凍える愛の終焉に ―さよなら、偽りのマリアージュ―의 모든 챕터: 챕터 41 - 챕터 50

100 챕터

第41話

「……確か、こっちに戻って『運命の人』を追いかけるって言ってたわよね?その様子だと、首尾よくいったようじゃない」海浜市において、黒田家は瀬戸家や高城家と肩を並べる屈指の名門だ。情報の回りは早い。凛と和真の間にある複雑な因縁など、この界隈の住人にとっては公然の秘密だった。凛が戻り、和真の隣に収まろうとしている以上――和真の妻の座にいる女の末路など、沙耶に言わせれば「お気の毒に」という一言で済む話だ。もっとも、沙耶の同情はその程度でしかない。彼女は道徳で人を裁くような真似はしない。重要なのは「結果」であって、そこに至る過程でどのような手段を用いたかは、取るに足らない問題だった。凛は頬を恥じらわせ、曖昧に微笑んだ。「もう、からかわないでください。……ええ、おかげさまで順調です」オーダーした料理が運ばれ、給仕が静かにドアを閉めて退出した。それを見届けると、沙耶はグラスを軽く揺らしながら、単刀直入に切り出した。「それで?単なる積もる話ってわけじゃないんでしょ」凛はグラスの縁を指先でなぞりながら、言葉を選ぶようにして口を開いた。「沙耶さん、前に少しお話しされていましたよね。今回の全国芸術コンクールに招待されているって」「ええ、そうよ。……興味があるの?」沙耶が片方の眉を上げる。「いえ、私じゃなくて。……兄と和真くんなんです。二人は、篠宮グループの動向を追っていて……今回のコンクール、メインスポンサーが篠宮家だという話を耳にしたものですから」「篠宮家?なるほど、あそこが狙いなのね」沙耶は小さく鼻を鳴らした。「でも、当主の篠宮湊様に取り入ろうなんて、そう簡単にできることじゃないわよ」「分かっています」凛は澄んだ瞳で沙耶を見つめた。「だからこそ、沙耶さんを頼りにしちゃったんです」沙耶は二、三秒ほど凛を静かに見つめていたが、やがてくすりと笑い声を漏らした。「本当に、人を見る目があるわね。湊様とはそれなりに親しくさせてもらっているわ。海外にいた頃、いくつかプロジェクトを共にしたこともあるし」さらりと言ってのけたが、実際は規約に則った事務的なやり取りを重ねただけに過ぎない。ましてや、湊と直接言葉を交わしたことなど一度もなかった。かつて黒田家が篠宮家に施した恩義のおかげで、個人的なツテがないわけではない。だが湊のガードは鉄壁で、何度か接触を
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第42話

沙耶は昔から、この高城凛という女を心のどこかで見下していた。かつての凛はただのわがままな世間知らずで、兄の駿大や和真の後ろ盾がなければ何もできない女だと思っていたからだ。だが、今の殊勝な態度は悪くない。沙耶は「少しだけよ」とスマートフォンを取り出し、参加者リストを画面に呼び出した。「例えばこの人。典型的なコネ入選ね。父親が審査側に数千万円単位の寄付をしているのよ。この人は……まあ、悪くはないけれど。努力家なのは認めるけど、圧倒的に才能が足りないわ」沙耶の辛辣な批評を「へえー」「そうなんですね」と熱心に聞いていた凛だったが、ふと、画面の隅にある名前に指を止める。「あら……この方はどうなんですか?」そこには、現在の「瀬戸」という姓ではなく、実花の旧姓である――浅見実花の名が記されていた。沙耶の動きが止まった。彼女はすっと目を細め、探るような視線を凛に向ける。「……彼女の知り合いなの?」今の問いかけは、単なる偶然にしては少しばかり狙いすぎているように感じられた。沙耶の直感に、わずかな疑念がよぎる。凛は即座に首を振り、無邪気な笑みを返した。「いえ、面識はありません。ただ、すごく実力がある方だって噂を聞いたことがあったものですから」凛は確信していた。今の一言が、沙耶という女の最も敏感な「急所」を貫いたことを。沙耶は昔から、勝つためなら手段を選ばない性質だ。交換留学の枠、学生代表の座、奨学金制度――これまで手に入れてきたあらゆる栄誉は、人知れず卑劣な策を弄し、他者を蹴落として奪い取ってきたものばかりだった。だからこそ、彼女は自分を脅かす存在に対して異常なほど神経質だ。実花がいかに油断ならない相手かを吹き込んでおけば、沙耶は勝手に警戒を強め、自らの手を汚してでも「障害」を早々に取り除こうと動くはず。すべては凛の描いた筋書き通りだった。「聞いたこともないわね。本当に実力があるなら、とっくに名前が売れているはずよ」沙耶は鼻で笑った。だが、その言葉とは裏腹に、グラスを握る指先がわずかに強張る。凛はその微かな変化を見逃さず、心の中で冷笑を浮かべた。「それじゃあ沙耶さん、よろしくお願いしますね。あなたの圧勝を、一足先にお祝いさせてください」凛はしなやかな動作でグラスを差し出し、そっと沙耶のグラスに触れさせた。そのまま自然な流れで話
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第43話

筆の根元に残った最後の顔料を丁寧に洗い流し、力強く水を切る。毛先を綺麗に整えてから筆架に並べ、ゆっくりとタオルで手を拭き終わってから、ようやくスマートフォンを手に取った。「エントリーは済ませたか?」アトリエのドアが開き、心地よい隙間風とともに翔太が入ってきた。「ええ」実花は短く頷く。「一次審査の提出作品は、どれにするつもりだ?」「……『Lonely Me』よ」その名を聴いた瞬間、翔太の瞳に「なるほど」と納得の色がよぎった。「あの作品か。……ああ、あれなら文句ない」『Lonely Me』は、実花が十六歳の年に描いた作品だ。あの頃、彼女にとっての「湊お兄ちゃん」――今の篠宮湊が、何の前触れもなく彼女の世界から不意に姿を消した。狂ったように何度も電話をかけ、メッセージを送り続けた。だが、一向に返事はなかった。何かの事件に巻き込まれたのではないか、事故に遭ったのではないかと、不安でたまらなかった。すり減っていく希望に縋るように待ち続けたある日、ずっと沈黙していたトーク画面に、不意に通知が跳ねた。実花が弾かれたように画面を開くと、湊特有の、感情を排した冷ややかな一文が目に飛び込んできた。【もう連絡してくるな】【俺とお前は、元々何の関係もない】それに続くように、一枚の画像が送られてきた。写真の中の湊は、実花が見たこともないような煌びやかなパーティー会場にいた。仕立てのいい黒のフォーマルスーツに身を包んだ彼の隣には、床に届くほど長いシルバーのドレスを纏った若い女が立っている。湊はわずかに身を乗り出し、女と親しげに談笑していた。女の右目にある泣きぼくろが、やけに艶やかな魅力を放っている。並び立つ二人の姿は、ひどくお似合いで――目が眩むほど残酷だった。その瞬間、実花は足元が崩れ落ち、氷の張った深い暗闇へ真っ逆さまに突き落とされたような感覚に陥った。彼女の知る「湊お兄ちゃん」は、どこまでも優しく、忍耐強く、実花の髪を撫でながら勉強を教えてくれ、雨の夜には必ず迎えに来てくれる人だった。けれど、写真の中の男はどうだ。恐ろしいほど冷酷で、手の届かない遠い世界にいて、別の女を隣に立たせている。……ああ、こちらが彼の生きる「現実」なのだ。自分が与えられていたあの小さな温もりは、彼が通りすがりに落としていった、気まぐれな同情に
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第44話

「これからも『Rose』の名で売りに出すつもりよ」と実花は言った。まだ正体を明かすつもりはなかった。瀬戸家の権力は絶大だ。自分を守るためには、いくつかの仮面を持っておく必要がある。いつかそれが、決定的な切り札になるかもしれない。それに、先日の画廊での様子で察していた。凛と和真が、異様なほど『Rose』の絵に執着していることを。それがビジネス上の重要な鍵になっているらしいということまでは分かったが、理由を深掘りするつもりはなかった。ただ、彼らからむしり取れる利益は、すべて絞り取ってやればいい。あの夜、凛がわかったような顔でRoseの画風を分析し、それに和真が深く耳を傾けていた光景。それを思い出すたびに、滑稽さと同時に、ある種の昏い愉悦が込み上げてくる。二人が『Rose』の正体を知った時、一体どんな表情を見せてくれるのか、今から楽しみでならない。……けれど、まだ時期尚早だ。このゲームをもう少しだけ、堪能していたい。彼らにより重い代価を支払わせた後でなければ、終わらせるには惜しすぎる。「そうか。お前の好きにすればいい」翔太は実花の覚悟を察したようだったが、あえてそれ以上は踏み込まなかった。「何かあれば、いつでも俺を頼れよ」第一段階の審査ルールは至ってシンプルだった。招待された全出場者は、自身の代表作を一つ提出する。表現形式は問われない。審査委員会の専門家陣が「技巧」「独創性」「感情表現」「完成度」の四項目から採点を行い、スコア上位百名のクリエイターが次のステージへと駒を進めるというものだ。手順としては、まずオンラインシステム経由で高画質の作品データを提出する。そして一次審査を通過した者だけが、指定会場へ実物を持ち込んで本査定を受ける決まりになっていた。エントリー締め切り前夜。実花は『Lonely Me』の画像データをシステムにアップロードしていた。「確認」ボタンをクリックすると、画面が切り替わって「送信完了」の文字が浮かび上がる。パソコンの電源を落とすと、実花はデスクチェアの背もたれに深く身を沈め、静かに目を閉じた。その時、図ったようなタイミングでスマホが震えた。恩師である篠田先生からのメッセージだった。【明日の朝九時、黒田邸だ。急ぎの依頼が入った。一緒に来なさい】黒田家か。実花はわずかに眉を寄せた。海浜市に深く根を
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第45話

翌日、黒田邸。そこは、見事な築山と水のせせらぎが調和した、静謐な庭園を抱く広大な屋敷だった。回廊を通り抜け、案内されたのは重厚な応接室である。上座の椅子には、当主の征二郎が泰然と腰を下ろしていた。髪も髭も真っ白だが、顔色はつややかで、その双眸には鋭い光が宿っている。征二郎の視線は、同行した篠田を通り越し、真っ直ぐに実花へと向けられた。頭の先から爪先まで品定めするように眺め回すと、やがてその不機嫌そうな眉間に深い皺が刻まれる。「篠田先生」征二郎の張りのある声に、隠しきれない不快感が混じった。「……私を揶揄っているのかね?これが君の言う『最高の修復師』だと?先日の若造の方が、腕は未熟だったがまだマシだ。こんな小娘に一体何ができる。私の要求を理解するだけでも無理だろう」彼が引き合いに出した「若造」とは、兄弟子の翔太のことだ。「この『秋山訪友図(しゅうざんほうゆうず)』は我が家に代々伝わる家宝だ。並の掛け軸とは重みが違う。今回の修復は、黒田家にとって極めて重要な意味を持っているのだよ。道具を運ばせたり、色を調合させたりといった助手ならいざ知らず、この娘ではその役目すら荷が重いのではないかね」不遜な物言いに、篠田は苦笑を浮かべて首を振った。「征二郎さん、それは誤解ですよ。今日彼女を連れてきたのは、助手にするためではありません」それを聞き、征二郎は少しだけ表情を緩めた。さすがに篠田がそこまで無謀な真似はしないだろう、見学させて勉強させるつもりなのだな――そう納得しかけた瞬間。「今回の修復は、彼女が全責任を持って執り行います」「ぶっ、……げほっ、ごほっ!」征二郎はあまりの衝撃に、自分の唾液でむせ返った。「征二郎さん、私を信じてください」篠田は一歩前へ出ると、真剣な眼差しで畳みかけた。「あの図の損傷は、並の技術で太刀打ちできるものではない。実花……彼女でなければ、修復は不可能です」征二郎が鼻を鳴らし、反論しようと口を開きかけた時、実花が半歩前に出て、静かに一礼した。「征二郎様」その声に卑屈な響きは一切なかった。「長年この道を歩んでこられた征二郎様ならご存知のはずです。古来、驚くべき才覚を現してきた者たちの中に、若者は決して少なくありません。この『秋山訪友図』を例に挙げても、黒田家のご先祖がこれを描き上げたのは、二十代の頃だった
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第46話

征二郎は微かに頷いた。その硬い表情には、隠しきれない感嘆の色が浮かんでいる。実花が選んだ箇所は、絶妙だった。まず、図柄の主体から適度な距離があるため、万が一失敗しても本体への見栄えに致命的な影響を与えずに済む。その一方で、その部分の損傷原因は複数絡み合っており、修復の難度は非常に高い。これを完璧に直してみせれば、征二郎に実力を認めさせるには十分すぎる証明になる。長年美術品を扱ってきた征二郎が、その意図に気づかないはずがない。なんとも賢い娘だ……内心で、彼は実花のしたたかな聡明さに舌を巻いていた。実花はそれ以上多くを語らず、用意されていた作業台へと向かった。薬剤を調合し、筆を整え、色を合わせる。三十分後、すべての支度が整った。一度まぶたを閉じ、深く呼吸を整える。再び目を開けたとき、その瞳には一切の雑念が消え、極限の集中が宿っていた。周囲の気配は消え去り、視界にあるのは目の前の一幅だけだ。まずは一番細い面相筆(めんそうふで)を取り、調合したばかりの薬剤をわずかに含ませる。手首を垂直に立て、筆先を一点に沈めた。損傷箇所は極めて小さく、わずかな震えも許されない。一画でも誤れば、さらなる傷を上塗りすることになる。寸分の狂いも許されない精密作業だ。この繊細を極める手仕事を、数十回、数百回と繰り返す。並外れた腕の筋力と忍耐が求められるが、実花の構えは微動だにしない。額に汗の玉が浮かび始めても、拭うことさえせず、ただ無心に筆を動かし続けた。その場に満ちた張り詰めた気圧に、周囲の者たちも圧倒されていた。誰に言われるともなく足音を忍ばせ、実花の「聖域」を侵さぬよう、息を殺してその手元を見守っている。カビや汚れを丁寧に取り除くと、実花は同じ型の筆に持ち替え、今度は膠(にかわ)を差して傷んだ箇所を補強していく。気が付けば、すでに一時間が経過していた。実花はふう、と小さく息を吐き、ようやく筆を置いた。強張った手首を回し、ゆっくりと上体を起こす。「征二郎様、そう焦らないでください。膠が完全に乾くのを待ってから、仕上げの補色に入ります」いつからそこにいたのか、征二郎がすぐ隣で食い入るように手元を覗き込んでいた。その顔には、結果を待ちきれないという色が隠しようもなく滲み出ている。「ふん……釈迦に説法だ。ここまでは、まあ……及第点といったところか」
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第47話

実花は淑やかに腰を折り、唇の端に微かな笑みを湛えた。「ありがとうございます。征二郎様の信頼に応えられるよう、持てる力のすべてを尽くします」それからの一週間、実花は黒田邸に詰め切りとなった。食事と最低限の休息を除けば、すべての時間を『秋山訪友図』の修復に捧げたと言ってもいい。心身を削るような作業だったが、不思議と心は凪いでいた。最後の一筆を引き終え、画が本来の生命力を取り戻した瞬間、実花は憑き物が落ちたように晴れやかな笑みを浮かべた。思えば、修復は驚くほど順調だった。まるで目に見えない何かに導かれているような、確信に満ちた感覚。冒頭で手をつけた最も困難な箇所でさえ、迷いはなかった。使われている墨(すみ)の配合は、まだ母が生きていた頃、何度も、何度も繰り返して教えてくれたものだったから。仕上がりを確認した征二郎は、かつての輝きを取り戻した家宝を前に、言葉にならないといった様子で「見事だ……」と何度も漏らした。喜びを象徴するように、その場ですぐに実花を労うための祝宴が整えられた。宴の当日、実花は膝丈のコートに、柔らかな月白色(げっぱくしょく)のロングドレスを纏った。長い髪をゆるく纏め、控えめな木製の簪を挿しただけの装いだが、その佇まいには凛とした気品が漂っている。執事の案内で宴席の広間に入ると、すでに和やかな談笑が漏れ聞こえていた。上座には、顔色を赤らめて上機嫌な征二郎。そして、その傍らの客席には――墨色のスーツを着こなした一人の男が座っていた。湊だ。実花の足がわずかに止まる。だが次の瞬間には何事もなかったかのように表情を整え、しなやかな足取りで前へ出た。「征二郎様、お招きありがとうございます」自然な所作で一礼し、視線を隣の男へと流す。「……篠宮さんも、お揃いで」湊は手にした茶器を置くと、実花の顔をじっと見つめ、唇の端をわずかに吊り上げた。「実花さん。……また会いましたね」二人の間に流れる微かな空気を察したのか、征二郎が面白そうに視線を往復させた。「ほう、二人は知り合いだったのかね?」「いいえ、それほどでは」「ええ、よく知っています」二人の声が見事に重なった。一瞬の静寂の後、征二郎は喉を鳴らして豪快に笑い出した。「がっはははは!なるほど、それほど息が合うなら、よほど『深い』仲のようだな」征二郎
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第48話

その道中は困難を極めた。追っ手の銃口が背中に迫ることも一度や二度ではなかった。湊は敵の執拗な追撃を振り切るために何度も偽装の身分を使い分け、携帯端末を使い潰しながら、薄氷を踏む思いで帰還の路を切り拓いた。彼が今、本家の当主として無事に立っていられるのは、ひとえに黒田家の尽力があってこそだ。その時の恩義を、湊は片時も忘れたことはなかった。そして今回、湊が率いる篠宮グループは、満を持して海浜市の市場を開拓すべく動き出した。そのためには、地元で確固たる地盤を持つ名門の協力が欠かせない。湊はいくつかの候補から熟考し、最終的に黒田家を提携先として選んだのである。一方で征二郎にとっても、この提携は是が非でも成し遂げたい案件だった。黒田家は歴史も格式もあるが、いかんせん次世代を担う後継者に恵まれていないからだ。二人の息子、正一(せいいち)と正治(せいじ)は、揃いも揃って器ではなかった。長男の正一は落ち着きがなく目先の利益ばかりを追い、嫁の言いなりになっては遺産分与の算断に明け暮れている。次男の正治は実直ではあるが、組織のトップを張れるほどの才覚はない。唯一、征二郎の自慢だった娘の由紀子は、類まれな才能に溢れていた。しかし彼女はかつて、強引な政略結婚を巡って征二郎と決裂し、若くしてこの世を去ってしまった……孫の代に目を向ければ、失望はさらに深まるばかりだった。孫の大貴(だいき)は愚鈍な上に性根が曲がっており、目先のことしか考えられない。そんな小利口な悪知恵すら中途半端な男に、家督を任せるわけにはいかなかった。一方、孫娘の沙耶はそれなりに知恵は回るものの、いかんせん器が小さく、独善的だ。野心ばかりが先走り、名門を背負って立つほどの品格に欠けている。征二郎の腹は、すでに決まっていた。黒田家の栄華をこの先十年、二十年と繋ぎ止めるには、外部の強大な力を取り込むしかない。そして、その「力」こそが篠宮家だった。もし縁談によってその絆をさらに強固にできるなら、これに越したことはない。征二郎にしてみれば、目の前に座る篠宮湊という男は、何から何まで申し分のない若者だった。茶を啜る征二郎の目は、どこか遠い未来を見据えているようだった。本来なら、征二郎と湊の会談はそこで幕を閉じるはずだった。客を送り出そうと征二郎が腰を浮かせた際、湊が何気なく問いかけたのだ
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第49話

「ほう、そうかね。ご両親もさぞ熱心に支えてこられたのだろう」征二郎の言葉に、実花の動きがわずかに止まった。「……両親は。二人とも、すでに他界いたしました」静かに、けれどはっきりと告げる。努めて平然を装ったが、その瞳の奥には、ふわりと淡い哀しみの色が滲んだ。なぜだろう、今日はいつもより少し情緒が不安定な気がする。征二郎から漂う包容力のある空気のせいか。あるいは、目の前に座る湊のせいか。かつて、家族同然の時間を過ごした二人。その記憶が、温かなこの場の雰囲気と重なり、無意識のうちに実花の警戒心を解かせていた。その言葉に、湊は沈黙した。かつて隣人として過ごした数年間。あの夫婦がどれほど手厚く自分を庇護してくれたのか、湊は今でも鮮明に覚えている。二十年前、彼が傷ついた獣のように海浜市へ流れ着いた先で、偶然にも隣に住んでいたのが実花の家族だった。あの年、湊は十歳で、実花はまだ五歳。海浜市に来てからの数年間は、盛られた毒の後遺症に苦しむ日々だった。昼夜を問わず激しい咳に襲われ、まともに眠ることもできない。そんな湊のために薬膳を調合し、一日三食、見返りを求めることもなく心を尽くしてくれたのが実花の両親だった。ただでさえ心を閉ざしていた孤独な少年を、彼らは身内同然に迎え入れてくれたのだ。そして実花は、小さな太陽のようだった。毎日ニコニコと笑いながらドアを叩き、薬を飲むよう促しては、無理やり外へ連れ出して日向ぼっこをさせたり。どうでもいいような他愛ない出来事を飽きもせず話し、自分が一番気に入っている小花柄の小さな綿布団を押し付けて、『暖かくして寝てね』と笑う。篠宮家の内部は裏切りと陰謀の渦巻く修羅場だった。次期当主として生まれついた湊は、物心ついた時から常に命を狙われる標的であり、他者とは距離を置き、決して誰も信じないように生きてきた。そんな暗く閉ざされた湊の心を、温かな光で少しずつ照らし出してくれたのが、実花の一家と過ごす何気ない日常だったのだ。「……ご両親は、どのようなお方だったのかね?」征二郎は問いを重ねた。一瞬、前のめりになりすぎたことに気づいたのか、咳払いをして言葉を補う。「いや、君のように優れた娘を育て上げたのは、どんなご両親だったのかと、純粋に興味が湧いてな」実花は少し考え込み、静かに口を開いた。「母は……とても美しい人
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第50話

今さらどれほど悔やんだところで、時は戻らない。だが不幸中の幸いと言うべきか、由紀子はこの世に一人、娘を遺していた。目の前に座るこの娘は、まるで在りし日の由紀子を彷彿とさせるほどに優秀だ。由紀子は実花を、これほどまでに立派に育て上げていたのだ。――しかし。この優秀な娘は、養女だった。彼女には、直系の血が一滴も流れていない。征二郎は、実花の成長ぶりに胸をなで下ろすような安堵を感じる一方で、どうしても拭いきれない無念さを噛み殺していた。ゆっくりと酒杯を手に取り、静かに実花を見つめる。その深く沈んだ眼差しには、一言では言い表せない複雑な情念が渦巻いていた。湊は優雅な手つきで蟹の殻を剥きながら、二人のやり取りに静かに耳を傾けていた。手を動かす合間に実花へ視線を向け、さらに、やけに身の上を詮索してくる征二郎をちらりと一瞥する。その瞳の奥にある思惑は読めない。征二郎はひとしきり豪快に笑うと、それ深追いするのをやめた。そして話題をガラリと変え、水墨画の歴史や筆遣いといった芸術論を語り始める。湊は綺麗にほぐし終えた蟹の身が乗った小皿を、そっとテーブルの中央へ押し戻した。誰の席からも箸が届く、ちょうど真ん中の位置に。料理を取ろうとしていた実花の箸先が、ほんの一瞬だけピタリと止まった。幼い頃、実花は蟹が大好物だったが、殻を剥くのをひどく嫌がった。すると湊は、いつも当たり前のように器用に身をほぐし、実花の目の前に置いてくれたものだ。思えば、実花の好きな食べ物は、どれも食べるまでに手間のかかるものばかりだった。栗の皮剥き、魚の小骨、海老の殻、そして蟹。ドラゴンフルーツに至っては「黒い種を取って」などと無茶な我儘を言ったこともある。台所仕事など一切したことのない湊の、白く真っ直ぐなその指先は、いつも実花のために文句一つ言わずそれらを処理してくれていた。だが、十年前に湊が突然姿を消して以来、実花は二度と蟹を口にしていない。実花はその蟹の身が盛られた小皿には目もくれず、ごく自然な動作でその奥へと手を伸ばし、青菜の炒め物を自分の取り皿へ移した。まるで、何事もなかったかのように。二人の間にそんな過去があろうとは知る由もない征二郎は、湊がこれほど根気よく丁寧な手つきで蟹の身をほぐす姿を見てひそかに感心していた。世間では『篠宮グループの若きトップは冷酷で血も
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