All Chapters of 元夫の後悔をよそに、天才妻は御曹司と溺愛婚: Chapter 791 - Chapter 800

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第791話

……外へ出た海斗は、少し先で立っている凛を見つけた。「待っていてくれたのか?」「うん。待ってた」海斗は前を向いたまま歩き出す。「行こう。すぐ人が集まってくるだろうけど、気にしなくていい」その予想は見事に当たり、今日の主役である凛が姿を見せると、若い招待客たちが次々と近づいてきた。ただ、凛の隣に海斗がいるせいか、必要以上に距離を詰める者はいない。皆、自分から名乗っていく。企業経営者の家の者なら、家がどんな事業をしているのかを簡単に話してから自分の名前を告げるし、政治や行政に関わる家の者なら、親がどこで何をしているのか、自分自身も仕事をしていればその職業まで添えていった。話を聞いているうちに、凛は気づいた。今日ここへ招かれている若者は、ほとんどがすでに何かしらの実績を持っている。それが、この場へ入るための暗黙の条件なのだろう。まあ、正人は別として、陸でさえ今は家の関連会社で経験を積んでいるところだ。対して、凛の自己紹介はひどく簡単だった。「凛です」たったそれだけ。すると誰かが不思議そうに尋ねた。「神谷凛さん、ではないんですか?」「違います」きっぱりと否定すると、何人かが驚いた顔をした。神谷家の実の娘だと判明したのに、なぜ神谷姓を名乗らないのか理解できないのだろう。さらに、別の一人がおそるおそる口を開く。「じゃあ……美雪さんは?これからも神谷姓のままで、神谷家にいるんですか?」「なんでそんなこと聞くの?」日和が即座に割って入った。「わざわざ凛さんを困らせたいの?美雪がどうするかと凛さんの名前は別の話でしょ。それぞれ自分のことを考えればいいじゃない。ほんと、余計なお世話」竹内家と草壁家の両方から可愛がられている日和を、わざわざ敵に回したい者はいない。質問した相手はすぐに口を閉ざした。その時、一人の女性が前に出てきた。軽やかで透明感のある声が響く。「はじめまして、凛さん。折原早紀です」早紀。利明との縁談が進んでいる女性だ。折原家の次女で、26歳にしてバレエ団のプリンシパルを務めている。すっきりと整った輪郭に、長く美しい首。すらりと伸びた腕と脚は均整が取れていて、歩いているときは軽やかなのに、立ち止まれば軸がまったくぶれない。本当に白鳥を思わせる、端正で優雅な佇まいだった。そのうえ、瞳まで驚くほど澄んでいる
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第792話

普通なら、2000字ほどの記事にざっと目を通すだけなら10分もかからないのだが、利明は柚葉についてまとめられた資料を流し読みするだけで、30分近くかかっていた。分厚い資料には文章だけでなく、写真や記録、証拠まで添えられていて、ページをめくるたび突きつけられる事実は同じだった。お前が愛した女は、息をするように嘘をつき、何人もの男を渡り歩いてきた。裁かれ、刑務所へ送られたのも、あの女が自分で招いた結果だ。それなのに、お前は何も知らず、ずっと騙され続けていた……智也ほど桁外れの金をつぎ込んではいないものの、それでも自分は柚葉に1億8000万円近くを渡している。しかも、本当ならこれらの事実はもっと早く知ることができたのに、すぐそばにいた悪意ある誰かが、自分の目を覆い隠していた。その誰かとは――誰より大切にしてきた妹、美雪だった。利明は資料を握りしめた。長いあいだ瞬きも忘れていたせいで目が乾き、身体の芯まで冷え切っている。柚葉の正体を知ったことと、美雪に真実を隠されていたこと。どちらのほうが苦しいのか、自分でももう分からない。このところ、自分はどれだけのものに逆らってきただろう。周囲が柚葉を非難しても、自分だけは彼女を信じて庇った。代わりに自由を手に入れられるなら、家の後ろ盾を失ってもいい。柚葉の祖父だけでも守れるなら、結婚相手を自分で選べなくなってもいい。それでも美雪を守れるなら、親しい友人から信用を失ってもいい……そう思ってきた。だが、それはすべて、柚葉が純粋な人間であり、美雪だけは心から自分を思ってくれていることが前提だった。結局、その二人に揃って騙されていた。「美雪、これ……ずっと前から知っていたのか?どうして?どうしてなんだ!」怒鳴り声が響き、利明の首筋に青筋が浮かぶ。美雪はびくりと身体を震わせた。利明がここまで怒る姿など、今まで一度も見たことがなかった。神谷家に人生を決められても、父親に人脈や後ろ盾を断たれても、母親に縁談を押しつけられても、兄がここまで激昂したことはない。美雪の目には涙がにじみ、利明の姿がぼやけた。あれほど正しいと思っていた自分の選択まで、兄の苦しそうな顔を前にすると揺らいでしまう。自分だって、本当はこんなことはしたくなかった。でも、ほかにどうすればよかったのだ?自分
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第793話

美雪は鼻をすすり、まっすぐ兄を見つめた。そして最後には、まるで揺るぎない決意のように言い切った。「もう一度同じことがあっても、私はきっと同じことをする。お兄ちゃんが大切にしてるものなら、私は守ってあげたいから。私のことは怒ってもいいし、嫌いになってもいい。これが……まだ私がお兄ちゃんの妹でいられるうちに、してあげられる最後のことだしね。どうせ、もう私は妹じゃなくなるもの。お兄ちゃんの本当の妹は、凛さんなんだから」利明は黙って美雪を見つめた。一言一言、確かに耳には入っているのだが、頭の中は絡まりきった糸のように混乱していた。自分はすでに柚葉に騙されていた。なら、目の前の女の言葉をまた信じていいのか?「それが、柚葉と一緒になって僕を騙した理由なのか?」「一緒になんて騙してない」美雪はきっぱり否定した。「昔の私は、柚葉さんのことを好きでも嫌いでもなかった。でも、お兄ちゃんが好きだったから付き合っていただけ。柚葉さんがお兄ちゃんを騙したのは、お金が欲しかったからだけど、私は違う。私はただ……」「僕のためか?」利明の喉は、ひどく乾いていた。「父さんと母さんと同じだな。みんな『僕のため』って言えば、それでいいと思ってるんだろ?」美雪の胸が、ひやりと冷えた。しまった。自分がどれだけ兄を思って行動したか、それを伝えることばかり考えていて、利明が何より嫌うものを忘れていた。本人が何を望んでいるかも聞かず、「あなたのため」と勝手に人生を決められること……「美雪、僕はお前のことも全然分かってなかったんだな」そう言い捨てて、利明はその場を去ろうとした。「お兄ちゃん!」美雪が慌てて呼び止めた、その瞬間だった。胸に鋭い痛みが走る。「……っ」本当に痛い。呼吸するたび胸が締めつけられ、美雪はその場にしゃがみ込んだ。胸元を手で強く押さえて、どうにか痛みに耐える。「お兄ちゃん……心臓が、痛い……」弱々しい声に、利明の足が止まった。振り返ると、美雪の顔は真っ青になっている。反射的に戻ろうとしたところへ、別の声が届いた。「利明くん」数日ぶりに会う利明を探しに来た早紀だった。凛たちと一緒に過ごしているうちに、やはり利明に会いたくなり、探しに行ってもいいかと尋ねたのだ。凛自身は利明に会いたくもなかったが、日和がいかにも面白そうな顔で腕を引き、「行こう
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第794話

「利明さん、なんでこっち見てるんですか?」日和が凛の耳元に小声で話しかける。「見るなら美雪のほうなのに。あの二人、喧嘩でもしたとか?言い合ってるうちに美雪が発作を起こして、利明さんがまた心配になったとかですかね?」凛もちらりと日和を見る。「あり得るね」日和は目を見開いた。「これがいわゆる弱い立場を演出ってやつですか?心臓の病気を最大限に使っちゃって。神谷家があれだけ大事に育ててきて、今までそんなに発作なんて起こしてなかったのに、凛さんが戻ってきた途端、あっちこっち悪くなるんだから」あまりに嫌味たっぷりな言い方に、凛は思わず笑ってしまった。「心臓の発作は、いつ起きるか分からないから」日和は唇を曲げた。「でも前にG県へ行ったときは平気だったんですよね?あそこって標高が高いんじゃなかった?」「標高が高いと酸素は薄くなるけど、それだけで必ず発作が起きるわけじゃないよ。それに美雪さんはG県生まれだから、お母さんのお腹にいたころから、あの土地の環境で育ってるし」そう言いながら、凛は大学時代のことを思い出した。同級生がG県へ旅行した際、「酸素が薄くてつらい」と話しているのを聞いて、そこで初めて、そういえば自分が育った土地は高地だったのだと思い出したことがある。子供のころから暮らしていたせいで、高地では酸素が薄いという感覚そのものが抜け落ちていたのだ。「へえ」日和は納得したように頷いた。やがて救急隊員が美雪を担架に乗せ、そのまま運んでいく。その様子を見ながら早紀が、利明へ静かに声をかけた。「今日はまだ、あなたのお母さんと会ってないの。あなたのお父さんには会ったけど……それに今、美雪さんまで救急車で運ばれたでしょ?」一度言葉を切り、利明を見る。「あなたは凛さんのお兄さんなんだよ、利明くん」利明は救急車には付き添わなかった。早紀を一度見てから、今度は凛へ視線を向け、そのままゆっくりこちらへ歩いてくる。「柚葉のこと、どうして僕に教えなかった?」「は?」日和の顔に、分かりやすく疑問符が浮かんだ。「自分で見抜けなかったのを、凛さんのせいにするの?」凛は淡々と返した。「私たち、そんなに仲がよかったですか?あなたの周りにいる人間を一人ずつ調べて、悪い人を排除してあげなきゃいけないくらい?」たった一度の問い返しで、利明は言葉に詰まった。胸
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第795話

美雪が救急車で運ばれたという話は、あっという間に広まった。同世代の招待客たちは視線を交わし合う。美雪がわざと発作を起こしたのか?それとも、本当に凛が美雪を受け入れられず、何かあったのか?ただ、凛は神谷姓すら名乗っていない。「凛」という名前だけで、すでに十分に知られている。神谷家の娘でなくても、自分の力だけでここまで来た人間が、今さら美雪を追い出す必要などあるのだろうか?今日初めて会った者がほとんどとはいえ、実際の凛は落ち着いていて、驕ったところもなく、芯の強さがある。陰で人を陥れるような人間には見えなかった。とはいえ、まだ何とも言えない。誰の側にもつかず、もう少し様子を見る。それが大半の結論だった。一方、神谷家の年長者たちは、そんな噂に流されるほど単純ではない。誰もすぐには口を出さず、まず茂がどう処理するかを見ていた。茂は剛に病院へ行くよう頼むと、美雪が発作を起こす直前、誰と一緒にいたのか尋ねた。そこで利明が自ら前へ出た。「僕だ」凛は意外そうに利明を見る。茂は眉をひそめた。「さっきから二人とも姿が見えないと思っていたが、何があった?」利明は拳を握った。今は父親の顔をまともに見ることさえできないし、ましてや、自分が何を見て、何を聞いたのかなど話せなかった。「美雪が発作を起こしたのは、僕のせいだ」「救急車を呼んだのもお前か?」「ああ。美雪に万が一のことがあったらって思って……」茂は頭を抱えたくなった。「お前は凛をさらし者にしたいのか!家の医者を呼べば済む話なのに、わざわざ救急車を呼んで大事にしてどうする!正座して反省してこい」利明は黙って向きを変え、去り際に一度だけ凛を見る。凛はというと、まるで他人事のように平然としていた。自分がいわれのない非難を受けているのに動揺する様子もなく、利明が罰を受けていることにも興味がないようだ。利明が立ち去ってまもなくのことだった。ほどなくして、招待客たちも少しずつ帰り始めた。神谷家は立場上、大人数を集めた宴席を長時間開くわけにはいかない。今日の披露も、本格的な宴会というより、短い集まりに近いものだった。今度は凛自身が門まで出て、一人ずつ客を見送る。茉莉は別れ際に言った。「またいつでも、海斗くんたちと一緒にうちに遊びに来てね」瑶子も続ける。「今日は
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第796話

海斗が門を出ていくのを見送った凛が振り返ると、ちょうど茂と剛がこちらへ歩いてくるところだった。茂は、28年間も離れていた娘を見るたび、目に後悔をにじませる。それでも何かを求める資格はないと思っているのか、いつもどこかで感情を抑えていた。今回も一度は口を開きかけ、ためらってから尋ねる。「本当に、うちには泊まらないのか?一晩だけでもいいんだ」二つの言葉の間には間があった。断られることは分かっているのだろう。それでも、せめて一晩だけでも娘に家で過ごしてほしい、そんな期待が慎重な言葉の端々から伝わってきた。凛の人生には、父親のような存在がほとんどいなかった。恩師の史哉だけはそれに近かったが、普段は穏やかで優しい人だったとはいえ、研究では厳しく、生活を共にした時間だって決して長くない。むしろ凛を支えてきてくれたのは、柑奈や杏をはじめとする母親に近い存在ばかりだった。そして今、目の前にいる茂は、初対面のときから不思議と親しみを感じた相手であり、本当の父親。それと同時に、自分を28年間家族の外に置いた父親でもある。凛だって、本当は家族を求めていた。そうでなければ、智也との結婚にもあれほど簡単に踏み込まなかっただろう。自分で家庭をつくれば、ずっと欲しかった家族というものを手に入れられるのではないかと、どこかで期待していたのだから。それでも、今はまだ感情だけで近づくことはできない。「ありがとうございます。でも、泊まりません」丁寧な言葉だった。だからこそ、その距離がはっきりと伝わる。父親に向ける娘の態度とはとても言えない。茂は胸が締め付けられながらも、それでも無理強いはせず、「分かった」と頷いた。凛が中へ戻ろうとしたところで、茂がもう一度呼び止める。「凛……連絡先だけでも、交換してもらえないか?」そう言って携帯を取り出し、少し照れたように笑った。凛はしばらく迷った末、自分も携帯を取り出した。それだけで茂の顔がぱっと明るくなる。連絡先を表示して凛へ差し出す指先は、わずかに震えていた。凛はそれに気づき、また胸の奥が複雑になる。電子音が鳴り、連絡先が追加された。茂は凛のアカウントを開くなりすぐに承認し、今度は慣れない手つきで何かを打ち込み始める。凛はそのまま将希のもとへ向かった。茂は娘の背中を、いつまでも見送っていた
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第797話

「凛が来た。下がってくれ」将希はそう命じて使用人を退かせると、凛の方を向いて尋ねた。「普段、筆で字を書くことはあるか?」凛は立ったまま答えた。「私たちにとってそういうのは習い事でしたので、書道教室に通って、お金を払わなければいけませんでした」将希は一瞬動きを止めた。そして凛を見据え、言葉を継ぐ。「苦労して育ったことは分かっている。今から始めても遅くはないし、わしが教えてもいいが……まあ、君は嫌がるだろうな。なら海斗くんに教わればいい。あれは祖父から豪快な字を、祖母からは端正な小筆習字を習っているからな」長く一緒にいるのに、海斗が書道を嗜むことなど凛は初めて知った。「もっとも、あの二人も元をたどれば神谷家の先祖から教わったものだ。草壁家は昔から武の気風が強い家だったが、神谷家は学問を重んじてきたからな」将希がそこまで話したところで、凛はあっさり遮った。「海斗が書道を嗜むことは分かりました」そして、まっすぐ本題へ入る。「私は28年前の話を聞きに来たんです。約束どおり話してください」将希がわざと話を逸らしていることくらい、凛には分かっていた。あのころの真相には、できるだけ触れたくないのだろう。筆を止めた将希は、静かに顔を上げ目の前に立つ凛を見つめる。敵意をむき出しにしているわけではないのに、彼女には妙な圧があった。何を言われても目的を見失わず、相手の話に流されない。将希はしばらく黙った末、ようやく口を開いた。「以前、君はわしに二つ聞いたな。なぜ捨てられたのか、そして誰が君を捨てたのか、と。君を捨てたのは彰菜さんだ。母親である彰菜さんが、君を連れ出して外に置き去りにした。なぜそんなことをしたのかは彼女本人にしか分からないが、もうここへ戻ってきたのだから、君が直接聞けばいい」責任を彰菜に押しつけて、話を終わらせるつもりだ。ずいぶん都合がいい。凛は容赦しなかった。「それだけでは足りません。あなたは私に神谷家へ戻るなら、28年前に何があって、なぜ私が家族と離れて育つことになったのか話すと約束しましたよね?続きをお願いします」将希の目がわずかに険しくなったが、それでも凛は目を逸らさずに、静かに見つめ返す。しばらく無言で向かい合ったあと、将希がようやく話し始めた。「話は、君の母親が妊娠していたころまで遡る。当時、茂はG県
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第798話

将希の胸がひやりとした。眉間に皺が寄る。凛はその変化を見逃さず、静かに問い返した。「本当に私を捜したのなら、どうして院長先生が私を保護してから半月もの間、何度も警察に届け出ていたのに、誰も名乗り出なかったんですか?私は、行方不明になった子供を捜す親のニュースをたくさん見てきました。普通の親なら、どんな小さな手掛かりでも追います。自分の子かもしれないと聞けば、そのたびに確かめに行く。違っていた、また違っていた……何度そうやって落胆しても、それでも捜すのをやめません。今ほど情報が広まらなかった時代でも、町中に貼られた尋ね人の紙や、子供の写真を掲げて捜し続ける親はいました。今なら、SNSで何度も拡散される捜索情報や動画もあります。私も、そういうものを何度も見ました。でも、その中に私を捜しているものは一つもなかった。G県、K市、28年前のあの時期、雪の日……そのうちいくつかでも一致していれば、もしかしたら私を捜している人がいるのかもしれないと思えたはずです。でも、何もありませんでした」将希は凛の黒い瞳を見つめていたが、やがてわずかに視線を逸らした。「茂は本当に君を捜した。昼も夜も関係なく、必死に捜したんだ」その言葉のどこまでが真実なのか、凛には分からなかったが、ここまで話を聞けば一つだけはっきり分かったことがあった。それは、将希は意図的に細部を伏せ、都合のいい輪郭だけを語っているということ。そして茂を庇う一方で、彰菜に責任を負わせようとしている。「では、どうして警察に届けなかったんですか?」凛は間髪を入れずに続ける。「28年前のK市なんて、今ほど大きくなかったはずですから、警察署や交番だって、数え切れないほどあったわけじゃないと思います。それに、どうして新聞に載せて捜さなかったんですか?どうして尋ね人の紙を貼らなかったんですか?」将希は答えられなかった。その沈黙を見て、凛はふっと笑った。冷たい嘲りが、わずかに混じる。「あの年、子供の遺棄に関する法律が厳しくなったばかりだったからですよね。しかも当時、秀明さんは公職での昇進を控え、身辺を厳しく見られる時期だった。そこで親族が生まれたばかりの子供を捨てたと公になれば、本人の将来にも神谷家にも傷がつく。だから警察には届けなかった。新聞にも載せなかった。尋ね人の紙も貼らなかった
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第799話

しかし、先頭を走る者ほど、まともに向かい風を受ける。誰にも分けられない重圧を背負いながら、自分で道を作らなければならない。だが、その言葉を聞いた凛の声は冷え切っていた。「埋め合わせ?」将希をまっすぐ見据える。「私に何かを与えて埋め合わせをしたつもりになるくらいなら、神谷家を仕切っている人たちに一度ちゃんと周りを見させたらどうですか?この世界にいるのは男だけじゃありません。女もいます。私一人じゃなく、神谷家で生きてきた女性たちに目を向けたほうがいい。神谷家の男だって、全員、女から生まれてきたんじゃないんですか?」将希の目が一気に冷えた。長年、人の上に立ってきた者の威圧感が、無言のまま凛へ向けられる。一瞬だけ、凛の身体が強張った。そのとき、海斗の言葉が頭に浮かんだ――主導権は凛にある。自分は真相を知るためにここへ来ただけで、それ以外のものなど、最初から求めていない。将希が「年長者に対する態度がなっていない」と言うのなら、その瞬間に帰ればいいだけだ。そう思えば、恐怖はすっと引いていった。凛は再び落ち着きを取り戻し、将希の冷たい視線を正面から受け止める。将希も分かっている。姓を変えていない凛は、神谷家で暮らすつもりもなく、今日はただ親族に顔を見せただけ。明日にでも「もう神谷家とは関わらない」と言われれば、このかろうじて結ばれた縁など簡単に切れてしまう。将希は結局、声を抑えた。「母親を庇っているのか?君を捨てたのは彰菜さんだぞ」「私を捨てたのは、神谷家です」将希は怒りで奥歯を噛み締める。「凛。何と言おうと、わしは君の祖父なんだぞ」凛は淡々と返した。「罪を知りながら見過ごしたなら、同じことです」知りたいことは分かった。もうここには用はない。「ゆっくりお休みになってください」凛はくるりと背を向けた。使用人が止めようと一歩出る。その背後から、将希の声が飛んだ。「行かせろ」外へ出ると、冬の冷たい風が襟元から入り込み、火照っていた頭が少しずつ冴えていく。生まれたばかりの自分を、母親が捨てた。しかも、その場面を人に見られていた。だから、父親は、周囲を取り繕うために別の女の子を娘として迎えた。そして、神谷家はこの事情を知ったあとも、茂の将来と一族の体面を守るため、真実を伏せた。そして、そのまま28年……結局
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第800話

母娘の視線がぶつかった瞬間、先に耐えきれなくなったのは彰菜だった。すぐに目を逸らす。二人が言葉を交わしたのは、B市で初めて顔を合わせたときだけ。「はじめまして。凛です」「人違いだったみたい」それきり、一度もまともに話していない。今日の午前中も、凛は神谷家の人々に囲まれ、先祖への挨拶では一番前に立ち、食事でも最上位の席に座っていた。一方の彰菜は、昼食が終わると体調が悪いことを理由に帰り、午後はずっと姿を見せなかった。それが夜になり、息子が罰を受けていると聞いて、慌てて戻ってきたのだ。招待客はとうに帰っているし、時間を考えれば凛ももうここにはいないはずだった。しかし、彰菜の読みは外れた。まるで逃げても逃げても追いかけてくる悪夢のようだ。対する凛は、目を逸らさない。夜の闇を凝縮したような黒い瞳で、彰菜をじっと見つめていた。悪夢だと思っている相手から見つめ返されることのほうが、よほど恐ろしい。沈黙に耐えきれず、彰菜が先に口を開いた。「帰るの?」凛一人に話しかけることさえ怖いのか、視線は海斗へ向けられている。海斗は以前から、凛を捨てたのは彰菜ではないかと疑っていた。昼間は親族や招待客が大勢いたため、竹内家を背負う立場として最低限の礼儀を守っていたが、もう夜だ。あれほど賑わっていた屋敷も静まり返り、残っているのは神谷家の人間だけ。遠慮する理由は何もない。海斗は冷酷に問い詰めた。「ここに、凛の居場所なんてあるのか?生まれたその日に捨てられたときから、一度もなかったはずだろ?」彰菜が息を詰め、ゆっくりと目を見開いた。凛も静かに口を開く。「ずっと聞きたかったことがあるんです。彰菜さん、28年前、どうして私を雪の中に捨てたんですか?」空気が凍りついた。三人の間に不気味なほどの静寂が落ちる。彰菜の瞳が揺れた。「看護師が取り違えたんでしょ?看護師が間違えたのよ。私は知らないわ。気をつけて帰ってね。私は利明を見に行かないと……そう、あそこに……利明が……」ぶつぶつと繰り返しながら、彰菜は歩き出した。凛の横を通り過ぎると、彰菜の足取りはどんどん速くなっていく。まるで、背後から何かに追われているようだった。凛は無意識に振り返ったのだが、その瞬間、海斗の腕が首の後ろから伸びてきて、凛の顔をそっと前へ戻す。「もう
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