All Chapters of 追放された名家の令嬢ですが、最恐の黒竜様は私なしでは息もできません: Chapter 11 - Chapter 20

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第11話 夜空のフライトと、六本木の鳥籠③

 ◇ 表の通りに出ると、漆黒の流線型をした超高級車がアイドリング状態で停まっていた。  黎は後部座席のドアを開け、私をまるで壊れ物でも扱うかのように、慎重に、だが強引にシートの奥へと押し込んだ。 「あ……」  極上のレザーシートが、冷え切った身体を柔らかく受け止める。  黎はジュラルミンケースを助手席に放り投げると、運転席に巨体を滑り込ませた。ドアが閉まり、外の喧騒が完全に遮断される。防音の効いた車内は、彼から放たれる獣のウールと雨の匂い、そして強烈な熱気で一瞬にして満たされた。  エンジンが低く唸りを上げ、車が滑るように走り出す。  私は後部座席で身体を丸め、膝を抱え込んだ。  暖房が最大まで上げられているのか、吹き出し口から熱風が音を立てて流れ込んできている。冷え切っていた手足の指先にようやく血が巡り始め、チクチクとした痛みが走り始めていた。 「……どこへ、行くんですか」  震える声で、運転席の広い背中へ向かって尋ねる。  ルームミラー越しに、鋭い黄金の瞳がチラリとこちらを見た。 「お前を飼うための鳥籠だ」  短い返答。それ以上、説明する気はないらしかった。  窓の外では、東京の夜景が流線型の光となって後ろへ後ろへと飛び去っていく。深夜だというのに、街は眩いほどのネオンの光と、目まぐるしく変わる巨大なデジタルサイネージの色彩に溢れていた。  有栖川家の敷地からほとんど出たことのなかった私にとって、それは別世界のように鮮烈で、そしてひどく目がチカチカする光景だった。  きゅるるぅぅ……。  突然、静かな車内に、間の抜けた音が響き渡った。  私の胃袋が、限界を超えた空腹を訴えて鳴らした音だった。  数日間、水の一滴すらまともに与えられていなかったのだから当然の生理現象なのだが、この張り詰めた空気の中ではあまりにも場違いで、私は顔から火が出るほど羞恥に染まった。 「あ、あの……ごめんなさい、違くて……」  両手でお腹を押さえ、必死に誤魔化そうとする。  運転席の黎が、短く息を吐き出す音が聞こえた。怒られる、と思った。こんなみすぼらしくて品の
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第12話 夜空のフライトと、六本木の鳥籠④

 口の中に広がった強烈なチョコレートの甘さとナッツの脂質が、干からびた脳髄に直接雷を落としたかのような衝撃を与えた。  美味しい。ただの市販のお菓子なのに、人生で食べたどんな高級料理よりも、圧倒的に美味しく感じられた。 「……んっ、ひぐっ……」  咀嚼しながら、不意に視界が滲んだ。  ポロポロと、大粒の涙が膝の上にこぼれ落ちる。  お父様に打たれた時も、理恩に婚約破棄を突きつけられた時も、地下室に閉じ込められた時も、決して泣かないと決めていたのに。  この恐ろしい化け物の不器用な施しが、張り詰めていた心の糸をプツンと切ってしまったのだ。 「泣く暇があるなら噛め。喉に詰まらせて死なれては元も子もない」  ルームミラー越しの声は呆れたように冷たかったが、車内の暖房の温度が、さらに一段階、密かに上げられたことに私は気づいていた。  涙と鼻水で顔をグシャグシャにしながら、私はゆっくりと、その甘い塊を胃の奥底へと流し込んでいった。 ◇ 車が滑り込んだのは、六本木の一等地。  天を衝くようにそびえ立つ、ガラス張りの巨大な超高層タワーマンションのエントランスだった。  時刻は深夜をとうに回っているというのに、大理石が敷き詰められた車寄せには、パリッとした高級スーツを着こなした初老の男が、額に脂汗を浮かべて直立不動で待機していた。不動産会社の重役だろう。  黎が車を降り、後部座席のドアを開ける。  私は栄養バーのゴミを握りしめたまま、おずおずと外に足を踏み出した。  泥と埃にまみれ、あちこちが破れた時代遅れのドレス。足元は裸足同然。こんな煌びやかな場所に、私のような薄汚れた人間がいること自体が犯罪のように思えて、思わず身を縮こまらせた。 「み、御影様……! 夜分遅くに、ご足労いただき恐縮至極に存じます……っ。最上階のペントハウス、ご内見の準備は完全に整っております……!」  重役の男が、地面に額が擦れる勢いで深くお辞儀をする。  その視線がチラリと私に向けられ、一瞬だけ怪訝そうに歪んだが、黎から放たれる威圧感に気圧され、すぐに顔を伏せた。 「内見など不要だ。契約を済ま
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第13話 夜空のフライトと、六本木の鳥籠⑤

 そこは、フロア全体が一つの住居として独立している、規格外の空間だった。  玄関ホールの床はすべて大理石で覆われ、天井からはクリスタルのシャンデリアが眩い光を放っている。奥のリビングルームへと続く扉は開け放たれており、壁一面を覆う巨大なパノラマウィンドウ越しに、東京タワーを見下ろす圧倒的な夜景が広がっていた。 「こ、こちらが、当物件が誇る最高峰のペントハウスでございます。広さは約三百平米、セキュリティは軍事施設並みの……」  重役の男が揉み手でおずおずと説明を始めるが、黎はそれを手で制した。  彼はリビングの中央に置かれた、ガラス製の巨大なローテーブルの上に、持っていたジュラルミンケースをドンッ! と乱暴に放り投げた。 「現金で五億入っている。これで足りるか」  地鳴りのような声。  重役の男はケースの中身を確認することもなく、ただただ何度も首を縦に振った。 「も、もちろんでございます! 本来は審査等がございますが、御影様のご威光であれば、すべて特例として……直ちに名義変更の手続きを……」 「鍵を置いて、さっさと消えろ。二度とこのフロアに近づくな」  氷の刃のような声で言い放つと、黎は重役を一瞥もせずに背を向けた。 「は、ははっ!」と怯え切った声とともに、玄関の重厚な扉が閉まる音が響き、空間に完全な静寂が落ちた。  残されたのは、圧倒的に広く、そしてひどく冷たい無機質な空間。  そして、私の手首を掴んだまま微動だにしない、漆黒の巨体だけだった。 「あの……黎様……?」  恐る恐る声をかける。  黎の広い背中が、小刻みに上下していることに気がついた。  空を飛んでいる時よりも、車に乗っている時よりも、明らかに呼吸が荒い。  チッ、と舌打ちの音が聞こえた。 「……やはり、下界はクソだな。地上に近づくほど、人間どもの吐き出す淀んだ空気が肺を焼きやがる」  苦しげな掠れた声だった。  黎は私の手首を掴んだまま、強引にこちらを振り向いた。  額には脂汗が浮かび、黄金の瞳の奥で、縦に割れた瞳孔が痛みに耐えるように微かに震えている。あの雨の夜、裏庭でうずくま
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第14話 夜空のフライトと、六本木の鳥籠⑥

「……はぁっ……」  私の匂いを肺の奥底まで吸い込んだ黎が、深く、安堵に満ちた呼気を漏らす。  抱きしめられている胸越しに、彼の中で荒れ狂っていた不規則な心音と、気管が詰まったような苦しげな呼吸音が、嘘のようにゆっくりと、力強いリズムへと変わっていくのがわかった。  彼の身体の強張りが解け、私を抱きしめる腕の力が、先ほどの暴力的なものから、どこか縋り付くような切実なものへと変化していく。  私の体温と匂いがないと、この強大で恐ろしい男は、息をすることすらできないらしい。  彼が放つ圧倒的な威圧感の裏にある、ひどく脆く、歪んだ依存の形。 「……いいか、有栖川の女」  私の首筋に顔を埋めたまま、黎が地鳴りのような声で呟いた。  その吐息の熱さが、血管を通して直接心臓を掴んでくるように恐ろしい。 「今日から、ここがお前の鳥籠だ」  抱きしめる腕の力が、再びギリッと強くなる。  絶対に逃がさないという、強烈な所有の意思。 「俺の肺を満たすためだけに生きろ。お前が俺の視界から消えれば、お前の家族ごと、あの忌まわしい屋敷を灰にする。……逃げられると思うなよ」  傲慢で、独りよがりで、理不尽極まりない強迫。  それは、ただの人間である私に対する、人外の化け物からの絶対的な死の宣告に他ならなかった。  なのに。  どうしてだろう。  首筋に押し付けられた彼の熱い額から伝わってくる、微かな震え。  それは恐怖の強要ではなく、「俺を一人にするな」という、彼自身の魂の奥底から絞り出された切実なSOSのようにも感じられたのだ。  誰の役にも立たないゴミだと捨てられた私を、これほどまでに強烈に求め、その巨体を震わせて縋り付いてくる存在。  私の心の中に、どろりとした真っ黒な感情が広がっていく。  それは恐怖であり、そして同時に、自分という人間の存在価値を初めて証明されたことによる、歪なまでの安堵感だった。 「……逃げません」  私はゆっくりと両手を上げ、私を抱きしめて離さない巨大な背中に、そっと手を回した。  高級なスーツのウール生地越しに、彼の強靭
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第15話 初めての「心配される」夜①

 首筋に深々と押し付けられていた高い鼻先が、ゆっくりと離れていく。 先ほどまで皮膚の表面を焦がすような猛烈な勢いで吸い込まれていた熱い吐息が止み、代わりにペントハウスの無機質で冷たい空調の風が、濡れたうなじを撫でた。 一歩、後ずさるような形で彼との間に僅かな距離が空く。 圧倒的な質量を持った岩盤のような胸板が離れた瞬間、全身を包み込んでいた見えない熱のドームが弾け飛んだような錯覚に陥り、抑えきれない震えが再び両膝から這い上がってきた。 黎の黄金色の瞳が、薄く細められる。 縦に割れた鋭利な瞳孔が、雨に濡れた私の頭のてっぺんから泥に塗れた足のつま先まで、値踏みをするようにゆっくりと舐め回してきた。 その視線を追うようにして自分の足元へ目を落とし、ヒュッと小さく息を呑む。 鏡面のように磨き上げられた真っ白な大理石の床に、ドロドロの黒い水たまりができている。有栖川家の裏庭で雨と土埃にまみれ、あちこちが引き裂かれた時代遅れのドレス。そこからぽたぽたと滴り落ちる泥水が、この完璧に美しい空間を無残に汚している。「あ、あの……ごめんなさい、床が……」 有栖川の屋敷であれば、間違いなく怒鳴られ、平手打ちが飛んでくる大失態だ。反射的に身をすくめ、震える両手で泥だらけのドレスの裾をギュッと握りしめる。 しかし、頭上から降ってきたのは怒声ではなかった。「……酷い匂いだな」 地鳴りのように低い声。黎は自身の仕立ての良いスーツの袖口に付着した泥汚れを一瞥すると、ひどく不機嫌そうに眉根を寄せた。「俺の肺を満たすための空気が、泥とカビの悪臭にまみれている。目障りだ。さっさとその汚れを落としてこい」 それは、ただの人間に対する気遣いなどではなく、あくまで自分の生存に不可欠なフィルターが汚れていることに対する純粋な不快感の表明だ。 それでも、怒られなかったこと、そして叩き出されなかったことにホッとして、小さく頷く。「はい……洗面所は、どちらに……」 歩き出そ
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第16話 初めての「心配される」夜②

「あっ、だめです! 黎様の服まで、泥で汚れて……」「黙れ。そのまま暴れるな。その泥足で俺の城を歩き回る気か」 有無を言わさぬ低い声で封殺される。 黎は私の体重など空気の塊ほどの重さも感じていないかのように、迷いのない足取りで広大なリビングを横切り、奥の廊下へと進んでいく。 大理石の床を叩く硬い革靴の音が、静まり返ったペントハウスに規則正しく響く。抱き抱えられている胸元から伝わってくる、彼自身の異常なほどの高体温。それが、冷え切って感覚すら失いかけていた頬をジリジリと焦がすように温めてくれる。 この暴力的なまでの熱から引き剥がされることの方が、今の私にとっては耐え難い恐怖になっていた。 ◇ 連れてこられたのは、広大なガラス張りのバスルームだった。 黒を基調としたシックな空間の中央には、大人二人が足を伸ばしても余るほど巨大な白いバスタブが鎮座している。壁面には見慣れないタッチパネル式のスイッチがいくつも並び、天井には巨大なオーバーヘッドシャワーが設置されていた。 黎は私を滑りにくいマットの上に下ろすと、壁のパネルを太い指で無造作に叩いた。 ザァァァッ! という激しい水音とともに、天井から勢いよくお湯が降り注ぎ始める。一瞬にして、空間全体が真っ白な湯気と、ヒノキのような清潔な香りに包まれた。「脱げ。……それとも、俺が引きちぎってやろうか」 黎の黄金色の瞳が、泥だらけのドレスの背中側にある細かいボタンの列を睨みつける。 その言葉が冗談ではないことを、私は肌で理解していた。彼の手の力なら、布地など紙切れのように簡単に破いてしまうだろう。「だ、大丈夫です……自分で、できますから……っ」 慌てて首を横に振り、背中に腕を回す。 黎は小さく鼻を鳴らすと、「外で待つ。洗い終わるまで出てくるな」と言い残し、重厚なすりガラスの扉を閉めて出て行った。 一人きりになったバスルームで、ホッと短く息を吐き出す。 震える指先で、ドレスの小さなボタンを一つずつ外して
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第17話 初めての「心配される」夜③

 備え付けの、見たこともない高級なボトルからシャンプーを押し出す。柑橘系とハーブが混ざり合ったような、目が覚めるほど爽やかな香りが鼻腔を満たした。 指の腹で頭皮をマッサージするように洗う。きめ細かい泡が髪の毛の一本一本に絡みついていた嫌な臭いを消し去り、代わりにこのペントハウスの清潔な匂いが染み込んでいく。(……なんだか、すごく贅沢かも) 有栖川家での私のお風呂といえば、家族全員が入り終わった後の、すっかりぬるくなった残り湯を急いで浴びるだけだった。石鹸も使い古しの小さくなったものしか与えられていなかった。 こんなに熱くて、いい匂いのする綺麗なお湯を独り占めできるなんて、それだけで夢のようだ。「私は彼にとって都合のいい道具だとしても……こんなに大切に扱ってくれるなら、少しだけ信じてみてもいいのかもしれない」 誰にも聞こえない声で呟きながら、少しだけ口角を上げた。悲観してばかりいても仕方がない。少なくとも今は、あのカビ臭い地下室より百万倍マシなのだから。 時間をかけて、爪の先から足の裏まで、持っていたすべての汚れを念入りにこすり落とした。 シャワーを止めると、バスルームの静寂が急に耳に押し寄せてくる。 ガラス扉の向こう側には、私を助け出してくれた巨大な男が待っているのだ。そう思うだけで、心臓の鼓動が少しだけ早くなる。 備え付けられていた分厚く真っ白なバスタオルを手に取り、濡れた身体を包み込んだ。ホテルのものよりさらに上質で、肌に触れるだけで水分を吸い取ってくれるふかふかの感触。 しかし、困ったことに気がついた。 着替えがない。 泥だらけのドレスをもう一度着るわけにはいかないし、かといってバスタオル一枚で彼の前に出る勇気など、これっぽっちも持ち合わせていなかった。 どうしよう、と濡れた髪から雫を垂らしながら立ち尽くしていると、コン、コン、とガラス扉が二回叩かれた。「……開けるぞ」「えっ、あ、ちょっと待って……!」 制止の声を上げる暇もなく、扉がわずかに開
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第18話 初めての「心配される」夜④

 長く垂れ下がった袖をぐるぐると何重にも折り返し、なんとか指先だけが出せる状態にする。 大きく深呼吸をして、すりガラスの扉に手をかけた。 ◇ 重い扉をスライドさせ、脱衣所からリビングへと足を踏み出す。 間接照明だけが灯された薄暗いリビングの中央、巨大な革張りのソファに、黎が深く腰を下ろしていた。 ベストを脱ぎ捨て、タイを緩めたラフな姿。首元から覗く太い鎖骨と、筋肉の起伏がはっきりとわかる胸板が、部屋の薄明かりを反射して彫刻のような陰影を作っている。 私の足音に気づき、黄金色の瞳がこちらを向いた。 自分のシャツをブカブカに着ている私の姿を見て、彼の眉がピクリと動き、ほんの数秒だけ視線が完全に硬直した。「……」「あ、あの……お借りします。服がこれしかなくて……」 沈黙に耐えきれず、袖口をギュッと握りしめながら言い訳がましく呟く。 黎はふいっと目を逸らすと、短く咳払いをした。「……こっちへ来い。そこに座れ」 指さされたのは、彼が座っているソファのすぐ隣のスペースだった。 恐る恐る近づき、冷たい革の座面に腰を下ろす。すぐ横に座っただけで、彼から発せられる巨大なストーブのような熱気が、じりじりと肌を打つのがわかる。 ガラスのローテーブルの上には、見慣れない白い救急箱が開かれた状態で置かれていた。 どこから持ってきたのかはわからないが、中には消毒液や包帯、何種類かのチューブが入っている。「腕を出せ」 黎が短い命令を下す。 言われるがままに、ぶかぶかの袖をまくり上げて右腕を差し出した。 手首のあたりに、くっきりと赤黒い痣が浮かび上がっていた。あの雨の夜、彼に万力のような力で掴み上げられた時にできた、巨大な指の形をした内出血の跡だ。 黎の黄金色の瞳が、その痣をじっと見つめる。 縦に割れた瞳孔が、微かに収縮した。「……俺がやったな」 地鳴りのように低
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第19話 初めての「心配される」夜⑤

 怖いだけの化け物だと思っていた彼が、ほんの少しだけ身近に感じられた瞬間だった。 しかし、その直後。 黎の溢れんばかりの薬が乗った人差し指が、私の手首の痣に触れた瞬間、笑いかけた顔がピタリと凍りついた。「……っ」 熱い。 薬のひんやりとした感触を完全に上書きして塗り潰すほどの、火傷しそうな指先の高体温。それが、内出血を起こして熱を持っているはずの皮膚の奥へ、さらに強烈な熱を流し込んでくる。 思わず腕を引こうとしたが、黎の空いた左手が私の前腕をガシッと掴み、動きを完全に封じ込めた。「動くな」 顔を上げると、眼前に黎の整いすぎた顔が迫っていた。 黄金の瞳が、私の手首の傷を食い入るように見つめている。彼の巨大な指先が、ガラス細工の表面を撫でるかのように、信じられないほど慎重な、柔らかい動きでゲルを皮膚に塗り広げていく。 暴力を体現したかのような岩盤のような肉体から繰り出される、不釣り合いなほどの繊細なタッチ。 傷口に触れるか触れないかのギリギリの力加減で、指の腹を滑らせる。「……次は、顔だ」 手首の処置を終えた黎が、今度は私の顎に太い指をかけ、強引に上を向かせる。「えっ、顔は……」「黙ってろ。右の頬が赤く腫れている」 言われて、思い出した。父に思い切り平手打ちされた時の痕だ。数日経っても、まだ皮膚の下に鈍い痛みが残っていた。 黎の熱い指先が、今度はべっとりと軟膏をつけて、私の頬に触れる。 ピリッ、と薬が傷口に染みて、思わず肩が跳ねた。「……この頬の赤みは、俺がつけたものではないな」 傷口に薬をすり込みながら、黎が氷のように冷たい声で呟いた。 指先の動きは極めて優しいのに、周囲の空気が一気に数度下がったような、ピリピリとした強烈なプレッシャーが空間を満たし始める。「誰がやった。俺の所有物に、俺の許可なく傷をつける分際を弁えない愚か者は」 黄金の瞳が、真正面から私の目を射抜く。
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第20話 初めての「心配される」夜⑥

 私は必死に首を横に振った。黎の常識外れの思考回路に、ヒヤヒヤして心臓が持たない。 黎は私の言葉にふっと鼻で笑った。「犯罪者だと? 人間の作ったくだらん法で、俺が裁けるとでも思っているのか」「それでもだめです! 私、もう痛くないですから!」 両手で彼の腕をギュッと握りしめて訴える。 黎はしばらく私の顔を見下ろしていたが、やがて「チッ」と舌打ちをしてソファに座り直した。「……お前がそこまで言うなら、今は生かしておいてやる。だが、次に俺の視界に入ったら、その時は容赦しない」 黎はそう言い捨てると、救急箱を乱暴にテーブルの端へ押しやり、再び立ち上がった。「立て。寝るぞ」 短い命令。 私は慌てて立ち上がり、彼の大きな背中を追ってリビングの奥にあるドアをくぐった。 ◇ そこは、マスターベッドルームだった。 部屋の中央に置かれているのは、私がこれまで見たこともないほど巨大なキングサイズのベッド。真っ白なシーツはシワ一つなくピンと張られ、その上には雲のように分厚いダウンの掛け布団が重なっている。 黎はベッドの横に立つと、顎でシーツの上を指し示した。「そこに入れ」「え……あの、黎様は……?」「俺の寝床だ。当たり前だろう」 当然だと言わんばかりの態度に、心臓がドクンと大きく跳ねた。 同じベッドで、この巨大な男と一緒に眠る。その事実に足がすくむが、逆らうことなどできるはずもない。 私はおずおずとベッドの端に近寄り、シーツをめくって中へと滑り込んだ。「あ……」 身体を横たえた瞬間、思わず間抜けな声が漏れた。 沈み込むようなマットレスの柔らかさ。肌に吸い付くような、きめ細かいコットンのシーツの感触。そして、ふかふかの掛け布団がもたらす、優しくて重たい温もり。 それは、私の今までの人生で知っていた「寝床」という概念を完全に覆すほどの、圧倒的な心地よさだった。 有栖川家での私
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