All Chapters of 凍える愛の終焉に ―さよなら、偽りのマリアージュ―: Chapter 181 - Chapter 190

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第181話

うとうとと意識が遠のきかけていた、その時だった。隣の席のガテン系作業員が、一言も発せずぐったりしている沙耶を心配して顔を覗き込んできた。「ねーちゃん、大丈夫だか?どっか気分でもわりぃのか?」ドギツイ訛りに加えて、喉の奥に古い痰が絡んだようなガラガラ声。ゴホン、と耳元で咳払いされた瞬間、息が詰まるほどの強烈な口臭がダイレクトに沙耶の顔を直撃した。「オェエエエッ!」限界まで耐えていた胃袋がついに悲鳴を上げ、沙耶は派手に嘔吐した。「うわっ!」「おいおい、なんだよ。どこぞの温室育ちのお嬢ちゃんか知らないけど、泥臭い仕事もできないなら無理して来るなよな」周囲の乗客たちは一斉に鼻をつまみ、露骨に顔をしかめた。だが、隣の作業員だけは嫌な顔一つせず、「ほれ、これで拭きな」と、自分の首に巻いていた汗と泥まみれのタオルを差し出してきた。誰がそんな小汚い布を使うもんですか……っ!沙耶は鼻で鼻鳴らすと、差し出されたタオルを無視して、ウン十万円は下らないハイブランドのジャケットを脱ぎ捨て、それで口元と周囲の汚れを乱暴に拭き取った。なんで私が、こんな底辺の人間たちと一緒に……!今すぐ引き返したい。激しい後悔が波のように押し寄せてくる。だが、目的地にさえ着けば、嘉乃のコネで来た自分は確実にVIP待遇を受けられるはずだ。そう自分に言い聞かせるしかなかった。それに、出発前にわざわざSNSを更新してしまった手前、今更逃げ帰るわけにはいかないのだ。【二週間ほど姿を消します。私がどこで何をしてるか、当ててみてね♡】ボカしを入れた「特別プロジェクト・スタッフパス」の画像と共に投稿した匂わせポストには、フォロワーからの称賛や羨望のコメントが殺到していた。ネット上で築き上げた完璧な天才お嬢様のイメージを守るためにも、絶対に途中で投げ出すわけにはいかない。沙耶の瞳に、ギラギラとした執念の光が宿った。翌日。最悪な道中を乗り越え、ようやく発掘現場に到着した沙耶があてがわれたのは、実習生用の宿舎だった。宿舎といっても名ばかりで、金属板で適当に組まれた仮設のプレハブ小屋に、安っぽい二段ベッドがいくつか並べられているだけの極限環境だ。同室になったのは、名門・海央大学から来ているという学生たちだった。「皆様、初めまして。黒田沙耶と申します。今
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第182話

周囲の空気が凍りついた。幼い頃から周囲に傅かれ、チヤホヤされるのが当たり前だった沙耶の人生において、こんな大勢の前で存在を全否定されるような屈辱を味わわされたのは初めてのことだった。あまりのショックと恥ずかしさに、沙耶の目尻にじわりと怒りの涙が滲む。どうして私が、こんな底辺の泥仕事でコケにされなきゃいけないのよ……っ!そしてその矛先は、理不尽にも実花への激しい憎悪へと向かった。全部あの女のせいだわ!あの浅見実花さえいなければ、私がこんな場所で惨めな思いをすることなんてなかったのに!その時だった。本部テントの方から、運営スタッフが声を張り上げながら走ってきた。「技術修復班の浅見顧問が、人手不足で助手を募集しています!古美術品の事前処理作業です!手順は簡単なので、体力のある方なら誰でも構いません!」その声を聞いた瞬間、絶望のどん底にいた沙耶の顔がパァッと明るくなった。「はいっ!私、やりますわ!」まるで地獄に仏を見つけたかのように、誰よりも早く、勢いよく手を挙げた。古美術品の事前処理……!ゴミ拾いなんかじゃない、これこそ真のコア技術に関わる仕事だわ!「浅見顧問」という名前が、誰を指しているのか。まさかそれが、自分が世界で一番見下し、憎悪している女だとは夢にも思っていない。その浅見顧問という方は、きっとこの頑固な教授とは違って、私の秘められた才能と価値を正しく理解してくれるに違いないわ……!沙耶は自信に満ちた笑みを浮かべ、胸を張って修復班の仮設ラボへと足取り軽く向かっていった。入り口でスタッフに声をかけ、案内されるがままに内部へと足を踏み入れる。そこは、先ほどの泥臭い発掘現場とはまるで別世界だった。手袋と専用の防塵服を身に纏ったスタッフたちが、精密機器や繊細なピンセットを使い、張り詰めた空気の中で作業をしている。その高度で専門的な光景に、沙耶の口角は自然と吊り上がった。そうよ、これよ!これこそが天才である私の立つべきステージだわ!あんな薄汚い泥遊びなんて、誰がやるもんですか!「実習生、君の持ち場はこっちだ」スタッフに案内されたのは、ラボの隅にある作業台だった。「ここにあるのは発掘されたばかりの品だ。君の仕事は、これらを損傷の程度に応じて仕分けすること。万が一間違えても、後で専門家が最
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第183話

そして、沙耶はというと――最初の二日間こそ、なんとか隙を見つけて専門家に取り入り、一気に成り上がろうという野心を燃やしていたが、その気力も早々に尽き果ててしまった。任されるのは、誰にでもできる単純な雑用ばかり。一日中そんなことばかりさせられていれば、当然飽きる。何より耐え難かったのは、この劣悪極まりない宿泊環境だ。隙間風の吹き込むプレハブ小屋、寝返りを打つたびにギシギシと不快な音を立てる安物のパイプベッド、さらには温かいシャワーを浴びるためだけに長蛇の列に並ばなければならない共同浴場。これまでお嬢様として贅沢の限りを尽くしてきた沙耶にとって、ここはまさに地獄そのものだった。そして三日目。ついに沙耶の精神は限界を突破した。浅見顧問?藤沢教授?もうどうでもいいわよ、こんな泥臭い場所!事前処理の必要な古美術品の仕分けが一段落したのをいいことに、沙耶はスタッフに「他の班から手伝いに呼ばれているので」と適当な嘘をついた。誰も一介の実習生の動きなど気にしていないのをいいことに、そのままこっそりと現場から逃亡したのだ。山麓に待機させていた秘密の高級送迎車に乗り込み、冷房の効いた車内で、空輸で取り寄せた極上のお刺身を口に運んだ瞬間、沙耶はようやく心底ホッと息を吐き出した。どうせ白川先生はこんな僻地になんて来ないし、これだけ人が多いんだから、末端の人間が一人消えたところで誰も気づきやしないわ。もちろん、完全に投げ出すほど馬鹿ではない。プロジェクトの終了まではあと一週間半ある。その間、数日おきにふらっと現場に戻り、さもずっと手伝っていたかのように顔を出しさえすればいいのだ。無事にプロジェクトが終了すれば、この輝かしい経歴はそっくりそのまま自分のものになる。沙耶はふふっと優越感に浸りながら笑みをこぼし、スマートフォンを取り出した。画面には、現場にいた数日間でこっそり撮り溜めていた写真が並んでいる。有名な専門家たちが作業している風景を遠くに写り込ませ、絶妙な角度で自分も中枢の作業に関わっているように見せかけた自撮り写真だ。それに念入りな加工を施し、SNSへ投稿する。【各界のトップ専門家の方々とご一緒できて、本当に光栄です♡】---実花が今回この僻地の現場へ赴いた主な目的は、二つあった。一つ目は、発掘作業中に深刻なダメージを受け
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第184話

「まあ、もう二十年も前の話だし、黒田家も過去の遺恨は水に流したんじゃないかしら」「でも……私の聞いた話だと、あの事件にはまだ深い裏があるらしいわよ。由紀子様は、実は実の兄に陥れられたんだって……」「シーッ!ちょっと、滅多なことを口にするんじゃないわよ。黒田家に消されたいわけ!?」社交界のあちこちで、好奇心と野次馬根性の入り交じった囁きが交わされていた。---山道を下る帰りの車内は、行きとは違い、不思議と激しい揺れを感じなかった。丸一週間、湊からの連絡はない。実花も自分からメッセージを送るようなことはしなかった。しかし、運転席の鈴木の様子をじっと見つめながら、実花はどこか上の空な声で問いかけた。「……最近、あちらに報告はしてるの?」「あちら」とは、言うまでもなく湊のことだ。鈴木が自分の動向を逐一彼に報告していることなど、実花はとっくに気づいていた。でなければ、前に病院へ行った時、なぜ彼が数分遅れで駆けつけて来られたのか。どうして自分が何も言わなくても、黒田家の内情を察して「気をつけろ」と忠告できたのか。説明がつかない。黒田家には気をつけろと言ったくせに。……それならどうして、自分はわざわざそんな危険な家と政略結婚なんか進めてるのよ。胸の奥に、チクリとした息苦しい痛みが走る。自分がスパイとして動いていることを実花に直接指摘され、バックミラー越しの鈴木の顔に、珍しく焦りの色が浮かんだ。「あー、コホン……」鈴木は気まずそうに咳払いをして、泳ぐ視線を前に戻した。「ここ数日は、ボスから直接の指示は来ておりません。ご自身のお立場のことで、相当お忙しいのだと思います。ですが……」鈴木は再びバックミラーで実花の顔色を窺うと、慌ててフォローを入れた。「ボスからは『実花さんの日程は毎日定時に報告するように』と厳命されております!送信した報告はすべて【既読】になっていますから、ボスは毎日必ず、実花さんの状況を隅々まで確認しておられます。これだけは間違いありません!」「……そう」実花は短く相槌を打つと、再び窓の外を流れる木々のシルエットへ視線を戻した。鈴木はハンドルを握りながら、冷や汗を拭った。言えるわけがない。ボスがこの数日間、何度死線を彷徨ったかなんて……冴島家のあの狂犬が、大人しく引き下がるはずがなかった。
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第185話

「そ、それは……」瑠美の顔に明らかな焦りが走った。大貴は瑠美の電話など一切無視して、どこで遊び歩いているのか見当もつかない状態なのだ。「あの子は今、支社のほうで残業をしておりまして。距離も遠いですし、仕事が終わってからこちらに向かうと深夜になってしまうかと……」征二郎は冷ややかに片眉を上げただけで、それ以上は追及しなかった。大貴が裏で何をしているかなど、当主の目はすべてお見通しなのだ。征二郎は興味を失ったように視線を外し、再び沙耶へと向き直った。「それにしても沙耶。今回のチャンス、よく自分のモノにしたな」当主から直接賛辞の言葉をもらい、沙耶はホッと胸を撫で下ろした。これまでは、祖父の自分に対する態度がどこか冷淡な気がして不安だったのだ。これで、皆の注目は明日のあの女の宴から、私へと移ったわね!話題の中心が自分になったことを確信し、沙耶はうつむき加減で優等生らしく振る舞いながら、口元の歪な笑みを必死に隠した。数日おきに現場へ戻っては撮影し、SNSに投稿した「専門家たちとの作業風景」や「防塵服を着た真剣な姿」の写真は、絶大な効果を発揮していた。今やネット上のフォロワーたちは、沙耶を「国家プロジェクトを率いる若き芸術の女神」として祭り上げている。特に沙耶を喜ばせているのは、「あの浅見実花なんかより、沙耶様の方がずっと本物の天才だ!」と、実花を叩き落として自分を持ち上げるコメントが殺到していることだった。専門家にバレるんじゃないか、なんて心配は無用だわ。沙耶は事前にきっちりと調べていた。あの現場にいる堅物の老専門家たちは、誰もSNSのアカウントなど持っていない。持っていたとしても、わざわざログインしてネットの噂などチェックするはずがないのだ。それに、自分は投稿で「国家プロジェクトに貢献した」などと明言したわけではない。勝手に勘違いして持ち上げているのはネットの連中なのだから、自分にはなんの責任もない。そう開き直っていた。「お祖父様、私なんて全然すごくありませんわ」沙耶は淑やかで奥ゆかしい令嬢を演じ、恥じらうように微笑んだ。「今回はあくまで実習生の枠で参加させていただいたに過ぎません。先生方の足手まといにならないよう、必死に学ばせていただいただけで……」ちょうどその時、足取りも重く、疲労困憊の実花が広間へと入ってきた。ドロド
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第186話

「瀬戸家……」ひび割れた嗄れ声が漏れる。凛は床に這いつくばるようにして、哀れな声で懇願した。「夜行様、どうか……明日の宴会に、私も連れて行っていただけませんか……」夜行が口を開くより早く、海斗の容赦ない蹴りが凛の腹にめり込んだ。「分を弁えろ、ゴミ屑が。お前ごときが気安く当主に口を利くな」床に激しく投げ出された凛は、手のひらを無惨に擦り剥いた。痛みに奥歯を強く噛み締める。その瞳の奥で一瞬だけドス黒い憎悪が渦巻いたが、凛は即座にそれを隠し、顔を上げて媚びへつらうような薄気味悪い笑みを浮かべた。「申し訳……ありません。ですが夜行様、どうか……明日のパーティーに連れて行ってはいただけませんか」「俺が、お前みたいなふざけた女を連れて行く理由があるか?」夜行はしゃがみ込み、血に染まった手で凛の顎を乱暴に跳ね上げた。汚物でも見るかのように見下ろしながらも、その目には嗜虐的な興味が浮かんでいる。凛の目に一瞬よぎった殺意に近い憎悪など、夜行はとうに見抜いていた。だが、そんなことはどうでもいい。自分を憎む人間など腐るほどいる。この程度の小蝿が一匹増えたところで、痛くも痒くもないのだ。圧倒的な夜行の気迫を真正面から浴び、凛はガタガタと震え上がった。それでも、生き残るために必死で言葉を紡ぎ出す。「瀬戸家の跡取りである和真は……私に深く惚れ込んでいます。私を潜り込ませていただければ、瀬戸家を内部から崩壊させる駒として働きます……!」夜行は何も言わず、品定めをするように沈黙した。いける……!凛は内心で歓喜の声を上げた。あの日、絶望の淵にいた自分を助け出してくれた海斗。海斗こそが、自分のお腹にいた子供の本当の父親だった。最初はそれが救いだと思った。神様が自分に味方してくれたのだと本気で信じていた。波前市を裏で牛耳る冴島家に守られれば、これからの人生は安泰だと。だが、現実は違った。この屋敷は、正真正銘の地獄だったのだ。海斗は凛のことなど微塵も愛していなかったし、お腹の子供にも何の興味も持っていなかった。不注意で流産してしまった後、ここでの凛の扱いは家畜以下まで転げ落ちた。ある日、凛は偶然聞いてしまったのだ。海斗と夜行の密談を。自分の妊娠すらも、すべては奴らが仕組んだ罠だった。子供を利用して高城家と瀬戸家を飲み込む手
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第187話

「おかげさまでな。……だが和真、お前こそひどくやつれてるじゃないか。何かあったのか?」駿大が温かい茶を差し出しながら尋ねる。和真は自嘲気味に笑うだけで、何から話せばいいのか分からなかった。和真の様子を見て深くは追及せず、駿大は少し声のトーンを上げて言った。「お前にも、少しは希望になるニュースを教えてやろう。……俺の本当の妹が、生きている可能性が高いんだ」「本当ですか!?」和真は弾かれたように立ち上がった。駿大は、妹の遺留品である月のロケットを見つけたことや、警察の記録からゴミ捨て場で保護された幼い少女の記録を見つけ出したことを語った。「ただ……孤児院を調べ始めた途端、ぱっつりと手掛かりが途絶えた。まるで何者かが意図的に記録を消し去ったようにな。だが、それは逆に妹が生きている証拠でもある。わざわざ一人の孤児の存在を隠蔽する理由なんて、他にないだろう?」「……良かった。本当に良かったです」立て続けに絶望的な出来事に見舞われていた和真にとって、久々に心から喜べる知らせだった。しかし、椅子に座り直した和真の顔を覆う暗い影は晴れない。瀬戸家のビジネスは最近大きなM&Aを完了させたばかりで、絶好調のはずだ。それなのにここまで落ち込んでいるとなれば、私生活の問題しかない。「実花さんとは……最近どうなんだ?」駿大は申し訳なさそうに眉を下げる。「あの偽物の凛のせいで、お前たち夫婦の間に亀裂を入れてしまったこと……本当にすまなかったと思っている」「違います、駿大さん。あなたが謝る事じゃありません。……全部、僕が愚かだったんです」それは単なる社交辞令や謙遜ではなく、血を吐くような後悔から絞り出された本音だった。以前の和真は、実花をただ「大人しく、従順で、手のかからない都合の良い妻」だとしか思っていなかった。自分のことを深く愛しているのだと、無意識のうちに見下し、胡座をかいていたのだ。実花が完全に自分の人生から消え去って初めて、気がついた。自分は、浅見実花という人間を、何一つ理解していなかったということに。「女なんてのは、機嫌を取って、少し根気よく付き合ってやればいい。お前くらい優秀なら、実花さんもそのうち許してくれるさ」駿大は独身を貫いているが、これまで女性の影が途絶えたことはない。その経験からの気休
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第188話

駿大は、その痛々しい姿を見て全てを察した。深く息を吐き、和真の肩をポンと叩く。書斎には、和真の荒い呼吸音だけが響いている。絶望の淵に立たされた男の姿に、駿大もさすがに胸が痛んだ。たっぷり一分が過ぎ、和真の呼吸が少し落ち着いたのを見計らって、駿大は残酷な事実を口にした。「高城家の親戚に、正造なんて人間はいない」凛……!!!和真は全身の骨を抜かれたように、ソファに力なく崩れ落ちた。足首を家具の角に激しく打ち付けたが、痛みなど全く感じない。僕は……僕は、なんてことを……!どうして実花が自分に未練一つ残さなかったのか。どうしてあんなにも決然と去っていったのか。当たり前だ。一生、許されるはずがなかったのだ。実花の父親の通夜の日。あの時、自分は凛を連れて葬儀の場に現れた。実花はどんな気持ちで自分たちを見ていた?想像するだけで発狂しそうだった。実花は、自分を殺したいほど憎んでいたに違いない。和真は深く身を折り曲げ、喉の奥から軋むような、ひどく醜い笑い声を漏らした。壊れたように笑い続け——やがて、大粒の涙がポタリと床に叩きつけられた。---翌日。黒田本邸が主催するお披露目パーティーの夜がやってきた。会場として貸し切られたのは、海浜市で最も格式高い『湊花(そうか)ホテル』のメインバンケットだ。このホテル、元々は『スターライト・ホテル』という名だったが、一ヶ月前にオーナーが変わり、現在の名に変更された。世間の人間はその真意を知らない。だが、征二郎だけは裏事情を把握していた。ホテルを買収した新オーナーの正体が、あの篠宮湊であり——新しいホテル名が、彼と実花の名前を密かに組み合わせたものであるということを。昨日から総出で準備が進められ、南方の特別区から専用機で空輸された極上の霜降り肉が、その日のうちにテーブルへ並ぶ。会場の装飾に至っては、絨毯の毛並み一寸のズレすら許されない徹底ぶりだ。征二郎が目を光らせているのはもちろんのこと、裏のオーナーである湊が「他の全業務をストップしてでも、この宴を完璧に仕上げろ」と全従業員に厳命を下していたからだ。開宴は夜の七時。しかし五時を回った頃には、エントランスに高級車が列を成し、華やかに着飾った名士や黒田家の親族たちが続々と集まり始めていた。主役であるはずの実花自身は、この熱狂から完全
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第189話

分家の令嬢たちは沙耶の姿を見るなり、こぞって機嫌を取るように群がった。「沙耶お姉様!今日のドレス、本当に素敵。これぞ黒田家の顔って感じの気品ですわ!」「本当。で、今夜の主役とやらは、一体どこの馬の骨なんです?」「どうせ、田舎から出てきた芋娘に決まってるじゃない」甲高い声で嘲笑ったのは、分家の令嬢である黒田理沙(くろだ りさ)だった。「黒田の家で育ったわけでもないのに。どうせ貧乏くさい匂いが染み付いてるに決まってるわ」そう言いながら、理沙はチラリと沙耶の顔色を窺う。沙耶が咎めることなく、ただ優越感に浸るように薄く微笑んでいるのを見て、理沙は自分のヨイショが正解だったのだとほくそ笑んだ。「今夜のこんな豪華な料理だって、見たこともないんじゃないかしら?ナイフとフォークの使い方も怪しいものね!」その言葉に、取り巻きたちがドッと下品な笑い声を上げる。「それで、その主役様はどこに隠れてるんです?」誰かがキョロキョロと辺りを見回すが、それらしい人物は見当たらない。沙耶は、エントランスの隅に静かに立つ実花の方へ、ほんのわずかに視線を流した。取り巻きたちが一斉にその視線の先を追う。そこにあったのは、実花の横顔だけだった。しかし——その場にいた全員が、一瞬だけ息を呑んで沈黙した。顔の全貌がはっきりと見えなくても、その立ち姿から放たれる圧倒的なオーラと気品は、決して無視できるものではなかったからだ。「……ふんっ、あんな気取ったって、どうせ着てるオートクチュールも借り物みたいに浮いてるじゃない。土臭さは隠せないわね」理沙は負けじと吐き捨てたが、その胸の奥はドロドロとした激しい嫉妬で煮えくり返っていた。自分は分家の娘として、衣食住に困らない生活を送ってはいるものの、何百万もするオートクチュールなど逆立ちしても買えない。普段から沙耶に媚びへつらって、ようやくブランド品のバッグのお下がりを恵んでもらっているような身分なのだ。それなのに、あの中途半端な女は、自分が喉から手が出るほど欲しい直系の令嬢という地位をいとも簡単に手に入れた。それが許せなくて、必死に言葉で貶めるしかなかった。沙耶は、取り巻きたちからチヤホヤされる快感をたっぷりと味わい尽くすと、いかにも優しげな声を作って場を嗜めた。「ふふっ、もうやめましょ
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第190話

バンケットの上の階は客室になっている。実花は事前に取っておいた部屋へ葵を案内し、用意していた華やかなゲストドレスを手渡した。二人は並んでドレスに着替えながら、先ほどの話の続きを始めた。「はぁ!?何それ、またしてもクズ男ってわけ!?せっかくいい男だと思ってたのに……やっぱ男なんてみんな同じね!」葵が怒り心頭で声を荒らげる。「またしても」――そう吐き捨てた彼女の念頭には、当然、一つ目のクズ男である元夫・和真の存在があった。「……湊は私に『好きだ』なんて一度も言ったことはないわ。私たちは、何の関係でもないもの」実花のその言葉は、自分自身がこれ以上深入りしないためのブレーキだったのか、それとも湊をクズ呼ばわりされたくなくて庇ったのか、彼女自身にも分からなかった。湊が自分を気にかけてくれていたのは事実だ。いっそ、昔のようにただの兄と妹のままでいられたら、どんなに良かっただろう。いくら結婚相手が変わろうとも、妹のポジションだけは永遠に変わらないのだから。実花はふと視線を落とし、物思いに沈んだ。そんな実花の少し寂しそうな横顔を見て、葵はハッと我に返った。いけない。実花が一番傷ついているのに。葵は声のトーンを落とし、縋るように実花の肩を抱いた。「ごめん、違うの。私はただ、あんたがまた傷つくのが怖いだけ。やっと一つの地獄から抜け出したのに、わざわざ別の地獄に飛び込む必要なんてないんだから」「……わかってる」実花が静かに頷いて見上げる。潤んだ大きな瞳。なめらかな白磁の肌。そして、スリットから覗くしなやかな腰のラインと、そこにある淡いピンク色の蝶の痣。……っ、なにこの生き物!エロ可愛いにも程があるでしょ!同性である葵でさえ、至近距離で見つめられて思わず顔を赤くし、心臓を跳ねさせてしまうほどの破壊力だった。こんな無自覚で隙だらけの状態でいれば、悪い男に騙されるのは火を見るよりも明らかだ。和真の時だって、きっとこの無防備さにつけ込まれたに違いない。そう確信した葵は、急に熱血恋愛アドバイザーのような顔つきになり、実花の両肩をガシッと掴んだ。「いい?実花。次にその湊って男に会ったら、単刀直入に『私たちの関係は何?』って聞きなさい!」「え……」「いいから聞くの!もしその時、あいつがこう言ったら一発アウトだからね!」葵は
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