《愛し続けた彼を、私は手放すことにした》全部章節:第 91 章 - 第 100 章

122 章節

第91話

 ここ数日、逃げるように仕事へ没頭し続けたせいで、身体はとっくに限界を迎えていた。 それなのに、紗月は目を閉じても眠れなかった。 終わりの見えない、ひどい不眠だった。 眠れないだけではない。 食欲もほとんど失われていた。数日間、まともに口にできたのはほんの少しだけ。顔色も明らかに悪く、普段そこまで親しくない同僚ですら「大丈夫ですか」と声を掛けてくるほどだった。 けれど紗月自身は、自分が壊れているとは思っていなかった。 まだ働ける。 数字や資料で頭を埋め尽くしている間だけは、余計なことを考えずに済む。それがここ最近、唯一息をつける時間だった。 幸い、プロジェクト自体は順調に進んでいた。 第二フェーズの定例報告会も目前に迫っている。 徹夜で仕上げた資料とプレゼン用のPPTを蒼空へ渡した瞬間、彼は大げさなほど目を輝かせ、五分近くずっと紗月を褒め続けた。「紗月さん、すごすぎます! これ、めちゃくちゃ時間かけましたよね? ……というか、顔色かなり悪くないですか? 報告会、本当に大丈夫です?」 紗月は小さく笑って首を振った。 疲労のせいで、その笑みはどこか弱々しい。「大丈夫。ちゃんとできると思う」 この報告会を、彼女はずっと楽しみにしていた。ほとんど、自分のすべてを注ぎ込んできたと言ってもいい。 ようやく自力で掴み取った案件だった。 だからこそ、何より大切だった。 前回は慎一のせいで、報告の場を逃した。だから今回は、絶対に失いたくなかった。 欲しいものは、いつだって手に入らない。 せめて仕事だけでも。 自分が努力した分だけ返ってくる成果くらいは、ちゃんと掴みたかった。 紗月の言葉を聞いた蒼空は、一瞬だけ複雑そうな顔をした。 同情にも似ているのに、それだけではない何かが混ざったような表情。 けれど、それもほんの一瞬だった。 今の紗月には、そんな違和感に気づく余裕すらなかった。 蒼空によれば、報告会は来週月曜。 そんな重要な日程ですら、紗月は最後になって知らされた。正式な通知メールも来ていない。 関連書類やデータを一通り引き継ぎ終える頃には、蒼空が本社へ戻る時間になっていた。 エレベーターへ向かう途中、紗月はめくれ上がっていた廊下のカーペットに足を取られた。「っ……」 身体が大きく傾く。 その瞬間、蒼空が咄嗟に紗月の
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第92話

 紗月は、自分が深い海の底へ沈んでいくような感覚に包まれていた。 どこを見渡しても、果てのない闇しかない。 息苦しいのに、不思議と冷たくはなかった。 むしろ、ぬるい水に全身をゆっくり侵されていくような、淡い温度だけがあった。 足元にも何もない。 地面を踏みしめる感覚はなく、底の見えない闇へ引きずり込まれていくような恐怖だけが、じわじわと身体にまとわりついてくる。 紗月は前へ進もうとした。 けれど、どれだけ歩いても景色は変わらない。闇から抜け出すこともできなかった。 行く当てもないまま、それでも彼女は歩き続けた。疲れすら感じない。ただ意味もなく、ひたすら前へ。 やがて立ち止まり、気づいてしまう。 ――どれだけ足掻いても、結局は無駄なのだと。 そして、ふと理解した。 現実でも、この奇妙な暗闇の中でも、きっと同じなのだ。 水面に浮かぶ月のように。どれほど焦がれても、求め続けても。それは決して、自分のものにはならない。 目を開けるより先に、誰かが自分の名前を呼ぶ声が聞こえた。 ひどく切羽詰まった声音だった。意識の霞んだ紗月には、それが誰なのか分からない。 次の瞬間、強い光が瞼越しに差し込み、紗月は眉を寄せて再び目を閉じた。 すると不意に、手へ重みが落ちる。 誰かに強く握られている。 痛みを感じ、紗月は小さく呻いた。「……っ」 その声を聞いた途端、手を掴んでいた力はすぐに離れていった。* 紗月が倒れてからの数時間、慎一は自分でも理解できない焦燥感に苛まれていた。 落ち着かない。 妙に胸がざわつく。 そんな自分自身に、慎一は苛立っていた。 相手は紗月だ。 ただ気を失っただけかもしれない。あるいは、自分の前でまた芝居をしている可能性だってある。 それなのに、なぜここまで神経を乱されなければならないのか。 だが結局、社長室へ紗月を運び込むと、慎一はすぐ朝倉家専属の家庭医へ連絡を入れていた。 医師は十五分ほどで到着した。 呼吸や脈拍、瞳孔反応を手際よく確認し終えると、医師は慎重に慎一の顔色を窺いながら口を開いた。「朝倉様。奥様ですが……おそらく過労かと」「過労?」「かなり体温が低いですね。脈も弱いですし、低血糖を起こしている可能性もあります。ひとまず点滴を入れますが……目を覚まされた後、一度きちんと病院で精密検
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第93話

 紗月自身も、ここまで強く拒絶反応を示すとは思っていなかった。 まだ意識はぼんやりしていて、身体もまともに力が入らない。頭も上手く働かないまま、慎一を前にした瞬間――ただ反射的に、本音が出てしまったのだ。 拒絶してしまったあとになって、紗月は少しだけ後悔した。さすがに今の態度は、悪かったかもしれない。 けれど、自分を責めるより先に、慎一の冷たい笑い声が落ちてくる。 その目には、いつものように軽蔑が滲んでいた。「まるで俺がお前に触りたがってるみたいな反応だな」 吐き捨てるように言ってから、慎一は鼻で笑う。「わざわざ俺の前で倒れたくせに。……相変わらず大した手だな、紗月」「……」 紗月は何も言えなかった。 慎一に誤解されることなんて、今まで何度もあった。 忘れたつもりでいた。 気にしないようにしていた。 本当は、そのひとつひとつが、心の奥にずっと積み重なっていたのだ。 昔は必死に弁解していた。 少しでも自分を理解してほしくて、嫌われたくなくて、何度も言葉を尽くした。 でも今は、もうそんな気力も残っていない。 胸の奥だけは、相変わらず慎一の言葉ひとつで痛むのに。反論も、言い訳も、何ひとつ口にできなかった。 ――慎一がそう思いたいなら、それでいい。 どれだけ頑張っても、この人の考えは変わらない。 少し前までは、どれだけ遠くても、想い続けていればいつか届くのだと思っていた。 いつか振り向いてもらえると。 いつか、自分を見てくれる日が来るのだと。 今となっては――そんなふうに信じていた自分が、ひどく滑稽に思えた。「どうした。図星か?」 紗月が俯いたまま何も言わないのを見て、慎一は彼女が言い返せないのだと勝手に解釈した。 視線に宿る軽蔑がさらに濃くなる。 その一方で、胸の奥には妙な安堵もあった。 こんな真似をするということは、紗月はまだ自分の気を引こうとしている。 まだ自分へ執着している。 そう思った瞬間、胸の内に張りついていた得体の知れない焦燥が、わずかに薄れていく。 (やはり紗月は、自分から離れられない。) その確信が、不思議なほど慎一を落ち着かせた。 ただ、自分の身体を壊してまで気を引こうとするやり方は、気に入らなかった。 慎一は不機嫌そうに眉を寄せたまま、低く硬い声で続ける。「医者に点滴は打たせた。
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第94話

 警備員ちは一歩たりとも譲らなかった。 完全に行く手を塞ぎ、紗月を一歩たりとも先へ進ませようとしない。不安がじわじわと胸の中へ広がっていく。 結局、紗月はそのままエントランスから追い出され、本社ビル前の広場に取り残された。 どうすればいいのか分からないまま、紗月はただ目の前の自動ドアを見つめていた。 こんなことをする相手など、本当は薄々分かっている。けれど彼女は、わざと考えないようにしていた。 時間だけが無情に過ぎていく。 報告会の開始時刻が近づき。 そして始まり。 紗月は、ただ立ち尽くしたまま、それを迎えることしかできなかった。 気づけば、報告会は終わりの時間へ向かって少しずつ流れていた。その間も、紗月は何度も蒼空へ電話をかけ続けた。 そのすべてが一方的に切られる。 ようやく電話が繋がったのは、報告会が終わったあとだった。『紗月さん? なんでこんなに電話してるんですか? 今日の報告、追加資料でもあったんですか?』 蒼空の声は、驚くほどいつも通りだった。『こっちはもう無事終わりましたよ。もし追加資料なら、そのまま僕のメールに送ってください』 なぜ紗月が本社へ来ていないのか。 なぜ報告会へ現れなかったのか。 蒼空は、そのことを一切聞かなかった。 最初から事情を知っていたかのように。何ひとつ疑問を抱いていない、あまりにも自然な口ぶりだった。「松山くん……どうして……」『え? 紗月さん、もしかしてまだメール確認してないんですか?』  紗月が何を聞こうとしているのか察したのか、蒼空はわざとらしく驚いた声を上げ、彼女の言葉を遮った。「メール……?」『はい。もう通知出てますよ。社内ポータルにも掲載されてますし。普通なら正式なメールも届いてるはずなんですけどねぇ』 そこで一度言葉を切り、蒼空は軽く笑った。『紗月さん、今回のプロジェクトでの担当、もう終了なんですよ。お疲れさまでした』「……え……」『いやぁ、でも考えたら当然ですよね。もともとこの案件って本社主導ですし。表向きは責任者扱いでしたけど、結局、紗月さんって本社からしたら外部協力みたいな立場だったじゃないですか』 蒼空の声には、もう以前のような人懐っこさはなかった。『だって考えてみてくださいよ。この数ヶ月、本社側で紗月さんに直接連絡してたの、ほとんど僕だけだったでし
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第95話

 雨脚は、いつの間にかさらに強くなっていた。肌や頬を叩く雨粒の痛みで、ようやく紗月は現実を感じる。 雨が目に入るせいで顔を上げることもできず、ただ両手で慎一の左腕を必死に掴み、逃がすまいと力を込めた。 慎一は雨に濡れた紗月を見下ろした。 張り詰めた表情も、震える肩も見えているはずだった。 それでも彼の持つ傘が紗月へ傾くことはない。雨に打たれる彼女を前にしても、慎一は少しも気に留めていないようだった。「何だ」「こんなこと、しないで……あれは私のプロジェクトだったの。私、あんなに頑張ったのに……」 蒼空からチーム除外を告げられた時でさえ、こんな感情にはならなかった。 慎一の顔を見た瞬間に込み上げた怒りなのか、悔しさなのか、それとも悲しさなのか。 紗月自身にも分からない。 ただ全身が震えるほど感情が高ぶり、慎一の腕を掴む手にもありったけの力が入る。 頭の中は破裂しそうなほど熱く膨れ上がり、まともに考えることすらできなかった。 口から出る言葉も震え、かすかに泣き声が混じる。 けれど、いざ言葉にしようとして――紗月は気づいてしまった。 あのプロジェクトのために徹夜した夜も。 作り続けた資料も。 数字を追いかけて走り回った日々も。 嬉しかったことも、苦しかったことも。 そのすべてを、たった数言で説明できるはずがないのだと。「……私が、掴んだプロジェクトだったのに……」 慎一が小さく笑った。 その笑いには温度など欠片もなかった。 紗月が必死に守ろうとしているものを、心の底から滑稽だと嘲笑うような響きだった。「お前のプロジェクト?」慎一は嘲るように口元を歪める。「紗月、自分で言っていておかしいと思わないのか。会社が資金も人員も注ぎ込んで作り上げた成果を、いつからお前一人の手柄みたいに語れるようになった?」「でも……でも、最初にヴェリタスと契約できたのは……」 紗月は咄嗟に凑斗の会社名を口にした。 凑斗が自分の能力を認めたからこそ、慎一との提携が実現した。 それは紛れもない事実だった。 だが慎一は微動だにしない。「確かに最初は桐生がお前を見込んで、プロジェクト責任者に指名した。だが、プロジェクトの主導権はとっくに朝倉グループへ移っている。資金を出しているのも本社だ。本社のプロジェクトチームは人選基準が厳しい。何段階もの選
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第96話

 突然現れ、自分を庇うように立った二人に、紗月はすぐには状況を理解できなかった。 全身ずぶ濡れになっているというのに、凛子はなおも紗月を強く抱き締めている。慎一へ向ける表情には怒りが浮かび、その身体は怒りを抑えきれないように小さく震えていた。 その震えが伝わってくるほど近くにいるのに、不思議と怖くはなかった。 ただ、温かかった。 冷たい雨に打たれ続けた身体は、人の温もりを求めていたのかもしれない。 紗月は凛子の胸元へ顔を埋めた。すると堪えていた涙が一気に溢れ出し、凛子の服まで濡らしていく。 慎一はわずかに眉をひそめた。 突然現れた二人を見つめ、慎一は一瞬だけ言葉を失う。 記憶力のいい彼は、目の前の女性にも見覚えがあった。高校時代と比べれば髪色も服装も化粧も大きく変わっている。それでも慎一は記憶の奥からその名前を引き出した。「……高瀬」 高校時代、二人が親しかったことは覚えている。 だが、今でも交流が続いているとは知らなかった。 いつからだっただろう。 結婚したばかりの頃の紗月は、自分に会うたび必死に話題を探していた。今日あった出来事や職場の話、好きな店の話まで、少しでも会話を続けようとしていた。 けれど、ある時からぱたりと話さなくなった。 気づけば、自分のことを何も語らなくなっていた。 そんなことを思い出しながら、慎一はゆっくりと視線を隣の青年へ移した。 優介と会うのは初めてだった。凛子によく似た目元を見れば、二人の関係など容易に想像がつく。 優介もまた、怒りを隠そうとしなかった。 むしろ、その怒りを真正面から向けられても平然としている慎一の態度が、余計に神経を逆撫でする。 今すぐ殴りつけてやりたい。 そう思うほど腹が立った。 それでも彼は拳を握り締め、辛うじて理性を保った。 凛子は怒りを隠しきれず声を荒げた。「さっきの言葉、どういう意味よ! 身体で喜ばせるって何なの!? あんた、紗月と結婚した相手でしょう!? ずっとそんなふうに話してきたの!? 好きな女にそんな言葉をぶつけて、あんたそれでも男なの!? そんな扱いをしておいて、人として恥ずかしくないわけ!?」 凛子は昔から知っていた。 紗月が慎一を好きだったことを。 しかも、それは一時の憧れなどではない。何年も何年も変わらない、本気の恋だった。 だから海外に
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第97話

 凛子は紗月を連れて、ひとまず自分が借りているマンションへ戻った。 車の中では、泣き続ける紗月を気遣って何も聞かなかった。だが部屋へ着いた途端、やはり堪えきれなくなったらしい。 もともとの短気な性格には勝てなかった。「さっちゃん、どういうことなの?」 玄関をくぐるなり、凛子は振り返る。「あいつが言ってたこと、どういう意味!? さっちゃんが何かしたから結婚したって!? だってあんたたち、好きだから結婚したんじゃなかったの!?」 聞きたいことが多すぎたのだろう。一度口を開けば、堰を切ったように言葉が溢れ出した。 今度は優介のほうが慌てた。「姉ちゃん、そんな言い方したら紗月姉さんがびっくりするだろ」 後ろから服の裾を引っ張られ、凛子はようやく口を閉じる。 珍しく、言い返しもしなかった。 重苦しい沈黙が落ちる。 優介はそっと紗月をソファへ座らせた。 また目が腫れている。 最近は泣いてばかりで、その痛みや重さにも慣れてしまった。 長い間、誰も口を開かなかった。 凛子と優介は紗月が話し出すのを待ち、紗月はどう話せばいいのかを考えていた。 けれど振り返れば、自分の人生は結婚した頃からすべてが狂い始めていた。 惨めで。 情けなくて。 とても凛子には話せそうになかった。 結局、紗月は俯いたまま、小さく謝ることしかできない。「……ごめん」 その瞬間、凛子の目も赤くなった。 涙が滲み、今にも零れ落ちそうになる。 紗月を責めたいわけじゃない。ただ、どうしようもなく苦しかった。 振り上げた手は、そのまま勢いよくソファの背もたれへ叩きつけられた。「なんであんたが謝るのよ、バカ! さっちゃんのバカ!! こんな大事なこと……こんな大事なことを、ずっと私に黙ってたなんて……!」 震える声は途中から掠れていた。 そこまで言ったところで、凛子はとうとう堪えきれなくなった。「うわあああぁぁんっ!」 突然の号泣に、紗月も優介も揃って慌てた。 慌ててティッシュを差し出そうとするが、凛子は二人を押しのける。「来ないで! 今は泣くの!」 涙でぐしゃぐしゃになった顔のまま叫んだ。「さっちゃん、あとで説教だからね! こんな話聞かされて、泣かないほうがおかしいでしょ!」 初めて見る紗月のこの姿が、あまりにも痛々しかった。 悲しくて。 悔しくて
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第98話

 慎一が初めて、自分に好きな人ができたと話してくれた日のことを、紗月は今でも覚えている。 あのときの気持ちも。 まるで空も目の前の景色もぐるぐると回りながら歪んでいくようで、嬉しそうに笑う慎一の顔さえまともに見られなかった。 頭の中はひどく混乱していて、その日のこともよく覚えていない。それでも、無理やり笑顔を作り、ぎこちなく祝福の言葉を口にしたことだけは覚えている。 慎一は紗月の異変に気づかなかった。 いや、気づかなかったというより、その頃の彼の心はすでに別の誰かでいっぱいだったのだろう。紗月のことをちゃんと見ていなかった。 紗月は誰にも知られないまま、一人で失恋した。 数日間ひどく落ち込み、何も手につかないまま過ごした。それでも諦めなければいけないのだと自分に言い聞かせ、忘れようともした。 自分ではうまく隠せているつもりだった。 けれど祖父はすぐに気づいた。 どうしたのかと心配して、何度も声をかけてくれた。「……おじいさまに、慎一のことが好きだって言うべきじゃなかったの。慎一には好きな人がいるのに、それなのに私……慎一と結婚したいって話してしまった」 紗月は、祖父に打ち明けたことを、ただ我慢しきれずに零してしまった弱音のようなものだと思っていた。 慎一に好きな人がいると知って、どうしようもなく苦しくなっただけで、祖父に慎一を説得してほしかったわけではない。 もちろん悲しくてたまらなかったが、本当にそんな卑怯なやり方で慎一を自分のものにしたいと思ったこともなかった。 あのときの紗月はただ、慎一に好きな人ができたことが悲しかった。 その相手が自分ではなかったことが苦しかった。 ただそれだけだった。 だが、慎一もその場にいた。 紗月の胸の内をすべて聞いてしまい、彼女を卑怯で身勝手な人間だと誤解した。 紗月の失敗は、自分の本心を祖父に打ち明けてしまったことだった。 家族の中で誰よりも自分を愛し、誰よりも自分を気にかけてくれる人に。「おじいさま、多分慎一と話をしたんだと思う。何を話したのかは知らない。でもある日、慎一がすごく怒って帰ってきて……書斎でおじいさまと大喧嘩したの」 そのことは今でもよく覚えている。 そして。 書斎から出てきたときには、慎一はもう怒っていなかった。 ただ、書斎の外で不安そうに待っていた紗月を見つ
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第99話

 凛子は、そんな恋をしたことがなかった。 だからこそ見えてしまう。 この恋の中で、紗月がどれほど自分を削り、どれほど惨めな思いをしながら、抵抗することすらできずにもがいてきたのかを。 凛子は長い間、紗月を抱きしめ続けた。そして何度も何度も、同じ言葉を繰り返す。「私、本当に辛いの……さっちゃんのことを思うと、苦しくてたまらない……どうしたらいいの……」 嗚咽に途切れそうになりながらも、凛子は必死に言葉を紡ぐ。「お願いだから、離婚して……。お願い、さっちゃん。私のお願いだと思って……。そんな男のところから離れて。さっちゃんを大事にしてくれない人のそばに、もういないで……お願いだから……」 紗月は白い壁を見つめたまま、しばらく何も答えられなかった。 視界が滲んでいる。 照明のせいなのか。 それとも、泣きすぎたせいなのか。 気づけば、慎一との二十年が映画のワンシーンのように次々と脳裏によみがえっていた。 幼い頃に初めて出会った慎一。 少しずつ積み重ねてきた時間。 そして、今。 悲しいことに気づいてしまう。 断ち切ったつもりでも、捨てきれない想いはまだどこかで繋がっていて。 慎一を諦める決意よりも、離れたくない気持ちのほうが、ずっと大きな場所を占めていた。 それでも、自分のためにたった一人の親友がこんなにも泣いてくれている。 紗月は凛子の背中をそっと撫で、宥めるように抱き返した。「……頑張る」 すると凛子はすぐに顔を上げた。 涙声のままなのに、その口調だけは妙に強い。「頑張るだけじゃだめだからね!明日、あんな最低な男にちゃんと離婚するって言うの!」 その声は強気なはずなのに、涙に濡れているせいで少しも迫力がない。 むしろ、その必死さが痛々しくて、紗月の胸まで締めつけた。 こんな思いをさせている自分が、どうしても許せなかった。「……うん。慎一と離婚する」 凛子も、それが今の紗月の本心ではなく、自分を安心させるための言葉だと分かっていた。 それでも彼女は譲らない。「約束して」 そう言って小指を差し出し、半ば強引に促す。「指切り」 子どもみたいなその仕草に、紗月は少しだけ目を細めた。 二人は小指を絡める。 凛子は鼻をすすりながら続けた。「さっちゃん。私ね、海外に行ってから毎年誕生日に願ってたの。……さっちゃ
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第100話

 証人になるという話になると、凛子も優介も妙に張り切り始めた。少しでも早くその役目を引き受けたいのか、二人して我先にと名乗りを上げる。 紗月が頷いて手にしていた書類を凛子へ渡すと、凛子はすぐにペンを取り出した。そして書類をテーブルの上に広げると、真剣な表情で一枚一枚に自分の情報を書き込んでいく。優介と同じだった。何枚あるのか数えることもなく、用意されている離婚届すべてに丁寧に記入していく。書き終えると、凛子は満足そうにしばらく眺め、それから優介へ向かって言った。「初めてあんたも少しは役に立つんだなって思った」「でしょ、姉ちゃん」 優介もすっかり得意げだった。 だが、凛子に褒められただけでは足りなかったらしい。そのまま身体を紗月のほうへ寄せると、きらきらとした目で紗月を見つめる。 その態度も仕草もあまりに分かりやすくて、紗月は一目で優介の考えを察した。 思わず笑みをこぼし、そっと手を伸ばす。 自分から頭を寄せてきた優介を、優しく撫でた。「優介くん、ありがとう」 頭を撫でられた優介は、今にも尻尾を振り出しそうな大型犬のように嬉しそうな顔をした。 そのあまりにも単純な様子に、凛子は呆れたように白い目を向けてから、改めて紗月へ言った。「さっちゃん。このまましばらく私の家に住みなよ。もうあそこには帰らなくていいから。離婚の話をするなら私も一緒に行く。ちょうど帰国したばっかりで仕事もまだだし、時間ならいくらでもあるから」「そうですよ、紗月お姉さん。姉ちゃんなんて今ただの無職ですし、一人だと可哀想なので、たくさん構ってあげてください」「このバカ弟。どうしてお前の口から出るとそういう意味になるの?」 案の定、二人はまたすぐに言い合いを始める。 そんな様子を眺めながら、紗月はテーブルの上に置いた左手で離婚届の端をそっとなぞった。 ほんの一瞬だけ、心が軽くなった気がした。 自分のそばには、こんなにも心配してくれて、支えてくれる人がいる。 それだけで十分だった。 まだ時間に余裕があったため、紗月は一度家へ戻り、自分の荷物を取りに行くことにした。 出かける直前になって、久しぶりに美沙子から電話がかかってきた。 画面に表示された「母さん」の文字を見つめながら、紗月はしばらく迷った。 それでも三度目の着信が鳴ったところで、紗月はようやく電話
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