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 裕貴の顔から笑みが消えたが、気を悪くしたふうもなく、淡々としたものだった。「何か、思い当たってるんじゃない?」 「二年前に何かあったんだろ。お前の近くにいると、やたら二年という言葉を聞く」 「……まあね。でも啓太郎、おれが引きこもった理由を聞いたら多分、笑うよ。そんなことか、って」 「笑ったら、今日の晩メシは抜きでいい」 啓太郎としてはけっこう真剣な決意を告げたつもりだったのだが、裕貴は手を叩いて笑う。「たった一食っ?」 「うるさいっ。俺は……気になるんだよ。お前がこんな生活を送っている理由が。お前は俺を部屋に入れて、なんでも晒け出しているようでいて、実は謎が多い。この間、ストーカーだと言っていた女の人だって、義理のお姉さんなんだろ。それなのに、ひどい態度を取っていたし、今日は兄貴の登場だ。その兄貴とも、何か揉めて――いた」 「揉めている、だよ。現在進行形」 「でも仲はよさそうだ」 このとき裕貴は自虐的な笑みを唇に浮かべた。乱暴にマウスを動かしたかと思うと、ネットゲームからログアウトしてしまった。「おれが実家を飛び出して引きこもりを始めたのは二年前。兄さんが千沙子さんと結婚したのが原因だよ」 「つまり……」 裕貴はすぐには答えず、いきなりイスから立ち上がったかと思うと、啓太郎の隣に座り直した。そしてベッドに仰向けで転がる。「――おれ、ブラコンだったんだよ」 思いがけない言葉に、啓太郎は完全に虚を突かれた。裕貴と博人が仲のいい兄弟だということは、さきほどの様子を見ていれば容易にわかることだが、ブラコンという表現にまでは思い至らなかったのだ。 裕貴はシーツの上に散った自分の髪を手慰みのように指で梳きながら、視線は天井に向けている。「おれにとってまともな家族って、兄さんしかいないんだ。物心ついたときから、親の代わりにおれの面倒を見てくれて、親の代わりにたっぷり愛情を注いでくれて、食事の世話に、あれはしたらダメ、人にこんなことを言ってはダメっていう躾までしてくれた。今のおれのすべての基本も基準も、兄さんが作ったんだ」 「博人さんは、いい兄さんなんだな」 「ううん、『いい兄さん』ではない」 一瞬苦い表情を浮かべてから、裕貴が片手を伸ばしてくる。隣に座っている啓太郎の腕に触れてきたかと思うと、たぐるようにして手を握ってきた。重苦しい
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「――……裕貴?」 反応のない裕貴に不安を覚え、啓太郎は手を握り返しながら覆い被さるようにして裕貴の顔を真上から覗き込む。やはり博人と兄弟なのだなと、このとき初めて実感できた。冴え冴えとした裕貴の表情が、どこなく博人の持つ雰囲気に似ていたからだ。 やっと裕貴が啓太郎を見て、問いかけてくる。「啓太郎、言わないの? そんなことで引きこもっているのかって」 裕貴が言ったようなことをまったく思わないのかと言えば、うそになる。実際啓太郎は、内心少し拍子抜けしているのだ。これがまだ、他人と接したくないからという理由で引きこもっているのなら、素直に納得できたはずだ。  兄の博人の結婚がショックで、というのは、予想外すぎた。  言い換えるなら、裕貴にとって博人は、それだけ大事な人間だということだ。 啓太郎は、裕貴の立場を自分に置き換えて考えてみる。啓太郎には二歳と三歳違いの姉がいて、一人は結婚して実家を出た。そのとき啓太郎は、あんな姉でも貰い手があったのだと安心すると同時に感慨深さはあったが、ショックという感情はなかった。 家庭環境や、兄弟の結びつきがそもそも違うと言ってしまえばそこまでだが――。「言うわけねーだろ。理由なんかなくても、ただなんとなく引きこもる人間もいるかもしれないし、耐え難いぐらいつらいことがあって引きこもる人間だっているはずだ。理由なんて人それぞれで、それに対する反応も人それぞれだ。少なくとも俺は、お前が引きこもっている理由がどんなものだったとしても、笑ったり、バカにしたりしない」 裕貴は一瞬、今にも泣きそうな顔をしたが、その表情の意味を啓太郎は深くは考えなかった。「俺の言葉に感動したか?」 片手で頬を撫でてやりながら言うと、裕貴はニヤリと笑う。「自分で言うと価値ないよ。でも、一つ言うなら……啓太郎は、兄さんと同じぐらい、おれに優しい」 その言葉を聞いた啓太郎は、苦々しい気持ちになる。まさか、と思いながらも否定できない、ある考えが脳裏を過ぎったのだ。 誰よりも自分を甘やかし、優しくしてくれた兄と二年も顔を合わせていなかった裕貴は、たまたま身近にいた都合のいい自分を、兄の身代わりにしていたのではないか、と。  だから啓太郎は、思わずこう尋ねていた。「――裕貴、お前つらくなかったか?」 「えっ……」 「二年間、博人さんと会って
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 それから気を取り直したように啓太郎に笑いかけてくると、裕貴は体の下から抜け出して立ち上がる。「裕貴……」 「晩メシは豪華にしよう。なんか気分がすっきりしないから、鬱憤晴らしに美味いものいっぱい作ってあげるよ。よし、今から下ごしらえ」 そう言ってトレーナーの袖を捲り上げた裕貴がダイニングへと行き、今度は啓太郎がベッドに仰向けに転がる。 普通の兄弟より、裕貴と博人の間にはもっと深い事情や葛藤があるようだった。啓太郎にはいくら考えても、兄が結婚したからといって、部屋に引きこもるという行動に至る過程が理解できない。  理解できないから、裕貴の行動がありえないというわけではなく、そこにまた疎外感を覚えるのだ。裏を返せばその疎外感は、裕貴のすべてを知りたいという渇望へと繋がる。 今の啓太郎にはもう、裕貴にどこまで深入りすればいいのか、判断がつかなくなっていた。 何げなく顔を横に向けると、裕貴がいつも羽織っている大きめのカーディガンが目に入る。今日、元は博人のものだったと知り、やけに納得してしまった。  そして、少し忌々しい。 裕貴自身、博人と距離を取りたいのか側にいたいのか、把握しかねているのだろう。だからいつも、博人が使っていたカーディガンを羽織っているのだ。本人は必死に言い訳していたが、博人もあんな言葉を信じなかったはずだ。  この瞬間、何かの衝動を突き動かされるように啓太郎は体を起こす。ダイニングに行くと、裕貴は冷蔵庫を開けて、食料を確認していた。おそらく晩メシの献立を考えているのだ。  何度も見ているはずの後ろ姿に、むしょうに愛しさと健気さを感じ、啓太郎は足を踏み出していた。 足元も立てずに裕貴の背後に歩み寄ると、冷蔵庫のドアに片手をかける。やっと啓太郎に気づいた裕貴が振り返り、笑いかけてきた。「まだ食い足りない?」 啓太郎は答えずに、裕貴の頭を引き寄せて冷蔵庫のドアを慎重に閉める。そのまま裕貴を抱きすくめた。「……啓太郎、どうかした?」 体の大きな啓太郎を、まるで犬でも可愛がるように裕貴は頭や背を撫でてきていたが、そのうち、必死にしがみついてきた。今度は啓太郎のほうが、裕貴の頭や背を撫でることになる。 甘えてきている、と思った。いつも啓太郎に対して主導権を握って余裕たっぷりで、まるで悪魔のように啓太郎を翻弄していた裕貴が、これまで
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 めまいを覚えて、啓太郎はしっかりと両足で床を踏みしめる。そうしなければ、体がふらついてしまいそうだったのだ。  なんと答えるべきかと考えたのは一瞬で、啓太郎は次の瞬間には裕貴の体の向きを変えさせると、背後から抱き締める。「俺は、お前の兄さんじゃない。お前に甘えられても、どうしていいかわからないんだ。少なくとも、弟を可愛がるようにはできない」 こう告げたとき、裕貴がどんな顔をしたのか見たくないから、あえて背後から抱き締めたのだ。  裕貴を傷つけたり、呆れさせたかと思い、内心で身構えていた啓太郎だが、予想に反して返ってきたのは、笑いを含んだ声だった。「啓太郎って、弟とか妹いないの?」 啓太郎は裕貴の髪に唇を押し当てながら答える。「いない。姉貴が二人いるけどな」 「可愛がってもらった?」 「女に対する幻想を見事にぶち壊してくれた」 裕貴は冷蔵庫に額を押し当てるようにして、肩を震わせ笑う。不揃いで柔らかな髪がさらりと揺れ、白いうなじがわずかに見える。啓太郎は誘われるようにそのうなじに唇を押し当て、再びシャツの下に片手を忍び込ませた。「あっ……」 もう片方の手でシャツのボタンを外していきながら、性急に指先で裕貴の胸の突起をまさぐり、くすぐるようにして反応を促す。  すでにもう裕貴の息は上がっており、過敏すぎるほどの反応のよさだった。少し前まで、ここに自分の兄がいたということが、何かしらの変化をもたらしているのだろうかと、頭の片隅でちらりと啓太郎は考える。 罪悪感と興奮は、イコールで結べるものなのかもしれない。実際啓太郎も、いつになく自分が裕貴を感じさせようと躍起になっているのは、博人に関係があるとわかっていた。  帰り際、裕貴の耳の形をなぞった博人の指先の動きが目に焼きついている。弟が――というより、裕貴が可愛くてたまらないという感じだった。 凝った小さな突起を指で摘まみ、軽く引っ張るようにして弄りながら、啓太郎は裕貴の髪を掻き上げてから耳に唇を押し当てた。「――啓太郎は、本当に優しいなあ」 冷蔵庫にすがりつき、ドアに片頬を押し当てながら裕貴が微かに喘ぐ。白い耳朶に軽く噛みついてから啓太郎は応じた。「お前だけだ。俺のことをそんなふうに言う奴は。いままでつき合ってきた女ですら、俺が優しいなんて言ってくれなかった」 裕貴にとっての『優し
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 指先が白くなるほど必死に、裕貴は冷蔵庫にすがりついていた。滑らかなドアの表面に爪を立てるわけにもいかず、体ごと預けることでしか自分を支えられないのだ。開いた両足も、官能の高まりに比例するように小刻みに震えており、痛々しさすら感じる。 それでも啓太郎は、立ったままで裕貴の体に快感を与え続けていた。 てのひらに包み込んだ裕貴のものは欲望の兆しを見せ、熱くなると同時にゆっくりと身を硬くしている。すでに啓太郎の手に馴染んだ裕貴の『形』だった。「くうんっ」 括れを優しく何度も擦ってやると、腰を揺らして裕貴が甘い声を上げる。そろそろ透明なしずくを滲ませているだろうかと、確認するため先端を指の腹で軽く撫でてやった途端、裕貴がその場に崩れ込みそうになる。  啓太郎は慌てて片腕を裕貴の腰に回して支えてやり、裕貴も意識はなくしていないようで、冷蔵庫に手をついた。「裕貴、大丈夫か?」 「う、ん……。一瞬、体から力が抜けただけ」 「つらいなら、ベッドに行くか?」 「つらいとかじゃなくて、支えが欲しい。冷蔵庫の表面ってツルツル滑るから、しがみついても力が入らない」 なかなか、生々しい会話だ。話していて啓太郎のほうが顔が熱くなってくる。 ベッドに移動するつもりで、裕貴の腰に腕を回したまま促して歩かせようとしたが、ふとテーブルが目に入る。  啓太郎はテーブルの傍らで立ち止まり、再び裕貴を背後から抱き締めながら、もどかしくシャツをたくし上げていた。途中までしか外していないボタンを、すべて外す手間が惜しかったのだ。 裕貴は啓太郎の無言の求めがわかったように、自らテーブルに両手をつき、上体をわずかに前に傾けた。  シャツを押し上げ露わになった白い背に、啓太郎は唇を押し当てる。一方で片手は胸元に這わせ、執拗に二つの突起を愛撫する。 今度はカーゴパンツと下着を腿の半ばまで下ろし、裕貴のものを外気に晒した。熱くなった裕貴のものをてのひらに包み込み、丁寧に擦り上げてやると、顔を仰向かせた裕貴が切なげな吐息をこぼす。  最初はテーブルに手をついて耐えていた裕貴だが、啓太郎が集中的に先端を弄り始めると、とうとう上体をテーブルに倒してしまう。 テーブルの上で裕貴は奔放に体をしならせた。露わにした腰を震わせ、押し上げたシャツの下から現れた背はうっすらと汗ばみ、紅潮してきている。
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 内奥の入り口に唾液を擦りつけるようにして湿らせる。ここに触れるのは二度目だが、やはり緊張していた。  たっぷりの唾液を施してから、まだ頑なさを保っている内奥の入り口に慎重に指を含ませていく。そうしながら、裕貴の体の強張りを解くため、前方の熱い高ぶりをゆっくりと上下に擦り、快感を送り込んだ。「あっ、あぅ……」 テーブルの角を握りながら裕貴が腰を震わせる。きつく収縮している内奥を押し広げるようにして指を侵入させ、繊細な粘膜と襞が吸い付いてくる感触を堪能する。 裕貴がこの場所まで許してくれているのだという喜びが、啓太郎の中に押し寄せてきた。ここにこうして触れるたびに、自分はこんな気持ちになるのだろうかと思い、啓太郎は淫らな行為の最中にもかかわらず、唇を綻ばせていた。 内奥を擦り上げるように、付け根まで呑み込ませた指を出し入れする。そのたびに裕貴は背を波打たせるようにして反応し、伸びやかな声を上げた。「んくうっ、あっ、あっ、あっ……ん。啓、太郎、啓太郎っ――」 裕貴が舌足らずな口調で啓太郎を呼び、誘われるように啓太郎は二本目の指を内奥に埋め込み、奥深くを暴くように蠢かしながら、裕貴の背に唇を這わせる。前方に手を這わせると、裕貴のものは反り返って震え、透明な悦びの涙を滴らせていた。  裕貴の反応すべてが愛しくて、啓太郎の理性を危うくする。そもそも、裕貴に最初にキスした瞬間から、おかしくなっていたのかもしれないが。 裕貴の内奥が蕩けるように柔らかくなり、啓太郎の指の動きに合わせたようにひくつき、締め付けてくる。  もっと裕貴の中の感触を感じ、味わいたいという欲望が、当然のように啓太郎の中で大きくなり、苛んでくる。これまで啓太郎は、裕貴に触れ、快感を貪る姿を見ていれば、それでよかったのだ。 自分の欲望を果たすことは、裕貴を汚しそうでできなかった。それに、取り返しのつかないことになりそうで、情熱と欲望にすべてを委ねられなかったということもある。  だが今は、啓太郎自身が裕貴を貪りたかった。そして裕貴によって得る快感も、貪り尽くしたい。 啓太郎の心の変化を読み取ったのか、裕貴が首を巡らせるようにして見上げてきた。「どうした、つらいか?」 裕貴は返事の代わりに唇だけの笑みを浮かべた。乱れた髪のせいで目の表情まで見えなかったのだ。「……ねえ、おれたちっ
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 頭で考えるより本能が、啓太郎自身を動かす。のろのろとジーンズの前を開いて、裕貴の見せる反応にさんざん煽られ高ぶった自分の欲望を引き出していた。「啓太郎?」 異変に気づいたらしく、裕貴が顔を上げようとする。すかさず啓太郎は、指で綻ばせた内奥の入り口に高ぶりを押し当てた。「あっ……」『それ』がなんであるかわかったのか、裕貴がうろたえた素振りを見せる。啓太郎は、裕貴が少しでも嫌がる様子を見せれば、行為をやめるつもりだった。それぐらいの抑制が利く程度には、理性は残っている。  しかし裕貴は、その一欠片の理性さえ奪うようなことを言った。「――……啓太郎、平気?」 「何が、だ」 「いまさら念を押すのも変だけど、おれ、男だよ。終わったあとに、すごく後悔するかもしれない。……おれは、平気だけど、啓太郎が嫌な気分になったら……」 普段は皮肉っぽくて可愛げがないことも言うくせに、この状況でこんなことを言う裕貴がたまらなく健気で、同時に啓太郎を狂おしい想いへと駆り立てる。  裕貴の汗ばんだ滑らかな背にてのひらを這わせてから、唇を這わせる。ゆっくりと再び情欲が高まり始めたのか、テーブルの上で裕貴は上体をしならせた。「やり方は知っている。だけど、それだけだ。要領も何もわからない」 「初めてなのに、大胆な場所を選んだよね、啓太郎」 からかうように言われ、啓太郎はつい笑ってしまう。だがすぐに表情を引き締めた。「……本当にいいのか?」 「啓太郎こそ、いいの?」 俺は、と言いかけたが、気持ちは行動で表すことにする。 啓太郎はぎこちなく内奥の入り口に自分のものを擦りつけ、本当にこんな狭い場所が受け入れてくれるのか心配になりながらも、慎重すぎるぐらい慎重に、背後から裕貴の中へと入ろうとする。「あっ……んん」 内奥の入り口を押し開いた途端、声を上げた裕貴がテーブルの上でのたうつように体を動かす。このときガシャンッと音がして、何事かと啓太郎は顔を上げた。  目に入ったのは、テーブルの上に置いたままの貯金箱だった。何よりも、啓太郎と裕貴の関係を表しているものといえる。その貯金箱に、伸ばした裕貴の指先がぶつかって音を立てたのだ。 アクリルの透明な貯金箱に貯まっている金を目にして、啓太郎は急に現実に引き戻され、それと同時に狂おしいほどの欲望が一気に鎮まるのを感じた。
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**** システムのカットオーバーを間近に控え、啓太郎の仕事はまさに、毎日が瀬戸際の状態だった。追加のオプションを組み込んでいるうちにどんどん納期が迫ってきて、十二月に入ってからは、現場で誰ともなく悲鳴を上げる忙しさだ。 年末はギリギリまで作業を続け、年明けも、正月休みがどれだけ取れるかまったくわからず、あるいは一日もないかもしれない状態もありうる。 そこまでしてサイトのオープンに間に合ったとしても、システムが客の注文を処理する傍らで、啓太郎たちがシステムのバグを処理していくという、笑うに笑えない事態になるかもしれない。 最悪の事態を想像するたびに、キーボードを叩く啓太郎の首筋をヒヤリとした感触が撫でていく。 もっとも、仕事が大変なのは今に始まったことではない。諦観とも達観ともいえる感情は、もう啓太郎の友人のようなものだ。 そんな啓太郎が今何よりも気にかけているのは、手がけているプロジェクトの進行ではなく――。 キーボードを叩く手を一度休め、眠気覚ましのブラックコーヒーをグビッと飲むと、必需品である目薬を点す。一時間後に多少の体力が残っていれば、いつものようにサウナに行こうと思いながら、啓太郎はスマホを取り出す。 今この瞬間、ものすごく裕貴にメッセージを送って確認したかった。 今日も、博人は部屋に来たのか、と。 博人の裕貴に対する過保護ぶりを過小評価していたと思い知ったのは、昨日だった。啓太郎はコーヒー以外のものによる苦みを舌の上に感じながら、軽く眉をひそめる。 昨日、五日ぶりに帰宅したときの出来事を思い出し、そして、今後のことについて予言めいた危惧を感じたのだ。 休憩と言うには重々しい気持ちで仕事の手を休め、啓太郎は昨日の裕貴とのやり取りを思い返す。
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** 五日ぶりに姿を見せた啓太郎の顔を見るなり、裕貴は同情の表情を浮かべつつ、まるで犬猫でも可愛がるかのような手つきで、不精ひげの生えた頬を撫でてきた。「――啓太郎ってさ、長生きしそうにないよね」 開口一番の裕貴の言葉に、啓太郎は力なく笑う。「お前、顔を合わせた早々、不吉なことを言うな」 「だってさー、なんかもう、死相が出てるって、きっと今の啓太郎みたいな感じなんだと思うよ」 「だったら、俺を生き返らせるために、美味いもの食わせてくれ。会社に泊まり込んでから、コンビニのおにぎりとサンドイッチしか食ってない」 いいよ、と答えた裕貴がさっそくダイニングに向かおうとしたので、思わず啓太郎は腕を掴んで引き止める。不思議そうな顔をして振り返った裕貴は、一人で納得したように頷き、いきなり両腕を伸ばして抱きついてきた。  驚いた啓太郎は、反射的に裕貴の体を受け止める。「おい――」 「新婚コースがいい、って啓太郎の顔が言ってるから、抱きついてみた。わかる? 啓太郎が帰ってきて嬉しい、を表現してみました」 「……口で説明されると、ああそうか、と答えるしかないよな」 つまり今のこの状況は、疲れて帰ってきた夫を迎える新妻、ということになるのだ。  こういうバカバカしいやり取りも、やっと帰ってこられたのだと実感できる演出の一つではあるのかもしれない。 しがみついてくる裕貴の感触を心地よく思いながら、啓太郎は口元に笑みを浮かべる。  自分の部屋に戻らず、直接裕貴の部屋に寄ったので、啓太郎の手にはまだアタッシェケースがある。それを足元に置くと、ママゴトの延長上とはいえ、しっかりと抱きついてくる裕貴の抱擁に応えるため、啓太郎も抱き締め返す。  二人しかいない部屋で、誰も知らないからこそできる、秘密の戯れだ。もっとも、戯れと言いながら、啓太郎は際限なくハマりつつある。 腕の中の裕貴の感触を堪能しているだけで、体に蓄積された疲れがじわじわと溶け出していくようだ。 数分ほど黙って抱き合っていると、ふいに裕貴がもぞりと身じろぎ見上げてきた。腕の力が強すぎただろうかと思い、抱擁を解こうとした啓太郎に裕貴が小さく笑いながら言った。「――抱き合ってたら、キスしたくなってきた」 囁くような言葉に、単純だと言われようが、啓太郎はあっさり翻弄される。「これは、サービスだ
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「チキンカレー――と、フルーツサラダ。今日のカレーは辛いから、覚悟しといてよ」 楽しみだ、と口中で洩らしながら、足元に置いたアタッシェケースを持ち上げる。  ダイニングに入った啓太郎はさっそくコートとジャケットを脱ぎ、ついでにネクタイも取ってしまう。ワイシャツのボタンを一つ外したところで、やっと解放感に浸れた。 キッチンに立つ裕貴に一声かけてから、いつものようにビールを取ろうと冷蔵庫を開ける。すると、ケーキの箱が入っていた。なんとなく日付を確認すると、今日買ってきたもののようだ。そうなると当然、通販で取り寄せたものではない。それに、ケーキの箱の隣には、プリンまである。 啓太郎は思わず、裕貴に視線を向けた。「おい、冷蔵庫のケーキは――」 鍋を覗き込んでいた裕貴がパッと顔を上げる。そして戸惑いを含んだ表情で啓太郎を見た。その表情を目にして、なんとなくだが事情が理解できた気がする。「……お前が買いに行った、ということはないよな」 裕貴は頷いてから再び鍋を覗き込んだが、どことなく啓太郎に表情を見られまいとするかのような仕種だった。「――……兄さんが買ってきたんだ」 裕貴の言葉を聞いた瞬間、啓太郎の胸の奥にチクッと小さな棘が刺さる。感情のわずかな揺れを裕貴に悟られないよう、平静さを装って言った。「訪ねてくるようになったんだな」 「啓太郎と一緒にいるところを見て、おれの状態が落ち着いたと思ったんだよ」 でも、と裕貴が続ける。その口調には困惑が含まれていた。気になった啓太郎は、缶ビールを取り出してから促す。「でも……、なんだ?」 冷蔵庫の扉を閉めてから、裕貴の背後に立つ。隣に立つと、邪魔だからとキッチンから追い出されるのだ。「啓太郎が会社に泊まり込んでいる間、毎日来てたんだ、兄さん。昼間や夕方に、おれの顔を見に来たって……」 「毎日、か」 頷いたのかうな垂れたのか、裕貴の不揃いな髪が揺れる。「来なくていいって言ってるのに、聞いてくれない。本当は……部屋に入れたくないんだ。 だけどおれの場合、ずっと部屋にいるのは知られてるから、居留守を使えない。ドアは開けなきゃいけないし、そうなったら、兄さんを部屋に入れないわけにはいかないだろ。あの人、ああ見えて押しが強いんだ」 裕貴は博人をどう見えると思っているのか知らないが、啓太郎には十分、博人は押
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