All Chapters of 凍える愛の終焉に ―さよなら、偽りのマリアージュ―: Chapter 161 - Chapter 170

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第161話

「まだこの家に馴染めず、戸惑っているのだろう。沙耶、お前が姉としてしっかりサポートしてやりなさい」「はい、お祖父様」沙耶は猫を被ったような完璧な笑みで素直に頷いてみせた。さらに三十分が経過した。待ちくたびれた征二郎が苛立ちを隠さずに告げる。「もう待てん。食事を始めるぞ」「お祖父様、せめてもう少しだけ……」沙耶が殊勝な態度で引き留めようとした、まさにその時。テーブルの上に置かれていた征二郎のスマートフォンが振動した。画面を一瞥した征二郎の顔色が変わる。「――実花か?……なにっ?病院だと!?」普段の冷静な威厳を欠いた、焦りと強い懸念の入り混じった声。電話の向こうで実花が何と言ったのかは聞こえない。だが、その『病院』という単語だけで、沙耶にはすべてを理解するのに十分だった。やった……!成功したんだわ!沙耶は慌てて俯き、狂気じみた歓喜で吊り上がりそうになる口角を必死に押し殺した。テーブルの下で組まれた指先が、抑えきれない興奮で小刻みに震えている。彼女はすぐさま心配でたまらないといった表情を貼り付け、おずおずと顔を上げた。「お祖父様……!実花さんに、何かあったのですか……?」征二郎が答えようと口を開きかけた瞬間、無情にも別の着信音が鳴り響いた。舌打ちをして画面を見た征二郎だったが、発信者の名前を確認した途端、その厳格な顔つきがパッと明るく和らいだ。「――湊くんか!明日、うちへ来るだと?はっはっは、お前がようやく『あの件』について話し合う気になってくれて嬉しいぞ。ああ、とびきり上等な茶葉を用意して待っているからな」『湊』。その名を聞いた瞬間、沙耶の耳がピンと立ち上がった。篠宮グループの若き帝王・篠宮湊。滅多に表舞台に姿を現さないことで知られるあの至高の男が、明日、わざわざこの本邸へ足を運んでくるというのだ。これは……完璧に準備をしておかないと!どんな口実を使えば、不自然にならずに湊に会えるだろうか。以前、篠宮の邸宅へ招かれた際、彼が自分に向けてくれたあの熱を帯びた視線を思い出し、沙耶の頬は羞恥と期待でほんのりと紅潮した。もしかすると……いや、もしかしたら、彼は私に会うために黒田家へ来るのではないか?沙耶は頭をフル回転させ、どうやって征二郎から明日の面会の詳細を聞き出すか策を練
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第162話

実行犯として雇ったチンピラ二人組からは、まだ『任務完了』の報告はおろか、何の連絡も来ていないのだ。それなのに、なぜ依頼主である女のほうが先に成功を知っているのか。なんか妙だな……まさか、あいつらヘマ打ったんじゃねぇだろうな。一抹の不安がよぎったものの、依頼主からはすでに破格の報酬が振り込まれている。金さえ貰えれば、過程がどうあれ知ったことではない。男はスマホを放り投げ、それ以上深く考えるのをやめた。---同じ頃、市内有数の総合病院。その最上階にある、セキュリティ万全のVIP病室。真っ白なベッドの上には、当然ながら無傷の実花が、優雅に背凭れに寄りかかって読書をしていた。怪我など一切していない。だが、舞台に上がったからには、最後まで完璧に被害者を演じきらなければならない。実花は犯罪心理学の専門家ではないが、人間という生き物の愚かな習性をよく知っていた。『放火魔は、必ず自分の火をつけた現場に戻ってくる』自分が仕掛けた罠がどうなったのか。標的がどれほど惨めな姿を晒しているのか。それを見届けて優越感に浸りたくなるのが、浅はかな悪党の性というものだ。さて――実花はパタンと本を閉じ、静かにドアのほうへ視線を向けた。そろそろ、一番の観客がやってくる頃かしらね。実花は点滴の針をシーツの下に巧妙に隠し、手早くファンデーションを取り出して唇の色を病的に白く塗り潰した。全ての準備を終えると、彼女は深いため息をつきながら、弱々しい動作でベッドに身を横たえる。それから数分と経たないうちだった。静まり返ったVIP病棟の廊下に、カツ、カツ、カツ、と高価なピンヒールが床を叩く音が響き始めた。足音は迷いなく、真っ直ぐにこの部屋へ向かってきている。実花の蒼白な唇の端が、ほんのわずかに吊り上がった。……釣れた。病室の片隅に控えていた鈴木は、実花の一連の「偽装工作」を始終無言で見届けていた。『放火魔は、必ず自分の火をつけた現場に戻ってくるのよ』先ほど実花が口にした、いかにもミステリー小説めいた理論。正直なところ、鈴木は半信半疑だった。現実世界で、しかもこんなにあっさりと、犯人が自ら尻尾を出して現れるわけがない、と。ボスの圧倒的な情報網を使っても依頼主の特定には至らなかったのだ。それを、ただベッドで寝ているだけ
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第163話

自分の『傑作』が、病床で無様に涙を流す姿をたっぷりと堪能し、沙耶は完全に満足した。これ以上、この薄汚い病院に長居する理由はない。心にもない薄っぺらな慰めの言葉をいくつか並べ立てると、彼女はすぐさま踵を返した。病室を出る間際、沙耶は再び、部屋の隅に立つ運転手の視線を感じた。……本当に、どこまでも図々しい視線。ただの雇われ運転手の分際で、私のような高貴な存在に色目を使うなんて。身の程知らずの極みね。沙耶は内心で思い切り鼻で笑い、ドアを閉めた。バタン、とドアが閉まり、ハイヒールの足音が完全に遠ざかったのを確認すると。実花はパッと布団を跳ね除け、枕元からスマートフォンを取り出した。画面には、先ほどの会話がばっちり録音されていたことを示す波形が光っている。鈴木が、なんとも言えない複雑な表情で実花を見下ろした。「……あの女、自らボロを出しましたね」実花は満足げに微笑んだ。そう、先ほど沙耶ははっきりと「じゃあ、助手席のもう一人は!?」と口走った。実花は一度も『相手が二人組だった』などとは言っていないのに、だ。本当に、教科書通りの間抜けな悪役ね。実花は迷うことなく、その録音データを征二郎の連絡先へ送信した。復讐は、鉄が熱いうちに打つに限る。後回しにして変な言い逃れの余地を与えてやる義理はない。やられたら、その日のうちに倍返しで叩き潰すのが実花の流儀だった。一方、病室を出た沙耶は、足取りも軽く廊下を歩いていた。しかし、念には念を入れなければならない。彼女はナースステーションの前で当直の医師を捕まえると、再び『心配でたまらない心優しい姉』の仮面を被った。「あの……私、あちらのVIP病室に入った患者の姉なのですけれど。妹の容態は……やはり、かなり悪いのでしょうか?心配で、胸が張り裂けそうなんです……っ」医師は、沙耶が指差した病室をチラリと見た。そして、先ほど実花が病院にやってきてから繰り広げられた、あの奇妙な『偽装入院』の一部始終を思い出し、なんとも言えない渋い顔になった。「ああ……あの若いお嬢さんですね。ええ、私から見ても、彼女の症状は非常に深刻だと思いますよ。念のため、今後もさらに詳しい検査を重ねる必要があるでしょうね」やった……!やっぱり、あいつはもう終わりだわ!「まあ……!そんな……!」沙
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第164話

これまでのどの口づけよりも、優しく、柔らかい。まるで、少しでも力を入れれば砕けてしまう薄玻璃の細工に触れるかのような、ひどく慎重な口づけだった。けれど同時に、これまでのどの口づけよりも深く、長い。実花の退路を完全に塞ぎ、あらゆる角度から彼女のすべてを絡めとっていく。「んっ……」実花は顔を上向かせたまま、その終わりのない熱をされるがままに受け止めていた。甘い痺れと酸欠で、目尻から生理的な涙がじんわりと滲む。無意識のうちに彼のスーツの胸元をきゅっと握りしめると、吐息の隙間から、小さく甘い声が漏れた。腕の中の愛しい人が震えているのを感じ取った湊は、彼女の細い腰を大きな手でがっちりとホールドした。そのまま、彼女のすべてを自分の骨肉に溶かしてしまおうとするかのように、抱きしめる力を強める。病室の空気が、じわじわと甘い熱を帯びていく。激情が高まるまま、湊は実花の身体をさらに深く自分の方へと引き寄せた。薄い衣服越しに伝わってくる、彼自身の痛いほどの熱と、ひどく雄弁で攻撃的な昂ぶり。実花は全身の力が抜け、立っていられないほどの感覚に襲われた。これまでに経験したことのない圧倒的な気配に当てられ、居心地の悪さと耐えがたい甘い疼きを誤魔化すように、無意識に身をよじって支えを求めてしまう。「……動くな」湊の口から、ひどく掠れた、色気を含んだ低い声が漏れた。荒い息を吐き、唇を重ねたまま、宥めるように実花に囁きかける。これ以上は、もう——「はい、夜の回診でーす」ガラッ!!!突然、なんの前触れもなく病室の扉が勢いよく開け放たれた。「ひゃっ!?」実花は火の粉を浴びたようにビクッと跳ね上がり、凄まじい反射神経で湊の胸から飛び退いた。一瞬にして、顔から耳の先まで茹でダコのように真っ赤に染まる。一方の湊はといえば、親の仇でも見るかのような冷酷な目で、入り口に立つ白衣の医師を睨みつけていた。「……次からは、ノックをしろ」ギリッと歯ぎしりしそうなほど低い、地を這うような声。さっきまでの甘く濃密な空気は、この乱入者のせいで見事に木っ端微塵に吹き飛んでしまったのだ。しかし、VIP病棟の担当医はさすがと言うべきか、湊の殺気などどこ吹く風だった。表情一つ変えずに手元のカルテにささっとメモを書き込むと、意味
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第165話

実花は息を呑んだ。無数の切り傷や生々しい傷跡。その中でも一際ひどい、心臓のすぐそばをかすめるような深い傷跡が目に飛び込んできた。こんな傷……昔は絶対に一つもなかった!その瞬間、実花の頭を殴られたような衝撃が走った。湊が姿を消していたこの七年間。彼が巨大な『篠宮グループ』のトップに登り詰めるまで、一体どれほどの修羅場を潜り抜けてきたというのか。なんで……もっと早く気づかなかったのよ!血で血を洗う一族の権力闘争の中、当主の座を奪い取ることがどれほど命懸けの道であるかなど、想像に難くないはずなのに。実花の震える指先が、その痛々しい傷跡をそっとなぞる。視界が急速にぼやけ、大粒の涙がポロポロと彼の胸にこぼれ落ちた。この人が、どれほどの地獄をたった一人で耐え抜いてきたのか。それを思うと、胸が張り裂けそうだった。湊自身は、これらの古い傷跡をどうということもない勲章程度にしか思っていなかった。しかし、実花の柔らかい指先がそっと傷跡をなぞるたび、彼女の触れた場所から熱を帯びた痺れが全身に広がっていく。それと同時に、とうに消え去ったはずの痛みが、微かな疼きとなって胸の奥で蘇ってきた。それはまるで、彼がたった一人で耐え抜いてきた空白の七年間を、彼女の涙が優しく埋め合わせ、癒してくれているかのようだった。「……もういい。泣くな、実花」湊は低く優しい声で囁き、痛みを堪えるように顔を歪める彼女の目をそっと覆った。「全部、終わったことだ」それでも、実花の瞳に浮かぶ涙の膜はなかなか引かない。そのひたむきで痛ましいほどの愛情に、湊の心臓は甘く溶かされそうだった。これ以上泣かせては自分の方が耐えられないと悟り、湊はあえて声のトーンを変えて話題を切り出した。「鈴木だけじゃ足りないな。明日から、お前の周りに護衛をもう少し増やす」そう言いかけた直後。ベッドサイドに置いていた湊のスマホが、空気を切り裂くようにけたたましく震え始めた。画面に表示された名は『山崎』。湊の優秀な右腕である第一秘書だ。時刻はすでに深夜。この時間に彼が連絡してくるということは、尋常な事態ではない。湊は小さく眉をひそめると、「少し待っていろ」と安心させるように実花の頭をポンポンと撫で、彼女の肩までしっかりと布団をかけた。そのまま音を立てずに
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第166話

守三が静かに、しかし確かな戦略を持って続ける。P国の情勢は一刻を争う。すでに篠宮家の本邸や中枢機能は建三の息がかかった者たちに制圧されているのだ。ダラダラと時間をかければ、すべてが終わる。「――つまり、こちらから冴島の本陣に火を放ち、P国から強制的に手を引かせるということですね」祖父の意図を、湊は即座に理解した。「その通りだ」受話器の向こうで、守三が満足げに頷く気配がした。さすがは自分が手塩にかけて育て上げた後継者である。湊は暗い廊下の壁に寄りかかり、思考を深めた。祖父と自分の考えは完全に一致している。黒田家を利用して、この国で冴島家を徹底的に追い詰める。冴島家が自らの身を守るために、遠く離れたP国での建三への支援を打ち切らざるを得なくなったその瞬間――湊が自らP国へ乗り込み、建三の首をとって鉱山を奪還する。猶予はない。少しでも遅れれば、祖父の命に危険が及ぶ。七年前の忌まわしい記憶が脳裏をよぎった。当時、湊が着の身着のままでP国へ舞い戻らなければならなかったのも、建三が裏で手を引き、祖父を毒牙にかけて危篤状態に陥らせたからだ。あの時は本当に、あと一歩で命を落とすところだった。今回の暴動発生と同時に、守三は数人の腹心だけを連れて秘密の隠れ家へ身を移している。だが、P国の大半を制圧した建三がその場所を突き止めるのも、時間の問題だろう。電話越しの祖父の声には、微塵の焦りも恐怖も滲んでいなかった。だが、それが「孫の決断を鈍らせないための強がり」であることくらい、湊には痛いほどわかっていた。「黒田家が、我々に再び手を貸す義理がありますか?お爺様と向こうの当主殿の繋がりは、そこまで盤石なのですか」「ふっ……お前も分かっているだろう」守三は意味深な笑いを漏らした。「これまでお前が「政略結婚」の話を避けてきたからこそ、私も無理強いはしなかった。だが、七年前に命懸けでお前をP国へ送り届けてくれた黒田家への恩を返すためにも、そして現在の危機を乗り越えるためにも……そろそろ現実と向き合う時だ。婚姻という絶対的な繋がりがなければ、黒田家が動くはずもなかろう」守三は少し言葉を切り、珍しく柔らかな声色になった。「……まだ、昔隣に住んでいたあの幼馴染の少女を想っているのか?」スマホを握る湊の手に、微か
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第167話

なにより、もし彼が政略結婚を断れば、篠宮家の危機を救う術がなくなってしまう。今の自分には、彼を助ける力など微塵もないのだから。実花は心の中で、自分自身をひどく自嘲した。「いい子だ。……行ってくる」湊は愛おしそうに実花を引き寄せると、彼女の柔らかい髪に、誓いのようなキスをふわりと落とした。---翌朝。黒田本邸。沙耶は誰よりも早く目を覚ましていた。念入りなスキンケアに始まり、完璧なメイク、プロによるヘアセット、そしてこの日のためにあつらえたオートクチュールのドレス。彼女は自分の髪の毛一本に至るまで、寸分の隙もなく磨き上げていた。今日、この本邸に湊がやってくる。その事実だけで、彼女の胸は期待で張り裂けそうだった。やがて、エントランスに漆黒のベントレーが静かに滑り込んできた。しかし沙耶は、嬉しそうに駆け寄るような真似はしない。ガツガツした安い女なんて、湊さんは絶対に相手にしないわ。彼女は正面玄関の前に立ち、名家の令嬢にふさわしい、あくまで優雅で凛とした立ち姿をキープしていた。「お待ちしておりましたわ、湊さん」車を降りて近づいてきた彼に対し、沙耶は上品に、ほんの少しだけ顎を引いて挨拶をした。一方の湊は、無言のまま目の前に立つ沙耶をじっと見下ろしていた。脳裏をよぎるのは、この女が裏で実花に対して仕掛けてきた数々の卑劣な嫌がらせと、昨夜の悪質な襲撃事件。湊は今回初めて、この女を「はっきりと認識すべき対象」として視界に入れ、その顔を記憶に刻み込んでいた。――今後、絶対に逃がさず、確実に地獄へ叩き落とすために。しかし、そんな殺意と冷酷さを含んだ視線を、沙耶は見事に勘違いしていた。湊さんが……あんなに熱を帯びた瞳で、私のことをじっと見つめている……!胸の鼓動が激しく早まるのを感じながらも、沙耶は必死にポーカーフェイスを取り繕い、令嬢としての矜持を保つように微笑んだ。「こちらへどうぞ。応接室へご案内いたしますわ。お祖父様がすでにお待ちです」沙耶はそっと手で促し、湊を先導して歩き始めた。本邸の長い廊下を進む間、沙耶は自分の背中に「熱い視線」がずっと突き刺さっているのを感じていた。そのプレッシャーに耐えきれなくなった沙耶は、なんとか空気を和ませようと話題を絞り出した。「そういえば湊さん、最近の
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第168話

……っ!沙耶の心臓が、早鐘のように狂ったように鳴り始めた。呼吸が浅くなる。あれは……もしかして、湊さんが『結納の品』として持ってきたもの……!?結局、湊は「急を要する事態が起きたため」という理由で、昼食には手をつけずに本邸を後にした。征二郎も明らかに彼の事情を把握しているようで、無理に引き留めることはせず、ひどく思案顔で彼を見送っていた。湊の車が見えなくなると、征二郎は傍に控える執事に命じ、あのサファイアのブローチを厳重に金庫へしまわせた。沙耶は祖父の顔色を窺いながら、期待に胸を膨らませて探りを入れた。「お祖父様……湊さん、お食事も召し上がらないなんて、随分と慌ただしく帰られましたね」征二郎は、ゆっくりと重い瞼を持ち上げ、沙耶を一瞥した。この孫娘が今、頭の中でどんなお花畑を広げているかなど、修羅場をくぐり抜けてきた老獪な彼には手に取るように分かっていた。……愚かな。実のところ、征二郎もかつては「七年前の恩」を盾にして、湊を沙耶と結婚させようと考えたことはあった。しかし、湊から沙耶に対する好意や関心など、ただの一度も感じたことはない。そんな状態で無理やりくっつけたところで、いずれ破綻するのは目に見えている。なにより、征二郎の中の天秤は、すでに大きく傾いていたのだ。先日、実花が傷んだ古い絵画の修復を手伝ってくれた時のことだ。征二郎は実花と、たまたま訪れていた湊を夕食に同席させた。二人は表面上、ほとんど言葉を交わさなかった。しかし――長く生きてきた人間の直感として、二人の間に流れる「他者が絶対に立ち入れない濃密な空気」を、征二郎は見逃さなかった。先ほどの書斎での密談。湊ははっきりと『篠宮家と黒田家で婚姻を結びたい』と申し出た。だが、奇妙なことに『誰を相手に』とは一言も明言しなかったのだ。征二郎には分かっていた。あれは単なる言い忘れなどではない。湊が意図的に残した『逃げ道』であり、彼が本当に望んでいる相手が誰なのかを、暗に示しているのだと。そして――征二郎が「沙耶と湊の結婚は絶対にあり得ない」と最終的な決断を下した決定的な理由は、他でもない。昨夜、実花から送られてきた『あの音声データ』だ。沙耶が野心家で、目的のためなら手段を選ばない狡猾な女だということは知っていた。だが、まさかこれほどまでに底無しに
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第169話

一方の実花は、沙耶から向けられる刺すような敵意と殺気を、肌で感じ取っていた。ふと、湊の顔が脳裏をよぎる。胸の奥が、ちくりと痛んだ。湊は……あの沙耶と結婚することで、本当に一族の危機を乗り越えられるの……?実花は小さくかぶりを振り、深呼吸をして、脳内をかき乱す雑音をすべて外へ押し出した。今は余計なことを考えている場合ではない。少なくとも、この戦いの舞台では、絶対に私が勝つ。実花は顔を上げ、いつもの余裕ある微笑みを浮かべて、かつてのチームメイトたちのもとへ歩み寄った。「おはよう、みんな」お互いに健闘を祈り合う、和やかで温かい空気が広がっていく。審査員席では、委員長である嘉乃を筆頭に、美由、そして篠宮誠が次々と席に着いた。個人戦となった第三ステージは参加人数も絞られているため、進行は非常にスムーズだった。ステージ上の巨大スクリーンに、百種類のテーマが猛スピードでスクロールしていく。リモコンを手にした嘉乃が、タイミングを見計らって一時停止ボタンを押した。ピタリ、とスクリーンが止まる。そこにデカデカと映し出された今回のテーマは――『破壊と再生』。その四文字を見た瞬間、二十名余りの参加者たちの反応は二分された。ある者は勝利を確信したように不敵な笑みを浮かべ、ある者は顔をしかめ、またある者は深く考え込んでしまった。時間は限られている。参加者たちはすぐさま、それぞれに用意された独立アトリエへと入り、構想を練り始めた。制限時間はたったの三日間。あまりに複雑で巨大な作品は完成しないが、かといってシンプルすぎれば他と差をつけることはできない。参加者自身の『見極める力』と『決断力』、そして『実行力』が極限まで試されるのだ。さらに、使用する画材や素材も「番組側がすぐに用意できる一般的なもの」に限られる。特殊すぎる素材を要求して手配に時間がかかれば、自らの制作時間を削ることになるからだ。実花も、自分専用のアトリエに入った。彼女の頭脳は瞬時に回転し、あっという間に完璧な構想を練り上げた。すぐさまスタッフを呼び止め、制作に必要な画材をリストアップして手配を頼む。筆、特製の楮紙、そして数種類の岩絵具。彼女が選んだのは、この国に古くから伝わる伝統技法を用いた、重厚な『重彩画』だった。どれも一般的な画材ばかりだったた
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第170話

このアトリエでの制作風景は、ネット上でリアルタイム配信されている。審査員たちもモニター越しに各参加者の進捗をチェックし、彼らがどのような作品を創り上げようとしているのか、大まかな方向性を掴み始めていた。中でも、審査委員長の嘉乃は、前回のステージで圧倒的な存在感を見せつけた実花の動向を特別に注視していた。彼女は実花のアトリエを映すモニターを食い入るように見つめながら、複雑な表情を浮かべていた。……実花さんの選んだ技法は『重彩画』か。確かに基礎技術は完璧だけど……前回のような、魂を揺さぶられるような『凄み』が感じられないわね。どこか無難にまとまっているというか……三日間という限られた時間の中で、確実に作品を完成させるために『安定』を取ったのだろうか。だとしたら、あまりに惜しい。……もしこの程度の無難な作品で終わるつもりなら、優勝は絶対に無理ね。嘉乃は小さくため息をつき――そして、さらに眉をひそめた。それにしても……配色が、どうにも奇妙すぎるわ。ハイライトを入れて輝かせるべき箇所にあえて濁った灰色を置き、鮮やかな赤で燃え立たせるべき背景に、なぜかくすんだ褐色を塗り重ねている。色彩のプロである嘉乃から見れば、それは明らかに不自然で、不協和音のような配色だった。一方の実花は、モニター越しに向けられる審査員や視聴者たちの戸惑いの声など、知る由もない。いや、仮に知っていたとしても、全く意に介さなかっただろう。彼女はただひたすらに、一切の迷いなく、特殊な楮紙の上へ色を塗り重ねていく。今はこれだけ不気味で奇妙な色でも……三日目の審査本番には、この『仕込み絵の具』が揮発して、下地の色が綺麗に浮かび上がってくる。実花の筆運びは、神がかり的なほど速く、そして正確だった。なんと丸一日も経たないうちに、彼女は巨大な重彩画『灰燼の火の鳥』の全貌を描き上げてしまったのだ。燃え盛る炎の中から今まさに飛び立たんとする火の鳥の、その圧倒的な生命力。一本一本の羽毛の質感に至るまで緻密に描き込まれた筆致は、まるで本当に生きているかのような錯覚すら覚えさせる。――ただ一つ、『奇妙で薄気味悪い配色』であるという点を除いては。「ああ……なんてもったいない……」モニター越しに彼女の作業を見守っていた多くのアート関係者たちが、内心で深い溜息を
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