《愛し続けた彼を、私は手放すことにした》全部章節:第 101 章 - 第 110 章

122 章節

第101話

 紗月はすぐには答えなかった。 目の前にいる美沙子は、愛想笑いを浮かべながら、どこか媚びるような口調で話している。 そんな姿が妙に見慣れなくて、何を考えているのかまるで読めなかった。 あまりにも作り物めいた態度だった。 わざとらしい親しさも、結局は上辺だけのものにしか見えない。 冷たく突き放されるよりも、かえって惨めな気持ちになる。 あの夜のことを思い出す。 慎一に傷つけられた時ほどではない。 それでも、美沙子の顔を見ているだけで胸の奥がじくりと痛んだ。 美沙子と顔を合わせてからというもの、胃の調子までおかしい。時折きりきりと痛む。「……お母さん。そんなに急いで私を呼び出したのは、何かご用があったからですか?」 紗月がそう尋ねる。 これまで美沙子のほうから、こんなにも必死に連絡してきたことはなかった。 まるで外で暮らす娘のことなど気にも留めていないかのように、一度だって積極的に関わろうとしたことはない。 それなのに今日は違った。 電話では何度も会いたいと頼み込み、店も初めて会った時の駅前にある混雑したカフェとは比べものにならないほど高級な場所を選んでいた。「それは……確かにお願いしたいことはあるの」 美沙子はあっさりと認めた。 だが、頼み事があると言った途端、なぜか口を閉ざしてしまう。 ゆっくりと湯呑みを持ち上げ、何度かお茶を口に運びながら、横目で紗月の反応を窺っていた。 頼み事をする立場だというのに、最後の最後で母親としての体面だけは手放したくないらしい。 少しでも下手に出るのは癪なのだろう。 そもそも美沙子は、心の底から紗月に納得しているわけではなかった。 もし慎一と先に出会ったのが、自分の可愛い美月だったなら――。 自分はこんなふうに、ろくに顔を合わせたこともない娘へ何度も頭を下げる必要などなかったはずだ。 そう思うだけで、胸の奥がざわつく。 情けなくて、惨めで、ひどく居心地が悪かった。 美月なら、こんな思いはさせなかったはずだ。 だから結局は、紗月が悪い。 心のどこかで、そんな理不尽な結論に縋っている。 それでも沈黙だけは耐え難かったのか、美沙子は再び取り繕うような笑みを浮かべた。 そして今度は、自分の結婚生活について語り始める。 夫の家は代々裕福な家柄であること。 けれど肝心の夫には商才が
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第102話

 紗月は何も言えず、ただ美沙子の動く唇を見つめていた。 数秒の間、何も聞こえなくなったような感覚に襲われる。 目の前にいる美沙子の存在さえ現実味がなく、自分が勝手に作り出した幻のようだった。 もしこんな母親なのだと知っていたなら。 いっそ最初から現れないでくれた方がよかった。 少なくとも、自分の中に抱いていた両親への淡い幻想だけは、壊れずに済んだのに。 こんなふうに、何もかも失ってしまうほど失望することもなかったのに。 紗月がいつまでも返事をしないせいか、美沙子は次第に焦り始めた。 その声にも、少しずつ苛立ちが混じっていく。 もともと本心から優しくしていたわけではない。 良い母親を演じようとしても、紗月相手では最後まで取り繕いきれなかった。「どうして何も言わないの? これくらいのことも、お母さんを助けてくれないの? 血は水よりも濃いって言うでしょう? 私だって、あなたを産む時は本当に苦労したのよ。あの頃はお金もなかったし、頼れる人もいなかった。それでも、どうしても堕ろせなくて産んだのよ」「……」「私が産んだだけで育てなかったことを責めてるの? 子供を育てるのがどれだけ大変か、子ども一人産んだこともないあなたには分からないわ。私はあなたのためを思って、朝倉家に託したのよ。結果的に、あなたは幸せに暮らしてきたじゃない。あんな立派な家で、何不自由なく育って、慎一さんみたいな人と小さい頃から一緒にいられて……美月だったら、きっと母親の苦労だって分かってくれ――」 そこまで口走ってから、美沙子はようやく自分が本音を漏らしてしまったことに気づいたらしい。 慌てたように愛想笑いを浮かべ、取り繕うように言葉を続ける。「もちろん、お母さんだってずっとあなたのことを想ってたのよ。ただ、あなたの生活を壊したくなくて……全部あなたのためだったの。考えてみなさい。もしお母さんがあなたを引き取っていたら、今みたいに慎一さんと一緒になれたと思う? あなたみたいな子、本来なら慎一さんの髪の毛一本にだって――」 本当は取り繕うつもりだったのだろう。けれど話しているうちに、また本音が混ざってしまった。 美沙子は気まずそうに口を閉ざした。 紗月は頭の奥がじんじんと痛むのを感じる。 気づけば、片手はバッグの持ち手を強く握り締めていた。 本当は食事が終わるまでは我
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第103話

 家へ戻ると、予想していた通り、中はひっそりと静まり返っていた。 紗月にとっては胸が張り裂けそうになるほど辛くて、どうしようもなく苦しかった出来事も、慎一にとっては取るに足らない些細なことでしかない。 紗月が帰ってこなくても、慎一は一言も気にかけることはない。 メッセージの一つ送ることすら惜しむような人だった。 それなのに。 玄関の扉を開けた瞬間、紗月の胸にはほんの少しだけ、慎一に会いたいという期待が湧いてしまった。 本当に、どうしようもない。 何度期待しては失望して、何度傷ついて、何度裏切られてきたのか。 それなのに、どうして慎一への想いだけは、完全に殺しきることができないのだろう。 力が抜けたように、自室のベッドへ身を横たえる。 三年間暮らしたこの家には、驚くほど慎一の痕跡が少なかった。 彼の部屋に掛けられた服もほとんどが新品のままで、一度も袖を通された形跡すらない。 むしろ、会社の執務室に置いてある替えの服の方が、よほど出番が多いくらいだった。 家の中にも、二人の関係を示すものは何一つない。 写真すらなかった。 結婚式場から贈られたウェディングフォトも、初日に慎一が捨ててしまい、壁に飾られる機会さえ与えられなかった。 それは、紗月が一人で必死に守り続けてきた結婚生活とよく似ていた。 一人だけの努力では、家に家庭の温もりを宿すことなどできない。 まして、人の心などなおさらだった。 しばらく静かに横になっていた紗月は、やがてゆっくりと起き上がる。 持ち歩いていた離婚届を取り出した。 長い時間をかけた。 情けないほど涙も流した。 それでもようやく、離婚届に自分の情報を書き込む。 続いてパソコンを開き、今度は退職願を書き始めた。 どちらも、ただそれだけのこと。本来なら、難しいことではないはずだった。 けれど紗月にとっては、あまりにも難しかった。 理性と感情。 何度も揺れ動き、その狭間で苦しみ続けた。 最後に離婚届をダイニングテーブルの上へ置いた時、紗月はようやく長く息を吐き出す。 もう一度だけ、この家の中をゆっくりと見渡したあと、振り返ることなく、荷物を詰めたスーツケースを引いて家を後にした。* 紗月が家を出てから、一度も慎一へ連絡することはなかった。だが、慎一からの連絡は思っていたよりも早くやってきた
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第104話

「……それって、どういう意味」 冷淡さと薄情さしか映さない慎一の瞳を見つめながら、紗月はどうにかそれだけを絞り出した。 胸の奥へ、得体の知れない恐怖が押し寄せてくる。 慎一が次に何を口にするのか怖かった。 どうして今になって金の話を持ち出すのか。 その意図が分からない。 けれど本当は、まったく想像がつかないわけではなかった。ただ――考えるのが怖かった。 不安に揺れる紗月を見て、慎一は低く笑った。 まるでようやく少しだけ愉快になれたかのように。紗月の不安や恐怖の上に成り立つ愉悦など、あまりにも悪趣味だった。「藤崎さんがお前の名前を使って俺に金をせびりに来た。だから五千万貸してやった。この程度の金のために頭を下げるんだから、なかなか面白いよな。今頃、その金もとっくに使い切ってるんじゃないか」 慎一が言葉を重ねるたび、紗月の顔は少しずつ青ざめていった。「そんな……」 今、自分がどんな気持ちなのか分からなかった。 目の前がぐらぐらと揺れて、立っていることさえ難しい。 耳鳴りも止まらない。 うるさくてたまらなかった。 頭の中では叫び出したい衝動が暴れている。 思い切り吐き出してしまいたいのに、身体はまるでその場に縫い付けられたように動かなかった。 ただ呆然と慎一を見つめることしかできない。 ほんの数日前、自分は母の頼みを断った。それなのに今になって、慎一の口から金はもう貸したのだと告げられる。 紗月は、慎一が善意で金を貸したとは思わなかった。 自分にさえ情を向けない人間が、どうして自分の母親にだけ情をかけるのだろう。 きっと別の目的がある。 だが、その目的が思い浮かばない。 紗月は俯いた。 視線を床へ落としたまま、かすれるような声で問う。「……どうして」 慎一はすぐには答えなかった。 手にしていた万年筆で膝の上のファイルを数回叩く。 わざと紗月を焦らせるように。 十分だと思ったのか、しばらくしてから一枚の紙を取り出し、無造作にローテーブルの上へ放り投げた。 それは、紗月が家に置いていた離婚届だった。 記入すべき欄はすべて埋められていた。 慎一の整った筆跡は、離婚届の上でも変わらず鋭く力強く、美しかった。 それを見た瞬間、紗月は小さく息を吐く。胸につかえていた石が落ちたように、ほんの数秒だけ心が軽くなった。
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第105話

 どうしてこんなにも都合よく重なるのだろう。 紗月が離婚を切り出した直後に、美沙子は慎一のもとへ金を借りに行った。 慎一はそのすべてを、最初から二人で仕組んだことだと決めつけている。 本当は違う。 美沙子が慎一に頭を下げて金を借りに行ったのは、離婚届を見た後だった。 けれど今の紗月には、そんな経緯を一つひとつ辿って自分を弁護する余裕などなかった。 顔を真っ青にしたまま、震える声でようやく口を開く。「……私、そんなお金……持ってない……」 慎一にとっては、目にも留めないような金額なのかもしれない。 だが毎月決まった給料で暮らしている紗月にとって、五千万という金額は途方もない数字だった。 仮に慎一が慈悲を見せて、その五分の一だけでいいと言ったとしても簡単に用意できる額ではない。 慎一は、紗月が金目当てで自分に近づき、結婚したのだと決めつける。 けれど結婚してからの紗月は、朝倉家の金に頼ったことなど一度もなかった。 踏みにじられた想いと、信じてもらえない悔しさが胸を締めつけた。 目の奥がじわりと熱くなる。泣きたくなんてないのに、身体は言うことを聞いてくれない。 涙を堪えたいのに、うまくいかない。 結局、自分で自分をさらに惨めにしてしまうだけだった。 慎一は小さく鼻で笑った。「離婚するなら、先に帳尻を合わせておくべきだろう。紗月。お前も俺もこの結婚を続ける気がないなら、俺の損失に対してもそれなりの保証は必要じゃないか?」「……ちゃんと返す」「どうやって?」「お前は退職届も出してる。口座にある現金だってせいぜい数百万だろう。それで五千万をどう返す?まさか数年かけて返すつもりじゃないよな。その程度の金のために、俺がお前を何年も待つとでも思ってるのか?」「……っ」「紗月。俺はお前とは違う。俺の一分一秒には、それだけの価値がある」「……」 紗月は何も言えなかった。 慎一の口元には、ずっと薄い笑みが浮かんでいる。 あの日のことを、慎一は今でも鮮明に覚えていた。 家へ帰り、テーブルの上に置かれた離婚届を目にした瞬間のことを。 胸の奥から込み上げたのは、激しい怒りだった。 信じられなかった。 いや、今でも信じられない。 あれほど自分との結婚を望んでいた女が。 周囲を巻き込み、卑劣な手段まで使ってその座を手に入れた女が。
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第106話

 紗月は腹立たしさのあまり立ち上がったものの、その瞬間、自分には慎一に食ってかかれるだけの根拠も、切り札も何ひとつないことに気づいた。 そもそも美沙子は事前に金が必要だと相談してきていたのだ。 自分が断った以上、追い詰められた美沙子が紗月を飛び越え、慎一を頼る可能性は十分にあった。 もっと早く気づいていれば。 もっと早く、「母を助けるつもりはない」と慎一に伝えていれば。 そうすれば、慎一は金を貸さずに済んだのだろうか。 よりにもよって、こんなタイミングで。 紗月は無意識に下唇を強く噛み締める。鋭い痛みが走り、その痛みのおかげで、ほんの少しだけ頭が冷えた。「……ほかに、方法はないのか」 どうにかして別の方法を探したかった。 少しでも早く、この金額を工面する方法を。 だが、一向に思いつかない。 こんな大金は、今から仕事を見つけたところで到底どうにかなる額ではなかった。 それに、そもそもこの金は自分が借りたものではない。一円たりとも受け取っていないのに、返済だけを背負わされる。 そんなの、理不尽でしかなかった。「……私が借りたお金じゃない。私はそのお金を受け取ってもいない」「だが、お前の母親は受け取った」「あなた、自分で言ったじゃないですか。家族なんて信じるなって。なのに、どうして……どうして母さんにお金なんて貸したんですか」 俯いていた顔を上げたとき、紗月の瞳には涙がいっぱいに溜まっていた。 今にも零れ落ちそうな雫が揺れる中、紗月は滲んだ視界越しに慎一を見つめる。 けれど、その冷たい顔は涙によってぼやけ、歪み、まるで怪物のように見えた。「紗月、俺の時間を無駄にするな。チャンスは与えた。やるのか、やらないのか。それだけだ」「……」 紗月は頑なに口を閉ざした。 その態度に、慎一の中で燻っていた得体の知れない苛立ちが膨れ上がった。 本来なら口にするつもりもなかった言葉まで、次々と吐き出してしまうほどに。「それとも、俺に売るのは嫌か」 慎一は嘲るように口角を吊り上げた。「他の男に売る方がいいのかもしれないな」「……っ」「御堂はずっとお前を欲しがっていた。あいつに値段を吹っかければ、一晩で五千万くらいになるんじゃないか?」「なっ……!」「紗月。せっかくだ、俺が御堂に電話してやろうか。俺が仲介すれば、もっと高く売れる
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第107話

 そのやり取りは、悪趣味を通り越した競売のようだった。 慎一が口にする金額は現実味を失うほど大きく、そこには嘲るような狂気すら滲んでいる。 紗月は胸を締めつける苦しさに耐えきれず、何も言えなかった。 慎一はその沈黙を肯定と受け取った。 ――結局、この程度か。 そんなことを思いながら、慎一は片手を強く紗月の肩へ押し当て、その身体を完全に壁へ縫い留めると、躊躇なく顔を寄せて首筋へ噛みついた。「やめ……っ! 痛っ……」 紗月が痛みを訴えると、慎一は不機嫌そうに眉をひそめる。「紗月。俺は金を払ったんだ。だったら、お前はああいう女たちみたいに俺を満足させろ」 無情な言葉が耳元で響く。 慎一は顔を上げることなく、今度は別の場所へ噛みついた。 紗月が少しでも痛みを訴えるたび、まるで懲らしめるかのように別の場所へ歯を立てていく。 慎一に押しつけられる身体の重みを受け止めながら、唇をきつく噛み締め、必死に声を漏らすまいと耐える。 やがてその荒々しい噛みつきは熱を孕んだ口づけへと変わり、白い首筋や鎖骨、胸元に深いものから浅いものまで幾つもの痕を刻みつけていった。 その一つひとつには欲望だけではない感情が滲んでいる。 苛立ちをぶつけるように。 罰を与えるように。 そして、二度と忘れるなと身体に刻み込むように。  紗月は密着する慎一の身体が次第に熱を帯びていくのを感じた。その体温は肌に刻まれた痕と同じように焼けつくほど熱く、触れられるたびに身体の奥までじわじわと侵食してくる。 慎一の胸を押し返そうとしていた手も、気づけば力を失っていた。 これまで何度も触れられてきた身体は、あまりにも慎一の触れ方を覚えすぎている。どれほど嫌だと思っても、どれほど拒みたくても、その手が触れるだけで身体は勝手に反応してしまう。 全身から力が抜けていき、身体の奥に熱が広がる。 そして本能だけが、その先に待つ激しい嵐を予感してしまう。 そんなことを望んでいるわけではないのに。 紗月は唇を噛み締めたまま何も言わなかった。 けれど、涙だけは止まらない。 ぽたぽたと頬を伝い、次々と零れ落ちていく。 身体の奥で広がる熱と、今にも押し潰されそうな苦しさがぶつかり合う。そのどちらにも耐えきれず、紗月は唇を震わせた。「……っ、う」 堪え続けていた嗚咽が閉ざした唇の隙間から
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第108話

 慎一が口にした提案は、ただの思いつきに過ぎなかった。本気でそうさせるつもりなどなかった。 彼は心のどこかで、由衣のそばで苦労するくらいなら、紗月は迷わず自分を選ぶものだと思い込んでいた。 もし今は自分を選ばなくても、あとになって気が変わり、自分のほうを選ぶと言い出したとしても、その時はこんな甘い条件で済ませるつもりなどなかった。 すでに慎一は、その時になったら紗月にどんな屈辱を味わわせてやろうかと考え始めていた。 だからこそ、紗月がほとんど迷うことなく、小さな声で「……分かった」と答えた時、一瞬、自分の耳を疑った。 まさか、本当に自分ではなく由衣のほうを選ぶとは思ってもいなかった。 紗月が、自分を選ぶくらいなら由衣の付き人になるほうを選んだのだと理解した瞬間、慎一は冷笑を浮かべた。「……上等だ」 彼の行動は早かった。 その場で由衣のマネージャーである美咲に電話をかけ、由衣の新しい付き人が決まったことと、明日には撮影現場へ送り込むことを告げた。 美咲は上機嫌だった。 慎一がそこまで由衣を気にかけていることが嬉しくてたまらないのか、弾んだ声で、「由衣に代わりましょうか?」 と尋ねてきたが、慎一にはもう付き合う気力すらなく、そのまま通話を切った。 電話を切ったあと、彼は目の前の紗月を見下ろす。 しばしの沈黙のあと、何か言いかける。 だが、胸の奥に燻り続ける苛立ちがそれを許さなかった。結局何も言えないまま、乱暴に扉を閉めて部屋を出ていった。 ――一日百万円。 五十日。 たった二か月足らずで五千万円を返済できれば、離婚できる。 そう考えれば、慎一の提示した条件は決して悪いものではなかった。 ただ、それが由衣のために用意された条件なのだと思うと、紗月はどうしようもなく悲しくて、自分の立場がひどく滑稽に思えた。* 翌日。 指定された時間に合わせて、紗月は由衣のいる撮影スタジオへ向かった。 かなり大規模なスタジオだったが、迎えに来るはずのマネージャーの姿は見当たらない。 入口でしばらく待ってみたものの、誰も現れる気配はなかった。仕方なく、近くを通りかかったスタッフに声をかけた。「あの……綾瀬さんは……」「ああ、綾瀬さんなら中ですよ。入ればすぐ分かります」 そう言い残して、スタッフは慌ただしく去っていく。 まだ朝早い時間だ
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第109話

 慎一の言葉を聞いた由衣は、一瞬だけ目を瞬かせた。 だが、すぐに何かを察したように口元を緩める。 そしてわざと慎一へ身を寄せると、見せつけるように彼の腕へぴたりと身体を預けた。 実のところ、由衣はもう長いこと慎一とまともに顔を合わせていなかった。 慎一は意図的に彼女を避けているようだったし、由衣自身も撮影や仕事で忙しく、偶然を装って接触する機会すら作れずにいたのだ。 ようやく慎一が現場に顔を出してくれた。たとえ理由がこれだったとしても、由衣は構わなかった。 会えなかった時間の埋め合わせなら、今日まとめてしてしまえばいい。 慎一の腕に抱きついた瞬間、由衣の胸にはほんの少しだけ不安もあった。 もし拒まれたら…… そんな不安が頭をよぎったものの、慎一は何の反応も示さない。振り払うこともなく、そのまま好きに寄り添わせてくれる。 それだけで、由衣の心は一気に浮き立った。「社長が私のために見つけてくれた付き人だったんですね~?やっぱり社長って、いつも私のこと考えてくれてるんだぁ……付きっきりでお世話してくれる人が欲しいって言ったばっかりなのに、こんなに早く用意してくれるなんて~」 甘ったるい声に、近くにいたスタッフたちも思わず視線を向ける。 由衣はまるで気にしていなかった。 慎一のそばにいられるのなら、多少の噂などどうでもいい。 むしろ、彼とのスキャンダルが流れるくらいの方が、慎一がもっと自分を意識してくれるかもしれない。 そう思うと、由衣はさらに身体を寄せた。慎一の胸に抱き込まれているかのように、ぴたりと彼の身体に寄り添う。 その光景を見つめながら、紗月はかすかに眉を寄せた。 胸の奥に広がる、慣れ親しんだ痛み。 息苦しさ。 そして何より、慎一の視線。 彼の眼差しには強い圧があった。わざと自分を追い詰めているようで、紗月はどうしていいか分からなくなる。 紗月が何も言えずにいると、由衣は不満そうに唇を尖らせた。「付き人なんでしょ~?ご主人様に会ったなら、まず自己紹介くらいするものじゃない? それとも、誰に仕えるのかも分からないまま働くつもり?」 慎一の視線を感じながら、紗月は覚悟を決めて前へ出た。「綾瀬さん、私は朝倉紗月と――」 最後まで言わせる気などないように、由衣はわざと聞こえなかったふりをして大きな声を上げた。「聞こえ
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第110話

 撮影スタジオはかなり辺鄙な場所にあり、最寄りのコンビニまでも少し距離があった。 近くに自動販売機を見つけた紗月は、手持ちの金額を確認しながら一本ずつ水を購入していく。 ボトルが落ちるたび、鈍く重い音が響いた。 紗月はそれらを大事そうに胸に抱え込み、これ以上は持ちきれないというところでようやく諦め、一度現場へ戻ることにする。 由衣は専用の椅子に腰掛け、台本を片手に慎一へ楽しげに話しかけていた。 紗月が大量のペットボトルを抱えて戻ってきても、由衣は横目でちらりと一瞥しただけで、興味を失ったようにすぐ視線を逸らした。 むしろ申し訳なさそうにしていたのは美咲の方だった。 彼女は慌てて空いているスペースを作り、紗月が水を置けるようにしてくれた。 だが、紗月がようやく抱えていたペットボトルを下ろし、二度目の買い出しへ向かおうとしたその時、由衣の落ち着いた声が響く。「私、このブランド好きじゃないの。別のを買ってきて」 由衣が口にしたのは、自動販売機には置いていない銘柄だった。 紗月は小さく口を開く。 その瞬間、慎一と目が合った。 彼の瞳には、面白がるような色と、どこまで耐えられるのか見定めるような光が宿っていた。 紗月は視線を落とし、「……はい」 と小さく答えると、そのまま踵を返し、少し離れたコンビニへ向かって歩き出した。* コンビニへ向かう途中には、高い歩道橋があった。横断歩道がないため、反対側へ渡るにはその橋を上るしかない。 何度も往復を繰り返すうちに、紗月の体力は目に見えて奪われていった。 しかも、そのたびに両腕には何本ものペットボトルが抱えられている。 重みは徐々に腕へ食い込み、指先にも痛みが走り始めていた。 それなのに、現場へ戻るたびに由衣はあれこれと文句をつけ、そのたびに紗月はまた買い直しへ向かわなければならなかった。 そして最後の一往復。 コンビニを出て歩道橋を上っていた途中、疲労で思うように力の入らなくなっていた足が、階段の上でぐきりと捻れた。「っ……!」 身体が大きく傾く。 そのまま階段から転げ落ちそうになったが、咄嗟に両手で手すりを掴み、どうにか転落だけは免れた。 足首に鋭い痛みが走る。 しかし、その衝撃で抱えていたペットボトルが腕の中から次々とこぼれ落ちた。 ころころと音を立てながら、勢いよく階
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