جميع فصول : الفصل -الفصل 90

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第81話

 プロジェクトの件を引き続き確認すると言っていたものの、実際に紗月が車へ乗り込んでから、慎一はその話題に一切触れなかった。 隣に座る紗月を気にする様子もなく、ただ手元の資料へ目を落としている。 その資料は、先ほど秘書から受け取ったものだった。 渡す際、新人らしいその秘書は、気になって仕方ないというように何度も紗月を見ていた。視線には隠しきれない好奇心が滲んでいる。 対して久我だけは、慎一が紗月を連れて車へ乗り込んだ時から、ずっと口元へ薄い笑みを浮かべていた。 慎一は仕事モードへ入ると、驚くほど集中する。 車内には音楽も流れていない。 そのせいで空気は静まり返り、少し大きく息をするだけでも妙にはっきり聞こえてしまう。 そんな空気の中、紗月はひどく緊張していた。 それでも、先ほどエレベーター前で慎一に「夕食くらいなら付き合ってやる」と言われたことが、嬉しくて仕方なかった。 何度もこっそり横目で慎一を盗み見る。 だが視線が合いそうになるたび慌てて目を逸らし、何事もないふりをして俯いた。 少し伏せた目で資料へ視線を落としている慎一は、やはり格好いい。 真剣に仕事へ集中している姿も、見惚れてしまうほど綺麗だった。 紗月は、自分が久しぶりに片想いをしていた頃へ戻ったような気分になっていた。 ただ彼をこっそり見ているだけで、胸が落ち着かないほど高鳴ってしまう。 そんなことを何度も繰り返していれば、さすがに慎一も気づかないはずがなかった。 彼はわざわざそれを指摘したりはしなかった。 次にまた紗月の視線がそっと向けられてくるのを視界の端で捉えながら、慎一の口元がほんのわずかに緩む。 朝から胸の奥に燻っていたあの焦燥感も、いつの間にかほとんど感じなくなっていた。* 午後の慎一には、業界向けの発表会へ顔を出す予定が入っていた。 会場は、高層オフィスビルが立ち並ぶ繁華街の一角だった。 空へ伸びるような高層ビル群の間を、高級なスーツ姿の人々が慌ただしく行き交っている。 慎一はあるビルの前で久我に車を止めさせた。 降車前、少し考えるような間を置いてから、紗月にも一緒に降りるよう促す。「下にカフェがある。そこで待ってろ」 それだけ言い残し、慎一は秘書を連れて別の入口から上階へ向かっていった。 紗月はノートパソコンを抱えたまま、その場でしば
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第82話

 鈴央はとにかく話題が尽きなかった。 たとえ紗月が黙っていても、次々と会話を広げ、自然と彼女まで引き込んでいく。 その雰囲気は、どこか部活の部長や生徒会長のようだと思った。 紗月が何気なく尋ねてみると、案の定、鈴央は高校時代に二年連続で生徒会長を務めていたらしい。「二年も……鈴央くん、すごいね」 紗月は、自分も高校時代に生徒会長へ立候補したことを思い出す。 あの頃の彼女は、何をするにも限界まで頑張っていた。 少しでも優秀になりたかった。 もっと認められたかった。 好きな人に、好きになってほしかったから。 けれど、どれだけ努力しても、どうにもならないことはある。 叶わないものは、結局叶わない。 紗月の表情が少し陰ったことに気づいたのだろう。 鈴央はとても自然に話題を変えた。 今日の午前、優介が授業中に寝落ちし、教授に突然当てられた瞬間、寝ぼけたまま「Cです」と答えて教室中を笑わせた――そんな話だった。「夢の中でテストでも解いてたんじゃないですかね、あいつ」「ふふ……優介くんでも授業中に寝たりするんだね」「紗月姉さん、あいつ、紗月姉さんの前だと猫かぶってるだけですよ。実際はかなり適当なんで……。あ、やば。こんなこと言ってるの優介にバレたら殺される」 その言い方がおかしくて、紗月はまた笑ってしまった。 手に持っていたフラッペのカップには水滴が浮かび、気づけば紗月の指先まで濡れていた。 すると鈴央はごく自然に紙ナプキンを持ってきて、彼女へ差し出した。 どの行動も押しつけがましくなく、絶妙な距離感だった。 そのおかげか、紗月も少しずつ肩の力が抜けていく。 気づけば、優介の幼い頃の話までぽろぽろ零していて、鈴央はそれを聞きながら笑い転げていた。 二人の空気は穏やかで、時間もいつの間にか過ぎていた。 紗月自身、それに気づいていなかった。 ふいに隣の光が遮られる。 同時に、鈴央の表情が一瞬だけ固まった。 そこでようやく紗月は気づく。 いつの間にか、慎一がすぐそばに立っていたことに。 慎一の顔色は明らかに悪かった。それを見た瞬間、紗月の心臓が大きく跳ねる。 驚いた拍子に、手元のフラッペを倒しかけた。「危なっ」 鈴央がすぐにカップを支え、その勢いのまま一瞬だけ紗月の手を握った。「大丈夫ですか、紗月姉さん? ……ええと
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第83話

 由衣はちょうど取材を終えたところだった。 思っていた以上に長引いたインタビューに、さすがの彼女も疲れを感じていた。 半ば探るような気持ちで、紗月は慎一へ電話をかける。 どうせ出ないかもしれない――そう思っていたのに、慎一は驚くほど早く電話に出た。 嬉しさを抑えきれず、由衣は最初の一言で思わず声を弾ませた。自分でもわかるくらい浮かれた声になってしまい、慌てて咳払いで誤魔化す。 けれど口元はどうしても緩んでしまう。 電話越しにすぐ出てもらえた、それだけで胸が熱くなるほど嬉しかった。「社長っ! 今ちょうど取材終わったんです。もうすぐクランクインだから、撮影入ったら忙しくなっちゃうし……今夜、会えませんか?」「いいぞ」 慎一は即答だった。 由衣は一瞬ぽかんとしてしまう。 あまりにもあっさり了承されて、逆に反応が追いつかなかった。 そんな彼女を現実へ引き戻したのは、続いて聞こえた慎一の声だった。「どこにいる。迎えに行く」「えっ、あ……っ! 社長、会ってくれるだけでも嬉しいのに……! 今、私は――」 由衣は慌てて場所を告げる。 電話の向こうでは、慎一が運転手へその地名を繰り返して伝えているのが聞こえた。 胸がうるさいほど高鳴る。 通話を切ったあとになって、由衣は自分の顔が熱くなっていることに気づいた。 嬉しさで身体まで微かに震えている。 その変化は隣にいた美咲にも分かるほど露骨だったらしく、彼女は心配そうに由衣の額へ手の甲を当てた。「ちょっと由衣、大丈夫? 顔真っ赤だけど、熱でもあるんじゃない?」* 慎一はスピーカーにしていたわけではない。 それでも興奮した由衣の甲高い声は、静まり返った車内によく響いていた。 特に、紗月のいる場所には。 ――自分が敏感すぎるだけかもしれない。 だからあの声が、こんなにも耳障りに聞こえるのだろう。 紗月は無意識に手の中のプラスチックカップを強く握り締める。表面に浮いた水滴がまた掌を濡らし、触れていた服までじっとりと湿らせた。 さっきまで胸の奥にあった穏やかな気持ちは、一瞬で砕け散った。 そこでようやく紗月は、今朝かかってきた悠臣からの二度目の電話を思い出した。 内容は、ほとんど聞き取れていなかった。 受話器越しではなく、別の方向へ向けて話している声だったし、プロジェクトだの利益だ
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第84話

 紗月を半ば追い出すように車から降ろし、車が走り出してからも、慎一の気分はまったく晴れなかった。 あの怒りは、本当に突然だった。 紗月が若い男と楽しそうに笑い合っている姿を見た瞬間、胸の奥から唐突に噴き上がり、一瞬理性が飛びかけた。 だが今、少し冷静になって考えてみれば、すべてが滑稽だった。 悠臣に余計なことを吹き込まれた程度で子会社まで紗月を見に行ったことも。  夕食くらいなら考えてやる、などと言ったことも。  わざわざ彼女を連れて歩き、自分のそばへ置いていたことも。 まるで、自分が紗月を気にかけているみたいじゃないか。 ――そんなはずがない。 紗月は、この世で誰より不幸になるべき女なのだから。 慎一は低く鼻を鳴らした。  紗月のことを考え始めると、こめかみの奥がじわじわと痛む。 深く眉を寄せ、そのまま目を閉じた。 傷ついた時の紗月の顔が、何度も脳裏に浮かぶ。  泣くのを必死に堪えながら、それでもどこか縋るような目でこちらを見てしまう、あの顔。 慎一はそれを振り払うように、無理やり思考を閉ざそうとした。* 由衣は、かなり早い時間からビルの下で待っていたらしい。  遠くから慎一の車が近づいてくるのを見つけた瞬間、嬉しそうに駆け寄ってくる。 車へ乗り込んでからも、その高揚は隠しきれていなかった。 勢いのまま慎一の手へ触れようとして、だが嫌がられるかもしれないと思い直したのか、慌てて引っ込める。 サングラスとマスクを外し、慎一を見上げる由衣の瞳には、うっすら涙が滲んでいた。 今にも泣き出しそうなその表情は、放っておけなくなるほど儚げだった。「社長ぉ……っ。ほんとに最近、全然会ってくれないんですもん……。私、ずっと寂しかったんですよぉ。前は私が悪かったですけど、最近はちゃんと我慢してたんです。社長の邪魔しないように、ずっと大人しくしてたのに……」 甘ったるい声が車内へ広がる。 前に座る秘書は必死に気配を消そうとしていたが、それでも気になったのか、またバックミラー越しに後部座席をちらりと見た。 由衣は話しながら、ゆっくり涙を目に溜めていく。 今にも零れそうで零れないその顔は、計算され尽くしているように綺麗だった。 慎一にとって、由衣の顔は気に入っている数少ない部分だった。  昔の恋人によく似ているからだ。 けれど今
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第85話

 慎一は感情の読めない目で由衣を見つめていた。 もしかすると、少し酔っているのかもしれない。 でなければ、どうして頭の中に浮かぶのが、また紗月のことなのだろう。 もし相手が紗月だったなら――。 彼女は、こんな露骨な誘い方はしない。 情事に対する羞じらいは、大人の女とは思えないほど初々しく、結婚して三年経った今でも、ベッドの上の彼女はどこか控えめで、耐えるようなところがあった。 慎一はぼんやりと思い返していた。 結婚したばかりの頃、紗月がほんの数回だけ、ベッドの上で自分から歩み寄ろうとしてきたことを。 だがそのたびに、自分はきっと、酷く傷つけるような言葉を投げたのだ。だから紗月は、それ以降、自分から求めてこなくなった。 少し、惜しかったかもしれない。 そんなことを考えながら、慎一はまだ期待した目を向けてくる由衣を見る。 慎一が黙り込んでいた時間を、由衣は自分のために考えてくれている時間だとでも思ったのかもしれない。 その瞳には、隠しきれない期待が浮かんでいた。「社長~、うち、この近くなんです。知ってますよね? ……ご飯食べ終わったら、少し寄っていきませんか? それか……社長が借りてるホテルでも、私は平気ですよ?」 由衣は甘えるように笑いながら探る。「……は」 慎一は低く笑った。「それとも……社長のお家、行っちゃいます? 私は奥様がいても気にしませんけど。……でも奥様、また泣いちゃうのかな。かわいそうですよね?」* 紗月が家へ戻ったのは、夜八時頃だった。 ちょうどタイミングよく、凛子から電話がかかってくる。「さっちゃん? 仕事終わった? ……別に大した用じゃないんだけどさ、うちの馬鹿弟がどうしてもさっちゃんと話したいってうるさくて」 そう言いながら、凛子は受話器を手で押さえて隣の優介を叱っていた。 その声もきっちり紗月の耳に届いている。「優介くん? どうしたの?」「あ……紗月お姉さん、今日のことなんです。鈴央から、バイト先で紗月お姉さんに会ったって聞いて。でも僕、行けなかったから……その、お詫びしたくて」「そんな、気にしないで。私も偶然だったし、まさかあそこで会うなんて思わなかったから。鈴央くんも、優介くんは授業があるって言ってたし。そっちのほうが大事なんだから、そんなに気にしなくていいよ」 紗月がそう言っても、優
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第86話

 時間が、一瞬止まったようだった。 紗月はスマートフォンを耳に当てたまま、言葉を失う。沈黙が続き、電話の向こうで優介が不安そうに声を上げた。『……紗月お姉さん?』「ぁ……優介くん、ごめんなさい。私、もう切るね。また今度……」 優介に呼ばれ、紗月は反射的に返事をした。 慎一の表情がさらに冷え込んだ。もともと険しかった顔つきが、一瞬で凍りついたように鋭くなる。 次の瞬間には、もう身体のほうが先に動いていた。 由衣の「きゃっ」という甲高い悲鳴が室内に響く。 その音を境に、紗月の視界はまるで映画のスローモーションのようにゆっくりになった。 慎一は自分に張りついていた由衣を乱暴に突き放し、そのまま大股で一直線に紗月のもとへ歩み寄った。 紗月がまだ言葉を言い終えるより早く、その手首は強く掴まれていた。「っ……!」 骨が軋むほどの力だった。 慎一は冷え切った目でスマートフォンの画面を一瞥する。 そこに表示されていた名前は、どうやら彼の予想とは違っていたらしい。 ――凛子。 だが次の瞬間には、慎一の口元が冷たく歪んだ。「紗月。お前も、男を隠してこそこそ連絡取るような真似を覚えたんだな」「慎一、待って……」 痛みに顔を歪めながら、紗月は震える指で慌てて通話を切ろうとした。 焦れば焦るほど指先は思うように動かない。画面を押したつもりでも別の場所に触れてしまい、呼吸まで乱れていく。 慎一の手にはさらに力がこもった。 細い手首が締め上げられ、骨の芯まで痛みが響く。 紗月の顔から血の気が引き、苦しそうに眉が寄る。呻き声を飲み込もうとしても、震える吐息が堪えきれず漏れた。「……っ!」 耐えきれず、紗月の手からスマートフォンが滑り落ちる。 床にぶつかり、鈍い音が響いた。「口では俺を愛してるだの言っておいて、実際は一人じゃ満足できないのか?」 慎一は喉の奥で低く笑った。 その声音には、押し隠しきれない凶暴さが滲んでいる。「そんなに飢えてるなら、最初からそう言えよ」 一言一言、紗月の目を逃がさないまま突き刺すように吐き捨てられる。 紗月は息を呑み、小さく肩を震わせた。 床へ突き飛ばされていた由衣でさえ、その場の空気に顔色を失っていた。しばらく呆然としていたが、やがて怒りで身体を震わせながら立ち上がった。「社長っ!」 由衣の声は元
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第87話

 慎一の手つきは、いつも以上に荒々しかった。 紗月の肩を押さえ込む手には一切の容赦がなく、身体の奥を抉るように侵してくる指先も乱暴だった。熱を帯びた指が無理やり内側を掻き回すたび、粘膜を擦られる鈍い痛みがじわじわと広がっていく。「っ……ぁ……」 紗月は小さく息を詰まらせた。 準備もないまま無理やり弄られる感覚は、快楽というより拷問に近い。奥を何度も掻き回されるたび、身体がびくりと震える。 声すらうまく出せなかった。 逃げようとするみたいに身体が無意識に強張り、そのせいで慎一の指をきつく締め付けてしまう。 慎一は喉の奥で冷たく笑った。「紗月。そんなに締めて……どこの男に仕込まれた?」 最初から、紗月に他の男がいると決めつけているような声音だった。 紗月は何も言えなかった。 否定したところで、慎一は最初から信じる気などない。 身体は少しずつ侵入に慣れ始めていた。鋭かった痛みの奥に、じわりと熱が混ざり込んでくる。 その感覚と同時に、胸の奥から泣きたくなるほどの惨めさが溢れ出す。 身体の痛みより、そちらのほうがずっと苦しい。 あまりにも唐突だった。 結婚してからの三年間、慎一は何度も彼女を傷つける言葉を吐いてきた。冷たい態度も、侮辱も、数え切れない。 けれど、たとえ何も言われなくても。 慎一に向けられる冷たい視線だけで、この結婚はずっと胸が苦しかった。 慎一の顔色を窺い、嫌われないよう神経を張り詰め、愛されもしない家の中で、ずっと肩身の狭い思いをしてきた。 それでも紗月は耐えてきた。 慎一を愛していたから。 耐えることが、いつの間にか当たり前になっていた。 こんな結婚でも、自分が我慢し続ければいいのだと、どこかで思い込んでいた。 なのに今、胸の奥から溢れてくる感情は、自分でも抑えきれないほど激しかった。 息ができない。 酸素のない水の中へゆっくり沈められていくみたいに、苦しい。 慎一は、今までで一番怒っているのかもしれなかった。その怒気は、低い声にも、乱暴に身体を暴く指先にも滲み出ている。 紗月には分からない。 何に、そこまで怒っているのか。 優介のことなのか。 それとも昼間の鈴央のことなのか。 紗月にとっては、ただの可愛い弟みたいな存在だった。ただ少し話しただけだ。 どうして慎一には、許し難い裏切りみたい
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第88話

 今回は、これまでで一番長かった。 そのうえ、終わりの見えない苦しさだった。 ただ欲を発散するだけなら、慎一はもっと早く終わらせる。 今夜の彼は違った。紗月を壊したいかのように、じわじわと逃げ道を塞いでくる。 慎一の指先は、少しも容赦をくれなかった。紗月の知らない触れ方を、彼はいくつも知っていた。 途中から紗月は泣きすぎて声が掠れ、まともに言葉も出せなくなっていた。 身体は震え続け、息も上手くできない。 それなのに慎一だけは、最後まで乱れない。 シャツもきっちり閉じられたまま。ネクタイこそ外れているものの、それ以外は普段の彼と何も変わらない。 ただ一か所だけ、隠しきれない熱を帯びている以外は。 まるで、愛し合っているとは思えなかった。汗と涙で乱れているのは紗月だけで、シーツにまで湿り気が残っている。「や……もう、やだ……」 こんな強い快感、もう耐えられない。 波のように押し寄せる感覚が、慎一のせいで何度も終わってくれない。身体を激しく揺さぶられるたび、頭の奥まで白く痺れていく。 もう、これ以上は続けたくなかった。 涙で滲む視界の向こう、慎一を見上げながら、紗月はかすれた声で懇願した。 慎一はぴたりと手を止めた。 降ってきた声は、変わらずひどく冷たかった。「紗月。入れてほしいなら、自分から頼め」 そんなこと、言いたくなかった。 悔しくて。 惨めで。 それでも慎一の思い通りになるのが嫌で、紗月は唇を噛み締める。 黙ったままの紗月を見て、慎一はまた指を動かし始める。 許してくれるつもりなんて、最初からない。 結局、耐え切れるはずもなかった。 紗月は涙でぐちゃぐちゃになりながら、途切れ途切れに彼の望む言葉を口にする。 その瞬間、また新しい熱に呑み込まれた。* どれくらい時間が経ったのか、もう分からなかった。 途中から記憶は途切れ途切れで、紗月はいつの間にか意識を手放していた。限界まで体力を使い果たし、そのまま眠りに落ちたのだろう。 再び目を開けた時、部屋は薄暗い夜に包まれていた。 閉め切られていないカーテンの隙間から、夜の気配だけが淡く差し込んでいた。 喉が痛い。 身体は鉛みたいに重く、指先ひとつ動かすのも億劫だった。 しばらくぼんやりと天井を見つめていた紗月は、ようやく違和感に気づいた。 いつの
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第89話

 慎一が朝目を覚ましたとき、隣はすでに空だった。今度は、紗月のほうが先に出ていったらしい。 時計を見る。まだ六時にもなっていなかった。 紗月が何時に起きたのかは分からない。以前なら、先に出ていくのはいつも慎一のほうだった。 それを今朝は紗月に先を越されたのだと思うと、慎一は妙に面白くなかった。 別に気にしているわけじゃない。 紗月がいないほうが、むしろ都合がいい。ようやく身の程をわきまえたというだけだ。 そう思っているはずなのに、ベッドを下りる前、慎一はまるで何かに取り憑かれたように、隣のシーツへ手を伸ばしていた。  そこに残る体温を確かめる。もう冷えきっているのかどうか。それさえ分かれば、紗月がいつ出ていったのかも分かるとでもいうように。 自分が何をしているのかに気づいた途端、慎一自身もさすがに馬鹿げていると思った。 苛立たしげに、低く鼻を鳴らす。 いったい何に腹を立てているのか、自分でも分からなかった。 朝の五時台、空はまだ薄暗い。雨のせいで外気は冷え込み、室内にも湿った冷たさが入り込んでいる。 慎一は部屋を出ると、何気ないふりをして家の中を一巡した。そして最後に、紗月の閉ざされた部屋の扉の前で視線を止める。 これまでの慎一なら、この家に一秒でも長くいるだけで不快だったはずだ。 それなのに今は、わざわざキッチンへ行き、豆から挽いてコーヒーを淹れる余裕まであった。 ゆっくりと時間をかけて、それを飲み干す。 そのあいだも、意識はずっと散漫だった。 扉の向こうで、紗月はまだ眠っているのだろうか。 気づけばカップは空になっていた。 それでも家の中は静まり返ったままで、自分以外の気配はどこにもない。 結局、慎一は無意識のうちにひどく時間をかけてから、ようやく家を出た。 玄関で初めて気づく。 紗月がいつも通勤に履いている靴は、とうに消えていた。* その日、紗月は会社に一番乗りした。 夜中に目を覚ましてから、ずっと眠れなかった。 慎一のそばにいたせいかもしれない。 けれど自分の部屋に戻ってからも、眠気は少しも訪れなかった。 理由もなく気持ちは沈んでいるのに、心臓だけは昂ぶったまま、どくどくと音を立てている。苦しかった。 目を閉じるだけで、慎一との記憶が次々と押し寄せてくる。 いい思い出も、悪い思い出も、入り混じって
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第90話

 紗月にとって、家へ帰らなかった夜は、これが初めてだった。 彼女はそのまま会社に残り、正田から渡された資料を確認し続けていた。 読み進めるほどに、フォルダの中には他部署の案件資料まで大量に混ざっていることに気づく。しかも、どこに問題があるのか明記されているわけでもない。 紗月はひとつひとつファイルを開き、全文を読み込み、さらに社内オンラインストレージから関連するプロジェクト資料を探し出して照合していった。 ひどく非効率な作業だった。 それでも彼女は手を止めなかった。 何か別のことに集中していなければ、頭の中に浮かんでくる慎一のことを、どうしても振り払えなかったからだ。 愛していた人が、こんなにも醜く見えてしまう。 その事実が、紗月には苦しかった。 その夜、紗月は会社の仮眠室で過ごした。 照明を落としても、室内は完全な暗闇にはならない。 カーテンのない窓からは、向かいに立ち並ぶオフィスビル群の灯りが絶え間なく差し込み、白く滲んだ光が静かな仮眠室をぼんやりと照らしていた。 紗月は眠れなかった。 ソファに横になったまま、紗月はただ窓の外の夜景を眺めていた。 仕事の手を止めた途端、脳裏ではまた慎一との記憶が勝手に流れ始める。まるで停止ボタンの壊れた映写機みたいに、次から次へと映像が再生されていった。 逃げられない。 振り払えない。 慎一を思い浮かべるだけで、涙が勝手に溢れてしまう。 不思議だった。 慎一に酷い扱いを受けるのは、今さら始まったことじゃない。 結婚したあの日から、紗月の日々はずっと、光のない夜の中にいた。 先に希望なんて見えない。 それでも彼女はひとりで歩き続けてきた。 苦しくても。 辛くても。 絶望しても。 それでも慎一を愛していたから、全部を抱えたまま耐え続けてきた。 だから今まで、こんなふうに泣いたことなんてなかった。 諦めようと思ったことも、一度だってない。 もしかしたら、三年分の涙が限界を迎えただけなのかもしれない。 蓋をしていただけで、痛みも、報われない想いも、ずっと胸の奥に残っていた。 開ける前に激しく振られた炭酸みたいだった。 蓋を開けなければ平気だったのに、一度溢れ出してしまえば、もう止められない。 最初は静かに涙を流していただけだった。 気づけば紗月は、小さく身体を丸めたま
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