると、海斗は運転手に車を出させた。背後から車が遠ざかっていく音が聞こえても、凛は振り返らなかった。ただ、うつむいて小さく笑う。家に戻ると、康平はすでに美穂子に迎えに来てもらい、夕食も済ませていた。今は書斎で静かに勉強しており、分からないところがあれば豚型ロボットの豚ちゃんに教えてもらっている。「康平」「姉ちゃん!」康平はぱっと目を輝かせ、すぐに立ち上がって凛のところへ来た。それでも、机に置いてあった美穂子の切った果物を忘れず、宝物でも差し出すように両手で凛の前へ持ってくる。凛はその
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第709話

その直後、凛は自分が軽く考えていたことに気づき、はっとした。自分は今、国のプロジェクトに関わっているため、少し特殊な立場にある。また、施設出身の自分の経歴では、少し審査が難しくなるかもしれない。けれど、期待に満ちた康平の目を見ていると、「やっぱり無理」とは言えなかった。もしかすると、柑奈に言われたあの言葉が、いつの間にか心の奥に根づいていたのかもしれない。康平が自分の家族になるのも悪くない。離婚してからというもの、凛は仕事に追われ、谷口家との間に残っている細々とした手続きを後回しにしていた。それに、仕事上の都合で名字を変えると何かと支障が出るため、離婚後も公の場では「谷口」を名乗ることがあった。だが、康平と養子縁組をするとなれば、手続きを進めるうえで、谷口家と顔を合わせる必要も出てくるかもしれないが、そうしたこともきちんと整理しなければならないだろう。「手続きの方法は調べておくから、もう遅いし今日は寝なさい」康平は机の上の宿題を見て、人差し指を立てた。「あと、ちょっと」凛は彼の頭を優しく撫でた。「分かった」凛は先に寝室へ戻ると、枕元に置かれた胡蝶蘭が目に入った。少しずつ花が開き始めている。凛は携帯で写真を撮って海斗に送ると、そのまま浴室へ向かった。服を脱いだところで、自分の体に海斗の香りが残っていることに気づく。清涼感のあるウッディ系の香り。こんなに涼やかな香りなのに、触れるほど近くで感じた彼の息は、あんなにも熱かった。浴室の湯気のせいか、また頬が熱くなる。風呂から上がると、海斗から何件もメッセージが届いていた。【やっぱり胡蝶蘭は凛によく似合う】【選んだときからそう思ってた】【凛もこの胡蝶蘭と同じだ】【自分のペースで咲く】【俺はまだ着いてない】【もうすぐ】【着いた】【返事は?】【また忙しい?】【ダイトとコマキが凛に会いたがってる】【見にくれば?】【ついでに俺にも会える】少し携帯を見なかっただけで、この量だ。凛の髪はまだ濡れており、頭には適当にタオルを巻いている。髪から落ちた水滴が何滴か画面に落ち、誤操作でそのままビデオ通話を発信してしまった。凛が焦っている間に、相手が通話に出る。画面いっぱいに海斗の精悍な顔が映った。上着はすでに脱いでおり、黒いシャツのボタ
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第710話

海斗は、自分が何を疑っているのかをすでに凛に話していた。拓海が何を調べに行ったのかも凛は知っている。ならば、拓海が戻ってくることも伝えておくべきだろう。拓海が会社に戻ったのは午後3時だった。通りかかった同僚たちから「拓海さん、出張から戻ったんですね」と声をかけられ、拓海は笑顔で「戻りました」と答えると、エレベーターで社長室のある階へ向かった。理央が嬉しそうに声を上げる。「森田さん、おかえりなさい!」「ただいま。今回は急な出張だったから、お土産はないけど」「いいよ、いいよ。そんなの気にしないで」恵が軽く顎を上げた。「社長と凛さんが中で待ってるよ。まあ、ブラインドは締め切ってるけど」最後の一言は、ノックは控えめに、という意味だ。中で何が起きているかは、誰にも分からないのだから。とはいえ、誰も本気で何かあるとは思っていなかった。凛は生真面目な性格だし、海斗が調子に乗ったところで簡単に許すはずがない。ただ、海斗が強引に甘えてきたら、凛が突き放せない可能性はある。そもそも凛が海斗を好きでなければ、付き合ってなどいない。この3、4か月一緒に過ごしてきた彼女たちには、凛が大切な相手にはとことん甘いことも分かっていた。まして海斗は策士だ。どうすれば凛が折れるか、誰よりよく心得ている。凛が敵うはずもない。拓海はすぐに察し、社長室の扉をいつもより控えめにノックした。それも、1回だけ。1分も経たないうちにドアが開いた。拓海が顔を上げると、凛が海斗のデスクに腰掛け、ちょうど社長椅子のほうを向いていた。拓海は即座に目をそらした。「失礼しました。そういえばまだ用事が……」「入れ」扉を開けたまま、海斗は恵と理央のいるほうへ声をかけた。「モップ」理央がすぐに取りに行き、中へ入ったところで、デスクに座る凛を見て一瞬固まった。床にはこぼれたコーヒーが広がり、凛の靴も濡れている。本当にただの事故だ。それでも、この位置はあまりにも誤解を招きやすかった。理央はほとんど顔を上げないまま床のコーヒーを拭き、拓海も割れたカップの破片を片づける。海斗は仮眠室から新しいスリッパを取り出し、部下たちが見ている前で、当たり前のように凛の靴を脱がせ、履き替えさせた。凛が足を引っ込めようとしたが、海斗は足首をしっかりと掴んで離さな
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