凍える愛の終焉に ―さよなら、偽りのマリアージュ―의 모든 챕터: 챕터 51 - 챕터 60

100 챕터

第51話

バックライトが灯り、画面には『Lonely Me』というタイトルの作品が表示される。征二郎の視線が、その画面に釘付けになった。最初は気軽な気持ちで覗き込んでいた様子だったが、すぐに表情から余裕が消える。傍らに茶碗を置き、無意識に身を乗り出すと、その眼差しは次第に鋭く、深く沈んでいった。食卓を、数秒の静寂が支配する。「……見事だ」征二郎が低く呟いた。顔を上げたその瞳には、隠しきれない賞賛の光が宿っている。「実に見事な画だ」彼は画面の一箇所を指差し、いつになく重みのある口調で言った。「この明暗の対比(コントラスト)は実に巧みだ。これほど自在に色を操るには、相応の歳月をかけた鍛錬が必要なはず。失礼ながら、君のような若さで辿り着ける境地ではない」そう言って、征二郎は「全く、底知れぬ才を持った若者がいたものだな」と感慨深げに息を吐いた。実花はただ、「ありがとうございます」と静かに会釈を返した。それが七年も前の……今に比べればまだ技術が未熟だった頃の作品であることは、あえて口には出さなかった。征二郎はスマートフォンを向かい側の湊の方へ向けると、楽しげに笑いかけた。「湊くん、君も見ておきなさい」画面が湊の瞳に映った瞬間、彼の呼吸がわずかに止まった。キャンバスから溢れ出す圧倒的な『孤独』。それは、湊が心の奥底に封印し続けてきた、ある古い記憶の断片に酷似していた。胸の奥を、何かで不意に突かれたような衝撃。彼はそれ以上直視することができず、視線を逸らすと、絞り出すような声で一言だけ告げた。「……素晴らしい画ですね」二人の間に流れる微妙な空気を察してか、征二郎はそれ以上深追いせず、朗らかに声を上げた。「さあ、まずは食事にしよう。このスープは裏方が七、八時間もかけて煮込んだものでね、今がちょうど最高の火加減だ。実花さん、遠慮せずたくさん飲みなさい」宴席も終盤に差し掛かった頃、少し疲れを覚えた征二郎は先に自室へ戻ることになり、実花を玄関まで見送るよう湊に言い残した。二人は前後して客間を出て、静寂に包まれた夜の庭園へと足を踏み入れた。青白い月光が水面のごとく降り注ぎ、ししおどしから溢れるかすかな水音が、かえって夜の静けさを際立たせている。「征二郎様は、ずいぶんと君を気に掛けている様子だったな」並んで歩きながら、湊が
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第52話

湊はその言葉に、射抜かれたような衝撃を受けた。衝動的に、実花の手首を掴む。彼女の肌はひんやりと冷たく、対照的に湊の掌は焼けるように熱かった。二人の距離が一気に縮まった。混じり合う互いの熱い吐息を感じるほど近く、実花の瞳には、湊の目に宿る複雑で深い情動が克明に映し出された。「あんな仕打ちをされても、あいつなら許せるのか」湊は顔を伏せ、その耳元に言葉を吹き込んだ。「俺が口にしたたった一言は、七年経っても許さないというのに。……実花、それほどまでにアイツを愛しているのか?」実花は全身を震わせ、そこから逃れようともがいたが、手首を掴む力はさらに強まった。湊が纏う冷徹な気配が夜風と混じり合い、実花の心を激しくかき乱す。今、彼女の意識の全ては、目の前の男と、手首から伝わる熱い拍動だけに占領されていた。再会してから、これほど間近で彼を見たのは初めてだった。七年前の面影を残しながらも、今の湊には成熟した大人の男が放つ特有の威圧感がある。そして、その顔立ちは今もなお、残酷なまでに美しく人を惹きつける。思えば二十年前、初めて出会った時から、実花はこの顔に簡単に心を奪われてしまったのだった。「かっこいいお兄ちゃん」と呼びながら、その後ろを無邪気に追いかけ回していた幼いあの日。実花は顔を背けた。早鐘を打つ鼓動を隠すように、精一杯の平静を装って声を絞り出す。「……篠宮さん、酔っていらっしゃるのね」だが、言葉にした瞬間に実花は心の中で毒づいた。今夜、席で供されたのは茶だけで、酒など一滴も口にしていない。湊は、その矛盾に気づかないふりをした。彼の親指が、実花の顎先をそっとなぞる。そこには有無を言わせぬ強引さと、その裏で今にも弾けそうなほど抑制された慈しみが同居していた。かつての『湊お兄ちゃん』からは想像もできない、男としての剥き出しの独占欲。実花は息を呑み、金縛りにあったようにただ彼を見つめることしかできなかった。その張り詰めた空気を切り裂くように、少し離れた場所から執事の声が響いた。「実花さん、お鞄をお忘れでございます」現実に引き戻された二人は、弾かれたように身を引き離した。実花は掴まれていた手首を隠すように一歩後ずさり、その頬は夜目にもわかるほど真っ赤に染まっている。湊もまた、いつもの冷淡な顔付きに戻ったが、その瞳の奥に渦巻
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第53話

審査員席の端に座る許斐美由(このみ みゆ)は、まるで何事も自分には無関係だと言わんばかりの涼しげな顔を保っていた。しかし、その胸の内には数日前の出来事が鮮明に刻まれている。黒田沙耶から直々に連絡があった日のことだ。当初、美由は沙耶が「点数の底上げ」を頼んできたのだと思っていた。業界の裏側では、そうした根回しは珍しいことではない。美由自身、恵まれない境遇から這い上がり、この審査員の椅子を掴み取るまでには、純粋な画才以外のもの――人脈作りや、規約の網の目を縫うような立ち回りも存分に利用してきた。だが、沙耶は若手の中でも既に名を成しており、ましてやあの黒田家の息がかかっているのだ。下策を弄さずとも、実力だけで容易に勝ち上がれるはずだった。そんな沙耶がわざわざ接触してきた真意。それは、ある一人の参加者を「確実に失格させること」だった。「それは、流石に骨が折れます。審査員は全部で六人もいる。もし本当に圧倒的な作品が出てきたら、私一人が無理に低くつけても目立つだけだし、最終的な結果は覆せません」美由は眉をひそめて難色を示した。対する沙耶は、余裕を漂わせたまま薄く笑った。「もし、技術以前に『審査すらできない状態』だとしたら、審査員はどう判断するかしら?」美由はすぐにその意図を察した。そして実行した。あらかじめ預かっていた本来の提出ファイルを、ゴミ同然の低解像度のノイズ画像へと差し替えたのだ。「応募者は、提出するデータの画質まで含めて責任を持つべきです」審査委員長の嘉乃は、重々しく、かつ冷徹な口調で断じた。「このような初歩的な管理もできない者に、コンクールに参加する資格があるとは思えません。作品に対する誠実さが欠けていると言わざるを得ないわ。……次へ進みましょう」議論はあっけなく幕を閉じた。『Lonely Me』、一次審査落選。会議は何事もなかったかのように進んでいく。プロジェクターの光が消えるその瞬間、美由の視線が一秒だけ止まった。この場にいる誰よりも先に、加工前の「真実の姿」を目にしていたのは、工作を行った美由自身だ。あれが並大抵のレベルではないことは分かっていた。構図、完成度、そしてあの年齢ならではの感性。プロの目から見ても、それは胸を突くほどに見事な作品だったのだ。運が悪かったわね……よりによって沙耶さんを敵に回す
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第54話

実花の指先が、ぴくりと震えた。画面が鮮明ではない?そんなはずはない。投稿した直後、送信されたデータが正常であるか、画質に問題はないか、彼女は念には念を入れてすべて再確認している。当時アップロードしたデータは、今もパソコンの中に保存されていた。そこに不備があったかどうかなど、確認すれば一目瞭然だった。実花:【考えがあるわ】返信を打ち込む。翔太:【考えって、どうするつもりだ?この手のリストは一度公表されたら、まず覆ることなんてあり得ないぞ】画面越しの翔太は、明らかに焦りきっている。実花:【落ち着いて。焦る気持ちはわかるけど、まずは深呼吸して】実花:【一つ、心当たりがあるの。まずはそれを試させて】実花はパソコンを開くと、あるフォルダを呼び出した。そこには、彼女が作品をアップロードした際の画面録画(キャプチャ)が保存されている。古画の修復という、一歩のミスも許されない緻密な仕事に従事する中で身についた「証拠を残す」という習慣。それは今回のコンクール応募においても同様だった。録画映像と関連ファイルを改めて精査するが、やはり不備などどこにもない。手元の元データを開けば、そこには鮮明で一点の曇りもない絵が浮かび上がる。背景に漂う繊細な霧のグラデーションまでもが、克明に描かれていた。実花はコンクール事務局へ、すべての証拠資料を添付した上で、再度の確認を求めるメールを送付した。その頃。コンクール事務局では、一人の技術スタッフがルーチンのデータバックアップ作業を行っていた。すると、手元のメールボックスに一通の通知が届く。実花からのメールだった。件名にある『システム技術照会の依頼』という文字を目にした途端、スタッフの背筋が伸びた。この規模の大会において、システムの不具合は運営の屋台骨を揺るがす死活問題だ。スタッフは真剣な面持ちで本文と添付資料を読み進めた。だが、読み終える頃には、その眉間に深い皺が刻まれていた。「……これはおかしいな」彼は即座にサーバーのバックドア・ログを呼び出した。メールに添付されていた録画映像を照らし合わせ、アップロードの時間、ファイル属性、ハッシュ値を一つずつ照合していく。調べれば調べるほど、スタッフの顔色は青ざめていった。十分後。彼はタブレットを手に席を立ち、隣のオフィスのドアを慌ただしくノックした。「白川さ
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第55話

インターン生は眉をひそめ、必死に記憶の糸をたぐり寄せた。数秒後、ハッと何かに気づいたように顔を上げる。「……思い出しました!その時間、私は自分の席にはいませんでした」「どこにいたの?」嘉乃が鋭く問い返す。「許斐先生に、コーヒーを買ってきてほしいと頼まれたんです」インターン生はすがるように説明した。「私、まだここに来たばかりですし、断りきれなくて……すぐに急いで一階のカフェに下りたんです」許斐先生。この審査委員の中に『許斐』という苗字の人物は、許斐美由ただ一人しかいない。嘉乃の眼差しが、氷のように鋭く冷たくなった。「それを裏付ける証拠はあるの?」「あります!これです!」インターン生は慌ててスマートフォンを取り出すと、画面を嘉乃の前に差し出した。「電子決済の注文履歴です。見てください、購入時間は三時十分になっています」嘉乃はインターン生の言葉に、ほぼ確信を得ていた。そのとき、傍らにいた技術スタッフがふと思いついたように尋ねた。「席を離れる際、パソコンの画面はロックしましたか?ログインしたままでしたか?」その言葉に、インターン生の顔色は一気に土気色へと変わった。「それは……」彼女は言葉を濁し、消え入りそうな声で白状した。「……はっきりとは覚えていません。でも、たぶん、そのままだったと思います」もともとおおらかな、悪く言えば脇の甘い性格だった。画面ロックといった些細なマナーを疎かにしていた結果、取り返しのつかない事態を招いたことに、彼女は顔を覆わんばかりに後悔していた。――同じ頃。美由は地方で開催されているアートフォーラムに出席していた。休憩時間、彼女は化粧室の鏡に向かい、平然とした顔で口紅を直していた。洗面台に置いたスマートフォンが、小刻みに震え出す。画面に表示された着信先を見た瞬間、美由の心臓がわずかに跳ねた。胸をざわつかせる、拭いきれない不穏な予感がした。電話に出ると、相手は事務的な口調で切り出した。「全国芸術コンクール事務局です。許斐先生、お忙しいところ恐れ入ります。実は、バックエンドを担当しているインターン生が、独断で応募作品のデータを改ざんしていたことが発覚しました。選考の公平性を揺るがす重大な事案として調査しておりますが、先生、何か心当たりはございませんか?」美由は一瞬だけ動作を止めた
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第56話

その後、事務局は緊急会議を招集。実花の作品に対する再審査が、直ちに行われた。今度は、一点の曇りもない本来のデータがスクリーンに映し出される。画像が表示された瞬間、審査員席は再びの静寂に包まれた。「……信じられない」誰かが溜息混じりに零した。「これほどまでとは……」画面全体を支配するのは、沈んだ灰色のトーンだ。迫りくるような圧倒的な圧迫感。しかしそこには、見る者の心を激しく揺さぶる濃厚な情動が渦巻いていた。画面の左上に、一際目を引く鮮烈な「赤」が一点だけ置かれている。それは人影のようにも、あるいは今にも消え入りそうな灯火のようにも見えた。宙に留まり、消えることを拒むその赤が何を意味するのか――それは観る者の解釈に委ねられている。数秒の沈黙の後、一人の審査員が先陣を切って口を開いた。「卓越した技術だ。感情の乗せ方も見事だし、何より独自のスタイルを確立している」別の審査員も深く頷き、言葉を継いだ。「構図も完成度も文句なしです。この新人には凄まじいポテンシャルを感じる。大化けしますよ」「左上の赤……あれこそが、この作品を完成へと導く至高の一筆だな」短い議論の後、結論に異を唱える者は誰一人いなかった。「通過に賛成です」「私も、異議なし」こうして、満場一致で実花の一次審査通過が決定した。審査が終了すると、コンクールの公式サイトで一次審査通過者のリストが更新され、一つの告知文が掲載された。そこには、通過者が一名追加された経緯と、不正を働いたインターンに対する処罰が明記されていた。沙耶は、最初に通過者のリストが発表された時からずっとスマホに張り付いていた。自身のSNSアカウントでそのリストをシェアし、自分が一次審査を通過したことを匂わせる。そして、コメント欄に群がるフォロワーからの称賛の言葉を眺めていた。【黒田沙耶さん、美しすぎます】【才能もルックスも完璧って、まさにこのことだよね】【気品が違う。間違いなく優勝候補でしょ】タイムラインをスクロールしながら、沙耶はずっと口元に笑みを浮かべていた。何千人もの人間から浴びせられる羨望の眼差し、これがたまらなく心地よかった。念のためと通過者の名前を端から端まで確認したが、そこに実花の名前はない。ほら、やっぱりね。私の思い通りにならないことなんてないんだから。自分が選
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第57話

通話を切る。コンクールの通過者リストが修正された件は、瞬く間にネット上で大きな波紋を呼んでいた。【一度発表された通過リストって、後から変えられるの?】【この浅見実花って誰だよ】【運営にルール曲げさせるなんて、どんだけ太いコネ持ってるんだろ】インターンへの処罰に噛みつく者もいた。【また末端の不始末で片付けるのか。インターンが何したって言うんだよ】世論の矛先は「実花のコネ合格」という疑惑へ一直線に向かっていった。もちろん、その裏には一部の悪意ある人間が意図的に炎上を煽っている背景があったのだが。議論が白熱し、SNSでの批判がピークに達しようとしたその時。全国芸術コンクールの公式アカウントが、無言で一枚の画像を投下した。実花の応募作品、『Lonely Me』。一切のノイズがない、高精細なオリジナルデータだった。その絵がタイムラインに表示された瞬間、荒れ狂っていたコメント欄がピタリと一秒間、静まり返った。その直後、目に見えて風向きが変わった。【ただの素人だけど、なんかこの絵、凄えぞ……】【待って、私美大生だけど!嘘抜きで、うちの大学の教授より圧倒的に上手い。さっきの言葉撤回する。神絵師様、ごめんなさい!】【これだけ描けるのに、裏工作とかコネとか必要ある?】その絵を目にした瞬間、沙耶は胸を強く突かれたような衝撃に襲われた。構図、技術、そして作品に宿る情感。そのすべてが完璧だった。いや、圧巻と言わざるを得ない。決して小手先のテクニックや偶然で描けるような代物ではなかった。沙耶は食い入るように画面を見つめた。不規則に早まる鼓動を自覚し、必死で冷静さを取り戻そうと自分に言い聞かせる。――もし自分だって、十分な時間さえかければ、これくらいの作品が描けないはずがない。そもそも、この実花という女が誰かに代筆させた可能性だってある。一次の公募審査など、いくらでも誤魔化しようはあるのだから。だが、二次審査はカメラ監視下での実技だ。そうなれば、もう誰も彼女を助けることはできない。沙耶の瞳に、冷ややかな光が宿る。しかし、彼女は知る由もなかった。その作品が、実花にとっては七年も前の「過去」に過ぎないということを。そして今の実花は、当時とは比較にならないほど研ぎ澄まされているということを。同じ頃、五つ星ホテル
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第58話

僕の知る実花は、たしかにどこかのアトリエで働いてはいるが、この前アート展で見かけた時も、任されていたのは明らかに事務や調整などの裏方仕事だった。僕の知る実花は、キッチンで温かい手料理を作り、部屋に心安らぐ香りを漂わせるような女だ。絵筆を握る姿など一度も見たことがないし、あんな華やかな舞台に立つことなど、あるはずがなかった。和真はすぐにページを閉じ、胸をかすめた微かな違和感を「取るに足りない偶然」として頭の隅に追いやった。そういえば。あいつの顔を、もうずいぶん見ていない気がする。言葉を交わしたのも、いつが最後だったか。和真は無意識のうちに、実花とのトーク画面を開いていた。一番新しいメッセージは、一週間前で止まっている。【祖母が倒れた。今すぐ戻れ】その下に、返信はない。画面に並んだそっけない文字を、和真はしばらく見つめていた。そこでようやく、遅ればせながら気がついた。――あいつはすでに、これほど長く自分の生活から姿を消しているのだと。「佐藤さん。最近、実花を見なかったか?」家政婦の佐藤さんは少し考え込んでから、おそるおそる答えた。「実花様でしたら……そういえば先日、一度こちらへお戻りになりましたよ」「戻っていたのか?」和真の顔に、ふっと微かな喜色が浮かぶ。「いつだ?」「ほんの数日前です」佐藤さんは記憶を辿りながら言った。「ご自分の荷物を少しだけまとめて、またすぐに出て行かれましたが……」実際、実花は一度この家に戻ってきていた。家を出た時が慌ただしかったせいで、以前の修復記録が入った古いUSBメモリを置き忘れていたのだ。その時、佐藤さんは心配そうに尋ねた。「実花様、もうこちらにはお住まいにならないのですか?」玄関に立った実花は、極めて平坦な声で答えた。「もう、実花様と呼ばなくていいわ。それと……今までお世話をしてくれて、本当にありがとう」そう言い残し、彼女は去っていった。佐藤さんはそれ以上深くは尋ねられなかったが、その言葉の響きにどこかただならぬものを感じていた。当時のことを思い出し、佐藤さんは少し戸惑いながらも和真に尋ねた。「和真様……実花様は、もうお帰りにならないのでしょうか?」和真は一瞬虚を突かれたようになり、すぐに苛立ちを顔に滲ませた。「さあな」佐藤さんはためら
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第59話

【なお、正当な理由なく欠席した場合は、即座に離婚判定手続きへと移行します】ほぼ同時刻、実花のスマホにも同じメッセージが届いていた。和真は結局、瀬戸グループの顧問弁護士である茅野(かやの)に連絡を取った。顔を合わせて開口一番、和真は釘を刺した。「この件、決して口外しないでくれ」業界でも口の堅さで知られる茅野は、表情を引き締め、厳粛な面持ちで頷いた。「承知しております」瀬戸家の跡取りの離婚問題ともなれば、一歩間違えばグループの信用に関わる。守秘義務は弁護士としての最低限のラインだ。「……母や祖母にも、当面は伏せておいてほしい」「承知いたしました、瀬戸社長」それから和真は、実花から突きつけられた離婚協議書を茅野に差し出した。内容を精査する茅野の目は速かった。財産分与、不貞の主張、証拠リスト。主要な条項に一通り目を通すと、数分もしないうちに書類を閉じ、和真に向き直った。「……瀬戸社長。実花様側はかなり周到に準備を進めてこられたようですね。かなり前から計画されていた……そう判断せざるを得ません。特にこの証拠類の中には、表には出ていないはずの情報も含まれています」和真の顔が険しく沈んだ。茅野は空気を読み、即座に話題を切り替えた。「……さて、こちらの最優先事項は何でしょうか」「離婚は認めない。それだけだ」迷いのない即答だった。茅野は短く頷いた。「分かりました。では少しお時間を。まずは先方の弁護士とコンタクトを取ります」半日後、茅野は再び和真のもとに現れた。その手には、精査され整理された分厚い資料の束が握られていた。「概ね状況は把握いたしました」その口調は、以前よりもずっと慎重なものに変わっていた。「現時点での情報から判断するに、今回の調停……我々にとっては極めて不利な戦いになります。先方は決定的な動画や写真などの証拠を多数揃えており、周到に準備を重ねてきたようです。何より、相手方の意志は極めて固く、話し合いや和解の余地は一切ありません」茅野は包み隠さず、残酷な結論を口にした。「このまま通常の法的手続きが進めば、かなりの確率で離婚が認められてしまうでしょう」和真の眉間が、激しくぴくりと動いた。動画、写真。周到な準備。これまで無意識に目を逸らしてきたが、認めざるを得なかった。実花は決し
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第60話

「先方の主張を覆せるような、何かこちらに有利な情報はありませんでしょうか?些細なことでも構いません。それがあれば、風向きを変えられる可能性があります」静まり返った室内で、重苦しい沈黙が流れた。やがて、和真が重い口を開いた。「……ある」第二回離婚調停の日がやってきた。この日は、葵が「一人で行かせるわけにはいかない」と実花に強く付き添いを志願した。一方の和真も、珍しく遅れることなく会場に姿を現した。冷え冷えとした白い照明が照らす廊下。二人の視線がぶつかった瞬間、その場の空気は一気に張り詰めた。和真は数秒ほど実花を無言で見つめていたが、やがて重々しく口を開いた。「実花。……後悔しているなら、今ならまだ間に合う。離婚届を取り下げるなら、これまでのことはすべて水に流そう」まるで慈悲でも与えるかのような言い草だった。「騒ぎを大きくするのはこれくらいで十分だろう。家に戻って話し合えばいい。わざわざこんな場所まで来る必要はないんだ」隣にいた葵は、あまりの身勝手さに吹き出しそうになった。和真を冷ややかに一瞥すると、遠慮のない嘲笑を投げつけた。「あら、今日はどうしたのかしら。明日は雪でも降るんじゃない?あの瀬戸社長が時間に遅れないなんて」そこまで言うと、葵は和真の背後にわざとらしく視線を走らせ、口角を挑発的に吊り上げた。「その上、今日はお隣に愛人も連れていないなんてね」和真の顔が目に見えて険しくなった。だが、ここで葵を相手にするのは時間の無駄だと判断したのか、無言で視線を外すと調停室へと足を向けた。調停が始まった。実花の代理人である橘薫は、序盤からアクセル全開だった。不貞を裏付ける動画、時系列にまとめられた資料、そして決定的な証拠書類を次々とテーブルに並べていく。実花自身も、離婚を求める切実な思いと、協議書に記した財産分与がいかに妥当であるかを、揺るぎない口調で説明した。調停員の年配男性は、深く頷きながら話を聞いていた。「これらが事実であれば……」調停員は和真の方を向き、言葉を選んだ。「夫婦関係の破綻を認めざるを得ない、重大な事由と言えますな」その口ぶりは、暗に離婚を認める方向へと傾いていることを示唆していた。隣で見守る葵の心に、安堵が広がる。しかし、その空気を一変させたのは、和真側の弁護士である茅野だった
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