All Chapters of 追放された名家の令嬢ですが、最恐の黒竜様は私なしでは息もできません: Chapter 21 - Chapter 30

114 Chapters

第21話 初めての「心配される」夜⑦

 お腹が空いて倒れそうだった時に与えられた、あの甘い一口。 泥だらけだった身体を包んでくれる、温かいお湯と清潔なシャツ。 不器用ながらも、痛みを和らげようと塗ってくれた薬。 そして、この雲のように柔らかいベッド。 生まれてから今日まで、「誰かに大切に扱われる」という経験をしたことがなかった。役に立たないからと殴られ、地下室に捨てられた私が、どうして今、こんなにも贅沢で温かい空間で息をしているのだろう。「……ひっ、うぅっ……」 声を押し殺そうと両手で口元を覆うが、一度堰を切った涙は止まることを知らなかった。シーツに顔を押し付け、しゃくり上げる肩の震えを必死に抑え込もうとする。「……おい」 すぐ隣から、ひどく戸惑ったような低い声が降ってきた。 肩をガシッと掴まれ、強引に仰向けにされる。 上から覗き込んできた黎の黄金の瞳が、信じられないものを見るように見開かれていた。「なぜ泣いている。どこか痛むのか。薬が目にでも入ったか」 彼の大きな手の中で、親指の腹が私の頬を乱暴にこする。涙を拭おうとしてくれているのだろうが、力が強すぎて少し痛い。「ちが、違います……っ」 首を横に振りながら、私はボロボロと涙をこぼし続けた。「痛くないのに、なぜ涙を流す。意味がわからん」 黎の眉間には深い皺が刻まれ、その整った顔には本気の狼狽が浮かんでいた。千年という果てしない時を生きてきたであろうこの男が、人間の流すたった数滴の涙の理由が理解できずに、心底うろたえているのだ。「嬉しいんです……っ」 鼻をすすりながら、私は震える声で告げた。「こんなに……ふかふかのベッドで寝るの、久しぶりで……お湯も、温かくて……」 言葉にすればするほど、惨めでちっぽけな理由だ。 黎はぽかんと口を半開きにして、私の顔を見下ろした。「&h
Read more

第22話 初めての「心配される」夜⑧

 傲慢で、独りよがりな理屈。 竜という生き物は、自分の気に入った宝を巣に持ち帰り、決して他者に奪われないよう執拗に守り続けるのだという。 私が一人の人間として大切だから優しくしてくれたわけじゃない。自分の生存に必要なものが壊れないように、宝物として囲ってくれただけだ。(……でも、彼は私を『宝』だと言ってくれた。だとしたら、私に向けられたこの不器用な優しさは本物だ) 彼の胸に顔を埋めたまま、私はこっそりと決意を固めていた。 ふかふかのベッドに、温かいお湯。それに、不器用だけどちゃんと傷の手当てまでしてくれる恩人。 有栖川家でただのゴミとして扱われていた昨日に比べれば、ここは間違いなく天国だ。(彼がこれほど私を求めてくれるなら、私にもできることがあるかもしれない。……彼が息苦しくならないように、精一杯頑張ろう) 私はゆっくりと両腕を上げ、黎の太い胴体にそっと手を回した。 私の小さな抵抗のなさに、黎の身体がピクリと微かに強張るのがわかる。「ずっと、ここにいます。黎様が……苦しくならないように」 彼の胸に額を擦り付けるようにして、少しだけ明るい声で呟いた。 黎は何も答えなかった。 突然前向きになった私の言葉に戸惑っているのか、伝わってくる心音が僅かに不規則なリズムを刻んだような気がした。 それでも、私の後頭部を抱え込んでいる巨大な手のひらの力は、ギリッと一段階強くなり、私の匂いを貪るように深く吸い込む生々しい呼吸音が、静まり返ったベッドルームに長く響き渡った。 目を閉じると、真っ暗な視界の中に、彼の匂いと規則正しい心音だけが世界に存在しているように感じられる。 私を暗闇の底から掬い上げてくれた、不器用で温かい恩人の隣。 勘違いとすれ違いの中で、私は生まれて初めて、誰の顔色を窺うこともなく、ただ温かい熱に身を委ねて、泥のように深い眠りの底へと落ちていった。
Read more

第23話 山積みのドレスと、閉ざされた世界①

 深い海の底からゆっくりと浮上していくような、重く心地よい微睡みだった。 まぶたの裏に、白くぼんやりとした光が射し込んでいる。分厚い遮光カーテンのわずかな隙間から漏れ出た朝の光だ。 無意識のうちに寝返りを打とうとして、腰のあたりにずしりとした重みを感じて動きが止まった。ただ重いだけではない。そこから発せられる巨大なストーブのような熱気が、薄いコットンのシーツ越しに皮膚の表面をじりじりと焦がすように伝わってくる。 そっと目を開ける。 視界のすぐ数十センチ先に、彫刻のように整った男の寝顔があった。 真っ直ぐに通った鼻梁、長い睫毛が落とす濃い影。乱れた漆黒の前髪が、シーツの白さと鮮烈なコントラストを描いている。 黎だ。 昨夜、この広すぎるベッドで彼と一緒に眠りに落ちた記憶が、ゆっくりと脳内に蘇ってくる。 腰に巻き付いているのは、丸太のように太く硬い彼の腕だった。完全にホールドされており、少しでも身じろぎすれば、その拘束は反射的により一層強くなる。 耳のすぐ横で、ドクン、ドクンという重低音の心拍が一定のリズムを刻んでいる。人間のそれよりもはるかに遅く、そして力強い、岩盤の奥深くで鳴る地鳴りのような音。(……生きてる) 当たり前の事実が、ひどく奇妙に感じられた。 有栖川家の冷たく埃っぽい地下室に転がっていた時は、自分が朝を迎えられるかどうかすら分からなかった。それが今、こんなにも柔らかく清潔な場所で、人知を超えた圧倒的な存在に抱き込まれて息をしている。 鼻腔をくすぐるのは、洗い立ての高級なリネンの香りと、黎の皮膚から立ち上る、獣のウールと微かな鉄錆が混ざり合ったような独特の匂いだ。 少しだけ身をよじり、拘束を緩めようと試みた。 その瞬間、閉じていたはずの黄金色の瞳が、スッと音もなく見開かれた。 縦に割れた鋭利な瞳孔が、至近距離でこちらを射抜く。寝起き特有の鈍さは微塵もなく、完璧な覚醒状態にある捕食者の眼差しだった。「……どこへ行くつもりだ」 喉の奥で転がすような、低く掠れた声。 腰に回された
Read more

第24話 山積みのドレスと、閉ざされた世界②

 黎はボトルの残りを一息で煽ると、空になった容器を絨毯の上に無造作に放り投げた。ゴン、という鈍い音が広い寝室に響く。 再び視線が絡み合う。 黎の黄金の瞳が、少しだけ細められた。その視線は顔から始まり、首筋、そして昨夜彼が投げ与えてくれたブカブカの男性用ドレスシャツへと滑り落ちていく。 肩のラインが完全にずり落ち、襟元からは鎖骨が丸見えになっている。裾は太ももの半ばまでしかなく、少し動けばはだけてしまいそうな危うさがあった。「……酷いなりだな」 不機嫌そうに眉根が寄せられる。「ご、ごめんなさい。服がこれしかなくて……」 袖口をギュッと握りしめ、身を縮める。泥だらけになった昨日のドレスは、バスルームの脱衣所の隅に丸められたままだ。有栖川家から着の身着のままで連れ出されたのだから、着替えなど持っているはずもない。 黎は深くため息を吐くと、ベッドの脇に脱ぎ捨ててあった黒いスラックスを拾い上げ、長い脚を通した。 上半身は裸のまま、リビングの方へと歩き出す。その広い背中には、人間の骨格の限界を超えたような、凄まじい密度の筋肉が隆起していた。「少し待っていろ」 リビングから、誰かと会話するくぐもった声が聞こえてくる。(誰と話しているんだろう……) そっとベッドから抜け出し、冷たいフローリングを裸足で歩いてドアの隙間からリビングを覗き込む。 黎は、窓辺に立って黒いスマートフォンを耳に当てていた。昨夜の換金所で現金の入ったジュラルミンケースを受け取った時や、このペントハウスを購入した時と同じ、有無を言わさぬ強圧的な口調だ。「……ああ、そうだ。女の服と靴、装飾品一式だ。サイズは分からん。目分量で一番小さいものから三段階くらい、見繕って持ってこい」 電話の向こうの相手が何かを問い返したのか、黎の顎の筋肉がギリッと硬く引き締まる。「時間は一時間だ。それ以上は待たん。最高級のものを、ペントハウスのフロアまで直接運び込め。支払いは現金で済ませる」 一方的に通話を切り
Read more

第25話 山積みのドレスと、閉ざされた世界③

「俺の視界に入るのだ」 黎の足音が近づき、眼前に巨大な影が落ちる。「みすぼらしい格好をした女がうろついていれば、俺の目が腐る。お前は俺の肺を満たすための道具だ。道具のメンテナンスに金をかけるのは当然のことだ」 氷のように冷たく、一切の感情を排した声。 その言葉の響きに、胸の奥がチクリと痛んだ。 昨夜、「お前は俺の宝だ」と言ってくれた時の、あの縋り付くような切実な熱はどこへ行ってしまったのだろう。今の彼は、ただ自分の所有物を飾り立てようとする、冷酷な支配者の顔をしていた。(……ううん、これでいいんだ) 唇を噛み締め、自分に言い聞かせる。 彼にとって、私はあくまで「呼吸を楽にするための空気清浄機」に過ぎない。宝だと言ってくれたのも、壊れられたら困る大切な道具だからだ。そこに人間としての愛情や思いやりを期待するのは、ひどく身の程知らずな勘違いだ。「……わかりました。お気遣い、ありがとうございます」 深く頭を下げる。 黎はそれ以上何も言わず、キッチンの方へと歩いていった。 ◇ きっかり一時間後。 ペントハウスの重厚な玄関ドアのチャイムが鳴った。 黎がロックを解除すると、黒いスーツをビシッと着込んだ初老の男が、額に汗を浮かべながら深々と頭を下げて立っていた。その背後には、同じく黒服を着た屈強な男たちが数人がかりで、巨大なハンガーラックや積み上げられたブランドロゴ入りの箱を運び込もうと待機している。「御影様……! 急なご用命、誠に恐縮至極に存じます。ハイブランド各社の最新コレクションより、選りすぐりの品をご用意いたしました」 初老の男の声は微かに震えていた。黎から発せられる人外の威圧感に、本能的な恐怖を感じているのだろう。「入れろ」 黎が短く顎でしゃくると、男たちは音を立てないように細心の注意を払いながら、広大なリビングルームの中央に次々と品物を並べていった。 ただの「服一式」というレベルではない。 大理石の床の上に、文字通り小さなブ
Read more

第26話 山積みのドレスと、閉ざされた世界④

 初老の男が揉み手で説明を続けるが、黎は面倒そうに手を振ってそれを遮った。「置いていけ。代金はそこにある」 黎が指さした先には、昨夜換金所で受け取った、札束の詰まったジュラルミンケースの一つが無造作に置かれていた。 初老の男は中身の金額を確認することすら恐れ多いというように、ただただ何度も深くお辞儀を繰り返した。「は、ははっ! ありがたき幸せ……っ。何かご不満な点がございましたら、いつでも……」「用が済んだなら、さっさと消えろ。二度とこのフロアに近づくな」 冷酷な宣告とともに、男たちは蜘蛛の子を散らすように慌ただしく撤収していった。玄関の重い扉が閉まり、再びペントハウスに静寂が落ちる。 残されたのは、異常な熱気を放つ漆黒の巨体と、部屋を埋め尽くすほどの絢爛豪華な布と宝石の山、そしてそれに全く釣り合わない、みすぼらしい格好をした私だけだった。「さあ、着替えろ」 黎がソファに深く腰を下ろし、長い脚を組む。 その黄金の瞳が、値踏みするようにこちらをじっと見据えていた。「あ、あの……こんなにたくさん、いりません。私、どれか一つだけで十分ですから……」「俺が用意させたものに口出しするな」 地鳴りのような声が響き、肩がビクッと跳ねた。「その山の中から、適当なものを選んで身につけろ。俺の前で裸同然の格好でうろつかれるのは目障りだ」 裸同然。その言葉に顔から火が出るような羞恥を覚え、慌てて一番手前にかかっていたドレスに手を伸ばした。 淡いラベンダー色の、柔らかなシフォンのワンピース。タグを見ると、見たこともないようなゼロの数が並んだ価格が印字されていて、指先が微かに震えた。「あ、あの……お着替え、したいんですけど……」「そこで着替えろ」 黎は組んだ脚の爪先を揺らしながら、平然と言い放った。「えっ……?」「なんだ。俺の視界から消える気か?
Read more

第27話 山積みのドレスと、閉ざされた世界⑤

 それは、深い青色をした大粒のサファイアを、無数のダイヤモンドで囲んだ、ひどく重厚で冷たい輝きを放つ首飾りだった。「後ろを向け」 低い声に従い、背中を向ける。 首筋に、ヒヤリとした金属の感触が触れた。 黎の巨大な手が、不器用な手つきでネックレスの留め具を操作している。彼の火傷しそうなほどの体温が、首の後ろの産毛を逆立たせるようにじりじりと伝わってくる。 カチャッ、と小さな音がして、重い宝石が胸の谷間のすぐ上に冷たく収まった。「……悪くない」 頭上から降ってきた声には、どこか満足げな響きが含まれていた。 黎の太い指が、そのまま首筋から肩のラインへと滑り落ちる。薄いシフォンの生地越しでも、その指の硬さと熱がはっきりとわかる。「これで、少しは見れるようになった。有栖川の淀んだ血の匂いも、この布地の匂いで多少は誤魔化せる」(誤魔化す……) その言葉が、鈍い刃物のように胸の奥を抉った。 やっぱり、私は彼にとって「汚れた存在」なのだ。有栖川家の血を引いているというだけで、彼は私を忌み嫌っている。それでも、自分の肺の痛みを和らげるために、こうして高価な布と石で表面だけを綺麗にパッケージングして、手元に置いておかなければならない。「黎様……」 私はうつむいたまま、絞り出すように口を開いた。「どうして、ここまでしてくださるんですか。いくら私が命綱でも、こんな高価なもの……お金の無駄です。私には、これに見合う価値なんてありません」 胸元で輝くサファイアは、私自身の内面の空っぽさを嘲笑うかのように、ひどく冷たい光を放っていた。「金の無駄だと?」 黎は私の肩を掴んでいた手を離し、正面へと回り込んだ。 黄金の瞳が、私の顔を真っ直ぐに射抜く。「お前は、この程度の紙切れで俺が痛痒を感じるとでも思っているのか」「でも、何千万円もするような……」「下界の貨幣価値など知らん」 黎は鼻で笑
Read more

第28話 山積みのドレスと、閉ざされた世界⑥

 黎が振り返り、再び私へと歩み寄ってくる。「……それに」 彼の声のトーンが、一段階低く、そして重くなった。「お前にこれだけのものを与えれば、お前はもう元の薄汚れた生活には戻れまい。有栖川の屋敷の地下牢よりも、ここでの生活の方が遥かにマシだろう?」 黎の大きな手のひらが、伸びてきて私の顎をガシッと掴んだ。 強引に上を向かされる。至近距離に迫った黄金の瞳の奥には、ドロドロとした暗い執着の炎がチロチロと燃え上がっていた。「お前は、この鳥籠の中で、俺が与えるものを大人しく受け取っていればいい。食事も、服も、寝床も、すべて俺が与えてやる。お前が自力で生きる必要などどこにもない」 顎に食い込む指の力が、微かに強くなる。「お前は俺の空気を浄化するためだけに、ここで生きろ。外の世界への未練など、全てこの金と物で塗り潰してやる」 逃がさない。 その強烈な意思表示だった。 彼が与えてくれるドレスも宝石も、私を飾るためのものではなく、私をこのペントハウスに縛り付けるための、美しくも重い「鎖」なのだ。「……わかりました」 私は震える唇から、掠れた声を絞り出した。「外に出たいなんて、言いません。私は黎様のものですから……ここで、大人しくしています」 その言葉を聞いて、黎の瞳孔が満足げに微かに収縮した。 顎を掴んでいた手が離れ、代わりに、私の首筋に深々と彼の鼻先が押し付けられた。 スゥーッ……。 シフォンのドレス越しに、私の皮膚の表面から立ち上る匂いを貪るように深く吸い込む生々しい音が響く。「はぁっ……」 深く、安堵に満ちた呼気。 彼の呼吸が整っていくのを感じながら、私はだらりと両腕を下ろしたまま、冷たい大理石の床を見つめていた。 胸元で重く冷たく輝くサファイア。 最高級のシルクとシフォンの感触。 何を与えられても、どれほど美しく飾り立てられても、私の中にある空洞は少
Read more

第29話 現代家電に敗北する最強の竜①

 シフォンのドレス越しに肌を焦がすような熱い吐息を浴びてから、どれくらいの時間が経っただろうか。 高く昇った太陽の光が、パノラマウィンドウを通してペントハウスのリビングを白く明るく照らし出していた。 私は、部屋の端にある一人掛けのレザーソファにちんまりと身を沈め、自分の膝の上で組んだ両手をじっと見つめていた。淡いラベンダー色の生地は、座るたびに空気を孕んでふわりと広がり、胸元では重厚なサファイアのネックレスが鈍い光を反射している。 やはり、どう考えても落ち着かない。 こんな高価なものを身に纏って、ただ息をしているだけの時間がひどく居心地が悪かった。 黎は少し前から、私をリビングに残したまま奥の部屋へと姿を消している。視界から外れることを許さないと言っていた彼が自ら離れていったのは、おそらく私がこの「鳥籠」から物理的に逃げ出す手段を持たないことを完全に理解しているからだろう。玄関のロックは複雑な暗証番号式で、内側から開ける方法すら私にはわからなかった。 静寂の中、ふと、廊下の奥から異質な音が鼓膜を叩いた。 ガンッ! という、硬い金属を強く打ち据えるような鈍い衝撃音。 ビクッと肩が跳ねた。「……チッ。忌々しい鉄屑め」 続いて聞こえてきたのは、地鳴りのように低く、明らかな怒りを孕んだ黎の声だった。(怒ってる……? どうしよう、私が何か粗相をしたのかな) 鼓動が一気に早くなる。有栖川家にいた頃の癖で、怒声や物音を聞くと反射的に体が強張ってしまう。 しかし、このまま放っておいて彼の機嫌をさらに損ねる方が恐ろしい。私は恐る恐るソファから立ち上がり、シフォンの裾を踏まないように気をつけながら、音のした方へと素足で廊下を進んだ。 足の裏に伝わる冷たい大理石の感触が、無駄に高まる緊張感を煽る。 声の出処は、洗面所のさらに奥にあるユーティリティルームだった。 半開きになったドアの隙間から中を覗き込み、私は思わず息を呑んだ。 真っ白で清潔な空間の中央に、威圧感の塊のような漆黒の巨体がしゃがみ込んでいる。 黎が鋭い黄
Read more

第30話 現代家電に敗北する最強の竜②

「あ、あの! 黎様、待ってください!」 このままではタワマンの高級備品が粉々に砕け散ってしまう。私は恐怖を横に置き、慌ててドアを押し開けてユーティリティルームへと飛び込んだ。 黎が不機嫌そうに肩越しにこちらを振り返る。「なんだ。俺の視界から消えろと言った覚えはないぞ」「違います、その……洗濯機、壊れちゃいます! 力ずくで開けるものじゃないんです」 私が駆け寄ると、黎はチッと舌打ちをして扉から手を離した。ギリギリのところで破壊を免れた洗濯機が、安堵の息を吐くように小さく駆動音を鳴らす。「力ずくでなければどうやって開ける。この鉄屑、中身を飲み込んだままウンともスンとも言わん。ふざけた構造だ」 黎は本気で洗濯機の仕様に腹を立てているらしかった。 私は黒いガラスパネルの表示を確認する。「あ……チャイルドロックがかかっています。それに、まだ洗濯の途中で水が入っている状態みたいで……」「チャイルドだと?」 黎の眉間に深い皺が刻まれた。「誰の許可を得て俺の服を子供扱いしている。今すぐそのロックとやらを解除しろ。俺が直接服を洗う」(子供扱いしてるわけじゃなくて、安全装置なんですけど……) 心の中でひっそりとツッコミを入れながら、私はパネルの端にある小さなボタンを長押しする。ピロッ、という甲高い電子音が鳴り、パネルの鍵マークが消灯した。続いて一時停止のボタンを押すと、プシューという音とともにドアのロックが外れる。「これで開きます」 私がそっとガラス扉を手前に引くと、あっさりと扉が開いた。 黎は忌々しそうにそれを見下ろしている。「人間の道具は、いちいち不要な手順を踏ませて苛立たせる。ただ洗えばいいものを、なぜ無駄な仕組みを作る」「安全のためですよ。水が漏れたり、間違えて開けちゃったりしないように……。ところで黎様、洗剤は入れましたか?」「洗剤? そんなものは知らん。水の中で回せば泥など落ちるだろう」
Read more
PREV
123456
...
12
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status