All Chapters of 凍える愛の終焉に ―さよなら、偽りのマリアージュ―: Chapter 141 - Chapter 150

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第141話

エレベーターを降りてホールに出た瞬間、タイミングよく隣の部屋のドアが「ガチャリ」と開いた。会いたいと思ったら、本当に会えちゃった。実花の唇に、自然と柔らかな笑みが浮かぶ。だが、そこに立っていた湊の様子は、どこか異様だった。湊は氷のように冷たい無表情で突っ立っている。いつもは完璧に着こなしているシャツの襟元は珍しく乱れ、目の下にははっきりと濃い隈が浮かんでおり、一睡もしていないことは誰の目にも明らかだった。「……やっと帰ってきたのか」湊の口から飛び出したのは、棘のある冷ややかな声だった。「てっきり、そのまま引っ越したのかと思ったよ」「ええ、そのつもりよ。三日後に引っ越す準備をしているの」実花は昨日の征二郎との会話を思い出し、言葉の裏も読まずに素直に頷いた。その瞬間、湊の纏う空気がさらに数度下がった。彼は低く、嘲るような冷笑をこぼす。「はっ……お前って本当にチョロいんだな。あんな風にほんの少し優しくされただけで、尻尾を振って戻るのか?脳みそ腐ってんじゃないのか?」いくら何でも言い過ぎじゃない?まさかもう、私が征二郎様から厚遇されて黒田家に戻ることを知っているの?相変わらず耳が早いわね。実花は少し眉をひそめたが、彼が黒田家という泥沼に足を踏み入れることを危惧してくれているのだろうと好意的に解釈し、軽く溜息をついた。「別にチョロいわけじゃないわ。でも、向こうの居心地が良くても悪くても、行かなきゃいけないのよ。どうしても、自分自身で直接向き合って確かめなきゃいけないことがあるから」母の過去に一体何があったのか。あの権力者の黒田当主に、あんな歯切れの悪い態度をとらせるような秘密を、絶対に暴かなければならないのだから。実花の瞳に宿る揺るぎない決意を見て、湊は堪えきれないほどの怒りが腹の底から湧き上がるのを感じた。「自分自身で直接向き合うだと……?」湊の声は、地を這うように低く、ドスが利いていた。「瀬戸の妻として、今更責任感でも芽生えたって言うのか?それとも、今までの自分の態度を反省して、関係をやり直すためにヨリを戻そうとでもしているのか?」「……え?」実花はきょとんとして瞬きをした。話が全く噛み合っていない。「世間中を巻き込んで盛大にノロケていたじゃないか。動物園デート、ずいぶんと
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第142話

「瀬戸家には戻りません。一生戻るつもりはないわ。もう二度と私に構わないで」実花は汚いものでも見るかのように身を引き、和真の手を避けると、そのまま咄嗟に湊の背後へと身を隠した。その瞬間――湊の中で煮えたぎり、理性を焼き尽くそうとしていた怒りの炎が、魔法でもかけられたかのようにスッと凪いだ。ああ……幼い頃もずっとこうだった。彼女は何か悪戯をして親に叱られそうになると、いつもこうして湊の部屋に逃げ込み、背中に隠れて彼の服の裾をぎゅっと握りしめていた。昔と何一つ変わらない、自分への無意識の依存。それに気づいた途端、湊の眉間のシワは完全に解け、機嫌は最高潮に達した。彼は実花を隠すようにさりげなく一歩前に出ると、その広くて逞しい背中で彼女をすっぽりと庇い立てた。和真も平均より随分と背は高い方だが、湊はさらにその上をいく。鋭く冷酷な美貌を持つ若き王者が、見下ろすように冷ややかな視線を向けると、その場にいるだけで息が詰まるほどの圧倒的な威圧感が放たれた。実花からの拒絶と、目の前の二人のあまりにも自然な距離感。和真の心臓が嫌な音を立てて跳ねた。彼は湊と、その背後に隠れる実花を交互に見比べ、思わず声を震わせた。「君たち……いつからそんなに親しくなったんだ……?」実花は唇を噛み締め、無言のまま湊のシャツの背中をきゅっと強く握った。彼女はひどく緊張していた。今の読めない湊が、嫉妬に駆られて不用意なことを言い出すのではないかとハラハラしたのだ。別に和真に自分たちの関係を知られること自体はどうでもいい。だが、今は時期が悪すぎる。離婚が成立する直前の今、余計な波風を立てて足枷を増やしたくはない。それに、湊だってこんな形で自分との関係を周囲に公にしたくはないはずだ。背中のシャツを握る小さな手から伝わってくる不安を察したのか。湊は和真を見下ろしたまま、ゆっくりと口を開いた。「俺たちは……随分と前から顔見知りでしてね」和真が息を呑み、絶句するよりも早く。湊は微かに余裕の笑みを浮かべ、ゆったりとした口調で言葉を継いだ。「前回のパーティーで、瀬戸社長ご自身から直接ご紹介いただいた時からの知り合いですよ。その後、たまたま隣同士だと分かってね。少し話してみたら、驚くほど色々な部分で気が合ったんです」湊の底知れない漆黒の瞳に
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第143話

湊の漆黒の瞳は、実花の薄紅色の唇にねっとりと張り付いている。もしこの唇から、一つでも彼の意に沿わない言葉がこぼれ落ちたら、その瞬間に何をするか分からない――そんな獰猛な捕食者のような熱を孕んでいた。「えっと、それは……」実花は目を泳がせ、なんとかこの場を逃れるための言い訳を頭の中で必死に探した。しかし、湊は鼻で低く笑った。彼女のことは、自分の手足の長さよりも熟知している。その表情を見ただけで、またろくでもない誤魔化しを考えていることなどお見通しだった。どうせ彼女の口から気の利いた言い訳など出てこないだろう。それならば、初めから聞く必要はない。湊は実花の手首を強引に掴むと、そのまま自分の部屋へと引きずり込んだ。バタンッ!と重いドアが閉まる音が響いた次の瞬間――実花は冷たい壁に押し付けられ、湊の大きな身体に完全に閉じ込められていた。「んっ……!」抗議の声を上げる隙も与えられないまま、唇を激しく塞がれた。吸い付き、噛み付くような、容赦のない熱い口づけ。「……アイツは、ここにキスしたか?」唇と唇が重なり合ったまま、湊の荒い息遣いとともに掠れた声が響く。「……え?」突然の猛烈なキスに頭が真っ白になり、実花の脳内では無数の火花が弾けていた。「……アイツは、ここに触れたのか?」湊の唇が実花のあごのラインをなぞり、そのまま透き通るように白い首筋へと滑り落ち、そこに深く顔を埋めた。彼が何を聞いているのか――それをようやく理解した瞬間、足の裏から頭のてっぺんまで一気に血が上り、実花の顔は茹でダコのように真っ赤に染まった。実花が答えられないでいると、湊の胸の奥で嫉妬の炎がさらに激しく燃え上がった。彼は真っ白で滑らかな肌に吸い付き、まるでマーキングでもするかのように、容赦なく強く噛み跡を残していく。「……ここもか?」「それとも、ここか……?」問いかけるたびに、彼女の柔らかな肌に新しい真っ赤なキスマークが刻まれていく。もはや彼女の答えなど求めていない。ただ、自分以外の男の痕跡が少しでも残っているかもしれないという妄想を、自らの強い印で完全に塗り潰そうとしているだけだった。「……ッ、もうやめて!」息が詰まるような恥辱と熱に耐えきれず、実花はありったけの力を振り絞って湊の胸を強く押し返した
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第144話

アトリエのドアを開けると、ふわりと暖かな空気が全身を包み込んだ。実花はホッと息をつきながらコートを脱いでハンガーに掛ける。そのままの勢いでマフラーにも手をかけ――ハッとして動きを止め、そっと手を下ろした。危ない。うっかり外して、とんでもないものを晒すところだった。……やっぱり、あとでもう一回湊を殴ろう。心の中で二度目の罵倒を済ませてから、実花は奥に向かって声をかけた。「ねえ、翔太先輩。外にいるあの人、どうしたの?」アトリエの作業台で和紙の整理をしていた兄弟子の翔太は、困ったように眉を下げた。「ああ、絵の修復依頼だよ。もう一時間以上あそこに突っ立ってるんだ」「中に入って座ってもらえばいいじゃない」「声は入れたんだけどね。あそこから動こうとしないんだ」翔太は手元の作業を止め、やれやれと首を振る。「実は、あの子は今朝も来てたんだ。俺と篠田先生で絵を見させてもらったんだけど……損傷が酷すぎて、うちの技術でも修復不可能な代物だった。それに、仮に直せたとしても、絵自体の市場価値が修復費用の半分にも満たない。完全に赤字だよ」「だから、先生と先輩で諦めるように説得したってこと?」「そういうこと。うちじゃその仕事は引き受けられないって断ったんだ」翔太が重いため息をつく。実花はちらりと窓の外の景色へ視線を向けた。「じゃあ、どうして帰らないの?」「絵を売って、家族の手術代にしたいらしい。命がかかってるって」翔太の言葉に、実花の胸がわずかにチクリと痛んだ。「でも、あの子は修復に必要な最低限の材料費すら払えない状態なんだよ。それに……百歩譲って俺と先生が完全なボランティアで引き受けたとしても、あのサイズは無理だ。小さな作品ならまだしも、あんなに巨大な絵を直すとなると途方もない時間と労力がかかる。俺たちにも、元通りにできる確証はないんだ」窓ガラス越しに、寒風の中で今にも倒れそうな青年の背中を見つめる。彼の顔に表情はない。それでも、実花には彼が抱える深い絶望と悲痛が痛いほど伝わってきた。――かつての私が、そうだったように。冷たい暗闇の中で、ほんのひとすじの希望にすがりついて、誰かが手を差し伸べてくれるのを待っていた、あの日の自分。「……私がやってみる」「正気か?」翔太が驚いて振り返った。「
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第145話

「……終わったよ」肩の荷が下りたような、安堵の混じった声だった。作業台の上に広げられた絵は、大きく破れ断裂していた部分が、まるで最初から傷などなかったかのように、周囲と寸分の狂いなくシームレスに繋がっていた。まさに神業である。青年が弾かれたように立ち上がり、足早に歩み寄ってきた。しかし彼は、真っ先に蘇った絵を見ることはしなかった。その視線は、限界を迎えている実花へと向けられていた。ふらりと、実花の身体が傾く。「っ……!」青年は咄嗟に彼女を支えようと手を伸ばしたが、実花が自らの腕で作業台に手をつき、何とか踏みとどまったのを見て、空を掻いたその手を静かに引っ込めた。「どうしたの?どこか、仕上がりに不満でもあった?」いつまで経っても絵について何も言わない青年に、実花は不思議そうに小首を傾げた。「い、いえ……!そんなことは、決して」青年はハッとして我に返り、慌てて視線を落とした。彼は修復された掛け軸を、まるでこの世で最も尊い宝物であるかのように、震える手で大切に抱き抱えた。そしてアトリエを出る間際、ピタリと足を止め、振り返って実花を真っ直ぐに見据えた。「実花さん。俺の名前は――灰原巡(はいばら めぐる)と言います」それが、決して忘れてはいけない恩人の名を刻み込むような、重く真摯な響きを伴った自己紹介だった。---アトリエの外に出ると、数日降り続いていた雪はすでに止んでいた。連日の異常なまでの高負荷作業により、実花の体力は完全に底をついていた。脳内は霞がかり、今すぐにでもベッドに倒れ込んで泥のように眠りたい。それだけが今の彼女の切実な願いだった。「実花」不意に、聞き慣れた男の声が鼓膜を打った。「――っ、どうして、あなたがここにいるの?」声の主を視界に捉えた瞬間、実花の足がピタリと止まる。そして、かつて彼にこのアトリエの住所を教えてしまった過去の自分を、心底呪った。極度の疲労から解放され、緊張の糸が切れた今の実花は、気を抜けばその場にへたり込んでしまいそうな状態だ。そんな最悪のタイミングで現れたのは、あと数日で『赤の他人』になる予定の男――和真だった。勘弁して……これ以上、私の視界に入らないでよ。ただでさえ限界ギリギリの頭痛が、彼の顔を見た途端にガンガンと激しさを増していくのを感じていた
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第146話

だが、彼は優秀な実業家だ。混乱する頭を即座に切り替え、思考を巡らせる。自分の直筆サインと実印が押された『離婚協議書』を実花が持っていたということは、誰かが意図的に自分からサインを騙し取ったということだ。和真は震える指でスマートフォンを取り出し、顧問弁護士の茅野に電話をかけた。「……社長。この件に関しましては、私としても非常に立場が苦しく……」電話越しに聞こえた茅野の歯切れの悪い声。それで、全てを察した。茅野のような優秀な弁護士を板挟みにし、口封じできる人間など数えるほどしかいない。その上で、自分の離婚問題に介入してくる人物となれば――たった一人しかいない。母親だ。その瞬間、和真の脳内でバラバラだったピースが残酷なまでに一つに繋がった。今まで都合よく脳内変換していた実花の冷たい態度。ある夜、母・美佐子が妙に口ごもりながら、大量の書類へのサインを求めてきたこと。あの書類の束の中に、離婚協議書が紛れ込んでいたのだ。それまで見て見ぬふりをしてきた事実が、大津波となって押し寄せてくる。先ほど自分に向けられた、実花の氷のように冷たく、見下すような瞳。あれは拗ねている女の目などではない。一切の未練を断ち切った、完全な決別の目だった。自分が作り上げていた『彼女はまだ僕を愛している』という身勝手で甘い幻想が、音を立てて粉々に砕け散っていく。実花は本気だ。本気で僕を、捨てたんだ……突然、肺の空気がすべて奪われたように呼吸ができなくなった。冷たい寒風に晒されているせいか、それとも別の理由か、目頭が熱く、赤く染まっていく。和真はフラフラと歩き出した。路肩に待機していた自分のマイバッハになど目もくれず、宛てもなく雪の積もる歩道を彷徨い始める。暖房の効いた車内から飛び出してきたため、今の彼は薄手のオーダースーツ一枚だ。雪空の下で急速に体温が奪われていくはずなのに、狂ってしまった和真の感覚は、寒さなど一切感じていなかった。プァァァン!!けたたましいクラクションの音が鳴り響いた。フラフラと車道にはみ出しかけていた和真の真横を、猛スピードの車が掠めていく。「危な――っ!」避ける間も無く、車のサイドミラーが和真の腕を乱暴に弾き飛ばした。和真の体は宙に浮き、冷たく硬いアスファルトの上を無様に数回転がった。「ど
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第147話

実花は迎えの大型バンから降り立った。今日の彼女は、シンプルなオーバーサイズのパーカーにストレートパンツという、およそ名家への訪問には相応しくないラフな出で立ちだった。だが、これだけ物々しい雰囲気の中にあっても、彼女の態度は微塵も揺るがない。彼女が纏う、周囲の全てを睥睨するような冷ややかで隙のないオーラは、決して虚勢ではなかった。それは、あの『篠宮湊』という絶対的な支配者のそばで過ごすうちに、彼女の骨の髄まで染み込んでしまった「冷徹な気高さ」そのものだった。エントランスの奥でその様子を見守っていた征二郎と執事は、思わず息を呑み、内心で感嘆の声を上げていた。「よく来てくれた。これからは、私と共にこの本邸で暮らすといい」征二郎が歩み寄り、実花の手を優しく握る。実花は表情を変えることなく、持っていたボストンバッグを横にいた使用人へと手渡した。「お前の部屋はすでに整えさせてある。かつて、由紀子……お前の母親が使っていた部屋だ。あの子が出て行ってから何十年も、一切手を触れずにそのままの状態で保存してある。足りないものがあれば、何でも遠慮なく言いなさい」「……はい。ありがとうございます」実花は淡々と頷くだけで、それ以上の言葉は紡がなかった。征二郎の言葉を聞いても、実花の心は凪のように静かだった。生前、母が苦しんでいた時には一切の手を差し伸べなかったくせに、死んでからこうして必死に罪滅ぼしをしようとする。それは結局のところ、彼自身の「罪悪感を和らげたい」という利己的な自己満足に過ぎないのだと、実花は冷ややかな目で真実を見透かしていた。「他の身内は皆、所帯を持って本邸を出て行ってしまってな。ここは静かすぎるくらいだが……私のような年寄りと暮らすのは、退屈ではないかね?」「いいえ、気になりません」実花は、形の良い唇にうっすらと笑みを浮かべて答えた。「そうか、それなら良かった。まずは食事にしよう。後日、親族の者たちを全て集めて、正式にお前を紹介する場を設けるつもりだ」そう言って、征二郎は上機嫌に笑い声を上げた。用意された夕食は、明らかに常軌を逸した「歓迎の晩餐」だった。専属のシェフが恭しくサーブする前菜だけで三種類。巨大なダイニングテーブルに座っているのは祖父と孫の二人だけだというのに、次から次へと運ばれ
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第148話

男の整った鼻梁には、知的な金縁の眼鏡が乗っている。固く閉じられた目元には、普段の彼が放つ『他人を寄せ付けない冷徹で禁欲的な空気』の面影が残っていた。だが、アルコールのせいか熱を帯びて微かに開かれた少し厚みのある唇は、艶やかに濡れ、ひどく色気を放っている。えっ……嘘でしょ。これ、私の推しの高城駿大!?葵は思わず、ゴクリと情けない音を立てて唾を飲み込んだ。倒れた駿大の体を持ち上げようと手をかけた時、彼が僅かに目を開けた。焦点の合わない霞んだ瞳が葵を捉え、しゃがれた色気のある声で、ポツリと名を呼んだ。「……凛?」その名前を聞いた瞬間、葵の胸の中にあったときめきは氷点下まで冷却され、反射的に殺意が湧いた。出たよ、あのクソ女の名前!いっそこのまま蹴り飛ばしてやろうか……!和真を唆し、親友の実花を苦しめ続ける泥棒猫・高城凛。その兄である駿大が、いくら葵のドストライクな容姿をしていようと、許せるはずがない。しかし、怒りに任せて彼を突き放そうとした次の瞬間。駿大が突然上体を起こし、葵の身体にすがりつくように強く抱きしめてきたのだ。「っ、ちょ……!?」普段は経済界で冷酷無比なやり手社長として恐れられている彼が、葵の肩に顔を埋め、まるで迷子になった子供のようにボロボロと大粒の涙をこぼし始めた。「凛……っ、凛、どこに行ってたんだ……っ!」え、何?あの女、行方不明にでもなったの?だとしたら最高にめでたいんだけど!葵の内心では盛大なファンファーレが鳴り響いていた。しかし、目の前でこれほどまでに泣き崩れる駿大の姿を見ていると、なぜか胸の奥がチクリと痛み、不思議と突き放すことができなくなっていた。「凛……やっと、やっと見つけた……」駿大の太い腕が、葵の背中を壊れ物でも扱うように強く、けれど優しく抱きしめる。まぁ、あの女が不幸になってるならそれでいっか。葵は内心で盛大に嘲笑いながらも、とりあえず彼を落ち着かせるために、ぽんぽんと子供をあやすように広い背中を叩いてやった。葵の首筋に、駿大の顔が埋もれる。彼の熱い涙と、微かなアルコールの香りが葵の肌に直接触れた。テレビや経済誌の表紙でしか見たことのない、あの手の届かない雲の上の存在。それが今、こんなにも生々しい熱を持って自分の腕の中にいて、しかもガラス細工のように脆
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第149話

駿大は暗く熱を帯びた瞳で葵を見つめると、ゆっくりと顔を寄せ、その甘く開かれた唇を直接塞いだ。――ぷつん、と。その瞬間、葵の脳内で何かが完全に焼き切れた。あーもう!凛のことなんか知るか!推しに抱かれるなら本望だわ!!葵はためらいを完全に捨て去った。自分から駿大の広い背中に腕を回し、彼をさらに深く引き寄せるように、熱烈なキスを返し始める。アルコールの甘い香りと、熱く火照った汗が交じり合う。理性を完全に手放した二人は、そのまま深い夜の底へと溺れていった。--翌朝。ホテルの分厚い遮光カーテンの隙間から、うっすらと朝日が差し込んでいた。駿大は、鈍い頭痛と共に目を覚ました。ここ数日で、数時間でも泥のように眠れたのはこれが初めてだった。彼は半ば無意識に、ベッドサイドのナイトテーブルへ手を伸ばし、いつものように眼鏡を探る。しかし、手に触れたのは見知らぬシーツの感触だけだった。……ここは、俺の部屋じゃない。駿大はハッとして目を見開いた。視界に飛び込んできたのは、ひどく乱れたベッドシーツと、床に無造作に放り出された自分のワイシャツ。そして、部屋の空気に微かに残る、甘く魅惑的な香水の匂い。その瞬間、昨夜の記憶の断片が、フラッシュバックのように彼の脳内を駆け巡った。……あの女は、誰だ!?一方その頃、葵はすでにタクシーの窓から流れる朝の景色を眺めていた。あーよかった!あの人が起きる前に逃げ出せて大正解!彼女の頭の中は、今更ながらの興奮と達成感で満たされていた。『推し』と一夜を共にしたのだ。しかも、テレビ越しに見ていた以上に素晴らしい筋肉質な肉体、文句なしのテクニック、そしてあの圧倒的な『サイズ感』。完全に人生のボーナスステージ、大勝利である。だが、これ以上彼と関わる気は毛頭ない。何しろ自分は実花の親友であり、実花を苦しめる『高城凛』の味方である彼とは、根本的に敵対する運命にあるのだ。こればかりは絶対に譲れない。昨夜のことは、墓場まで持っていく。これで終わり!葵は、スマホの電源を入れながら、きっぱりと心に誓った。……「昨夜、俺の部屋に泊まった女の名前を教えろ。チェックインの記録があるはずだ」ズキズキと痛むこめかみを押さえながら、駿大はホテルのフロントへ電話をかけていた。「申し訳ございませ
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第150話

「このペンダントを拾った時、周囲に誰か不審な人間はいませんでしたか?あるいは、何か変わった出来事は?」駿大は、今にも爆発しそうな焦燥感を必死に押さえ込み、できる限り平坦な声で尋ねた。「いやぁ……特に何も。俺が家を出たのは朝の五時か六時くらいで、まだ誰の姿もなかったからねぇ」初老の男は、のんびりとした口調で記憶を辿る。……やはり、そう都合よくはいかないか。駿大は内心で深い落胆を覚えたが、それも想定の範囲内だった。二十年も前の話だ、無理もない。その時だった。傍らで茶を淹れていた男の妻が、ふと思い出したように口を挟んだ。「おじいさん、アンタ忘れちゃったの?あの日の朝、近所の人が『ゴミ捨て場に女の子が捨てられてた』って大騒ぎしてたじゃないさ」「……何だって!?女の子だと!?」駿大が弾かれたように顔を上げ、すさまじい剣幕で身を乗り出した。その鋭い眼光に、夫婦はビクッと肩を震わせる。「あ、ああ、そういやそうだった!」男がポンと膝を打った。「あの時は町内でもちょっとした奇聞(きぶん)になってな。ゴミの山の中から女の子が見つかったんだが、その子、泣きもせずにすんごく大人しかったって……」「その子は……!」駿大の低い声が、わずかに震えていた。「その子は、どこへ行ったんですか?……生きて、いたんですか?」「そりゃあ、生きてたから交番に連れて行かれたんだろ。みんな、どこかの家の子が迷子になったんだって噂してたよ」その言葉を聞いた瞬間、駿大は己の愚かさを呪った。これまで彼は、妹が巻き込まれたであろう「ゴミ収集車のルート」や「最終処分場」ばかりを狂ったように調べ続けていたのだ。そこで何か証拠の欠片でも見つかればと執着するあまり、こんなにも身近な可能性に気づけなかった。警察の保護記録を調べれば、すぐに分かることじゃないか――!駿大の胸の奥で、消えかけていた希望の炎が再び勢いよく燃え上がった。まだ間に合う。今度こそ、必ず見つけ出してみせる……!海浜市において、篠宮グループに次ぐ絶大な影響力を持つ高城家。その当主である駿大が人脈と優秀な弁護士チームをフル稼働させると、二十年前の古い警察の調書は、驚くべきスピードで発掘された。そこには、こう記されていた。――二十年前の十一月二十日。早朝にゴミ出しに来た
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