All Chapters of 凍える愛の終焉に ―さよなら、偽りのマリアージュ―: Chapter 61 - Chapter 70

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第61話

若い夫婦にやり直す機会を与えるべきであり、些細な衝突をいちいち離婚に結びつけるべきではない。これ以上の司法リソースの浪費は避けるべきだと、我々は考えます」調停員はしばらく考え込んでいたが、やがてゆっくりと頷いた。「不貞の事実がないとなれば……やはり、夫婦間の内輪の問題の域を出ないと言わざるを得ませんな」調停員も、近頃の若い娘たちのことは分かっているつもりだった。少しでも気に食わないことがあれば、すぐに甘えて離婚だのと騒ぎ立てる。これまで似たような夫婦を、それこそ何十組と見てきたのだ。この瞬間、結論は出た。薫が何度も反論を試みるものの、そのすべてが熟練の弁護士と、保守的な調停員の壁に撥ね返されてしまった。「相手側の不貞行為をあくまで主張されるのでしたら、より決定的な証拠、あるいは胎児との親子関係を証明するDNA鑑定書を提出してください」調停委員の無機質な声が響く。「よって今回の調停は、不成立といたします」薫の顔色が、その場でさっと険しくなった。修羅場には慣れているはずのベテラン弁護士でも、今回ばかりはあまりに理不尽で、腹に据えかねているようだ。だが、当事者である実花はひどく冷静だった。不成立を言い渡された瞬間、ほんのわずかに口角を上げたほどだ。薫の落ち度ではない。瀬戸家の力は絶大だ。相手が用意した弁護士も、当然ながら一筋縄でいく相手ではなかった。ただ、和真側の弁護士が「夫としての愛情と経済的支援の証明」として、プレゼントや送金履歴を次々と提示したときには、実花は激しい吐き気を覚えた。あれらのどこが愛情の証拠だというのか。ピアスホールがないと知っていながら贈ってきた、的外れなピアス。土砂降りの夜に私を置き去りにし、あとから罪悪感に駆られて振り込んできた哀れみのようなタクシー代。調停が完全に打ち切られる直前。実花はふと顔を上げ、和真を真っ直ぐに見据えた。「和真。一つだけ聞かせて。あなたと凛は、本当に何もないの?」和真は躊躇なく頷いた。「ああ」実花はじっと彼から目を逸らさず、さらに問い詰める。「じゃあ、どうしてそこまで凛を庇うの?あなたにとって、凛はどんな特別な存在だっていうの?」和真は一瞬、口をつぐんだ。やがて、わずかな疲労感と、彼なりの奇妙な誠実さを滲ませた声で口を開く。「すまない、実花。凛は僕にとって
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第62話

これ以上、自分のために親友にリスクを負わせるわけにはいかない。葵はもう、十分に戦ってくれたのだ。実花が葵を止めたのを見て、和真はすぐさま一歩距離を詰めてきた。調停に勝った余裕からか、その表情はいくぶん和らいでいる。そして、あの実花がよく知る、独りよがりな響きを帯びた声で言った。「実花、一緒に家に帰ろう」「凛が子どもを産んだら、あっちの生活はきちんと保証する。そうしたら、また僕たち二人でやり直せるはずだ」あたかも自分が最大限の譲歩をしているかのように、和真は言葉を区切った。「ここ最近、僕が君を蔑ろにしていたことは認める。でも、瀬戸の妻という立場は、ずっと君のものだ。それは変わらない。君がそこを気にしているのは分かっている。それに、今まで黙っていたのは、変な噂で凛を傷つけたくなかったからなんだ」そして、悪びれる様子もなく堂々と言い放った。「今回のことは、もう水に流そう。それと、凛の子どものことは、どうか誰にも言わないでほしい」実花は和真を見つめながら、不意にひどく馬鹿馬鹿しい気分になった。そして、ゆっくりと口を開く。「本当に、あなたの凛がそれで満足すると思っているの?」和真は少しのためらいも見せずに答えた。「凛はそんな女じゃない。自分の立場をわきまえている。ここ最近だって、君のところへ行って話し合うようにと、ずっと僕に勧めていたくらいだ」その言葉を聞いた瞬間、実花の口からふっと笑みがこぼれた。目の前に立つこの男が、これ以上ないほど見知らぬ他人に思えた。ビジネスの世界において、和真は確かに抜け目がなく、決断力に優れ、常に鋭い眼力を持っている。だが、こと女性が絡むと、驚くほど何も見えていないのだ。和真は凛のことを「わきまえている」と言った。少し前までは、実花のことも「優しく、大人しく、控えめだ」と評していた。実際のところ、二人ともそんな性格とは程遠い。和真は、どちらの女のことも何一つ分かっていないのだ。いや、そもそも誰のことも、真剣に心に留めたことなど一度もなかったのだろう。昔の自分は本当に見る目がなかった。こんな男を信じ、心酔していたなんて。実花はついに、そんな過去の愚かさを認めた。調停室を後にして、薫は大きく深呼吸をした。「どう、少しは後悔した?」実花は静かに首を振る。「まさか。絶対に離婚するっ
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第63話

道具を片付けようとした時、スマートフォンが不意に震えた。親友の葵からだ。通話ボタンをタップした途端、明るい声が耳に飛び込んできた。「さあ、気晴らしに買い物に行くよ!あんた、最近根詰めすぎ。このままじゃ絶対体壊すから!」その元気な響きを聞いて、一日中張り詰めていた実花の神経がすっと解けた。自然と口角が上がる。「……うん、わかった」ショッピングモールの白く冷たい照明が降り注ぐ。ハイブランドが並ぶフロアは人も少なく広々としていて、二人の足音ばかりがはっきりと響いていた。葵は実花の腕を引っ張りながらブティックへと向かい、呆れたように口を動かし続けている。「あんた、最近マジで仕事人間すぎ。このままだと、そのうち悟りでも開いちゃうんじゃない?」そう言いながら、気前よく手をひらひらと振ってみせた。「ちょうどボーナス出たし、さ、服見に行くよ!ペアルックでも買っちゃう?私のおごりでさ!」そうはしゃぎながら歩いていた葵の足が、不意にピタリと止まった。「……サイアク」低く吐き捨てられた悪態に、実花がハッとして隣を見ると、葵の表情は一瞬で氷のように冷え切っていた。実花も彼女の忌々しげな視線を追う。そこにいたのは、凛だった。今日はひとりらしい。ゆったりとしたオフホワイトのロングワンピースを着て、少しふくらみ始めたお腹を無意識に庇うようにして歩いている。見るからに優しげで、庇護欲をそそるような儚い佇まいだ。きょろきょろと辺りを見回し、誰かを待っているようにも見える。その凛が実花たちに気づき、ゆっくりと口角を吊り上げた。「あら」意味ありげな声が響く。「奇遇ね、実花さん」いつも男たちの前で見せている、あのか弱い雰囲気は微塵もない。隠しきれない攻撃性と傲慢さが全面に滲み出ている。これこそが、彼女の本当の姿なのだ。実花は足をとめ、そのまま無視して通り過ぎようとした。しかし、凛が一歩横にずれてきっちりと進路を塞いできた。「最近、順調みたいね」凛は実花を上から下まで値踏みするように見つめ、軽薄な声で言葉を紡ぐ。「なんでも、コンクールに参加してるんでしょ?ほんと、ご苦労なこと」その『ご苦労』という言葉には、あからさまな嘲笑が混じっていた。葵がすかさず冷笑を浮かべる。「あんた、何か用なわけ?」だが凛
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第64話

「あんたごときが、私を殴るなんて!」悲鳴に近い金切り声だった。「お兄ちゃんだって、私をぶったことないのに!」叫ぶと同時、凛は猛然と葵へと飛びかかった。常軌を逸したような素早さと容赦のなさで、自分が身籠っていることなど完全に頭から抜け落ちたように、そのまま葵と激しい取っ組み合いになった。現場は一気にパニックに陥った。「葵、やめて!彼女、妊娠してるの!」実花は慌てて割って入った。お腹を刺激しないよう、細心の注意を払いながら二人を引き離そうとする。だが、その「躊躇」を、凛は見逃さなかった。凛は素早く周囲に目を走らせ、近くにある大理石のテーブルの角を見つけ出した。次の瞬間。激しく突き飛ばされたかのように、凛の体が大きく後ろへよろめいた。「キャアアアアッ!!」鋭い悲鳴が響き渡る。凛はバランスを崩して倒れ込みながら、計算し尽くされた動きで実花の手首へと激突した。実花は、倒れゆく凛を咄嗟に受け止めようと手を伸ばす。そこへ凛の体重がのしかかり、実花の右手は逃げ場を失ったまま、大理石の硬い角に叩きつけられた。――ゴキッ。鈍い音が響く。ハンマーで叩き潰されたような激痛が走り、実花の指先が瞬時に痺れた。腕全体が激しく震える。視線を落とすと、自分の右手が意思に反してガタガタと痙攣していた。一方で、凛は床にうずくまり、真っ青な顔で涙を流している。「痛い……お腹が……!」店内は完全に混乱の渦に飲み込まれた。店員たちの悲鳴が飛び交う。「誰か、救急車を!」「妊婦さんが倒れたわ!」野次馬がまたたく間に集まり、騒然とする中――和真が駆け込んできた。床に倒れる凛の姿を見た瞬間、彼は一切の迷いなく、目の前にいた女性を力任せに突き飛ばした。一直線に、凛のもとへ駆け寄る。突き飛ばされた実花は、重心を失って床に激しく叩きつけられた。すでに傷ついていた右手で咄嗟に体を支えてしまい、骨を突き抜けるような劇痛に視界が真っ暗になる。実花は、漏れそうになる悲鳴を必死に押し殺した。「凛!大丈夫か!」和真の焦燥に満ちた声が響く。彼は凛をそっと抱き起こし、駆けつけた救急隊員が彼女をストレッチャーに乗せるまで、付きっきりで世話を焼いていた。そしてようやく、ほんのわずかな注意を横に向けた。その時初めて
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第65話

救急車のサイレンが遠ざかっていく。あまりにも理不尽な急展開に呆然としていた葵が、ようやく我に返り、実花の異変に気づいた。「ウソでしょ……実花、その手!」葵は大きく息を呑んだ。慌てて実花の体を支えるが、その声はひどく震えている。「立てる?早く、病院に行くよ!」タクシーに飛び乗り、病院へと急ぐ。車が走り出した途端、葵が我慢しきれないといった様子でまくしたてた。「あんたバカなの!?なんであんな女を助けようとしたのよ!あんな毒婦、そのまま転んで流産でもしちゃえばよかったのよ!」実花はシートに深く身を預けたまま、額に冷や汗をにじませていた。右手の痺れは、しだいに鋭い痛みに変わっている。何度か短く息を吐き、ようやく声を絞り出した。「もし本当に何かあったら……私たち、ただじゃ済まないわ」葵が言葉に詰まる。実花はそれ以上語らなかった。あの瞬間、彼女の頭にあったのは「葵を犯罪者にするわけにはいかない」という一点だけだった。けれど、それを口にすれば葵はより一層自分を責めるだろう。「それに……お腹の子に罪はないもの」ぽつりと、自分に言い聞かせるように付け加えた。病院は、平日でも多くの人々で溢れかえっていた。実花の手を診るなり、医師は険しい表情で眉をひそめた。「かなりひどい状態だ。ヒビか、あるいは骨折している可能性がある。すぐにレントゲンを撮ってきてください」指示通りに会計を済ませ、検査室へ向かおうとしたその角で――和真と鉢合わせた。産婦人科の方から歩いてきたらしい和真は、実花たちの姿を認めるなり、その端整な顔を怒りに歪ませた。「よくものこのこと、後をつけてこられたな」吐き捨てるなり、和真は力任せに実花の右手首を掴み上げた。脳天まで突き抜けるような激痛。実花の視界がチカチカと明滅し、短い悲鳴が喉の奥で詰まる。あまりの痛みに、膝が崩れ落ちそうになった。「離しなさいよ!」葵が烈火のごとく怒鳴り散らす。「目ついてんの!?実花の手が怪我してるのが見えないわけ!?」和真の冷ややかな視線が、実花の右手に落ちた。皮膚がわずかに赤らんでいる程度で、目立った外傷は見当たらない。彼の瞳の奥に、露骨な嫌悪と不快感が宿った。「くだらない。なんでも大袈裟に騒ぎ立てれば済むと思っているのか。凛が負った傷に比べれば、その程度
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第66話

映し出された映像は、決して理想的なアングルではなかった。三人の体が重なり、細部までは判然としない。だが、幸運なことに決定的なシーンが記録されていた。凛が倒れようとしたその瞬間、実花が自ら手を伸ばし、彼女を支えようと動いていたのだ。その一点だけで、十分だった。少なくとも実花に加害の意図はなく、むしろ凛を助けようとしていたことが客観的に証明された。凛の表情が強張り、すぐさま言い訳を口にした。お腹をさすりながら、弱々しく声を絞り出す。「私……本当に誰かに押されたんです。あの時は混乱していたから、もしかしたら、あっちの女性だったのかも。ああ……お腹がすごく痛い。赤ちゃんが心配で……」「あっちの女性」とは、もちろん葵のことだ。「もし赤ちゃんに何かあったら、その時に傷害事件として立案すればいいわ」実花は凛に反論の隙を与えなかった。「でも、もし検査の結果が正常なら……それは虚偽告訴罪になる。そうでしょう?」実花は警察官の方を向き、淡々とした態度で続けた。「せっかく警察の方が来ているんですもの。ここで全白黒はっきりさせましょう。身に覚えのない疑惑をかけられたまま終わらせるなんて、私には到底受け入れられません」警察官は実花の毅然とした態度と、対照的に動揺を隠せない凛の様子を交互に見やった。そして手元のメモにある複雑な人間関係に目を落とし、内心ですでにおおよその見当をつけたようだった。「……虚偽の訴えは、相応の責任を問われることになりますよ」釘を刺すと、警察官は医師のもとへ事実確認に向かった。すぐに結果は出た。胎児の状態は極めて良好。凛の体にも、どこにも衝突したような痕跡は見当たらないという。その場に立ち尽くしていた和真の顔が、事態の反転とともにみるみると険しくなっていく。まさか、今の転倒は凛の自作自演だったのか?ふと頭をよぎった疑念を、彼は反射的に打ち消した。信じたくない、信じるわけにはいかない。その時、和真はようやく実花の右手に目を留めた。パンパンに腫れ上がり、皮膚が紫がかって不気味に突っ張っている。「……痛むのか?」無意識に、声が小さくなった。実花は彼を一瞥したが、そこには何の感情もこもっていなかった。彼女はそのまま警察官へ向き直る。「警察官の方。私は彼女を、傷害罪で告訴します」実花はテレビモニターに映るカメ
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第67話

そのまま、今にも倒れそうなほど弱々しく身を震わせ始めた。そんな凛を支えながら、和真はため息をついてスマートフォンを取り出した。「実花。見舞金として金を振り込む。それと、マンションの一室を君の名義で譲る。それで……謝罪の件は、なしにできないか?」実花のスマートフォンに、八桁の着金通知が届く。実花はその画面を一瞥すると、これ以上深追いするつもりはないとばかりに頷いた。「いいわ。成立ね」この件は、これで手打ち。実花は一瞬で、冷徹に損得を弾き出した。病院を出ると、冷え切った夜風が頬を刺した。固定されたばかりの右手が鈍く疼く。けれど、実花の意識は冷や水を浴びせられたように、かつてないほど冴えわたっていた。隣を歩く葵が、納得のいかない様子で口を開く。「……ねえ、どうしてあの女を訴えなかったの?」実花は淡い声で応えた。「訴えたところで、確実に勝てるとは限らないわ。防犯カメラの映像だけじゃ決定打に欠けるし、よくて喧嘩両成敗で終わるのが関の山よ。私はただ、二人を揺さぶっただけ。まさか凛があんなに脆いとは思わなかったけれど」「ごめんね……私のせいで、こんなに苦労させて。本当に、辛い思いをさせたわ」葵はたまらないといった様子で、親友の細い肩を抱きしめた。一方、その頃。凛は和真の胸に顔を埋め、赤く腫らした目を伏せて黙り込んでいた。敗北感に苛まれていた。警察まで介入する事態になり、和真の中での自分のイメージを傷つけただけでなく、あの女にマンションの一室をみすみす明け渡す羽目になったのだから。和真が実花に振り込んだ数千万円という金など、彼らのような資産家からすれば端金にすぎない。だが、和真が自分のために実花へ頭を下げ、示談の場を整えてくれたことに、凛は屈辱を感じつつも、どこか優越感に似た感動を覚えていた。金も、地位も、深い愛情も。この男のすべては自分の手の中にある。伏せられた長い睫毛の影で、凛の唇が微かに、密やかな弧を描いた。──損害は出たけれど、一番の目的は果たせた。実花の右手は、これで当分の間、使い物にならない。あんな手で、一体どうやってコンクールに出るつもりかしら。遠ざかっていく実花の背中を、和真はただ立ち尽くして見送っていた。沈んでいく心に、先ほど彼女から投げかけられた言葉が重く、冷たく波紋を広げる。「彼女が一体何
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第68話

砂遊びに興じ、池の鯉に餌をやり、ブランコを揺らしてやる――そんな何気ない時間が、幼い和真にとっては人生で初めて抱く「誰かと共にあり、誰かに必要とされる」という確かな実感だった。二人の穏やかな時間は、丸二年に及んだ。だがある日突然、みぃちゃんはこの場所から姿を消した。混乱した和真が両親を問い詰めると、隣の高城家はすでに引っ越したのだと、素っ気ない答えが返ってきた。その夜、和真は人生で初めての不眠を経験した。ベッドの中で幾度も寝返りを打ち、頭に浮かぶのは、いつも自分を「かっこいいおにーたん」と呼んで笑っていた女の子の面影ばかりだった。二人の間にあるのは、単なる美しい思い出だけではない。一度だけ、和真は親の目を盗んで、彼女を自分の自転車の後ろに乗せたことがあった。彼なりの、精一杯の「背伸び」だった。曲がり角でスピードを出しすぎた和真は、バランスを崩した。その拍子に、彼女の足が回転する車輪に巻き込まれた。鮮血がじわりと溢れ出す。和真は目の前が真っ白になった。大人に叱られるのが怖かった。何より、これがバレたら、もう二度と一緒に遊ばせてもらえなくなるのではないか。その恐怖が幼い和真を支配した。彼は震える手で彼女に靴を履かせ、掠れた声で必死に訴えた。「……ねえ、誰かが来ても、絶対に泣いちゃだめだよ。何もなかったふりをするんだ。もしバレたら、もう一緒にお外で遊べなくなっちゃうから」当時の彼女は、驚くほど小さかった。痛みで顔は青ざめ、目には大粒の涙が溜まっていたけれど、彼女は唇をぎゅっと噛みしめて耐えた。そして和真を見つめ、力強く頷いた。本当に、一言も泣かなかった。後に、足の怪我は使用人に見つかった。幸い骨に異常はなかったが、足の裏には消えない傷跡が残った。その傷を、和真は生涯忘れられぬものとして心に刻んだ。それ以来、彼女はその秘密をずっと守り通した。決して和真の失態を口にしなかった。子供同士の「義理」は、時として一生を左右する重みを持つ。和真が彼女に抱く感情は、愛であり、慈しみであり、そして消えることのない罪悪感でもあった。あの日以来、彼は心に誓った。「もう二度と、彼女を傷つけさせない」と。それから数年の月日が流れた。和真が十五歳になった年、彼は進学先の学校で、美
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第69話

「なら、座って見せてごらん」和真は穏やかな声色で応じた。「ついでに病院のスリッパに履き替えさせよう」彼はしゃがみ込み、彼女の靴を丁寧に脱がせた。露わになった足の裏は、白くなめらかで、いびつな痕跡は一切なかった。あの消えないはずの傷跡は、どこにも見当たらない。自分の足首を優しく握る和真を見下ろし、凛は恥じらうように頬を染めた。「和真くん……やめて。誰かが見ているかもしれないわ」和真は表情ひとつ変えず、彼女にスリッパを履かせた。その動作は極めて自然で、胸の内の動揺など微塵も感じさせない。そして、ただの雑談のようにふと口にした。「まあ、万が一傷跡が残っても気にする必要はないさ。今は技術が進歩しているから、修復手術を受ければほとんど分からなくなる。ただ、術後はかなり痛むらしいから、君にはそんな思いはさせたくないな」凛は軽く笑って答えた。声は弾んでいた。「でも、やっぱり生まれつきの肌が一番よ。私、傷跡を消す手術なんて一度も受けたことないし、これからもお世話になるようなことがないといいな」彼女の胸の内に、密かな優越感が広がっていく。やはり和真は、相変わらず自分のことを深く愛し、気配りを欠かさない。今夜は特にそれが顕著だ。先ほど自分が転んだことで、よほど心配してくれたのだろう。しかし、彼女の視線が届かない角度で、和真の瞳は少しずつ、温度を失うように冷え切っていた。和真は何気ないトーンを装い、さらに言葉を被せた。「そういえば凛。昔、僕たちの家はすぐ隣同士だったよね。君が一番好きだって言っていた百合の花が、両家の敷地の間にたくさん植えられていたのを覚えているかな?」——高城凛は幼い頃、百合の花など好きではなかったし、あの高級住宅街の敷地に百合が植えられていた事実もない。凛の表情が、ほんの一瞬だけ強張った。しかし彼女はすぐさま反応し、本当に過去を懐かしみ、記憶の糸をたぐり寄せるようなそぶりを見せた。「……ごめんなさい、思い出せないわ」彼女は小さく首を横に振り、少しだけ切なそうな、やるせない響きを声に滲ませた。「和真くんには、前にも話したと思うけど……あの交通事故のショックのせいで、それより前のことって、ほとんど頭から抜け落ちてしまっているの」そう言ってうつむく仕草は、彼女が過去の話題を避けるときの常套手段だった。担当医から
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第70話

数回のコール音の後、繋がった相手に低く、静かな声で命じる。「……僕だ。至急、調べてほしいことがある。二十年前、僕が住んでいた海浜市の実家の隣の屋敷に、当時誰が出入りしていたのか。特に、そこに『小さな女の子』が住んでいなかったか、徹底的に洗ってくれ」同日深夜。 何の予兆もなく、SNSのトレンドランキングのトップに真新しい見出しが躍り出た。【瀬戸グループ御曹司・瀬戸和真、謎の美女と再び密会か】それに続くように、似たようなゴシップ記事が瞬く間にランキング上位を独占していく。【グループ跡取りに不倫疑惑浮上!愛人はすでに妊娠中!?】【名門一族の愛憎劇:沈黙を貫く正妻と、堂々とマウントを取る愛人】【瀬戸夫人の結婚生活、すでに実態はなし?】記事に添付された写真は画質こそ粗かったが、見る者の想像を掻き立てるには十分すぎるものだった。病室の入り口で顔を寄せ合い言葉を交わす男女の姿。親密そうに身を寄せ合う様子に加え、意図的に赤丸で囲われた「女性の少し膨らんだ腹部」。真偽が入り混じる中、見出しは一つ、また一つと過激さを増していく。ネット民たちは即座にこの話題に食いついた。単なる野次馬から、どちらかの味方をする者、勝手にドロドロのストーリーをでっち上げる者、陰謀論を唱える者まで入り乱れ、炎上は瞬く間に広がっていった。さらには、物好きなユーザーが一ヶ月前に世間を騒がせた古いゴシップまで掘り起こしてきた。【速報:瀬戸グループ後継者・瀬戸和真氏、深夜の空港に現る。百合の花束を手に謎の美女をエスコート】添付されていたのは、あの夜、空港で盗撮された動画の切り抜きだった。薄暗い照明の下、冷たくも美しい横顔を見せる男と、その横に寄り添う輪郭のぼやけた女。本来、こうした富裕層の真偽不明なゴシップなど、ネット民からすれば日常茶飯事で珍しくもないはずだった。しかし、この過去のスクープが引きずり出され、今回の病院での密会写真と並べられたことで、事態は俄然きな臭さを増した。おまけに『事情通からのリーク』を名乗る書き込みが、時間や場所、人物関係などの詳細を辻褄が合うように並べ立て、あたかもその場で一部始終を目撃したかのような臨場感で拡散され始めたのだ。コメント欄は爆発的な勢いで伸び続けた。【あれ、これって少し前に噂になってた『御曹司の忘
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