狼男は「ほどほどの愛し方」が分からない のすべてのチャプター: チャプター 21 - チャプター 30

31 チャプター

21

関係を進めるタイミングを、司狼は慎重に計っていた。焦れば崩れる。だが、遅れすぎても意味がない。美咲という存在は、待てば自然に近づいてくる類の人間ではない。だからこそ、外堀を埋めた上で、逃げ場の少ない場面を選ぶ必要があった。昼休み、同僚たちに囲まれたカフェという環境は、その条件に最も適していた。人目があるということは、拒絶の選択肢を鈍らせる。露骨な断りは、その場の空気を壊す。美咲の性格を考えれば、その“場”を無視してまで拒絶することはしない。だからこそ、そこを選んだ。「花邑さん」ほんの少しだけ、普段より低く落とした声で呼びかけた。雑談の延長ではない、意図的な響き。その変化に、周囲の注意が自然と集まる。隣の同僚、背後の客、近くの席の視線。すべてが、ほんの一瞬こちらに向く。その中で、司狼は迷わず言葉を置いた。「もしよかったら、友だちからでもいいので、付き合ってもらえませんか」静寂は、ほんの刹那だった。次の瞬間、空気が弾けるように崩れる。「え、なに急に!」「ドラマみたいじゃん」冷やかし、興味、面白がり、わずかな羨望。それらが混ざったざわめきが広がる。だが、その中心にいる美咲は、取り残されたように目を丸くしていた。予想外だったのだろう。計画通りだ、と司狼は内心で冷静に判断する。驚きは判断を鈍らせる。そして周囲の圧は、選択を限定する。美咲は一瞬だけ視線を逸らし、隣の同僚へと助けを求めるように目を向けた。だが返ってきたのは、背中を押すような仕草だった。逃げ道は、塞がれた。美咲は小さく息を吐き、観念したように視線を戻す。その顔には、困惑と、それでも状況を受け入れようとする意志が混じっていた。「……友だちから、なら」その言葉が落ちた瞬間、周囲が一層盛り上がる。歓声にも似たざわめきの中で、司狼は笑った。美咲が好む、屈託のない笑顔を、正確に再現して。「ありがとうございます」それだけで、十分だった。始まりとしては、理想的な形だった。だが、関係が始まったからといって、すぐに距離が縮まるわけではなかった。むしろ、美咲は慎重だった。連絡の頻度は増えすぎず、一定の距離を保ったまま。踏み込もうとすれば、柔らかく引かれる。だが完全に拒絶されるわけでもない。その絶妙な距離感に、司狼は違和感ではなく、納得を覚えた。(……そういうタイプか)事前に調べていた
last update最終更新日 : 2026-03-27
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22 side 美咲

街の灯りに照らされた夜道を家に向かって歩きながら、美咲は、ついさっき別れたばかりの司狼のことを思い浮かべないようにしていた。意識すればするほど、頭の中に浮かんでしまうと分かっているからだ。けれど、そうやって押し込めようとした隙間から、別の記憶がするりと顔を出す。(……忘れたいのに)胸の奥で、小さく軋むような感覚があった。思い浮かぶのは、司狼ではない。別れるとき、必ず最後に「またな」と言っていた岡本蒼太の声だった。柔らかくて、少しだけ甘くて、そしてどこか自信に満ちた声。その一言が、次に繋がる約束のようで、美咲はいつも安心していたのだと、今になって気づく。.『また会える?』別れ際、岡本蒼太は少しだけ不安そうにそう言った。普段は気さくで明るく、どちらかといえば人を引っ張るタイプなのに、こういうときだけ、叱られた犬のようにしょんぼりする。その落差が、ずるいと美咲は思っていた。このままでいたい。でも、このままでいいのかと問われれば、答えは曖昧だった。関係に名前をつけることが怖くて、それでも離れることはもっと怖い。そんな曖昧な場所に、ふたりは立っていた。『うん』たった一言。それだけなのに、胸の奥がふわりと軽くなった。次に会う理由ができたことが、こんなにも嬉しいのだと、そのときの美咲はまだ知らなかった。岡本蒼太と過ごす時間は、穏やかで、どこかくすぐったいものだった。最初は、ただの“友だち”だったはずなのに。あの昼休み、同僚たちの前で告白されたときは、正直、逃げ場を塞がれたような気持ちもあった。けれど、不思議と嫌ではなかった。むしろ、どこかで予感していたような気さえした。視界に入るたび、「またいる」と思った人。その積み重ねが、気づかないうちに好意に変わっていたのだろう。周囲の冷やかしや祝福に包まれて始まった関係は、軽いもののはずだった。それなのに、気づけば確かに“恋”になっていた。岡本蒼太と一緒にいると、自然だった。無理に話題を探さなくても会話は続き、沈黙さえも心地いい。歩く速度も、食事のタイミングも、不思議なほどに合っていた。相手に合わせているという感覚すらなく、ただ並んでいるだけでちょうどいい距離に収まる。そんな関係は初めてで、美咲は何度も不思議だと思った。彼は、誰かといてもどこか一人でいるような空気を纏っていた。けれど、美咲の
last update最終更新日 : 2026-03-28
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23

美咲の母親は、美咲がまだ幼い頃に父親と離婚し、家を出ていった。理由は母親の浮気だったと、後になって知った。けれど、その事実を父親の口から聞いたことは一度もない。幼い頃の美咲にとっては、ある日突然いなくなり、それきり帰ってこなかった人―――それが母親のすべてだった。時間が経つにつれ、周囲の大人たちの何気ない会話や、近所の噂話の断片が少しずつ意味を持ち始める。仕事だと言って出かけていた日に別の男性と会っていたこと、家に知らない男を連れ込んでいたこと。断片だった情報はやがて線になり、母親が何をしていたのかを理解できる年齢になったとき、美咲はそれを“知ってしまった”。それでも、父親に真実を問いただすことはしなかった。聞いたところで過去は変わらないし、父親を困らせるだけだと分かっていたからだ。何より、父親が母親を悪く言わないという選択をしている以上、自分だけがそれを暴こうとするのは違う気がした。だから美咲は、知ってしまった事実を心の奥に押し込み、「分からないまま」にしておくことを選んだ。今となっては「今さら」という思いもある。あの頃に聞かなかったことは、きっとこれからも聞かないままだろう。そうやって、母親のことは美咲の中で半端な形のまま凍結されている。(ただ、思春期だったからな……)恋愛に興味を持ち始める時期に、その母親の醜聞を知ったことは、美咲の中で大きな影を落とした。恋愛というものは、誰かを好きになって、信じて、そして裏切られる可能性を含んでいる。そういう構図が、どうしても頭から離れなかった。理屈では、すべての恋愛がそうではないと分かっている。それでも、最初に刻まれたイメージは簡単には消えない。だから美咲は、恋愛に対して慎重になった。それでも、誰とも付き合わないという選択はしなかった。周囲に合わせるように、あるいは自分自身に納得するために、誰かと関係を持ったこともある。少しだけいいなと思った程度の相手と付き合ったこともあった。けれど、その関係はどれも長くは続かなかった。相手をよく知る前に距離を詰められ、触れられ、求められる。その流れに逆らいきれず、なし崩しのように受け入れた初めての行為は、美咲にとってただ「痛い」だけのものだった。未熟さゆえのぎこちなさだったのかもしれない。けれど、問題はそこではなかった。終わったあとに残った感覚が、どう
last update最終更新日 : 2026-04-24
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24

そんな美咲にとって、岡本蒼太はやはり少し不思議な存在だった。性的な気配がまったくないわけではない。むしろ逆で、美咲を見るその目は、出会った頃から一貫して「女」として見ているものだった。視線の端に宿る熱や、ふとした瞬間に感じる強さは、これまで付き合ってきた男たちと変わらない。欲しているのだと分かる目だった。それでも、彼は決して踏み込んでこなかった。キスを求めることもなければ、当然その先に進もうとすることもない。手を伸ばせば届く距離にいながら、手を取ろうとすらしない。その距離は、まるで美咲の内側にある境界線を正確に測っているかのようだった。近すぎず、遠すぎず、絶妙な位置で止まり続ける。その在り方は、奇妙なほどに心地よかった。二人きりでいるときも、場所は必ず人目のあるところだった。カフェやレストラン、駅前のベンチ、公園の一角。閉ざされた空間ではないのに、そこに流れる空気は穏やかで、外界のざわめきから切り離されたような静けさがあった。緊張がないわけではない。けれど、それは不安を伴うものではなく、ほどよく意識を研ぎ澄ませる程度の刺激だった。油断はさせない。それでも、安心させる。そんな矛盾した状態を、岡本蒼太は当たり前のように成立させていた。好意は、はっきりと伝わってくる。言葉にしなくても、視線や態度で十分に分かる。それなのに、どうして彼は何も求めてこないのだろうと、美咲は何度も思った。普通なら、もう少し距離を詰めてくるはずだと。そういうものだと、これまでの経験から知っていたから。それでも、踏み込んでこないことに、どこかほっとしている自分がいることにも気づいていた。矛盾していると分かっていても、その距離は美咲にとって必要なものだった。『ごめん……そろそろ、帰るね』ふと時間を見て立ち上がると、岡本蒼太はいつも通り穏やかに頷く。『うん、気をつけて』それだけ言って、笑って見送る。引き止めることはしなかった。もっと一緒にいたいという気持ちがないわけではないはずなのに、それを押しつけてくることもない。不満そうな表情すら見せない。その在り方が、どれほど美咲の心を軽くしていたのか、きっと彼は知らなかっただろう。求められることに対して構えてしまう美咲にとって、「求められない」ということは、拒絶ではなく救いだった。追い詰められることも、試されることもなく、た
last update最終更新日 : 2026-03-28
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25

美咲の変化を言葉にして、彼女自身に輪郭を与えたのは父だった。自分では曖昧にしか捉えられていなかった感情が、誰かの言葉によって形を持つ。その不思議さと気恥ずかしさに、美咲は内心で小さく息をついた。(さすが、恋愛の先輩)そんな軽口を胸の奥で呟きながらも、どこか救われたような気持ちがあった。.*.ある日の夕食時、父は何気ない口調で言った。『最近、楽しそうだな』箸を持つ手が一瞬止まる。視線を上げると、父はどこか穏やかで、しかし少しだけ安堵したような顔をしていた。『雰囲気が柔らかくなった気がする』続けるその声は、観察ではなく確認のようでもあった。気づかれている—―—そう思った瞬間、頬の内側が熱くなる。隠していたつもりはないが、言葉にされると逃げ場がなくなる。『いいことだと思うよ』父は静かに笑い、それから少しだけ間を置いた。何かを慎重に選ぶように。『……俺のせいで、変に気を遣わせていたら……申し訳なかった』思わず顔を上げる。父はまっすぐに美咲を見ていた。その目は、逃げずに過去を受け止めようとする大人の目だった。恋愛のこと、家のこと、両親のこと——それらが美咲に影響を与えていないはずがない。否定しようとした言葉は、喉の奥で止まった。完全な嘘はつけないからだ。父もそれを分かっているのだろう。『俺の失敗に、お前も巻き込んだな』ただ静かに事実として置かれた言葉。あの頃、父と母はただの男女である前に、親であり、美咲を含めた三人の家族だった。その視点を欠いていたことへの後悔が、滲むように伝わってくる。けれど父は続けて言った。『でもな、後悔はしてない』矛盾しているようでいて、その声は妙に晴れやかだった。『人生は一度きりだ』軽やかに、
last update最終更新日 : 2026-04-24
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26 side 司狼

スマートフォンが短く乾いた通知音を立てた。静まり返った室内に、その音だけが妙に浮いて響く。司狼が画面を確認すると、表示されていたのは【連絡くれ】という簡素な一文だった。ほんの一瞬だけ別の顔が脳裏をよぎった。美咲—―—しかしすぐに、そんなはずはなかったのに、と自嘲気味に笑った。いまの自分の連絡先を、彼女が知っているはずがない。期待すること自体が、的外れだった。.司狼は立ち上がり、書斎へと移動する。無機質に整えられた空間の中で、机の一番下の引き出しを開けると、そこには用途ごとに分けられた複数のスマートフォンが並んでいた。その中から一台を取り出し、指紋認証で起動させる。淡く光る画面を見下ろしながら、ふと自分の親指に視線を落とした。「指紋も変えたほうが……」独り言のように呟く。完全に別のものに変えることはできないが、深く傷をつければ歪ませることは可能だ。だが、そこまでの徹底が本当に必要かと考え、すぐに首を横に振る。「……いや、そこまでの必要はないか。“岡本蒼太”の指紋を、美咲は知らない」そう結論づけると、迷いなく発信ボタンを押した。三コールで相手が出る。「俺だ」短く名乗る。すると一瞬の沈黙のあと、深いため息が返ってきた。『その聞き慣れない声で“俺だ”って言われても、俺が困るだろうが。俺がオレオレ詐欺に引っかかったらどうしてくれる?』軽口混じりの声音に、司狼は淡々と返す。「知らない。それに、声を変えてから一ヶ月だ。いい加減、覚えただろう」『喉頭形成術を受けたのが一ヶ月前なだけで、まともに声が出るようになったのは二週間前だろうが。二週間で慣れるか……しかもなんだ、その声。ロクデナシな悪い男みたいだ』「あんたの声も似たようなものだろう」『元保護者で元上司にその態度はなんだ』軽口の応酬はいつもの調子だが、司狼はすぐに本題へ切り込む。「……何の用だ?」赤影の軽い空気を遮ると、電話の向こうでわざとらしい間があった。『えー、もうちょっと雑談しようよ。八課のみんな出払ってて、俺ひとりなんだよ。寂しいんだって』「くだらない。そんな理由で電話をしてきたのか? それなら切る。せっかくの一日が台無しになる」その言葉に、赤影は「ああ」と納得したように声を漏らした。『今夜だったね。番ちゃんには無事に会えた?』「会えた」短く答える。『岡本蒼太
last update最終更新日 : 2026-04-24
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【岡本蒼太】の名で遂行した任務――拝島コーポレーションへの潜入捜査は、結論から言えば、美咲に出会えたことを除けば、司狼にとってこれまでと大差のないものだった。別課が取りこぼした情報の穴を埋め、証拠不十分で手を出せない対象に接近し、内側から決定的な証拠を引き出す。それが司狼の役割であり、今回の標的である立花由香利もまた、状況証拠から見て“黒”であることは明白だった。足りないのは、ただ一つ――法的に突き崩せるだけの決定打だけだった。.司狼は【転職】という形で拝島コーポレーションに入り込み、意図的に立花の目に留まるよう振る舞った。能力を見せ、使い勝手のいい部下として認識されること。それは彼にとって難しいことではなかったが、立花由香利という女は決して扱いやすい上司ではなかった。要求は苛烈で、時間も状況も一切考慮しない。常に結果を求め、部下を消耗品のように扱うその姿勢は、普通の人間であれば早々に心を折られていただろう。だが司狼は違った。どれだけ負荷をかけられても淡々と処理し、その裏で冷静に観察を続ける。そうして少しずつ、立花の周囲に張り巡らされた情報の網を解きほぐしていった。そんな日々の中で、美咲と出会ったことだけが、想定外だった。.週末になると、美咲が部屋に来るようになった。任務とは無関係のはずの時間が、次第に日常の一部として組み込まれていく。任務とそれ以外の時間。司狼は明確に分けて生活していた。そんな折、立花由香利のお気に入りだった部下が限界を迎え、姿を消した。そして次にその位置に収まったのが【岡本蒼太】だった。意図してそう振る舞っていた以上、必然とも言える結果だった。立花からの連絡は昼夜を問わず増え、業務指示だけでなく、次第に私的な領域へと踏み込む内容が目立つようになる。【いま何をしているの?】そんな問いが何度も投げられた。司狼はそれを面倒だと感じながらも、任務のして必要と判断して応じ続けた。排するほどの感情もなく、求められる反応を過不足なく返す。それが彼のやり方だった。.「はあ? あんた、番ちゃんの前で他の女にメッセージ返したの?」六花の声は容赦なく、顔いっぱいに「信じられない」という感情を浮かべている。司狼は露骨に顔をしかめ、抗議するように耳に指を突っ込んで「煩い」という意思表示をした。その態度がさらに火に油を注ぐが、司狼には意
last update最終更新日 : 2026-04-27
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司狼が案内された部屋に入ると、隣の取調室がミラー越しに見えた。繋がったスピーカーからは、何も聞こえない。取調室は静まり返っていた。蛍光灯の白い光が無機質に机を照らし、向かいに座る立花由香利の顔色を一層悪く見せている。指先は落ち着きなく組み替えられ、爪がかすかに机を叩く音だけが、時間の経過を刻んでいた。刑事の一人が記録用のペンを走らせながら、低い声で促す。「続けてください」その一言で、立花はゆっくりと顔を上げる。口を開いたが、パクパクと唇が動くだけで音にならない。目が焦点を失った。「本当に、彼は死んだの?」焦点の合わない瞳の奥に、まだ崩れきっていない何かが残っている。恐らく、希望。自分を自白させるため、刑事は嘘を言っているのではないかという希望。それを刑事は否定しなかった。否定できなかったわけではない。もうずっとこれの繰り返し。死んだと言っても、立花由香利はそれを聞き入れない。こうなるたび、刑事は聞き方を変えていた。「岡本蒼太との関係は?」岡本蒼太との関係は、事件と密接に絡みついている。いま警察は、立花由香利から聞く岡本蒼太に関する話の合間に漏れる情報をもとに捜査している状態だった。「……分かっていました」ぽつりと、彼女は言った。「私がやっていることが、違法であることは……全部。これがバレてしまったら、そんな恐怖は確かにありました」声はかすれているが、不思議と途切れない。「でも……なんでしょう、仕事? それと似ていて、必要だから、していた……だから、やっていただけ」言い訳のようでいて、言い訳になりきらない言葉だった。刑事は何も挟まず、ただ続きを待つ。「部下には、これまでも協力させた。理由は言わず、疑問に答えず、ただ必要だったから……多くの部下が、不満を持っていた。でも、それに何を思ったことはなかった。代わりはいくらでもいる」一拍。「彼は……違ったんです」その一言で、空気がわずかに変わる。「蒼太は、他の人間と違った。私がどんな命令を出しても、顔色一つ変えずに処理していく。嫌がる素振りも、疑問もない。ただ“やるべきこと”として終わらせる。その姿が……怖いくらいに自然で」立花の唇が震える。「あの人だけは、理解してくれていた。私がやっていることの意味を。必要性を。正しさとかじゃくて、私が私だから……」立花由香利の目が
last update最終更新日 : 2026-04-27
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「なるほど、そう考えていたわけか」淡々とした声音だった。感心とも取れるその響きに、隣で同じく立花由香利の“告白”を聞いていた赤影は、思わず額を押さえた。「お前……ほんっとーに、立花由香利に一切興味がなかったんだな」半ば呆れ、半ば諦めの混じった声に、司狼はわずかに首を傾げる。「興味を持つ必要があったのか?」その返答には一片の悪意もない。ただ事実を述べているだけだった。司狼にとって立花由香利は、あくまで捜査対象でしかない。情報を引き出すために会話を組み立て、相手の心理を読むことはあったが、それはあくまで任務の一環であり、そこに個人的な関心や感情が入り込む余地はなかった。求めていたのは情報であって、人間ではない。.赤影のポケットの中で短く振動音が鳴った。視線だけで「出る」と告げ、赤影は司狼を残して部屋を出ていく。扉が閉まる音のあと、廊下から微かに声が漏れてくるが、司狼の耳をもってしても通話相手の内容までは拾えない。得るものはないと判断し、司狼は再び一方向ミラーへと視線を戻した。ガラスの向こう側、蛍光灯の下で座る立花由香利は、先ほどまでの強気な輪郭を完全に失い、崩れかけた人形のように見えた。改めて見たところで興味が湧くわけではない。ただ一つ、理解できたことがある。(この女の仕業だったわけか)司狼は内心で呟く。なぜ組織が【岡本蒼太】という存在に接近してきたのか、その起点がここにあった。.立花由香利は、裏に存在する組織と、表の顔である拝島コーポレーションを繋ぐ“窓口”だった。組織は企業を隠れ蓑にし、医療・福祉支援団体を装っていた。経済的に困窮した若者や、家庭に問題を抱えた未成年を「保護」「支援」という名目で囲い込み、生活基盤を提供する代わりに徹底した管理下に置く。そして段階的に依存を形成し、心理的な拘束を強め、最終的には違法な労働や性搾取へと誘導していく。その構造は極めて精緻で、表面上はすべてが“本人の選択”として処理される。立花の役割は、その入口に立ち、対象者を見極め、組織へと流すことだった。【岡本蒼太】はその立花を経由して組織に接近し、内部を探っていた。だが、その過程で三度、“明確な殺意”を向けられている。偶発的な事故ではない。排除を目的とした行動をしている。司狼の身体能力がそれを回避させ、実害にならなかっただけで、執拗さは疑いよ
last update最終更新日 : 2026-04-29
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30 side美咲

いまは知人に会いたくない―――美咲はそう思っていた。そう思いつつ、誰にも見つからずにやり過ごせると楽観視していた。美咲は実感した。「会いたくない」と思うこと自体がフラグであり、最も会いたくない相手が現れる。「どうして、ここに?」「本を……買い、に?」首を傾げる司狼から、美咲は目をそらす。ここが本屋である以上、その答えは何一つおかしくない。分かっているのに、美咲は目を逸らした。「本って……BL?」追い打ちのような問いに、心臓が跳ねる。(うん、そうなるよね! ここ、BL小説の棚だしね!)「甘すぎる檻に閉じ込められた俺は、執着攻めから逃げられない」司狼が無感情に背表紙を読み上げた瞬間、美咲の思考が完全に止まる。近くにいた女性客がぴくりと反応し、頬を赤らめるのが視界の端に映った。。「『逃がさないと囁く声に、心も身体も縛られていく』、『独占欲が強すぎる幼馴染に囲われて、気づけば鍵まで捨てられていた』、それに……」「や、やめっ……」止める間もなく続けられる朗読に、美咲は慌てて顔を背け、両手で頬を覆った。熱が一気に上がる。後ろからくすくすと笑い声が聞こえてきて、穴があったら入りたいとはまさにこのことだと思った。「こういう系が好きなの?」「男性同士の恋愛は私にはファンタジーです!」半ば自棄になって、腐女子の友人が言っていたことをそのまま口にする。あのときは何を言っているのか理解できず呆れたが、いまはその意味が痛いほど分かる気がした。あとでちゃんと謝ろう——そんな決意が美咲の頭の片隅に浮かぶ。「いや、言っているのは執着溺愛系が好きなのかなって。監禁とか緊縛とか」「違っ!」反射的に否定する。(とんだ誤解だ)「ああ、分かるよ。百合はともかく美咲にBLは無理だよ。縛るところも違う……違うのか? いや、意外と&hel
last update最終更新日 : 2026-05-01
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