All Chapters of 追放された名家の令嬢ですが、最恐の黒竜様は私なしでは息もできません: Chapter 101 - Chapter 110

114 Chapters

第101話 愚者のヒステリーと、母の記憶⑤

 麻里亜が顔を真っ赤に染め上げ、再び私に飛びかかろうと腰を浮かせた。 だが。「そこまでだ、麻里亜」 部屋の隅から響いた、低く、冷え切った声が、彼女の動きを縫い留めた。 理恩だった。 彼はゆっくりと壁から背中を離し、革靴の音を響かせながら、私たちの間へと歩み出てきた。「り、理恩……! 聞いたでしょ!? この女、私とお母様のことを侮辱して……!」「黙れと言っている」 理恩の視線が、刃のように鋭く麻里亜を射抜く。 その絶対的な冷酷さに、麻里亜はヒッと息を呑み、言葉を詰まらせた。 理恩は、床に座り込む麻里亜を一瞥しただけで、すぐに視線を私へと戻した。 その目を見た瞬間、私の背筋を、先ほどまでの怒りとは全く違う、ヌルリとした不快な悪寒が這い上がった。 理恩の瞳孔が、わずかに開いている。 彼の視線は、私の濡れて肌に張り付いたルームウェアや、泥で汚れた足元を、まるで値踏みするような、それでいてひどくねっとりとした熱を帯びてなぞっていた。 呼吸が、彼の中で少しだけ早くなっているのがわかる。 それは、「便利な道具」を見つけた時の打算的な目ではない。 初めて見る、「価値のある獲物」を見つけた時の、猟犬のような目だった。「……驚いたな」 理恩の口角が、ゆっくりと歪な弧を描いて吊り上がる。「お前が、そんな顔をして、そんな声で吠えることができるとは」 彼が一歩、私の方へ近づいてくる。 私は反射的に一歩後ずさった。「ずっと、他人の影に怯えて、地面ばかり見ているつまらない女だと思っていた。有栖川の体裁のために、黙ってすり減っていくのがお似合いの、ただの土台だと」 理恩の革靴が、絨毯を踏みしめる音がやけに大きく聞こえる。「だが……違うな。お前の中に、そんな気高い炎が隠れていたとは」「……近寄らないで」 私は両腕を体の前で交差し、強い拒絶を示した。
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第102話 愚者のヒステリーと、母の記憶⑥

「……気でも触れたんですか。私は、あなたたちを有栖川ごと軽蔑しています。誰が、あなたの隣になんて」「今はそうだろう。だが、お前には帰る場所がない。この雨の中、一人で生きていけるほど、世界は甘くないことはもう分かっているはずだ」 理恩が、再び距離を詰めてくる。 彼の吐き出す息が、顔にかかるほどの距離。「俺がお前を守ってやる。有栖川の汚れ仕事からも、この屋敷の理不尽からも。俺の妻になれ、瀬理亜。そうすれば、お前はすべてを手に入れられる」 理恩の両手が、私の肩をガシリと掴んだ。 その瞬間、彼のスーツから漂う、麻里亜の香水と彼の体臭が混ざったむせ返るような匂いが、私の顔面を覆い尽くした。「……っ、嫌ッ! 離して!」 私は全力で身をよじり、彼の腕から逃れようとした。 しかし、大柄な男性である理恩の力に、私が敵うはずもない。 彼の手は、私の肩骨を砕かんばかりの強さで食い込み、私を逃さまいとガッチリと固定する。「意地を張るな。俺の腕の中にいれば、もう誰もお前を傷つけない」 理恩の顔が、私の顔へと近づいてくる。 その熱に浮かされたような瞳の奥に、私は圧倒的な絶望を見た。 駄目だ。この人には、私の言葉は一切届かない。 彼は自分の見たいものしか見ず、自分の欲しいものを力ずくで手に入れることしか考えていない。(……黎様) 私はギュッと目を閉じ、心の奥底で、たった一つの名前を叫んだ。 あの、不器用で、熱くて、私を絶対に無理に押さえつけようとはしなかった、漆黒の存在を。 その時だった。 ――ピキッ。 リビングの大きなガラス窓から、微かな亀裂音が鳴った。 理恩の動きが、不自然に止まる。「……なんだ?」 理恩が怪訝そうに顔を上げた瞬間。 部屋の空気が、急激に、異常な速度で冷え始めた。 それまで肌を刺していた雨の湿気が一瞬で凍りつき、吐き出す息が真っ白に染まるほどの、絶対零度
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第103話 粉砕された虚栄と、凍てつく靴音①

 鼓膜を容赦なく突き破る、爆発のような破砕音。 壁一面を覆っていた分厚い強化ガラスが、内側から凄まじい圧力を受けたかのように、一斉に外側へ向かって弾け飛んだ。 キラキラと、頭上のシャンデリアの光を乱反射しながら、無数の鋭利な破片がリビングの空気を切り裂く。 バラバラバラッ、と、硬質な氷の雨が降るような凄惨な音が、密室だった空間に幾重にも反響する。 それまで部屋をねっとりと満たしていた、継母と麻里亜のむせ返るような百合の香水。そして父の吐き出すウイスキーの饐えた匂い。 私を十九年間も窒息させ続けてきたその不浄な空気が、一瞬にして、夜の闇へと吹き飛ばされた。 代わりに流れ込んできたのは、肌を刺すような夜の雨の匂いと――肺の奥の水分まで一瞬で凍りつかせるような、圧倒的な質量の「冷たさ」だった。 吹き抜けになった窓枠の向こう。 漆黒の夜闇と、横殴りの激しい雨を背にして、一つの影が立っていた。 黎様だ。 雨水をたっぷりと吸い込み、重くなったダークスーツが、彼の大きな身体にべったりと張り付いている。 漆黒の髪から滴り落ちる水滴が、彼の形の良い顎のラインを伝い、大理石の床に濃い染みを作っていく。 普段の無機質なほど整った姿とは違う、雨に濡れたその姿。 だが、彼から放たれる空気は、私が知っている「黎様」のそれとは決定的に異なっていた。 黄金の瞳は、リビングの照明を吸い込むことすら拒絶するかのように、鈍く、深く沈み込んでいる。「な……、何だ、貴様は……ッ!」 最初に声を発したのは、父だった。 しかし、その声には、先ほどまで私をステッキで殴りつけようとしていた家長としての威圧感など微塵もない。 喉の奥が引き攣り、裏返った、ひどく掠れた音。 黎様は、父の言葉など鼓膜に届いていないかのように、ゆっくりと片足を踏み出した。 ジャリッ。 高級な革靴の底が、散らばった硝子の破片を容赦なく踏み砕く。 その重く、冷酷な足音が一つ響いた瞬間。 リビングの空気が、ミシミシ
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第104話 粉砕された虚栄と、凍てつく靴音②

 理恩の手の甲には、まるで見えない毒にでも侵されたかのように、霜がびっしりと降りていた。彼の白い肌がみるみるうちに血の気を失い、青黒く変色していく。 他人をコントロールすることしか考えていなかった彼から、今、自分の身体を動かすという最も基本的な自由すら奪われていた。 解放された私は、絨毯の上に崩れ落ちるように膝をついた。 散らばった硝子の欠片が膝の皮膚に触れ、チクリと小さな痛みが走る。 だが、その痛みよりも先に、目の前の光景から目が離せなかった。 理恩は、這うようにして私から距離を取り、背後の壁に背中を激しく打ち付けた。 彼の端正な顔は見る影もなく引き攣り、額からは滝のような冷や汗が流れ落ちている。 口をパクパクと金魚のように動かしているが、もはや言葉の形すら成していない。ただそこに存在するだけの「圧倒的な質量の差」を前に、理恩は本能的な恐怖で完全に呼吸の仕方を忘れていた。 ジャリッ。 黎様が、もう一歩、室内へと足を踏み入れる。 頭上の巨大なクリスタルシャンデリアが、ジジジ……と耳障りな静電気のノイズを立てて、激しく明滅を繰り返す。 オレンジ色の光と濃い暗闇がチカチカと交差する中、黎様の黄金の瞳が、ゆっくりと室内を舐め回した。「……警備は……警備は何をしている! 不法侵入だぞ!」 父が、震える手で真鍮の装飾が施された分厚いステッキを再び振り上げようとした。 このステッキだ。 有栖川の体裁を汚すような真似を少しでもすれば、父は容赦なくこのステッキで私の肩や背中を打ち据えてきた。私が十九年間、この家で息を潜めて生きるしかなかった、その「暴力と支配」の象徴。 黎様の視線が、ほんの一瞥だけ、父に向けられる。 瞬間。 バキンッ! という鋭い音と共に、父の手に握られていた真鍮のステッキが、まるで見えない巨大な手でへし折られたかのように、中央から真っ二つに裂けた。「あ……、え……?」 父は折れたス
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第105話 粉砕された虚栄と、凍てつく靴音③

 彼女の目は、倒れた夫への心配よりも、純粋に自分に迫り来る得体の知れない存在への恐怖で見開かれていた。 彼女が命より大切にしていた、有栖川の権威を示す高価なアンティーク家具や、床に敷かれたペルシャ絨毯。それらが、黎様の足元からじわじわと広がる黒い冷気によって、色を失い、ボロボロに腐食していく。 他人の犠牲の上に築き上げた彼女の薄っぺらな虚栄の城が、文字通り、足元から崩れ去ろうとしていた。「やめて! 私の家よ! 私の大切な家具が、絨毯が……っ!」 継母の甲高い叫び声が、冷え切った空気に虚しく反響する。 だが、黎様は、床を這いずる有栖川の人間たちなど、路傍の石ころほどにも認識していないようだった。 ただ真っ直ぐに。 黄金の瞳孔を縦に細め、床に膝をつく私の姿だけを、真っ直ぐに捉えていた。 ◇「……ッ、来ないでよぉぉぉっ!!」 突如、部屋の隅から鼓膜を突き破るような金切り声が上がった。 泥と崩れた化粧で顔をドロドロに汚した、麻里亜だった。 彼女は床に尻餅をついたまま、両足で絨毯を乱暴に蹴り、無様に後退りしている。 高級なシルクのドレスは散乱した硝子の破片を巻き込み、彼女自身の白い脚をズタズタに切り裂いているが、本人はその痛みにすら気づいていない。「あんた! あんたが呼んだんでしょ、こんな気味の悪い男!」 血走った目をひん剥き、麻里亜は震える指先で私を指差した。「いつもそうやって、男に媚びを売って……! 私から全部奪おうとして! お母様、理恩、早く警察を呼んで! この泥棒猫と、この不審者を叩き出してよぉっ!」 狂乱状態のヒステリックな絶叫。 彼女はいつもそうだった。私が母から受け継いだ唯一の誇りであるピアノを奪い、婚約者である理恩を奪い、最後には母の形見の宝石を盗んだという濡れ衣を着せて、私をこの屋敷から追い出した。 他人のものを奪い、自分が一番愛され、美しいドレスを着てちやほやされることでしか、自分の価値を証明できない空っぽな女。 その彼女が
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第106話 粉砕された虚栄と、凍てつく靴音④

 私を虐げ、全てを奪い取ってきた彼らが、今、自分の最も誇っていたものを無惨に打ち砕かれ、這いつくばっている。理恩は支配の指先を凍りつかされ、父は暴力の象徴を折られ、継母は虚飾の城を腐食され、麻里亜は自らの美貌を泥と恐怖で汚し切っている。 だが、私の胸に湧き上がったのは、優越感でも、ざまぁみろという喜びでもなかった。 ただ、ひどく虚しかった。 こんなにも薄っぺらで、弱い人たちに、私は十九年間も縛り付けられ、怯えていたのか。 黎様が、再び視線を私へと戻す。 ジャリ、ジャリ。 硝子を踏む音と共に、黎様が私の目の前まで歩み寄ってきた。 シャンデリアの明滅が、黎様の顔を不規則に照らし出す。 至近距離で見る彼の顔は、いつもよりずっと青白く、そして、どこかひどく苦しそうだった。 黎様の視線が、私の雨に濡れて肌に張り付いた薄いルームウェアをなぞり、そして――。 私の鎖骨の下。 先ほど、麻里亜に無理やり胸ぐらを掴まれた際にできた、爪が深く食い込んだ赤い傷跡に、ピタリと止まった。 ドクン。 黎様の身体が、微かに、けれど激しく震えた。 その瞬間、部屋の温度がさらに一段階、急降下した。 吐き出す息が真っ白に染まり、床に散らばった硝子の破片の表面に、白い霜がびっしりと降りていく。 黎様のダークスーツの裾から、革靴の隙間から。 漆黒の靄のようなものが、とめどなく溢れ出し始めた。 それはただの煙ではない。周囲の光を吸い込み、触れたものの生命力を奪うような、禍々しくも冷たい気配。 黒い靄は意志を持つ生き物のように床を這い、絨毯を真っ黒に染め上げながら、部屋中を侵食していく。「黎、様……?」 私が小さく声をかけると、黎様の喉の奥から、グルル……という、地鳴りのような低い音が漏れた。 それは、人間の発する声ではない。 彼の頬の皮膚が、微かに波打つのが見えた。 白い肌の下から、硬質な漆黒の何かが、押し上げられるようにして姿を現そうとしている。 
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第107話 温かい掌①

 鼻腔を通り抜けるのは、濡れたアスファルトが吐き出す雨の匂いと、砕け散ったガラスの破片が微かな風にこすれ合う、チリチリとした硬い音だけだった。 つい先ほどまでこの広大なリビングをねっとりと満たしていた、息の詰まるような百合の香水も、アルコールの混ざった不快な空気も、今はもうどこにも存在しない。すべてを暴力的に塗り潰すように、圧倒的な質量を持った「冷たさ」が、私の肌の表面を直接撫でていた。 天井の巨大なクリスタルシャンデリアは、もはや照明としての意味をなさないほどに光を弱め、ジジッ……ジジジッ、と不気味な静電気のノイズだけを室内に落としている。 明滅する頼りない光の向こう側で、漆黒の影がゆっくりと立ち上がっていた。 見上げる彼の顔。 彫刻のように整っていたはずの頬から首筋にかけて、硬質で冷たい「鱗」がびっしりと覆い尽くしている。シャンデリアの鈍い光を反射するそれは、まるで水に濡れて黒く輝く黒曜石の連なりのようだった。 人間の瞳の丸みは失われ、縦に鋭く真っ二つに割れた黄金の瞳孔が、薄暗闇の中でチロチロと揺れている。その視線は、周囲に転がる有栖川の人間たちなど路傍の石ころほどにも認識していない。ただ真っ直ぐに、私という存在の輪郭を逃さまいと、一点に固定されていた。 ズン、と。 高級な革靴の底が、散らばったガラスの破片を容赦なく踏み砕く。 彼が一歩こちらへ近づくたびに、部屋の空気がミシリと音を立てて軋むような気がした。物理的な重圧が、私の肩にずしりと乗しかかってくる。 黎の大きな右手が、ゆっくりと持ち上げられた。 その指先は、もはや人間のそれとは呼べないものに変態していた。鋭く湾曲し、触れれば鋼鉄の扉でさえも容易く引き裂くであろう、漆黒の鉤爪。それが、不気味なほど長く伸びている。 彼のその恐ろしい手が、私の頬に向かって、迷うように、それでいて抗えない磁力に引かれるように、じりじりと近づいてくる。「……ッ」 息を呑む音が、自分でも驚くほど大きく聞こえた。 黎の鉤爪の先端が、私の肌に触れる数ミリ手前で、ピタリと空中で静止する。 
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第108話 温かい掌②

 彼の喉の奥から、ヒューッ、という掠れた呼吸音が漏れる。 それは、重く、苦しげで、ひどく痛ましい音だった。 一振りで私の華奢な首など簡単に撥ね飛ばしてしまえるほどに肥大化した、どす黒い鉤爪。彼は、その手を見るなり、まるで火に触れてしまったかのように、ゆっくりと引き戻そうとした。 自分の姿を、自分自身で恐れている。 自分のような得体の知れない化け物が、この温かいものに触れてはいけないのだと、強引に自らを律しようとするように。「……逃げないで」 私は、震える声を振り絞って、空気を震わせた。 引き戻されようとする、彼の大きな掌。 その、鋭い鉤爪が生え揃った恐ろしい右手を、私は自分の両手を伸ばして、逃がさないように強く掴んだ。「ッ……!」 黎の黄金の瞳が、限界まで見開かれる。 指先から伝わってくるのは、想像を絶するほどの冷たさだった。 まるで、真冬の湖の底に何百年も沈んでいた、熱を持たない岩に直接触れているような感覚。硬質で、ざらりとした皮膚の感触。鉤爪の側面は氷の刃のように鋭利で、私の掌を微かに押し返してくる。 人間の体温など微塵も感じられない、完全な人外の感触。 けれど、私はその手を離さなかった。 むしろ、もっと深く、彼の温度に近づきたくて、両手でしっかりと包み込んだ。 雨風が吹き込むリビングの冷気が、私のルームウェアの薄い生地を突き抜けて肌を刺す。それでも、私は彼の鉤爪を握ったまま、一歩前に踏み出した。「黎様……」 声に出して呼ぶと、彼の喉仏が大きく上下したのが分かった。 彼の手が、私の小さな掌の中で微かに震えている。 この圧倒的な破壊の力を持つ存在が、私というちっぽけな人間に触れることを、ひどく狼狽し、躊躇っている。「お前は……」 地底の奥深くから響くような、不気味で重い声が、私の鼓膜をビリビリと震わせる。「これを見ても……まだ、俺の傍にいると&hel
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第109話 温かい掌③

「……っ」「でも……、私の方こそ、あなたがいなければ、息が詰まりそうでした」 黎の巨大な身体が、私と繋がれた手を通じて、一瞬だけ硬直する。「あのペントハウスを飛び出してから、ずっと、胸の奥が苦しくて……。外の空気が重くて、自分がどこにいるのか、分からなくなって」 私は、彼の手を握る力をさらに強めた。 氷のように冷たかった鉤爪の表面が、私の体温を吸って、ほんの少しだけ温かみを帯び始めている。「有栖川の屋敷に戻されて、冷たい言葉を浴びせられて……。その時、私が一番に思い出したのは、黎様の……不器用で、熱い体温でした。私の髪を梳かしてくれた、あの指先の感触でした」 黎の空いた左手が、私の背中の後ろで、触れる場所を探すように宙を彷徨う。 私を傷つけまいと、彼が必死に自分の力を抑制しているのがわかる。 私は、背伸びをするようにして自分の顔を彼の胸元に近づけた。「私は、黎様の呼吸になりたい。……それがどんなに身勝手で、一方的な執着から始まったものだとしても……。私は、あなたがいいんです」 静寂が、粉々に砕けたリビングに落ちた。 背後の床で転がっている人間たちの気配も、雨が壁を叩く音も、すべてが遠い世界の出来事のように感じられる。 今、この空間には、私と、この大きな漆黒の存在しかいない。 黎の黄金の瞳が、ゆっくりと瞬きをした。 その瞳の奥で揺らいでいた暗い破壊の衝動が、まるで春の陽射しに溶ける雪のように、静かに、けれど確実に解けていくのがわかった。 ザッ、と。 衣擦れの音が響く。 私は、目を丸くして息を呑んだ。 身長百九十センチを超える漆黒の巨体が、私の目の前で、ゆっくりと身を沈めていく。 大理石の床に散らばるガラスの破片など意にも介さず、黎は片膝を突き、私を見上げるような姿勢で膝折った。「黎、様……?」
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第110話 温かい掌④

 だが、違った。 こいつが俺の腕の中から消えた瞬間、呼吸が苦しくなったから焦ったのではない。 こいつの匂いが、こいつの体温が、こいつの笑い声が、俺の世界から完全に失われてしまうというその事実に、俺の魂そのものが耐えきれずに狂いそうになったのだ。 他の男にこいつの肌を見られるくらいなら。 こいつが俺以外のもののために涙を流すくらいなら。 いっそ、この世界ごと噛み砕いてしまいたい。 そんな、どうしようもなく身勝手で、醜いほどの独占欲。 それは、「生存本能」などという便利な言葉で片付けられるような、底の浅い感情ではない。 俺は、こいつ自身を求めている。 こいつの心臓の音を。こいつの不器用な優しさを。 世界で一番、失いたくない。 どんな代償を払ってでも、永遠に俺の側へ縛り付けておきたい。 黎が、ゆっくりと顔を上げた。 閉じていた瞼が開かれると、そこに並んでいた黄金の瞳は、もう鋭く縦に割れた爬虫類のそれではなくなっていた。 人間の、丸く、そしてどこまでも深く熱を帯びた、漆黒と琥珀が混ざり合う美しい瞳。 彼の頬から首筋を覆っていた黒曜石のような鱗が、まるで朝露が蒸発するように、皮膚の奥底へと溶けて消え去っていく。 私の手を握る彼の指先からも、鋭い鉤爪の感触が消え、人間としての太く硬い指の腹の温度が戻ってきた。 彼は、完全に「人型」の姿へと回帰したのだ。「……本当に、いいのだな」 黎の口から紡がれたのは、先ほどの不気味な重低音ではなく、低く、掠れた、私の大好きなあの声だった。「後悔しても、もう絶対に離さないぞ。……お前は、一生、俺だけのものなのだから」 その言葉と共に、黎の大きな両腕が、私の腰と背中を強く、ひどく強く引き寄せた。「ッ……」 膝をついたままの彼に抱きすくめられ、私は彼の広い肩口に顔を埋める形になる。 逃げ場のないほどの抱擁。 雨で濡れたダークスーツ越しに、彼の岩盤のような胸の筋肉
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