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第5話

Author: 無き物
スマホが振動した。

一夏が画面をスワイプすると、不動産アプリの通知が飛び込んできた。

【掲載中の物件が成約しました。買主様より、3日後の一括支払いおよび引き渡し手続きの確認が取れました】

3日後は、ちょうど彼女が帝都を去る日だ。

一夏はスマホをしまい、署名済みの契約書を抱えて会社に戻った。

五十嵐は電話中だったが、彼女が入ってくるのを見ると、視線で契約書を差し出すよう促した。

一夏はフォルダーをデスクに置く。

五十嵐は電話を切ると、契約書を開いて署名欄を確認し、口角を上げた。

「いい仕事ぶりね。退職の手続きは人事に進めさせておくわ」

「ありがとうございます、五十嵐さん」

一夏が背を向けて立ち去ろうとしたその時、オフィスのドアが勢いよく開いた。

千暁が目を真っ赤にして立っていた。

「一夏......」

一夏は足早に歩み寄る。

「どうしたの?」

千暁は彼女の手を掴み、声を震わせた。

「全部聞いたよ......伊礼凜がそんな男だったなんて!

それより一夏、仕事を辞めて、これからどこへ行くの?」

「実家に帰るわ」

一夏は少し間を置いて、続けた。

「お見合いにいくの」

千暁は驚きに目を見開いた。

一夏は話題を変えた。

「そんなことより、おばさんの具合はどう?手術の日はもう決まった?」

千暁はうつむいた。

「まだベッドが空くのを待ってて。それに、治療費が......ちょっと厳しくて」

言い終わらぬうちに、受付の女の子が慌てて駆け込んできた。

「小林さん、外で誰か呼んでます。その......借金の取り立ての人たちみたいで」

一夏は眉をひそめた。

二人が会社の入り口へ向かうと、刺青を入れた屈強な男たちが廊下を塞いでいた。

リーダー格の男が煙草をくわえ、千暁の姿を見つけると下卑た笑みを浮かべた。

「お、やっと出てきやがったか。俺たちの金、いつ返すんだ?」

千暁は顔を真っ青にし、一夏の背後に隠れた。

一夏は彼女を庇い、その男を睨みつけた。

「彼女、いくら借りてる?」

「利子込みで400万円だ。今日中に返せ。さもなきゃ......」

男の視線が一夏に注がれた。

ふと動きが止まり、その笑みが薄気味悪いものへと変わる。

「あれ?どっかで見たことあると思ったら......あの鐘ヶ江一夏か?伊礼社長の元カノの?」

隣の舎弟が耳打ちをする。

男の笑みが深まり、一夏の体をなめるように見回した。

「やっぱりそうか。伊礼社長は下川家のお嬢様と結婚するんだって聞いたぞ。どうやら、お前はポイ捨てされたらしいな」

一夏の顔から血の気が引いた。

男が半歩詰め寄る。

「なんだ、捨てられたくせに、まだ人助けのつもりか?」

彼が一夏の頬に触れようと手を伸ばす。

「まあ、俺たちは別に気にしねぇぜ。今夜俺たちと付き合えば、借金の相談に乗ってやらんでもないが?」

一夏はその手を激しく叩き落とした。

「3日後に返すわ」

男は嘲笑った。

「何で返すんだ?伊礼社長からの手切れ金か?」

男の視線が、彼女の洗い古したブラウスと使い込まれたキャンバス地のバッグをなめる。

「見たところ、大してせしめられなかったようだな。まあ、そりゃそっか。

こんな女、数年遊んで捨てるにはちょうどいい。誰も本気で金出せねえよ」

一夏は手のひらに爪を立てた。

それでも声は震わせない。

「3日後、400万円。一分たりとも欠かさず返すから」

「今すぐだと言ってんだよ!」

男は突然逆上し、彼女の手首を荒々しく掴んだ。

「金もねぇのに格好つけてんじゃねぇ!伊礼社長が抱けるんだ、俺たちが抱けねぇわけがねぇだろうが!」

一夏は引きずられてよろけ、腰を壁に強く打ちつけた。

あまりの痛みに息が詰まる。

「彼女を離して!」

千暁が飛びかかった。

男は容赦なく彼女を突き飛ばした。

「うせろ!」

男は一夏を廊下へと引きずっていく。

「伊礼社長の女がどんなもんか、俺たちで味わってやろうじゃねぇか」

一夏は必死でもがき、パニックの中で男の腕に深く噛みついた。

男は激昂し、隅にあったレンガを掴み上げた。

「このクソアマ!」

レンガが振り下ろされた瞬間、一夏は目を閉じた。

だが、予想していた痛みは来なかった。

彼女はある胸の中に、強く引き寄せられた。

懐かしい香水の匂いが彼女を包み込む。

一夏は目を開けた。

凜が彼女の前に立ち塞がっていた。

レンガは彼の左肩を直撃し、スーツの生地が無残に裂けている。

彼は痛みで顔を青ざめさせていたが、それでも彼は、しっかりと彼女を庇っていた。

リーダー格の男は、凜の顔を認めた瞬間、持っていたレンガを「ガラン」と床に落とした。

「い、伊礼社長......申し訳ありません!

もう捨てられた女だと思い込んで......どうかお許しください!!」

男は自分の頬を、激しく何度も平手打ちし始めた。

凜は男を一瞥もせず、一夏に視線を落とした。

「怪我はないか?」

一夏は首を振る。

凜はそこで初めて男たちを振り返った。

その声は、凍てつくほど冷酷だった。

「金が欲しいんだろ?受け取りに来ないのか?」

「と、とんでもございません!誤解です!全部誤解なんです!」

男は腰を抜かし、その場に膝をついた。

「し、失礼します!」

警察がすぐに到着し、男たちは連行されていった。

廊下に静寂が戻る。

凜はようやく一夏を離し、右手で左肩を押さえた。

指の間から血が滲み出している。

その傷口を見つめながら、一夏はふと、遠い記憶の中にいた。

3年前も、同じことがあった。

当時、凜はまだ工事現場でプロジェクトにかじりついており、暴徒化した作業員たちに囲まれた。

彼は彼女を背後に隠し、背中にシャベルの一撃を浴びた。

血がシャツを真っ赤に染めても、彼は笑って彼女の頭を撫でた。

「大丈夫よ。俺がついているから」

その日の夜、彼は彼女の家のソファにうつ伏せになり、彼女はおぼつかない手つきで薬を塗った。

彼は痛みで顔を歪めながらも、彼女をからかった。

「これで、君は一生俺の面倒を見なきゃいけなくなったな」

彼女はボロボロと涙をこぼしながら言った。

「もう、怪我なんてしないで」

彼は彼女の涙を拭い、真剣に誓った。

「ああ、約束するよ。これからは、自分も、一夏もしっかり守り抜いてみせるよ」

今、凜の肩からは血が流れ、眉間に皺が寄っている。

それでも彼はまだ、彼女を案じている。

「本当に、怪我はないんだな?」

一夏が口を開きかけたその時、エレベーターが開いた。

夢乃が血相を変えて駆け寄ってくる。

「凜!大丈夫?!誰かが暴れてるって聞いて......」

彼女は凜の肩の傷を見るなり、瞬時に瞳を潤ませた。

「ひどい怪我......早く病院へ!」

凜は彼女に引かれるようにエレベーターへと向かった。

去り際、一度だけ一夏を振り返る。

「先に帰っていろ。夜、会いに行く」

エレベーターの扉が閉まった。

一夏は視線を外した。

彼は、彼女を傷つけないように守るという約束を、確かに果たした。

けれど、別のやり方で、それよりも深く、彼女を傷つけていた。

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