All Chapters of 凍える愛の終焉に ―さよなら、偽りのマリアージュ―: Chapter 191 - Chapter 200

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第191話

バンケットルームに足を踏み入れた瞬間、駿大はまたしても奇妙な既視感に襲われた。先に視線が引き寄せられたのは実花だった。息を呑むほど凛とした高貴なオーラから目が離せないと同時に、その目鼻立ちにどこか見覚えがあるような気がしたのだ。だが、隣にいる和真の衝撃はそんなものではなかった。完全に呆けたように実花を凝視している。これが本当に、自分の知っている実花なのか?和真の記憶にあるのは、いつも控えめで、大人しく、自己主張のない姿だった。しかし目の前に立つ実花は、圧倒的な気品と計算し尽くされたオートクチュールを身に纏い、一瞬、手が届かないほど高次元の存在に思えた。一方、駿大は自然な流れで実花の隣に立つ葵に視線を移し――信じられないというようにゴシゴシと自分の目を擦った。俺はあの女と会ったことなんて絶対にないはずだ。なのに、どうしてこんなに見覚えがあるんだ?思わず「どうかしてるぞ、俺は」と心の中で毒づく。脳神経外科か眼科にでも行った方がいいのかもしれない。そうでなければ、初めて見る人間たちに次々と既視感を覚える理由が説明できない。そんな男たちの反応など露知らず、実花は和真の姿を認めても、顔色一つ変えなかった。実花にとって、離婚した男などただの赤の他人に過ぎない。和真は足早に実花に近づき、その瞳に明らかな歓喜の色を浮かべた。「実花、どうして君がここにいるんだ?」自分をこの場に連れ出してくれた駿大に、内心で深く感謝する。だが、実花は氷のように冷たい目で見据え、静かな声で問い返した。「私がなぜここにいるのか、本気でわからないの?」実花は心の底から呆れ果てていた。実花の亡き母の名前は、黒田由紀子。世間の人間が知らないのは無理もない。だが、かつて夫だった和真すらその事実を知らないとは。当主である征二郎が送った招待状には、長年行方不明になっていた外孫を披露すること、そしてその孫は由紀子の娘であること、とはっきりと書かれているはずだ。それなのに、和真はかつての義母の名前すら、脳裏の片隅にも残っていなかったのだ。和真という男の底の浅さはとうに見限っていたつもりだったが、この男はいつも実花の予想を軽々と超え、最悪の形で新しい驚きを与えてくれる。和真は一瞬言葉に詰まった。実花の冷ややかな物言いの裏に、何か別の意味が隠されているのを感じ取り、
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第192話

――なっ……!?和真は脳天から雷を落とされたような衝撃を受け、その場に釘付けになった。両手は血が滲むほどギリギリと強く握り込まれ、壇上へと優雅に歩みを進める実花の背中を、ただ絶望的な思いで見つめることしかできない。「なるほど……実花さんが、黒田家の正当な孫娘だったとは」横に立つ駿大が、呆然と息を吐き出した。和真を哀れむようにちらりと見やる。ただでさえ絶望的だった復縁への道が、これで完全に手の届かない次元へと遠のいてしまったからだ。ちなみに駿大は、先ほど実花と葵を見て感じたあの奇妙な既視感など、すでに頭の隅から完全に締め出していた。黒田家と高城家はこれまでほとんど接点がなかったのだから、ただの気のせいに決まっていると自己完結したのだ。その後、征二郎が壇上で何を語っていたのか、和真の耳には一言も入ってこなかった。光り輝く輪の中心に立つ、あの気高く美しい姿。それだけが瞳に焼き付いて離れない。胸の奥が、焼け焦げるように酸っぱく、そして苦しく痛んだ。意識が真っ白に混濁する中、横からウェイターがスッとグラスを差し出してきた。和真はそれがピンク色のシャンパンであることにも、トレイの不自然な位置に置かれていたことにも、当然気づかない。無意識にそのグラスをひったくると、喉の渇きと胸の苦しさを誤魔化すように、一気に胃の奥へと流し込んだ。征二郎の挨拶が終わると、会場は一気に華やいだ空気に包まれた。多くの来賓が次々と征二郎の元へ祝福に訪れ、同時に、実花の周囲にも人が群がり始める。つい先ほどまでエントランスで実花を「貧乏くさい芋娘」と嘲笑っていた分家の令嬢や貴婦人たちまでもが、恥知らずにも媚びへつらうような笑みを浮かべてすり寄ってきていた。その時、バンケットルームの重厚な大扉が、外から乱暴に押し開けられた。一組の男女がゆっくりと会場へ足を踏み入れる。男の方は、どこか異国情緒を感じさせる彫りの深い顔立ちをしていた。だが、その整った眉目には、隠しきれない狂気と血生臭い空気がへばりついている。この海浜市で、その顔を見間違える者などいない。正真正銘の化け物、冴島夜行だ。そして彼に寄り添う女は、純白のドレスに身を包み、いかにもか弱そうな顔を作っていた。その顔立ちは、驚くことに、今しがた黒田家の直系として紹介されたばかりの実花と、どこか似た面影を持っている。
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第193話

「湊……ふん、お前も来ていたのか。やってくれるじゃないか」夜行は目を細め、蛇のようにねっとりとした声で笑った。二人の間でどんな血生臭い暗闘が繰り広げられているのか、周囲の人間には知る由もない。ただ、裏社会の化け物である夜行が、あの篠宮の当主を親しげに呼び捨てにしたことに肝を冷やしているだけだ。これ以上騒ぎが大きくなることはないと判断し、当主の征二郎は来賓たちに歓談を続けるよう促した。その隙に、湊は背後に控える側近の山崎を呼び寄せ、夜行の一挙手一投足を監視するよう低い声で命じた。一方、沙耶は露骨に湊へ付き纏うわけにもいかず、その場に留まっていた。すると、分家の令嬢たちが一斉に群がり、興奮気味に囁きかけてくる。「沙耶お姉様!篠宮様、絶対に沙耶お姉様をかばうためにわざわざ来てくださったんですよ!こりゃあ、おめでたい発表も近いんじゃないですか?」そのあからさまなヨイショに、沙耶は恥じらうように俯いてみせたが、その瞳には隠しきれない優越感と歓喜がドロドロと渦巻いていた。同じ頃。夜行から適当に隙を見つけろと放置された凛は、事前に買収しておいたウェイターが動くのを今か今かと待ち構えていた。だが、征二郎の口から告げられた直系の孫娘が実花であると知った瞬間から、凄まじい嫉妬の炎が凛の理性を完全に焼き尽くしていた。指先が白くなるほどドレスの生地を握りしめ、手のひらに爪が深く食い込んでも痛みすら感じない。凛は、実花の顔を呪うように睨みつけていた。なんで……どうして、あんな女ばかりが全てを手に入れるのよ!和真の妻という立場、黒田家の圧倒的な権力、そしてあの息を呑むほど美しい極上のオートクチュール……!自分と似たような顔立ちをしているのに、どうして実花だけが光り輝く場所に立ち、自分はこんな泥沼を這いつくばらなければならないのか。どす黒い憎悪が、凛の心をどろどろに腐らせていく。嫉妬と憎悪で頭がおかしくなりそうだった。高城家で過ごした十数年間。あそこでの生活は全てが思い通りだった。欲しいものは全て手に入り、お姫様のように尊ばれ、他人の人生を羨むことなど一度もなかった。常に周囲から羨望の眼差しを向けられる側だったのだ。他人にここまでドス黒い嫉妬を抱いたのは、これまでの人生でたった二回だけ。一回目は、今この瞬間。そしてもう一回は――二十
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第194話

自分が偽物だと暴き、容赦なく切り捨てた駿大のことも今の凛は激しく恨んでいる。そんな彼女にとって、これはこれ以上ない最高に痛快な復讐だった。凛は実花の腕から手を離すと、発狂して乱れた髪を指先で優雅に整え直した。そして、実に意味深な笑みを浮かべて言い放つ。「そういえば、まだお祝いを言っていなかったわね。……ご自分の『本当の家族』が見つかって、本当におめでとう」はぁ……? 一体何なの?実花は心底嫌悪して眉をひそめた。これ以上、こんな狂人と関わり合うつもりはない。どこで何を経験してきたのか知らないが、凛の頭は完全にいかれている。それに、自分が直系の孫娘ではないと疑われたところで、何一つ怖いものなどない。自分が由紀子の養女であるという事実は、征二郎自身が承知の上なのだから。その時、大股で足早に駆けつけてきたのは和真だった。少し離れた場所で元カノに絡まれて身動きが取れない駿大から、「あの女を逃さないよう先に捕まえておけ」と視線で合図を送られたのだ。和真は、凛が実花に突っかかっているのを見るや否や、心の奥底に封じ込めていたどす黒い怒りを一気に爆発させた。大勢の客がいるこの場で、派手な騒ぎを起こすわけにはいかない。和真は無言のまま、骨が軋むほどの恐ろしい力で凛の手首をきつく掴み上げた。「ああっ、痛い……!」凛はか弱く可憐な声で悲鳴を上げたが、和真はもはやそんな三文芝居に騙されるほど愚かではない。凛がよろめいて転びそうになろうがお構いなしに、実花から引き剥がすように乱暴に引っ張った。そして実花の方を振り返ると、先ほどまでの暴君のような顔を消し去り、信じられないほど甘く優しい声を出した。「……実花、怪我はないかい?」そう口にした途端、和真の脳天を再び強烈な眩暈が襲った。それと同時に、下腹部の奥底から、理性を焼き尽くすようなドロドロとした熱い邪火がメラメラと這い上がってくるのを感じる。一体、何の茶番よ。実花は氷のように冷めた目で、目の前の光景を眺めていた。やはりこの二人はお似合いだ。どっちも頭のネジが外れている。そういえば以前、和真が「凛はずっと探し求めていた思い出の少女ではなかった」と打ち明けてきたことがあった。どうやらそのせいで、この二人の間には決定的な亀裂が入ったらしい。ふん……自業自得ね。実花は心の中
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第195話

湊はそのまま一歩踏み込み、実花の体を背後の冷たい大理石の洗面台と自分の胸の間にすっぽりと閉じ込める。逃げ場のない完璧な包囲だ。「実花……」低くかすれた声が、甘く耳を撫でる。湊は飢えたように実花を見つめると、そのまま実花の華奢な首筋に深く顔を埋め、ふんわりと香る匂いをいっぱいに吸い込んだ。それだけで、ここ数日の死線を潜り抜けてきた極限の疲労が嘘のように消え去っていく。今夜の実花は、正気を失いそうになるほど恐ろしく美しかった。「今夜から、P国へ飛ぶ。一ヶ月は戻れない」首筋に顔をうずめたまま、湊が低く囁く。危険な地へ出立つ前に、どうしても少しだけ触れて、この目に焼き付けておきたかったのだ。己の命に代えても守り抜きたい女の姿を。湊の姿を見て、実花の胸には初め、ほのかな喜びが浮かんだ。しかし、宴会場で耳にした「沙耶との政略結婚」の噂が頭をよぎり、チクリと胸が痛む。実花は顔を伏せ、自分を閉じ込めている硬い胸板を押し返そうとした。だがその時。至近距離にいる湊から、彼特有の冷涼な香りに混じって、微かな血の匂いが漂ってくるのに実花は敏感に気がついた。実花はさっと顔色を変えた。「あなた……怪我をしてるの?」湊はわずかに目を瞬かせた。彼女の鋭さに驚きつつも、誤魔化そうとわざと口角を上げる。「してないよ。君の気のせいだ。……もしかして、俺のことを心配してくれてるのか?」懐にいる愛しい人をからかい、注意を逸らそうとする。だが、実花はそんな誤魔化しには乗らない。彼女は真剣な眼差しで湊を睨みつけ、焦った声を出した。「どこを怪我したの?見せて!」その必死な姿に、湊の心が甘く溶けそうになる。観念して口を開きかけた――その瞬間。彼の視界の端、廊下の曲がり角の影に、不自然な気配を捉えた。誰か、盗み聞きしている……!湊の瞳に、一瞬にして氷のような冷酷さが宿る。彼は実花にだけわかるように視線で合図を送ると、声のトーンを不自然なほど冷たく落とした。「黒田のお嬢さん。俺が怪我をしているかどうかは、あなたには関係のないことだ。今日のあなたの態度は少し馴れ馴れしすぎる。次はないと思え」湊の視線の合図を見て、実花もこれが「誰かに聞かせるための芝居」だと瞬時に理解した。だが、頭では分かっていても、沙耶との政略結婚の噂が脳裏にこびりつ
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第196話

宴会場の人目につかない片隅。実花はそっと窓を押し開け、細いすき間を作った。肌を刺すような冷たい夜風が吹き込み、熱を持っていた頭を少しだけ冷やしてくれる。視線を巡らせると、親友の葵はすっかりお祭り気分だ。豪華な料理と美酒に目を輝かせ、あちこちで写真を撮りまくっている。そんな彼女の無邪気な姿を、駿大が少し離れた場所から何度もチラチラと目で追っていることなど、本人は微塵も気づいていないだろう。だが、今の実花にはこのパーティーで果たすべき重要な目的があった。亡き養母――由紀子の過去に関する手がかりを見つけ出すことだ。小さく深呼吸をして気を取り直すと、実花はふたたび華やかな喧騒の中へ紛れ込んだ。気配を消し、すれ違う人々の会話にそっと耳を澄ませる。今夜の招待客の中には、間違いなく黒田家の過去を知る古参の者たちがいるはずなのだ。「ねえ、由紀子様のことだけど……」ふと、死角になったラウンジの隅から、着飾ったマダムたちのひそひそ話が耳に飛び込んできた。実花は足音を殺して近づき、豪奢な金屏風の裏側にそっと腰を下ろす。注意して見なければ、誰も彼女の存在に気づかない絶好の隠れ場所だった。「あの方の昔の醜聞なんて、もう誰も覚えていないでしょうに。まさか、あの娘が戻ってくるなんてね」「本当よね。あんな風に腰を露出したドレスを着て……きっと、母親のふしだらな血をしっかり受け継いでいるんじゃないかしら」ドレスの布地を握りしめる実花の手に、ギリッと力が入る。屈辱で爪が手のひらに食い込む。我慢よ……それでも、今は耐えなければならない。まだ一番重要な核心を聞き出せていないのだから。「あら、あのワインすごく美味しいわよ。あなたたちも飲んでみて」だが無情にも、マダムたちの興味はあっさりと酒の話題へ移ってしまった。違う、ワインの話なんてどうでもいい。もっとお母さんのことを……!焦りに胸を焼かれていると、不意に横からすっとグラスが差し出された。実花は誰が渡してくれたのかすら確認せず、それを受け取ると一気に煽った。喉の奥がカッと熱くなる。だが、その冷たいアルコールの刺激だけが、今にも爆発しそうな胸の焦燥感を、ほんの少しだけ麻痺させてくれた。「それで、昔一体何があったの?もっと詳しく教えてよ」一人のマダムが好奇心に勝てず、再
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第197話

マダムたちの顔色が一瞬にして、見事なまでに土気色に変わった。この小娘がここまで肝が据わっているとは思わなかったのだろう。なにより、黒田家の当主様――征二郎の名前を出されたことが致命的だった。由紀子の事件は、黒田家において絶対に触れてはならない逆鱗だ。あの一件以来、黒田家と冴島家は長年にわたって血で血を洗う対立を続けている。ここ海浜市において、絶対的権力を誇る黒田家を敵に回して生き残れる名家など、一つとして存在しない。「み、実花さん……!誤解よ、今のはただの噂話!真に受けないでちょうだい!」リーダー格のマダムが、引きつった愛想笑いを浮かべてすがりついてきた。「噂話かどうかは、お祖父様に聞いて確かめてみますから大丈夫ですよ」実花は、小首を傾げて無邪気な笑みを浮かべた。「西園寺夫人に、一条夫人、それに三井夫人……」わざとゆっくりと、一人一人の顔を見つめながらその名を口にする。「あなたたちの身元はすべて把握している」という明確なメッセージだった。「ひっ……!」マダムたちは絶望に顔を歪ませた。自分たちの不用意な発言のせいで、実家の企業が黒田家からどんな報復を受けるか想像したのだろう。彼女たちは逃げるように、蜘蛛の子を散らすようにその場から立ち去っていった。ふふっ、他愛ないわね。実花は冷ややかにその背中を見送った。実は、スマートフォンの録音アプリは起動すらしていない。ただのカマかけだった。だが、あの怯え方なら、彼女たちはこれから一ヶ月は生きた心地がせず、夜もろくに眠れないだろう。他人の陰口を叩いた代償としては十分な教育だ。戦いを終え、ふうっと息を吐き出した瞬間だった。……え?急に、視界がぐらりと揺れた。体の奥底から、尋常ではない熱が込み上げてくる。顔がカッと熱くなり、指先までが妙に火照っていた。さっきのワイン……いくらなんでも、度数が高すぎたの……?実花は熱い息を吐き出し、ふらつく足元を必死に踏みとどまろうと額を押さえた。だが、立っていることすら辛いほどの甘い倦怠感が、急速に全身を侵食していく。その時、すれ違いざまに誰かが耳元で囁いた。「随分と酔われているようですね。上の階の客室で、少しお休みになられては?」……そうね、上の階に……部屋を取ってあったはず……霞む思考の中で、実花はその甘い
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第198話

本当に、くだらない小細工だ。夜行は喉の奥で低く笑った。この低俗で吐き気のするような罠――二十年前、黒田家の人間が仕掛けてきた手口とまったく同じではないか。夜行は手元のカードキーを弄びながら、閉ざされた2502号室のドアを一度だけ振り返った。あの扉の向こうでは今頃、薬に火照らされた獲物が、無防備に甘い吐息を漏らしているはずだ。だが――夜行は部屋へは向かわず、ゆっくりと踵を返した。焦る必要はない。この退屈な茶番劇の続きを、もう少し下から見物させてもらおう。夜行は、獲物が自滅するのを待つ肉食獣のような笑みを浮かべたまま、余裕の足取りで下の宴会場へと戻っていった。化粧室で念入りにメイクを直し、上機嫌で廊下へ出た沙耶。その直後、背後から突然何者かに羽交い締めにされた。「……っ!?」悲鳴を上げる間もなかった。男の分厚い手が乱暴に口と鼻を塞ぎ、抵抗する隙も与えずに、横の非常階段へと力任せに引きずり込んだのだ。その動きはあまりにも鮮やかで、誰の目にも留まることはなかった。非常扉の奥に連れ込まれた沙耶は、コンクリートの壁に顔から激しく打ち付けられた。「痛っ……!」手入れの行き届いた柔らかな頬が、ザラザラとした壁で無残に擦り剥ける。だが、背後の男には微塵も容赦する気がないらしい。沙耶の体を壁に押し付けたまま、もう片方の手で彼女の体を無遠慮に探り始めた。あろうことか、その手はドレスのスリットから太ももの内側へと這い上がってくる。変質者!?私を誰だと思ってるのよ!屈辱と恐怖で怒り狂った沙耶は、塞がれていた口がわずかに自由になった隙に鋭く叫んだ。「離しなさいよっ!」だが、男の手は止まらない。沙耶は必死に頭を回転させた。背中に当たる男のジャケットの生地は、明らかに最高級のオーダーメイドだ。間違いなく、今日のパーティーの客の一人である。今は下手に刺激しないほうがいい……ここを抜け出しさえすれば、後で絶対にこの男を社会的に抹殺してやる!沙耶は声を甘く作り、必死に男を宥めようとした。「ねえ……今日のパーティーには、身分の高い方ばかりいらしているのよ?こんな所でこんな事をして、見つかったらあなたの立場が危ないわ。私のことが好きなんでしょ?だったら……別の場所で、ゆっくりお互いのことを知り合うのも悪くないと思わな
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第199話

だが――ベッドの傍らに立った夜行は、ただ静かに、冷え切った目で実花を見下ろしているだけだった。その手は彼女に触れようともしない。「……似ていないな。やはり、似ていない」暗闇に、氷のように冷たい呟きが溶ける。目の前で発情し、甘い吐息を漏らす絶世の美女。しかし、夜行の目に映る実花の体は、ただの「物」でしかなかった。部屋の隅にあるテーブルや、味気ないスタンドライトとなんら変わらない、ただの無機質な造形物。彼の狂気に満ちた瞳には、微塵の欲情すら宿っていなかった。突然聞こえた男の低い呟きに、実花の全身からどっと冷や汗が噴き出した。誰かいる……!?跳ね起きようとしたが、手足は泥のように重く、まったく力が入らない。それどころか、体の芯からは先程よりもさらに強い、焼け付くような熱が絶え間なく湧き上がってくる。これは、ただの悪酔いじゃない。私……薬を盛られたの!?実花は咄嗟に奥歯を強く噛み合わせ、自身の舌先を思い切り噛み破った。口内に鉄錆のような血の味が広がる。その鋭い痛みのおかげで、ドロドロに溶けかけていた理性がほんの少しだけ引き戻された。熱い息を吐きながら薄く目を開けると、ベッドの脇に背の高い男のシルエットが立っている。逆光になっていて顔はよく見えない。だが、得体の知れない危険な空気を纏っていることだけは確かだった。実花は表情を作ったまま、布団の下で震える指を動かした。手探りでスマートフォンを掴み、画面を見ないまま、指先の感覚だけを頼りに通話ボタンを押し込む。プルー……プルー……極めて小さなコール音が鳴った。よかった、発信できた……!「あ、あなた……誰なの!?」その微小なコール音を掻き消すため、実花はあえて声を張り上げた。強がって上体を少し起こし、鋭く睨みつける。「私のお祖父様が……黒田征二郎だと知っての狼藉!? 今すぐ出て行きなさい!」黒田家の絶対的権力を盾にした、精一杯の威嚇だった。自分ではドスを効かせたつもりだったが、薬に侵され熱を持った喉から漏れ出たのは、ひどく甘ったるく、媚びるように掠れた嬌声だった。男はピクリとも動かない。実花は焦りを押し殺し、すぐさま交渉へと切り替えた。「お金が目的なら……望み通りの額を払うわ。他のことでもいい。あなたが言うなら、なんだって手配して
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第200話

狂ってる……!実花は心の中で毒づいた。条件交渉も脅し文句も通用しなかったわけだ。こんな狂人に、まともな理屈が通じるはずがない。だが――「由紀子」という単語を聞いた瞬間、実花はどうしても黙っていられなかった。「お母さんに何があったの!?あなたとどういう関係があるっていうのよ!」夜行は血の滲む唇を歪め、からかうように笑った。「知りたいか?なら、俺にキスしろ」「ふざけないでっ!」実花は憎悪に満ちた目で夜行を睨みつけた。「あなたが言わなくても、自分の力で絶対に突き止めてみせるわ。いつか必ず、本当のことを……!」「真実だと?」夜行は馬鹿馬鹿しいと言わんばかりに鼻で笑った。「冴島家と黒田家が総力を挙げて口封じをした一件だ。お前ごときが、欠片でも調べられると思っているのか?」その言葉に、実花の心臓がドクンと重く鳴った。……悔しいが、この男の言う通りだ。黒田家の情報統制は完璧で、自力ではいくら調べても無駄だった。「どうする?今日を逃せば、一生真実を知ることはできないぞ。次に知りたいと泣きついてきても、こんな簡単な条件じゃ済まさない」夜行は獲物を追い詰める捕食者のように、ゆったりとした仕草で自身の額を指差した。「ここだ。ここにキスをしたら、少しだけ教えてやる」実花は、目の前の男を殺意すら滲む目で睨みつけた。だが、その心の中では必死に自分自身を言い聞かせていた。いいじゃない。道端の野良犬に口付けするようなものよ。減るもんじゃないわ……!大きく深呼吸をして、胃の底から込み上げる吐き気を必死に抑え込む。実花はゆっくりと目を閉じ、震える体を持ち上げて、男の額へと少しずつ顔を近づけていった。その少し前のこと。漆黒のベントレーが、海浜市のVIP専用プライベート空港へ向かって夜のハイウェイを疾走していた。「あぁ、分かっている。すぐに人員を増員しろ! ホテルのリソースはすべてお前たちに一任する。絶対に探し出せ!」ハンドルを握る山崎は、インカム越しに声を殺して指示を飛ばしていた。後部座席の湊には、彼の焦燥しきった表情は見えないはずだ。通話を切った山崎は深く深呼吸をして、表情筋を無理やり平常時のものに作り変える。そしてルームミラーをちらりと覗き込み、極めて冷静な声で後部座席の主へ報告した。「当主様。あ
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