All Chapters of 凍える愛の終焉に ―さよなら、偽りのマリアージュ―: Chapter 201 - Chapter 210

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第201話

「……あ?」「……っ、承知いたしました」殺される。本能的な恐怖に屈した山崎は、それ以上何も言えなかった。漆黒のベントレーは凄まじいスキール音を響かせてハイウェイを急旋回し、再び狂ったようなスピードでホテルへと引き返していった。湊がホテルに到着した時、支配人は滝のような冷や汗を流しながら監視カメラの映像を準備して待ち構えていた。「み、実花様は……2502号室に入られた後、一度も出ておられません!」映像には、実花が一人でカードキーを使い、ふらふらと2502号室へ入っていく姿が映っていた。一人で入室したため、監視室のスタッフも特に不審に思わなかったらしい。支配人は恐怖で歯の根が合わなかった。つい数時間前、湊に対して「警備は完璧です。絶対に何事も起きません!」と大見得を切ったばかりだったのだ。自分のホテルで実花に何かあれば、命はない。だが、今の湊にはこの無能な支配人を粛清している暇などなかった。ドォォンッ!!2502号室の分厚い扉が、湊の蹴り一発で蝶番ごと吹き飛んだ。だが、室内に飛び込んだ湊の目に飛び込んできたのは、彼を絶望の淵へと突き落とす光景だった。「……!」実花はドレスをはだけさせ、全身を情欲に染めた赤い顔で目を閉じていた。そして、ベッドの傍らに立つ男に向かって――自ら口付けを強請るように、震えながら顔を近づけていたのだ。湊の頭の中で、ブツンと何かが切れる音がした。次の瞬間、彼は獣のような速度で男に飛びかかると、その胸ぐらを掴み上げ、空気を引き裂くような拳を思い切り叩き込んだ。ゴッ!鈍い打撃音が響き、殴り飛ばされた夜行の顔が激しく横に弾かれた。彼の口角から、再びタラリと鮮血が滴り落ちる。「……冴島夜行」湊の声は、不気味なほど低く、平坦だった。だが、彼をよく知る者であれば、その声にどれほどの凄まじい殺意が込められているか痛いほど分かるはずだ。「貴様ら冴島家は……波前市ごと地図から消え去りたいらしいな?」冗談でも脅しでもない。完全な処刑宣告だった。だが、夜行は痛みにわずかに顔を顰めた後、目の前で地獄の業火を纏う湊の顔を見て――堪えきれないように低く笑い出した。「は……ははっ、あははははっ!」夜行は狂ったように笑い声を上げた。「そういうことか。お前が欲しがっていた
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第202話

だが、最高の暇つぶしになった。「また会おう、篠宮湊」夜行はククッと喉の奥で笑うと、部屋を取り囲む篠宮家の精鋭たちを一瞥もせず、まるで誰もいない散歩道を歩くように堂々と歩き出した。反射的に立ち塞がろうとしたボディガードが、夜行が流し目で睨みつけた瞬間、その底知れぬ狂気の眼光に金縛りに遭ったように足を止める。「……行かせろ」湊が低く冷徹な声で命じた。先ほど到着した際、ホテルの周囲には完全武装した冴島家の車列が待機しているのを確認済みだった。ここで無理に夜行とやり合えば、間違いなく双方に甚大な被害が出る。下の階ではお披露目パーティーが続いている今、大立ち回りを演じるわけにはいかなかった。「お前らも、全員ここから出ろ」湊の声は、周囲の空気を凍りつかせるほどに冷ややかだった。こんな姿……絶対に誰にも見せるものか。熱に浮かされ、甘い声で泣き濡れる実花。半分はだけたドレスから覗く白い肌。狂おしいほどの独占欲が湊を支配し、他の男の視線など一秒たりとも浴びせたくなかったのだ。黒服たちが慌てて部屋から退室していく中、最後に残った山崎だけが、ドアの隙間から恐る恐る口を開いた。「当主……実花様はかなり強い薬を盛られているようです。至急、専属の医師を呼びましょうか?」「……あぁ」湊は実花をきつく抱きしめたまま、喉の奥から獣のような低い声で短く応じた。ドアが完全に閉ざされた瞬間、湊の腕の中にいた実花の動きが、さらに焦燥を帯びて激しくなった。薬の熱で潤んだ赤い瞳が、すがるように湊を見つめる。ふっくらとした桜色の唇が不満げに尖り、理性を失った彼女は本能のままに顔を上向け、湊に口付けをねだるような仕草を見せた。湊の喉仏が、ゴクリと上下に動く。彼はたまらず、バッと顔を背けた。「……苦しいの……ここ、触って」実花が泣きじゃくるような震える声で哀願する。耐え難い熱に急かされるように、彼女は自ら湊の冷たい手を取り、自分の熱い肌へと押し当てようとした。「熱いの……おかしくなりそう……お願い、早く触ってよぉ……っ」その甘ったるい声を聞いた瞬間、湊の思考は、不可抗力で二十年前の記憶へと引き戻された。――あれは、実花がまだ五歳の頃だ。酷い水疱瘡にかかり、かさぶたが治りかけの時期、実花は全身を掻きむしりたくなるほどの痒みに
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第203話

湊は、生涯最大の自制心を総動員して、最後に一つだけ意地悪な探りを入れた。「……じゃあ、お前の夫は?もし今日ここにいるのがあいつだったら、お前はあいつに抱かれたか?」「……夫?」実花の顔に、一瞬だけぽかんとした迷いが浮かんだ。だが、すぐに湊がまた自分を突き放すのではないかと焦ったように、必死に首を横に振った。「私に、夫なんていない……わたし、独身だもん……っ」その言葉を聞いた瞬間だった。湊の脳内で、無数の絢爛な花火が一斉に爆発した。ギリギリのところで繋ぎ止めていた理性の糸が、音を立てて完全に弾け飛ぶ。彼はもう一秒たりとも我慢することなく、実花の甘い唇へと深く覆い被さった。「んんっ……あ……」実花の口から、満足げな熱い吐息が漏れる。火照りきった全身が、まるで真夏の冷たい泉に浸かったように、心地よい清涼感と快楽に包まれていった。――それから、二時間後。VIPスイートルームのドアの前では、篠宮家専属の医師がすでに一時間以上も息を殺して待機させられていた。深夜、ベッドの中から緊急の呼び出しを受けた時は、てっきり当主に命に関わるような一大事が起きたのだと青ざめて飛んできたというのに。蓋を開けてみれば、薄暗い廊下で側近の山崎と向かい合い、ひたすら気まずい沈黙の中で立ち尽くす羽目になっていた。だが、扉の向こうにいる絶対的な主の行動に、文句を言える者などこの世に存在するはずがない。医師は大人しく医療バッグを握りしめ、忠犬のように呼ばれるのを待つしかなかった。ガチャリ。ついに、重厚な扉が開かれた。ダークネイビーのシルクのガウンを無造作に羽織った湊が姿を現す。「入れ。薬の残効がないか、念のため診ておけ」その声は、明らかに情事を終えた直後の、ひどく掠れた色気を帯びていた。室内に足を踏み入れると、濃厚で甘い事後の匂いがむせ返るほどに充満していた。山崎も医師も、決して余計な場所へは視線を向けず、床だけを見て真っ直ぐに進む。実花は、ふかふかの巨大なベッドの海で、すでに泥のように深く眠っていた。首から下は分厚い掛け布団で隙間なくぐるぐると包み込まれており、医師が脈拍などのバイタルを確認できるよう、透き通るような白い腕だけがちょこんと外に出されている。湊はベッドの傍らに立ち、静かな寝息を立てる実花の愛らし
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第204話

「ああ」湊は踵を返し、立ち去る前にもう一度だけ、実花が眠る部屋の方向へ視線を向けた。「わたし、独身だもん」……か。あの小悪魔のような女が、自分をその気にさせるためにあんな見え透いた嘘をついたのかと思うと、呆れると同時にたまらなく愛おしかった。湊はまだ、実花が和真と正式に離婚したことを知らない。だからこそ、自分が瀬戸和真という夫がいる人妻を抱いてしまったのだと自嘲した。俺も俺だ。結局理性を保てずに、一線を越えてしまうとはな。だが――一度自分のものにしたからには、もう絶対に後戻りする気はなかった。相手が誰であろうと、強引にでも奪い取ってやる。「……そういえば、瀬戸和真の動きは?」実花の「夫」を思い出し、湊の声にドス黒い殺気が混じる。すると山崎は、ひどく気まずそうな顔をして湊の耳元へ顔を寄せた。「実は……先ほど支配人が監視カメラを確認した際、瀬戸和真が高城凛と共に、別の客室へ入っていくのが映っておりました」「……ッ」湊は鼻で冷たく笑った。「ゴミはどこまで行ってもゴミだな。正真正銘のクズだ」たとえ自分が実花を奪うつもりだとしても、実花の尊厳がこれほどまでに下劣な男に踏みにじられることだけは絶対に許せなかった。実花は、この世の誰よりも大切に愛されるべき存在なのだ。「今後、瀬戸和真が実花に一切近づけないよう、鈴木に徹底させろ」昨夜、彼女を抱いた。もう遠慮などするつもりはない。実花は、俺の女だ。---数時間後、実花は重い瞼をこじ開けた。全身が、まるで巨大な岩で何度も轢かれたかのようにひどく痛む。おまけに頭は割れそうにガンガンと鳴っていた。ぼんやりする頭で、昨夜の断片的な記憶を必死に手繰り寄せる。思い出した。冴島夜行だ。あいつは確かに、お母さんのことを口にした。母の死の真相。その手がかりが、ようやく見え始めたのだ。夜行は間違いなく、真実へ至るための突破口になる。だが、それと同時に、背筋が粟立つようなおぞましい感覚も蘇ってきた。薬で朦朧とする中、夜行の手が肌を這った時の、あのねっとりとした吐き気のする感触。意識を手放すまいと、必死に唇を噛み破るほど耐えていた自分の姿。あの後、夜行はどうやって姿を消したんだったか。そうだ。彼が来たんだ。湊が。湊の纏う、冷たくて鋭いあの
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第205話

なんだ。あいつも本当は、離婚したことをずっと後悔してたんじゃないか。ただプライドが高くて素直になれず、自分から折れるきっかけが欲しかっただけなんだな。和真の脳内で、事態は彼にとって最高に都合の良い形へと変換されていく。まあいい。少し頭を冷やす時間を与えてやろう。落ち着いた頃合いを見て、今までのすれ違いを優しく解きほぐして「これからはお前だけを愛する」と約束してやれば、あいつも感激して僕の胸に飛び込んでくるはずだ。頭の中で完璧なシナリオを完成させ、一人で勝手に自己完結した和真は、ようやく本来の目的に思考を切り替えた。そういえば、昨夜のドサクサで凛の奴をすっかり忘れていたな……あの混乱に乗じて、どこかへ逃げ出したのだろうか。駿大から「凛を捕まえておけ」と念を押されていたのに、肝心なところで元妻の色香に迷い、すっぽかしてしまった。和真はほんの少しだけバツの悪さを覚えた。だが、彼はすぐに堂々と開き直った。仕方ないじゃないか。いくらなんでも、あんな風に元妻に迫られれば、男として理性が飛ぶのも無理はない。相手は自分の妻だった女なんだ、何の問題もないだろう。なんとも滑稽なことに、和真はこの期に及んで「昨夜、自分と一夜を共にした相手が凛だった」とは微塵も疑っていなかった。なぜなら、凛は妊娠しており、すでにお腹もふくらみ始めている。だが昨夜、彼が狂ったように貪った身体の腰つきは、驚くほど細く、そして柔らかかった。あれが凛であるはずがないのだ。まあいい。凛が冴島家に逃げ込んだことさえ分かっていれば、連れ戻すチャンスは今後いくらでもある。和真はシャツの襟を整えると、全身に満ち溢れるような万能感と満足感を漂わせながら、意気揚々と客室を後にした。上の階の客室。沙耶もまた、全身を軋ませるような痛みに苛まれながら目を覚ました。昨夜、無理やり飲まされた薬の効き目が強すぎたのか、記憶は所々抜け落ちている。微かに覚えているのは、冴島夜行に薬を飲まされ、パニックに陥りながら誰もいない部屋へ逃げ込んだことくらいだ。そこから先の意識は、深い泥の中に沈んだように曖昧だった。だが、記憶が途切れているからといって、自分の身に「何が起きたか」分からないほど子供ではない。肌に生々しく刻まれた無数の青あざが、昨夜の情事がいかに激しいものだったかを物語っている。床に
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第206話

彼女は画面を見つめたまま、口角を吊り上げた。友人たちからの「婚約者」という言葉を、あえて否定する気など毛頭なかった。【彼が乗ったエレベーター、階数表示を見たらスイートルームのフロアだったみたい】スイートルームのフロア!それはまさに自分がいる階ではないか。沙耶はスマートフォンを握りしめ、狂おしいほどの歓喜の渦に呑み込まれた。昨夜の男は、絶対に湊さんだったんだわ!考えれば考えるほど、全ての辻褄が合う。記憶の底にある、耳元で囁かれた低くて強引なあの声……間違いない、あれは彼だ。だとしたら、なぜ今まで湊さんははっきりと態度に示さなかったのかしら?……そうね、きっと私がいつも隙のない完璧な令嬢として振る舞っていたから、湊さんも手を出せずにいたのね。本当は、ずっと前から私を抱きたくて仕方なかったに違いないわ。都合の良い妄想は留まることを知らない。でも、なぜ彼が自分のピンチに気づけたのだろうか?ふと、沙耶は祖父が「あのホテルは最近、篠宮グループの傘下に入った」と話していたのを思い出した。そうよ、そういうことだわ!沙耶の瞳がギラギラと熱を帯びる。湊さんは常に自分の動向を気に掛けていて、ホテルでの出来事も全て把握していたのだ。だからこそ、私が危険だと知って、あんなにも血相を変えて駆けつけてくれたのだ。ああ、神様!沙耶は生まれて初めて、これほど強烈な「運命」と「幸運」を感じていた。やはり、本邸に戻ってきて正解だった。何もかもが自分の思い通りに進んでいる。昨夜、あの狂った冴島夜行から受けた屈辱を思い出し、沙耶の瞳に毒蛇のような暗い光が宿った。次に湊さんに会った時、甘くねだって復讐してもらおう。あの男を、二度と這い上がれないよう泥沼に沈めてもらうのだ。---一方、黒田本邸の自室に戻った実花は、逃げ込むようにベッドに潜り込むと、泥のように深い眠りに落ちていた。その頃、遠く離れたP国。飛行機を降りた湊は、休む間もなく現地の残存勢力を集結させていた。自ら祖父・守三の傍で指揮を執り、奪われた鉱山を取り戻すべく一斉に包囲網を狭めていく。冴島家の後ろ盾を失った大伯父の建三には、もはや対抗するだけの資源はない。鉱山の奪還は時間の問題だった。今回建三を捕らえれば、二度と陽の目を見られないよう完全に幽閉してやる。血の繋がった大伯父とはい
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第207話

今の彼女を支えているのは、亡き母の死の真相を突き止めること。そして、自分が心から愛する美術修復やアートの仕事に打ち込むことだけ。それは、目に見えて確かなものだ。愛情のように、ある日突然裏切って消えてしまうようなことはない。逃げていると言われようが、臆病だと言われようが構わない。もし、彼が別の女性と結婚することになったら、その時は静かに身を引くだけだ。決して彼にすがりついたり、邪魔をしたりはしない。それまでは、今のままでいい。実花はスマートフォンを伏せ、再び深い眠りへと沈んでいった。---「征二郎様。もっと早くにご挨拶に伺うべきでした。誠に申し訳ありません」和真が黒田本邸を訪れたのは、ある日の早朝のことだった。元々、瀬戸家と黒田家は私的な交流がほとんどなく、ビジネスにおいても協力関係より競合することの方が圧倒的に多かった。近年は、瀬戸家と高城家が手を組んで黒田家を牽制するような構図が続いていたため、当主である征二郎は、和真が自分から頭を下げてやってくるとは夢にも思っていなかった。「追い返せ」来訪者の名前を聞いた時の、征二郎の第一声がそれだった。瀬戸家と高城家には、これまで黒田のビジネスの旨味を何度となく横取りされてきたのだ。いい顔などできるはずがない。どうせ実花目当てだろうが……ふんっ。以前なら、実花が愛した男だということで、渋々ながら孫婿として認めてやるつもりだった。しかし先日、実花自身の口から「すでに離婚した」と聞かされている。赤の他人になった「元夫」に、わざわざ愛想を振りまく義理などどこにあるだろうか。ところが、和真の面の皮の厚さは征二郎の想像を遥かに超えていた。初日で追い返されたにもかかわらず、翌日も、そのまた翌日も、朝一番にやって来ては昼まで粘るという嫌がらせのような訪問を三日連続で繰り返したのだ。いくら敵対関係に近いとはいえ、大企業の若きトップを毎日門前払いにするのは、外聞が悪すぎる。根負けした征二郎が、三日目にしてようやく和真を屋敷に上げることを許した結果――和真は今、いけしゃあしゃあと上座の征二郎に向かって頭を下げているのだった。顔を上げた和真は、深みのあるチャコールグレーのオーダーメイドスーツをビシッと着こなしていた。ここ数日、何かよほど良いことでもあったのか、その眉間からは
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第208話

しかし、和真は怒鳴られても全く動じず、ひどく真剣な表情を作った。「征二郎様、どうか信じてください。僕の気持ちは本物です。これまでは確かに実花を蔑ろにしてしまいましたが、これからは必ず彼女を幸せにすると誓います。それに……」和真の口角が、無意識のうちに緩んだ。その顔には、隠しきれない幸福感と優越感が滲み出ている。「僕には分かるんです。実花の心の中には、まだ間違いなく僕がいると」あの夜……実花は僕にすがりついてきたじゃないか。和真の脳裏に、数日前のホテルの夜の光景が鮮明にフラッシュバックする。これまで見たこともないような熱情で僕を求め、艶めかしい背中を弓ならせ、甘くかすれた声で僕の名前を何度も呼んでいた。彼女は僕をきつく抱きしめ、片時も離れようとしなかった。まるで、僕が彼女にとっての唯一の救いであるかのように。あんなにも僕を感じていた実花が、僕を本当に嫌いになれるはずがない。今回は、よほど深く傷ついて意地を張っているだけだ。自分が悪かったことは素直に認めて、これからはたっぷりと愛情を注いでやれば、彼女は必ず僕の元へ戻ってくる。和真は一人、幸せな妄想の海にどっぷりと浸かりきっていた。和真の狂気じみた真剣な表情を見て、征二郎は「どうやら嘘をついているようには見えないな」と、少しだけ心を動かされた。女というものは、一度結婚すればそう簡単には情を断ち切れないものだ。もし和真の言う通り、実花の方にもまだ未練があるのなら、私が口出しして邪魔をするのは野暮というものか。ただ、実花には黒田家を本当の実家として頼ってほしい。次に泣かされるようなことがあれば、その時は黒田家が全力で後ろ盾になって叩き潰してやる。それだけだ。「実花は、今日ご在宅でしょうか?」ひとしきり白々しい世間話をした後、和真がようやく本題を切り出した。「瀬戸社長の『奥様』なのだろう?ならば、ご自分で直接お聞きになればよろしい」征二郎は冷淡に突き返した。和真は言葉に詰まった。まさか、とうの昔に実花から連絡先をブロックされているなんて言えるわけがない。彼が黙ったのを見て、征二郎はすかさず帰れと促した。「そろそろ時間だ。私はこれから家族と朝食をとるゆえ、瀬戸社長はお引き取り願おう」「家族と……?」和真の頭が、ここに来てようやく冴え渡った。家
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第209話

「実花、どうして食べないんだ?」実花が自分の取り分けたおかずに一切手をつけないのを見て、和真は甘い声で尋ねた。「どれも君の好物ばかりだろう?以前うちで暮らしていた時も、僕が家にいる時はいつも君が早起きして、こういう料理を作ってくれていたじゃないか」実花は目の前の料理を見下ろし、嘲るように唇の端を歪めた。それはあなたの好物よ、和真。私のじゃない。かつての自分はどれだけ愚かだったのだろう。生活のすべてがこの男を中心に回っていて、毎日の料理の味付けまで、すべて彼の好みに合わせていたのだ。だが、征二郎や沙耶の前で声を荒らげて空気を悪くする気にもなれず、実花は冷たくあしらった。「もうお腹がいっぱいなの。食欲がないわ」それでも和真は食い下がった。「なら、ここ数日の予定はどう?実は僕の会社で新しいプロジェクトがあって、ぜひ黒田の企業と協力したいんだ。君にアドバイスをもらえないかな?」プロジェクトの協力だと?その言葉に、征二郎は少し驚いたように眉を上げた。和真が実花との縁を繋ぐために、相当な譲歩を用意してきたことがわかったからだ。「仕事の話なら専門のチームを通せばいいでしょう。私に聞いてどうするの。それに、私には予定があるから忙しいのよ」実花は冷酷なまでにピシャリと撥ね付けた。だが、これだけ冷たくあしらわれても、和真は不機嫌になるどころか、依然として甘く切なげな表情を崩さない。その様子を見ていた沙耶は、あまりの気味の悪さに絶句した。恋愛ボケって治るものじゃないのね。単に相手がすり替わっただけじゃない……その瞬間だけは、実花への憎悪よりも、和真へのドン引きの感情が勝ってしまった。「仕事なんてどうでもいい、君の意見が聞きたいだけなんだ。でも、忙しいなら君の都合がつくまで待つよ」和真はどこまでも情熱的だった。「これから出かけるんだろう?僕が車で送るよ」実花は心底うんざりしていた。同時に、激しい戸惑いも感じている。この男、中身が別の何かに乗っ取られたんじゃないの?あれほど「二度と関わらない」と冷たく切り捨てておきながら、たった数日でまるで別人のように粘着してくるなんて。……まさか、私が黒田家の正当な孫娘だと分かった途端、手のひらを返したとでも言うの?認めたくはないけれど、いっそ凛のところへ戻って、あの女と一
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第210話

発掘現場にいるのは、少しでも派手な振る舞いをすれば烈火の如く怒り出すような、気難しくて厳格な老学者ばかりなのだ。沙耶は、これみよがしに優越感を滲ませた声を上げた。「隣県の山奥って……もしかして、あの国家発掘調査のプロジェクトかしら?私も以前そこへ実習に行ったけれど、本当に学ぶことが多かったわ。もし不安があるなら、私が経験をシェアしてあげてもいいわよ?現場での細かいルールとか、色々と注意すべきことがあるから」実花がそんな大きなプロジェクトに関わっていると知った征二郎は、驚きつつも、どこか誇らしげな表情を浮かべた。「沙耶も、前回の実習ではよく頑張っていたからな。実花、分からないことがあれば沙耶に教えてもらうといい」征二郎にしてみれば、実花が現場で無知を晒して恥をかかないか心配だったのだ。無理もない。二十代前半の若い娘が、現場の技術顧問として国から正式に招かれているなど、誰が想像できるだろうか。さらに征二郎には、別の思惑もあった。沙耶が実花に強い対抗心を燃やし、時折姑息な手段を使っていることには気づいている。先日、実花から沙耶の悪事を裏付ける音声データを受け取って以来、征二郎は沙耶を遠回しに牽制してきた。最近の沙耶がおとなしくしているのを見て「沙耶も反省したのだろう」と都合よく解釈し、これを機に二人の関係が少しでも改善されれば、と期待したのだ。和真は、実花が「国家レベルの遺跡発掘プロジェクト」に向かうと聞いて、心配そうに口を挟んだ。「実花、そういう現場は過去の経験や専門的な実技が全てだぞ。それに、君は『絵を描く』のが専門だろう?絵を描く人間が発掘現場に行って、一体何の役に立つんだ?」……は?その無神経な一言は、和真が実花の専門分野について全くの無知であり、結婚していたにもかかわらず彼女自身に一切の関心を払ってこなかったことを、あまりにも残酷なまでに露呈していた。征二郎の顔が、一瞬にして墨のように黒く沈む。実花は呆れ果て、もはや和真の言葉など鼓膜を通過するだけの雑音として完全に無視した。それより、沙耶もあの現場に行っていたのね。実花はそちらに興味を引かれ、片方の眉を少しだけ上げて沙耶を見た。「へえ。それならぜひ聞かせてほしいわ。どんな経験をシェアしてくれるの?」沙耶は頭の中で素早く計算を巡らせた。経験を教える?
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