All Chapters of 悪夢から覚め、愛想を尽かした妻は手の届かぬ星へ: Chapter 1 - Chapter 10

21 Chapters

第1話

子供を亡くしてからの杉本麻美(すぎもと あさみ)は、杉本渉(すぎもと わたる)が嫌がるようなことはすべてやめた。夜通し連絡したり、渉が帰ってこなくても泣き叫んだりはしなくなった。事故に遭い、医者に家族へ連絡するように言われた時でさえ、麻美はただ淡々とこう答えた。「身寄りはいません。連絡できる人なんて、一人もいないんです」しかし、看護師は麻美の正体に気づいていた。「杉本さんの奥さんですよね?ご主人が上の階にいらっしゃいますが、呼んできましょうか?」麻美はその時ようやく気づいた。この病院は杉本グループが運営しているのだと。首を振り、麻美は小さな声で大丈夫だと伝えた。しかし、30分後には渉が姿を現した。鋭い眉をわずかに寄せただけで、息も詰まるほどの威圧感を放った。「車に撥ねられたんだろ、なぜ俺に連絡しなかった?」麻美は視線を伏せた。「足が折れただけ。大したことないわ」そのあっさりとした口ぶりに、渉の心の中は得体の知れない苛立ちで満たされた。麻美は昔、とても甘えん坊だったはずだ。付き合っていた頃は、ちょっとした風邪でも抱きついて離れず、甘えたりキスをせがんだりしていた。それが今、片足が折れているのに眉一つ動かさない。渉が何かを言おうとしたその時、廊下から看護師たちのひそひそ話が聞こえてきた。「杉本さんは本当に妹さんを大切にされているわ。膝を少し擦りむいただけなのに、専門家を何人も呼んで診察させ、ご自身もつきっきりだもの。妹さんが移動する時は常に抱っこして、足先一つ床に着かせないようにしているわよ」渉の鼓動が急に速くなる。彼の中には怒りがあったはずだが、無意識に視線は麻美に向けられた。まるで、麻美が嫉妬して騒ぎ出すのを待っているかのようだった。だが、麻美は瞼すら上げず、ただ静かに目を閉じてベッドで横たわっていた。渉の気分はさらに沈んだ。冷ややかな声で釈明する。「皆の噂を鵜呑みにするな。美穗は撮影中に膝を打っただけで、俺はついでに病院まで送ってきたに過ぎない」麻美は小さく「うん」と応えただけで、それ以上は何も言わなかった。渉は急にイライラしたように怒鳴った。「俺を信じていないのか?」「信じてるわ」麻美はそう答えたが、もうそこに以前のように心はこもっていなかった。「美穗はあなたの妹同然なんだもの。心配するのは当然
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第2話

受話器の向こう側の相手は驚いた様子で言った。「本気なんですか?航空局で、お二人のことは誰もが知っています。ご主人のためならと、あなたがどんなオファーを蹴ってきたことも。もしそうでなければ、あなたはとうの昔に航空局のチーフエンジニアになっていたはずですよ」麻美の胸が、ズキリと痛んだ。理系の研究者として、どんな物事にも冷静沈着で理性を保ってきた麻美。だが渉のこととなると、途端に理性を失い、彼のことばかり考えて何も手に付かなくなってしまう。渉に対する想いは、一目惚れであり、同時に積年の恋心でもあった。小学校からずっと同級生で、周りからはいつも「秀才カップル」と冷やかされていた。テストの順位は決まっていて、常に1位が渉、2位が麻美だったからだ。麻美はそれが悔しくて、血の滲むような努力で渉を追い抜こうとしたが、いつも跳ね返された。さらに頭にくるのは、渉は天才肌の努力家で、普段は全く勉強していないのに、涼しい顔で常にトップの座を維持していることだった。周囲に対しては対抗心を燃やすフリをしていたが、本音は、渉をずっと人知れず好きでいたのだ。高校3年の時、麻美は勇気を振り絞って渉に向き直り、顔を真っ赤にして言った。「ねえ渉、もしテストの成績で勝ったら、恋人になってくれる?」渉に無情に断られると、そう思っていた。だが渉はふと歩み寄ると、耳元で悪戯っぽく息を吹きかけた。「もし麻美が、今年一位をとれたら、結婚してやるよ」その冗談のような言葉を信じ、麻美は死に物狂いで勉強した。結果、大学入学共通テストでは驚異的な高得点をマークし、晴れて全国トップレベルの成績で合格を果たした。渉も約束を違えることはなかった。彼は全国のメディアの前で、これ以上ないほど派手なプロポーズをした。空を数百のヘリで埋め尽くし、街中を薔薇の花びらで埋め尽くすような、ロマンチックな演出だった。「麻美、愛してる。結婚できる年になったら、妻になってくれないか?」世間の注目が集まる中、渉は薔薇の花束を捧げ、片膝をついてそう言った。あの時、麻美は自分が世界一幸せな女性だと思っていた。だが後になって知ったのだ。渉があそこまで大々的に求婚したのは、愛のためなどではなかった。杉本家の養女、いわゆる彼の義妹との間に抱える、あの醜聞を隠すためだったことを。あの時、麻美は全国的
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第3話

麻美は横になったまま、電話に出ていた。だから、入り口で気配がした時には、音を立てずに通話を切って、目を閉じて眠ったふりをしていた。渉が怒りをあらわにして飛び込んできたが、ベッドに近づくと麻美が目を閉じているのに気づいた。なんだ、寝言か……渉は安堵したものの、心のどこかにはわだかまりが残った。夢の中ですら、麻美が自分を愛さないことを許せなかったからだ。渉は麻美を揺り起こした。「麻美、悪夢でも見てたのか?『愛してない』とか寝言を漏らしてたけど……一体どんな夢を見たんだ?どうして夢の中でそんなに悲しそうに泣いてたんだよ?」麻美は伏し目がちに言った。「なんでもないわ。ただ聡の夢を見て……聡が夢の中で泣きながら、『どうしてパパとママは愛してくれないの?』って聞いてきたの」渉の心臓が鋭く痛んだ。彼は麻美を強く抱きしめると、くぐもった声で言った。「麻美、聡の事故は不幸なことだったんだ。お前のせいじゃない。自分を責めるのはやめろ」間をおいてから、渉は付け加えた。「俺たちはまだ若い。これからも子供は作れる。たくさん作ればいいんだ」麻美は黙り込んだ。心が冷え切り、もはや涙すらこぼれなかった。確かに自分は若いし、また産むことはできるだろう。でも、だからなんだというの?聡はもう戻らない。新しい子供が産まれれば、すべてがなかったことになるというの?今となっては、麻美には渉と言い争う気力すら残っていなかった。彼女は何事もなかったかのように話題を変えた。「渉、真夜中にここへ何の用?」渉は一瞬戸惑い、バツが悪そうな顔をした。「麻美、美穗が胃が痛いって言うんだ。お前が作る生姜スープが飲みたいって言っていてな」麻美は凍りついた。自分は交通事故で足を骨折したばかりなのに、渉は真夜中に自分を起こして美穗の生姜スープを作らせようというのだ。自分の言葉の無神経さに気づいたのか、渉はすぐに言い直した。「麻美、ベッドから降りなくていい。作り方を教えろ。俺が作ってくるから」渉は胃が弱く、よく痛めていた。だから麻美は食事療法に関する本を読み漁り、独自のレシピを作り上げたのだ。渉が胃痛を訴えるたび、その生姜スープを作ってあげていた。実際は、受験勉強で無理をした麻美自身も胃を壊していたのだが、渉がそれに気づいたことは一度もなかった。結婚して5年、彼が麻美
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第4話

麻美はゆっくりとまぶたを上げ、渉を一瞥した。「成分に毒なんて入っていないわ。医者にでも鑑定させれば、すぐにはっきりするでしょ。それとも何?事実なんてどうでもよくて、ただ私に八つ当たりしたいだけ?そういうことなら、回りくどいことはいいわ。好きにしなさい」以前も美穗は、同じような手口で麻美に罪を着せようとしていた。階段からわざと転げ落ちては、涙ながらに「麻美さんに突き飛ばされた」と嘘をついたこともある。麻美が料理をしている横で、わざと指に油を跳ねさせて、「麻美さんもわざとじゃないんだから……」と悲劇のヒロインを演じることもあった。数え上げればキリがない。昔の麻美はわからなかった。なぜ、頭の切れる渉がこんなわかりやすい嘘に騙されるのか。今ならわかる。渉は気づいていないのではない。美穗が傷ついたのが可哀想で、ただ怒りをぶつけるための当て馬が必要だっただけだ。そしてその当て馬になれるのは、いつも自分だけだった。今の麻美は、もう言い返す気力さえなかった。渉が誤解していても、悲しむことすらできないほど心が死んでいたからだ。渉は胸が詰まる思いで眉を寄せた。「八つ当たり?麻美、何に対して不満を抱いているのか話せばいいだろ。俺はお前の夫であって、敵じゃない」麻美はただ目を閉じた。「もう、あなたと話すことは何もないわ」渉は動揺した。「どういう意味だ?何もないって何だ?」しかし麻美は何も答えなかった。目をつむり、渉の声も姿も遮断し、自分だけの世界に閉じこもった。渉は次第にいら立ちを募らせていった。なぜだか、麻美という存在が手のひらからこぼれ落ちていくような焦燥感に襲われていたからだ。どうにかして繋ぎ止めなければ、そう強く感じていた。少しの間を置いて、渉が切り出した。「明日は聡の初七日だ。一緒にお参りに行こう」麻美の体は強張ったが、目は開けなかった。その時、部屋の外から看護師の声がした。「杉本さん、妹さんの胃洗浄が終わりました。命に別状はありませんが、ひどく怯えていて、ずっと杉本さんのお名前を呼んでおりまして……」「分かりました」と渉は冷たく返すと、振り返り、麻美をじっと見つめた。「麻美、休んでいてくれ。明日は一緒に家へ戻り、聡に会いに行こう」この夜はあまりに長く、麻美は眠れぬまま一晩中目を閉じていた。そろそろ、
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第5話

今日は麻美の人生で一番苦しい日だ。我が子を亡くした母親として、これ以上ないほど心が張り裂けそうなのに。麻美が足を引きずりながら聡に最期の別れを告げようとやってきたが、杉本家の人々は彼女を弔問客から追い出した。彼らは責め立て、暴言を吐き、我が子を亡くしたばかりの母親にありったけの悪意をぶつけて苦しめた。麻美の目から涙が流れ、手にしていた杖さえも奪われ、彼女に投げつけられた。麻美は地面に倒れ込み、手からは血が流れた。「そこまでだ!」渉が駆けつけ、麻美をかばった。「全員狂ったのか?聡の死は完全な事故だ。麻美とは関係ない。これ以上麻美を侮辱すれば、容赦はしない!」渉は鋭い眼光で皆を威圧した。杉本グループのトップであり実権を握る彼の言葉に逆らえる者はおらず、群衆は散り散りになった。渉はわずかに表情を和らげると、麻美を抱き上げて上の階へ運び、自ら救急箱を取り出して手当てを始めた。だが麻美の目に感動の色はなかった。彼女は冷ややかな目で渉を見つめ、問いただした。「渉。聡を連れて海に波乗りに行ったのは美穗だったのに、なぜお母さんは、私が聡を殺したなんて言うの?」包帯を巻く渉の手が止まった。彼はどこか決まりが悪そうに答えた。「麻美。お前も知っている通り、美穗は家での立場が複雑なんだ。杉本家の血がつながらない美穗を親戚は快く思っていない。もし聡を死なせたのが彼女だと知れ渡れば、美穗はこの家で生きていけないんだ。でも、お前は違う。お前は俺の妻だ。俺がかばえば誰も何も言わない。だからこの件は美穗の代わりに引き受けてくれ。補償として、杉本グループの株の半分を譲渡する」言い終えてから、渉は不安げに麻美の様子を伺った。麻美が怒り狂い、泣きわめいて、なぜそこまで美穗をひいきするのかと問い詰めるとばかり思っていた。しかし、麻美の表情は穏やかすぎて渉のほうが落ち着かなくなった。彼女は怒ることもなく、冷めた瞳で渉を一瞥して言った。「好きにして。興味ないわ」麻美は承諾したのだから渉は喜ぶべきはずなのに、なぜか心がどんどん乱れていくのを感じた。「麻美、誤解するな。俺にとって美穗は妹みたいなものなんだ」渉は一方的に言い訳を続けた。「幼い頃から一緒に育ってきて、ずっと実の妹だと思っていた。血がつながっていないと分かったとき、美穗はすべてを失い、杉本家
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第6話

夏美の言葉は、まるで鋭いビンタのように、渉の頬を容赦なく打ち据えた。渉は激高した。「黙れ!麻美と俺の関係は、お前が口出しすることじゃない!」言い終えると、渉は床に倒れ伏し、夏美のせいで頭から血を流している美穗を抱き上げ、振り返ることなく去っていった。渉が去るやいなや、杏奈は即座に使用人を呼び集めた。道具を手に持ち、凄まじい勢いで階段を駆け上がった。「麻美、渉はもういないわよ。助けてくれる人は誰もいないの」杏奈は残酷に言った。「あなたが聡を殺したんだ。絶対に許さないから。今日から、この杉本家で地獄のような毎日を味わいなさい!」そう言い放ち、杏奈は使用人たちに合図を送った。使用人たちはすぐに飛びかかり、麻美を縛り上げた。彼らが麻美を階段の下へ引きずっていくと、杏奈は麻美を力いっぱい池へ蹴り落とした。そして、麻美の髪を掴んで執拗にその頭を水中に押し付けた。「聡は溺死したの。溺れ死ぬのがどれほど苦しいか分かる?分からないでしょね。いいわ、今すぐたっぷり教えてあげる!」冷たい水が肺に流れ込み、麻美は全身の臓器が痛みを感じた。冷たい……苦しい……聡が死んだ時も、こんなに苦しかったのだろうか?海で必死にもがく時、ママを呼んでいたのだろうか?麻美の意識が途切れる寸前、杏奈は髪を掴んで頭を水面から引き上げた。麻美は本能的に息を吸おうとするが、肺に空気が入った瞬間、また水中に押し込まれた。「あんた、泳げるくせに、なんで聡を助けに飛び込まなかったの?」杏奈は胸を抉るように言った。「演技はいいのよ。渉が嘘をついて、美穗を愛していることを恨んで、その報復したのは分かってるの。だから渉の唯一の子を殺したんでしょ!」その言葉に、麻美は笑うしかなかった。見ていれば分かる。渉が本当に愛しているのは美穗だと、皆も気づいているのだ。渉本人だけが現実から目を逸らし、美穗との間には兄妹以上の感情はないなどと言い張っていた。杏奈の拷問は熾烈を極めた。窒息しそうになると水面に上げ、わずか数秒の呼吸で命を繋がせ、また頭を水中に戻す。生かすも殺すも自分次第だと、じわじわと苦しめ続けた。そんな地獄が数十回繰り返された時、杏奈が再び麻美を沈めると、池の水面が赤く染まった。「肺がダメになってるわ!」と誰かが叫んだ。「溺水を繰り返して肺を損
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第7話

以前は、渉が胃が痛いと言うと、麻美は何をしていてもすぐ手を止めて、彼のために生姜スープを作ったものだった。ある年には、麻美が仕事をしていた時に腕を骨折したことがあった。腕にギプスをしながらも、渉が胃痛を訴えれば、麻美は自らキッチンに立った。しかし今、渉の胃がまた痛んでいるというのに、麻美はそっぽを向いたまま、冷たく背中を向けた。胸の奥が締め付けられるような感覚に襲われ、渉はパニックに陥った。「麻美、最近の態度はどうしてそんなに冷たいんだ?昔はこんなんじゃなかっただろ」麻美は渉に背を向けたまま答えた。「昔?昔はいつも私のこと鬱陶しがってたでしょ?もうあなたを煩わせることはしない。これ以上、何に不満があるの?」その一言で、渉は返す言葉を失った。かつての麻美はいつも渉につきまとっていた。どこに行くにも尋ね、何をするにも干渉し、渉はそれを鬱陶しがり、嫉妬する麻美を幾度となく叱り飛ばした。「杉本家の妻という自覚はあるのか?夫の妹に嫉妬して、恥ずかしくないのか!」と。今、麻美は自分が望んだ通りにつきまとわず、私生活にも干渉しないようになった。なのになぜ、心臓が引き裂かれるように痛むのか?「麻美、まだ聡の件で怒っているのはわかっている」と渉は溜め息をついた。「信じてくれ、必ず埋め合わせはする。これからの長い人生、俺はお前にもう一度振り向いてもらう可能性があるはずだ」渉は身を屈め、麻美の額に軽く口づけをした。そして背を向けて立ち去った。だが渉が知らないことに、彼が立ち去った直後、麻美の元には二通のメッセージが届いていた。一通目は役所から。【先日いただいたご質問ですが、離婚手続きには以下の書類をご持参ください】二通目は航空局から。【月面探索プロジェクトが明日正式に開始されます。現在地をお送りください。明日、迎えの者を向かわせます】麻美は黙々と二通の通知を見つめ続け、ようやく重荷が降りたような笑みを浮かべた。ようやく、旅立ちの日がやってきた。しかしその前に、やらなければならないことがあった。麻美はベッドから体を起こすと、松葉杖をつき、一歩一歩、苦しい足取りで美穗の病室へと向かった。深夜ということもあって、渉は美穗の病室にはいないようだ。そのほうが都合が良い。「麻美さん、何しに来たの?」美穗はいつもの哀れな芝
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第8話

朝早く、麻美が迎えのワゴンに乗り込んで去ったとき、渉はキッチンで料理をしていた。「小林さん、麻美は本当に卵焼きなんかが好きなのか?」渉はフライパンで卵を焼きながらぼやいた。「こんなありふれた料理じゃ、入院中の食事として物足りないだろ……他に好きな料理はないか?もっと手の込んだやつじゃないと、俺の気持ちが伝わらないだろう」「麻美様は薄味がお好きで、手の込んだものよりシンプルな料理が好まれます」メイドの小林恵(こばやし めぐみ)が微笑んで答えた。「でも、お魚やエビは好んで食べられます。海老の天ぷらか、あら汁を作って持って行ってはいかがでしょう。足の骨折中ですから、骨を強くするのにもぴったりです」渉はそのアイデアに納得し、すぐに使用人に材料を用意させた。キッチンで2時間ぶっ通しで作業し、ようやく作り上げた。渉は慎重にそれらを保温容器に詰め、病院へと車を走らせた。思えば、麻美のために料理をしたのは、これが初めてだった。これを見たら、麻美はきっと感動するはずだ。渉は自然と口元を緩め、料理を見た麻美が頬を赤らめて微笑む姿を妄想した。しかし、保温容器を下げて麻美の病室のドアを開けた瞬間、渉の動きが止まった。病室は空っぽで、そこに麻美の姿はなかったからだ。せっかく落ち着きを取り戻していた心臓が、また激しく波打ち始めた。麻美はどこへ行った?まだギプスをしている身だ。松葉杖を使っても自由に動けるはずがない。トイレに行ったのか、それとも気分が晴れずに看護師を呼んで散歩にでも行ったのだろうか?そう思い、渉は看護師を呼ぶナースコールを押して、麻美の行方を尋ねることにした。駆けつけた看護師が問いかけた。「杉本さん、いかがされましたか?」渉は不満そうに眉をひそめた。「妻はどこだ?朝からどこかへ連れ出したのか?」「いえ、奥さんをどこかへ連れ出すなんて……今朝は部屋におられなかったのですか?」看護師はきょとんとした。渉は激高し、デスクにあったグラスを投げつけた。「目が見えないのか?病室に誰もいないのが分からないのか!?」看護師は怯えながら慌てて謝った。「申し訳ございません。他の看護師が散歩に連れ出したのか確認してきます!」そう言い捨て、カルテを抱えて逃げ去った。しかし、渉には異変が分かっていた。巨大な不安感が波のよう
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第9話

渉の一言で、部下たちが動き出した。彼らは病院内の防犯カメラを素早く確保し、昨夜の麻美の行動を一つ一つ追っていった。結果はすぐに分かった。「渉様、昨晩遅く、奥様が杖をついて、隣の病室の美穗様の元へ行った記録がありました」と、部下は頭を下げて報告した。「美穗様に会った後、奥様はひどく動揺した様子で、誰の助けも借りずにふらふらと病院を去っています」その報告を聞き、渉の表情は瞬く間に氷ついた。美穗、また美穗なのか?このトラブルメーカーは、いつまで迷惑をかけ続ける気だ?そもそも美穗が偶然とはいえ、たった一人の息子である聡を死なせてしまったことは、渉にとって最大のタブーだった。口には出さずとも、胸にはずっとしこりが残っていた。美穗が聡を強引に海へ誘わなければ、こんな悲劇は起きなかったのだから……この期間、美穗がおとなしくしていれば渉も情に免じて目をかけていただろう。だが彼女は反省するどころか、さらに麻美を追い詰めるようなことをしていた。怒りに震えた渉は、「美穗を連れてこい!」と声を荒らげた。呼んでこいではなく、連れてこいという言葉に、その怒りが滲んでいた。指示を受けた部下はすぐさま隣の病室に突入し、美穗を力任せに引きずり出した。渉の部下だと察した美穗は抵抗せず、言いなりになっていた。しかし渉の姿を見るや、その場に崩れ落ち、涙を流しながら訴えた。「お兄ちゃん、何があったの?そんなに怒って……私が何か間違えて、怒らせてしまったの?」かつて美穗がそうして儚げな表情を浮かべるたび、渉の怒りは呆気なく消え、尽きせぬ同情へと変わっていた。美穗は身寄りがなく慎ましく生きるしかないのだと思い、理不尽な扱いを受けても言い返せない彼女を不憫に感じていた……そんな情が、渉の目を曇らせていたのだ。しかし、もうそんな甘さは通用しなかった。美穗の化けの皮が剥がれ、気づかないフリをすることさえ不可能になっていた。「美穗。昨日、麻美に会ったな」渉は冷たく問い詰めた。「正直に言え。麻美と何を話したんだ?」それを聞くと美穗は一瞬硬直したが、すぐに顔を覆って泣き出した。「お兄ちゃん、私のせいよ」美穗は唇を噛み締めながら嗚咽を漏らした。「私が聡くんを殺してしまったから、麻美さんが恨みを募らせて、私を殺そうと乗り込んできたの……もち
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第10話

病院の監視カメラには録音機能がある。渉が部下に美穗を引きずってくるよう命じる前、すでに映像を確認し、彼女が昨晩吐き捨てた言葉も聞いていたのだ。「美穗、最後にもう一度だけチャンスをやろう」渉は怒りを抑えながら言った。「麻美に昨日、一体何を話したんだ?正直に答えろ」美穗は目を赤くし、また泣き出そうとした。しかし涙をこぼす前に、渉が冷ややかな声で警告した。「よく考えてから答えろ。また嘘をついたら、ただじゃ済まさない」美穗は唇を噛みしめ、さらに哀れっぽく表情を歪めた。「お兄ちゃん、どうしてそんなに疑うの?小さい頃からずっと、私を一番に守って大切にしてくれたのはお兄ちゃんだけだったじゃない……」美穗の言葉が終わるか終わらないかのうちに、渉は目の前のデスクを力任せに蹴り飛ばした。「美穗!小さい頃から俺が守ってきたのは分かっていて言ってるのか!」蹴飛ばされたデスクはそのまま美穗に向かって倒れ込んだ。逃げる間もなく、彼女はデスクに打ちのめされた。美穗はたちまち声を上げて泣きじゃくった。「お兄ちゃん、本当に何も言っていないの。嘘なんてついていない……」死んでも認めようとしない美穗を見て、渉は冷たい顔で部下に命じた。「映像を流せ!」その合図とともに、部下たちがすぐにプロジェクターを運び込んだ。スイッチが入り、病室の壁に美穗と麻美の姿が映し出された。画面の中の美穗は、嘲るように笑っていた。「あはは、本当に?それじゃ教えてあげる。あの日、お兄ちゃんもその場にいたのよ。波が襲ってきて、私と聡くんが同時に海に投げ出された時、お兄ちゃんは迷わず私の方に飛び込んできたわ。かわいそうな聡くんは、そのまま波にさらわれていった……」自分の勝ち誇った笑い声を聞き、美穗の顔からはみるみる血の気が引いていった。渉の怒りは、この瞬間に頂点に達した。聡が事故に遭ったあの日、自分はその場にはいなかった。美穗は嘘をついていたのだ。昨晩の話はすべて、麻美を追い詰めるための作り話だった。渉は怒りのあまり狂いそうだった。何年もの間、美穗を宝物のように溺愛してきたのに、彼女はその恩を忘れ、裏切ったのだ。激怒のあまりいつもの冷静さを保てる状況ではなくなり、渉は大きく腕を振り上げ、美穗の頬を強く打ち据えた。「この嘘つきのあざとい女め!」渉は怒鳴った。
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