観察するように司狼を見ていた、その瞬間だった。ふと、彼の髪がわずかに揺れた。「……え?」違和感に気づいたときには、もう遅かった。司狼が動いたのだと理解するよりも早く、彼の顔がすぐ目の前にあった。距離が一気に詰められる。 スンッ 小さく鼻を鳴らす音が、妙に鮮明に耳に届いた。その音に、美咲の体は反射的に震える。心臓が一拍、強く跳ねた。「……なんですか」かろうじて声を出すと、司狼はほんの少しだけ口元を緩めた。「いや」軽い返事だった。けれど、次の言葉は軽くなかった。「美咲さんは、いい匂いだ」顔を上げた司狼の目は、笑っているようでいて、まったく笑っていなかった。その視線の奥にあるものに触れた瞬間、美咲の心臓がまた跳ねる。「心臓の音がここまで聞こえそうだけれど……警戒、してる?」また、図星だった。今度こそ否定したいのに、鼓動がそれを裏切る。「……して、ません」かすれた声でそう言うと、司狼はわずかに首を傾げた。「本当?」その声音はからかうようでいて、目は真剣だった。逃げ道を与えない問い方だった。美咲は一瞬迷い、しかし本能的に理解する。ここで誤魔化すのは、きっと逆効果だ。「……ちょっとだけ、してます」正直に言うと、司狼の目が細くなる。その変化は、満足とも納得とも取れる曖昧なものだった。「それより……」「それより?」美咲は視線を逸らさずに続ける。「あなたのこと、変わった人だとは思っています」言い切った瞬間、司狼の目がわずかに見開かれ、それから今度こそ楽しそうに笑った。「よく言われる」「作家って変わってる人が多いっていいますもんね」「それ、フォローになってないよ」軽口の応酬に、ふたりは顔を見合わせる。そして同時に、ふっと笑った。さっきまでの緊張が、少しだけほどける。そのときだった。「美咲……」不意に、呼び捨てで名前が落ちてきた。息が止まる。「……さん」遅れて付け足された敬称に、張り詰めていたものが緩み、喉から小さく空気が漏れる。「驚かせた?」「……かなり」「不快、だった?」問い方と声は、どこか無防備で、雨に濡れた子犬のように柔らかい。けれど、その目の奥には確かな自信があった。美咲がどう感じているか、分かっているような目だった。(この人……実は詐欺師なんじゃない?)ふと、そんな考えがよぎる。
最終更新日 : 2026-04-23 続きを読む