All Chapters of 追放された名家の令嬢ですが、最恐の黒竜様は私なしでは息もできません: Chapter 91 - Chapter 100

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第91話 変わらない悪意①

 ざあざあと、車のルーフを叩く雨音が不規則にリズムを変える。 タイヤが砂利を噛む重い音が響き、ゆっくりと車のスピードが落ちていった。 窓ガラスを流れる水滴の向こう側に、ぼんやりと浮かび上がってきたのは、黒々とそびえ立つ重厚な鉄格子の門だった。 有栖川の屋敷。 一ヶ月前、私が全てを奪われ、雨の中に放り出された場所。 胃の奥がギュッと収縮し、口の中に嫌な酸味が広がる。 車がポーチに横付けされると、運転席の理恩がエンジンを切り、無言のままドアを開けて外へ出た。冷たい雨の匂いと、生ぬるい風が一瞬だけ車内に流れ込んでくる。 すぐに助手席側のドアが外から乱暴に引き開けられた。「降りろ」 理恩の低く冷たい声が、頭上から降ってくる。 私がシートベルトの金具を握りしめたまま身を固くしていると、彼は舌打ちをし、力任せに私の腕を掴んで車外へと引きずり出した。「痛っ……」 裸足同然の足元が、水たまりのできた石畳に叩きつけられる。 冷たい雨水が薄いルームウェアを瞬く間に濡らし、肌にべったりと張り付いた。「大人しく歩け。それとも、このまま玄関まで引きずって行ってほしいのか」 理恩の手のひらが、私の二の腕にギリギリと食い込む。 抵抗する間もなく、私は彼に引きずられるようにして、広大なエントランスの階段を上らされた。 重厚な木製のダブルドアが、理恩の指紋認証で音もなく開く。 一歩足を踏み入れた瞬間、むせ返るような百合の香水と、古い木材の匂いが鼻腔を突いた。 磨き上げられた大理石の床。天井から吊り下げられた巨大なクリスタルシャンデリア。 何も変わっていない。私が這いつくばって床を磨かされていた、あの息の詰まる空間のままだ。「リビングにいるだろう」 理恩は私の腕を掴んだまま、長い廊下を大股で歩き始める。 引きずられないよう、私は必死に小走りで彼についていくしかなかった。濡れた足の裏が、大理石の床をペタペタと情けない音を立てて叩く。 重厚な両開きのドアの前で理恩が立ち止まり、ノックもせず
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第92話 変わらない悪意②

 その隣には、シルクのナイトガウンを羽織った継母が、つまらなそうに雑誌のページをめくっていた。 二人の視線が、床に這いつくばる私へと突き刺さる。「……なんだ、それは」 父の眉間が、険しく不快げに寄せられた。「お前……瀬理亜か?」 継母の雑誌をめくる手が止まり、彼女の細く吊り上がった目が、私の濡れそぼった姿を上から下まで舐め回すように動いた。「まあ。随分と薄汚い格好で。うちの敷居をよく跨げたものね。宝石泥棒の恥知らずが」 継母の赤い唇から、毒を吐き出すような声が漏れる。「街を車で走っていたら、道端で震えているのを見つけましてね。あまりにも見苦しいので、車に押し込んで連れてきました」 理恩が、私の頭上から冷ややかに言い放つ。「行く当てもなく、その辺のゴミ箱でも漁っていたんでしょう。見かねて声をかけたら、泣きついてきましてね。有栖川の慈悲にすがりたいと」 息を、呑んだ。 理恩は、平然と嘘をついている。 私が彼にすがりついた? 泣いて許しを請うた? あまりの身勝手な捏造に、私は言葉を失い、ただ目の前の男を見上げることしかできなかった。「……ほう」 父が、ゆっくりとグラスをテーブルに置いた。 カチン、という氷の鳴る音が、やけに大きくリビングに響く。「外の世界の冷たさを、少しは思い知ったというわけか。有栖川の看板がなければ、自分がいかに無価値でちっぽけな存在であるかをな」 父はソファから立ち上がり、私を見下ろすように歩み寄ってきた。 革靴の先端が、私の視界のすぐそばに止まる。「お前が有栖川の泥を塗った罪は重い。本来なら、二度とこの敷居を跨がせるつもりはなかった」 父の声が、頭の上から重くのしかかってくる。 かつての私なら、この足元に額をすりつけ、「申し訳ありませんでした」「どうかお許しください」と、泣きながら懇願していただろう。 生きるために、自分の尊厳を全て削り落として。「ですが、お義父さん」
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第93話 変わらない悪意③

 道具。土台。サンドバッグ。 彼らの世界では、私はただの便利な消耗品でしかない。「聞いただろう、瀬理亜」 理恩が、私の肩を上から強く押さえつけた。「お前の居場所は、ここ以外にないんだ。感謝して、這いつくばって父上に許しを請え。そうすれば、屋根のある場所と、残飯くらいは与えてやる」 沈黙が、リビングに落ちた。 三人の見下ろすような視線が、私の後頭部に突き刺さっているのがわかる。 彼らは疑っていないのだ。私がここで涙を流し、彼らの足元にすがりつき、感謝の言葉を口にすることを。 自分の支配下にある弱者が、決して自分たちに逆らうことなどあり得ないと。 私は、ゆっくりと息を吸い込んだ。 肺の奥に流れ込んでくるのは、ペントハウスの清浄な空気とは全く違う、埃と香水と、酒の混ざった澱んだ空気。 けれど、私の胸の奥には、確かな熱が宿っていた。 黎の、あの不器用で、火傷しそうなほど熱い体温の記憶。『お前は俺の呼吸を支える、唯一の道連れだ』 彼の言葉は、私をフィルターとして扱っていたかもしれない。 でも、彼の指先は、決して私を雑に扱うことはなかった。私の髪を梳かす時、彼はまるで壊れ物に触れるように、震えるほどの慎重さで私に触れた。 私は、あの熱を知ってしまったのだ。 人間ではない存在からの、恐ろしいほどの執着と、不器用な労わりを。 それに比べたら、目の前にいるこの人間たちの悪意など、ひどく薄っぺらで、滑稽にすら思えた。 私は、肩を掴む理恩の手を払い除け、ゆっくりと絨毯の上から立ち上がった。「……なにをしている。さっさと頭を下げろ」 理恩の声に、苛立ちが混じる。 私は、濡れた髪の隙間から、真っ直ぐに父の顔を見据えた。「……私は、許しを請うためにここへ来たのではありません」 自分の口から出た声は、驚くほど静かで、はっきりとしていた。 震えもない。躊躇いもない。「理恩様に、道端で無理やり車に押し込まれて連れてこられただけです。
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第94話 変わらない悪意④

 父の顔が、怒りで赤黒く染まっていく。 首筋に青筋を立て、目を血走らせて怒鳴り散らすその姿は、かつての私なら恐怖で卒倒してしまうほどの威圧感があったはずだ。 しかし、今の私には、それがただの「自分の思い通りにならないおもちゃに腹を立てている子供の癇癪」にしか見えなかった。「慈悲、ですか」 私は、小さく息を吐き出した。「それは、自分にとって都合のいい道具を手放したくないという、ただの執着でしょう。……私はもう、あなたたちのために息を殺して生きるつもりはありません」「この、恩知らずのクズが……!」 父が、テーブルの横に立てかけられていた、真鍮の装飾が施された重厚なステッキを荒々しく掴み取った。 その無造作な動作を見た瞬間、私の身体は思考を介さず、喉の奥がヒュッと鳴って凍りついた。 何度も見てきた光景だ。この部屋の、この位置で、父の不機嫌が頂点に達した時に繰り返される、私にとっての逃げ場のない「日常」。「お義父さん!」 理恩が短く声を上げるが、父の耳には届いていないようだった。 左肩の奥が、熱を持ったようにズキリと疼く。三年前、あのステッキの真鍮が皮膚を裂いた時の、焼けるような痛みの記憶が、冷たい雨に濡れた肌の下で鮮明に蘇る。あの時、継母は隣で「あら、床が汚れるわね」と、紅茶のカップを置いただけだった。 私の身体には、教科書には載っていない「痛みの地図」が刻まれている。どこを殴れば最も響くか、どこを蹴れば声が出なくなるか。父の指先の微かな震えだけで、次にくる衝撃の角度がわかってしまう自分が、悲しくてたまらなかった。「躾けが必要なようだな。その分を弁えない口、二度と開けぬようにしてやろう」 ステッキの先端が、鈍い光を放ちながら空を切り、私の目の前に突きつけられる。 父の瞳には、娘を見る温かみなど微塵もない。ただ、思い通りにならない不具合品を叩き壊そうとする、冷酷な破壊衝動だけが澱(よど)んでいた。 逃げなければ。そう思うのに、足が床に縫い付けられたように動かない。かつての恐怖が、目に見えない鎖となって私の自由を奪
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第95話 変わらない悪意⑤

 空調の微かな稼働音すら、今の黎の耳には届いていない。 彼の手の中には、真っ二つにへし折れた豚毛のヘアブラシが握られていた。 鋭くささくれた木片が、掌の硬い皮膚に食い込み、微かに血が滲んでいる。だが、その程度の物理的な痛みなど、黎の意識の表面すら撫でることはなかった。 視線は、開きっぱなしになっている玄関の分厚い扉に向けられている。 数分前まで、そこには確かに彼女の背中があった。 黎の膝の上に座り、熱を分け合い、微かにミントの香りのする呼吸を繰り返していた、小さな質量。『あなたは、私の中に流れている感情なんて、どうでもいいんだわ!』 涙で濡れた瀬理亜の顔が、鼓膜を劈くような声と共に、脳裏に何度もフラッシュバックする。 理解できなかった。 俺は、あいつを外の汚れた空気から守りたかっただけだ。 あいつは俺の呼吸そのものであり、俺の命を繋ぐ唯一の道連れだ。だからこそ、最高級の寝具を与え、最高級の食事を与え、安全な金庫の中で徹底的に管理しようとした。 それが、彼女にとって最善の「保護」であると信じて疑わなかった。 だが、彼女は「窒息しそうだ」と泣き、俺の手を振り払って闇の中へ逃げてしまった。「……っ、」 喉の奥から、ギリリ、と嫌な音が鳴った。 呼吸が浅くなる。 肺の底に溜まっていた、重く黒いヘドロのような「淀み」が、浄化の要を失った途端、容赦なく気管を這い上がってくる感覚。 息が詰まる。ひどく痛い。 だが、黎を苛んでいるのは、そんな物理的な「瘴気による呼吸困難」ではなかった。 もっと根本的な、心臓そのものを素手で鷲掴みにされ、力任せに引き千切られているような、凶暴で理解不能な激痛。 瀬理亜の匂いが、消えた。 微かに残っていた雨の日のような清潔な香りが、玄関の開いた扉から吹き込んでくる廊下の空気に流され、完全に途絶えたのだ。 その事実を認識した瞬間。 黎の頭の中で、張り詰めていた太いワイヤーが、ブツン、と音を立てて弾け飛んだ。 ――失った。 数百年
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第96話 変わらない悪意⑥

 ガラス張りの窓に結露が急速に広がり、ピキッ、ピキッ、と細かい亀裂が走る。 黎の身体から、漆黒の靄のような「瘴気」がとめどなく溢れ出し、床を這うようにして広がり始めた。 理性が、急速に蒸発していく。 ただ、彼女の匂いを追わなければならない。 あの小さな体温を、再び俺の腕の中に取り戻さなければ、心臓が止まってしまう。 黎が、ゆっくりと玄関に向かって足を踏み出した。 その一歩が床に触れた瞬間、重厚なフローリングがミシリと悲鳴を上げ、深い亀裂が走った。 人間の体重ではあり得ない、圧倒的な重力が、彼の周囲の空間を歪ませている。「……どこへ、行った」 掠れた声は、すでに人間の言葉の響きを失い、地鳴りのような重低音へと変貌していた。 黎の首筋から頬にかけて、漆黒の硬質な鱗が、皮膚を突き破って浮かび上がる。 右手の指先からは、人間の爪が剥がれ落ち、代わりに鋭く湾曲した、黒曜石のような鉤爪が伸びていた。 視界が、赤黒く染まる。 頭の中を支配しているのは、ただ一つの強烈な衝動だけだった。 俺のものを、奪い返す。 俺の呼吸を、俺の体温を、俺の命を。 もし、誰かが彼女に触れているのなら。 もし、誰かが彼女を泣かせているのなら。 その不浄な存在ごと、この世界を噛み砕いてやる。 黎は、完全に異形と化した鉤爪で、玄関の分厚い金属製のドアを掴んだ。 メシャァァッ! という鼓膜を破るような金属のひしゃげる音と共に、特殊合金のドアが、まるで薄い紙切れのように引きちぎられた。 吹き込んでくる夜風の中に、雨の匂いに混じって、ごく僅かに、遠くへ連れ去られた彼女の残り香が引っ掛かった。 微かな、本当に微かな、彼女の匂い。 それと同時に、別の不快な匂い――安っぽい香水と、他人の体臭の痕跡が、彼女の気配に絡みついているのを、黎の鋭敏な嗅覚は正確に嗅ぎ取った。「……ァ……」 喉の奥から、殺意の煮詰まったような、ひどく熱
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第97話 愚者のヒステリーと、母の記憶①

 私はギュッと両目を閉じ、毛足の長いペルシャ絨毯の上に両手をついたまま、全身の筋肉を硬直させてその痛みを待った。 真鍮の装飾が施された、父の分厚いステッキ。それが私の細い肩や背中に振り下ろされれば、骨の一つや二つが軋むことは避けられない。 せめて悲鳴だけは上げまいと、奥歯をギリリと強く噛み締める。鼻腔の奥に、父の吐き出すウイスキーの饐えた匂いがツンと突き刺さった。 ――「……理恩っ!!」 だが、私を襲うはずだった鈍痛よりも先に、屋敷の静寂をヒステリックに切り裂くような、甲高い女の金切り声が廊下の方から響き渡った。 ドタドタ、カツンッ! と、ヒールで大理石の床を乱暴に蹴りつけるような、ひどく余裕のない足音が急速に近づいてくる。 そして、バンッ! という無遠慮な音と共に、リビングの重厚な両開きのドアが力任せに押し開けられた。「な、なんだ……!?」 父のしゃがれた声が頭上から降ってくる。 恐る恐る固く閉じていた瞼を薄く開けると、父はステッキを中途半端な高さで振り上げたまま、呆然とした顔でリビングの入り口の方へと首を巡らせていた。 暖かなオレンジ色の光が差し込むドアの隙間に、荒い息を吐きながら立ち尽くす一つの影。 そこにいたのは、数時間前まで私が着せ替え人形のように見せつけられていた、あの華やかで傲慢な次女の姿ではなかった。 雨水をたっぷりと吸い込み、重く垂れ下がった高級なシルクのドレス。 丁寧に巻かれていたはずの艶やかな髪は、無惨に束になって頬や首筋にべったりと張り付いている。 何より異様だったのは、その顔だ。 雨に打たれ、手で乱暴に擦ったのだろう。濃く塗られていたマスカラとアイラインが真っ黒な泥のように溶け出し、目の下から頬にかけて、ドロドロとした黒い筋を描いて流れ落ちていた。 麻里亜だった。 彼女が息を荒らげてリビングに足を踏み入れた瞬間、雨の冷たい匂いと共に、あのむせ返るような香水の匂いが、密室の空気を一気に塗り潰した。 バニラとムスクの、甘ったるく、自己主張の激しい重たい匂い。それが雨の湿気
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第98話 愚者のヒステリーと、母の記憶②

 しかし、理恩の表情は驚くほど冷たく、平坦だった。 彼はスーツのポケットに片手を入れたまま、眉一つ動かさず、ただ路傍のゴミでも見るような目で、泣き叫ぶ麻里亜を見下ろしている。「うるさいぞ、麻里亜。ここは有栖川の屋敷だ。みっともない真似はやめろ」「みっともない!? 私をこんな目に遭わせたのは誰よ!」 麻里亜は右手に握りしめていた、雨に濡れて変色したブランド物の革のバッグを、力任せに理恩に向かって投げつけた。 理恩がわずかに首を傾けてそれを避けると、バッグは背後の壁に飾られていたアンティークのランプに激突し、ガシャァン! という派手な破砕音と共に床に散らばった。「やめなさい、麻里亜! 理恩様に向かってなんてことを!」 継母が悲鳴のような声を上げるが、麻里亜の耳には全く届いていない。 彼女は荒い呼吸を繰り返し、肩を上下させながら、今度は視線を床へと落とした。 そして、絨毯の上に四つん這いになっている私の姿を、その濁った瞳に捉えた。 ピタリ、と。 麻里亜の身体の動きが止まった。 瞬きもせず、泥のように溶けたメイクの奥から、私を凝視している。 薄いルームウェアは雨に濡れて肌に張り付き、裸足の足元は泥で汚れている。彼女から見れば、それは「有栖川から追放され、惨めに這いつくばる敗者」の姿に他ならないはずだった。 だが、麻里亜の視線は、私の濡れた姿から、部屋の隅に立つ理恩へと移動し、そして再び私へと戻ってきた。 彼女の頭の中で、決定的な、そして最悪の「勘違い」が組み上がっていく音が聞こえるようだった。「……あ、」 麻里亜の喉の奥から、ヒュッ、と空気が漏れるような音が鳴った。「そういう、こと……」 ワナワナと震えていた彼女の唇が、醜く歪む。「理恩が私を車から降ろしたのは……この、薄汚い泥棒猫を拾いに行くためだったのね!?」 それは、あまりにも飛躍しすぎた、被害妄想の極みだった。 理恩が私を拾ったのは偶然であり、そこに彼女への当てつけなど
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第99話 愚者のヒステリーと、母の記憶③

 黒く濁った涙と、香水と雨水が混ざった強烈な匂いが、私の顔面をべっとりと覆い尽くした。「私が全部奪ってやったのに! 有栖川の居場所も、理恩の隣も、全部私のものになったのに! どうしてまた、ノコノコと這い上がってくるのよ!」 前後に激しく揺さぶられ、私の視界がぐらぐらと揺れる。 首が鞭打ちのように前後に振られ、三半規管が悲鳴を上げた。「やめ、て……離して!」 私は両手で麻里亜の手首を掴み、引き剥がそうと力を込めた。 しかし、完全に狂乱状態に陥っている彼女の腕力は凄まじく、私の細い指の力ではビクともしない。「離すもんか! この泥棒! お母様の宝石だけじゃ飽き足らず、今度は私の彼氏まで盗むつもり!?」「違う! 私は、理恩様になんて……!」「嘘よ! 昔からそうやって、男の人の前でだけ大人しいふりをして、陰でこそこそ計算してたんでしょ!」 麻里亜の唾が、私の頬に飛ぶ。 父と継母は、ただその光景を呆然と見ているだけだった。 理恩に至っては、止めに入るどころか、壁に背を預けたまま、腕を組んで冷ややかにこの泥沼の口論を見下ろしている。 彼らは誰も、私を助けようとはしない。 かつて有栖川の屋敷にいた頃の私なら、ここで反論することを諦め、「ごめんなさい、私が悪かったわ」と泣きながら謝罪していただろう。波風を立てず、ただ嵐が過ぎ去るのを待つのが、ここで生き延びるための唯一の術だったからだ。 だが、今の私は違う。 ペントハウスでの一ヶ月が、黎の不器用で圧倒的な体温が、私の内側に、かつてないほどの「怒り」の輪郭を形作っていた。「……っ、そんな風にしか、考えられないのね」 私は、震える声で絞り出した。「私を陥れて、嘘の罪を着せて追い出したくせに。……自分が一番じゃないと、気が済まないのね」「当たり前でしょ! 私が有栖川の本当の娘なのよ!」 麻里亜が、私の顔に顔を近づけ、狂気に満ちた目で睨みつけてくる。「あんたみたいな、
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第100話 愚者のヒステリーと、母の記憶④

 彼女の周りには、いつも微かに、あの安価なラベンダーの石鹸の匂いがしていた。 高級な香水なんて買えなかった。美しいドレスも着られなかった。 それでも、母の手はいつも温かくて、私を見る目は慈愛に満ちていた。『瀬理亜。あなたは、誰よりも優しい女の子になりなさい』 私の髪を梳かしてくれた、あの震える指先。 黎の大きな手が私の髪を梳かしてくれた時、私が不意に安らぎを感じたのは、それが母の指先の優しさに、どこか似ていたからだ。 その、私にとって世界で一番神聖で、大切な記憶を。 中身が空っぽで、他人を蹴落とすことでしか自分の価値を見出せないこの浅ましい女が、泥水で汚すことなど、絶対に許してはならない。「……私の、母を……」 私は、ゆっくりと息を吸い込んだ。 肺の奥まで、限界まで空気を満たす。「愚弄するなッ!!」 自分の口から出たとは思えないほどの、鋭く、雷鳴のような怒声が、広いリビングの空気をビリビリと震わせた。「……え、」 麻里亜が、初めて見る私の怒りに一瞬だけ怯み、目を丸くして動きを止めた。 その隙を見逃さず、私は両腕に全身の力を込め、私の胸ぐらを掴んでいた彼女の腕を、下から上へと力任せに跳ね上げた。 パンッ! と乾いた音が鳴り、麻里亜の爪が私の肌から弾き飛ばされる。「きゃっ……!」 私はそのままの勢いで立ち上がり、絨毯の上に尻餅をついて呆然としている麻里亜を見下ろした。 全身の血が沸騰しているように熱い。 拳を握りしめる両手は小刻みに震えていたが、足はしっかりと大理石の床を踏み締めていた。「私の母は、あなたたちのように、他人を貶めて喜ぶような卑しい人ではなかった!」 私は、一言一言を噛み砕くように、はっきりとした声で言い放った。「高級なドレスを着て、高い香水を振り撒いて、それで自分が偉くなったと勘違いしているあなたたちより、ずっと気高く、ずっと美しい人だった!」 静寂が、リ
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